【昭和の今日は何があった日?】7月21日──『太陽にほえろ!』が始まった日、金曜夜八時の十四年

1972(昭和47)年7月21日、金曜日の夜八時。日本テレビで『太陽にほえろ!』の第一回が放送されました。 私はこのとき三歳三か月。もちろん記憶にございません。ですが番組が最終回を迎えた1986(昭和61)年11月14日、私は高校二年生でした。全718回、足かけ十四年四か月。要するにこの番組は、私の子供時代とほぼ同じ長さだけ、金曜の夜八時を走り続けたことになります。 いま調べてみると、この番組には放送当時の子供が知るはずもない「裏側」が山ほどありました。今日はそれを掘ってみます。 なぜ「7月21日」という半端な日に始まったのか テレビの新番組といえば四月か十月に始まるものです。なぜ夏の、しかも七月二十一日という中途半端な日だったのか。 理由はドラマではなく、プロレスにありました。 金曜夜八時は、力道山の時代から日本テレビのプロレス枠でした。三菱電機一社提供の『三菱ダイヤモンド・アワー』。ところが1972年4月、NET(現在のテレビ朝日)が両局の協定を破ってジャイアント馬場の試合を中継してしまいます。激怒した日本テレビは5月12日の放送を最後に、十八年続けてきたプロレス中継を打ち切りました。 そこから約二か月、『日本プロレス選手権特集』という名勝負集でつなぎ、その後番組として7月21日に始まったのが『太陽にほえろ!』だったのです。スポンサーも同じ三菱電機のまま。 つまりこの刑事ドラマは、プロレス界のゴタゴタが生んだ代替番組でした。七月という変則スタートはその名残です。そしてこれには思わぬ副作用がありました。俳優との年間契約も七月起点になったため、若手刑事の降板──すなわち殉職が、夏に集中することになったのです。マカロニ刑事が1973年7月13日、ジーパン刑事が1974年8月30日、テキサス刑事が1976年9月。あの夏の風物詩のような殉職ラッシュには、こんな事務的な理由がありました。 さらに面白いのは、追い出された側のプロレスの行方です。新日本プロレスの『ワールドプロレスリング』が金曜夜八時に定位置を構えたのは1973年4月から1986年9月まで、十三年六か月。つまり『太陽にほえろ!』は、ほぼ全期間にわたって猪木と視聴率を争い続けたことになります。のちにTBSの『3年B組金八先生』も加わって、石原裕次郎・アントニオ猪木・武田鉄矢の三つ巴。金曜夜八時が「戦国時代」と呼ばれた所以です。 十三話で辞めるはずだった「ボス」 藤堂係長を演じた石原裕次郎は、日活黄金期のトップスターでした。しかしテレビの普及で映画は斜陽となり、1963年に設立した石原プロモーションの経営は次第に悪化していきます。 裕次郎がテレビドラマにレギュラー出演したのは、この事務所の経済的事情から東宝と日本テレビの説得に応じた結果だったといいます。しかも当初は「十三話まで」という約束でした。 十三話になり、予定どおり降板しようとした裕次郎を引き止めたのは、まき子夫人と、ゴリさんこと竜雷太たちだったそうです。 もしここで本当に降板していたら、と考えると少し背筋が寒くなります。番組の大ヒットでテレビの力を知った裕次郎は、のちに『大都会』シリーズ、『西部警察』シリーズを世に送り出しました。あの土曜夜八時の派手な爆破シーンも、まき子夫人の引き止めがなければ存在しなかったかもしれません。 「殉職」という発明は、事故から生まれた 当初の構想では、新人のマカロニ刑事こと早見淳を主人公にした「青春アクションドラマ」として、彼の成長を描いていく予定でした。 ところが一年を迎えるころ、演じる萩原健一から降板の申し出が出ます。この作品で自分のキャラクターが固まってしまうのが嫌だった、というのが理由でした。しかも本人の希望は「劇中で死にたい」。 そこで用意された最期が、あれです。非番の日、空き地で立ち小便をしている最中に、小銭目当ての通り魔に刺される。ヒーローらしさの欠片もない、あっけない死。厳密に言えばこれは殉職ですらありません。撮影されたのは当時まだ空き地だらけだった新宿西口で、その場所には現在、新宿野村ビルが建っています。 主人公が消えても番組は終わりませんでした。後任に据えられたのが、当時まったくの新人だった松田優作。ジーパン刑事です。これが当たり、視聴率は常時二十パーセントを超え、ついに三十パーセントを突破します。撃たれてから絶命するまでのあの絶叫は、台本には存在しない松田のアドリブだったと伝わっています。 そして1976年9月、テキサス刑事の殉職回はニールセン調べで42.5パーセントという番組最高視聴率を記録しました。四割です。日本中がひとつの刑事の死を見ていた。 ちなみに記念すべき第一話のゲスト出演は、若き日の水谷豊。第二十話は沢田研二でした。 もうひとつ。この番組がやたらと走るドラマになったのは、初期の中心監督だった竹林進が「人間のもっとも美しい姿は、一生懸命走る姿である」という考えの持ち主だったからだそうです。歴代の若手刑事たちが走った距離を合計すると地球を一周する、とまで言われました。 面白さが、わからなかった 七曲署の刑事たちの生き死にを、自分の学年と並べてみます。 小学一年の秋、テキサスが殉職(1976年9月) 小学四年の夏、ボンが殉職(1979年7月) 小学五年の夏、殿下が事故死(1980年7月) 小学六年の冬、スコッチが病死(1982年1月) 中学一年の秋、ゴリさんが殉職(1982年10月) 高校一年の夏、ラガーが殉職(1985年8月) 高校二年の春、山さんが殉職(1986年4月) ただし、この全部を観ていたわけではありません。私が金曜夜八時の前に座っていたのは、このうちの真ん中あたり、ほんの数年間です。 きっかけは友達でした。小学二年生のとき、一つか二つ年上の友達から「『太陽にほえろ!』というドラマがおもしろいぞ」と聞いて観はじめたのです。生まれて初めて、刑事ドラマというものを真剣に観ようと思った作品でした。 ところが、正直に言えば、面白さがわかりませんでした。 事件が起きて、大人たちが走って、誰かが撃たれる。それの何が面白いのか、八歳の私にはさっぱり掴めなかったのです。それでも友達との会話では話を合わせて「面白かった」と言っていたのですから、我ながらいじらしい(笑)。 それが、観続けているうちに、いつのまにかはまってしまった。これが本当のところです。 再放送と記憶が混ざってしまってはっきりしないのですが、金曜夜八時にリアルタイムで追いかけた新人刑事は、ボンからだったのではないかと思います。あとから年表と照らし合わせてみると、私が小学二年生だった1977年から78年ごろ、七曲署にいた新人刑事はたしかにボンでした。辻褄は合っているようです。 そして、ラガー刑事の登場は鮮明に覚えています。小学六年生の秋のことでした。 けれども不思議なもので、私がいちばん好きだった刑事は、リアルタイムでは一度も観ていません。再放送で観たジーパン刑事──松田優作です。あの殉職シーンは、どうしようもなく悲しくなりました。 台本になかったあの絶叫が、松田優作のアドリブだったと知ったのは、ずっと後のことです。 ボスの、最後のアドリブ 裕次郎は1981年4月に入院し、しばらく画面から姿を消します。1986年5月には再入院となり、このときは代行として渡哲也が七曲署に配されました。 やがて裕次郎自身から「健康な状態での復帰は望めない」として降板の申し出があり、番組の円満終了が決まります。そして最終回、第718話「そして又、ボスと共に」にだけ、ボスは帰ってきました。 殉職の危機にある澤村刑事を救うため、犯人の妹を取り調べる。この場面のセリフは、裕次郎のアドリブだったと言われています。 五年前に心臓を切る手術をした──という、現実の自分と重なる話をし、医者に止められているはずの煙草を口にしてみせ、そしてこれまでに亡くなった刑事たちの中から、スコッチの名を挙げました。 スコッチを演じた沖雅也は、このときすでにこの世にいませんでした。数ある殉職刑事の中からあえてその名を選んだのは、偶然ではなかったのだろうと思います。 これが石原裕次郎にとって、最後のドラマ出演となりました。 金曜夜八時を、私のほうが先に降りた 最終回のころには、私はすでに『太陽にほえろ!』を卒業していました。 おそらく中学に入ったあたりから、私の金曜夜八時はアントニオ猪木に移っています。つまり十四年にわたって視聴率を奪い合った二つの番組のあいだで、私自身が乗り換えた一人だったわけです。あれほど熱心に観ていたのに、山さんが殉職したことも、ボスが最終回だけ帰ってきたことも、当時の私は知りませんでした。 ...

July 21, 2026