昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報

六月六日になりました。 この日には、昔から少し変わった言い伝えがあります。「芸事は、六歳の六月六日に始めると上達する」というもの。日本舞踊やお琴、三味線といった習い事の世界で、よく語られてきた験かつぎです。指を一本ずつ折って数えていくと、ちょうど六本目で小指が立って「六」の形になる――だから六歳の六月六日がいい、なんて説もあるそうですね。 この縁起にちなんで、六月六日は「楽器の日」「邦楽の日」とも定められています。歌舞伎の名作『寺子屋』に出てくる手習いの場面も、ちょうどこの季節。昔の子どもたちは、梅雨入り前のしっとりとした六月のはじめに、筆を持ち、三味線を抱え、新しい何かを始めたのですね。 なんとも風流な話です。けれど、正直に言えば、私自身の「六月」の記憶をたぐり寄せると、芸事よりも先に、もっと無粋な言葉が浮かんできてしまうのです。それも、習い事のような上品なものとは正反対の、当時の東京の空にべったりと貼りついていた、あの言葉が。 それが――「光化学スモッグ注意報」。 今日は少し、あの白くかすんだ夏空の話を、のんびり振り返ってみたいと思います。 テレビと校内放送から流れてきた、あの決まり文句 小学生のころ、夏が近づくと、テレビのニュースからこんな声が流れてきました。 「本日、東京都内に光化学スモッグ注意報が発令されました。屋外での激しい運動は避けてください」 子ども心にも、なんだか物々しい響きでした。そして決まって、その日は学校でも校内放送が入るのです。 「ただいま、光化学スモッグ注意報が発令されました。外で遊ばないでください」 スピーカーから流れるあの放送が入ると、先生からもひと言。「今日は昼休みの外遊びは禁止です」。せっかくの晴れた昼休みに、教室や廊下でおとなしくしていなさい、というわけです。ドッジボールもおにごっこもお預け。窓の外には、なんだかいつもより白っぽい空が広がっている。あれはちょっと、納得のいかない時間でした。 晴れているのに外に出られない、というのは、子どもにとってなかなか不条理なものです。雨で中止になるなら、まだあきらめもつく。けれどもピカピカに晴れた空を窓越しに眺めながら、教室で席に着いているのは、どうにも落ち着かない。教室に取り残された男の子たちは、黒板の前で相撲を取ったり、消しゴムを指ではじいて机の上で「消しゴム相撲」をやったり。先生の目を盗んでは、廊下の隅で小さな騒ぎを起こしていたものです。今思えば、外が危ないからと閉じ込められていたはずの教室の中のほうが、よほど騒がしかったかもしれません。 「これが光化学スモッグかぁ」――わかった気になっていた私 ただ、ここで正直に白状しておかなければなりません。 私自身は、光化学スモッグが原因で目がチカチカしたとか、喉が痛くなったとか、そういう体の不調を自覚したことが、ただの一度もなかったのです。まわりの友達にも、「やられた」という子はいませんでした。 ですから、注意報が出ているといっても、私たちにとってはどこか他人事。学校では神妙な顔で放送を聞いていても、いざ下校してしまえば、へっちゃらなものです。ランドセルを玄関に放り込んで、いつも通り、夕方まで外遊びに明け暮れていました。注意報も何も、あったものではありません。 それでも、空を見上げると――たしかに、白いモヤがかかっているように見えるのですね。 抜けるような青空ではなく、どこか牛乳を一滴落としたような、ぼんやりと濁った白。「ああ、これが光化学スモッグかぁ」。そうつぶやきながら、本当のところは何ひとつわかっていないくせに、なんだか自分は世の中の仕組みを一つ知ったような、わかった気になっていた。子どもというのは、そういうところがありますね。今思い出すと、少し可笑しくなります。 むしろ、注意報の出た日は、どこか胸が躍るような気持ちさえあったかもしれません。いつもと違う校内放送が入り、先生が少しあわてた様子を見せる。それだけで、退屈な学校の一日に、ちょっとした事件の気配が混じる。危ないものの正体を知らない子どもにとっては、災害も警報も、半分は冒険のようなものだったのです。下校のチャイムが鳴れば、そんな白い空の下へ、われ先にと飛び出していくのですから、世話はありません。 あの白い空の、ほんとうの正体 では、あの「光化学スモッグ」とは、いったい何だったのか。 ごく簡単に言えば、自動車の排気ガスなどに含まれる物質が、夏の強い日差しを浴びて化学反応を起こし、目やのどを刺激する有害な成分に変わってしまう――それが空にたまった状態のことです。風の弱い、よく晴れた蒸し暑い日に起こりやすい。だから夏に多かったわけですね。 おもしろいもので、朝のうちは何ともなかった空が、日が高くのぼる昼すぎになると、じわじわと白く濁ってくる。注意報が出るのも、たいてい午後でした。今思えば、太陽が真上から照りつけて、空の上で見えない化学の実験がいちばん盛んに進む時間帯だったわけです。あの「昼休み禁止」は、理屈の上では、ちゃんと筋が通っていたのですね。当時の私には、知るよしもありませんでしたが。 日本でこの被害が初めて大きく知られたのは、昭和四十五年(一九七〇年)七月十八日のこと。東京・杉並の東京立正中学・高校で、体育の授業中だった生徒四十三名が、いっせいに目やのどの痛みを訴えて倒れ、大騒ぎになりました。当時は原因がすぐにはわからず、人びとを不安にさせたといいます。 そして、ちょうど今日――六月六日も、忘れられない日でした。昭和四十七年(一九七二年)の六月六日、関東一帯を大規模な光化学スモッグが襲い、埼玉県では学校の生徒を中心に約千八百人、東京都内でも九百人を超える人たちが、目やのどの痛みを訴えたのです。 注意報が出される延べ日数は、昭和四十八年(一九七三年)にピークを迎え、その年だけで全国で三百日を超えました。昭和五十年ごろまでの数年間は、毎年のように二百五十日以上。――そう、私がランドセルを背負って葛飾の町を駆け回っていた、まさにあの時期が、日本の空がいちばん白く濁っていた季節だったのです。 当時の東京には、注意報が出ているかどうかを知らせる電光の表示灯が、町なかや学校に設けられていたといいます。今の若い人に話しても、なかなか信じてもらえないでしょう。空の状態を、信号機のように灯りで知らせなければならなかった時代があった――そう書いてみると、あらためて、ずいぶん遠くまで来たのだなという気がします。 高度経済成長のまっただ中。車が増え、工場が煙を上げ、町はどんどん便利で豊かになっていきました。その豊かさの裏側で、空はあんなふうに白くかすんでいた。子どもだった私は、便利さの代償なんて言葉も知らないまま、その白い空の下で、ただ無邪気に遊んでいたのですね。 令和の子どもたちには、別の言葉が ところで――最近、「光化学スモッグ注意報」という言葉を、めっきり聞かなくなったと思いませんか。 車の排ガスがきれいになる仕組みが進んだおかげで、あの白い空は、いつの間にか青さを取り戻していきました。今の子どもたちは、校内放送で「外で遊ぶな」と言われた経験など、ほとんどないのではないでしょうか。 その代わりに、今の夏に響いているのは「熱中症アラート」です。「危険な暑さです。屋外での運動は控えてください」――言われてみれば、私たちの「光化学スモッグ注意報」と、ずいぶんよく似ています。空から降ってくる危険の中身は変わっても、晴れた日に子どもを外から呼び戻す、大人たちの心配そうな声だけは、半世紀を越えて変わらないのですね。 もっとも、中身をよく見ると、ずいぶん違うようにも思います。光化学スモッグは、私たちが車や工場で自ら作り出してしまった汚れでした。だからこそ、技術の力で、いったんはきれいに片づけることができた。けれど今の暑さは、もっと大きく、もっと根の深いところから来ているように見えます。教室に閉じ込められてふくれっ面をしていればよかった私たちの時代より、令和の子どもたちが向き合っている空のほうが、ひょっとすると手ごわいのかもしれません。 あのころ、白いモヤの正体もよくわからないまま、注意報なんてどこ吹く風で遊び回っていた私。令和の今、外で遊ぶ子に「暑いから無理しちゃだめだよ」と声をかける側になってみると、なんとも不思議な気持ちになります。あれほど大人の心配を素通りしていた子どもが、いつの間にか、同じ言葉を口にする番になっている。時というのは、そうやって静かに、役回りを入れ替えていくものなのですね。 みなさんの夏空は、青かったでしょうか。それとも、あの白いモヤを覚えているでしょうか。よろしければ、あなたの「注意報」の思い出も、聞かせてください。 また明日、別の「今日」でお会いしましょう。 この連載「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に | 次の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと ▶

June 6, 2026

「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に

六月五日は「環境の日」です。世界では「世界環境デー」と呼ばれています。一九七二年のこの日、スウェーデンのストックホルムで「国連人間環境会議」というものが開かれた。それにちなんで定められた日なのだそうです。……と書くと、ずいぶんとお堅い話に聞こえますね。 正直に言えば、子どもの頃の私にとって「環境」などという言葉は、どこか遠い、大人の世界の言葉でした。学校で「公害」と一緒に教わったような、なんだか難しくて、自分の暮らしとはつながらない言葉。 でも今日は、その「環境」という言葉が、私の中でずっと一羽の鳥と結びついている、という話をさせてください。トキの話です。 四十年前の、小さな夕刊記事 ちょうど四十年前、昭和六十一年の今日――一九八六年六月五日の新聞の夕刊に、小さな、けれどどこか胸の奥がしんとするような記事が載りました。見出しはこうです。「雌のアオ死ぬ 残るのは二羽」。 アオというのは、佐渡で大切に守られていたトキの名前でした。鳥に一羽ずつ名前がついている。それだけでも、どれほど大事に、まるで家族のように見守られていたかが伝わってきます。 繁殖の望みが、また一つ消えた。残されたトキは、もう二羽だけ。一羽、また一羽と減っていく、その静かなカウントダウンの一コマだったのです。 この時、私はもう十七歳になっていました。けれど、この夕刊の記事をリアルタイムで読んだ記憶は、実は私にはありません。私の「トキ」の記憶は、もっと前の、もっとぼんやりとしたところにあるのです。 テレビから流れてきた「トキ」 子どもの頃、夕方のテレビから、ときどき「トキ」という言葉が流れてきました。たいていはニュースの時間です。そして決まって、その後ろには「絶滅の危機」という言葉がくっついていました。 正直なところ、意味はよく分かっていませんでした。佐渡という島がどこにあるのかも知らない。ピンクがかった白い羽の鳥なんて、もちろん見たこともない。葛飾の、東京の二十三区でも東のいちばん端っこに住んでいた子どもにとって、トキはどこまでも縁のない存在でした。 だから私の中のトキは、鳥というより「言葉」だったのです。「トキは佐渡に数羽だけいて、どうやら、もうすぐいなくなるらしい」。理解していたのは、それくらい。あとはただ、ぼんやりとした寂しさの気配だけが残りました。 夕飯前のあの時間、テレビでは六時五十分からドラえもんが始まる。明るくて、にぎやかで、楽しい。けれど、その前のニュースの時間にときおり顔を出す「トキ」という言葉だけは、なぜか少しうつむいた、ひんやりとした響きをしていました。同じ茶の間のテレビから流れてくるのに、まるで別の色をしている。子ども心にも、「これはあまり楽しい話ではないらしいぞ」という空気は、ちゃんと伝わってきたのです。 あの頃、テレビからは「絶滅」という言葉が、いろいろな生きものの名前とくっついて、ときどき流れてきました。けれど不思議なもので、その多くは右から左へ抜けていったのに、「トキ」だけは、なぜか妙に耳に残りました。短くて、やわらかくて、口にしやすい名前だったからかもしれません。あるいは、ニュースを読む大人たちの声が、その言葉のときだけ、ほんの少し沈んで聞こえたからかもしれません。理屈ではなく、「大事なものが、手の届かないところで静かに終わろうとしている」という感じ。子どもは、案外そういう気配だけは、敏感に受け取ってしまうものです。 「日本の日本」という名の鳥 大人になってから知ったことですが、トキの学名は「ニッポニア・ニッポン(Nipponia nippon)」というのだそうです。日本の、日本。これほど日本という国を背負わされた名前の鳥も、なかなかいないでしょう。 その「日本の日本」が、なぜ消えていったのか。 明治のころから、美しい羽や肉を目当てに、トキはさかんに捕られました。さらに戦後、田んぼに強い農薬がまかれるようになると、トキが食べていたドジョウやカエル、小さな生きものたちが姿を消していきます。餌そのものが、田んぼから失われていったのです。 そして、私が今回いちばん胸を打たれた一羽がいます。「能里(のり)」という名のトキです。 一九七〇年(昭和四十五年)の一月、本州で最後の一羽となっていたトキが、石川県の穴水町で捕獲されました。それが能里でした。これ以上、本州の野生で生き延びることはできない。せめて繁殖のためにと、佐渡へ移されることになったのです。 移送に携わった地元の方が、のちにこう振り返っています。何としても無事に送り届け、長生きさせたい。そう祈るような気持ちで、車に同乗して県境まで運んだ、と。けれど能里は、翌年の春に死んでしまいました。そして解剖をしてみると、その小さな体には、農薬と水銀が残っていたといいます。 田んぼを追われた鳥の体に、田んぼの毒が残っていた。これほど切ない話が、あるでしょうか。 その方は穴水町の生まれで、子どもの頃は、家のすぐそばの神社の境内から、毎日のようにトキが空を舞う姿を見上げていたそうです。ピンク色の羽がきれいで、身近で、大切な存在だった、と。 つまり、ほんの一世代前には、トキは「あたりまえに空にいる鳥」だったのです。それが、私が子どもの頃には、もう「テレビの中の、消えかけた言葉」になっていた。たった数十年の間に、あたりまえに見上げていたものが、一羽ずつ、名前と寂しさだけを残して空から消えていった。そういうことだったのだと、今になって分かります。 カウントダウンの、その先 一九八六年にアオが死んで、残るは二羽。あの夕刊が伝えた静かなカウントダウンは、その後も止まりませんでした。 一九九五年(平成七年)には、ミドリという一羽が死にます。残されたのは、キンというトキ、ただ一羽だけ。日本で生まれた、最後のトキです。 そして二〇〇三年(平成十五年)の秋、そのキンも、佐渡のケージの中で静かに息を引き取りました。推定で三十六歳。鳥としては、たいへんな長寿だったといいます。新聞各紙は、大きな見出しで「日本産のトキは絶滅した」と報じました。 このときには、私もすっかり大人になり、自分の子どもを抱える父親になっていました。子どもの頃、夕方のテレビからぼんやりと受け取っていた「もうすぐいなくなる鳥」という言葉は、こうして、ついにいちばん寂しい場所まで行き着いてしまったのです。「危機」ではなく、「絶滅」。日本の空から、ニッポニア・ニッポンが、本当にいなくなった瞬間でした。 これで終わっていたら、今日の話は、ただただ寂しいだけの話になっていたはずです。 そして、今年のこと ここからは、つい先日、私自身が初めて知って、思わず声が出てしまった話です。 二〇二六年五月三十一日、石川県の羽咋市で、トキが本州で初めて放鳥されました。空に放たれたのは八羽。秋篠宮ご夫妻も見守るなか、箱からいっせいに飛び立ったトキを、会場の七百人ほどの人たちが、拍手と歓声で見送ったといいます。 本州の空をトキが堂々と舞うのは、あの能里が捕らえられた一九七〇年以来、実に五十六年ぶりのことでした。 考えてみてください。私がテレビの前で「もうすぐいなくなるらしい」と、ぼんやり寂しさだけを受け取っていた、あの鳥です。それが、半世紀を越えて、また本州の空に帰ってきた。 日本産のトキが絶滅したあと、希望をつないだのは、中国から贈られた一組のつがいでした。一九九九年(平成十一年)、「友友(ヨウヨウ)」と「洋洋(ヤンヤン)」という二羽が海を渡ってきて、佐渡で人工繁殖に成功します。最初に生まれたヒナには「優優(ユウユウ)」という名がつきました。そこから一羽、また一羽と数が増え、二〇〇八年にはついに佐渡で放鳥が始まります。今、日本の空を舞うトキは、みなこの中国生まれのつがいの子孫なのです。 そうして佐渡でこつこつと数が積み上がり、二〇二四年の暮れには、野生のトキは推定五百七十六羽にまでなりました。今年の三月には、絶滅危惧のランクも一段、引き下げられたそうです。そして能登では、このトキの放鳥が、地震からの「復興のシンボル」として位置づけられている。傷ついた土地に、希望の鳥が帰ってくる。そういう物語になっているのです。地元には「のとっきー」という応援キャラクターまで生まれて、子どもたちと一緒に放鳥を見守ったと聞きます。さらに来年度には、島根県の出雲でも放鳥が予定されているそうです。トキの空は、これから少しずつ広がっていく。 先日、私はこのブログでパンダの話を書きました。あちらは「今、日本に一頭もいなくなってしまった」という、少し寂しい話でした。けれど今日のトキは、ちょうどその逆です。「五十六年ぶりに、帰ってきた」という話なのですから。同じ週に、こんなに対照的な二羽(一頭と一羽、ですね)の話を書くことになるとは、思ってもみませんでした。 「トキ」という言葉の、その後 子どもの頃、私のテレビから流れてきた「トキ」は、いつも少しうつむいた、寂しい言葉でした。「絶滅の危機」「もうすぐいなくなる鳥」。 それが、半世紀を越えた今、能登の青空を堂々と舞っています。私の子どもたちや、さらにその先の世代にとって、「トキ」はもう、寂しい言葉ではないのかもしれません。むしろ「帰ってきた鳥」「守りきった鳥」として、明るい響きで耳に入ってくるのでしょう。 言葉の響きは、時代とともに変わっていくものなのですね。 六月五日の「環境の日」と聞いても、子どもの頃の私なら、やっぱりピンとこなかったと思います。けれど今は、少しだけ分かる気がします。環境を守るというのは、難しい理屈の話である前に、「あたりまえに空にいた鳥を、もう一度あたりまえに空へ戻す」という、それくらい具体的で、それくらい気の長い営みなのだと。能里を県境まで運んだ人も、田んぼの農薬を減らした佐渡や能登の農家の人たちも、半世紀をかけて、その地道な仕事を続けてきたのでしょう。 あなたのテレビからも、あの頃、「トキ」という言葉は、どこか寂しい響きで流れてきませんでしたか。そして今、その同じ言葉が、青空を飛んでいくのです。 もう一つの「トキ」 最後に、もう少しだけ、私自身の話をさせてください。 実をいうと、私にとって「トキ」という言葉は、ニュースの中だけのものではありませんでした。 私の母は、昭和十三年の生まれで、今年で八十八歳になります。新潟県の生まれ。そして、名を「トキ子」というのです。 佐渡島の出身というわけではありませんし、名前の由来を、私は母の口から聞いたことがありません。トキ子という名は、あの時代の女の子に、わりとよくつけられた名前でもありました。だから、あの鳥にちなんだものなのかどうか、本当のところは分かりません。聞いておけばよかったと思うのですが、こういうことは、たいてい聞きそびれたまま、時間だけが過ぎてしまうものですね。 それでも――新潟に生まれた、トキ子。もしかしたら、生まれ故郷の空に、まだトキがあたりまえに舞っていた最後の時代に、その美しい鳥にあやかって名づけられたのかもしれない。そう想像すると、私の中で、ニュースの「トキ」と、母の「トキ子」が、そっと一本の線でつながるのです。 その母は今、病と闘いながら、入院しています。 新潟の隣、能登の空に、五十六年ぶりにトキが帰ってきた。私はこのニュースを、何より母に伝えたいと思いました。お母さん、あなたと同じ名前の鳥が、半世紀をこえて、またこの国の空を飛んでいるよ、と。 絶滅したとまで言われた鳥が、それでもあきらめずに守られて、こうして帰ってきました。その同じ名を持つ母にも、どうかもう少しだけ、こちらの空の下にいてほしい。「トキ子」という名前に、私はもう一度、力を貸してもらいたいのです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで | 次の記事:昭和の今日は何があった日? 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June 5, 2026

6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで

六月に入って、空気がだんだん重たくなってきました。もうすぐ梅雨ですね。じめじめした季節の入り口に、私がいつも思い出す「数字あそび」があります。 六月四日。「6(む)4(し)」。 そう、きょうは「むし歯予防デー」です。子どものころ、これを学校で教わったときに「うまいこと言うなあ」と妙に感心したのを、いまでもよく覚えています。数字を語呂に変えてしまう、あの感覚。考えてみれば、昭和の子どもは、こういう語呂合わせをやたらと覚えるのが得意でしたよね。 「むし歯予防デー」は、戦争よりも前から 調べてみると、この語呂合わせはずいぶん古い。日本歯科医師会が「6(む)4(し)」にちなんで六月四日を「むし歯予防デー」と定めたのは、なんと昭和三年(一九二八年)のことだそうです。私の生まれるよりも、ずっとずっと前。父や母が生まれるよりも前の話です。 おもしろいのは、戦争のさなかにも、この日が大事にされていたということ。戦時下の東京・後楽園スタジアムで「歯みがき大会」が開かれ、球場がぎっしり埋まるほどの人が集まったという記録が残っています。食べるものも満足にない時代に、それでも「歯を大切に」と人が集まった。そう聞くと、歯というのは、贅沢とは関係のない、生きることそのものに直結した話なのだなと、あらためて思います。 戦後にも、この日はちゃんと受け継がれました。昭和三十年(一九五五年)からは六月四日から十日までを「歯の衛生週間」として、全国の学校で歯の検診が行われるようになります。いまは名前を変えて「歯と口の健康週間」と呼ばれていますが、起点が六月四日であることは、ずっと変わっていません。 体育館に並んだ、あの一日 小学校のころ、六月になると必ず「歯科検診」がありました。みなさんも覚えていませんか。 体育館だったか、保健室の前の廊下だったか。クラスごとにずらりと並んで、順番を待つ。前に進むにつれて、消毒薬のにおいがだんだん濃くなってくる。白衣の歯医者さんが、小さな鏡と細い金具を持って待ちかまえている。口を「あーん」と開けると、先生は私の口の中をのぞきこみながら、横にいる先生に向かって、暗号のような言葉を読み上げていきます。 「上の六番、シー。下の……」 あの「シー」が、つまり「C」、むし歯のことだと知ったのは、もう少し大きくなってからでした。子どもの私は、その記号が何を意味するのか分からないまま、ただ「あ、いま何か悪いことを言われた気がする」と、漠然とした不安だけを抱えて列を出ていったものです。 古代の枝(咬み棒)から現代の歯ブラシへ。人類は何千年もかけて「歯を磨く道具」を進化させてきた。昭和の子どもたちが使っていたのも、この流れの中のひとつだ。(Photo: Stewart Shearer / CC BY-SA 2.0) 歯みがき指導の日もありました。赤い「染め出し液」を歯に塗られて、鏡を見ると、磨き残したところが真っ赤に染まっている。「ほら、こんなに磨けていませんよ」と言われて、自分の歯がこんなに汚れていたのかと、子どもながらにちょっとショックを受ける。あの毒々しい赤色だけは、四十年以上たったいまでも、はっきり目に浮かびます。 それでも、甘いものはやめられなかった なぜ私たちの世代は、あんなにむし歯が多かったのか。理由は、はっきりしています。甘いものが、大好きだったからです。 学校から帰れば、駄菓子屋へ一目散。手のなかの小銭を握りしめて、ガラスケースの前で何を買おうか延々と悩む。ラムネ、あめ玉、よく伸びるガム、紙の上に乗った小さな練りもの、糸を引くようなあの飴……。一つひとつが安いものだから、少ないお小遣いでも、口の中をずっと甘いもので満たしていられた。むし歯にならないほうが、むしろ不思議なくらいです。 色とりどりの駄菓子が並ぶ駄菓子屋。花火や玩具まで売っている。少ない小銭を握りしめて、何を買おうか真剣に悩んだ記憶は、昭和の子ども全員が共有している。(Photo: urawa / CC BY 2.0) 母が仕事に出るとき、テーブルに百円玉を置いていってくれることがありました。短いメモを添えて。あの百円玉の、ずっしりとした手ざわり。あれをどう使うか、子どもなりに真剣に考えたものです。たいていは、甘いものに化けていましたけれどね。 夜になって、母に「歯、磨いたの?」と聞かれる。「うん」と答えながら、本当は磨いていない日もありました。あのころの私に、いまの私が言ってやりたい。「ちゃんと磨いておけよ」と。大人になってから歯医者さんに通うはめになって、はじめて分かることって、ありますよね。 令和の子どもは、むし歯が激減している ここで、ちょっと驚く数字を一つ。 文部科学省が調べている「十二歳の子ども一人あたりの平均むし歯本数」というものがあります。昭和六十二年(一九八七年)には、なんと一人あたり四・九本もありました。十二歳で、すでに約五本。これがまさに、駄菓子に夢中だった私たちの世代の現実です。 ところが、いまはどうでしょう。この数字は年々ぐんぐん減り続けて、令和に入ってからは〇・七本前後にまで下がっています。五本から一本以下へ。これは本当にすごい変化です。 フッ素入りの歯みがき粉が当たり前になったこと、学校や家庭での歯みがき指導が行き届いたこと、おやつとの付き合い方が変わったこと。あの「むし歯予防デー」が、昭和三年から地道に訴え続けてきたことが、令和になってようやく、はっきりと数字になって表れている。そう考えると、なんだか感慨深いものがあります。 親になってみて、思うこと 私の住む東京・葛飾区では、子どもが高校を卒業する三月末まで、保険診療の窓口負担がありません。ゼロ円です。しかも、親の所得による制限もない。こうした行政の支えのおかげで、家庭の経済事情に左右されることなく、子どもたちは安心して歯科医療を受けられます。 むし歯がこれだけ減った背景には、フッ素や歯みがき指導だけでなく、「どの子も等しく治療を受けられる仕組み」が広がったことも、きっと大きな要因の一つなのでしょう。 「八〇二〇(ハチマルニイマル)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。八十歳になっても自分の歯を二十本残そう、という運動です。子どものころは歯のありがたみなんて、これっぽっちも考えなかった私も、この歳になると、しみじみそう思うようになりました。きょうあたり、久しぶりに歯医者さんの予約でも入れようかな、なんて思いながら、これを書いています。 きょう六月四日。みなさんは、子どものころの「歯」にまつわる記憶、何か残っていますか。 あの赤い染め出し液。歯医者さんのキイーンという音と、独特のにおい。むし歯の紙を親に渡したときの気まずさ。あるいは、駄菓子屋で握りしめた小銭の感触。 よかったら、あなたの昭和の「歯の記憶」を、聞かせてください。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日) | 次の記事:「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に ▶

June 4, 2026

「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日)

6月3日。梅雨入りを目前にした、少し蒸し暑い季節だ。 カレンダーのこの一日には、子どものころの私がテレビ越しに見ていたはずの、二人のヒーローが並んでいる。ひとりは海を渡って日本人になった力士。もうひとりは、日本から「世界」へ駆け抜けた、小さな大選手だ。今日はとくに、後者の話をたっぷりさせてほしい。 まず、さらっと──ハワイの「ジェシー」が日本人になった日 1980年(昭和55年)の6月3日、大相撲の高見山が日本国籍を取得して帰化した。新しい名は「渡辺大五郎」。奥さんの姓と四股名を組み合わせた名前だった。 ハワイからやってきた、戦後初の外国出身力士。大きな体に低くしわがれた声、みんなが「ジェシー」と呼んでいた人だ。1972年の名古屋場所では、外国出身者として初めて幕内優勝も果たしている。新弟子のころ、あまりに厳しい股割りの稽古に「目から汗が出た」と漏らした逸話も忘れがたい。涙、とは言わず、汗だと言い張る。その不器用な強がりが、私は好きだった。 大相撲の立ち合い。両国国技館で行われた2010年9月場所より。高見山が活躍した昭和の土俵にも、同じような熱気があった。(Photo: Gusjer / CC BY 2.0) 国籍まで変えたのは、引退後に親方として相撲界に残るため。土俵を降りたあとも相撲とともに生きるために、生まれた国の国籍を手放したのだ。のちに東関親方として、同じハワイ出身の曙を横綱まで育て上げた。海を渡ってきた青年が、今度は次の世代を呼び寄せる。その長い橋のちょうど真ん中に、あの帰化の日はあったのだと思う。 さて──ここからが、今日の本題だ。 「世界の盗塁王」が生まれた日──昭和58年(1983年) 高見山の帰化から3年後、同じ6月3日。阪急ブレーブスの福本豊が、通算939個目の盗塁を決めて世界新記録を打ち立てた。それまでの記録は、メジャーリーグのルー・ブロックが持つ938盗塁。福本はそれをひとつ上回り、文字どおり「世界の盗塁王」になった。 その日の記録達成には、いかにも福本らしい逸話が残っている。舞台は西武球場での西武戦。一回表、ブロックに並ぶ通算938個目をあっさり決めてタイ記録に追いつくと、新記録はもう目前だった。ところが試合は終盤、点差が大きく開いてしまう。福本は「記録のためだけに走った」と思われるのを嫌い、もう走らないと心に決めていたという。それなのに、相手の内野手がしつこく牽制を入れてくる。それで負けん気に火がついて、九回、つい三塁へ飛び出してしまった──。世界記録が、半ば本人の意に反して生まれてしまったというのが、なんとも可笑しい。 プロ野球の試合のひとコマ(2005年シアトル、イチロー出場試合)。盗塁とは走者と捕手・内野手の緊張した駆け引きの果てに生まれるものだ。(Photo: Galaksiafervojo / CC BY-SA 3.0) 阪急は関西のパ・リーグの球団だから、東京の子どもだった私のテレビには、ふだんあまり映らない。それでも「世界新記録」という言葉だけは、ニュースでも学校でも、何度も耳に飛び込んできた。あの「世界」という二文字が、昭和の子どもにはとんでもなくまぶしかったのだ。あのころ、王貞治のホームランも「世界一」、福本の盗塁も「世界一」。アメリカという、はるか遠くの本場の記録を日本人が抜いていく──それは私たち少年にとって、ヒーローが怪獣を倒すのと同じくらい胸のすく出来事だった。 でも、私にとっての福本豊は、成績の数字よりも、もっと不思議で、もっと忘れがたい三つの「伝説」とともにある。 その一・足に一億円の保険 私たち昭和の野球少年のあいだでは、「福本の足には一億円の保険がかかっている」という話が、かなり有名だった。 調べてみると、これは1972年(昭和47年)のこと。シーズン盗塁記録の更新へ快走していた福本の「足」に、阪急が一億円の保険をかけたという。当時の球界では破格の金額で、大きな話題になった。もっとも、本人が一億円を受け取るという単純な話ではなく、球団側のリスク対策と話題づくりの意味合いも強かったらしい。 考えてみれば、1972年といえば私はまだ3歳。リアルタイムで知っていたはずもない。それでも、少し大きくなった私の耳に、この「一億円の足」の伝説はしっかり届いていた。人間の足に一億円──子どもにとって、それは盗塁の数字よりもずっと具体的で、ずっと夢のある話だった。校庭で足の速い子に「お前の足、一億円な」とからかうのが、しばらく流行ったりもした。 その二・サラブレッドと競走した男 もっとすごい話がある。福本は、馬と走ったのだ。 1983年(昭和58年)、西宮球場で行われたイベントで、阪急の選手たちがサラブレッドと短距離走で競走した。面白いのは、福本さん自身が後年、「最初は断った」と語っていること。ところがバンプ・ウィルスが出場を承諾したものだから、球団社長に頼まれ、結局は出場することになったそうだ。当時すでに35歳、盗塁王の大ベテランと、サラブレッドを競走させてしまうという発想自体が、いかにも昭和のプロ野球イベントらしい。 実はこのイベント、中学生だった私はかなりワクワクしながら見ていた記憶がある。……ところが情けないことに、競走の距離も、福本が勝ったのか負けたのかも、まったく覚えていないのだ。あんなに胸を躍らせたのに。覚えているのは「世界の盗塁王が、本物の馬と走るらしい」という、あの開始前の高揚感だけ。今となっては、それで十分な気もしている。 その三・すりこぎ棒のようなバット そして、これがいちばん意外な話かもしれない。 いまのファンは「盗塁王といえば、軽いバットでコンパクトに当てる選手」と思い込みがちだ。ところが福本は、まるで逆だった。本人の証言によれば、初期は940グラム台、その後はなんと1060〜1080グラムという超重量級のバットを使っていた。太くて、まるで「すりこぎ棒」のような形。周囲はその姿から「つちのこバット」とも呼んだ。 バットを力いっぱい振り切るバッター。福本豊の「すりこぎ棒」バットも、この振り切る姿勢が原点だった。(Photo: Danny Meyer, U.S. Air Force / パブリックドメイン) 持ち方も独特で、グリップエンドを数センチ余らせて、短く持って振った。だから、あの重いバットでも自在に操れたのだ。体が小さく非力だった福本は、その重さを逆に味方につけ、速い球にも力負けしなくなったのだという。決して大きくない体で通算208本塁打を放った秘密は、このあたりにありそうだ。 そもそも福本は、入団当初まったく期待されていなかった。小柄で非力な体つきを見て、周囲は「こんな選手を獲って可哀想や」とまで陰口を叩いたという。その彼に、名将・西本幸雄監督は「振り切れ」と教えた。非力な男が長打力を身につけるための逆転の発想だ。重いバットを短く持つあの独特の打ち方は、監督の教えと本人の工夫が出会ったところに生まれた答えだったのだろう。 足だけの人ではなかった。頭と工夫の人だった。 立ちションもできんようになる 最後にもうひとつ。世界記録のあと、福本は国民栄誉賞の打診を受けながら、「そんな偉い賞をもらったら、立ちションもできんようになる」と言って断ってしまった。 世界一になった人が、まじめな顔でそんなことを言う。足に一億円、馬と競走、すりこぎ棒のバット──どのエピソードにも、肩の力が抜けた可笑しみと、人を食ったような愛嬌がある。私が福本豊をいつまでも好きなのは、たぶんその飄々とした感じのせいだ。 思えば6月3日は、不思議な日だ。ハワイ生まれの大男が線を越えて日本人になり、大阪生まれの小男が線の向こうの世界記録を越えていった。向きはまるで逆なのに、どちらも「日本」と「世界」のあいだにある一本の線を、自分の体ひとつでまたいでみせた。 記録は、いつか抜かれる。実際、939という世界記録も、のちにメジャーのリッキー・ヘンダーソンが1406まで大きく塗り替えた。それでも、ブラウン管の前で「世界一だ」とワクワクした昭和の少年の胸の高鳴りは、誰にも抜かれない。 あなたの記憶の中の福本豊は、足の速さですか。それとも、すりこぎ棒のバットですか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 | 次の記事:6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで ▶

June 3, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日

6月2日。梅雨入りを前にした空は、晴れたり曇ったりと、どっちつかずの顔をしている。蒸し暑い昼のあと、夜になって雲が切れると、まだ低いところに月が出ていたりする。今日は、その月の話から始めたい。 私が生まれる三年前、月にそっと降りた機械があった 正直に書くと、私はこの日付をつい最近まで知らなかった。 私にとって「人類と月」といえば、まずアポロ11号だ。ニール・アームストロングが月面に足跡を残し、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と語った、あの夏。昭和44年(1969年)の7月のことだ。 ところが、その昭和44年というのは、私が生まれた年でもある。私が生まれたのは4月だから、人類が初めて月に立ったとき、私はまだ生まれて三か月ほどの赤ん坊だった。当然、何ひとつ覚えていない。母に抱かれて、月のことなどつゆ知らず、すやすや眠っていたのだろう。 つまり、私の世代にとって月とは、物心ついたときには「もう人間が行ったことのある場所」だった。教科書にもテレビにも、月は当たり前のように「行ける星」として出てきた。月へ行くというのが、どれほど途方もない挑戦だったのか、私たちはほとんど実感しないまま大きくなった。 そんな私たちの「当たり前」を、こっそり用意してくれていたのが、今日6月2日の出来事だ。 昭和41年(1966年)6月2日。アメリカの無人月探査機「サーベイヤー1号」が、月面にそっと軟着陸した。アメリカにとって、初めての月軟着陸だった。 それまでの探査機は、月にぶつかる寸前まで写真を撮りながら、最後は文字どおり月面に激突して終わっていた。「届く」ことと「降りる」ことは、まったく別の難しさだったのだ。空気のない月では、パラシュートは使えない。だから逆噴射のロケットだけを頼りに、落ちていく速度を、ぎりぎりまで自力で殺さなければならない。 サーベイヤー1号は、それをやってのけた。エンジンを噴かしてゆっくりと速度を落とし、四本の脚で、静かに月面に立った。そして、何ごともなかったかのように、1万枚を超える月面の写真を地球に送り続けた。砂利のような地面。小さなクレーター。地球からは決して見えなかった、足もとの月の素顔。 月面に静かに立つサーベイヤー1号。NASAの月周回探査機「ルナー・リコネサンス・オービター」が撮影。昭和41年6月2日、この機械が月に降りたことで、アポロへの道が開かれた。(Photo: NASA / パブリックドメイン) これは、来たるべきアポロ計画──人間を月に着陸させる計画──のための、いわば下見であり、リハーサルだった。人を乗せて降ろす前に、まず機械だけで「本当にちゃんと降りられるのか」「月の地面はやわらかすぎて沈んでしまわないか」を確かめておく。その地味で慎重な一歩が、今日という日だったわけだ。 派手なアポロ11号の陰に隠れて、私はこの「先に降りた機械」のことをずっと知らずにいた。けれど、考えてみればこのサーベイヤーがいなければ、私が赤ん坊だったあの夏の偉業もなかった。私たちの「月は行ける場所」という当たり前は、この日、誰にも気づかれないくらい静かに始まっていたのだ。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 私が宇宙を意識するようになったきっかけは、はっきりしている。父だ。 物心ついてから何度も、父は私にこう言った。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 何度も、何度も聞いた。テレビで月が映るたび、夜空に月が出ているのを見つけるたび、父はまるで自分のことのように、誇らしげにそう言うのだった。その「すごいよなぁ」には、嘘やお世辞のない、心からの感嘆がこもっていた。 子どもだった私は、父がそこまで言うのだから、よほどすごいことなのだろう、と素直に思った。今思えば、父は私が生まれたまさにその年に人類が月へ行くのを、大人として、リアルタイムで目撃した世代なのだ。あの興奮を、息子にも分けてやりたかったのだろう。父にとって月は「行ける場所」になったばかりの、まだ熱を持った夢だったのだ。 そうして父から受け取った「宇宙ってすごい」という気持ちは、私の中でどんどん育っていった。 スペースシャトルが、筆箱の上を飛んでいた 小学生になると、私たちの宇宙の主役は、アポロからスペースシャトルへと変わっていた。 ロケットは打ち上げると使い捨て。それが当たり前だった時代に、スペースシャトルは「翼を持ち、宇宙から滑空して帰ってきて、また飛ぶ」という、まるでSFそのものの乗り物だった。打ち上げのときはロケットなのに、帰りは飛行機のように滑走路に降りてくる。あの白い機体が大気圏に突入してくる映像を、私は固唾をのんで見ていた。 そして気がつけば、スペースシャトルは、私たちの身のまわりのありとあらゆる文房具の上を飛んでいた。筆箱にスペースシャトル。下敷きにスペースシャトル。ノートの表紙にも、消しゴムのケースにも、スペースシャトル。あの精悍な白い翼が、青い地球を背景にプリントされていた。 スペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げ(1983年4月)。あの白い翼と噴煙が、昭和の子どもたちの筆箱や下敷きの上を飛んでいた。(Photo: U.S. Department of Defense / パブリックドメイン) もちろん、テレビの中の宇宙も負けてはいなかった。「宇宙戦艦ヤマト」で地球を救うために十四万八千光年の旅に出て、「銀河鉄道999」で汽車に乗って星々を渡り、「キャプテンハーロック」の黒い髑髏の旗に胸を熱くした。私はもう、すっかり夢中だった。 夜、近所の空き地から見上げる月は、ただの白い丸ではなかった。「あそこに人が行ったんだ」「あそこに、足跡があるんだ」と思いながら見上げる月だった。父の「すごいよなぁ」と、筆箱のスペースシャトルと、テレビのヤマトとが、すべて一本につながって、私の頭の上の夜空に広がっていた。 そして令和、宇宙はとうとう「商売」になった 時は流れて、令和8年(2026年)。 宇宙の主役は、いまやイーロン・マスク氏が率いる民間企業「スペースX(SpaceX)」だ。国家がしのぎを削っていた宇宙開発を、一企業が引っ張る時代が来た。これだけでも、昭和の子どもだった私には、十分に未来の話である。 マスク氏が掲げる究極の目標は途方もない。「人類を多惑星種族にする」──つまり、地球に大災害が起きても人類が絶滅しないように、火星に自立した都市を作る、という構想だ。百人以上を一度に運べる超大型宇宙船「スターシップ」を完成させ、やがて数十万人から百万人規模の火星都市を目指す。 野球にたとえるなら、こうなるだろうか。使い捨てないロケット「ファルコン9」は地区大会の優勝。衛星網「スターリンク」で甲子園出場決定。火星に着陸できたら、いよいよ全国制覇。そして火星に都市を建設するというのは──プロリーグをまるごと一つ新設するようなものだ。それくらい、一段ごとの難しさが桁違いなのである。 すべては、あの慎重な一歩の延長線上に こんな時代が来るなんて、昭和の子どもだった私には、想像もつかなかった。 筆箱の上を飛んでいたスペースシャトルが、まさか民間企業のロケットに主役を譲る時代が来るとは。ヤマトやハーロックが旅した宇宙の、その手前の火星に、人が町を作ろうとしているとは。 けれど、忘れてはいけない。それもこれも、すべては今日6月2日の、あの「サーベイヤー1号 月面軟着陸」からの、まっすぐな延長線上にあるのだ。 逆噴射でそろりそろりと速度を落とし、四本の脚で静かに月へ降りた、あの小さな機械。誰にも気づかれないほど慎重だったあの一歩がなければ、アポロの足跡も、父の「すごいよなぁ」も、私の筆箱のスペースシャトルも、そしてマスク氏の火星都市の夢も、何ひとつ始まらなかった。 夢というのは、いきなり大きく見えるものではない。たいていは、誰かがそっと脚を伸ばした、地味で慎重な一歩から始まっている。六十年かけて、その一歩は火星にまで届こうとしている。 今夜、もし雲が切れて月が見えたら、ぜひ一度、見上げてみてほしい。あの白い丸の上には、六十年前の小さな機械が、今もまだ静かに立っている。父が「すごいよなぁ」と言った、あの月だ。 あなたの宇宙への入り口は、いったい誰の、どんな一言でしたか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代 | 次の記事:「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日) ▶

June 2, 2026

昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代

六月になりました。 カレンダーをめくると、一日はちょうど衣替え。学校に通っていたころは、この日を境に冬服が夏服に変わって、教室の景色がいっせいに明るくなったのを覚えています。詰襟の窮屈さから解放されて、白い半袖シャツの軽さが妙に誇らしかった。台所の冷蔵庫に冷えた麦茶が常備されはじめるのも、だいたいこのころでした。 そんな夏のはじまりの六月一日。昭和の時代、この日にはいろいろなことがありました。たとえば昭和六十一年(一九八六年)の六月一日には、上野動物園で日本初の人工授精による赤ちゃんパンダ「トントン」が誕生しています。 でも、私にとっての「上野のパンダ」と言えば、やっぱりこの二頭なのです。 ランランと、カンカン。 今日はこの話を、少し長めに、のんびりと書かせてください。 父の肩車の上で 昭和四十八年(一九七三年)のことだったと思います。私はまだ保育園に通う幼い子どもでした。その日は遠足で、両親も一緒に上野動物園へ行きました。 お目当ては、もちろんパンダです。 昭和四十七年(一九七二年)、日中国交正常化の記念として中国からやってきたランランとカンカン。白と黒の、丸っこくて、笹を抱えてもそもそ食べるあの不思議な生きものを一目見ようと、日本中が熱に浮かされていました。その熱が、私たち親子を上野へと連れて行ったわけです。 ジャイアントパンダ。白と黒の丸い体で笹を食べる姿が、日本中を夢中にさせた。(Photo: J. Patrick Fischer / CC BY-SA 3.0) ところが――です。 正直に告白しますと、私はあの日、ランランとカンカンを本当に見られたのかどうか、思い出せないのです。 覚えているのは、別のことばかり。パンダのいる建物の前には、気が遠くなるような大行列ができていました。長い長い時間を並んで、ようやく中へ入れたこと。そして父が私を肩車してくれたこと。あの高い視界の感触は、今でもはっきりと残っています。 でも、肩車の上から、私はちゃんとパンダを見たのでしょうか。それとも、人垣の向こうの黒い点のような何かを、パンダだと思い込んだだけだったのでしょうか。記憶の肝心なところが、すっぽりと抜け落ちているのです。 そのかわりに鮮明に残っているのは、人、人、人で溢れかえっていた園内の光景。そして、園内放送でやたらと流れていた「迷子のお知らせ」のアナウンスです。 「○○色のズボンに、○○の絵のシャツを着た、○歳くらいの男の子を保護しています……」 あの放送ばかりが、なぜか耳に焼きついている。肝心のパンダではなく、迷子の放送。我ながら「そこっ?」とツッコミたくなりますが、子どもの記憶というのは、案外そういうものなのかもしれません。大人が「これを覚えておきなさい」と思うところより、ぜんぜん別の隅っこを、勝手に大事にしまい込んでしまう。 それでもいいのです。父の肩の温かさと、迷子の放送と、果てしない行列。それが私にとっての「ランランとカンカンに会いに行った日」の、まぎれもない全部なのですから。 V3とタロウの、輝かしい年 ちなみに、その昭和四十八年という年。私にとっては、パンダ以外でも特別に光り輝いている一年でした。 なぜなら、テレビの中のヒーローがいちばん格好よかった時代だからです。 仮面ライダーは、V3。(昭和四十八年二月〜昭和四十九年二月) そしてウルトラマンは、タロウ。(昭和四十八年四月〜昭和四十九年四月) この二人が同じ時期に画面の中で戦っていたのですから、当時の男の子にとって、これ以上の幸福があったでしょうか。風見志郎が変身する三段変身に胸を躍らせ、ウルトラの父と母の息子であるタロウの登場に、ウルトラ兄弟の世界がどこまでも広がっていくのを感じていました。 保育園からの帰り道、私はきっとV3かタロウになりきって、見えない怪人や怪獣と戦っていたはずです。そして週末になれば、上野のパンダのように、テレビの前にもまた「人、人、人」――いや、こちらは家族みんなが集まって、かじりつくようにして見ていたのでした。 パンダもV3もタロウも、ぜんぶ同じ年の出来事。そう並べてみると、昭和四十八年というのは、私の幼い心がいちばん豊かに満たされていた年だったのだなと、しみじみ思います。 そして、令和八年の六月 さて、ここからは少し、今の話をしなければなりません。 令和八年(二〇二六年)の六月一日、現在。日本国内に、ジャイアントパンダは一頭もいません。 これを書いていて、自分でも信じられないような気持ちになります。 まず、令和七年(二〇二五年)の六月。和歌山のアドベンチャーワールドにいた四頭――良浜(らうひん)、結浜(ゆいひん)、彩浜(さいひん)、楓浜(ふうひん)――が、中国へ返還されました。涙ながらに見送ったファンの姿が、ニュースで大きく取り上げられていたのを覚えている方も多いでしょう。 そして、日本に残ったのは、東京・上野動物園の双子、「シャオシャオ」と「レイレイ」だけ。この二頭も、令和八年の一月下旬、ついに中国へと返還されました。 これをもって、日本国内のパンダの飼育頭数は、ゼロ。 昭和四十七年にランランとカンカンがやってきてから、五十四年。半世紀以上にわたって途切れることなく続いてきた「日本の動物園でパンダに会える時代」が、今、いったん幕を閉じたのです。 笹をもそもそと食べるパンダ。この姿を日本の動物園で見られる日が、また来ることを願っている。(Photo: Manyman / CC BY-SA 3.0) いなくなって、はじめてわかること 「上野にパンダがいない。」 この一文を、昭和の子どもだった私が読んだら、いったいどんな顔をするでしょう。たぶん、まったく信じないと思います。上野の動物園にパンダがいないなんて、空に太陽がないと言われるくらい、ありえないことに感じられたはずですから。 あの日、果てしない行列に並び、父に肩車をしてもらってまで会いに行った白黒の生きもの。見られたのかどうかも怪しい、けれども確かにそこに「いた」はずのランランとカンカン。その末裔とも言える時代の流れが、半世紀の時を経て、ひとつの区切りを迎えた。 考えてみれば、私が肩車の上で見たかもしれない(見られなかったかもしれない)あの光景は、「日本にパンダがいる時代」の、ほんとうに初期の一場面だったわけです。そしてその時代の終わりを、私は今、こうして大人になって見届けている。 なんだか、不思議な巡り合わせです。 時代は変わります。当たり前にそこにあったものが、ある日ふっと姿を消す。パンダだけの話ではありません。近所の駄菓子屋も、屋上の遊園地も、いつの間にか消えていきました。そして私たちは、なくなってからようやく、「ああ、あれは特別なものだったんだな」と気づくのです。 でも――きっと、また会える日が来ると、私は思っています。 いつかまた、上野の動物園に黒と白のあの姿が戻ってきて、孫の手を引いたおじいさんやおばあさんが、長い行列に並ぶ日が来る。そのとき子どもたちは、肩車の上から、ちゃんとパンダを見られるでしょうか。それとも、私のように迷子の放送ばかり覚えて帰るのでしょうか。 どちらでもいい。その記憶は、きっと一生ものになるのですから。 みなさんにとっての「上野のパンダ」は、どの子でしょうか。ランランとカンカンでしょうか。トントンや、シャンシャンでしょうか。よろしければ、あなたのパンダの思い出も、聞かせてください。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 ▶ ...

June 1, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気

5月31日「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 昭和64年(1989年)の5月31日、世界保健機関(WHO)が「世界禁煙デー」を制定した。 この日付を調べていて、私はふと手が止まった。昭和64年——それは昭和という時代が幕を下ろした年だ。元号としての昭和は1月7日で終わっているけれど、暦の上では5月31日もまだ「昭和64年」と呼べる。煙にまみれた昭和という時代の、いちばん最後の年の5月の終わりに、世界が「もう、煙のない時代へ行こう」と号令をかけた。そう思うと、なんだか出来すぎた偶然のように感じられて、しばらく考え込んでしまった。 私は昭和44年生まれで、子ども時代をすっぽり昭和の中で過ごした世代だ。そして改めて思うのは、あの頃の空気には、文字どおりたばこの煙が溶け込んでいた、ということなのだ。 家じゅうが、煙でできていた 我が家は、父も母も、二人そろって喫煙者だった。 今になって思い返すと、私はずいぶんと濃い煙の中で育ったものだなと、つい苦笑いしてしまう。茶の間にも灰皿があり、台所にも灰皿があり、家のあちこちで細い煙が立ちのぼっていた。両親がそれぞれ火をつければ、狭い家の中は、ちょっとした煙幕のようになる。今なら「子どもがいる部屋でそんなに……」と眉をひそめられるところだろうが、あの頃はそれが我が家の、ごく普通の風景だった。 そして子どもの私は、それを「煙い」とすら思っていなかった。世の中のすべてがそういう匂いだったから、煙を煙と感じる感覚そのものが、まだ育っていなかったのだ。たばこの匂いは、私にとっては父の匂いであり、母の匂いであり、つまりは「家の匂い」だった。 「echo」を買いに走った夕暮れ そんな家で育ったから、たばこのお使いには、たびたび行かされた。 我が家の銘柄は「echo(エコー)」だった。子ども心にも、たぶん安いやつなんだろうな、と何となく察していた。たしか一箱70円くらいだったと記憶している。親から小銭を握らされて、近所のたばこ屋まで「エコー一つ」と買いに走る。あの頃は年齢確認なんて言葉もなかったから、子どもがたばこを買うのに、誰も何も言わなかった。 たばこ屋というのは、どこも判で押したように同じ店構えをしていた。ガラスのショーケースの中に、色とりどりの箱が定規で測ったように整然と並んでいる。これは専売制のもとで陳列の仕方が細かく決められていたからで、だから日本中のたばこ屋が、似たような顔をしていた。背伸びをして小銭を差し出し、慣れた手つきで箱を渡してもらう、あの短いやりとり。それも昭和の子どもの、ありふれた日課のひとつだった。 昭和を代表する国産たばこ銘柄。左からわかば・しんせい・エコー・ゴールデンバット。どれも庶民に親しまれた安価な銘柄だ。(Photo: Haha169 / CC BY-SA 3.0) そして、お使いを頼んできたのは親だけではない。 中学に上がると、今度は部活の顧問の先生に、たびたびたばこを頼まれるようになった。先生の銘柄は「Peace(ピース)」。練習の合間に「おい、ピース買ってきてくれ」と小遣いを渡され、走って買いに行く。今ならまず間違いなく問題になる話だが、当時はそれが当たり前だった。 そもそも、その先生は野球部の指導をしながら、校庭で平然と一服していたのだ。ノックバットを片手に、口の端にたばこをくわえて、「もっと声出せ!」と檄を飛ばす。煙をくゆらせながらグラウンドに立つ先生の姿に、誰一人として違和感を覚えなかった。思い返すと笑ってしまうけれど、あれもまた、まぎれもない昭和の風景だった。 「ピース」のパッケージ。戦後すぐから続く高級銘柄で、贈り物にも使われた。野球部の顧問が「ピース買ってきてくれ」と言っていたあの箱だ。(Photo: Alf van Beem / CC0 パブリックドメイン) 鼻が覚えている、外の世界の煙 家の外に一歩出ても、世界はやっぱり煙かった。 駅のホームには大きな丸い灰皿が点々と置かれ、白い煙がいくつも立ちのぼっていた。けれど煙かったのはホームだけではない。電車の中でも、バスの車内でも、人々は当たり前のようにたばこを吸っていた。走る車内に煙がたなびき、座席の肘掛けには小さな灰皿がついている。 極めつけは、病院の待合室だ。体の具合が悪くて来ているはずの場所で、患者さんがゆったりとたばこをふかしている。診察を待ちながら、煙の中で順番を待つ。今思えば何とも倒錯した光景だが、当時はそれを誰もおかしいと言わなかった。それくらい、たばこは生活のすみずみにまで、空気のように溶け込んでいたのである。 長い電車やバスの旅から帰って服を脱ぐと、生地に独特の匂いが染みついていた。今思えばそれはまぎれもなく受動喫煙だったのだけれど、あの頃の子どもは「これが電車の匂い」くらいにしか思っていなかった。 ちなみに当時のたばこの値段はこうだった。 時代 一箱の価格(目安) 代表銘柄 昭和40年代 約60〜70円 エコー・わかば・ゴールデンバット 昭和50年代 約120円前後 しんせい・ハイライト 昭和60年代 200円台 マイルドセブン・セブンスター 今の感覚からすると気が遠くなるほど安かった。 「けむりが苦手です」という小さな声 そんな煙だらけの世の中に、少しずつ別の声が混じりはじめたのも昭和のことだった。 昭和51年(1976年)、新幹線「こだま」のたった一両に、こっそり禁煙車が設けられた。十六両編成のうち、わずか一両。けれどこれが子ども連れの旅行者や女性客に思いのほか喜ばれて、「もっと増やしてほしい」という署名運動にまで広がっていった。 昭和53年(1978年)には「嫌煙権」という、当時としては耳新しい言葉が登場する。「たばこのけむりが苦手です」——そう書かれたバッジを胸につける人が現れた。たばこをやめてくれと迫るのではなく、ただ、きれいな空気を吸わせてほしい、という静かな願いだった。 たった一両の禁煙車と、胸の小さなバッジ。そんなささやかなものから始まった変化が、長い時間をかけて世の中の空気そのものを入れ替えていった。その流れの行き着いた先のひとつが、昭和の最後の年の5月31日、あの「世界禁煙デー」だったのだと思う。 煙の向こうにあったもの 今の子どもたちは、路上でたばこを吸う大人を見ることのほうが珍しくなった。駅のホームから、あの銀色の大きな灰皿はすっかり姿を消した。電車の中はもちろん、病院の待合室でたばこを吸う人など、もうどこにもいない。野球の指導中に校庭で一服する先生など、今では考えられないだろう。 変わってよかったと、心から思う。健康のためにも、子どもたちのためにも。 それでも、と思う。鼻の奥に残るあの煙の匂いは、私にとっては、父と母の匂いそのものだ。二人がそれぞれ火をつけて、狭い茶の間に煙が満ちていく——あの頃はそれが、ごく当たり前の家族の風景だった。「エコー一つ」と握らされた小銭の感触も、「ピース買ってきてくれ」と笑っていた先生の声も、今でもふっと胸の奥でよみがえる。煙そのものを懐かしむわけではないけれど、その煙の向こうにあった昭和という時代は、たしかに、私の子ども時代そのものだった。 ひとつだけ、自分でも不思議に思うことがある。あれだけ濃い煙の中で育ったというのに、私も妹も、大人になってからついにたばこを吸うことはなかった。理由はよくわからない。たばこ屋まで走った日々が、あんなにも当たり前だったのに。あるいは、当たり前すぎたからこそ、自分で火をつけてみようとは思わなかったのかもしれない。煙の中で育った子どもが、煙を選ばなかった——それもまた、昭和から平成へと移りゆく、時代の変わり目に立っていたということなのだろうか。 あなたの家では、たばこはどんな存在だったでしょうか。誰かのお使いで、たばこ屋まで走った夕暮れを、覚えていますか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月30日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代 ▶ ...

May 31, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月30日~

5月30日——夢と、ゴミと、あの頃の風景 5月の終わりが近づくと、なんとなく学年のリズムが見えてくる頃だった。運動会が終わって少しぼんやりしたような、けれどまだ夏休みには遠い、中途半端に気持ちのいい季節。グラウンドの土はもう初夏の匂いで、体操着の脇が汗でじわりと湿る頃だ。 そんな5月30日という日に、昭和はふたつの大きな「出来事」を刻んでいる。 ひとつは、日本の自動車史に残る夢のマシンの誕生。もうひとつは、「自分のゴミは自分で持ち帰る」という、今では当たり前すぎて忘れかけた運動の産声だ。どちらの話も、私の子供時代の記憶と、不思議なくらいぴったり重なっている。 走るより、飛ぶ感じ——コスモスポーツ、颯爽と登場 昭和42年(1967年)5月30日。東洋工業(現・マツダ)が、世界をあっと言わせた1台の車を世に送り出した。「コスモスポーツ」である。 それがなぜ世界を驚かせたかというと、搭載していたエンジンが普通のエンジンとまったく違っていたからだ。ロータリーエンジン——三角形のローターがくるくると回転して動力を生み出す、それまで誰も量産化できなかった夢のエンジンを、広島の自動車メーカーがついに実用化してのけた。 このエンジンはもともと、西ドイツのNSU社のフェリックス・ヴァンケルという技術者が発明したものだ。ピストンが上下する従来のレシプロエンジンとは根本的に異なり、三角形のローターが楕円形のハウジングの中で回転することで動力を得る。部品点数が少なく、振動が少なく、小型で高出力。「夢のエンジン」と言われた。 しかし量産化には致命的な壁があった。「チャターマーク」と呼ばれるエンジン内壁の波状摩耗だ。ローターの先端(アペックスシール)がハウジング内壁を高速で摺動するうちに、ハウジング表面が波打つように削れてしまう。これが「悪魔の爪痕」と恐れられた現象だ。 世界中の自動車メーカーがこの壁に直面し、次々と開発を諦めていった。NSU社自身も完全な解決策を見出せないまま、前に進めなかった。しかしマツダは諦めなかった。若い技術者たちが交代でアペックスシールを手作りしては試験を繰り返し、失敗の数は10万回を超えたともいわれる。その執念が、6年間の開発期間を経て実を結んだ。 昭和42年5月30日、その執念はついに市販車として世に出た。最高速度185km/h、0→400m加速16.3秒。低く流線型を描くボディは「走るというより、飛ぶ感じ」と形容された。価格は148万円——当時の大卒初任給が2万円台だったことを思えば、庶民には夢のまた夢だ。月に30台前後しか売れなかったという。それでも意味があった。「日本にこんな車が作れる」という事実そのものが、技術者たちの誇りであり、日本自動車産業の底力を世界に示すものだったからだ。 翌昭和43年(1968年)には、このコスモスポーツが「マラソン・ド・ラ・ルート」という約8万4000kmに及ぶ過酷な長距離耐久レースに参戦し、84時間走り続けて完走した。ロータリーエンジンの耐久性と信頼性を、実戦で証明してみせたのだ。 マツダ・コスモスポーツ(1967年中期型)。低く流れるようなボディラインと、世界初の量産ロータリーエンジンを搭載。(Photo: Tokumeigakarinoaoshima / CC BY-SA 4.0) それでも私は、コスモスポーツというものに、子供ながらに途方もないロマンを感じていた。 昭和40年代後半、近所を走るのはほとんどがカローラとかサニーといった、四角くて地味な乗用車だった。たまにブルーバードSSS(スリーエス)やセリカが通ると、子供たちは手を止めて見た。それくらい「かっこいい国産車」は珍しかった。そんな中、雑誌のグラビアで見るコスモスポーツのシルエットは、もはや別次元だった。ドア下部にかけてなだらかに落ちるウエストライン、細く切れ上がったテールランプ——宇宙船みたいだと思った。 「コスモ」という名前がまた宇宙時代にぴったりで、実際に名前の由来はイタリア語で「宇宙」を意味するCosmoだったという。1969年にはアポロ11号が月に着いた。その数年前にコスモスポーツが生まれた、というタイミングも、何かを象徴しているような気がする。あの頃、人類も日本も、宇宙に向かって飛び立とうとしていた。 コスモスポーツは後に「サバンナRX-7」「RX-8」へと系譜をつなぐ。あの独特の甲高いエンジン音は、ロータリーが生み出す独自の音だった。私がはじめてその音を路地で聞いたとき、「なんかすごいものが走り抜けた」としか言えない感覚があった。エンジン音が違う。アクセルを踏んだときの音の伸び方が違う。子供の耳にも、それははっきりとわかった。 マツダ10Aロータリーエンジン(1972年型)。コスモスポーツに搭載されたロータリーエンジンの実物。三角形のローターが回転して動力を生み出す独自の構造が特徴。(Photo: TTTNIS / CC0 パブリックドメイン) マットビハイクルと、銭湯の夜 そしてもうひとつ、コスモスポーツが私の記憶に深く刻まれている理由がある。「帰ってきたウルトラマン」に登場する、あのマットビハイクルだ。 1971年から放送が始まったこの番組で、怪獣攻撃隊MATの隊員たちが乗り込むパトロール特捜車両——それがコスモスポーツをベースにしたマットビハイクルだった。白いボディに赤いライン、天井にはパトランプ。改造といえばそのくらいで、超合金のロボットや宇宙船とは違い、どこか「本物の車感」がにじみ出ていた。 子供だった私は、あの流線型のシルエットをずっと「外車」だと思い込んでいた。国産車にあんなかっこいいデザインがあるはずがない、と。近所を走るカローラやブルーバードとは、まるで別の生き物に見えたのだ。それがまさか広島のメーカーが作った純国産車だと知ったときの驚きは、今でも覚えている。「日本ってすごいじゃないか」と、子供心に誇らしかった。 ところで、つい最近まで私はこう思い込んでいた。「帰ってきたウルトラマン」が、自分がリアルタイムでテレビで見た最初のウルトラマンだ、と。 3歳か4歳のころのぼんやりした記憶がある。当時、我が家はまだ借り住まいで、家風呂がなかった。夕方になると母に連れられて銭湯へ行くのが日課だった。番台のおばちゃんに頭を下げて、脱衣所で服を脱いで、湯船の熱さに「あちっ」と言いながら入る。そのルーティンが終わって、さあ帰ろうとなったとき、私は母にこう言い張ったのだという。「早く帰ろう、ウルトラマンが始まっちゃう!」 金曜日の夜19時——。母に引きずられるように番台を通り抜け、まだ少し濡れた髪のままテレビの前に駆け込む。そんな光景が、記憶のかけらとして残っている。お風呂上がりのほわほわした体温と、テレビから聞こえてくる特撮のBGMが、記憶の中で混ざり合っている。 しかし改めて調べてみると、「帰ってきたウルトラマン」の放送は1971年(昭和46年)4月から翌年3月まで。私が生まれたのは昭和44年(1969年)4月だから、放送開始のときはまだ2歳だ。2歳の記憶が「テレビの前に駆け込む」ほど鮮明に残るはずがない。 では、あの銭湯の記憶は何だったのか。 答えはおそらく、「ウルトラマンA(エース)」か「ウルトラマンタロウ」だ。エースは1972年4月から翌年3月放送、タロウは1973年4月から翌年3月放送。どちらも同じ金曜夜19時、TBS系。私が3歳〜5歳のちょうど「ぼんやり覚えている」年齢と重なる。 つまり、銭湯から急いで帰っていたあの夜のウルトラマンは、郷秀樹ではなく、北斗星司か東光太郎だった可能性が高い。 それでも私の中では「帰ってきたウルトラマン」と「マットビハイクル」が刷り込まれている。「帰ってきた」という言葉のインパクトが強すぎたのだろう。子供はタイトルに引きずられる。「帰ってきた」のだから、きっと自分も見ていたはずだ——そういう無意識の補完が起きていたのかもしれない。 昭和の子供の記憶なんて、どれもそんなふうに、いくつかの断片がひとつに溶け合っているものだ。でもそれはそれで、悪くない気がしている。記憶が混ざり合うのは、それだけ夢中になっていた証拠でもあるから。 「自分のゴミは自分で持ち帰る」——530運動、豊橋から全国へ さて5月30日というこの日付は、もうひとつの昭和の記憶とも重なっている。「530(ゴミゼロ)運動」だ。 昭和50年(1975年)の5月、愛知県豊橋市で「自分のゴミは自分で持ち帰りましょう」という合言葉のもと、市民運動が産声を上げた。その名称の由来は、日付の語呂合わせ——5(ゴ)、3(ミ)、0(ゼロ)。5月30日だから「ゴミゼロ」。言われてみれば単純明快なのに、それまで誰も言わなかった。 発端は、豊橋市東部の山を歩く登山者や行楽客が増えるにつれ、空き缶やゴミが山道に散乱するようになったことだった。豊橋山岳会の会長が「これはおかしい」と立ち上がり、市に提唱したのがはじまりだという。昭和50年11月に行われた初の一斉清掃には、147団体・約12万人が参加した。その後、この運動は全国に広がり、今では5月30日が「ゴミゼロの日」として定着している。 この頃の日本を思い返すと、正直、ゴミに対する感覚は今とはまったく違った。 昭和40年代、私が野球をやっていた公園には、普通に空き缶が転がっていた。誰かが飲んだコーラの缶、アイスのゴミ、菓子の袋。今で言えば「ひどい」話なのだが、当時の子供たちはそれを当たり前の風景として受け入れていた。誰も拾わなかったし、叱られることもなかった。「ゴミ問題」という言葉自体、テレビのニュースで難しいおじさんたちが話すことで、子供には遠い話だった。 川にゴミを捨てることも、当時は珍しくなかった。近所の用水路には、ときどき古い自転車や家電の残骸が沈んでいた。大人たちも見て見ぬふりをしていた。「誰かが片付けるだろう」という、ぼんやりした空気が漂っていた。高度成長期の日本は、豊かになることに必死で、その豊かさが生み出すゴミのことをあまり考えていなかったのだと思う。 だから、学校でリヤカーを引いて廃品回収をしたときの記憶は、少し違う質感がある。あれは先生に言われたからやるのではなく、「瓶や新聞紙が資源になる」という感覚が、どこかで子供心に本物だと伝わっていた気がする。大人たちの意識が変わり始めていた時期と、私が物心ついた時期がちょうど重なっていた。 昭和52年(1977年)には空き缶の路上投棄を規制する条例が各地で制定され始め、昭和60年代に入ると「ポイ捨て禁止」の看板が公園や道路に目立ち始めた。530運動が豊橋から全国に広がっていった昭和50年代、日本の街と人の意識は、少しずつ、でも確かに変わろうとしていた。 私が子供のころに感じた「ゴミのある風景」は、今の子供たちにはほとんど想像できないかもしれない。それは悪いことではなく、その変化を積み重ねてきた大人たちの努力の証だ。豊橋の山岳会の会長が「これはおかしい」と声を上げた日から、半世紀近くが過ぎた。 5月の終わりに思うこと コスモスポーツと530運動。並べると不思議な組み合わせだが、どちらも昭和という時代の「欲望と反省」の両面を映しているような気がする。 高度成長の夢を詰め込んだロータリーエンジンの夢の車が誕生した一方で、その成長が街に撒き散らした空き缶を拾い集める運動が生まれた——どちらも同じ昭和という時代の日本の空の下にある出来事だ。 前に突き進む力と、足元を見直す力。その両方がなければ、時代はうまく動いていかない。マツダの技術者たちが「悪魔の爪痕」に諦めなかったように、豊橋の一人の市民が「これはおかしい」と声を上げたように、昭和という時代はそういう「諦めない人たち」の集積で動いていた。 夢に向かって突き進んでいたあの時代が、少しずつ自分の足元を見直しはじめた瞬間が、この5月30日という日のどこかに刻まれているようで、私には妙に感慨深い。 あなたは昭和の「ゴミ」の風景を、どんなふうに覚えていますか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 ▶

May 30, 2026

5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄

五月も末になると、空気がじっとりとしてくる。梅雨の足音がそこまで聞こえてくるような、少し重たい青空が広がる季節だ。昭和の子どもたちにとって、この頃は運動会が終わり、夏休みまでまだずいぶん先という、少し間延びした時期だった。特別なことが起きるわけでもない、ただ日々が流れていく5月の終わり。 でも、5月29日という日は、昭和という時代を語るうえで忘れられないふたつの出来事を抱えている。今日は少し遠回りしながら、その話をしてみたい。 「昭和の女王」は横浜の魚屋の娘だった 昭和12年(1937年)5月29日、神奈川県横浜市磯子区の小さな魚屋「魚増」に、一人の女の子が生まれた。 本名は加藤和枝。のちに「美空ひばり」として、昭和の歌謡界を丸ごと背負って立つ人物となる、その赤ちゃんである。 私が生まれたのは昭和44年(1969年)だから、ひばりさんとは32年もの開きがある。物心ついたのが昭和50年代に入った頃だから、考えてみれば私はリアルタイムの美空ひばりをほとんど知らない。紅白歌合戦で歌う姿も、テレビの歌番組での映像も、子ども時代の記憶にはほとんど出てこない。 実はそれには理由があった。昭和48年(1973年)、実弟が起こした不祥事のあおりを受けて、ひばりさんは紅白歌合戦への出場を辞退せざるを得なくなった。それまで10年連続で紅組のトリを務めてきた大歌手が、である。私が物心ついた昭和50年代はちょうどその時期と重なっていた。だから、茶の間のテレビでひばりさんの歌う姿をなかなか目にすることができなかったのだ。 その代わり、美空ひばりという名前は、どこか別の形で私の中に刷り込まれていた。母が台所で口ずさむ鼻歌。街のどこかから流れてくるラジオの音。駄菓子屋の軒先でも、銭湯の脱衣所でも、「美空ひばり」という名前が大人たちの間でさりげなく語られた。顔も声もよく知らないまま、「すごい人がいる」という空気だけが漂っていた。子どもの私の中で、美空ひばりはいつしか「テレビに出てこない伝説の人」になっていた。 ひばりさんは9歳でデビューした。終戦直後の昭和21年(1946年)のことだ。焼け野原の横浜で、母・喜美枝が一念発起して「青空楽団」を作り、近所の公民館や銭湯に舞台を設けた。そこで初めて「美空和枝」の名で歌った女の子が、のちに昭和最大のスターになるとは、誰も想像しなかっただろう。戦争に出征した父の壮行会で「九段の母」を歌い、周囲の大人たちを泣かせたのは、まだ6歳の頃だったという。人を泣かせる力は、最初からあの小さな体に宿っていた。 昭和40年(1965年)には「柔」でレコード大賞を受賞した。そのころの私はまだ生まれてもいないが、昭和の茶の間ではひばりさんの歌声が、家族みんなで囲むテレビから流れていたはずだ。歌番組も、ドラマも、映画も。あの時代のひばりさんはまさに全盛期を走っていた。 生涯で発表したオリジナル曲は517曲、レコードの売り上げは8000万枚を超えたという。映画にも160本近く出演した。そんな数字を並べても、ひばりさんという存在の大きさはうまく伝わらない気がする。「女王」とか「昭和の歌姫」とか、どんな言葉を当てはめても、すぐに溢れ出してしまうような人だった。 私がはっきりと「ああ、これが美空ひばりだ」と感じた瞬間は、昭和63年(1988年)の「川の流れのように」だった。長い闘病を乗り越えて、東京ドームのこけら落とし公演で復活を果たしたひばりさんが、晩年に残した曲だ。テレビ画面のなかのひばりさんは、歌っているというより、ただそこに存在しているだけでオーラを放っていた。「伝説」とはこういうことか、と19歳の私は感じた。言葉にならない何かが、画面を通しても伝わってきた。 その東京ドームコンサートは昭和63年(1988年)4月に開かれた。体調は決して万全ではなかった。足腰の痛みはほとんど回復しておらず、肝機能の数値も心もとない状態のまま本番の日を迎えたという。それでもひばりさんは「すべてのお客様に顔を見てもらいたい」と言い、本人の希望で作られた長い花道を、歌い終えたあとに歩いた。5万人の観衆の前で。 その翌年、平成元年(1989年)の6月24日、美空ひばりは52歳でこの世を去った。昭和という元号の最後の年のことだった。死去後、女性として初めて国民栄誉賞が贈られた。 昭和の始まりとともに生まれ、昭和の終わりとほぼ重なるように逝った人。横浜の小さな魚屋に生まれた女の子が、ひとつの時代を丸ごと背負って歌った。5月29日は、そんな奇跡のような声が産声を上げた日でもある。 東京・上野公園に残る美空ひばりの手形。昭和12年(1937年)5月29日生まれ。昭和とともに歌い続け、平成元年に52歳で逝った。(Photo: Daderot / CC0 パブリックドメイン) 地下を走った夢、千年の都の地面の下へ もうひとつ、5月29日の出来事を話したい。 昭和56年(1981年)のこの日、京都市で「烏丸線」が開業した。京都市内初の市営地下鉄である。 私は当時12歳。葛飾に住む中学生だったから、京都の地下鉄開業など直接には関係のない話だ。でも、当時の子どもたちがそうであったように、「地下鉄」というものには不思議な憧れがあった。地面の下をトンネルが通り、電車が走っている。その事実だけで、何かSFのような、冒険のようなわくわく感があった。新しい路線が開業するたびにニュースになった時代で、地下鉄は都市の「現代化」を象徴するものでもあった。 この地下鉄が生まれるまでには、長い長い歴史がある。 京都には、日本最初の一般営業用電車として明治28年(1895年)に開業した路面電車があった。クリーム色と深緑のツートンカラーの車体が烏丸通や四条通を走り、83年間にわたって市民の足となってきた。ところが昭和に入ると自動車が急増した。昭和40年(1965年)に14万台だった京都市内の自家用車は、1980年には38万台と3倍近くに膨れ上がった。古都ならではの道幅の狭い通りを車が埋め、市電は渋滞に巻き込まれて定時運行もままならなくなっていった。 存続を求める署名が27万人分も集まったにもかかわらず、昭和53年(1978年)9月30日、京都市電は全廃された。日本初の路面電車が83年の歴史に幕を閉じた日として、全国的にも大きく報道されたという。廃止後も全国から記念乗車券の注文が殺到し、再販売したほどだった。市民がその消滅をどれほど惜しんだか、伝わってくる気がする。 市電が消えてから、京都市内の公共交通はほぼバスだけになった。渋滞は深刻なままで、バスも定時には走れない。市民は地下鉄の開業を、じっと待ち続けていた。 工事は昭和49年(1974年)に始まった。千年の都の地下を掘るのだから、普通の工事ではすまない。文化財保護法に基づいて、あちこちで埋蔵文化財の発掘調査が行われた。平安京の遺構が眠っているかもしれない土の下を、少しずつ、丁寧に掘り進んでいく。工期が延び、財政難も重なり、何度も計画が見直された。 もうひとつ、この地下鉄には当時としては特別な思いが込められていた。バリアフリーだ。昭和44年(1969年)頃から、車椅子を使う市民や障害者支援団体が何年もかけて京都市に請願を続け、主要4駅にエレベーターを設置することを実現させた。当初の設計から駅のホーム形式を変更するという大きな決断もあった。「バリアフリー」という言葉さえまだ一般的でなかった時代に、市民の声が行政を動かした。千年以上の歴史が積み重なった都市の地下に、新しい時代の思いが込められていたのだ。 そして昭和56年5月29日、北大路駅から京都駅までの6.6キロメートルが開通した。 前夜から駅に並んで始発電車に乗ろうとした中学生たちの話が残っている。深夜に京都駅前をうろついていたら警察官に「こんな夜中にアカン」と叱られ、タクシーで帰宅させられた子もいた。翌朝また早起きして乗りに来たという子もいたというから、その熱狂がしのばれる。新しい地下鉄の始発電車に乗るためなら、お巡りさんに怒られたって構わない。そういう気持ちになれた時代だった。 京都市営地下鉄烏丸線のホームドア。昭和56年(1981年)5月29日に開業した京都市初の地下鉄は、今も千年の都の地下を走り続けている。(Photo: NatsuTV / CC0 パブリックドメイン) 5月29日という日 美空ひばりの誕生日と、京都地下鉄の開業日。一見まったく関係のない二つの出来事だが、どちらも「昭和の時間の積み重なり」というものを感じさせる。 ひばりさんは昭和という時代そのものを声にした。地下鉄は、千年という時間が眠る地面の下を走った。 昭和の時代を生きた私たちは、それとは気づかないまま、そういう大きな流れの中に埋もれて日々を過ごしていた。駄菓子を買って、公園で野球をして、夕暮れになれば家に帰って。大人の世界では大きなことが起きていたのに、子どもの目には届かなかった。 あの頃の街に、美空ひばりの声が流れていたとき、私は何をしていたのだろう。公園でボールを追いかけていたのか、駄菓子屋の前でたむろしていたのか。確かめようのないことだが、あの声は確かにどこかで流れていて、気づかないまま聴いていたはずだ。記憶の底に、あの声は静かに沈んでいる。 5月29日という日付を手がかりに、こうして昭和を掘り起こしてみると、知らなかったことがまだまだ山ほどある。自分が生きた時代のことなのに、知らないことがこんなにある。それが、このシリーズを書き続ける理由でもある。 あなたにとって、美空ひばりという声はどんな記憶と結びついていますか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月28日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月30日~ ▶

May 29, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月28日~

5月28日、昭和に刻まれた三つの記憶 5月も終わりに近づいた28日。この日付には、昭和という時代の厚みを感じさせる出来事がいくつも重なっている。 縄文の巨人、山の奥で目を覚ます――昭和41年(1966年) まず昭和41年のこの日から始めたい。 屋久島の標高1,300メートル、高塚山の南斜面で、一人の役場職員が巨木に辿り着いた。旧上屋久町の観光課に勤める岩川貞次さん、42歳。古老から「山の奥に化け物みたいな杉がある」と聞かされ、その伝承を確かめるために深い森をかき分けてきたのだった。 そこに立っていたのは、胸の高さで周囲16メートルを超える、人類の記憶をはるかに遡るような杉の木だった。岩川さんはその姿に圧倒され、自分の名前「岩」の字を取って「大岩杉」と名付けた。 後に「縄文杉」と呼ばれるようになるこの木の推定樹齢は、7,200年とも2,170年とも言われる。どちらにせよ、弥生時代どころか縄文の昔から、その島で風雨をやり過ごしてきたことになる。 屋久島の縄文杉。胸高周囲16.4メートル、推定樹齢2000〜7200年。昭和41年5月28日に現代人が初めて「発見」した。(Photo: Chris 73 / CC BY-SA 3.0) 私が生まれたのは昭和40年代。縄文杉が「発見」されたのはその直前だった。発見後しばらくは世間にもほとんど知られることなく、登山ブームで一般に広まるのはずっと先のことだ。私が子どもだった頃、縄文杉という言葉を耳にした記憶はほとんどない。だが今思えば、私が公園で草野球をしたり、近所の駄菓子屋でアイスを買ったりしていたあの頃も、屋久島の奥深くでは縄文杉がただ静かにそこに立っていたのだ。 人間の営みとはまったく別の時間軸で生きている木がある。そう知るだけで、昭和という時代も、自分の子どもの頃も、ずいぶんと小さく、そしてかけがえのないものに見えてくる。 ヘルメットが宙を舞った日――昭和55年(1980年)5月28日 昭和55年のこの日、川崎球場は異様な熱気に包まれていた。 ロッテ・オリオンズの張本勲が、プロ野球史上初となる通算3000本安打の大台に、あと2本まで迫っていたのだ。 この年、張本は40歳。かつて首位打者を7度も獲得した「安打製造機」も、いまや選手生活の最終盤にいた。巨人を離れ、ロッテに移籍したのはただ一つの目的のため――3000本安打を達成すること。 阪急ブレーブス戦の第1打席で1本を積み重ね2998本。第2、第3打席は凡退。迎えた6回裏、第4打席。マウンドには、速球で名を馳せた山口高志が立っていた。張本はマウンドを見つめながら読んでいた。「記録がかかった場面で、山口もかわすピッチングはしないだろう。初球は甘く来る」。 初球だった。真ん中高めへの速球。張本のバットがうなりを上げた。打った瞬間に分かる、文句なしの当たりだった。打球はライトスタンドの照明塔を直撃して大きく弾んだ。3000本安打、それもホームランでの達成だった。 張本はヘルメットを力いっぱい宙に投げ上げ、自身も飛び上がった。ベンチが総出で駆け寄り、花火が15発打ち上げられ、黄金のくす玉が割れた。スタンドからは色とりどりのテープが舞い降りた。 そしてスタンドには、故郷・広島から母が来ていた。野球には詳しくない母だったが、3000本まで残り10本となったとき、白い丸を10個書いて1本ずつ塗りつぶしていたという。試合後、張本は母の手を取り、グラウンドへ連れ出した。 川崎球場のライトスタンド(1989年撮影)。昭和55年5月28日、この球場で張本勲が3000本安打をホームランで達成した。(Photo: Yasuoyamada / CC BY-SA 3.0) 私はあのとき小学5年生。野球が好きで、公園でよく素振りをしていた。王貞治の一本足打法を真似ることもあったが、巨人時代の張本勲の打撃フォームもよく真似ていた。あの独特の構え、広角に弾き返すしなやかなスイング。子どもが公園でコピーしたくなる、そういう「形」を持っている打者だった。 だから張本がロッテに移籍したと聞いたとき、正直「なぜ?」という気持ちがあった。巨人のユニフォームが似合いすぎていたからだ。移籍の理由が3000本安打への執念だったと知ったのは、もう少し後のことだ。そして迎えたこの5月28日、40歳の張本が現役でスタンドにホームランを叩き込んだ。いま思えば、40歳でプロの球場に立ち続けていること自体が、すでに常人の域を超えた話だった。 3085本という通算安打数は、いまも日本プロ野球の最多記録として破られていない。 教授とボウイとたけしが同じ画面にいた――昭和58年(1983年)5月28日 昭和58年、同じ5月28日に、まったく別の衝撃が日本の映画館を揺るがしていた。 大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の公開初日だった。 出演者の顔ぶれを見ると、当時の中学・高校生たちがどれほど興奮したか想像できる。デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし。世界的ロックスター、YMOの「教授」、漫才の天才。三人とも役者が本業ではない。 私は昭和58年に14歳、中学2年生だった。YMOの音楽はラジオから流れてきていたし、ビートたけしは「THE MANZAI」や「オレたちひょうきん族」で笑いの頂点にいた時期だ。「その二人が、デヴィッド・ボウイと同じ戦争映画に出る」という情報が流れた時の、あの不思議な感覚は今も覚えている。 舞台は第二次世界大戦中のジャワ島、日本軍の捕虜収容所。坂本龍一が日本軍将校ヨノイ大尉を演じ、ボウイが捕虜の英国将校セリアズを演じた。ビートたけしは、独特の存在感で下士官ハラを演じた。 坂本龍一が手がけた映画音楽は、映像と同時代の語り草となった。「Merry Christmas Mr. Lawrence」のあのメロディは、映画を観ていない人の耳にも届いた。 坂本龍一。『戦場のメリークリスマス』で俳優・作曲家として世界に名を刻み、2023年に71歳で逝去した。(Photo: Ryota Nakanishi / CC BY-SA 3.0) 大島渚監督はかつてこう言った。「ボウイやタケシやサカモトが私を選んでくれたおかげで完成した。そのことは日本のみならず世界の驚異だった」と。 5月28日という日付に、あの映画の初日が重なっていたとは、長い間知らなかった。昭和58年の私はまだ、そこまで映画情報を丁寧に追いかけていなかった。だが今こうして振り返ると、あの夏の前、初夏の空気の中であの映画が産声を上げたことが、妙に腑に落ちる気がする。 昭和の5月28日、三つの層 縄文杉の発見、張本の3000本安打、戦場のメリークリスマスの公開。 一つは人間の時間を超えた木の話。一つは人間が血と汗で刻んだ数字の話。もう一つは、時代のアイコンたちが一つのスクリーンに集った話。 昭和という時代は、こんなふうに何層にも重なっている。あなたの5月28日の記憶には、どんなものがありますか。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった | 次の記事:5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄 ▶

May 28, 2026