六月十五日。梅雨の晴れ間の、湿った緑の匂いがする季節です。きょうは何の日かと調べてみて、思わず手が止まりました。昭和六十年(一九八五年)のこの日、東京・吉祥寺の小さな貸しビルの一室で、株式会社スタジオジブリが設立されたのだそうです。
トトロの、魔女の宅急便の、あのジブリです。いまや日本中の、いや世界中の子どもたちが知っているあの名前が、産声を上げたのが四十一年前のきょう。そして当時十六歳、高校一年生だった私は、そんなことが起きていたとは、まったく知りませんでした。
昭和六十年六月、十六歳の私
昭和六十年の六月といえば、私は高校に入学して二か月あまり。野球部の一年生です。朝練に始まり、授業中は眠気と戦い、放課後は日が暮れるまで白球を追いかけ、玉のような汗をかいて家に帰る。そんな毎日でした。夏の大会を前に、先輩たちの空気がぴりぴりと張り詰めていく、ちょうどそんな頃です。
だから正直に白状すると、この日の私の記憶に「ジブリ」の文字はかけらもありません。それもそのはずで、当時はまだ世の中の誰も、その名前を知らなかったのです。第一作の公開は翌年のこと。設立の日のジブリは、看板も実績もない、生まれたての小さな会社にすぎませんでした。
それに正直なところ、高校生になった私が映画館でお金を払って観ていたのは、ジブリのような作品ではありませんでした。『ビー・バップ・ハイスクール』に『スケバン刑事』。つまり、ばりばりのツッパリ青春もののほうです(笑)。ヒロシとトオルの喧嘩に痺れ、スケバンのアクションに見入る。野球部帰りの十六、七歳の私には、腐海や王蟲の壮大な世界より、不良少年たちのどたばたのほうが、よほど自分たちの放課後に近く感じられたのです。だから設立されたばかりのジブリのことなど、当時の私の視界には、これっぽっちも入っていませんでした。
でも、私たちはとっくに出会っていた
ジブリという名前は知らなくても、実は私たちの世代は、その作り手たちの作品の中で育っていました。
スタジオの中心となる宮崎駿と高畑勲。この二人は、ジブリ設立のずっと前から、テレビの中にいたのです。昭和四十九年、私が五歳のときに放送された『アルプスの少女ハイジ』。あの作品の演出が高畑勲で、画面構成として支えていたのが宮崎駿でした。昭和五十三年、小学三年生のときにNHKで放送された『未来少年コナン』は宮崎駿の初監督作。そして昭和五十四年公開の『ルパン三世 カリオストロの城』も、宮崎駿の映画初監督作品です。
つまり、夕方のテレビの前に座っていた昭和の子どもたちは、誰に教わるでもなく、のちのジブリの味を舌で覚えていたわけです。ハイジがブランコのように大きく揺れるあのオープニング。コナンが足の指で塔の壁にぶら下がる、あのありえないけれど信じてしまう動き。あれが全部、同じ人たちの手から生まれていたのだと知るのは、私の場合、ずいぶん大人になってからのことでした。
吉祥寺のワンフロアから始まった
スタジオジブリ誕生の直接のきっかけは、昭和五十九年三月に公開された『風の谷のナウシカ』でした。私が中学三年に上がる、ちょうどその春のことです。腐海と王蟲の世界を描いたあの映画が大きな評判を呼び、これを受けて出版社の徳間書店が出資し、制作会社トップクラフトを母体とする新しいスタジオが作られた。それが昭和六十年六月十五日のことです。
ですから厳密にいうと、『風の谷のナウシカ』はジブリ設立より前の作品で、ジブリ製ではありません。けれど再放送のときには冒頭にジブリのロゴが付きますし、公式の歴史でも事実上の第一作のように扱われています。会社よりも先に、作品のほうが生まれていた。ジブリとは、そういう順序で始まったスタジオなのです。
「ジブリ」という名前は、サハラ砂漠に吹く熱風のことで、第二次大戦中のイタリアの偵察機の名前でもあったそうです。命名したのは、無類の飛行機好きで知られる宮崎駿。「日本のアニメーション界に熱風を巻き起こそう」という思いを込めたといいます。ちなみに本来の発音は「ギブリ」のほうが近いそうで、つまり世界一有名なあのスタジオ名は、読み間違いから生まれたことになります。なんだか、ほっとする話ではありませんか。
驚くのは、その所帯の小ささです。場所は吉祥寺駅近くの貸しビルのワンフロア。しかも設立からしばらくの間は、正社員を雇わなかったといいます。映画の興行は水物だから、いつでも畳めるように、作品ごとに七十人ほどのスタッフを集め、完成したら解散する。そんな方式だったのだそうです。

のちに国民的どころか世界的な存在になるスタジオが、「いつ終わってもおかしくない」覚悟の上に建てられた仮設小屋のようなものだったとは。何が大きく育つかなんて、その瞬間には誰にも分からないものなのですね。
そして翌昭和六十一年八月、ジブリ第一作『天空の城ラピュタ』が公開されます。さらに昭和六十三年四月には『となりのトトロ』と『火垂るの墓』が、なんと二本立てで同時公開。いま考えると信じられないような豪華な、そして観終わったあとの心の置きどころに困る組み合わせですが、これも昭和の出来事なのです。トトロも火垂るの墓も、ぎりぎり「昭和の映画」なのですね。
五人の子どもたちと、ジブリと
考えてみると、ジブリの映画が「国民的」になっていった道のりには、映画館だけでなく、お茶の間のテレビとビデオデッキの存在が大きかったように思います。金曜の夜にテレビでジブリ作品が放映されると、翌日の学校や職場でその話になる。録画したビデオを、子どもが擦り切れるほど繰り返し観る。劇場公開のときは静かだった『となりのトトロ』が、やがて誰もが知る存在になっていったのも、そうやって一家のテレビの前で何度も再生されたからこそでしょう。映画というより、家族の暮らしの一部。ジブリ作品には、そういう染み込み方をする力がありました。
私自身がジブリ作品ときちんと向き合うことになるのも、ずっとあとのことです。我が家には五人の子どもがいます。子育ての日々の中に、ジブリの映画はいつも当たり前のようにありました。

そして、我が家の子どもたちは、揃ってジブリ映画が大好きでした。テレビで放映されればもちろん一家でかじりつき、新作が劇場にかかれば、これは必ず観に行く。それが我が家の決まりごとのようになっていました。かつて腐海より不良少年に夢中だった父親が、いつのまにか子どもたちに連れられて映画館のジブリ作品の前に座っている。人生というのは、おかしなところに連れていってくれるものです。
高校球児だった私が汗を流していたあの六月に、吉祥寺の小さな部屋で生まれた会社が、めぐりめぐって我が子たちの子ども時代を彩ることになる。十六歳の私に教えてあげたら、きっとぽかんとするでしょう。お前の子どもは五人だぞ、と教えたら、もっとぽかんとするでしょうが。
おまけ──きょうは千葉県民の日
ところで六月十五日は「千葉県民の日」でもあります。制定されたのは昭和五十九年。県の人口が五百万人を突破したのを記念して定められたもので、日付は明治六年のこの日に木更津県と印旛県が合併して千葉県が誕生したことに由来するそうです。
葛飾の子どもだった私にとって、千葉は江戸川の向こう側の世界でした。そして恥ずかしながら、私は長いあいだ、とんでもない勘違いをしていました。「千葉県民の日は、千葉県民ならディズニーランドにタダで入れる」と、本気で思い込んでいたのです(笑)。どこでそんな話を仕入れたのか、いまとなっては分かりません。調べてみると、そんな事実は過去にも一度もなかったようです。県民の日にディズニーが無料になる──いかにもありそうで、まことしやかに信じてしまう。そういう「県民の日伝説」のようなものが、あの頃あちこちにあった気がします。
千葉県民の日には、県内の公立学校が休みになり、施設の入場が無料や割引になるところもあるとか。学校が休みになる記念日が県ごとにあるなんて、昭和の東京の子どもは知りませんでした。ちょっとうらやましい話です。
結びに
何かが始まった日というのは、たいてい静かなものです。昭和六十年六月十五日も、テレビが速報を流したわけでも、教室で話題になったわけでもない。けれどあの日、確かに何かが始まっていて、それは何十年もかけて、私たちの暮らしの中に深く根を下ろしました。
我が家で、子どもたちが擦り切れるほど繰り返し観た一本は、やはり『となりのトトロ』でした。昭和六十三年公開の、ぎりぎり「昭和の映画」。今では美しい高画質で、いつでも家族そろって、あの森の風に会いに行けます。
みなさんにとって、いちばん思い出深いジブリ作品は何ですか。誰と、どこで観た映画でしょうか。よかったら、聞かせてください。
このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。
▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事)
◀ 前の記事:6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入 | 次の記事:6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた ▶