6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日
六月の夕方五時すぎ。梅雨どきの空はまだ十分に明るくて、子どもたちは外遊びから帰ってくるか、家のテレビの前に座りこんでいる時間です。台所からは、お母さんの包丁の音と、煮物の匂い。お父さんはまだ会社。ちゃぶ台に夕飯が並ぶまでの、あの何でもない時間。昭和の、ごくありふれた月曜日の夕方でした。 昭和五十三年(一九七八年)六月十二日、午後五時十四分。その当たり前の時間を、突然の大きな揺れが襲いました。宮城県沖地震です。 その日、東京も揺れた 地震の規模はマグニチュード七・四。震源は宮城県の沖合、深さ約四十キロ。仙台などで当時の基準の震度五を観測し、揺れは東北地方を中心に、北海道から関東、中部、近畿あたりまで、列島のほぼ半分に及びました。 そして東京も、震度四。私は当時九歳、小学三年生です。葛飾の家にも、あの揺れは確かに届いていたはずなのです。 九歳の私に、揺れそのものの記憶は、正直なところ残っていません。けれど、その夜のニュースと翌朝のテレビは、はっきりと覚えています。倒壊した建物やブロック塀の映像が、何度も何度も繰り返し流れていました。なかでも忘れられないのが、一階部分がぺしゃんこに押しつぶされたビルの映像です。パチンコ店が入っていた雑居ビルが、上の階の重みでつぶれている。建物というのは、ああいうふうに「潰れる」ものなのか。九歳の目に焼きついたあの映像は、半世紀近くたったいまも、鮮明に思い出すことができます。 夕方五時十四分という時刻を、いま改めて考えてみます。学校から帰って、ランドセルを玄関に放り出して、原っぱや路地での遊びからそろそろ戻ってくる時間。各家庭がこれから夕飯の支度にとりかかる、その入り口の時間帯です。あの地震は、そういう「暮らしのまんなか」を直撃したのでした。 それでも、恐れられていた火災は、仙台市内でわずか八件と、事前の予測を大きく下回りました。「地震が来たらまず火の始末」という意識が市民に根づいていたこと、初夏で暖房を使っていなかったこと、そして本震の八分前に小さな前震があり、火を消した家庭が多かったこと。昭和の合言葉「地震だ、火を消せ」が、本当に機能した地震だったのです。 ブロック塀が、子どもたちの通学路で 宮城県沖地震では、東北全体で二十八人の方が亡くなり、負傷者は一万人を超えました。住宅の全半壊は七千棟以上。ただ、この地震が後の日本に残した教訓は、被害の数字そのものより、犠牲の「出かた」にありました。倒れた家屋の下敷きになった方よりも、ブロック塀や石塀、門柱の倒壊に巻き込まれて亡くなった方のほうが、ずっと多かったのです。 ブロック塀は、昭和の住宅地の風景そのものでした。私が育った葛飾の下町も、細い路地の両側にブロック塀や万年塀が連なっていて、子どもたちは毎日その脇を歩いて学校に通っていました。塀の上を歩いて怒られた子、塀の穴から隣の家の犬をのぞいた子。あれほど暮らしに馴染んでいたものが、ひとたび大きく揺れれば凶器になる。誰もがうすうす知っていながら、誰も真剣に考えてこなかったことを、この地震は突きつけました。 もうひとつ、この地震が初めて見せたものがあります。「大都市の地震」です。当時の仙台は人口五十万を超える大都市で、丘を切りひらいた新しい住宅団地がどんどん広がっていた時代でした。被害はその新興住宅地に集中し、都市ガスの復旧には約一カ月。電気、水道、電話という、都市の暮らしを支える線がいっせいに切れたとき何が起きるのか。日本が初めて目の当たりにした「都市型地震」だったと言われています。 この教訓から、昭和五十六年(一九八一年)に建物の耐震基準が大きく見直されました。いまも不動産の世界で使われる「新耐震」「旧耐震」という言葉。その境目を作ったのが、この宮城県沖地震なのです。発生日の六月十二日は、いまも宮城県の「県民防災の日」とされ、毎年この日に防災訓練が行われています。仙台のラジオ局では、毎日夕方五時十四分になると「宮城県沖地震が発生した時刻です」と伝える番組があるそうです。四十八年たっても、あの時刻は忘れられていないのです。 大人になって、震災は「見るもの」ではなくなった 九歳の私にとって、震災はテレビの中の出来事でした。けれど大人になるにつれ、それは少しずつ、自分の側へ近づいてきます。 平成七年(一九九五年)一月十七日、阪神・淡路大震災。私は二十五歳でした。冬の早朝、まだ眠っている都市を直下の揺れが襲い、高速道路が横倒しになり、六千四百人を超える方が亡くなりました。崩れた建物の多くが「旧耐震」の時代に建てられたものだったと、後の検証は伝えています。宮城県沖地震が残した宿題は、まだ終わっていなかったのです。朝のテレビが映し出した、横倒しの阪神高速。あの一枚の画は、「都市は地震に勝てるはずだ」という、私たちがどこかで抱いていた思い込みを、根こそぎ崩していきました。このときの私はまだ、九歳のあの日と同じように、画面のこちら側にいました。 そして平成二十三年(二〇一一年)三月十一日、東日本大震災。四十一歳の私は、もう画面のこちら側にはいませんでした。当時の私は路線バスの運転手で、あの日も乗務中だったのです。 走っているバスのハンドル越しにも、はっきりとわかる強い揺れでした。バスを路肩に停め、揺れが収まるのをじっと待つ。お客様を乗せたまま、車内で過ごしたあの数分間の長かったこと。やがて揺れが収まり、運行を再開しましたが、本当の異変が始まったのは、夕方の帰宅ラッシュからでした。 鉄道がすべて止まっている。動いているのは、バスとタクシーだけ。そこへ、家族を迎えに行く車が都内へどっと流れ込み、道路は身動きのとれない大渋滞になりました。私のバスは営業に出たまま、その渋滞のただなかに、お客様を乗せたまま立ち往生したのです。歩道には、家路を歩く人の列が夜まで途切れることなく続いていました。結局、車庫に戻れたのは、日付が変わった夜中の三時頃だったと記憶しています。 九歳のとき、テレビ画面のこちら側から見ていた震災。その三十三年後、私は人を家へ運ぶ側として、震災の夜の中にいました。震源は皮肉にも、あの日と同じ「宮城県沖」を含む、東北の太平洋沖。同じ海が、規模も性質もまるで違う災害を、同じ土地に、そして今度は私自身の一日に、もたらしたのです。 令和のいま、「次」は三つ指折り数えられている そして令和の今、関東に暮らす私たちは、専門家から「次」の候補をはっきり示されています。 ひとつめは、首都直下地震。マグニチュード七クラスの地震が今後三十年以内に起きる確率は、七十パーセント程度とされています。私たちの足元で、いつ起きてもおかしくないと言われ続けている、いちばん身近な脅威です。 ふたつめは、南海トラフ巨大地震。令和七年(二〇二五年)に確率の算出方法が見直され、三十年以内の発生確率は「六十〜九十パーセント程度以上」と「二十〜五十パーセント」というふたつの数字が併記されることになりました。数字に幅はあっても、「可能性が高い」という評価そのものは変わっていません。 そしてみっつめが、相模トラフの巨大地震。百年余り前、大正十二年(一九二三年)の関東大震災を起こした、関東の足元のプレート境界です。十万人を超える犠牲の多くが火災によるものだったあの震災は、私たちの祖父母の世代にとっての「地震」の原風景でした。「地震だ、火を消せ」という昭和の合言葉も、九月一日の防災の日も、もとをたどればこの震災に行き着きます。相模トラフの巨大地震そのものは数百年単位の間隔と考えられていますが、首都直下のマグニチュード七クラスは、その大きな地震に向かう過程で起きやすくなるとも言われています。 数字を並べると、正直、少し怖くなります。けれど思い出したいのは、宮城県沖地震からの四十八年間、日本がただ怯えていたわけではない、ということです。ブロック塀の点検が始まり、耐震基準が変わり、緊急地震速報が生まれ、学校の防災訓練は当たり前になった。いまでは揺れが来る数秒前に、ポケットの中のスマートフォンが一斉に鳴って教えてくれます。昭和五十三年のあの日、何の前触れもなく夕方の台所を襲った揺れのことを思えば、隔世の感があります。九歳の私たちが経験した「夕方五時十四分」は、決して無駄にはなっていないのです。 今夜、寝る前に、寝室の家具の置き方をひとつ見直してみる。水のペットボトルを一本、買い足しておく。それが、昭和五十三年六月十二日の揺れを知っている世代の、ささやかな務めなのかもしれません。 みなさんには、忘れられない地震の記憶がありますか。子どもの頃にテレビで見たもの、大人になって自分の身に起きたこと。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と | 次の記事:6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった ▶