6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏

六月十七日。梅雨の合間の、どんよりと重たい空を思い出します。昭和六十年(一九八五年)のこの日、一人の柔道家が現役引退を表明しました。山下泰裕さん。全日本選手権九連覇、ロサンゼルス五輪・無差別級の金メダリスト。そして、いまもって破られていない二〇三連勝という記録を抱えたままの、静かな引退でした。 でも、その話をする前に、どうしても先に書いておきたい夏があります。前の年、昭和五十九年(一九八四年)の夏。ロサンゼルス・オリンピックです。 受験勉強のはずが、テレビの前に座っていた 私にとってロス五輪は、物心がついて初めて、テレビ画面とはいえ自分の意思でしっかり「観て」「応援した」オリンピックでした。だからでしょうか、各競技での日本人選手の活躍は、いまでも驚くほどはっきりと記憶に残っています。 当時の私は中学三年生、十五歳。夏の大会を最後に野球部はもう引退していて、本来なら高校受験に向けて、机にかじりついていなければならない時期でした。ところが、です。連日のオリンピック中継が気になって気になって、どうにも勉強が手につかない。「いまは観ている場合じゃない」と頭では分かっているのに、参考書を開いては、つい音のするほうへ、テレビの前へと吸い寄せられてしまう。外では蝉が鳴いていて、母が台所で立ち働く音がして、そのなかで私だけが、教科書ではなく遠いロサンゼルスとつながっている。受験生としては、いささか困った夏でした。 このロス五輪というのは、日本にとって少し特別な大会でもありました。その四年前、昭和五十五年のモスクワ大会には、日本は政治的な事情で参加できなかった。出場すらかなわなかった選手たちの悔し涙を、子どもながらにニュースで見ていた記憶があります。だからこそ、八年ぶりに堂々と世界の舞台に戻ってきたロス五輪は、見る側の私たちにとっても、どこか「待ちわびていた夏」だったのです。受験を控えた中学三年生の私でさえ、こうして机を離れて引きずり込まれてしまうほどに。 ぴたりと止めた着地と、あの笑顔 なかでも忘れられないのが、体操の森末慎二さんです。種目別・鉄棒の決勝。最後の最後、二回宙返りで降りてきて、その着地をぴたりと止めた瞬間。そして、ゆっくりと、かみしめるように両手を上げていったときの、あの『笑顔』。子ども心にも、「完璧というのは、こういうことを言うんだ」と思いました。 あとで知ったのですが、森末さんはこの鉄棒で十点満点をマークしていたのですね。一切の減点がない、まさにパーフェクトの演技。それをリアルタイムで観ていたのだと思うと、いまさらながら鳥肌が立ちます。森末さんはこの大会、鉄棒で金、跳馬で銀、団体で銅と、一つの大会で金銀銅すべてを持ち帰りました。けれど私の中に焼きついているのは、メダルの色よりも、あの着地と、あの笑顔のほうなのです。 森末さんといえば、自分の名前がそのまま技の名前になっている、数少ない選手の一人でもあります。「モリスエ」と呼ばれるオリジナルの大技。世界のだれもやっていなかった動きを、自分の体で切りひらいて、自分の名を冠した技として残す。子どもだった私には、その意味の大きさまでは分かっていませんでしたが、「この人は、ただ上手なだけの人ではないんだ」ということだけは、なんとなく伝わってきていました。 あの夏、五輪の舞台に野球があった そして、野球です。 ロス五輪では、野球が公開競技として行われていました。正式競技ではないけれど、この大会から各国の代表チーム同士が本気でぶつかり合う形になった。野球小僧だった私には、これがたまらなくうれしかったのを覚えています。自分が毎日ボールを追いかけているその競技が、世界の頂点を決める同じ舞台に並んでいる。それだけで、なんだか誇らしいような気持ちになったものです。 日本代表は、大学生と社会人の選手で編成されたアマチュアチームでした。プロは一人もいない。それでも勝ち上がり、決勝では開催国アメリカを六対三で破って優勝。公開競技ながら、オリンピック初代の野球王者になったのです。プロのスターではない、自分と地続きのように見えるお兄さんたちが、世界の頂点に立った。あの夏、私の中で野球とオリンピックが、初めて一本の線でつながった気がしました。 いま思えば、あの夏の私は、ただ漫然とテレビを観ていたのではなかったのかもしれません。つい数か月前まで、来る日も来る日も土埃の舞うグラウンドで白球を追いかけ、思うようにいかずに悔し涙をのみ、それでも翌朝にはまたバットを握っていた。その日々の、地続きの延長線上に、画面の向こうの選手たちがいたのです。同じように汗をかき、同じように歯を食いしばってきた人たちが、世界のいちばん高いところで、笑ったり、足を引きずったりしている。だからこそ、どうしても人ごとには思えなかった。応援というより、ほとんど自分のことのように観ていた。それが、あの夏のオリンピックだったように思います。 「勝って当たり前」を背負った人 そして、山下泰裕さんです。 いまの若い人には少し想像しにくいかもしれませんが、当時の日本の柔道には「勝って当たり前」という独特の空気がありました。とりわけ山下さんのような絶対王者には、銀でも銅でもなく、金メダルしか許されない。そういう途方もないプレッシャーが、目に見えない重しのようにのしかかっていたはずなのです。 ロス五輪の無差別級。山下さんは二回戦で、右足のふくらはぎを痛めてしまいます。肉離れでした。足を引きずりながら畳に上がっていく王者の姿に、テレビの前の私は思わず息をのみました。あの強い山下さんが、まともに歩けていない。それでも山下さんは勝ち進み、決勝もきっちり制して、金メダルをもぎ取った。 あの瞬間、私はテレビ画面に向かって、歓喜の絶叫をあげていました。誰に聞かせるでもなく、一人で、本当に大きな声で叫んだのを覚えています。「勝って当たり前」を、怪我を負ってなお本当に勝ち切ってしまう人がいる。十五歳の私には、それが人間業とは思えない、途方もないことに見えました。 ただ、その本当の凄みを思い知ったのは、ずっと後年のことでした。大人になってから、私自身がふくらはぎを肉離れしたことがあります。そのとき、いやというほど分かったのです。肉離れというのは、満足に歩くことすらできない。一歩ごとに痛みが走って、足を引きずるのがやっと。スポーツをするなど、とんでもない話です。その状態で――しかも世界じゅうが見つめる五輪の決勝の舞台で――山下さんは相手を投げ、勝ち切ったのか、と。十五歳の夏にテレビの前で叫んだあの感動が、何十年もたって、今度は自分の足の痛みを通して、まったく違う重みでよみがえってきました。あのとき私が叫んでいたものの大きさを、本当の意味で理解できたのは、皮肉にも自分が同じ場所を痛めたときだったのです。 そして一年後、無敵のまま畳を降りた その山下さんが、翌・昭和六十年六月十七日――あの夏に勉強そっちのけでテレビにかじりついた私が、どうにか高校に進んで一年生になっていた、その年の初夏に――記者会見で引退を表明します。 全日本選手権は昭和五十二年から九連覇。世界選手権でも計四度、頂点に立ちました。そしてロス五輪の金メダル。引退から逆算して、その連勝記録は二〇三。負けないまま、誰にも倒されないまま、自分の意思で静かに畳を降りていったのです。前の年には国民栄誉賞も受けていました。アマチュアのスポーツ選手としては、初めての受賞だったと記憶しています。 「勝って当たり前」という重圧を、最後の最後まで背負い、そして実際に勝ち続けた人。その人が、傷を負ってもなお負けず、絶頂のまま身を引いていく。あの夏の絶叫とは、また違う種類の余韻が、私の胸の中に残りました。強い人が、強いまま去っていく。それはどこか、潔さとさみしさが半分ずつ混じったような、不思議な感覚でした。負けて去るのではなく、勝ったまま終わる。子どもだった私には、その引き際の美しさの意味が、まだ半分も分かっていなかったのだと思います。 ロス五輪が、また帰ってくる 時は流れて、令和です。 あのとき足を引きずりながら金メダルを取った山下さんは、のちに日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務めるまでになりました。畳の上のたった一人の王者が、やがて日本のスポーツ全体を背負う立場になっていったわけです。あの夏に絶叫していた少年からすれば、なんとも感慨深い話です。 そして、もう一つ。私が生まれて初めて本気で応援した、あのロサンゼルスという街が、二〇二八年、ふたたびオリンピックの開催地になります。じつに四十四年ぶりのロス五輪です。あの夏、テレビの前で絶叫していた十五歳の少年は、その二〇二八年には五十九歳――六十歳を目前にした年齢になっています。子どもたちも、それぞれの道を歩き始めました。それでも、「ロサンゼルス」という地名を耳にすると、私はいまでも真っ先に、森末さんのあの笑顔と、山下さんの金メダルの瞬間を思い出すのです。 二〇二八年の夏、私はまた、テレビの前で誰かを本気で応援しているでしょうか。きっと、しているのだと思います。あの夏に教わった「観て、応援する」という幸せは、四十年あまりたっても、ちっとも色あせていないのですから。 あなたが、生まれて初めて自分の意思で「観て」「応援した」オリンピックは、どの大会でしたか。テレビの前で思わず叫んでしまった、あの瞬間の記憶があれば、ぜひ聞かせてください。 このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 | 次の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う ▶

June 17, 2026

6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた

六月十五日。梅雨の晴れ間の、湿った緑の匂いがする季節です。きょうは何の日かと調べてみて、思わず手が止まりました。昭和六十年(一九八五年)のこの日、東京・吉祥寺の小さな貸しビルの一室で、株式会社スタジオジブリが設立されたのだそうです。 トトロの、魔女の宅急便の、あのジブリです。いまや日本中の、いや世界中の子どもたちが知っているあの名前が、産声を上げたのが四十一年前のきょう。そして当時十六歳、高校一年生だった私は、そんなことが起きていたとは、まったく知りませんでした。 昭和六十年六月、十六歳の私 昭和六十年の六月といえば、私は高校に入学して二か月あまり。野球部の一年生です。朝練に始まり、授業中は眠気と戦い、放課後は日が暮れるまで白球を追いかけ、玉のような汗をかいて家に帰る。そんな毎日でした。夏の大会を前に、先輩たちの空気がぴりぴりと張り詰めていく、ちょうどそんな頃です。 だから正直に白状すると、この日の私の記憶に「ジブリ」の文字はかけらもありません。それもそのはずで、当時はまだ世の中の誰も、その名前を知らなかったのです。第一作の公開は翌年のこと。設立の日のジブリは、看板も実績もない、生まれたての小さな会社にすぎませんでした。 それに正直なところ、高校生になった私が映画館でお金を払って観ていたのは、ジブリのような作品ではありませんでした。『ビー・バップ・ハイスクール』に『スケバン刑事』。つまり、ばりばりのツッパリ青春もののほうです(笑)。ヒロシとトオルの喧嘩に痺れ、スケバンのアクションに見入る。野球部帰りの十六、七歳の私には、腐海や王蟲の壮大な世界より、不良少年たちのどたばたのほうが、よほど自分たちの放課後に近く感じられたのです。だから設立されたばかりのジブリのことなど、当時の私の視界には、これっぽっちも入っていませんでした。 でも、私たちはとっくに出会っていた ジブリという名前は知らなくても、実は私たちの世代は、その作り手たちの作品の中で育っていました。 スタジオの中心となる宮崎駿と高畑勲。この二人は、ジブリ設立のずっと前から、テレビの中にいたのです。昭和四十九年、私が五歳のときに放送された『アルプスの少女ハイジ』。あの作品の演出が高畑勲で、画面構成として支えていたのが宮崎駿でした。昭和五十三年、小学三年生のときにNHKで放送された『未来少年コナン』は宮崎駿の初監督作。そして昭和五十四年公開の『ルパン三世 カリオストロの城』も、宮崎駿の映画初監督作品です。 つまり、夕方のテレビの前に座っていた昭和の子どもたちは、誰に教わるでもなく、のちのジブリの味を舌で覚えていたわけです。ハイジがブランコのように大きく揺れるあのオープニング。コナンが足の指で塔の壁にぶら下がる、あのありえないけれど信じてしまう動き。あれが全部、同じ人たちの手から生まれていたのだと知るのは、私の場合、ずいぶん大人になってからのことでした。 吉祥寺のワンフロアから始まった スタジオジブリ誕生の直接のきっかけは、昭和五十九年三月に公開された『風の谷のナウシカ』でした。私が中学三年に上がる、ちょうどその春のことです。腐海と王蟲の世界を描いたあの映画が大きな評判を呼び、これを受けて出版社の徳間書店が出資し、制作会社トップクラフトを母体とする新しいスタジオが作られた。それが昭和六十年六月十五日のことです。 ですから厳密にいうと、『風の谷のナウシカ』はジブリ設立より前の作品で、ジブリ製ではありません。けれど再放送のときには冒頭にジブリのロゴが付きますし、公式の歴史でも事実上の第一作のように扱われています。会社よりも先に、作品のほうが生まれていた。ジブリとは、そういう順序で始まったスタジオなのです。 「ジブリ」という名前は、サハラ砂漠に吹く熱風のことで、第二次大戦中のイタリアの偵察機の名前でもあったそうです。命名したのは、無類の飛行機好きで知られる宮崎駿。「日本のアニメーション界に熱風を巻き起こそう」という思いを込めたといいます。ちなみに本来の発音は「ギブリ」のほうが近いそうで、つまり世界一有名なあのスタジオ名は、読み間違いから生まれたことになります。なんだか、ほっとする話ではありませんか。 驚くのは、その所帯の小ささです。場所は吉祥寺駅近くの貸しビルのワンフロア。しかも設立からしばらくの間は、正社員を雇わなかったといいます。映画の興行は水物だから、いつでも畳めるように、作品ごとに七十人ほどのスタッフを集め、完成したら解散する。そんな方式だったのだそうです。 のちに国民的どころか世界的な存在になるスタジオが、「いつ終わってもおかしくない」覚悟の上に建てられた仮設小屋のようなものだったとは。何が大きく育つかなんて、その瞬間には誰にも分からないものなのですね。 そして翌昭和六十一年八月、ジブリ第一作『天空の城ラピュタ』が公開されます。さらに昭和六十三年四月には『となりのトトロ』と『火垂るの墓』が、なんと二本立てで同時公開。いま考えると信じられないような豪華な、そして観終わったあとの心の置きどころに困る組み合わせですが、これも昭和の出来事なのです。トトロも火垂るの墓も、ぎりぎり「昭和の映画」なのですね。 五人の子どもたちと、ジブリと 考えてみると、ジブリの映画が「国民的」になっていった道のりには、映画館だけでなく、お茶の間のテレビとビデオデッキの存在が大きかったように思います。金曜の夜にテレビでジブリ作品が放映されると、翌日の学校や職場でその話になる。録画したビデオを、子どもが擦り切れるほど繰り返し観る。劇場公開のときは静かだった『となりのトトロ』が、やがて誰もが知る存在になっていったのも、そうやって一家のテレビの前で何度も再生されたからこそでしょう。映画というより、家族の暮らしの一部。ジブリ作品には、そういう染み込み方をする力がありました。 私自身がジブリ作品ときちんと向き合うことになるのも、ずっとあとのことです。我が家には五人の子どもがいます。子育ての日々の中に、ジブリの映画はいつも当たり前のようにありました。 そして、我が家の子どもたちは、揃ってジブリ映画が大好きでした。テレビで放映されればもちろん一家でかじりつき、新作が劇場にかかれば、これは必ず観に行く。それが我が家の決まりごとのようになっていました。かつて腐海より不良少年に夢中だった父親が、いつのまにか子どもたちに連れられて映画館のジブリ作品の前に座っている。人生というのは、おかしなところに連れていってくれるものです。 高校球児だった私が汗を流していたあの六月に、吉祥寺の小さな部屋で生まれた会社が、めぐりめぐって我が子たちの子ども時代を彩ることになる。十六歳の私に教えてあげたら、きっとぽかんとするでしょう。お前の子どもは五人だぞ、と教えたら、もっとぽかんとするでしょうが。 おまけ──きょうは千葉県民の日 ところで六月十五日は「千葉県民の日」でもあります。制定されたのは昭和五十九年。県の人口が五百万人を突破したのを記念して定められたもので、日付は明治六年のこの日に木更津県と印旛県が合併して千葉県が誕生したことに由来するそうです。 葛飾の子どもだった私にとって、千葉は江戸川の向こう側の世界でした。そして恥ずかしながら、私は長いあいだ、とんでもない勘違いをしていました。「千葉県民の日は、千葉県民ならディズニーランドにタダで入れる」と、本気で思い込んでいたのです(笑)。どこでそんな話を仕入れたのか、いまとなっては分かりません。調べてみると、そんな事実は過去にも一度もなかったようです。県民の日にディズニーが無料になる──いかにもありそうで、まことしやかに信じてしまう。そういう「県民の日伝説」のようなものが、あの頃あちこちにあった気がします。 千葉県民の日には、県内の公立学校が休みになり、施設の入場が無料や割引になるところもあるとか。学校が休みになる記念日が県ごとにあるなんて、昭和の東京の子どもは知りませんでした。ちょっとうらやましい話です。 結びに 何かが始まった日というのは、たいてい静かなものです。昭和六十年六月十五日も、テレビが速報を流したわけでも、教室で話題になったわけでもない。けれどあの日、確かに何かが始まっていて、それは何十年もかけて、私たちの暮らしの中に深く根を下ろしました。 我が家で、子どもたちが擦り切れるほど繰り返し観た一本は、やはり『となりのトトロ』でした。昭和六十三年公開の、ぎりぎり「昭和の映画」。今では美しい高画質で、いつでも家族そろって、あの森の風に会いに行けます。 となりのトトロ [Blu-ray]スタジオジブリ/宮崎駿監督。昭和63年公開の不朽の名作 Amazonで見る › みなさんにとって、いちばん思い出深いジブリ作品は何ですか。誰と、どこで観た映画でしょうか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入 | 次の記事:6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた ▶

June 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代

今日は5月17日。 昭和60年(1985年)のこの日、男女雇用機会均等法が成立した。職場における男女の差別を禁止し、募集、採用、昇給、昇進など多くの面で男女を平等に扱うことを定めた法律だ。 法律の名前だけ聞くと、難しい話のように感じるかもしれない。でも私にとってこの法律は、あの頃の母親の背中と深くつながっている。 「男は仕事、女は家庭」という時代 昭和の日本には、当たり前とされていた空気があった。 「男は仕事、女は家庭」。 女性は学校を卒業して就職しても、結婚したら退職するのが当然という慣例が多くの職場に存在した。当時、女性は就職しても数年で辞めていくのが慣例で、男女は平等には扱われていなかった。多くの企業は男女を分けて賃金管理や労務管理をしており、女性は補助労働者として扱われていたのだ。 「寿退社」という言葉があった。結婚を機に会社を辞めることを、まるでおめでたい卒業のように呼んでいた。女性が働き続けることへの社会の目は、今とはまったく違っていた。 それでも昭和の母親たちは働いていた。家庭を守りながら、子どもを育てながら、パートとして、内職として、様々な形で家計を支えていた。 テーブルの上の100円玉と、母の仕事 少し前の記事に書いた話を、もう一度思い出している。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はなかった。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃の母は、何をしていたのだろう。どんな仕事場で、どんな気持ちで働いていたのだろう。子どもだった私には、考えも及ばなかった。 でも今になって思う。昭和の母親がパートとして働くということは、今よりずっと「肩身の狭い」ことだったかもしれない。「母親なのに家を空けて」という目が、社会のどこかにあった時代だ。それでも働いたのは、家族のためだけではなく、自分自身の何かのためでもあったはずだと思う。 スチュワーデス、保母、看護婦──あの呼び名が変わった日 男女雇用機会均等法の成立は、目に見える形でも昭和の風景を変えた。 施行されると、「保母」が「保育士」に、「看護婦」が「看護師」に、「スチュワーデス」が「客室乗務員」などと呼称も変更された。 子どもの頃、テレビのCMに「スチュワーデス」という言葉が出てくると、華やかな憧れの職業として映っていた。「保母さん」という言葉も、幼稚園や保育園の優しい先生の代名詞だった。 その言葉が変わるということは、仕事に対する社会の見方そのものが変わっていくということだった。女性だけの仕事、男性だけの仕事、という区分けが少しずつ溶けていく。昭和という時代の終わりごろに、その変化は静かに始まっていた。 「均等」への道は、遠かった ただ正直に言えば、法律が成立しても、最初は採用や昇進について「禁止」ではなく「努力義務」にとどまっていた。多くの経営者が法制化に強く反対したという背景もあった。 昭和60年の法成立から、実質的な禁止規定へと強化されるまで、さらに月日が必要だった。法律が変わることと、社会が変わることには、タイムラグがある。 それでもあの法律は、確かに何かを変えた。昭和の働く母親たちが、今日という日の積み重ねの上に社会を押し広げていったことを、私はあの100円玉2枚とともに覚えている。 娘たちが生きる時代へ 今、私には子どもが5人いる。そのうちの娘たちが大人になって働く時代は、昭和の母親が生きた時代とはずいぶん違う。 今年の1月、大学受験を控えた娘の合格祈願で湯島天満宮に参拝した話を以前書いた。娘が夢を持って大学に進み、自分のキャリアを考えられる時代。それは昭和60年5月17日に成立した法律が、その後の何十年もかけて少しずつ作ってきた時代でもある。 男女雇用機会均等法という言葉を、娘に説明したことがある。「昔はそんな法律がなかったの?」と娘は少し驚いた顔をした。 その顔を見て、時代が変わったのだと実感した。 おわりに 昭和60年5月17日、一本の法律が成立した。 完璧ではなかった。すぐに世の中が変わったわけでもなかった。でもテーブルの上に100円玉を置いて子どもたちのために働いていた昭和の母親たちの背中が、この法律を少しずつ前に押し進めていったと思う。 あなたのお母さんも、あの時代に何かを背負いながら働いていたのではないだろうか。 今日、そのことを少し思い出してもらえたら嬉しい。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 ▶

May 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月4日──ラムネと予言と、休日になった日

今日は5月4日。 ゴールデンウィークも終盤だ。昭和の子どもにとって、この日は少し不思議な日だった。 5月3日(憲法記念日)と5月5日(こどもの日)という2つの祝日に挟まれながら、昭和60年(1985年)より前の5月4日は、正式な祝日ではなかった。学校は休みのこともあれば、そうでないこともある。なんとも宙ぶらりんな日付だ。 そんな5月4日に、昭和の時代に起きた3つの出来事を掘り起こしてみたい。 その一 ラムネの誕生──明治5年(1872年)5月4日 まず一つ目は、昭和より遥か昔の話だが、昭和の子どもの夏に欠かせないものの誕生秘話だ。 ラムネ。 瓶の口にビー玉が詰まった、あの独特の飲み物。昭和の縁日や駄菓子屋に必ずあって、暑い日に飲む一杯はなんとも言えない爽快感があった。 明治5年(1872年)の5月4日、東京の実業家・千葉勝五郎が、ラムネの製造販売の許可を取得した。中国人のレモン水製造技師を雇って製法を学んだというから、当時としては相当な苦労があったはずだ。 「ラムネ」という名前の由来は「レモネード」だ。外来語が日本人の口の中でなまって「レモネード→ラムネード→ラムネ」と変化していった。そのラムネが日本で正式に製造・販売できるようになったのが、この5月4日だった。 昭和の子どもには、ラムネの飲み方に一つの作法があった。瓶の口にあるビー玉を、付属の押し込み棒でグッと押し下げる。シュワッと炭酸が抜ける瞬間の音と感触。そして飲みながらビー玉がコロコロと転がる感覚。飲み終わった後、瓶を割ってビー玉を取り出そうとした子どもも少なくないはずだ。 明治の夏に生まれたあの飲み物は、昭和の子どもの夏にも確かに生きていた。 その二 「1999年に人類は滅亡する」──昭和48年(1973年)のあの予言 次は少し違う話。昭和の子どもが「怖かった」ものの話だ。 昭和48年(1973年)、一冊の本が日本中を震撼させた。 五島勉著『ノストラダムスの大予言』。 16世紀のフランスの占星術師・ノストラダムスが書いた詩集の中に、「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくるだろう」という一節がある。五島勉はこれを「人類滅亡の予言」と解釈し、発売するやいなや250万部を超えるベストセラーになった。 昭和48年といえば、オイルショックが起きた年だ。トイレットペーパーが店頭から消え、将来への漠然とした不安が社会全体を覆っていた。そういう時代の空気の中に、「1999年に世界が終わる」という予言が飛び込んできたのだから、信じてしまった人が多かったのも無理はない。 そして怖かったのは、大人だけではなかった。 5月4日はノストラダムスの命日(1566年)でもある。「ノストラダムスの日」と呼ばれるのもそのためだ。 昭和50年代の子どもたちは、この予言を本気で信じていた。教室で回し読みされ、「27歳で死ぬんだ」と本気で思っていた子もいたという。携帯電話もインターネットもない時代、「本に書いてあることは全て事実」という感覚があった。怖いけれど、手放せない。昭和の子どもたちにとって、ノストラダムスの大予言はそういう存在だった。 1999年、予言は外れた。世界は続いた。 あの恐怖は、いったい何だったのだろう。今となっては少し可笑しいような、でもあの頃の本気の怖さは確かに本物だったような──そんな不思議な記憶として残っている。 その三 GWがひとつながりになった日──昭和60年(1985年) 最後は、ゴールデンウィークの話だ。 昭和60年(1985年)12月27日、祝日法が改正された。これにより、「国民の祝日に挟まれた日は、たとえ祝日でなくても休日とする」というルールが生まれた。 この法改正が実質的に意味していたのは、5月4日を休日にすることだった。 それまでの5月4日は、曜日によって休みになったりならなかったりする、なんとも不安定な日だった。3日が憲法記念日、5日がこどもの日という2つの祝日に挟まれながら、4日だけが取り残されていた。その「谷間」を埋めようというのが、この法改正の目的だった。 制度自体は昭和60年末から始まったが、翌年・翌々年の5月4日はそれぞれ日曜と月曜だったため、実際に「国民の休日」として最初に機能したのは**昭和63年(1988年)**のことだ。 こうして昭和の終わりごろ、ゴールデンウィークはようやく4月29日から5月5日まで途切れなくつながるようになった。 昭和の子どもが大人になる頃に、ようやく手に入った長い連休。あの法改正がなければ、今のゴールデンウィークの感覚はなかったかもしれない。 おわりに 5月4日という日に、こんな3つの昭和の断片がある。 明治に生まれて昭和の子どもの夏を彩ったラムネ。昭和の子どもが本気で怖れた世界の終わり。そして、GWをひとつながりにした法改正。 ゴールデンウィークの残り一日、どこかでこの日のことを思い出してもらえたら嬉しい。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月3日──今日はリカちゃんの誕生日 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳 ▶

May 3, 2026