6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日

六月二十日。梅雨のただなかの、紫陽花が雨に濡れて重たく頭を垂れるころです。昭和四十八年(一九七三年)のこの日、東京・渋谷で一つの大きな建物が動きはじめました。NHKホール。毎年大みそかの夜、茶の間に流れ込んでくる、あの『紅白歌合戦』の舞台です。 先に正直なことを書いておきます。このとき私は四歳。開館のニュースなど、まるで覚えていません。覚えているはずもないのです。けれど、だからこそ書きたいことがあります。あの建物は、私が物心ついたときにはもう、子供時代の「向こう側」に、ずっと立っていました。テレビという窓の、その奥に。 茶の間の「向こう側」にあった大みそか 子供のころ、一年でいちばん夜ふかしが許される日が大みそかでした。紅白歌合戦。あの幕が上がると、家じゅうの空気がどこか改まったものです。 紅白がこのNHKホールから生中継されるようになったのは、ちょうど私が生まれて間もない昭和四十八年、第二十四回からでした。それ以前は、内幸町のスタジオや日本劇場、東京宝塚劇場などを転々としていたのだといいます。私が物心つくころには、紅白は「渋谷の、あの大きな舞台」にすっかり腰を落ち着けていた。つまり私の世代は、生まれたときから「紅白といえばNHKホール」が当たり前だった、最初の世代ということになります。 思えば、あのころの紅白は、文字どおり日本じゅうが同じ時間に同じ画面を見つめる夜でした。少しさかのぼった昭和三十年代の終わりには、視聴率が八割を超えた年もあったといいます。テレビがまだ一家に一台、茶の間の真ん中にどっしりと据えられていた時代。その何千万という視線がいっせいに集まる中心に、渋谷のあのホールがありました。けれど私にとってそれは、あくまでブラウン管の「向こう側」。きらびやかで、遠くて、手の届かない場所でした。 渋谷・神南に建った「二代目」 このNHKホール、実は「二代目」です。初代は内幸町のNHK東京放送会館のなかにあり、昭和三十年(一九五五年)に完成したものでした。けれど客席はわずか六百六十席ほど。紅白のような大がかりな番組を収めるには、あまりに手狭だったのです。 昭和四十年代に入り、NHKは放送の拠点を渋谷区神南へと移していきます。世に言うNHK放送センターです。その関連施設として、昭和四十七年(一九七二年)十一月に新しいホールが完成し、翌昭和四十八年六月二十日から運用が始まりました。設計は日建設計。客席は三千席を優に超える、当時としては国内屈指の大ホールでした。NHK交響楽団、いわゆるN響の本拠地でもあります。紅白だけでなく、『NHKのど自慢』も、N響の定期演奏会も、数えきれないほどの公開番組が、この同じ舞台から全国の茶の間へと届けられてきました。 「ここが、あのNHKホールか」 そのテレビの「向こう側」に、私が初めて足を踏み入れたのは、三十代の、親としての一日でした。そして連れて行ってくれたのは、ほかでもない、私の息子です。 長男が保育園のころ、『おかあさんといっしょ』に夢中でした。何かと用事を片づけたいとき、ファミリーコンサートのビデオを見せておく――その間に、こちらは家のことを済ませる。あの番組には、ずいぶんとお世話になったものです。一度でいいから、本物のファミリーコンサートに連れて行ってやりたい。そう思って、何度も何度も観覧の抽選に応募しました。 そして、ある日。なんと、その抽選に当選したのです。たしか平成十四年(二〇〇二年)ごろのことでした。会場の名前を見て、私は思わず声をあげました。NHKホール。あの、大みそかにテレビでしか見たことのなかった、渋谷の、あの大きな舞台。 当日、客席に座って、私はしみじみと天井を見上げました。「ここが、あのNHKホールかー」。子供のころ、ブラウン管の向こうに遠くきらめいていたあの場所に、私はいま、自分の息子と並んで座っている。番組の主役はもちろん子供たちです。でも、あの日いちばん胸を熱くしていたのは、案外、三十代の私のほうだったかもしれません。テレビの「向こう側」が、ようやく自分の足もとと地続きになった瞬間でした。 あの日、息子と並んで見上げた舞台の空気は、いまも映像のなかに残っています。おかあさんといっしょのファミリーコンサートは、NHKホールで収録されたものがDVDになっていて、観るたびに、あの当選通知が届いた日のうれしさまで、ふっとよみがえってきます。 NHKおかあさんといっしょ ファミリーコンサート(NHKホール収録)あの日、息子と見上げた舞台。ファミリーコンサートをノーカット収録 Amazonで見る › 十五年後の同じ日に ── オレンジと、バナナと 六月二十日には、もう一つ、私の暮らしに地味に効いてきた出来事があります。昭和六十三年(一九八八年)のこの日――NHKホール開館からちょうど十五年後――日米の貿易交渉がまとまり、牛肉とオレンジの輸入自由化が決まりました。三年後の平成三年(一九九一年)から、それまで設けていた輸入の上限を撤廃する、という合意です。 そもそも日米の貿易摩擦は、私が生まれるより前、昭和三十年代の繊維製品から始まっていました。やがて火種は鉄鋼へ、カラーテレビへ、自動車へと移り、そしてついに、牛肉とオレンジという、食卓の問題にまでたどり着いたのです。米側の狙いは、ふくらみ続ける対日貿易赤字を、農産物の輸出で少しでも埋めること。十九歳の私は、その交渉の重さなど、まだよくわかってはいませんでしたが。 正直に言うと、私には子供のころ「オレンジ」を食べた記憶が、ほとんどありません。私のなかでオレンジとは、ほぼ「みかん」のことでした(笑)。冬のこたつに積まれた、あの手で剝けるみかん。皮の厚い、香りの強い舶来のオレンジが当たり前に店先に並ぶようになったのは、思えば、この自由化のあとのことだったのでしょう。 いっぽうバナナは、私にとってずっと身近な存在でした。遠足の前日には決まって誰かが、「先生、おやつにバナナは含まれますか?」と真顔で質問しては、どっと笑いをとる。それくらい、バナナは子供の世界にすっかり溶けこんでいたのです。 ところが、少し調べてみて驚きました。そのバナナも、ほんの少し前までは「高級品」だったというのです。戦後の日本は外貨が乏しく、外国からの輸入は厳しく制限されていました。バナナも例外ではなく、値段が高く、庶民が気軽に買えない。病気のときや、お見舞いの品にする――そんな、特別な果物だったといいます。おもしろいのは、その「特別」だった時代から、遠足とバナナはすでに固く結びついていたことです。気軽には買えないからこそ、遠足の日に一本か二本だけ持たせてもらう。それが子供にとって、何よりの楽しみだった。昭和三十年ごろには、一房が今でいえば数千円もしたのだとか。私たちが笑いのネタにしていたあの「バナナは含まれますか」という問いの奥には、実は、そんな時代の名残がひそんでいたのかもしれません。 大きな転機は昭和三十八年(一九六三年)、バナナの輸入自由化でした。やがてフィリピン産が大量に出回り、冷蔵輸送やスーパーマーケットの普及も重なって、昭和五十年代には「普通に買える果物」になっていった。私が生まれる六年前に、バナナはもう「特別」を卒業していたわけです。 つまり、自由化の波は二度あったのです。私が生まれる前の、バナナ。そして十九歳のときの、牛肉とオレンジ。私の暮らしは、ちょうどその二つの波のあいだに、すっぽりと収まっていたことになります。 令和の渋谷で、いま あれから半世紀。NHKホールは今も渋谷・神南に立っています。途中、耐震補強などの工事でしばらく休館し、令和三年(二〇二一年)の紅白だけは東京国際フォーラムで行われたりもしましたが、また元の舞台に戻ってきました。あの日、息子と並んで見上げた天井も、きっと変わらずそこにあるはずです。 食卓のほうは、すっかり様変わりしました。オレンジも牛肉も、もう「特別」ではありません。バナナにいたっては、平成十六年(二〇〇四年)、ついに消費量でみかんを抜いて、日本の果物の一位になったのだそうです。オレンジを「みかん」だと思っていた子供だった私には、なんだか出来すぎた話のように聞こえます。 変わらずそこにあり続けたホールと、「特別」を「当たり前」に変えていった食べものたち。同じ六月二十日に、その両方の物語が静かに始まっていた。そして私はといえば、テレビの向こうにあったあの舞台に、自分の息子のおかげで、ようやくたどり着くことができたのです。変わるものと、変わらないもの。その両方を抱きしめながら、私たちは少しずつ年を重ねていくのでしょう。 あなたが、テレビでしか見たことのなかった場所に初めて実際に立ったのは、どこでしたか。そして、子供のころ「特別」だった食べものは、何でしたか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。あなたの思い出も、ぜひ聞かせてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった

June 20, 2026

6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた

梅雨入りの近い六月の朝。地上は今にも降り出しそうな鈍色(にびいろ)の空でも、地下鉄のホームへ降りてしまえば、雨も風も関係のない別世界がひろがっています。少しだけ埃(ほこり)っぽくて、生暖かい風がトンネルの奥からふわりと吹いてくる、あの感じ。きょう六月八日は、その地下鉄にまつわる、私のちょっと不思議な思い出の話をさせてください。 私にとっての「地下鉄」は、都営浅草線だった 私は京成高砂のあたりで育ちました。だから私にとって「地下鉄」というと、まっさきに思い浮かぶのは、都営地下鉄浅草線です。 高砂の駅から電車に乗って出かけるとき、行き先にはおおきく二つの方向がありました。ひとつは、京成上野のほう。もうひとつは、押上を抜けて都営浅草線へと入っていく、浅草のほうです。同じ高砂発の電車でも、上野へ向かうときと、浅草方面へ向かうときとでは、子どもながらに、何か明らかに違うものを感じていました。 上野方面が、どこか馴染みのある、地つづきの世界だとすれば、浅草方面は——その先で、ほかのいくつもの地下鉄の線と複雑に絡み合っている、「難しい」世界でした。日本橋だ、新橋だと、聞いたこともない乗り換えの駅がいくつも連なっていて、子どもの私には、その入り組んだ様子が、どうにも手に負えないものに見えたのです。 それでも、退屈はしませんでした。車両のなかに貼られた、いくつもの地下鉄の線が色とりどりに描かれた路線図。あれを眺めているだけで、目的の駅に着くまでの時間は、あっという間に過ぎていったのです。見たこともない駅の名前をひとつひとつ目で追いながら、「ここには、いったいどんな町があるのだろう」と、私は飽きもせず想像をふくらませていました。 いま思えば、そんな路線図の中に、あの黄色い線も、きっとあったはずです。行ったこともなければ、乗ったこともない。ただ眺めて、その先の町を空想するだけの、一本の線として。 昭和六十三年六月八日、黄色い線が全部つながった その黄色い線が、ついに端から端までひとつながりになったのが、昭和六十三年(一九八八年)の六月八日でした。 この日、営団地下鉄有楽町線の新富町〜新木場間が開業し、和光市から新木場までの全線、二十八・三キロが開通したのです。昭和四十九年(一九七四年)に池袋〜銀座一丁目の区間が開業してから、実に十四年越しの全線開通でした。ラインカラーは、あの黄色。湾岸の埋め立て地・新木場までが、一本の線でようやく都心と結ばれた瞬間でした。 そういえば、この「有楽町線」という名前そのものが、公募で決まったものだと知ったのは、ずっとあとのことでした。開業の前の年、営団地下鉄が路線名を広く一般から募ったところ、二千五百を超える案、三万通あまりもの応募が寄せられたのだそうです。そのなかでいちばん多かったのが「有楽町線」だった。子どものころ、あの黄色い線をただ眺めていた私には、線の名前ひとつにも、どこかの誰かの「こう呼びたい」という思いがこもっていたなんて、思いもよらないことでした。 終点の「新木場」という地名も、考えてみれば面白いものです。もともと江東区には材木商が集まる「木場」という街がありました。その木材の街が、手狭になった都心から湾岸の埋め立て地へと移ってできたのが「新しい木場」、すなわち新木場なのです。当時はまだ、貯木場の水面と倉庫が広がる、発展のこれからという土地でした。そこへ地下鉄が一本通った。海の近くの埋め立て地にまで、都心の地下鉄が手を伸ばしてきたのです。 このとき、私は十九歳。昭和という時代も、いよいよ最後の年に差しかかっていました。正直に言えば、私はこのニュースを、たいして気に留めていませんでした。都営浅草線には親しんでいた私にとっても、有楽町線は、子どものころ車内の路線図でただ眺めていた、あの「行ったこともない一本」のままだったのです。 そしてこの黄色い線には、もうひとつ、私がのちのち驚かされることになる仕掛けがありました。西の端の和光市では、東武東上線と線路がつながっていて、電車はそのまま相手の線へと乗り入れていく。新木場を出た電車が、乗り換えなしで、はるか埼玉の森林公園のほうまで走っていくのです。この「乗り換えなし」という何でもない事実が、それから十数年後、思いがけず私の胸を打つことになります。 新木場で気づいた、母へ続く一本の線 時は流れ、私は三十代になっていました。縁あって佐川急便に勤め、配属されたのが、よりによって、あの新木場の営業所だったのです。 そう、昭和六十三年にようやく全線がつながった、あの有楽町線の終着駅です。十九歳の私が聞き流していた街に、まさか自分が毎日通うことになるとは、思ってもみませんでした。荷物に追われる日々のなかで、新木場という地名が、かつてニュースで聞いた「全線開通」の終点だったことなど、すっかり忘れていました。 朝早くから、トラックが何台も出入りし、伝票の束と荷物の山に追われる毎日でした。湾岸の埋め立て地は海の風が強く、冬はことさら冷えました。それでも昼休みにふと外へ出ると、すぐそこまで水辺が迫っていて、ここはやっぱり海を埋め立ててできた街なのだな、と妙に納得したものです。子どものころ路線図の上で眺めていた「新木場」という三文字の終点に、まさか自分が毎朝、汗をかきながら立っているとは——人生というのは、つくづく分からないものです。 ある日のこと。新木場駅に掲示されていた路線図を、何の気なしに眺めていて、私はふと手が止まりました。 「この線……一本で、川越まで行けるのか」 当時、母は川越に住んでいました。新木場から有楽町線に乗れば、和光市で東武東上線へとそのまま乗り入れ、川越まで、乗り換えなしでたどり着いてしまう。あの、子どものころ車内の路線図で眺めては「どんな町だろう」と空想していた黄色い線の、ずっと先に、母の暮らす街がつながっていた。気づいた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなったのを覚えています。 実際に私は、数えるほどではありますが、仕事を終えたその足で、職場から川越の母のもとへ向かったことがあります。東京湾の埋め立て地にある終着駅と、小江戸と呼ばれる川越の母の家。一見すると何の関わりもない二つの場所が、一本の黄色い線でまっすぐに結ばれている。揺られていく車内で、私は妙な感慨にとらわれていました。 窓の外を流れていく景色が、地下のトンネルから、やがて地上の住宅街へと変わっていく。海辺の終着駅を出た電車が、いつのまにか埼玉の街並みを走っている。その車窓の移り変わりそのものが、新木場と川越という遠く離れた二つの場所が、確かにひと続きの土地なのだと、目で教えてくれているようでした。 十九歳のとき、私が気にも留めなかったあの全線開通。それが巡り巡って、三十代になった私と、母とを結ぶ一本の道になっていた。子どものころ車内の路線図を眺めて「どんな町だろう」と空想していた黄色い線は、ずっと先のずっと先で、ちゃんと私自身の暮らしへとつながっていたのです。眺めるだけだったあの線に、いつのまにか私は、毎日乗っていた。 令和の電車は、もっと遠くまでつながっている あれから、東京の鉄道は、ますます複雑に、そして遠くまでつながりました。 いくつもの路線が互いに乗り入れ、横浜のずっと向こうから都心を抜け、さらに別の県へと、一本の電車が県境をいくつも越えて走っていく。今では、それが当たり前の風景です。手元のスマートフォンに行き先を打ち込めば、最短の経路が一瞬で表示される。乗り換えの回数も、何分後に着くかも、すべて画面が教えてくれます。私の子どもたちは、私のように路線図とにらめっこして、見知らぬ駅名に空想をふくらませることも、もうないのかもしれません。 便利になったぶん、あの新木場での小さな驚き——「この線、母までつながっていたのか」というあの感覚は、いまではかえって味わいにくくなった気もします。経路を教えてくれる矢印は、たしかに便利です。けれど、地図の上の一本の線が、いつのまにか自分の大切な人へとまっすぐ続いていたと気づく、あの胸の奥がふっと温かくなる驚きまでは、運んできてはくれないのですから。 地図の上のただの一本の線が、めぐりめぐって、自分の大切な人へとつながっている。そんなことに気づく瞬間が、人生にはときどき、ふいに訪れるのですね。 あなたの暮らしの地図にも、知らないうちに、誰かと自分とを結んでいた「一本の線」は、ありませんか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと | 次の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す ▶

June 8, 2026