【昭和の今日は何があった日?】7月4日──テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送

7月4日。昭和62年(1987年)のこの日、NHK衛星第1テレビジョン──いわゆるBS1が、世界で初めてテレビの24時間放送を開始しました。 「テレビが一日中やっている」。今では当たり前すぎて、何がすごいのか分からないかもしれません。でも当時、テレビには「終わり」があったのです。深夜になると番組が終わり、君が代が流れ、そして画面には砂嵐──。あの「ザーッ」という音とともに、テレビは毎晩眠りについていました。 その「テレビの眠り」を、初めてなくしたのが、この日の衛星放送だったのです。 深夜の砂嵐と「放送終了」の記憶 私が子どもの頃、テレビ放送には明確な「閉店時間」がありました。深夜、番組がすべて終わると、日の丸の映像とともに君が代が流れ、「JOAK-TV」などとコールサインが読み上げられて、放送終了。その後は例の砂嵐です。局によっては、静かな音楽とともに翌日の番組案内が流れたり、時報のような画面が映ったりと、それぞれに「店じまい」の作法がありました。そして早朝、また何事もなかったかのように「開店」する。テレビには、人間と同じような一日のリズムがあったのです。 私にも、はっきりと覚えている記憶があります。国旗の映像や「君が代」が流れたり、静かな音楽が流れたりしたあと、画面が急に白黒のザーッという砂嵐になる。あれを見たときは、「テレビも寝るんだ」と本気で思っていました。そして「今日はもう何もやっていないんだ」と、少し寂しい気持ちになったのです。 夜の家はとても静かで、時計の音だけが聞こえてきて、「もう本当に夜中なんだな」と子どもながらに感じたのを覚えています。 普段なら絶対に見られない時間まで起きていたという、ちょっと大人になったような特別な気分。そして、「もう寝なさい」というテレビからの合図のような放送終了。あれは今でも、私の昭和の思い出の一つです。 テレビは「いつでも見られるもの」ではなく、「放送している時間だけ見られるもの」でした。だからこそ、一つひとつの番組が貴重だったのかもしれません。 「ゆり2号」が運んだ未来 そもそも衛星放送とは何だったのか。少しだけ、その道のりを振り返ってみます。 「衛星」とテレビの関わりは、実は衛星「放送」より前、衛星「中継」から始まっています。昭和38年(1963年)11月、日本とアメリカを結ぶ初のテレビ衛星中継実験が成功しました。ところが、この歴史的な中継が最初に伝えたのは、なんとケネディ大統領暗殺という衝撃的なニュースだったのです。翌年の東京オリンピックでは、五輪史上初の衛星中継が実現。宇宙を経由して、海の向こうの出来事が「その日のうちに」茶の間へ届く時代が始まりました。 そして日本の衛星「放送」の歴史は、昭和53年(1978年)に打ち上げられた実験用放送衛星「ゆり」に始まります。昭和59年(1984年)には後継機「ゆり2号a」によって、NHK衛星第1テレビジョンの試験放送がスタート。これは世界初の直接受信方式の衛星放送でした。 もともとの大きな目的は「難視聴地域の解消」でした。山間部や離島など、地上の電波が届きにくい地域が、当時は全国で42万世帯もあったといわれます。しかし赤道上空3万6千キロの衛星からなら、日本全国あまねく電波を届けられる。実際、それまで難視聴地域だった小笠原諸島で本土と同じテレビが見られるようになったときには、祝賀行事まで行われたそうです。 「テレビが映る」。ただそれだけのことが、お祝いになる。今からは想像もつきませんが、それだけテレビが、暮らしの真ん中にあった時代だったのだと思います。 そして昭和62年7月4日、「ゆり2号b」を使ったBS1が、独自編成による24時間放送を開始しました。海外のニュースやスポーツ中継、高音質を活かした音楽番組など、地上波とはひと味違うラインナップ。深夜だろうが早朝だろうが、チャンネルを合わせれば必ず何かが映っている。「テレビは深夜に眠るもの」という常識が、この日、静かに書き換えられたのです。 視聴者の反響も大きく、問い合わせが殺到したといいます。地球の裏側のニュースが、リアルタイムで、しかも真夜中でも見られる。今の感覚では当たり前でも、当時としてはまさに「未来」そのものだったのでしょう。 18歳の夏、パラボラアンテナは遠い存在だった 昭和62年7月。私は高校3年生、18歳の夏でした。 思えば昭和62年という年は、時代が大きく動いた年でもありました。4月には国鉄が分割民営化されてJRが誕生。世の中はバブル景気へと向かい、街全体がどこか浮き足立っていた──そんな時代です。テレビの世界で「世界初の24時間放送」が始まったのも、日本中が「もっと便利に、もっと豊かに」と前のめりになっていた、あの時代の空気と無縁ではなかったのかもしれません。 そんな中、私はといえば、テレビどころではありませんでした。まさに夏の甲子園大会を目指して、高校野球部最後の夏を迎えていたのです。7月といえば、地方大会の真っ只中。頭の中はテレビの中の世界ではなく、目の前の白球のことでいっぱいでした。 では、「衛星放送が世界初の24時間放送を開始した」というニュースを、当時の私はどう受け止めていたのか。正直に言えば、認識はしていたものの、「そうなんだー」といった程度でした。最後の夏に打ち込む高校球児にとって、宇宙から降ってくる電波の話は、あまりにも遠い世界の出来事だったのです。 無理もありません。衛星放送は「見ようと思えば見られるもの」ではなく、「見られる家が限られているもの」だったからです。 というのも、衛星放送を見るには専用のパラボラアンテナとチューナーが必要で、決して安い買い物ではなかったからです。 そして我が家には、とうとうパラボラアンテナが付くことはありませんでした。そのため、屋根やベランダに大きなパラボラアンテナが取り付けられている友達や近所の家を見るたびに、「いいなあ、衛星放送が見られるんだ」と、少し羨ましい気持ちになったものです。 当時のパラボラアンテナは、どこか最先端の象徴のようにも見えました。あの白いお椀型のアンテナが空を向いている姿を見上げては、「あの家では特別な番組が映るんだろうな」と、子ども心に想像を膨らませていたのです。 その後、衛星放送は平成元年(1989年)に本放送へ移行し、平成3年(1991年)には民間初の有料放送WOWOWも開局。大リーグ中継や海外サッカーなど、「BSでしか見られないもの」が増えるにつれて、パラボラアンテナは徐々に、憧れの対象から当たり前の風景へと変わっていきました。あの日、昭和62年7月4日に始まった24時間放送は、その長い普及の道のりの、記念すべき一歩だったのです。 テレビが眠らなくなって、失ったもの あれから約40年。実は現在、我が家には地上波デジタル放送を視聴できるテレビがありません。その代わりに大画面の液晶モニターがあり、YouTubeやNetflixなどの動画配信サービスを楽しんでいます。 子どもたちにとっての「テレビ」は、放送を待って見るものではなく、見たいものを見たい時に、いつでも気軽に楽しめる存在です。私が子どもの頃とは、本当に隔世の感があります。 当時は、見たい番組があれば放送時間までにブラウン管テレビの前に座っていなければ、見ることができませんでした。「見逃したら終わり」が当たり前の時代だったのです。 だからこそ、毎週決まった時間を楽しみに待つワクワク感や、家族みんなで同じ番組を見て笑ったり驚いたりした時間は、とても貴重な思い出として心に残っています。 そして、ときどき思うのです。「放送終了」があった時代のテレビには、一日の「区切り」があったなあ、と。君が代が流れて砂嵐になれば、「ああ、もう寝なきゃ」と観念する。テレビが眠るから、人間も眠る。そんな、のんびりした夜の秩序が、確かにあったのです。 昭和62年7月4日にテレビが眠らなくなり、平成にはインターネットが眠らなくなり、令和の今、私たちのポケットの中では、世界中の映像が休みなく流れ続けています。あの日パラボラアンテナを羨ましく見上げていた少年は、まさか40年後、アンテナすらない家で、指先ひとつで世界中の映像を呼び出す暮らしをしているとは、想像もしていませんでした。 テレビが眠らなくなった日──それは、私たちの夜が少しずつ長くなっていく、その始まりの日だったのかもしれません。 みなさんは、深夜の「砂嵐」を覚えていますか? 夜更かしの果てに、君が代と放送終了に立ち会ってしまった夜はありましたか? テレビに「終わり」があった時代のことを、よかったらコメントで教えてください。 砂嵐、君が代、テスト画面、そして「あの番組はどうやって生まれたのか」──。テレビが暮らしの真ん中にあった昭和のテレビ史を、制作の裏話とともに掘り起こした一冊があります。あの頃ブラウン管の前に座っていた世代には、ページをめくるたびに「あった、あった」と声が出るはずです。 発掘テレビ秘話 昭和編加藤義彦/彩流社。昭和のテレビ番組の舞台裏を掘り起こす、同世代にはたまらない一冊 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月3日】元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏 | 次の記事:(近日公開)

July 4, 2026