「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日)

6月3日。梅雨入りを目前にした、少し蒸し暑い季節だ。 カレンダーのこの一日には、子どものころの私がテレビ越しに見ていたはずの、二人のヒーローが並んでいる。ひとりは海を渡って日本人になった力士。もうひとりは、日本から「世界」へ駆け抜けた、小さな大選手だ。今日はとくに、後者の話をたっぷりさせてほしい。 まず、さらっと──ハワイの「ジェシー」が日本人になった日 1980年(昭和55年)の6月3日、大相撲の高見山が日本国籍を取得して帰化した。新しい名は「渡辺大五郎」。奥さんの姓と四股名を組み合わせた名前だった。 ハワイからやってきた、戦後初の外国出身力士。大きな体に低くしわがれた声、みんなが「ジェシー」と呼んでいた人だ。1972年の名古屋場所では、外国出身者として初めて幕内優勝も果たしている。新弟子のころ、あまりに厳しい股割りの稽古に「目から汗が出た」と漏らした逸話も忘れがたい。涙、とは言わず、汗だと言い張る。その不器用な強がりが、私は好きだった。 大相撲の立ち合い。両国国技館で行われた2010年9月場所より。高見山が活躍した昭和の土俵にも、同じような熱気があった。(Photo: Gusjer / CC BY 2.0) 国籍まで変えたのは、引退後に親方として相撲界に残るため。土俵を降りたあとも相撲とともに生きるために、生まれた国の国籍を手放したのだ。のちに東関親方として、同じハワイ出身の曙を横綱まで育て上げた。海を渡ってきた青年が、今度は次の世代を呼び寄せる。その長い橋のちょうど真ん中に、あの帰化の日はあったのだと思う。 さて──ここからが、今日の本題だ。 「世界の盗塁王」が生まれた日──昭和58年(1983年) 高見山の帰化から3年後、同じ6月3日。阪急ブレーブスの福本豊が、通算939個目の盗塁を決めて世界新記録を打ち立てた。それまでの記録は、メジャーリーグのルー・ブロックが持つ938盗塁。福本はそれをひとつ上回り、文字どおり「世界の盗塁王」になった。 その日の記録達成には、いかにも福本らしい逸話が残っている。舞台は西武球場での西武戦。一回表、ブロックに並ぶ通算938個目をあっさり決めてタイ記録に追いつくと、新記録はもう目前だった。ところが試合は終盤、点差が大きく開いてしまう。福本は「記録のためだけに走った」と思われるのを嫌い、もう走らないと心に決めていたという。それなのに、相手の内野手がしつこく牽制を入れてくる。それで負けん気に火がついて、九回、つい三塁へ飛び出してしまった──。世界記録が、半ば本人の意に反して生まれてしまったというのが、なんとも可笑しい。 プロ野球の試合のひとコマ(2005年シアトル、イチロー出場試合)。盗塁とは走者と捕手・内野手の緊張した駆け引きの果てに生まれるものだ。(Photo: Galaksiafervojo / CC BY-SA 3.0) 阪急は関西のパ・リーグの球団だから、東京の子どもだった私のテレビには、ふだんあまり映らない。それでも「世界新記録」という言葉だけは、ニュースでも学校でも、何度も耳に飛び込んできた。あの「世界」という二文字が、昭和の子どもにはとんでもなくまぶしかったのだ。あのころ、王貞治のホームランも「世界一」、福本の盗塁も「世界一」。アメリカという、はるか遠くの本場の記録を日本人が抜いていく──それは私たち少年にとって、ヒーローが怪獣を倒すのと同じくらい胸のすく出来事だった。 でも、私にとっての福本豊は、成績の数字よりも、もっと不思議で、もっと忘れがたい三つの「伝説」とともにある。 その一・足に一億円の保険 私たち昭和の野球少年のあいだでは、「福本の足には一億円の保険がかかっている」という話が、かなり有名だった。 調べてみると、これは1972年(昭和47年)のこと。シーズン盗塁記録の更新へ快走していた福本の「足」に、阪急が一億円の保険をかけたという。当時の球界では破格の金額で、大きな話題になった。もっとも、本人が一億円を受け取るという単純な話ではなく、球団側のリスク対策と話題づくりの意味合いも強かったらしい。 考えてみれば、1972年といえば私はまだ3歳。リアルタイムで知っていたはずもない。それでも、少し大きくなった私の耳に、この「一億円の足」の伝説はしっかり届いていた。人間の足に一億円──子どもにとって、それは盗塁の数字よりもずっと具体的で、ずっと夢のある話だった。校庭で足の速い子に「お前の足、一億円な」とからかうのが、しばらく流行ったりもした。 その二・サラブレッドと競走した男 もっとすごい話がある。福本は、馬と走ったのだ。 1983年(昭和58年)、西宮球場で行われたイベントで、阪急の選手たちがサラブレッドと短距離走で競走した。面白いのは、福本さん自身が後年、「最初は断った」と語っていること。ところがバンプ・ウィルスが出場を承諾したものだから、球団社長に頼まれ、結局は出場することになったそうだ。当時すでに35歳、盗塁王の大ベテランと、サラブレッドを競走させてしまうという発想自体が、いかにも昭和のプロ野球イベントらしい。 実はこのイベント、中学生だった私はかなりワクワクしながら見ていた記憶がある。……ところが情けないことに、競走の距離も、福本が勝ったのか負けたのかも、まったく覚えていないのだ。あんなに胸を躍らせたのに。覚えているのは「世界の盗塁王が、本物の馬と走るらしい」という、あの開始前の高揚感だけ。今となっては、それで十分な気もしている。 その三・すりこぎ棒のようなバット そして、これがいちばん意外な話かもしれない。 いまのファンは「盗塁王といえば、軽いバットでコンパクトに当てる選手」と思い込みがちだ。ところが福本は、まるで逆だった。本人の証言によれば、初期は940グラム台、その後はなんと1060〜1080グラムという超重量級のバットを使っていた。太くて、まるで「すりこぎ棒」のような形。周囲はその姿から「つちのこバット」とも呼んだ。 バットを力いっぱい振り切るバッター。福本豊の「すりこぎ棒」バットも、この振り切る姿勢が原点だった。(Photo: Danny Meyer, U.S. Air Force / パブリックドメイン) 持ち方も独特で、グリップエンドを数センチ余らせて、短く持って振った。だから、あの重いバットでも自在に操れたのだ。体が小さく非力だった福本は、その重さを逆に味方につけ、速い球にも力負けしなくなったのだという。決して大きくない体で通算208本塁打を放った秘密は、このあたりにありそうだ。 そもそも福本は、入団当初まったく期待されていなかった。小柄で非力な体つきを見て、周囲は「こんな選手を獲って可哀想や」とまで陰口を叩いたという。その彼に、名将・西本幸雄監督は「振り切れ」と教えた。非力な男が長打力を身につけるための逆転の発想だ。重いバットを短く持つあの独特の打ち方は、監督の教えと本人の工夫が出会ったところに生まれた答えだったのだろう。 足だけの人ではなかった。頭と工夫の人だった。 立ちションもできんようになる 最後にもうひとつ。世界記録のあと、福本は国民栄誉賞の打診を受けながら、「そんな偉い賞をもらったら、立ちションもできんようになる」と言って断ってしまった。 世界一になった人が、まじめな顔でそんなことを言う。足に一億円、馬と競走、すりこぎ棒のバット──どのエピソードにも、肩の力が抜けた可笑しみと、人を食ったような愛嬌がある。私が福本豊をいつまでも好きなのは、たぶんその飄々とした感じのせいだ。 思えば6月3日は、不思議な日だ。ハワイ生まれの大男が線を越えて日本人になり、大阪生まれの小男が線の向こうの世界記録を越えていった。向きはまるで逆なのに、どちらも「日本」と「世界」のあいだにある一本の線を、自分の体ひとつでまたいでみせた。 記録は、いつか抜かれる。実際、939という世界記録も、のちにメジャーのリッキー・ヘンダーソンが1406まで大きく塗り替えた。それでも、ブラウン管の前で「世界一だ」とワクワクした昭和の少年の胸の高鳴りは、誰にも抜かれない。 あなたの記憶の中の福本豊は、足の速さですか。それとも、すりこぎ棒のバットですか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 | 次の記事:6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで ▶

June 2, 2026

成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和

5月の空は高い。梅雨前の、束の間の晴れ間が続くこの季節に、昭和はふたつの大きな出来事を刻んでいる。ひとつは「夢」が開いた日。もうひとつは「夢」が終わった日の話だ。 朝ごはんを食べながら聞いた言葉 1978年(昭和53年)5月20日。 「成田空港反対運動」「過激派」「機動隊と衝突」。 小学生だった私は、朝ごはんを食べながら流れてくるテレビのニュースで、こういう言葉を毎日のように耳にしていた。ヘルメットをかぶった学生、泥まみれの農民、機動隊の盾。子どもには意味がよくわからない、でもなんとなく怖くて騒々しい映像の連続だった。 実は、この日の開港はギリギリの滑り込みだった。本来の開港予定は3月30日。ところが2日前に過激派グループが管制塔に乱入して機器を破壊し、やむなく約2か月延期となった末の、この5月20日だったのだ。開港当日も反対同盟と機動隊の衝突は続き、反対派が燃やした古タイヤの黒煙が空に立ちこめる中、新東京国際空港は産声を上げた。 でも、飛行機そのものは夢だった。 29か国の航空会社34社が乗り入れる、日本初の本格的な国際空港。テレビニュースの騒然とした映像の向こうに、なんとなく「外国」という輝きが透けて見えた気がした。 ところで、このころの為替レートは1ドル300円前後だった。今は1ドル160円くらいでも「大変な円安だ!」と騒がれているが、300円というのはそれより倍もドル高な時代だ。そして振り返ってみれば、昭和から平成、令和と、時代はいつも「円高だ!」「円安だ!」と騒ぎ続けてきた。どうやら、為替というものはいつの時代も誰かを悲鳴させるようにできているらしい。 笑点とサザエさんの間に流れたあの声 もうひとつは1984年(昭和59年)5月20日の話だ。大相撲の力士、高見山大五郎が引退を表明した。 日曜日の夕方といえば、私にとって「笑点」と「サザエさん」の時間だった。その間に流れてくる丸八真綿の布団CM。でんぐり返しからの「まるはーち!」、そしてあのしゃがれた声で「2枚、2枚!2倍、2倍!」。 子どもたちは次の日、学校でこれを真似した。「2倍!2倍!」というキャッチフレーズは一躍ブームになり、子どもから芸人までが口真似をするほどだった。武家屋敷風の部屋に入ってきた高見山が布団に入り、最後に電気を消し忘れるというオチのバージョンもあった。ヒツジの着ぐるみをまとって「ジェシーの羊」(メリーさんの羊の替え歌)が流れるバージョンもあった。どれも、あの図体に似合わない愛嬌があふれていた。 ハワイ・マウイ島出身、本名ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア。身長192センチ、体重205キロ。愛称「ジェシー」。彼は1968年に外国出身力士として初めて幕内に入り、1972年7月場所では外国人力士として史上初の幕内最高優勝を果たした。表彰式ではニクソン米大統領の祝電が読み上げられたというのだから、その注目度がわかる。 ただ、正直に言う。 当時の私が「知っているお相撲さん」といえば、北の湖、輪島、貴ノ花、そして高見山だった。でも相撲中継で見る高見山の印象といえば……ほとんど負けていた記憶しかないのだ。突き落とされ、投げられ、土俵の外に転がり出ていく大きな背中。子ども心に「なんか強くないな、この人」と思っていた。高見山関、本当に申し訳ない(笑)。 もちろん実際には、20年間土俵に立ち続けた鉄人だった。「40歳まで相撲を取りたい」「建設中の両国国技館で相撲を取りたい」という夢を胸に、怪我をおしながら出場を続けた。引退宣言は場所の途中、突然のことだった。千秋楽の最後の一番は黒星だったが、満員の観衆から大声援が降り注ぎ、花道に花束が舞った。 「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と彼は言った。 昭和天皇がのちに「高見山がなぜ辞めたのかね」「残念だったろうな」と語られたと伝わっている。それを知らされた高見山は、「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。40歳まであと1か月。両国国技館の開場は翌1985年。どちらの夢も、わずかに届かなかった。 でも、ジェシーは日本に残った。東関部屋を興し、やがて弟子の曙を横綱に育て上げる。彼の昭和は、引退の日に終わったわけではなかった。 5月20日。煙の中を飛行機が降りてきた日と、土俵を去った大男が泣いた日。 あなたは「まるはーち!」をまだ口から出せますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 ▶

May 19, 2026