【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間

今日は5月11日。 昭和の朝には、決まったリズムがあった。 目が覚めると台所からご飯の炊ける匂いがして、テレビをつけると子ども番組が始まっている。朝ごはんを食べながらテレビを見て、時計の代わりに番組の流れで時間を感じていた。 あの頃の朝のことを、今日は書きたい。 朝ごはんとピンポンパン 朝ごはんを食べながら見ていたのが、フジテレビの**「ママとあそぼう!ピンポンパン」**だった。 昭和41年(1966年)10月3日から昭和57年(1982年)まで、実に15年半にわたって放送されたこの幼児番組は、フジテレビの若手女性アナウンサーが「おねえさん」として司会を務める形式で、歌や体操やお話のコーナーが続く、朝の子どもの定番だった。 お茶碗を両手で持ちながら、画面を眺めていた。おねえさんが歌う。カッパのカータンがとぼけたことを言う。子どもたちが体操をする。 朝ごはんを食べながら見る番組というのは、不思議と記憶に残るものだ。おかずの味と、テレビから流れてくる音楽と、台所で動く母の気配が、全部混ざり合って一つの記憶になっている。 そして番組のフィナーレに、あれがあった。 「おもちゃへいこう!」 新兵ちゃんの掛け声とともに、スタジオに出演していた子どもたちが一斉にスタジオセットの大木へと突進していく。「おもちゃの木」の節穴の中には、おもちゃがぎっしり詰まっている。子どもたちは我先にと手を伸ばして、おもちゃを抱きしめる。 テレビの前で、それをただ見ていた。 本当に羨ましかった。 昭和40年代の子どもにとって、おもちゃは誕生日かクリスマスの「特別なもの」だ。駄菓子屋で10円のお菓子を買うのとは、まったく違う話だ。だからあの木が眩しかった。「ねえ、ピンポンパン出たい」と母に言った子どもが、日本中に無数にいたはずだ。 「ぱたぱたママ」が流れたら、保育園の時間 ピンポンパンが終わると、続いて始まるのが**「ひらけ!ポンキッキ」**だった。 昭和48年(1973年)4月から始まったフジテレビの幼児番組で、ガチャピンとムックという2体のキャラクターと「おねえさん」が進行する、こちらも昭和を代表する子ども番組だ。「およげ!たいやきくん」を世に出した番組としても知られている。 ポンキッキが始まると、それが保育園へ行く時間の合図だった。 番組の最初のほうに流れていたのが**「ぱたぱたママ」と「一本でもニンジン」**。のこいのこさんが歌うこれらの曲が聞こえてくると、「そろそろだな」という感覚があった。 「いちほんでもにんじん、にほんでもにんじん、さんぼんでもにんじん……」 そのメロディーを1曲聞き終わると、母の声がかかった。 「行くわよ」 玄関に向かう。年子の妹も一緒だ。外に出ると、母が自転車を出して待っている。後ろの荷台と前のカゴ、あるいはハンドルにまたがるようにして、3人で乗り込む。 3人乗り自転車。 今の感覚では「危ない」と言われるが、昭和の頃はそれが当たり前だった。お母さんが自転車をこいで、子どもを前後に乗せて保育園や幼稚園に連れて行く。朝の住宅街には、そういう自転車がたくさん走っていた。 母の背中に顔をうずめながら、自転車が走り出す。まだテレビの音が耳の中に残っていた。「ぱたぱたママ」のメロディーが、頭の中でまだ続いていた。 阿久悠と小林亜星が作った朝の歌 「ピンポンパン体操」はオリコン童謡チャート1位、260万枚の大ヒットを記録した曲だが、その作詞・作曲を手掛けたのが阿久悠と小林亜星というコンビだ。 当時の日本を代表する作詞家と作曲家が、子ども番組のために本気で曲を作っていた。「トラのプロレスラーはシマシマパンツ……」というあの歌詞は、今も口をついて出てくる人がいるはずだ。 「ひらけ!ポンキッキ」の「ぱたぱたママ」や「一本でもニンジン」も同様だ。一見シンプルな子ども向けの歌に、プロの作り手たちが真剣に向き合っていた。だからこそ半世紀経った今も、あのメロディーは記憶の奥底に生きている。 子どもの頃に耳に入った音楽は、言葉や映像よりも深いところに刻まれる。「ぱたぱたママ」が流れると、今でも反射的に「そろそろ行かないと」という感覚がよみがえる。頭ではなく体が覚えているのだ。 おわりに ピンポンパンのおもちゃの木を羨ましく眺めて、ポンキッキの「ぱたぱたママ」を聞きながら保育園へ向かった。母の背中に揺られる自転車の上で、テレビから流れてきた歌がまだ耳の中に残っていた。 毎朝、毎朝、同じことの繰り返しだった。 でも今になって思う。あの繰り返しの中に、昭和の朝のすべてが詰まっていた。朝ごはんの匂いと、テレビの音楽と、母の「行くわよ」という声と、年子の妹と一緒に乗り込んだ自転車の揺れ。 それが私の、昭和の朝だった。 あなたの昭和の朝には、どんな音楽が流れていただろうか。

May 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話

今日は母の日だ。 5月の第2日曜日。店先にカーネーションが並び、テレビのCMが「お母さんへの感謝を」と呼びかける、毎年やってくるこの日。 今年の母の日は、少し違う気持ちで迎えている。 母が入院しているからだ。 今年88歳になる母は、今、病院のベッドの上にいる。容態は楽観できない。だからこそ今日という日が、いつもより少しだけ重く、そしてあたたかく感じられる。 一人の少女の「ありがとう」から始まった 母の日の始まりは、20世紀初頭のアメリカだ。 1905年5月9日、アメリカのフィラデルフィアに住むアンナ・ジャービスという女性の母が亡くなった。母は生前、南北戦争で傷ついた兵士たちの看護に人生を捧げた人だった。アンナはその母をしのんで教会に白いカーネーションを飾り、「生きているうちに母に感謝を伝える日を作るべきだ」と訴え続けた。 その想いがアメリカ中に広がり、1914年、ウィルソン大統領が5月の第2日曜日を「母の日」として国民の祝日に定めた。 日本には大正時代にキリスト教を通じて伝わり、昭和12年(1937年)に森永製菓が「森永母の日大会」を大々的に開催したことで全国に広まった。そして戦後の昭和24年(1949年)ごろから、5月の第2日曜日が定着した。 一人の少女が亡き母に手向けた白いカーネーションが、海を越えて昭和の子どもたちの手にも届いた。 昭和の子どもと、カーネーション問題 昭和の母の日に、子どもたちを悩ませたことがあった。 カーネーションをどうやって渡すか問題だ。 学校ではこの時期、図工の時間に赤いカーネーションを折り紙や画用紙で作ることが多かった。または近所の花屋で本物を買う。問題はその先だ。 「はい、これ」と無造作に渡せれば苦労はない。でも昭和の子どもにとって、母親に面と向かって「いつもありがとう」と言うのは、気恥ずかしくてたまらないことだった。 テーブルの上にそっと置いておく。気づかれないうちに花瓶に差しておく。そういう作戦を取った子どもは多かったはずだ。母親はそれをわかっていて、わざと気づかないふりをして後で「あら、かわいい」と言ってくれる。その距離感が、昭和の親子の間にはあった。 思えば、照れくさくて言えないことを花が代わりに言ってくれる──それがカーネーションという花の役割だったのかもしれない。 テーブルの上の100円玉と、母の背中 昨日の記事で、こんな話を書いた。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はない。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃、母がどんな思いでその100円玉を置いていたか、子どもの私には考えも及ばなかった。ただ嬉しくて、握りしめて飛び出していた。 でも母の日になると、ふと気になった。お母さんは今日も仕事に行くのだろうか。疲れていないだろうか。毎日毎日、子どもたちのために働いて、帰ってきてご飯を作って、洗濯をして。それが当たり前の風景すぎて、当たり前すぎることに気づかなかった。 カーネーションを買いに行ったのは、母の日の朝だった。近所の花屋で赤いカーネーションを1本選んだ。帰ってきた母に、うまく渡せたかどうか、正直あまり覚えていない。たぶん「はい」と差し出して、母が「ありがとう」と言って、それで終わりだったと思う。 でも母は、そのカーネーションをちゃんと花瓶に差して、しばらく飾っていた。 88歳の母へ あれから何十年が経った。 母は妹の最初の出産を機に、妹夫婦と同居するようになった。3人の孫に囲まれた暮らしの中で、妹の子どもたちだけでなく、私の子どもたちも合わせて8人の孫を可愛がってくれた。 昭和の時代に私たち兄妹を育て、平成を生き、令和になっても孫たちの笑顔の中心にいた。そんな母が今年、88歳になる。 今、母は入院している。病室のベッドの上で、今日の母の日を迎えている。容態は、楽観できるものではない。 それでも──いや、だからこそ、今日ははっきりと言いたい。 私たち兄妹を育ててくれて、8人の孫を可愛がってくれて、本当にありがとう。 私はあなたの子どもで、本当に良かった。 照れくさくて昭和の子どもの頃には言えなかった言葉を、57歳になった今、この場所に書いておく。 おわりに 母の日に母親が健在であれば赤いカーネーションを贈る、という習慣がある。アンナ・ジャービスが白いカーネーションから始めた母の日が、日本では赤と白という形に引き継がれた。 今日、赤いカーネーションを贈れる人は、ぜひ贈ってほしい。 照れくさくてもいい。うまく言葉にならなくてもいい。昭和の子どもたちがそうだったように、花がきっと代わりに言ってくれる。 あなたのお母さんの、あの頃の背中を、今日だけ少し思い出してもらえたら嬉しい。

May 9, 2026

三男が生まれた日、僕は100万円をFXに突っ込んだ

私が「投資」という言葉を意識したのは、2013年の9月のことです。 なぜそこまではっきり覚えているかといえば、三男が生まれたタイミングだったから。産声を聞いたあの瞬間から、胸の奥にじわじわと広がってきたのは感動だけではありませんでした。同時に、正体のよくわからない焦りのようなものが、ゆっくりと込み上げてきたのです。 「何かをやらなくちゃ。このままじゃダメだ。」 当時、私にはすでに三人の子どもがいました。長男、長女、そして次男。そして今度で四人目——三男の誕生です。守るべきものが増えるということは、同時に「自分に何かあったら」という不安の重さも増すということでした。 「何か」をやらなければという焦りは、なぜかまっすぐ「投資」という言葉に向かいました。知識があったわけでも、誰かに勧められたわけでもない。ただ、インターネットをポチポチと検索しながら、気づいたらFXという世界に辿り着いていたのです。 どうにかこうにか口座開設を完了させ、100万円を入金。画面の前で「いざ!」と気合を入れたはいいものの、正直なところ何をどうすればいいのか、まったく分かりませんでした。チャートの読み方も、注文の仕組みも、レバレッジの意味さえも。 それでも、人生で最初の「エントリー」だけは、なんとか成功させました。 そこから先は、これまでの人生で経験したことのない感覚の連続でした。数字が動くたびに心臓が跳ねる。プラスになれば息が上がり、マイナスになれば胃が縮む。たった数万円の値動きで、これほどまでに感情が揺さぶられるとは思っていませんでした。 たまたまその日は、何かの経済指標の発表時間と重なっていたようです。2〜3時間、ただ値動きをドキドキしながら眺めていると、突然、相場が円安方向に大きく動き出しました。含み益がみるみる膨らんでいく。8万円のプラス。 震える手で決済ボタンを押しました。 あのときの感覚を、今でもはっきり覚えています。「俺の人生は、これからバラ色だ」と、本気でそう思いました。お金は、努力しなくても手に入るのかもしれない——そんな、恐ろしいほど根拠のない自信が、全身に満ちていました。 ビギナーズラックというものは、本当にあるんですね。 しかし振り返れば、あの8万円の勝利こそが、その後の「泥沼」への入口でした。 次回:興奮が慢心に変わるとき——FXという沼の、深さを知る

May 9, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙

今日は5月9日、アイスクリームの日だ。 明治2年(1869年)のこの日、横浜・馬車道通りの「氷水屋」が日本で初めてアイスクリームを製造・販売した。当時の名称は「あいすくりん」。その値段、1人前2分。現代の価値に換算すると、およそ8000円。 8000円のアイスクリームだ。 幕末から明治の日本人がそれを口にしたとき、いったいどんな顔をしたのだろうか。冷たくて、甘くて、これまで食べたことのない何かが口の中に広がる。 その「8000円のあいすくりん」が、昭和の子どもたちの手の中に収まる10円や20円のアイスになるまでに、100年の歴史があった。 でも今日書きたいのは、その歴史よりも、もっと小さな話だ。 あの頃の、放課後のことを書きたい。 テーブルの上の、100円玉2枚 小学生の頃、1日のお小遣いは50円から100円だった。 学校から帰ると、母親の姿はなかった。パートの仕事に出ていたから、家の中はいつも静かだった。玄関を開けると、シンとした空気と、どこか懐かしいにおいがした。 ランドセルを下ろして台所に行くと、テーブルの上に必ずそれがあった。 簡単な手紙と、100円玉が2枚。 「おかえりなさい」という母の文字。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 それだけのことだ。長い言葉は何もない。でもあの100円玉2枚が、「今日も仕事に行ってくるけど、ちゃんとあなたたちのことを思っているよ」という母の気持ちそのものだったと、今になってわかる。 当時の私はそんなことを考えもしなかった。ただ100円玉を握りしめると、体の中に火がついたように外に飛び出したくなった。 プラバットとカラーボールを持って 玄関の横に置いてあったプラスチックのバットとカラーボールを手に取る。 昭和の子どもの定番の遊び道具だ。本物の木製バットは高くて危ないから、軽くて柔らかいプラスチック製のバットとゴム製のカラーボールがセットで売っていた。あの取り合わせは昭和の放課後の象徴だったと思う。 学校のそばの公園まで走った。走りながら、すでに頭の中では試合が始まっていた。 公園に着くと、友達がもう来ていた。ランドセルがベンチの上に無造作に積まれている。「遅いぞ」と誰かが言う。「今来たばっかりだろ」と誰かが言い返す。そういう会話が毎日繰り返された。 王さんの一本足と、淡口選手の「おしりプリッ」 バットを持つと、誰もがあのポーズを真似た。 王貞治の、一本足打法だ。 左足を高く上げて、ぐっとタイミングを合わせてバットを振り下ろす。「世界の王」と呼ばれたあの打撃フォームは、昭和の子どもたちにとってあこがれそのものだった。誰もがやってみる。でもバランスを崩してよろけて、笑いが起きる。それがまた楽しかった。 もう一人、必ず誰かが真似したのが淡口憲治選手だった。 読売ジャイアンツの外野手として活躍した淡口選手の打席での構えは、独特だった。バットを構えるとき、腰をひねるようにして「おしりをプリッ」と出すあの仕草が、子どもの目にはたまらなくおかしく見えた。真似すると必ず笑いが起きる。誰かがやるたびに「プリッ!」「プリッ!」と声が上がり、公園が笑い声に包まれた。 毎日やった。毎日笑った。同じことを何度繰り返しても、飽きることがなかった。 駄菓子屋のホームランバー ひとしきり野球で遊ぶと、公園のそばの駄菓子屋に吸い込まれるように入っていった。 昭和の公園の近くには、たいてい駄菓子屋があった。小さな店で、ガラスケースの中にカラフルな駄菓子が並んでいる。奥のおばちゃんは、子どもが来ても急かさない。じっくり選んでいいよ、という空気があった。 冷凍ケースの前に立つと、白い霧が漏れてくる。中を覗き込む。 ホームランバーを選ぶ。 昭和35年(1960年)に協同乳業が発売したこのアイスには、棒に「当たり」の焼き印が押してあった。「当たり」が出れば、お店でもう1本もらえる。みんな食べ終わった棒をそっとめくって、息をのんで確認する。「当たりだ!」という声が上がると、その場が一瞬盛り上がる。「ずるい」と誰かが言い、「運だろ」と誰かが言い返す。 100円あれば、ホームランバーを買っても十分おつりが来た。残りのお金で何を買うか、それもまた大事な選択だった。 毎日同じことの繰り返しが、なぜあんなに楽しかったのか 学校から帰る。100円玉を握りしめる。バットとボールを持って公園へ走る。王さんの真似をする。淡口選手の「プリッ」で笑う。駄菓子屋でホームランバーを食べる。 毎日毎日、同じことの繰り返しだった。 でも、本当に楽しかった。 なぜあんなに楽しかったのか、大人になってから何度か考えたことがある。たぶんそれは、毎日が「同じようで違った」からだと思う。今日の王さんの真似は昨日より上手くいった。今日は当たりが出た。今日は淡口選手の真似で一番笑いが取れた。そういう小さな違いが、繰り返しの中に宝のように散らばっていた。 そして何より、あの場所にはいつも誰かがいた。 おわりに 明治2年に8000円だったあいすくりんは、昭和にはコイン1枚で買える食べ物になっていた。 テーブルの上の100円玉2枚。プラバットとカラーボール。王さんの一本足打法と、淡口選手の「プリッ」。駄菓子屋のホームランバーの当たりくじ。 あの放課後は、何も特別なことなどなかった。母親の手紙に深い意味を見出すこともなく、ただ100円玉を握って走り出していただけだ。 でも今、それがどれほど豊かな時間だったかが、ようやくわかる。 あなたの放課後には、何があっただろうか。

May 8, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった

今日は5月8日。 この日付を調べていて、昭和40年(1965年)の5月8日にタツノコプロのテレビアニメ第1号作品「宇宙エース」が放送開始したことを知った。 正直に言う。「宇宙エース」を観た記憶が私にはない。再放送も含めて、まったく記憶にないのだ。 でも「そこから始まったのか」と知ったとき、じわじわと感慨がわいてきた。なぜなら、この番組が礎を作ったタツノコプロは、私にとって忘れられない土曜日の夜と深く結びついているから。 タツノコプロの、すべての始まり 昭和38年(1963年)、東京都国分寺市に「竜の子プロダクション」──のちのタツノコプロが生まれた。 創業者は人気漫画家・吉田竜夫と弟たちの三兄弟だ。「自分の漫画をアニメにしたい」という夢を抱いて立ち上げた会社だったが、アニメ制作のノウハウはゼロだった。新聞に求人広告を出すと、夢を持った若者が約60人集まった。専門家ではない、ほぼ素人の集団だ。 その60人が必死に作り上げたのが、昭和40年5月8日放送開始の「宇宙エース」だった。 宇宙船団からはぐれて地球にたどり着いた惑星パールム星の王子・エースが、スーパーパワーで悪と戦うSFアドベンチャーだ。当時はカラーテレビがまだ普及していなかったため、モノクロで制作された。視聴率は平均16.5%。大ヒットとは言えない数字だったが、1年間・全52話を走り切った。 そしてこの経験が、すべての土台になった。 「宇宙エース」で培ったノウハウと人材が、マッハGoGoGo、科学忍者隊ガッチャマン、そして「タイムボカン」シリーズへと受け継がれていく。ちなみに「ガッチャマン」の悪の組織名「ギャラクター」は、宇宙エースに登場した悪役の名前からそのまま引き継がれたものだ。 昭和40年5月8日に産声を上げた白黒の宇宙人の少年が、昭和アニメの歴史を動かした。 土曜日の夜が、一番好きだった 宇宙エースを私は知らない。でもタツノコプロが作り上げていったその世界は、私の子ども時代の中心にあった。 昭和50年代のある時期から、私にとって土曜日は特別な日になった。 正確に言えば、土曜日の夜6時30分から始まるあの時間帯のためだけに、一週間を生きていたと言っても過言ではないくらいだった。 18時30分──タイムボカンシリーズ。 ヤッターマン、ゼンダマン、オタスケマン……タツノコプロが生んだあの黄金のコメディシリーズだ。毎週ドロンジョ一味が悪巧みをして、最後に爆発してやられる。わかっているのに笑ってしまう。あのパターンの心地よさといったらなかった。ドロンジョ様はなぜか怖くなくて、むしろ愛おしかった。 19時00分──まんが日本昔ばなし。 「♪むかし むかし そのむかし」のオープニングとともに始まる、あたたかいアニメ。コミカルな話もあれば、ちょっと怖い話もあった。常田富士男と市原悦子の二人が何役もこなす語りは、今思い返しても唯一無二の味わいだ。 19時30分──仮面ライダーV3。 仮面ライダーといえば1号・2号という刷り込みがあったが、V3はそれを軽く超えてきた。風見志郎のスタイリッシュな戦いぶり、ダブルタイフーンの必殺技。デストロン怪人のおどろおどろしいデザインに毎週ビビりながら、それでも目を離せなかった。 20時00分──8時だよ!全員集合。 加藤茶のちょっとだけよ、いかりや長介のバカヤロー、志村けんのバカ殿……土曜の夜8時になると日本中の茶の間が爆笑に包まれた。「ドリフのコントが終わったら今週も終わりだ」という感覚があった。そして、ドリフが終わった後の9時台に始まる番組が、また最高だった。 21時00分──Gメン'75。 ドスの利いた丹波哲郎が率いる捜査チームが、大物犯罪者を追い詰めていく。子どもには少し難しいドラマだったけれど、あの重厚な雰囲気に引き込まれた。 そして、必ず来る。 「もう寝なさい!」 母か父の声が飛んでくる。9時を過ぎると、子どもは布団に入らなくてはいけない。Gメンの核心に差し掛かったところで、強制終了だ。しぶしぶ布団に入りながら、「今日の犯人は誰だったんだろう」と天井を見つめた。翌日、友達に結末を聞くのがまた楽しみだった。 あの夜のことを、今も覚えている 18時30分から21時まで。2時間半の土曜の夜。 タイムボカン、まんが日本昔ばなし、仮面ライダーV3、全員集合、Gメン'75。このラインナップを思い出すだけで、今でも胸がじわっと熱くなる。 昭和の土曜日は、学校が午前中で終わった。給食を食べて、午後からは自由だ。友達と外で遊んで、日が暮れて家に帰って、ご飯を食べて風呂に入って、そしてあの時間が始まる。 一週間の中で、あの夜が一番好きだった。 そしてそのすべての始まりが、昭和40年5月8日の夜6時15分に、白黒のテレビ画面に映し出された無名のアニメだったとは、当時の私には知る由もなかった。 おわりに 「宇宙エース」を私は知らない。でも宇宙エースがなければ、あの土曜日の夜はなかった。 素人60人が新聞広告で集まり、ノウハウもないまま作り上げた一本の白黒アニメが、タツノコプロという会社を育て、タイムボカンシリーズを生み、あの土曜日の夜の記憶を作った。 始まりはいつも、誰にも気づかれないところにある。 あなたが子どもの頃に夢中になっていた、あの土曜日の夜のことを、少しだけ思い出してもらえただろうか。

May 7, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃

今日は5月7日。五月の日差しが少しずつ強くなってくる。 昭和の子どもにとって、初夏の楽しみといえば学校帰りの駄菓子屋や商店で買うアイスだった。10円、20円、30円。小さなお小遣いを握りしめて、冷凍ショーケースの白い霧の向こうを覗き込んで選ぶ、あの時間。 昭和44年(1969年)の5月7日、佐賀県の小さなお菓子屋から、一本のアイスが世に出た。 「ブラックモンブラン」。 今も九州の人々に愛され続けるそのアイスは、遠いフランスの雪山の麓で生まれた夢から始まった。そしてそのアイスが作り上げた「チョコバリ系」というジャンルが、昭和50年代の東京の子どもに、忘れられない衝撃を与えることになる。 モンブランを見た男の、とんでもない発想 昭和40年代の初め、竹下製菓の3代目社長・竹下小太郎はヨーロッパへの経済視察旅行に参加した。 訪れたのはフランス・アルプスの山岳リゾート地、シャモニー。標高が高く、夏でも冷え込むその街の向こうに、ヨーロッパ最高峰の白銀の頂・モンブラン山がそびえていた。 それを眺めながら、竹下小太郎の頭に一つの考えが浮かんだ。 「この真っ白い雪山に、チョコレートをかけて食べたらさぞ美味しいだろう」 帰国後、竹下は試作を繰り返した。バニラアイスをチョコレートで包み、その外側にザクザクとしたクッキークランチをまぶす。シンプルだが、当時のアイスとしては革命的な組み合わせだった。 当時の子ども向けアイスといえば、甘味料を加えた色水を棒に刺して固めただけのシンプルなアイスキャンデーが主流だった。バニラアイスにチョコレートとクッキーという「洋菓子風の高級感」は、それまでの駄菓子アイスとはまったく別の存在だった。 アイスクリームの最高峰を目指すという意味を込め、その名前にあの山を冠した。昭和44年5月7日、ブラックモンブランが誕生した。 フライみたいなアイスの、あの衝撃 ブラックモンブランは九州を中心に広まった。しかし昭和50年代に入ると、同じ「チョココーティングのクランチアイス」という系統の商品が、少しずつ全国にも姿を現し始めた。 私が東京でそれを初めて目にしたのは、昭和50年代のことだった。 近所の商店の冷凍ケースの中に、見たことのない形のアイスがあった。「チョコバリ」。 最初は、アイスだとわからなかった。表面がチョコレートでびっしりと覆われていて、まるでフライのようにゴツゴツとしている。「これ、アイスなの?」という衝撃だった。それまでのアイスといえば、細長い棒に色のついた氷が刺さったもの、あるいは丸いカップに入ったもの。チョコレートの鎧をまとった、あんな見た目のアイスを見たことがなかった。 どんな味がするんだろう。かじったらどうなるんだろう。中は何が入っているんだろう。 ところが、当時の私のお小遣いでは、チョコバリは少し高価に感じた。いつも買っていた棒アイスや氷菓子に比べると、値段がワンランク上だった。友達と一緒にいるのに「買えない」とは言いたくない。でも財布の中身が心もとない。そういう複雑な気持ちで、ケースの前でしばらくじっと見つめていた記憶がある。 結局その日は買えなかった。 初めてチョコバリを口にしたとき、チョコレートとクランチがバリッと割れて、中からひんやりとしたバニラが出てくるあの瞬間の感触は、今でも鮮明に覚えている。「こんな食べ物があったのか」という発見の味だった。 アイスが呼び起こす、リアルな記憶 今でも、スーパーやコンビニでチョコバリ系のアイスを見かけることがある。 棒に刺さったチョココーティングのアイスが、冷凍ケースの中に並んでいる。何気なく目に入るだけで、あの頃の記憶が一気によみがえってくる。 不思議なことに、映像として出てくるのだ。 昭和50年代のあの商店の前。一緒にいた友達の顔。その日に何をしていたか。どんな季節だったか。アイスを眺めながら「買おうかどうしようか」と迷っていた自分の、あの気持ち。 アイスひとつで、そこまで鮮明に出てくることが、我ながら不思議だと思う。 これは「プルーストの記憶」と呼ばれる現象に近いのかもしれない。フランスの作家マルセル・プルーストが、マドレーヌを紅茶に浸した瞬間に幼少期の記憶が洪水のようによみがえるという体験を書いた有名な場面だ。味や匂い、視覚の記憶は、言葉や論理で整理された記憶よりも深いところに刻まれていて、ふとしたきっかけで突然、リアルな映像として浮かび上がってくることがある。 チョコバリを見るたびに、私の中の昭和50年代の夏が戻ってくる。あの頃の友達と、あの頃の町の空気と、お小遣いが足りなくて買えなかったあの悔しさまで、セットで。 「当たり」が出たときの、あの興奮 ブラックモンブランには、子どもたちを夢中にさせるもう一つの仕掛けがあった。 アイスの棒に書かれた**「当たり」くじ**だ。 食べ終わった棒をそっとめくると、「はずれ」か「当たり」の文字が現れる。「当たり」が出れば、お店でもう一本と交換できる。昭和52年から数年間は、特賞として500円の当たりが設けられていた時期もあったという。子どものお小遣いが数百円の時代に、アイス一本で500円が当たる。それはもう、宝くじに近い興奮だった。 棒をじっと見つめて、息をのんで文字を確認するあの瞬間。「当たり」の文字が見えたときの「やった!」という叫びは、九州でも東京でも、昭和の子どもたちに共通の体験だったはずだ。 おわりに 昭和44年5月7日、一人の菓子屋の社長がフランスの雪山に見た夢が、佐賀の工場でアイスになった。 そのアイスが生み出した「チョコバリ系」というジャンルは、やがて九州を飛び出して日本中の冷凍ケースに並ぶようになった。東京の子どもが「フライみたいなアイス」に目を丸くした昭和50年代の夏も、その流れの中の一コマだ。 今もスーパーの冷凍ケースの前で、チョコバリをじっと眺めることがある。買うかどうか迷いながら。あの頃と違うのは、今は買える財布の中身があるということだけだ。 それでも、手に取る前の一瞬、昭和50年代の夏がリアルな映像となってよみがえってくる。あの頃の友達と、あの頃の商店と、あの「フライみたいなアイス」への、ときめきとともに。

May 6, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月6日──「ワープロ」という言葉が生まれた日、そして今

今日は5月6日。連休が明けて、また日常が始まる。 昭和の大人たちにとって、この時期はデスクに積み上がった仕事が待ち構えていた。書類、報告書、手紙。昭和の職場では、そのすべてが手書きか、和文タイプライターで打たれていた。 そんな昭和の「書く仕事」を、根本から変えてしまった機械がある。 ワープロ──ワードプロセッサーの略だ。 昭和57年(1982年)の5月6日、富士通がある機械を発表した。日本初の100万円以下のワープロ、その名も「マイオアシス」。この日が、「ワープロ」という言葉が日本に定着するきっかけになった日でもある。 75万円の「文明の利器」 「マイオアシス」の価格は75万円だった。 今の感覚では「それでも高い」と思うかもしれない。でも当時のワープロは1台500万円以上が当たり前の時代だった。それが75万円になった。半額以下どころか、7分の1以下だ。オフィスの大型機械だったワープロが、初めて「買えるかもしれない」という存在になった瞬間だった。 この発売に合わせて、富士通は大相撲の人気力士・高見山を起用したテレビCMを大量に放映した。外国人力士として初めて幕内最高優勝を果たし、愛嬌あふれるキャラクターで日本中に人気だったあの高見山が、ワープロのキーボードを叩く映像が全国に流れた。 このCMの中で繰り返し使われた「ワープロ」という略称が、そのまま日本語として定着した。それまでは「日本語ワードプロセッサー」と呼ばれていたこの機械を、日本人は「ワープロ」と呼ぶようになった。 高見山とワープロ。なんとも昭和らしい組み合わせだと思う。 和文タイプライターからワープロへ ワープロが登場する前、日本の職場で文書を作るのがいかに大変だったか、今の若い世代には想像もつかないかもしれない。 和文タイプライターというものがあった。2000個以上の活字が並んだ大きな盤の上を、専用の棒で一文字一文字探して、ガチャンと打ち込んでいく。熟練のタイピストが必死に習得した職人技だった。それでも漢字の種類は限られていて、特殊な文字は使えなかった。 ワープロが変えたのは、そこだった。キーボードでひらがなを打てば、漢字に変換してくれる。間違えても、印刷前なら何度でも直せる。文章を丸ごと動かしたり、コピーしたりもできる。 昭和の大人たちが初めてワープロを触ったときの驚きは、相当なものだったはずだ。「こんなことができるのか」という感動と、「自分にも使えるだろうか」という不安が入り交じった、あの顔が目に浮かぶ。 「ワープロしちゃう」が流行語になった昭和60年代 マイオアシスが発表された昭和57年から数年後、ワープロは急速に普及していった。 昭和60年(1985年)には、東芝が9万9800円という価格のワープロを発売して「10万円以下」の壁を破った。さらにカシオが5万9800円という衝撃の低価格機を投入し、「電卓戦争の再現」とマスコミに騒がれた。 価格が下がるにつれ、ワープロは家庭にも入り込んできた。「ワープロしちゃう」という言葉が若者の間で流行語になったのも昭和60年代のことだ。 少し裕福な家の友達の家にワープロがあって、みんなで触らせてもらった。カタカタと打てば漢字が出てくる、あの感覚の新鮮さ。学校の作文や卒論をワープロで打ち込んだあの誇らしさ。昭和の終わりごろ、私たちの世代はそうやってワープロと出会った。 ワープロが消え、パソコンが来て、そしてAIが来た 昭和が終わり平成に入ると、ワープロは静かに姿を消していった。 パソコンが普及し、ワープロソフトが使えるようになると、専用機を買う理由がなくなった。「Rupo」「書院」「文豪」「オアシス」──かつてワープロのブランド名として輝いていたそれらの名前は、今の若い世代はほとんど知らない。 そしてパソコン時代が来て、インターネットが来て、スマートフォンが来た。気がつけば、私たちは次々と「新しい文明の利器」を手にしながら、ここまで来た。 そして今、また大きな波が来ている。 AIだ。 今、私たちが手にしているもの 昭和57年に75万円だったワープロが「文明の利器」と呼ばれた。 今、15万円程度のMacBook Airを手にすれば、かつてのスーパーコンピューター顔負けの処理能力と、高度なAIが使える。文章を書かせれば、あっという間に仕上げてくる。調べものをすれば、必要な情報を整理してまとめてくれる。翻訳も、要約も、提案も、瞬時だ。 さらに今はエージェント型のAIまで登場している。人間が「こういうことをやっておいて」と指示を出せば、AIが自律的に考え、判断し、作業を完了させてしまう。ワープロが「手書きからの解放」だったとすれば、AIエージェントは「作業そのものからの解放」に向かっている。 昭和57年に75万円のワープロに驚いた人たちが、今この時代を見たら何と言うだろうか。 これはもはや道具の進化ではなく、現代の産業革命だと思う。蒸気機関が肉体労働を変えたように、AIは知的労働そのものを変えようとしている。 おわりに──振り返ることで、感謝がわいてくる 昭和57年5月6日、「ワープロ」という言葉が日本に生まれた。 あの日、75万円の黒い箱の前でおそるおそるキーボードを叩いた大人たちがいた。「こんなことができるのか」と目を丸くしながら、書く仕事の未来が変わっていく予感を感じていたはずだ。 あれから40年以上が経った。 和文タイプライターからワープロへ。ワープロからパソコンへ。パソコンからスマートフォンへ。そして今、AIへ。 振り返ってみると、私たちはとんでもない時代の変化の中を生きてきたのだと気づく。そして今、その変化のスピードはさらに加速している。 昭和の道具たちへの懐かしさとともに、今この時代に生きていることへの感謝がじわじわと湧いてくる。75万円のワープロに驚いた世代が、AIと一緒に仕事をする時代を生きている。それ自体が、ものすごいことだと思うのだ。

May 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳

今日は5月5日、こどもの日だ。 ゴールデンウィーク最後の祝日。子どもにとっては「もうすぐ学校が始まる」という一抹の切なさと、それでも「今日はまだ特別な日だ」という気持ちが混在する、不思議な一日だった。 昭和の5月5日には、今では見かけなくなったある光景があった。 空を泳ぐ、大きな鯉のぼりだ。 空が、鯉で埋まっていた 昭和40年代から50年代にかけて、こどもの日が近づくと、日本中の住宅街の空に鯉のぼりが上がった。 大きな真鯉(黒)、その下に緋鯉(赤)、そして小さな子鯉(青)。一家に男の子がいれば、屋根の上に竿を立て、高々と鯉のぼりを掲げるのが当たり前だった。風が吹くたびに鯉のぼりがはためいて、丸く開いた口から風を飲み込んでいく。あの姿は、昭和の5月の空の定番だった。 「♪屋根より高い鯉のぼり」という歌の通り、本当に屋根より高いところに掲げた家が多かった。父親が梯子をかけて竿を立てる姿を、子どもは下から見上げていた。 鯉のぼりの由来は江戸時代に遡る。中国の伝説に「滝を登り切った鯉は竜になれる」というものがあり、それにちなんで「この子も鯉のように、どんな困難も乗り越えて育ってほしい」という親の願いが込められた。でも子どもだった私には、そんな由来はどうでもよかった。あの大きな黒い鯉が空に泳いでいるのを見るだけで、なんとなく特別な気分になれた。それだけで十分だった。 兜と、柏餅と、そして銭湯へ 昭和のこどもの日には、家の中にも決まった景色があった。 床の間や棚の上には兜飾りや五月人形が鎮座していた。黒塗りの台の上に飾られた金色の兜は、子どもの目には圧倒的な存在感があった。触ってはいけないと言われながら、こっそり手を伸ばした記憶がある。 食べ物といえば柏餅。柏の葉で包まれた白いお餅の中に、あんこが入っている。柏の葉は「新しい芽が出るまで古い葉が落ちない」という特徴があり、「子孫繁栄」の縁起を担ぐとされていた。昭和の子どもには縁起よりも、あの独特の葉の香りとモチモチした食感の方が大切だったけれど。 そして夜になると、父か母に手を引かれて、銭湯へ向かった。 あの頃、まだ家にお風呂がない家庭は珍しくなかった。昭和40年代の日本では、内風呂の普及率はまだ6割にも満たなかったという。近所の銭湯が、毎日の生活に当たり前のように溶け込んでいた時代だ。 こどもの日の銭湯には、菖蒲湯が用意されていた。大きな湯船に、細長い菖蒲の葉が何本も浮かんでいる。独特の青くさい香りが、湯気と混じって浴室に漂っていた。菖蒲の強い香りが邪気を払うと言われていたし、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武」「勝負」と同じ読みであることから、男の子の健やかな成長を願う意味もあった。 銭湯のおじさんかおばさんが、湯船に菖蒲をどっさりと入れてくれていた。あの光景は、こどもの日だけの、特別な銭湯の顔だった。 湯上りの、コーヒー牛乳 銭湯から上がった後の記憶が、今も鮮やかに残っている。 体を拭いて着替えて、番台の横の冷蔵ケースの前に立つ。そこに並んでいた瓶入りの飲み物の中から、母が「今日はこどもの日だから」と言って、コーヒー牛乳を買ってくれた。 瓶のふたを開けると、甘い香りがふわっと立ちのぼる。冷たくて、甘くて、ほんのりビターで。あの味は、コーヒー牛乳というよりも「ご褒美」そのものだった。普段はなかなか買ってもらえなかったから、特別感がひとしおだった。 当時の銭湯の定番飲み物といえば、白い牛乳、フルーツ牛乳、そしてコーヒー牛乳の三種類が並んでいた。腰に手を当ててグビグビと飲む、あのスタイルも含めて、銭湯帰りの儀式のようなものだった。 コーヒー牛乳1本、ちょっぴり嬉しかった。そのくらいの小さな幸せが、昭和のこどもの日には確かにあった。 鯉のぼりが空から消えていった それから時代が変わった。 昭和50年代後半になると、住宅街の空を泳ぐ大きな鯉のぼりが、少しずつ減っていった。都市部でマンションや集合住宅が増え、大きな竿を立てられる家が少なくなった。内風呂が普及し、銭湯が一軒また一軒と姿を消していった。瓶入りのコーヒー牛乳も、紙パックやペットボトルに取って代わられた。 鯉のぼりが似合っていたのは、あの時代の暮らしの形そのものだったのかもしれない。庭付きの一軒家、縁側、床の間。毎日歩いて通う近所の銭湯。そういう暮らしが当たり前だったからこそ、鯉のぼりもコーヒー牛乳も、あれほど輝いて見えた。 町の空が変わり、家の形が変わり、暮らしが変わる中で、昭和のこどもの日の風景は、少しずつ遠ざかっていった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には大きな鯉のぼり。夜には銭湯の菖蒲湯。そして湯上りに、冷たい瓶のコーヒー牛乳。 あれだけのことが、あんなにも嬉しかった。 昭和を生きた私たちにとって、こどもの日はそういう日だったのだと思う。あなたの記憶の中の5月5日には、どんな味や香りが残っているだろうか。

May 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々

今日は5月5日、こどもの日だ。 空には鯉のぼりが泳ぎ、家には柏餅があって、夜は銭湯の菖蒲湯に入る。昭和のこどもの日にはそういう、穏やかで決まった景色があった。 でも、テレビをつければ、そこには違う景色が映っていた。 難しい顔をしたアナウンサーが、子どもには意味のわからない言葉を繰り返していた。「あさまさんそう」「ロッキード」「りんちょう」。何かが起きているとは感じた。でも何が起きているのかは、わからなかった。 あれから五十年近くが経った。今ならば、あの言葉の意味がわかる。 鉄球が、山荘に打ち込まれた──浅間山荘事件(昭和47年) 1972年の冬、日本中がテレビの前に釘づけになった。 2月19日、長野県軽井沢の山荘に武装した若者たちが立て籠もった。「連合赤軍」という名の学生運動グループが、管理人の妻を人質に取り、山荘に閉じこもったのだ。警察との対峙は10日間に及んだ。 子どもだった私には、「立て籠もり」という言葉の意味もよくわからなかった。でも、テレビに映し出された光景は目に焼き付いている。雪の中に機動隊員が並んでいて、クレーン車の先に大きな鉄球がぶら下がっていた。 2月28日の強行突入、あの鉄球が山荘の壁に打ち込まれる瞬間、視聴率は89.7%を記録した。ほぼ日本中の家のテレビが、同じ画面を映していたことになる。 事件が終わった後、もっと恐ろしい事実が明らかになっていった。 連合赤軍のメンバーたちは、山荘に立て籠もる前に、山の中で仲間どうしを「総括」という名目で殺し合っていた。14人が粛清された。革命を叫んでいた若者たちの末路は、自分たちの手で仲間を殺すことだったのだ。 大人たちが深刻な顔でそのことを話していた。子どもには意味がわからなかった。でも、何か取り返しのつかないことが起きたのだということは、なんとなく伝わってきた。 あの事件が、日本の学生運動の「終わりの始まり」だったと、今はわかる。 総理大臣が、捕まった──ロッキード事件(昭和51年) 「ロッキード」という言葉を、初めて聞いたのはいつだっただろうか。 1976年、私はまだ小学生だった。ニュースでは毎日のように「ロッキード」という聞き慣れないカタカナが飛び交っていた。父が「大変なことになった」と言いながらテレビを見ていた。 アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、日本の政治家や官僚に巨額の賄賂を渡していた。そのことが、2月のアメリカ上院の公聴会で暴露された。日本中が震えた。 そして7月、信じられないことが起きた。 元総理大臣の田中角栄が、逮捕されたのだ。 子どもながら、これは普通のことではないと感じた。総理大臣というのは日本で一番偉い人のはずだ。その人が手錠をかけられて連行される——そんなことがありえるのか、と。 「5億円」という金額がニュースで繰り返された。子どもには5億円がどれくらいの金額なのか想像もできなかったけれど、大変な数字だということはわかった。父が「やっぱりそういうことか」とつぶやいていた。 田中角栄という人は不思議な人だった。 逮捕されて裁判にかけられても、なお選挙では大量得票で当選し続けた。地元の新潟では英雄扱いだった。「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれた政治手腕を惜しむ声は根強かった。有罪判決が確定した後も、「闇将軍」として政界に影響力を持ち続けた。 この事件は「政治とカネ」という言葉を日本語に定着させた。それから五十年、同じ言葉が何度も何度も繰り返されている。 あの夏に見たニュースの衝撃は、大人になった今も消えない。 国鉄が、なくなった──臨調と行政改革(昭和56年) 「国鉄がなくなる」と聞いたとき、子どもの私には意味がわからなかった。 国鉄とは「国有鉄道」のことで、日本全国の鉄道を国が直接運営していた組織だ。昭和の子どもにとって、国鉄は空気のような存在だった。旅行に行けば国鉄、通学に使えば国鉄。あって当たり前で、なくなるはずのないものだと思っていた。 1981年3月、鈴木善幸内閣は「第二次臨時行政調査会」、通称「臨調」を発足させた。会長は土光敏夫という財界の大物で、「増税なき財政再建」というスローガンを掲げた。国鉄・電電公社・専売公社という三つの巨大な国営事業を民間に移すという、大改革の議論が始まった。 5月5日の頃、その審議は本格的に動き出していた。 でも子どもには、臨調が何なのかわからなかった。なぜ国鉄をなくす必要があるのかもわからなかった。ニュースの映像に出てくる難しい顔のおじさんたちが、難しい言葉で何かを言い合っている。それだけだった。 あれから時が流れ、1987年、国鉄は本当になくなった。 JR東日本、JR西日本、JR東海——今私たちが毎日使っている鉄道会社は、あの議論の果てに生まれたものだ。電電公社はNTTになり、専売公社はJTになった。「官から民へ」という言葉が日本政治のキーワードになり、その流れは二十年後の小泉構造改革まで続いた。 国鉄の赤字は、廃止の時点で37兆円にのぼっていたという。その借金は国民全体で分担することになった。平成になっても、令和になっても、まだ返し続けているものがある。財政の問題というのは、一度積み重なると、そう簡単には消えない。 「国鉄がなくなる」という言葉の本当の意味を、子どもの私はわかっていなかった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には鯉のぼりが泳いでいた。でも、テレビの中では何かが揺れていた。 浅間山荘の鉄球。田中角栄の逮捕。国鉄をなくすという議論。 子どもだった私には意味がわからなかった。でも、あの出来事のひとつひとつが、今の日本を作ってきた。警察の特殊部隊が生まれ、「政治とカネ」という言葉が定着し、JRとNTTが誕生した。 大人たちがあの頃に格闘していた問題が、形を変えて今も続いている。 こどもの日に、昭和の大人たちが背負っていたものを振り返る。それが、あの時代を生きた私たちにできることのひとつかもしれない。 あなたの記憶の中の5月5日には、テレビの向こうにどんな景色が映っていただろうか。

May 4, 2026

千羽鶴に込められた思い――高校野球を「親の目線」で見るようになって気づいたこと

こどもの日の朝、夫婦でせっせと鶴を折る 5月5日、こどもの日。 わが家のリビングテーブルには、色とりどりの折り紙が広がっている。妻と私、ふたりで黙々と鶴を折り続ける。これが今年もはじまった。 「文字鶴」という。折る前の紙に一文字ずつ言葉を書き込み、そのまま鶴に仕上げていく。書く言葉はだいたい決まっている。「必勝」「全力」、そして怪我なく無事に戦い抜いてほしいという祈りを込めた言葉たち。一羽折るたびに、息子のことを思う。 息子は高校野球部の2年生だ。 夏の甲子園へ向けて、各地で熱戦が始まる 「全国高等学校野球選手権大会」、通称・夏の甲子園。 その出場をかけた地方大会が、これから全国各地ではじまっていく。どのチームも、この舞台に立つためだけに冬を越え、春を駆け抜けてきた。球児たちの練習はもちろん、それを支える保護者会も動き出す。お茶当番、遠征の送迎、応援の段取り……そのなかでも毎年欠かせないのが、この千羽鶴(文字鶴)づくりだ。 学校によって多少の違いはあるが、どこも気合いは同じ。1000羽、ひとつひとつ手で折る。 負けたチームから、勝ったチームへ 高校野球の大会を見ていると、こんな場面に出会うことがある。 試合に敗れたチームの千羽鶴が、勝ったチームに手渡される光景だ。 決まったルールがあるわけではないし、すべての試合で見られるものでもない。でも、大会を通じて「あ、またそういう場面があったな」と思うことが、親になってから確かに増えた。 「うちはここで終わりになったけど、あとはよろしく頼む」という、言葉にならない引き継ぎ。負けた悔しさと、勝者への期待と、これまで戦ってきたすべてへの敬意が、鶴のなかに凝縮されている。 大会が終盤を迎えるころ、勝ち進んできたチームのそばには、いくつもの学校から集まった千羽鶴が積み重なっていることがある。それはもう、そのチームだけのものではない。脱落していったたくさんのチームの「思い」がそこに乗り移っている。 「親になって」はじめて見えた景色 高校野球は、もともと好きだった。テレビ中継もよく見ていたし、名勝負もいくつか記憶している。でも正直なところ、選手たちの「向こう側」まで想像することは、あまりなかったと思う。 息子が野球部に入り、保護者として関わるようになってから、見え方がまったく変わった。 グラウンドで戦っている子どもたちの後ろには、折り紙と格闘している親たちがいる。早朝から弁当を作り、炎天下で旗を振っている家族がいる。ひとつのアウト、ひとつのヒットに、いくつもの人生が重なっている。 「一戦ごとに強くなる」の本当の意味 高校野球の解説でよく耳にする言葉がある。 「このチームは一戦一戦勝ち進むたびに、強くなってきましたね」 以前はその言葉を、選手たちの成長や経験値の話として聞いていた。でも今は、少し違う解釈が加わっている。 勝ち進むたびに、その肩に乗ってくるものが増えていく。負けたチームの鶴、脱落した仲間たちの思い、遠くから見守る家族の祈り。それを受け取るたびに、選手たちは「自分たちだけのため」ではなくなっていく。背負うものが増えることが、人を強くすることがある。 高校野球が「特別」な理由 多くの人が高校野球に夢中になるのは、なぜだろう。 プロ野球より技術は劣る。ミスも多い。それでも目が離せない。 きっと多くの人が、グラウンドの向こう側にあるものを直感的に感じ取っているからだと思う。解説者の言葉や、スタンドの応援、ベンチの涙。その断片から、「このチームにはなにかある」と感じる。それが高校野球の磁力だ。 千羽鶴に込められた思い、そして時に見かける「負けたチームから勝ったチームへの鶴の受け渡し」。そういった「見えないもの」が確かにそこにある。 親になってはじめて、私はその「見えないもの」の重さを、少しだけ知ることができた気がしている。 今年も、いくつもの鶴を折り終える前に、夏がやってくる。 息子よ、怪我なく、全力で。 それだけでいい。

May 4, 2026