6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった

六月十九日。梅雨の重たい雲を見上げるたび、私はこの日のニュースを思い出します。昭和六十一年(一九八六年)のこの日、ベトナムから運ばれてきた二人の幼い兄弟が、東京の病院で手術を受けました。ベトちゃんと、ドクちゃん。下半身がつながったまま生まれた、結合双生児の兄弟です。 そのとき私は十七歳、高校二年生でした。ちょうど高校野球の東東京大会を目前にひかえ、グラウンドと教室を行き来する毎日のなかにいました。ベトちゃん・ドクちゃんのニュースは、テレビで何度も目にしていました。くわしいことは、正直よく分かりませんでした。それでも、ただ「がんばれ」と願っていた——そんな自分を、いまでもはっきりと憶えています。 白状すれば、当時の私にとって、ベトナムはそれほど馴染みのある国ではありませんでした。ただ、物心ついたころから、ベトナム戦争のニュース報道を、何度も何度もテレビで見て育ってきた。だから「ベトナム」という言葉に触れると、私のなかでは決まって「戦争」という言葉が結びつきました。詳しいことは分からないのに、心がふっと「不安」になる。ベトナムとは、当時の私にとって、そういう遠い国だったのです。 いま思うと、不思議なものです。来たる大会のことで頭がいっぱいだったはずの十七歳の私が、それでもテレビの前で足を止め、遠い国の二人の子どもに、手を合わせるように「がんばれ」とつぶやいていた。あの六月の感覚は、四十年がたったいまも、胸のどこかに残っています。 一つの体に、二つの命 ベトちゃんとドクちゃんは、昭和五十六年(一九八一年)二月二十五日、ベトナム中部高原のコントゥム省で生まれました。上半身が二つ、下半身が一つ。Y字のかたちにつながった、「一胴二体」と呼ばれる結合双生児でした。 二人がこうして生まれた背景には、ベトナム戦争があると報じられました。米軍が大量に散布した枯葉剤——その影響ではないか、と。枯葉剤は、一九六一年からのおよそ十年間で、ベトナムの森や畑に七千万リットル以上もまかれたといわれます。その多くに、人体に有害なダイオキシンが含まれていました。直接浴びた人や、その土地の水や作物を口にした人、生まれてくる子どもにまで影響が及んだとされ、二人の母親も、枯葉剤のまかれた地域の井戸水を飲んでいたと伝えられました。はっきりとした因果は、いまも科学的に証明されたわけではありません。けれど、戦争が終わってなお、人の体に爪痕を残しているのかもしれない。そのことは、当時の日本に重く響きました。私の胸の奥にあった「ベトナム=戦争=不安」という結びつきも、たぶんこのあたりから来ていたのだと思います。 兄はベト、弟はドク。越南(ベトナム)の「越」、東ドイツの「徳」。治療を受けたハノイの病院で、そう名づけられたといいます。下半身のつながった幼い兄弟の写真は日本中に紹介され、ベトナム戦争の傷あととして受け止められ、各地で支援の輪が広がっていきました。昭和六十年(一九八五年)には福井県敦賀市で「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が結成され、募金で車椅子が贈られています。ちょうど私が高校一年生のころのことです。戦争を知らない世代だった私の頭にさえ、二人の名前と、あのつながった小さな体の写真は、いつのまにか焼きついていました。 東京へ運ばれてきた六月 昭和六十一年六月十一日。兄のベトちゃんが、急性脳症を発症しました。けいれんの発作を繰り返し、やがて意識を失っていきます。けれど、体のつながった弟のドクちゃんの意識は、はっきりしたままでした。一つの体の上で、二つの命がまったく違う時間を生きている。その事実の重さは、ニュースを見ていた多くの人の胸に、言葉にならないまま残ったはずです。 日本赤十字社の支援で、二人は特別機で日本へ緊急搬送されます。海を越えて運ばれてくる小さな二人の容態を、日本中が固唾をのんで見守りました。そして六月十九日、東京の病院で手術が行われました。一命はとりとめたものの、ベトちゃんには重い後遺症が残りました。治療のなかで大脳が傷つき、外の世界を感じる力の多くを失ってしまったのです。二人はその後、ベトナムへ帰っていきました。 そして二年後の昭和六十三年(一九八八年)十月四日。ホーチミン市のツーズー病院で、ついに二人を分ける手術が行われます。前例のない手術を前に、医療チームは何度も議論を重ね、マネキン人形を使って手順をたしかめたといいます。七十人を超える医療スタッフ、日本赤十字社の医師の立ち会い。慎重に慎重を期した大手術は、成功しました。一つだった体が、二つになった。二人はそれぞれの人生を、別々の足で歩きはじめたのです。 フジとサクラ、という名前 それから、長い歳月が流れました。 兄のベトちゃんは、分離手術のあとも体調がすぐれず、平成十九年(二〇〇七年)、二十六歳でこの世を去りました。 一方、弟のドクちゃんは生き抜きました。義足で歩く訓練を重ね、コンピュータを学び、やがてツーズー病院の職員として働くようになります。自分がかつて分けられた、あの病院で——です。結婚し、双子の子どもにも恵まれました。その二人の名前が、フジと、サクラ。富士山と、桜。自分を助けてくれた日本への感謝を、わが子の名前に込めたのだといいます。 新型コロナが日本を襲ったとき、ドクさんは日本へマスクを贈りました。かつて助けられた側が、こんどは助ける側にまわっていた。令和になったいまも、ドクさんは枯葉剤被害に苦しむ人たちを支える活動を続けています。二〇二四年には、ドクさんと家族の日々を追ったドキュメンタリー映画『ドクちゃん フジとサクラにつなぐ愛』が、日本各地で公開されました。ベトナム戦争が終わって、五十年あまり。あの夏、テレビのこちら側で「がんばれ」と願っていた十七歳の私が見ていたものは、まだ終わってなどいなかったのだと、いまになって思います。 帝国劇場で観た「ミス・サイゴン」 ここで、個人的な記憶をもう一つ、書かせてください。 あのニュースから数年がたった平成四年(一九九二年)、私は東京・日比谷の帝国劇場へ、一本のミュージカルを観に行きました。『ミス・サイゴン』です。ベトナム戦争末期のサイゴンを舞台に、ベトナム人の少女キムと、アメリカ兵クリスの、引き裂かれていく恋を描いた物語。その背景にあるのは、まさに、あの戦争でした。 東宝が制作した日本初演で、ヒロインのキム役を演じていたのが、本田美奈子さんでした。アイドルとして親しんできた彼女が舞台の上で歌い上げる代表曲「命をあげよう」は、一年半におよぶロングランの語り草となりました。本田さんは、のちに白血病で世を去ります。まだ三十八歳の若さでした。 舞台を観て、私はこれが単なる恋愛や戦争の物語ではないと感じました。当時のベトナムの社会のありさまや、人々の暮らしまでもが、ひしひしと伝わってくる。戦争によって日常も将来も大きく変えられてしまうなかで、登場人物たちは家族を、愛を、大切な人を守るために、必死に生きている。その姿が、強く印象に残りました。とりわけ主人公たちの選択を通して、平和な環境は決して当たり前のものではないこと、そして生まれた国や時代によって人生が大きく左右されてしまう現実を、考えさせられたのです。本田美奈子さんの力強くも繊細な歌声が、その感情や葛藤を、いっそう深く届けてくれました。二十代前半だった私にとって、自分の将来や生き方を改めて見つめ直す、きっかけになった作品でした。 ニュースのなかで「不安」だったベトナムが、このときは、舞台の物語として、音楽とともに胸に流れ込んできた。いま思えばあの夜は、私とベトナムの距離が、ほんの少し縮まった夜だったのかもしれません。 ミス・サイゴン 日本公演ハイライト盤本田美奈子ほか/日本初演キャスト。あの「命をあげよう」を収録 Amazonで見る › お向かいさんは、ベトナムの家族 いま、日本にはたくさんのベトナムの人が暮らすようになりました。ベトナム料理のお店も、あちこちで見かけます。そして——我が家のお向かいには、ベトナム人のご家族が住んでいます。 子ども同士が本当に仲良しで、いまは一緒に学童野球のチームに入って、同じユニフォームで白球を追いかけています。パパとママからは、ベトナムのことをいろいろ教えてもらいました。おかげで私にとってベトナムは、すっかり身近な存在になったのです。国が違っても関係なく、あっという間に仲良くなってしまう子どもたちを見ていると、なんだか「ほっこり」と、いい気分になります。 思えば、昭和六十一年のあの六月、東東京大会を前にした高校二年の私は、テレビの向こうのベトナムに、ただ「がんばれ」と願うことしかできませんでした。「ベトナム」と聞けば「戦争」が浮かび、胸が「不安」になった、あの遠い国。それが四十年の時を経て、いまは目の前で、子どもたちが同じグラウンドで野球を楽しむ国になっている。ドクさんがわが子に富士と桜の名を授けたように、国境というものは、もう子どもたちのあいだには無いのかもしれません。同じ「ベトナム」という言葉が、私のなかで「不安」から「ほっこり」へと、長い時間をかけて、ゆっくりと姿を変えていったのです。 昭和の終わりに、テレビの向こうにあった「不安」が、令和のいま、すぐお向かいの「ほっこり」になっている。その長い距離を縮めたのは、二人を救おうとした人たちの手であり、そして何より、過去にとらわれることなく、あっさりと手をつないでしまう子どもたちの力なのだと思います。 六月十九日。あなたは、ベトちゃんとドクちゃんのニュースを覚えているでしょうか。あのとき、テレビのこちら側で、何を思っていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う | 次の記事:6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日 ▶

June 19, 2026

「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に

六月五日は「環境の日」です。世界では「世界環境デー」と呼ばれています。一九七二年のこの日、スウェーデンのストックホルムで「国連人間環境会議」というものが開かれた。それにちなんで定められた日なのだそうです。……と書くと、ずいぶんとお堅い話に聞こえますね。 正直に言えば、子どもの頃の私にとって「環境」などという言葉は、どこか遠い、大人の世界の言葉でした。学校で「公害」と一緒に教わったような、なんだか難しくて、自分の暮らしとはつながらない言葉。 でも今日は、その「環境」という言葉が、私の中でずっと一羽の鳥と結びついている、という話をさせてください。トキの話です。 四十年前の、小さな夕刊記事 ちょうど四十年前、昭和六十一年の今日――一九八六年六月五日の新聞の夕刊に、小さな、けれどどこか胸の奥がしんとするような記事が載りました。見出しはこうです。「雌のアオ死ぬ 残るのは二羽」。 アオというのは、佐渡で大切に守られていたトキの名前でした。鳥に一羽ずつ名前がついている。それだけでも、どれほど大事に、まるで家族のように見守られていたかが伝わってきます。 繁殖の望みが、また一つ消えた。残されたトキは、もう二羽だけ。一羽、また一羽と減っていく、その静かなカウントダウンの一コマだったのです。 この時、私はもう十七歳になっていました。けれど、この夕刊の記事をリアルタイムで読んだ記憶は、実は私にはありません。私の「トキ」の記憶は、もっと前の、もっとぼんやりとしたところにあるのです。 テレビから流れてきた「トキ」 子どもの頃、夕方のテレビから、ときどき「トキ」という言葉が流れてきました。たいていはニュースの時間です。そして決まって、その後ろには「絶滅の危機」という言葉がくっついていました。 正直なところ、意味はよく分かっていませんでした。佐渡という島がどこにあるのかも知らない。ピンクがかった白い羽の鳥なんて、もちろん見たこともない。葛飾の、東京の二十三区でも東のいちばん端っこに住んでいた子どもにとって、トキはどこまでも縁のない存在でした。 だから私の中のトキは、鳥というより「言葉」だったのです。「トキは佐渡に数羽だけいて、どうやら、もうすぐいなくなるらしい」。理解していたのは、それくらい。あとはただ、ぼんやりとした寂しさの気配だけが残りました。 夕飯前のあの時間、テレビでは六時五十分からドラえもんが始まる。明るくて、にぎやかで、楽しい。けれど、その前のニュースの時間にときおり顔を出す「トキ」という言葉だけは、なぜか少しうつむいた、ひんやりとした響きをしていました。同じ茶の間のテレビから流れてくるのに、まるで別の色をしている。子ども心にも、「これはあまり楽しい話ではないらしいぞ」という空気は、ちゃんと伝わってきたのです。 あの頃、テレビからは「絶滅」という言葉が、いろいろな生きものの名前とくっついて、ときどき流れてきました。けれど不思議なもので、その多くは右から左へ抜けていったのに、「トキ」だけは、なぜか妙に耳に残りました。短くて、やわらかくて、口にしやすい名前だったからかもしれません。あるいは、ニュースを読む大人たちの声が、その言葉のときだけ、ほんの少し沈んで聞こえたからかもしれません。理屈ではなく、「大事なものが、手の届かないところで静かに終わろうとしている」という感じ。子どもは、案外そういう気配だけは、敏感に受け取ってしまうものです。 「日本の日本」という名の鳥 大人になってから知ったことですが、トキの学名は「ニッポニア・ニッポン(Nipponia nippon)」というのだそうです。日本の、日本。これほど日本という国を背負わされた名前の鳥も、なかなかいないでしょう。 その「日本の日本」が、なぜ消えていったのか。 明治のころから、美しい羽や肉を目当てに、トキはさかんに捕られました。さらに戦後、田んぼに強い農薬がまかれるようになると、トキが食べていたドジョウやカエル、小さな生きものたちが姿を消していきます。餌そのものが、田んぼから失われていったのです。 そして、私が今回いちばん胸を打たれた一羽がいます。「能里(のり)」という名のトキです。 一九七〇年(昭和四十五年)の一月、本州で最後の一羽となっていたトキが、石川県の穴水町で捕獲されました。それが能里でした。これ以上、本州の野生で生き延びることはできない。せめて繁殖のためにと、佐渡へ移されることになったのです。 移送に携わった地元の方が、のちにこう振り返っています。何としても無事に送り届け、長生きさせたい。そう祈るような気持ちで、車に同乗して県境まで運んだ、と。けれど能里は、翌年の春に死んでしまいました。そして解剖をしてみると、その小さな体には、農薬と水銀が残っていたといいます。 田んぼを追われた鳥の体に、田んぼの毒が残っていた。これほど切ない話が、あるでしょうか。 その方は穴水町の生まれで、子どもの頃は、家のすぐそばの神社の境内から、毎日のようにトキが空を舞う姿を見上げていたそうです。ピンク色の羽がきれいで、身近で、大切な存在だった、と。 つまり、ほんの一世代前には、トキは「あたりまえに空にいる鳥」だったのです。それが、私が子どもの頃には、もう「テレビの中の、消えかけた言葉」になっていた。たった数十年の間に、あたりまえに見上げていたものが、一羽ずつ、名前と寂しさだけを残して空から消えていった。そういうことだったのだと、今になって分かります。 カウントダウンの、その先 一九八六年にアオが死んで、残るは二羽。あの夕刊が伝えた静かなカウントダウンは、その後も止まりませんでした。 一九九五年(平成七年)には、ミドリという一羽が死にます。残されたのは、キンというトキ、ただ一羽だけ。日本で生まれた、最後のトキです。 そして二〇〇三年(平成十五年)の秋、そのキンも、佐渡のケージの中で静かに息を引き取りました。推定で三十六歳。鳥としては、たいへんな長寿だったといいます。新聞各紙は、大きな見出しで「日本産のトキは絶滅した」と報じました。 このときには、私もすっかり大人になり、自分の子どもを抱える父親になっていました。子どもの頃、夕方のテレビからぼんやりと受け取っていた「もうすぐいなくなる鳥」という言葉は、こうして、ついにいちばん寂しい場所まで行き着いてしまったのです。「危機」ではなく、「絶滅」。日本の空から、ニッポニア・ニッポンが、本当にいなくなった瞬間でした。 これで終わっていたら、今日の話は、ただただ寂しいだけの話になっていたはずです。 そして、今年のこと ここからは、つい先日、私自身が初めて知って、思わず声が出てしまった話です。 二〇二六年五月三十一日、石川県の羽咋市で、トキが本州で初めて放鳥されました。空に放たれたのは八羽。秋篠宮ご夫妻も見守るなか、箱からいっせいに飛び立ったトキを、会場の七百人ほどの人たちが、拍手と歓声で見送ったといいます。 本州の空をトキが堂々と舞うのは、あの能里が捕らえられた一九七〇年以来、実に五十六年ぶりのことでした。 考えてみてください。私がテレビの前で「もうすぐいなくなるらしい」と、ぼんやり寂しさだけを受け取っていた、あの鳥です。それが、半世紀を越えて、また本州の空に帰ってきた。 日本産のトキが絶滅したあと、希望をつないだのは、中国から贈られた一組のつがいでした。一九九九年(平成十一年)、「友友(ヨウヨウ)」と「洋洋(ヤンヤン)」という二羽が海を渡ってきて、佐渡で人工繁殖に成功します。最初に生まれたヒナには「優優(ユウユウ)」という名がつきました。そこから一羽、また一羽と数が増え、二〇〇八年にはついに佐渡で放鳥が始まります。今、日本の空を舞うトキは、みなこの中国生まれのつがいの子孫なのです。 そうして佐渡でこつこつと数が積み上がり、二〇二四年の暮れには、野生のトキは推定五百七十六羽にまでなりました。今年の三月には、絶滅危惧のランクも一段、引き下げられたそうです。そして能登では、このトキの放鳥が、地震からの「復興のシンボル」として位置づけられている。傷ついた土地に、希望の鳥が帰ってくる。そういう物語になっているのです。地元には「のとっきー」という応援キャラクターまで生まれて、子どもたちと一緒に放鳥を見守ったと聞きます。さらに来年度には、島根県の出雲でも放鳥が予定されているそうです。トキの空は、これから少しずつ広がっていく。 先日、私はこのブログでパンダの話を書きました。あちらは「今、日本に一頭もいなくなってしまった」という、少し寂しい話でした。けれど今日のトキは、ちょうどその逆です。「五十六年ぶりに、帰ってきた」という話なのですから。同じ週に、こんなに対照的な二羽(一頭と一羽、ですね)の話を書くことになるとは、思ってもみませんでした。 「トキ」という言葉の、その後 子どもの頃、私のテレビから流れてきた「トキ」は、いつも少しうつむいた、寂しい言葉でした。「絶滅の危機」「もうすぐいなくなる鳥」。 それが、半世紀を越えた今、能登の青空を堂々と舞っています。私の子どもたちや、さらにその先の世代にとって、「トキ」はもう、寂しい言葉ではないのかもしれません。むしろ「帰ってきた鳥」「守りきった鳥」として、明るい響きで耳に入ってくるのでしょう。 言葉の響きは、時代とともに変わっていくものなのですね。 六月五日の「環境の日」と聞いても、子どもの頃の私なら、やっぱりピンとこなかったと思います。けれど今は、少しだけ分かる気がします。環境を守るというのは、難しい理屈の話である前に、「あたりまえに空にいた鳥を、もう一度あたりまえに空へ戻す」という、それくらい具体的で、それくらい気の長い営みなのだと。能里を県境まで運んだ人も、田んぼの農薬を減らした佐渡や能登の農家の人たちも、半世紀をかけて、その地道な仕事を続けてきたのでしょう。 あなたのテレビからも、あの頃、「トキ」という言葉は、どこか寂しい響きで流れてきませんでしたか。そして今、その同じ言葉が、青空を飛んでいくのです。 もう一つの「トキ」 最後に、もう少しだけ、私自身の話をさせてください。 実をいうと、私にとって「トキ」という言葉は、ニュースの中だけのものではありませんでした。 私の母は、昭和十三年の生まれで、今年で八十八歳になります。新潟県の生まれ。そして、名を「トキ子」というのです。 佐渡島の出身というわけではありませんし、名前の由来を、私は母の口から聞いたことがありません。トキ子という名は、あの時代の女の子に、わりとよくつけられた名前でもありました。だから、あの鳥にちなんだものなのかどうか、本当のところは分かりません。聞いておけばよかったと思うのですが、こういうことは、たいてい聞きそびれたまま、時間だけが過ぎてしまうものですね。 それでも――新潟に生まれた、トキ子。もしかしたら、生まれ故郷の空に、まだトキがあたりまえに舞っていた最後の時代に、その美しい鳥にあやかって名づけられたのかもしれない。そう想像すると、私の中で、ニュースの「トキ」と、母の「トキ子」が、そっと一本の線でつながるのです。 その母は今、病と闘いながら、入院しています。 新潟の隣、能登の空に、五十六年ぶりにトキが帰ってきた。私はこのニュースを、何より母に伝えたいと思いました。お母さん、あなたと同じ名前の鳥が、半世紀をこえて、またこの国の空を飛んでいるよ、と。 絶滅したとまで言われた鳥が、それでもあきらめずに守られて、こうして帰ってきました。その同じ名を持つ母にも、どうかもう少しだけ、こちらの空の下にいてほしい。「トキ子」という名前に、私はもう一度、力を貸してもらいたいのです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで | 次の記事:昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報 ▶

June 5, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった

5月27日。 この日付を聞いて、ピンと来る人はきっと「あの音楽」が頭の中で鳴り出す。 ダダダン、ダダダダダン――。 あの壮大な序曲とともに、画面に浮かぶ「ドラゴンクエスト」の文字。昭和61年(1986年)5月27日、この日はのちに「ドラゴンクエストの日」と呼ばれることになる記念日だった。 私は当時、高校2年生だった。 グラウンドにいた。泥まみれで、ボールを追いかけていた。 球児には関係のない話、だったはずが 昭和61年5月27日。私は17歳の高校球児として、日々の練習に明け暮れていた。5月といえば夏の地方大会を前に、チームがいちばん張り詰めてくる時期だ。朝練に始まり、放課後も日が暮れるまでグラウンドに残る。帰り道は足が棒のようで、家に着いたら飯を食って風呂に入ってすぐ眠る。そんな生活の中で、ファミコンが入り込む余地はどこにもなかった。 明治神宮球場で行われる高校野球。あの頃の私も、こんな眩しい夏の空の下でボールを追いかけていた。(Photo: DX Broadrec / CC BY-SA 3.0) だから「ドラゴンクエスト」が発売されたこの日のことを、私はリアルタイムでは知らない。同級生の中にも野球部以外の友人はいて、後から「あのゲームすごいよ」と聞かされた記憶があるような、ないような。それくらい遠い世界の話だった。 でも今、あの日のことを調べてみると、同じ5月27日という日に、まったく別の青春が交差していたのだと気づく。 「今、新しい伝説が生まれようとしている」 キャッチコピーは、そう謳っていた。 発売したのはエニックス(現・スクウェア・エニックス)。プラットフォームは任天堂のファミリーコンピュータ。プレイヤー自身が勇者となり、広大な世界を歩き回りながら魔王を倒す――いわゆるロールプレイングゲームというジャンルを、日本の子どもたちに初めて届けた作品だった。 任天堂ファミリーコンピュータ(HVC-001)。昭和58年(1983年)に発売され、日本中の子ども部屋を変えた。(Photo: Rama / CC BY-SA 2.0 FR) シナリオを書いたのは堀井雄二。「週刊少年ジャンプ」でゲームコーナー「ファミコン神拳」を担当していたライターあがりの男だ。キャラクターデザインには『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』で一世を風靡していた鳥山明。音楽はすぎやまこういち。後に堀井自身が「奇跡のメンバーだった」と述懐する顔ぶれが、一本のカセットに詰まっていた。 発売当初、売り上げは芳しくなかったという。それが口コミでじわじわと広がり、最終的に約150万本にまで膨らんでいく。テレビゲームソフトが「社会現象」という言葉で語られた、初めての瞬間に近いものだったかもしれない。 あの頃、甲子園が消えた年 高校野球の話を少しさせてほしい。 昭和61年というのは、甲子園を知る人間には特別な意味を持つ年だ。前の年、昭和60年の夏、PL学園の桑田真澄と清原和博――KKコンビと呼ばれた二人が、涙をのんで甲子園を去った。1年生の夏から3年連続で甲子園の土を踏んだ二人が卒業し、あの二人がいなくなった甲子園は、なんとなく空洞になったように感じた。 私たちのような高校球児にとって、桑田と清原は神様みたいな存在だった。テレビの中で見る甲子園は遠くて眩しくて、ああいう選手になりたいという気持ちと、自分とは違う世界の話だという諦めが、いつも胸の中で混ざっていた。 昭和61年の夏の甲子園は天理(奈良)が優勝した。しかしその夏を目指して、全国3800校以上の球児たちが地方の土を踏んでいた。私もその中の一人だった。グラウンドに転がるボールを、まるで命がけで追いかけていた。 二つの「伝説」が生まれた年 ドラゴンクエストが生まれた日、私はバットを振っていた。 それは単なるすれ違いではなく、あの頃の昭和という時代が持っていた、ある種の豊かさだったのかもしれない。画面の中で勇者が剣を抜く子どもたちがいた。グラウンドで泥に塗れながらノックを受ける子どもたちがいた。誰かの青春は誰かの知らないところで静かに燃えていた。 「ふっかつのじゅもん」を紙に書き留めて、書き間違えて、また最初からやり直した子どもたちの話を今になって聞くと、妙に懐かしい気持ちになる。私はやり直すたびに素振りをしていた。同じ時代に、同じように何度も何度も繰り返した者同士として、どこかで通じるものがある気がして。 あの音楽がある限り すぎやまこういちは2021年に90歳で亡くなった。鳥山明も2024年に逝ってしまった。堀井雄二だけが今も筆をとり続けている。 三人がともに作り上げたあの「序曲」は、いまも世界中の耳に残っている。コンサートホールでオーケストラが演奏し、お客さんがスタンディングオベーションを送る。昭和61年の5月27日に生まれた音楽が、令和の今も鳴り続けている。 あの日、グラウンドにいた私には聞こえなかった音楽が、こうして何十年も経ってから耳の中で鳴っている。不思議な話だと思う。 あなたは、初めてドラゴンクエストを遊んだのはいつ頃でしたか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ―5月26日― | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月28日~ ▶

May 26, 2026