9月8日 ── 毒霧を吹いた日本人と、中間子を予言した日本人|昭和の今日は何があった日?
九月八日には、まるで似ていない二人の日本人が並んでいます。 一人は、顔を白と赤に塗り分け、口から緑色の霧を吹いた男。もう一人は、原子核の中に誰も見たことのない粒子があると言い当て、日本人で初めてノーベル賞を受けた学者。 ザ・グレート・カブキは昭和二十三年(一九四八年)九月八日に生まれ、湯川秀樹は昭和五十六年(一九八一年)九月八日に亡くなりました。片方は誕生日、片方は命日。共通点は日付だけ。 それでも今日はこの二人を並べてみます。子どもだった私にとって「世界で通用した日本人」は、どういう顔をしていたのか。そう考えると、どうしてもこの二人が同じ線の上に乗ってくるのです。 延岡の自転車屋の三男坊 ザ・グレート・カブキ、本名を米良明久(めら・あきひさ)といいます。宮崎県延岡市に三人兄弟の末っ子として生まれました。お父さんは戦艦大和の元乗組員で、戦後は自転車店を営んでいたそうです。中学二年で愛知県知立市へ移り、学生時代は水泳の選手として活躍、柔道にも打ち込んでいました。 昭和三十九年(一九六四年)一月、日本プロレスに入門。同じ年の十月三十一日、宮城・石巻大会の山本小鉄戦でデビュー。翌年、リングネームを高千穂明久に改めます。 ここまでは、正直に言って、地味です。派手な必殺技があるわけでもない、堅実に試合を組み立てる中堅どころ。日本プロレスが崩壊すると全日本プロレスへ移り、そこでも中堅のまま、やがてアメリカへ渡ります。 昭和五十六年(一九八一年)一月、そのアメリカで、彼は「ザ・グレート・カブキ」になりました。 歌舞伎の隈取りのようなペイント。般若の面をつけた連獅子姿、鎖帷子をまとった忍者スタイル、日本刀を携えた鎧武者姿。両手のヌンチャクを唸らせ、口から霧を吹く。「東洋の神秘」という異名がつきました。 面白いのは、アメリカでの彼の「出身地」が、日本ではなくシンガポールとされていたことです。当時のアメリカには、すでに日本製の自動車も電化製品も行き渡っていた。日本はもう「神秘の国」ではなかったのです。だから、もっと遠い、もっと得体の知れない場所から来たことにする必要があった。日本人が日本人であることを隠して「東洋の神秘」を演じる。あの時代の日本と世界の距離が、そのまま写り込んでいるように思います。 そしてこのギミックが、爆発しました。 昭和五十八年二月、カブキが帰ってきた 昭和五十八年(一九八三年)二月、カブキは凱旋帰国します。全日本プロレスのリングに、カブキのまま登場。馬場や鶴田と並ぶほどの人気を得た、と記録されています。世に言う「カブキブーム」です。 180センチ、110キロ。数字だけなら、当時のプロレス界で飛び抜けて大きいわけではありません。それでも画面の中で、あの顔は明らかに異物でした。 私は全日本も見ていました。土曜日の夕方ではなかったでしょうか。新年恒例の、たくさんのレスラーがリングに上がって生き残りをかけるバトルロイヤルは、毎年の楽しみでした。 毒霧も、もちろん見ました。ただ、かっこいいと言うよりは、あの「異様」さのほうに興味を持ちました。緑色の霧が口から噴き出す。あれには驚かされたものです。 私はタイガーマスクが好きな少年でしたが、怪奇派の悪役が嫌いだったかというと、まったく逆です。タイガーマスクだけでは盛り上がりませんよね。やはり実力と人気もある悪役レスラーが存在してこそ、引き立つヒーローでしょう。カブキは、その役割そのものでした。 そして学校でどうしたか──当然、やりました(笑)。水を口に含んで、思いきり吹く。あれをやらなかった中学生が、あのころどれだけいたでしょうか。 日本を出るときは中堅だった男が、アメリカで別人になって帰ってきた。しかもその別人は、外国人が思い描く「日本」を思いきり誇張した姿をしていた。逆輸入では足りない、奇妙なねじれがそこにはあります。このスタイルは、のちのグレート・ムタに受け継がれていきました。 中学時代まで、プロレスの見方は小学生のころと変わりませんでした。全日本も新日本も、どちらも興味を持って観ていた。ただ感覚的には、周りで話題になっていたのはアントニオ猪木の新日のほうだったように思います。カブキは、その外側から現れました。 その二年前、同じ日に カブキがアメリカで生まれ変わったのが昭和五十六年一月。その同じ年の九月八日、京都で一人の学者が亡くなりました。 湯川秀樹。生まれは東京の麻布、育ちは京都でした。 昭和十年(一九三五年)、二十代の若さで、原子核の中で陽子や中性子を結びつける「中間子」という粒子の存在を、理論的に予言しました。実物は誰も見ていない。計算と理屈だけで、そこに何かがあるはずだと言い切ったのです。 十二年後の一九四七年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが、宇宙線の中からパイ中間子を発見します。紙の上で言い当てたものが、本当にあった。そして昭和二十四年(一九四九年)、湯川秀樹は日本人として初めてノーベル賞を受賞しました。 戦争に負けて四年目です。焼け跡がまだ残る国で、日本人がノーベル賞を受けた。国じゅうが沸いたと伝わっているのも、無理はないと思います。 昭和四十五年(一九七〇年)に京都大学を定年退官。その後は前立腺癌を患い、自宅で療養しながら学術活動を続けました。米ソの緊張が激しくなるなか、亡くなる年の六月には十五年ぶりに第四回科学者京都会議を実現させ、相当に悪い体で車椅子のまま出席して、核兵器の廃絶を訴えています。 その三か月後、急性肺炎から心不全を併発し、京都市左京区の自宅で亡くなります。七十四歳。 昭和五十六年九月八日。私は小学六年生でした。 そして正直に書きますが、私はこの日を覚えていません。 湯川秀樹という名前は、いつの間にか聞き覚えがあるな、という感じで頭の中にありました。学校で習ったのか、テレビで見たのか、伝記で読んだのか、はっきりしません。ノーベル賞という言葉も、詳しくは分かっていませんでした。理科や科学に興味があったかというと、これも正直、特にありませんでした。あのころの私は「あばれはっちゃく」タイプの小学六年生です。日本人初のノーベル賞学者が亡くなった日、私はたぶん、外で走り回っていました。 その湯川秀樹が、自分の子ども時代から物理学の道に入るまでを書いた回想録があります。文庫で七七〇円。難しい数式は出てきません。あの写真の人が、どんな子どもだったのか。 旅人 ある物理学者の回想(角川ソフィア文庫)湯川秀樹/KADOKAWA。日本初のノーベル賞学者が、幼少期から青年期までを自ら綴った回想録。星4.3(190件) Amazonで見る › 「世界で通用した日本人」の顔 この二人を並べたいと思ったのは、子どもの私にとって「世界で通用した日本人」という言葉が、まるで違う二つの顔をしていたからです。 湯川秀樹は、教科書と伝記の中にいる人でした。偉い。すごい。でも、遠い。中間子と言われても、何のことだかわかりません。名前と「日本人初のノーベル賞」という肩書きだけが、記号のように頭に入っている。実感は、ありませんでした。 一方、カブキはテレビの中で動いていました。アメリカで大成功して帰ってきた日本人が、目の前で霧を吹いている。何がどうすごいのか理屈はわからなくても、「向こうで通用した」ということだけは、体でわかった気がしました。 いま並べてみると、この二人は正反対のことをやっています。 湯川秀樹は、誰も見たことのないものを「ある」と言い当てた人です。日本人であることを隠す必要も、誇張する必要もない。数式の前では、国籍は関係がありません。 カブキは逆です。日本人であることを外国人の期待に合わせて思いきり作り込み、しかも出身地はシンガポールということにされた。中身ではなく、見え方で勝負した。 ...