6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた

六月十六日。梅雨のただ中、長靴と傘がランドセルの相棒になる季節です。カレンダーの記念日欄を見ると、きょうは「和菓子の日」。そしてもうひとつ、私たちの世代にとっては見逃せない記念日が、そっと並んでいます——「スペースインベーダーの日」です。 昭和五十三年(一九七八年)の六月十六日、当時のタイトー本社ビルで、一台のテレビゲームの新作発表会が開かれました。その名は『スペースインベーダー』。開発したのは西角友宏さんという技術者です。画面の上から迫りくる宇宙人を、自分の操るビーム砲で迎え撃つ——いまでは当たり前の「自分で撃ち返せる」という双方向のおもしろさを、世に知らしめた一台でした。同年七月ごろから全国へ出荷されると、それはもう、文字どおり日本中を侵略していきます。 きょうは、その「侵略」を、いちばん下っ端の小学生として迎え撃った——いや、迎え撃てずに、ただ眺めていた私の話です。 イトーヨーカドーの、踊り場の一台 記憶を掘り起こしてみます。私とインベーダーの最初の出会いは、よく語られる喫茶店のテーブル型の筐体ではありませんでした。 イトーヨーカドーの、一階と二階をつなぐ階段。その中間にある踊り場に、立ったままプレーするタイプの大きな筐体が、ぽつんと一台、置かれていたのです。ブラウン管を上から覗き込む、背の高い箱型のやつです。喫茶店のテーブルに埋め込まれた、あの寝そべったような筐体を知ったのは、ずっとあとのことでした。 当時の私は小学三年生。正直に白状すると、一ゲームいくら、というあの金額は、三年生の小遣いではそうそう出せるものではありませんでした。けれど、興味のほうはバリバリにあったのです。だから私はどうしたか。プレーしている上級生のすぐ後ろに陣取って、画面を食い入るように見ていました。自分の百円玉ではない、誰かの一機が右へ左へ動くのを、まるで自分が動かしているような顔をして、ただ見ていたのです。 あの、ズン、ズン、ズン、ズン……と地鳴りのように響く、インベーダーが一歩ずつ近づいてくる音。敵の数が減るほどにテンポが速くなって、こちらの鼓動まで一緒に速くなっていく、あの独特の音。五列に並んだ五十五匹の宇宙人と、ときおり画面の上をすーっと横切る赤い円盤(あれを撃ち落とすと点が高いのだと、上級生が教えてくれました)。踊り場の薄明かりの中でぼうっと光るその画面を、私はいったい何度、よそのお兄さんの肩越しに見上げたことでしょう。 いま思えば、おかしな話です。そもそもイトーヨーカドーというのは、当時の私たちにとって、子どもだけで出入りしてはいけないことになっている場所でした。それなのに、私はちゃっかり行っちゃっているわけです。そして、後ろから覗かせてもらっていた上級生たち——彼らだって、しょせんは小学生です。それが何回も、何回も百円玉を投入していく。あの軍資金は、いったいどこから出ていたのか。当時は「すごいなあ」と思って見ていましたが、いざ自分が親の立場になって考えてみると、よくもまあ、と苦笑いするしかありません。 百円玉が、日本から消えた夏 私が踊り場で指をくわえて見ていたころ、世の中では、とんでもないことが起きていました。 それまでのテレビゲームといえば、画面の壁をボールで崩していく『ブロック崩し』のようなものが主流でした。ところがインベーダーは、向こうから攻めてくる。こちらが撃つ。撃ち返される。やられる——。腕を上げれば上げるほど長く生き延びられて、もっとやりたくなる。この「上達していく手応え」と「迎え撃つ緊張感」こそが、それまでのゲームにはなかった魔力でした。喫茶店でコーヒー一杯の値段で何十分も粘る大人が続出し、社会問題のように語られたほどです。 『スペースインベーダー』の人気は、喫茶店にテーブル型の筐体を持ち込ませ、やがてゲーム機ばかりを並べた「ゲーム喫茶」や、店員すらいない二十四時間営業の「インベーダーハウス」まで生み出していきます。コーヒーを飲む店だったはずの喫茶店が、いつのまにかテーブルという卓上が光る箱に置き換わっている。そんな光景が、日本中に広がっていきました。「インベーダー」は、その年の流行語になりました。なかでも語り草になっているのが、百円玉の話です。あまりに多くの百円玉がゲーム機の中に吸い込まれていったため、世間で百円硬貨が足りなくなり、日本銀行がふだんの三倍ほどの量を世に送り出した——そんな記事が新聞に載るほどだったといいます。 そんな熱狂のなかで、高得点を狙うつわものたちが編み出したのが、攻略法の元祖とも呼ばれる「名古屋撃ち」でした。インベーダーが最下段の一歩手前まで攻め込んでくると、なぜか敵の弾が自分のビーム砲をすり抜けて当たらない——もとはゲームの不具合(バグ)だったその仕様を逆手に取り、ぎりぎりまで引きつけて撃ちまくる、という技です。名前の由来は「名古屋で広まったから」とも、「あと一段で〝終わり〟、それと〝尾張(名古屋)〟をかけた」とも言われますが、本当のところは、いまもって誰も知らないのだそうです。 三十円、十円。ようやく私の番が来た さて、踊り場で見ているだけだった私にも、ちゃんと順番が回ってくる日が来ます。 世の中に次々と新しいゲームが登場すると、インベーダーは少しずつ「古いゲーム」になっていきました。すると、あれほど強気だったプレー代が、一気に下がりはじめるのです。五十円、三十円、そしてついには十円なんていう値札まで現れました。そうした型落ちの筐体を、倉庫のような建物に所狭しと並べた——いわゆる倉庫型のゲームセンターが、あちこちにできました。薄暗くて、どこか秘密基地めいていて、子どもにはほんの少しだけ背伸びが必要な場所。それでも十円玉一枚で遊べるとなれば、私たちにとっては立派な天国でした。 そこで、ようやく私にも、遊ぶことができるようになったのです。十円玉を握りしめて。あの踊り場の上級生たちが百円玉を惜しげもなく入れていた、その同じゲームを、私は数年遅れの十円で、心ゆくまで撃ちました。 もちろん、後ろから見て覚えた攻略法も、ここぞとばかりに使いました。敵が最下段の一歩手前まで降りてきたところを、端から順に狙い撃つ「名古屋撃ち」。そしてもうひとつ、群れの真ん中の列を一気に撃ち抜く技——私たちの界隈では、これを「新宿撃ち」と呼んでいました。ところがあとで知ったのですが、同じこの技、地域によっては「京都撃ち」とも「中央突破」とも呼ばれていたそうです。携帯電話もインターネットもない時代、攻略法は友だちから友だちへと口づてに伝わり、その途中で、町ごとに勝手な名前がついていったのです。同じ撃ち方なのに、隣の町では別の名前で呼ばれている。いま思えば、それもまた、ずいぶんのんびりとした、いい時代の話です。 背伸びして眺めていた憧れに、自分の指で、やっと追いついた瞬間でした。数年越しの片想いが、十円玉一枚でようやく実った——そんな気分だったように思います。 令和の子どもは、「見ているだけの時間」を知らない 時代は変わりました。 いまの子どもたちは、ゲームをするのに、お金を握りしめて家を出る必要がありません。スマートフォンの中に、家庭用ゲーム機の中に、無数のゲームが入っていて、その多くは、始めるだけならお金もかからない。上級生の背中越しに覗き込む必要も、十円玉が貯まるのを待つ必要も、ないのです。 それは間違いなく、豊かで、いい時代です。私だって、もし子どもの頃にそんな環境があったら、諸手を挙げて喜んだことでしょう。けれど、と私はつい思ってしまうのです。あの、一ゲームが出せなくて、ただ見ていた時間。誰かのプレーを食い入るように見つめて、技を盗んで、いつか自分も、と焦がれていたあの時間。あれはあれで、悪くないものだったな、と。 欲しいものがすぐ手に入らない。だから、よその上級生の背中越しに憧れ、十円玉が貯まるのをじりじりと待つ。手が届かないからこそ、あの踊り場の小さな画面の光は、あんなにもまぶしく見えたのかもしれません。いまの子どもたちには、あの「待っているあいだの時間」だけは、もう手に入らない宝物なのかもしれない——そんなことを、つい考えてしまうのです。 現に、わが家でもゲームに夢中になっている子どもを見て、私はつい「ゲームばっかりやって……」と、口では文句を言ってしまいます。ところが内心はどうかというと、「わかるわかる」と全力でうなずいている自分がいる。それどころか、母親が渋い顔で様子をうかがっているのに気づくと、心の中でこっそり「おい、ママの目があるんだから、もっと上手くやれ」と、すっかり子どもの肩を持っている始末です。叱る側に回ったはずなのに、気持ちのほうは、あの踊り場で背伸びをしていた頃から一歩も動いていない。我ながら、おかしくなってしまいます(笑)。 考えてみれば、子どもだけで入ってはいけないイトーヨーカドーに、ちゃっかり忍び込んでいたのも私でした。親の目を盗んで何かに夢中になる——それはどうやら、いつの時代も変わらない、子どもの特権のようです。 そういえば、あの「名古屋撃ち」を含む歴代のスペースインベーダーは、いまではNintendo Switchで、いつでも好きなだけ遊べます。十円玉も、上級生の背中も、もう要りません。あの頃の自分に教えてやったら、目を丸くするでしょうね。 スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション - Switchタイトー/1978年のオリジナルから歴代作品まで収録 Amazonで見る › あなたが初めてインベーダーに出会ったのは、どこの台でしたか。喫茶店のテーブルでしたか、駄菓子屋の店先でしたか、それとも私のように、デパートの踊り場あたりでしたか。一ゲーム、いくらでしたか。よかったら、あなたの「最初の一台」の思い出も、聞かせてください。 この「昭和の今日は何があった日?」シリーズでは、昭和四十年から六十四年までの出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。同じ時代を生きた方の「あの頃」の思い出やコメントも、ぜひお待ちしています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた | 次の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 ▶

June 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙

今日は5月9日、アイスクリームの日だ。 明治2年(1869年)のこの日、横浜・馬車道通りの「氷水屋」が日本で初めてアイスクリームを製造・販売した。当時の名称は「あいすくりん」。その値段、1人前2分。現代の価値に換算すると、およそ8000円。 8000円のアイスクリームだ。 幕末から明治の日本人がそれを口にしたとき、いったいどんな顔をしたのだろうか。冷たくて、甘くて、これまで食べたことのない何かが口の中に広がる。 その「8000円のあいすくりん」が、昭和の子どもたちの手の中に収まる10円や20円のアイスになるまでに、100年の歴史があった。 でも今日書きたいのは、その歴史よりも、もっと小さな話だ。 あの頃の、放課後のことを書きたい。 テーブルの上の、100円玉2枚 小学生の頃、1日のお小遣いは50円から100円だった。 学校から帰ると、母親の姿はなかった。パートの仕事に出ていたから、家の中はいつも静かだった。玄関を開けると、シンとした空気と、どこか懐かしいにおいがした。 ランドセルを下ろして台所に行くと、テーブルの上に必ずそれがあった。 簡単な手紙と、100円玉が2枚。 「おかえりなさい」という母の文字。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 それだけのことだ。長い言葉は何もない。でもあの100円玉2枚が、「今日も仕事に行ってくるけど、ちゃんとあなたたちのことを思っているよ」という母の気持ちそのものだったと、今になってわかる。 当時の私はそんなことを考えもしなかった。ただ100円玉を握りしめると、体の中に火がついたように外に飛び出したくなった。 プラバットとカラーボールを持って 玄関の横に置いてあったプラスチックのバットとカラーボールを手に取る。 昭和の子どもの定番の遊び道具だ。本物の木製バットは高くて危ないから、軽くて柔らかいプラスチック製のバットとゴム製のカラーボールがセットで売っていた。あの取り合わせは昭和の放課後の象徴だったと思う。 学校のそばの公園まで走った。走りながら、すでに頭の中では試合が始まっていた。 公園に着くと、友達がもう来ていた。ランドセルがベンチの上に無造作に積まれている。「遅いぞ」と誰かが言う。「今来たばっかりだろ」と誰かが言い返す。そういう会話が毎日繰り返された。 王さんの一本足と、淡口選手の「おしりプリッ」 バットを持つと、誰もがあのポーズを真似た。 王貞治の、一本足打法だ。 左足を高く上げて、ぐっとタイミングを合わせてバットを振り下ろす。「世界の王」と呼ばれたあの打撃フォームは、昭和の子どもたちにとってあこがれそのものだった。誰もがやってみる。でもバランスを崩してよろけて、笑いが起きる。それがまた楽しかった。 もう一人、必ず誰かが真似したのが淡口憲治選手だった。 読売ジャイアンツの外野手として活躍した淡口選手の打席での構えは、独特だった。バットを構えるとき、腰をひねるようにして「おしりをプリッ」と出すあの仕草が、子どもの目にはたまらなくおかしく見えた。真似すると必ず笑いが起きる。誰かがやるたびに「プリッ!」「プリッ!」と声が上がり、公園が笑い声に包まれた。 毎日やった。毎日笑った。同じことを何度繰り返しても、飽きることがなかった。 駄菓子屋のホームランバー ひとしきり野球で遊ぶと、公園のそばの駄菓子屋に吸い込まれるように入っていった。 昭和の公園の近くには、たいてい駄菓子屋があった。小さな店で、ガラスケースの中にカラフルな駄菓子が並んでいる。奥のおばちゃんは、子どもが来ても急かさない。じっくり選んでいいよ、という空気があった。 冷凍ケースの前に立つと、白い霧が漏れてくる。中を覗き込む。 ホームランバーを選ぶ。 昭和35年(1960年)に協同乳業が発売したこのアイスには、棒に「当たり」の焼き印が押してあった。「当たり」が出れば、お店でもう1本もらえる。みんな食べ終わった棒をそっとめくって、息をのんで確認する。「当たりだ!」という声が上がると、その場が一瞬盛り上がる。「ずるい」と誰かが言い、「運だろ」と誰かが言い返す。 100円あれば、ホームランバーを買っても十分おつりが来た。残りのお金で何を買うか、それもまた大事な選択だった。 毎日同じことの繰り返しが、なぜあんなに楽しかったのか 学校から帰る。100円玉を握りしめる。バットとボールを持って公園へ走る。王さんの真似をする。淡口選手の「プリッ」で笑う。駄菓子屋でホームランバーを食べる。 毎日毎日、同じことの繰り返しだった。 でも、本当に楽しかった。 なぜあんなに楽しかったのか、大人になってから何度か考えたことがある。たぶんそれは、毎日が「同じようで違った」からだと思う。今日の王さんの真似は昨日より上手くいった。今日は当たりが出た。今日は淡口選手の真似で一番笑いが取れた。そういう小さな違いが、繰り返しの中に宝のように散らばっていた。 そして何より、あの場所にはいつも誰かがいた。 おわりに 明治2年に8000円だったあいすくりんは、昭和にはコイン1枚で買える食べ物になっていた。 テーブルの上の100円玉2枚。プラバットとカラーボール。王さんの一本足打法と、淡口選手の「プリッ」。駄菓子屋のホームランバーの当たりくじ。 あの放課後は、何も特別なことなどなかった。母親の手紙に深い意味を見出すこともなく、ただ100円玉を握って走り出していただけだ。 でも今、それがどれほど豊かな時間だったかが、ようやくわかる。 あなたの放課後には、何があっただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話 ▶

May 8, 2026