昭和の今日は何があった日? ―5月26日―

5月26日 ― 高速の夢と、海辺の悲劇 昭和の5月26日という日付には、まるで表と裏のように、ふたつのまったく違う出来事が刻まれている。 ひとつは、日本中が前向きな興奮に沸いた日。もうひとつは、晴れた海辺で突然に悲劇が訪れた日。どちらも昭和という時代の、正直な顔だと思う。 「東名」が全部つながった ― 昭和44年5月26日 1969年(昭和44年)のこの日、東名高速道路が全線開通した。 東京インターチェンジから愛知県の小牧インターチェンジまで、約346キロ。それまで国道1号線を使えば東京から名古屋まで9時間半かかっていたのが、一気に5時間を切るようになったという。足柄サービスエリアで記念式典が行われ、建設を支えた外国人技術顧問たちも出席して全線を走り抜けたと記録されている。 私が生まれたのは、この年の4月だ。つまり東名が全線つながったのは、私の誕生からわずか1ヶ月後のことになる。生まれた直後の日本で、こんな一大事が起きていたとは、調べてみるまで知らなかった。 もちろん、生後1ヶ月の私にその意味がわかるはずもない。 そして正直に言えば、「東名高速でドライブ」というのは、私の子ども時代には縁遠い話だった。父の休みといえば、まとまって休めるのは正月の1日と2日だけ。あとは週に一度、平日に休みがあるだけだった。家族がそろう日曜日に父がいる、ということ自体がなかった。だから家族みんなで出かけるという機会は、ほとんどなかった。自家用車を持てるほどの余裕もまだなかった。 宿泊旅行など、したことがなかった。 でもそれは、私の家だけの話ではなかったと思う。周りの友達の家も、似たようなものだった。父が必死で働いてくれているのは、子どもながらにわかっていた。だから「どうして旅行に行かないの」とか「なんで車がないの」なんて、口に出したことは一度もない。それは「高嶺の花」であって、羨むものでもなかった。そういう時代だった。 東名高速道路・厚木インターチェンジ付近。背景に大山を望む。昭和44年のこの日、この道がつながった。(Photo: Σ64 / CC BY-SA 3.0) ただ、テレビのニュースに映る東名高速の映像は、なんとなく覚えている。ずらりと並ぶクルマ、広いサービスエリア、富士山を背景にした高速の風景。画面の向こうの話ではあったけれど、「いつかはああなりたい」という気持ちを、国民みんなが抱いていたのかもしれない。豊かになっていくことへの期待と意欲を、あの時代のテレビはうまく掻き立てていたように思う。 昨年の夏、大阪まで それから半世紀以上が経った。 昨年の夏、私は子どもたちを車に乗せて、3泊4日の大阪旅行に出かけた。自宅近くの首都高の入口から乗って、一度も高速を降りることなく大阪まで着いてしまった。一昨年の夏は5泊6日で福井まで行ったが、やはりすべて高速道路でつながっていた。 ハンドルを握りながら、何度か不思議な気持ちになった。 これだけの距離を、これだけ快適につないだ道を、誰かが作ったのだ。山を削り、川に橋をかけ、トンネルを掘り、何年もかけて。あの昭和44年の式典に出席した技術者たちが、その最初の大仕事をやり遂げた。そう思うと、先人たちの仕事への畏怖と感謝が、運転しながら自然と湧いてきた。 そしてもうひとつ、胸の奥にあたたかいものが来た。 私が子ども時代にできなかった「家族旅行」を、今、自分の子どもたちとしている。それは私だけが特別になったわけではない。あの時代から少しずつ、多くの家族が同じことをできるようになった。問題がないわけではないけれど、それでも私たちは「豊かになっている」と実感できる。その豊かさは、必死で産み育ててくれた父と母の上に積み重なっているものだ、と思ったら、感謝の気持ちが溢れてきた。 そしてふと思った。数十年後、私の子どもたちはどんな時代に、どんなことを思い返すのだろう。その想像が、なんだかとても楽しかった。 遠足の海辺で ― 昭和58年5月26日 ところでこの5月26日には、もうひとつ忘れてはならない出来事がある。 1983年(昭和58年)の午前11時59分。秋田県の沖合を震源とするマグニチュード7.7の大地震が起きた。「日本海中部地震」だ。 揺れ自体は震度5。しかし地震の数分後、日本海沿岸に最大6メートルを超える津波が押し寄せた。死者104人のうち、100人が津波で命を落とした。 その中に、遠足中の小学生たちがいた。 秋田県の合川南小学校の4年生と5年生が、2台のバスで男鹿半島の加茂青砂海岸を訪れていた。バスの中で揺れが収まるのを待ったあと、海岸に降りてお弁当を広げようとした瞬間、津波がきた。13人の子どもたちが波にのまれた。 昭和58年、私は14歳だった。同じ5月の晴れた日、遠足でお弁当を広げようとしていた子どもたち。その光景を想像するだけで、言葉が出ない。 1983年(昭和58年)5月26日・日本海中部地震の震度分布図。津波で104人が犠牲になった。(出典:気象庁 / CC BY 4.0) 日本海側では津波の経験が少なく、地震のあとに海へ近づいてはいけないという意識が広まっていなかった。それが被害を大きくした。この地震を機に、日本では津波防災教育が大きく変わっていった。 それでも、2011年の東日本大震災では、日本海中部地震とは比較にならないほどの津波が三陸沿岸を飲み込み、二万人近い命が失われた。教訓を積み重ねてきたはずの私たちが、また大自然の前に立ち尽くした。 人間の生み出す力は偉大だと思う。東名高速道路のように、山を削り、川に橋をかけ、何年もかけて道をつなぐ。そういう力を、私たちは確かに持っている。しかし大自然の前では、その力が幾度となく無力になる瞬間がある。絶望を知り、それでも立ち上がり、また前へ進む。日本という国は、そうやってここまで来た。 これからも、きっとそうやって進んでいくのだと思う。 同じ日付に、ふたつの昭和 高速道路の開通に沸いた昭和44年と、遠足の子どもたちが津波に飲み込まれた昭和58年。 同じ5月26日に、まるで違う昭和がある。前に進む喜びと、自然の前での人間の無力さ。どちらも昭和という時代が正直に刻んだ記録だ。 あなたにとって、昭和の5月はどんな思い出が残っているだろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった ▶

May 25, 2026