【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった

今日は5月15日。 この日付には、昭和の子どもにとって特別な意味があった。 コロコロコミックの発売日だ。 昭和52年(1977年)5月15日に創刊されたこの漫画雑誌は、昭和54年(1979年)4月号から月刊化され、以来ずっと毎月15日に書店に並んだ。今日という日付は、あの分厚い雑誌を両手に抱えて書店を飛び出した、昭和の子どもたちの記念日でもある。 ドラえもんがテレビに来た、あの春 私がコロコロコミックを買い始めたのは、小学4年生の頃だった。 昭和54年(1979年)4月2日、テレビ朝日でドラえもんのアニメが始まった。月曜から金曜、夕方18時50分から19時の10分間。学校から帰ってランドセルを投げて、テレビの前に飛びつく。あの10分間は、昭和の子どもの放課後の中心だった。 アニメが始まると同時に、コロコロコミックの存在を知った。書店に行くとあの分厚い雑誌が並んでいる。中を開けるとドラえもんがたっぷり詰まっている。しかも他にもたくさんの漫画がある。 「これだ」と思った。 以来、毎月15日は書店に直行する日になった。 二人の編集者が作り上げた、あの雑誌 コロコロコミック誕生の裏には、小さくて熱い物語がある。 仕掛けたのは小学館の学年誌「小学一年生」の副編集長だった千葉和治だ。「小学生が読む、本当の意味での漫画雑誌を作りたい」という夢を持ち、その言葉に藤子・F・不二雄が感化された。「自分の全ての作品の掲載権を預ける」とまで言って協力を申し出た。 編集部はたった二人だった。二人で企画し、二人で500ページを超える創刊号を作り上げた。 昭和52年5月15日、コロコロコミック創刊号が書店に並んだ。表紙には「コロコロコミック」という誌名よりも大きな文字で「ドラえもん」と書かれていた。 創刊当初は季刊、やがて隔月刊、そして昭和54年4月号から月刊へ。毎月15日に翌月号を届ける、あのリズムが生まれた。 「炎のコマ!」と叫びながら コロコロで夢中になった漫画がもう一つある。 **「ゲームセンターあらし」**だ。 主人公の石野あらしが、ギャラクシーウォーズやインベーダーゲームなどのアーケードゲームで「超熱血必殺技」を繰り出しながらライバルと戦う漫画だ。中でも最大の必殺技が**「炎のコマ」**。1秒間に200万回以上の超スピードでレバーを動かすことで、ゲームの処理速度を上回り自機を消してしまうという技だ。技を放つとき、あらしは大きくジャンプして逆立ち状態でコントローラーに向かってぶちかます。 当時の小学生はみんな真似した。ゲームの前で「炎のコマ!」と叫んで、超高速でレバーをガチャガチャ動かす。もちろん何も起きない。でもやらずにいられなかった。 あの頃、私がよく通っていた場所がある。 倉庫か工場の跡地を利用した、広い建物の中に大量のテーブルゲーム機が並んでいる場所だ。少しブームの去ったゲームを格安で遊ばせるビジネスで、1回30円から50円でプレーできた。正規のゲームセンターよりずっと安い。お小遣いが少なくても、長く遊べた。 薄暗い建物の中に、ずらりと並んだテーブルゲーム機。画面の光だけが照らすあの空間に、小学生が群がっていた。 私もギャラクシーウォーズの前に陣取り、「炎のコマ!」と小声で叫びながらレバーを動かしていた。当然うまくはならないが、それでも毎回通った。あの独特の薄暗さと、電子音と、30円玉を握りしめていた感触が、今でも手の中に残っている気がする。 毎月16日の教室 コロコロの発売日は毎月15日。 15日に購入して、翌16日に学校へ持っていく。すると友達も同じコロコロを持ってきている。「読んだ?」「読んだ読んだ」「ゲームセンターあらし、今月すごくない?」「ドラえもんの道具、使いたいな」。 そういう会話が、毎月16日の教室では必ず起きていた。 みんなが同じ雑誌を読んでいるから、話が通じる。「あのシーン」と言うだけで伝わる。「炎のコマ」と言うだけで盛り上がれる。コロコロコミックは漫画雑誌であると同時に、昭和の小学生の「共通言語」だった。 今日、5月15日。 あの頃の15日は、こういう日だった。 おわりに 昭和52年5月15日に二人の編集者が作り上げたあの雑誌は、昭和の小学生の「バイブル」になった。 そして今日、2026年の5月15日発売のコロコロコミック2026年6月号では、長年再掲載されてきた「藤子・F・不二雄名作劇場 ドラえもん」の連載が終了した。新作ではなく過去の名作の再掲載コーナーの終了ではあるが、一つの時代が静かに幕を下ろした気がする。 毎月15日を指折り数えて待っていた、あの頃の自分に教えてあげたい。 あの雑誌は半世紀近く、ずっと続いたよ、と。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった ▶

May 14, 2026

一冊の本が、すべてを変えた――『お金の大学』との出会い

「2020年に、本当の意味での投資に出会うことになる」と前回書きました。正確に言えば、それは両学長の書籍『お金の大学』との出会いでした。そこから私の本当の投資がスタートしたのです。 2020年の秋ごろだったでしょうか。妻から手渡された一冊の本——それが『お金の大学』でした。 手に取った瞬間、直感的にそう感じました。「これは本物だ」 と。 表紙のイラストはポップで親しみやすく、ページを開くと文字だらけではなくイラストと図解が随所に散りばめられている。「お金の本」というと難しい専門書を想像していた私には、その読みやすさ自体が意外でした。しかし読み始めると、内容の本質はまったく軽くない。ページをめくるたびに「なぜ学校でこれを教えてくれなかったのか」という思いが込み上げてきました。 これまで「お金」について真剣に学んだことのなかった私にとって、この本の内容は衝撃そのものでした。 なかでも序盤の一節が刺さりました。「労働所得だけに頼る人生には限界がある。自分が働いていない時間にも収入が入る仕組みを作ることが大切だ」という趣旨の言葉です。それまでの私は、働いた分だけ給料をもらうことを当然のことだと思っていました。残業を増やせば収入が増え、休めば減る。そのループから抜け出すという発想自体が、そもそもなかったのです。 読み終えた後、妻に「この本すごいよ」と興奮気味に話したことを覚えています。妻は「だから渡したんだけど」と笑っていましたが。 まずはこの本の通りにやってみよう——そう決めて、一歩ずつ取り組み始めました。 『お金の大学』が教えてくれた「5つの力」 この本の核心は、「経済的自由」 という考え方です。著者の両学長はそれを「生活費を資産所得でまかなえる状態」と定義しています。嫌な仕事を無理に続けなくていい、お金の不安で人生を縛られない——そんな状態を目指すための道筋として、「5つの力」が示されています。 力 テーマ ポイント ① 貯める力 固定費を削る 通信費・保険・住宅・車など6大固定費の見直し ② 稼ぐ力 収入源を増やす 副業・転職・フリーランスで収入を分散 ③ 増やす力 長期・積立投資 インデックスファンドへの分散投資。FX・短期売買は不向き ④ 守る力 詐欺・手数料対策 金融リテラシーを身につけ、不要な損失を防ぐ ⑤ 使う力 満足度の高い支出 貯め込むだけでなく、価値ある経験・健康・学びに使う 「貯める力」では、通信費・保険・住宅・車といった人生の6大固定費を見直すことから始める。「稼ぐ力」では、会社員一本に頼らず副業や転職で収入源を分散させる。「増やす力」では、インデックスファンドへの長期・積立・分散投資が推奨されており、FXや短期売買は初心者には不向きとはっきり書かれています。「守る力」では詐欺や高い手数料、税金知識の不足から身を守る。そして「使う力」では、ただ貯め込むのではなく、自分が本当に価値を感じることにお金を使うことが幸せへの道だと説かれています。 本書の核心メッセージ 「お金を増やすこと」が目的なのではなく、「自由に生きること」が目的である。特別な才能がなくても、正しい知識と行動で人生は変えられる。 リベ大YouTubeに、どっぷりはまった日々 本を読み終えた私が次に向かったのは、YouTubeでした。 両学長が運営する「両学長 リベラルアーツ大学」チャンネルです。登録者数は当時すでに数百万人規模。動画の数も膨大で、保険・税金・投資・副業・節約と、お金にまつわるあらゆるテーマが網羅されていました。 最初の一本を再生したのは、確かランニング中のことでした。イヤホンをつけてスマホで再生すると、画面の中の両学長がいつものライオンのキャラクターで、明るくテンポよく話し始める。内容は「格安SIMに乗り換えるだけで年間数万円節約できる」というシンプルなものでしたが、「なぜ今まで気づかなかったのか」と頭を殴られたような感覚がありました。 それからというもの、時間さえあれば動画を再生するようになりました。 朝の準備中、ランニング中、昼休み、寝る前——。妻に「またYouTube?」と言われるくらい、四六時中リベ大の動画を流していました。一本見終わると関連動画がずらりと並んでいて、気がつけば深夜になっていることも珍しくありませんでした。 「知らないと損をする」という感覚の連続 動画を見続けて驚いたのは、知らないだけで損していることが山ほどあったという事実です。 たとえば、ふるさと納税。制度の存在は知っていましたが「なんか面倒くさそう」と放置していました。しかし動画で仕組みを理解すると、実質2,000円の自己負担で返礼品がもらえる上に、住民税まで安くなると知って愕然としました。「なぜ今まで使っていなかったのか」と。 保険も同じです。私は何となく「保険は多めに入っておくもの」と思い込み、必要かどうかも吟味せずにいくつかの民間保険に加入していました。ところが両学長の動画で「日本の公的保険制度は思っている以上に手厚い」という解説を聞き、自分の加入内容を見直すと、明らかに重複している保障がいくつも見つかりました。 税金もそうでした。会社員だと税金は「会社がやってくれるもの」という感覚で、自分で確定申告をしたことすらなかった。でも動画を通じて、医療費控除や生命保険料控除、ふるさと納税のワンストップ特例など、知っているだけで手元に残るお金が変わる制度がいくつもあることを知りました。「無知は罪だ」とまでは言いませんが、知識がないだけで静かに損をし続けていたのだと、この時期に痛感しました。 動画を一本見るたびに、自分の「知識の穴」が浮かび上がってくる。そしてその穴を埋めるたびに、少しずつ家計の見通しが良くなっていく感覚がありました。あの時期の学びの密度は、今振り返っても濃密だったと思います。 両学長の「語り口」が、私には合っていた リベ大の動画が続けられた理由は、内容だけではありません。両学長の話し方そのものが、私にとって非常に入ってきやすかったのです。 難しい金融用語をそのまま使わず、かみ砕いて説明してくれる。押しつけがましくなく、「最終的に判断するのはあなた自身」というスタンスを崩さない。そして何より、お金の話なのに、どこかあたたかい。 「お金は人生を自由にする道具である」という言葉が、回を重ねるごとに染み込んでいきました。お金を増やすことが目的なのではなく、自分らしく生きるための手段として捉える——その視点は、それまでの私にはまったく欠けていたものでした。 気づけば、本とYouTubeを行き来しながら同じ内容を何度も確認するようになっていました。本で概念を理解して、動画でより具体的なイメージをつかむ。そのサイクルが、知識を定着させてくれました。 「見るだけ」から「行動」へ ただ、正直に言うと、最初のうちはひたすら「見るだけ」になっていました。 動画を見て「なるほど!」と感動する。でも実際に格安SIMに乗り換えるわけでも、保険を解約するわけでもない。ただ知識が増えていくだけ——「勉強した気になっている状態」に陥っていたのです。 転機になったのは、両学長が動画の中で言った一言でした。うろ覚えですが、こんな内容だったと思います。「知識はあるのに行動しない人は、知識がない人と結果が同じ」と。 その言葉が刺さりました。 私はすぐにスマホのキャリアを調べ、格安SIMへの乗り換え手続きを始めました。保険の証券を引っ張り出して、本当に必要な保障かどうかを一つひとつ確認しました。ふるさと納税のサイトに初めてログインして、返礼品を選びました。動画を「見る」から「やってみる」に、ようやくギアが切り替わった瞬間でした。 行動してみると、思っていたよりずっとハードルは低かった。格安SIMへの乗り換えは、手続き自体は1時間もかかりませんでした。それだけで毎月の通信費が大幅に下がった時の達成感は、今でも覚えています。「知識は行動してはじめて価値を持つ」——当たり前のことですが、リベ大はそれを体感させてくれた場所でもありました。 この本と動画が示してくれた「私の現在地」 読んで、見て、学んで——そうして改めて気づいたことがありました。 私はまだ「投資(増やす)」のフェーズに立てる段階ではない、と。 それまで取り組んでいたFXは、この本と動画の中で「初心者には不向き」「高リスク」と明確に位置づけられているものでした。両学長は動画の中でも繰り返し言っていました。「一発逆転を狙うな。まず足元を固めろ」と。 私がFXで費やしてきた時間とお金は、正しい順序を無視した結果だったのです。貯める力も、守る力も身についていない状態で、いきなり「増やす力」だけを求めていた。それが間違いの根本でした。 ...

May 13, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた

今日は5月14日、けん玉の日だ。 大正8年(1919年)のこの日、現代のけん玉の原型となる「日月ボール」が実用新案として登録された。三日月のような浅い皿で、太陽のような球を受ける。日と月をかけた名前が、そのまま道具の形を表していた。 正直に言うと、私自身はあの昭和のけん玉ブームにそれほど深くハマった記憶がない。あの頃、私が夢中だったのはコカ・コーラのヨーヨーだった。赤いコーラのロゴが入ったあのヨーヨーのひもを右手中指にはめ、「犬にかまれた」や「世界一周」の技を練習していた。けん玉より断然ヨーヨー派だった。 でも、けん玉との縁はずっと後になってやってきた。我が家の子どもたちを通じて。 酒の席の遊びが、子どもの手に渡るまで けん玉の歴史は古い。 16世紀のフランスに「ビル・ボケ」という似た遊び道具があり、それが日本には江戸時代中期に伝わったとされている。ただし当時のけん玉は、今のような十字型ではなく、棒の上下に皿がついた形だった。しかも子どもの遊びではなく、大人が酒の席でやる罰ゲームの道具だったというのが面白い。失敗したら酒を飲まされる、というルールだったらしい。 それが明治時代に文部省の教育解説書に「子どもの遊び」として紹介されたことで、少しずつ子どもたちのものになっていった。 そして大正7年(1918年)、広島県呉市の職人・江草濱次が、現代のけん玉の基本構造となる「日月ボール」を考案した。大皿、小皿、そしてけん先という三つの的を持つあの形が、このとき初めて生まれた。翌大正8年のこの日に実用新案として登録され、これが「けん玉の日」の由来になっている。 昭和52年「けん玉ルネッサンス」 日月ボールが生まれてから約60年後の昭和52年(1977年)、日本に突然けん玉の大ブームが訪れた。 後に「けん玉ルネッサンス」と呼ばれるこの爆発的な流行のきっかけは、昭和50年(1975年)に設立された「日本けん玉協会」だった。雑多なけん玉ではなく、統一された規格の競技用けん玉を作り上げ、級・段位の認定制度を整えた。 この競技用けん玉が小学校や学童に普及し、昭和52年ごろから全国の子どもたちの間に一気に広まっていった。1級になったら糸の色が変わる。段位が上がるたびに認定証がもらえる。そういう「上達の見える仕組み」が、子どもたちの心をつかんだのだと思う。 「何回続いた?」「俺、100回いったぞ」「嘘つくな」「ほんとだよ、見てろよ」 休み時間の校庭で、そういうやり取りが毎日繰り返された。私にはヨーヨーで同じやり取りをしていた記憶があるが(笑)、けん玉派の友達はもしかめの回数を誇らしげに語っていた。 学童から帰ってきた、あのけん玉 私自身はヨーヨー派だったが、我が家にもけん玉ブームは確かにやってきた。 子どもたちが小学校に入学して学童保育に通い始めると、そこでけん玉と出会うのだ。学童にはたいていけん玉が置いてあって、放課後に先生や友達と一緒にやるうちに夢中になっていく。そして家に帰ってくると「けん玉買って!」が始まる。 我が家の子どもは男女合わせて5人いる。その5人が、上から順番に学童でけん玉と出会い、順番にその波が家に押し寄せてきた。 けん玉を買ってきた翌日から、家の中に「もしもしかめよ、かめさんよ……」のリズムが響き始める。最初はぎこちない。玉が皿からこぼれ落ちる。「あー!」という声が上がる。また挑戦する。少しずつ続くようになってくる。 そのうちに、上の子たちが反応し始める。 「やらせて、やらせて」 『どや顔』で技を披露する、あの光景 けん玉の奪い合いが始まる。 下の子が一生懸命もしかめをやっていると、上の子が「貸して」と手を伸ばしてくる。渡すと、今度は上の子がすでに習得した技を披露し始めるのだ。 大皿から小皿、小皿から大皿へ。スムーズに乗せながら、ちらりと下の子の方を見る。**『どや顔』**だ。 「お兄ちゃん(お姉ちゃん)すごい!」という言葉を待っている顔。それを引き出したくて、わざわざ技を見せているのだ。下の子はそれを見て、「私も!」「僕も!」となる。またけん玉が奪い合いになる。 その光景が、5人分繰り返された。上の子が下の子に見せつけ、下の子がさらに下の子に見せつける。我が家のけん玉の技は、そうやって上から下へと受け継がれていった。 考えてみれば、けん玉の普及というのも同じ構造だったのかもしれない。できる人が見せる。見た人がやりたくなる。やってみて、できるようになる。また誰かに見せる。昭和52年の「けん玉ルネッサンス」も、そういう連鎖で日本中に広まっていったのだと思う。 「あせらず、あわてず、あきらめず」 日本けん玉協会の初代会長・藤原一生が唱えた「けん玉道」の基本精神は、**「あせらず、あわてず、あきらめず」**という言葉だった。 焦って力を入れても、玉は皿に乗らない。慌てて動かしても、タイミングが合わない。諦めてやめても、上達はしない。ただ落ち着いて、丁寧に、繰り返す。そうすると、ある日突然できなかった技ができるようになる。 子育てにも、そのまま当てはまる言葉だと思う。 おわりに 我が家のどこかに、まだ何本かのけん玉が眠っているはずだ。 5人の子どもたちが次々と夢中になって、次々と飽きて、どこかに置き去りにしていったあのけん玉たち。押し入れの奥か、おもちゃ箱の底か、どこかにひっそりとしまわれているだろう。 探し出して、もう一度やってみようかと思っている。「もしもしかめよ、かめさんよ……」のリズムに合わせて、大皿、小皿、大皿、小皿。 我が家に、もう一度けん玉ブームを起こしてみようか。 探し出したら、子どもたちに声をかけてみようと思っている。 「けん玉、やってみるか?」 あの頃のどや顔を、それぞれもう一度見せてもらえたら嬉しい(笑)。 もし押し入れのけん玉が見つからなかったら、これを機に新しい一本を。日本けん玉協会認定の競技用「大空」は、級・段位の認定にも使える本格派。大人がもう一度始めるにも、ちょうどいい一本です。 日本けん玉協会認定 競技用けん玉「大空」山形工房/競技用けん玉の定番。級・段位認定にも使える本格派 Amazonで見る › ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった ▶

May 13, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃

今日は5月13日。 この日付を調べていて、一つの火災事故のことを知った。 昭和47年(1972年)のこの日、深夜10時27分。大阪・ミナミの繁華街、千日前にあるデパートビルの3階から火の手が上がった。 千日デパート火災。 死者118人・負傷者81人にのぼる人的被害を出し、戦後日本のビル火災として最大の惨事となった。 正直に言う。私はこの事故のことを、ほとんど知らなかった。 昭和44年(1969年)生まれの私は、この火災が起きた当時わずか3歳だった。事故そのものの記憶はまったくない。でも今年の冬、ある場所でこの火災のことが話題に上がり、初めてその全貌を知ることになった。 湯島天満宮から、上野松坂屋へ 今年の1月のことだ。 大学受験を控えた娘の合格祈願のため、家族で湯島天満宮へ参拝に行った。学問の神様・菅原道真を祀るこの神社には、受験シーズンになると合格を祈願する絵馬が鈴なりに並ぶ。娘のために手を合わせ、家族それぞれが心の中で願いを込めた。 その帰りに、上野の松坂屋へ立ち寄った。 エレベーターで上層階のレストランフロアへ。昭和の大型デパートらしい、広々とした食堂だ。白いテーブルクロス、ウェイトレスさんの丁寧な接客。平成も令和も、この場所だけはあの頃の空気が残っているような気がした。 小学生の4男が、メニューをひらいて迷わず言った。 「お子様ランチ!」 旗が刺さった小山のライス、エビフライ、ハンバーグ、スパゲティ。あの見慣れたお子様ランチが運ばれてきた。時代が変わっても、子どもが注文するものは変わらない。思わず笑ってしまった。 食事をしながら、ふと窓の外を眺めた。屋上のほうに目をやりながら、こんな話が出た。 「松坂屋の屋上遊園地、お父さんが子どもの頃に何度も行ったんだよ」 小さな観覧車、豆汽車、飛行機型の乗り物。あの屋上の風の感触が、急に記憶の中からよみがえってきた。 「今はもうないの?」と誰かが聞いた。 「いつからなくなったんだろうね」と私は答えた。 その帰り道、スマートフォンで調べてみて、初めて知ったのだ。屋上遊園地が姿を消していった背景に、千日デパート火災という大きな出来事があったことを。 深夜の惨事 昭和47年5月13日は土曜日だった。 閉店後の夜、3階では売り場の改装工事が行われていた。出火後、火と煙はエスカレーター開口部や空調ダクトを伝って上層階へと急速に広がっていった。火災発生当時、7階で営業していたキャバレーには何の通報もなく、181人の客やホステス、従業員らが逃げ遅れた。煙に巻かれ、窓から飛び降り、救助袋の使い方を誤って転落した人もいた。 近くで菓子店を営んでいた女性は後年こう語っている。「向こうの千日前商店街のアーケードの上に人が『ボトン』と落ちたのを見ました。落ちる時は『キャー』って言って両手バタバタしてたけど、下に落ちたら『どすん』じゃなくて、『ばちゃっ』っていう音が……」。 死者118人。戦後最悪のビル火災だった。 火災が変えた、昭和の風景 この千日デパート火災の翌年、熊本の大洋デパートでも100人を超える死者を出す火災が起きた。 相次ぐ惨事を受けて、消防法が改正された。建物の屋上の半分を、火災時の避難場所として確保することが義務付けられたのだ。 その結果として消えていったのが、デパートの屋上遊園地だった。 昭和30年代から40年代にかけてが全盛期だった。小さな観覧車、メリーゴーラウンド、豆汽車、飛行機型の乗り物、ゲームコーナー。休日に家族でデパートへ行き、大食堂でお子様ランチを食べて、屋上遊園地で遊ぶ。それが昭和の「デパートの定番コース」だった。 消防法の改正で屋上の半分が避難場所になると、大型遊具の設置スペースが取れなくなった。さらにテーマパークやゲームセンターの台頭が追い打ちをかけ、昭和の終わりごろから屋上遊園地は次々と姿を消していった。 松坂屋の上野店の屋上遊園地もいつしかなくなった。私が子どもの頃に何度も遊んだあの場所は、今はもうない。 お子様ランチは、変わらなかった それでも、松坂屋のレストランは残っていた。 4男が頬張るお子様ランチを見ながら、思っていた。あの旗の刺さったライスの形も、エビフライの大きさも、あの頃と大して変わらない。子どもが「お子様ランチ!」と迷わず注文するのも、変わらない。 変わったものと、変わらないものがある。 屋上遊園地は消えた。でもデパートのレストランで、子どもがお子様ランチに目を輝かせる光景は続いている。昭和の子どもだった私が経験したあの「特別な日の記憶」を、令和の4男もきっと同じように感じているはずだ。 おわりに 昭和47年5月13日の夜、大阪のデパートで118人が亡くなった。 3歳だった私にその記憶はない。でも今年の冬、上野松坂屋のレストランで息子のお子様ランチを眺めながら屋上遊園地の話をして、帰り道にスマートフォンで調べて、初めてこの火災のことを知った。 あの惨事が消防法を変え、消防法の改正が屋上遊園地の風景を変えた。昭和の出来事が、こんなにも身近なところに繋がっていたとは思わなかった。 「昭和の今日は何があった日?」を調べていると、時々こういう発見がある。知らなかった事実が、自分の記憶のどこかにひっそりとつながっている瞬間。その感覚が、このシリーズを続ける理由の一つになっている。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた ▶

May 12, 2026

必勝法を探し続けた男の末路──FXやらかし図鑑

結論から言おう。 僕はFXで150万円溶かした。 しかも一度ではない。やめては始め、やめては始めを4〜5回繰り返しながら、トータルでその金額に到達した。我ながら見事な負けっぷりだと思う。(笑) 2013年、僕はFXという名の沼に、両足どころか頭まで突っ込んでいた。 ① YouTube沼にはまる「必勝法」探し まず僕がやったのは、YouTubeでFX関連動画を片っ端から漁ることだった。 「FX 必勝法」「FX 勝てる手法」「月収100万円」──そんなワードで検索しまくり、もっともらしいことを言っているチャンネルを見つけては、その手法を試してみる。うまくいかなければ別の動画を探す。また試す。また探す。 今思えば完全に必勝法コレクターだった。 そもそも、もし本当に必勝法があるなら、その人はYouTubeで無料公開なんてしない。当たり前のことに、当時の僕は気づけなかった。 ② 謎のインジケーターに課金する男 動画だけでは飽き足らず、次は「エントリータイミングを教えてくれる魔法のツール」を探し始めた。 いわゆるインジケーターというやつだ。チャートに重ねると「買い」「売り」のサインが出る。無料のものを試し、効かないとわかると有料のものに手を出す。数千円、ときには1万円以上払ったこともあった。 結論から言うと、全部ゴミだった。いや、ゴミというより「後付けで勝率を良く見せる詐欺ツール」といった方が正確かもしれない。 授業料、高すぎた。 ③ コツコツ積み上げて、ドカンと吹き飛ばす 利益が少し出るとすぐ決済してしまう。それが僕の悪いクセだった。 「逃げ切った!」という快感が忘れられず、ちょっと勝っては利確、ちょっと勝っては利確。口座残高の数字が小さく増えていくのが嬉しかった。 しかしその一方で、損失が出ると「もう少し待てば戻るはず…」と粘り続ける。 その非対称さに気づかないまま続けた結果、ある日やってくる。 コツコツ積み上げた利益が、一回のドカンで全部消えた。 やった人間にしかわからない、あの虚無感。 ④「長期投資」という名の現実逃避 損切りができなかった。本当にできなかった。 「もう少し待てば戻るはず」と含み損を抱えたまま放置するのはまだかわいい方で、僕がやったのはさらに上をいく言い訳だった。 「これは長期投資だから」 FXの含み損を前に、僕は突然「長期投資家」に変身した。スワップポイントが少し入ってくるのをいいことに、現実から目を背け続けた。 もちろんそんな「長期投資」に未来はなく、最終的には強制ロスカットか、耐えきれずに大損で決済するかのどちらかだった。 ⑤ 負けを取り返そうとして、さらに深みへ 損失が膨らむと、人間おかしくなる。 「このまま終われない」「一発で取り返せるはずだ」──そう思って、証拠金に対して明らかに過大なポジションを持った。 するとどうなるか。少し値が動くだけで口座残高がガクガク揺れる。ロスカットの恐怖で気持ちが不安定になる。夜も落ち着かない。 ハイレバレッジは、トレードではなく恐怖との戦いだった。 ⑥ ポジポジ病という名の持病 「ポジションを持っていないと落ち着かない」 これが厄介だった。根拠なんてない。ただ、何かに乗っていないと不安なのだ。 そんなポジションだから当然、仕事中も気になる。バスを運転しながら(※停車中です)「今どうなってるかな…」と頭の片隅でチャートが浮かぶ。 本末転倒とはこのことだった。お金を増やすために始めたはずが、本業に支障をきたしていた。 やめる。また始める。を4〜5回繰り返した。 こんな失敗だらけでも、僕はFXをやめられなかった。 「次こそは」「今度こそうまくやれる」──懲りない男は、しばらく間を置いてはまたチャートを開いた。それを4〜5回繰り返した。 今思えば、完全にギャンブルと同じ心理だった。 そして今──正しい付き合い方にたどり着いた そんな失敗だらけの僕だが、実はFXを完全にやめたわけではない。 現在も20万円をFX口座に入れてある。ただし、以前とは決定的に違うことがある。 もうFXを「投資」だとは思っていない。 趣味だ。釣りや競馬と同じ感覚で、溶かしてもいい範囲のお金でたまに楽しむ。大儲けしようなどとは微塵も考えていない。 150万円という授業料を払って、ようやくたどり着いた「正しいFXとの付き合い方」がこれだ。 そして2020年、僕は本当の意味での「投資」に出会うことになる。 次回へ続く。 お金と僕の12年戦争 ─ シリーズ一覧 ◀ 前の話:第1話 三男が生まれた日、僕は100万円をFXに突っ込んだ | 次の話:第3話 一冊の本が、すべてを変えた──『お金の大学』との出会い ▶ 第1話 三男が生まれた日、僕は100万円をFXに突っ込んだ 第2話 必勝法を探し続けた男の末路──FXやらかし図鑑(この記事) 第3話 一冊の本が、すべてを変えた──『お金の大学』との出会い 第4話 スマホ代を月15,000円から5,000円へ──格安SIM乗り換え体験記 第5話 6大固定費の見直し②──保険の整理 第6話 住宅ローンという名の長期戦──借り換えと金利上昇 第7話 手放した日から、お金が貯まりはじめた──マークIIとの別れ 第8話 「株主」にはなれた。でも「投資家」にはなれなかった 第9話 「短期トレード」の果てに──インデックス投資という長期戦のはじまり 第10話 「廃止決定」の制度に、子どもたちの未来を託した──ジュニアNISA編 第11話 「もう一本の柱」iDeCo──節税と引き換えに、60歳まで縛るという選択 第12話 二軒の戸建がくれた、もう一本の柱──戸建賃貸業のはじまり

May 11, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった

今日は5月12日。 この日付を調べていて、一枚の土俵の映像が頭に浮かんだ。 平成3年(1991年)5月12日、大相撲夏場所の初日。18歳の貴花田が横綱・千代の富士を寄り切りで破り、史上最年少金星を挙げた。そしてその2日後、千代の富士は引退を表明した。 あの一番の話を書く前に、まず私が千代の富士のファンになった話をしたい。 青いまわしの、上昇する力士 昭和54年(1979年)から昭和56年(1981年)ごろのことだ。 私はまだ小学校の低学年から中学年だった。テレビで大相撲中継を見ていると、一人の力士が目に飛び込んできた。 千代の富士。当時はまだ小結から関脇、そして大関へと番付を駆け上がっていく上昇期にあった。横綱になる前の、ぐんぐんと力をつけていくあの時代の千代の富士だ。 最初に目を引いたのは、まわしの色だった。薄い青。他の力士が黒や濃い色のまわしをしめている中で、千代の富士だけが澄んだ青のまわしをしていた。それだけで、なんとなく他とは違う存在感があった。 そして取組が始まった瞬間、さらに驚いた。 速い。 それまで相撲というものに、それほど強い関心を持っていなかった。体の大きな男たちがぶつかり合う競技、というくらいの印象しかなかった。でも千代の富士の相撲は、その印象をひっくり返した。 立ち合いから低く、鋭く当たる。頭を相手の胸からアゴの下に差し込むようにして、左手が一瞬で相手のまわしを掴みにいく。左前みつ。そこを取った瞬間から、もう勝負は見えていた。頭を胸につけたまま一気に前に出る。相手がどれだけ大きくても、あの体勢から止めることはできなかった。 素直に思った。 かっこいい。 小結から関脇へ、関脇から大関へ。番付を上げるたびに千代の富士の相撲は研ぎ澄まされていった。私はその上昇をリアルタイムで追いかけながら、夢中でテレビ中継を見続けた。 「時間いっぱい!」の瞬間 千代の富士のファンになってから、相撲中継の見方が変わった。 特に集中したのが、**「時間いっぱい!」**の直後だ。 行司が「時間いっぱい、手をついて」と告げ、両者が仕切りに入る。その瞬間から、私は一点だけを見ていた。 千代の富士の左手が、相手の前みつを取れるか。 テレビの前で体が前のめりになる。「取れ、取れ、取れ!」と心の中で叫んでいた。 前みつを取った瞬間の千代の富士の動きは、まるで弾けるようだった。低い体勢から爆発的な力で相手を押し込む。ガッと音がしそうなほどの前進。相手が土俵を割るまでの時間は、ほんの数秒だ。 あの数秒のために、私は毎場所の相撲中継を見ていた。 鋼の肉体と、孤独な努力 千代の富士の肉体が、また特別だった。 北海道の漁師町出身のこの力士は、入門当初は体が細くて「横綱になれる体じゃない」と言われていた。肩の脱臼を繰り返す弱点もあった。それを克服するために、誰よりも筋力トレーニングに取り組んだ。 その結果生まれたのが、あの彫刻のような上半身だ。三角形に盛り上がった肩、浮き出た筋肉の線、引き締まった腹。昭和の力士の中で、あれほど「鍛えられた体」を持っていた力士は他にいなかった。 昭和56年(1981年)初場所、千代の富士はついに初優勝を遂げた。そして同年9月場所で横綱に昇進した。 小結から見続けてきた青いまわしの力士が、ついに土俵の頂点に立った。テレビの前で「やった」と思った記憶がある。 その後の千代の富士は知っての通りだ。幕内優勝31回、通算1045勝、53連勝、国民栄誉賞。昭和の相撲をひとりで背負うような存在になっていった。 18歳の少年が、ウルフを倒した日 あれから10年後。平成3年(1991年)5月12日、夏場所初日。 貴花田光司、18歳9カ月。のちの横綱・貴乃花だ。前の場所で幕内下位から優勝争いに加わる快進撃を見せ、日本中の注目を集めていた。その貴花田が初日から千代の富士と当たることが決まった。 場内がどよめいた。 取組が始まると、貴花田は低く当たり、ひたすら前に出た。引かなかった。変化しなかった。千代の富士が突き落としを狙っても、ただ正面から前に出続けた。そのまま貴花田が寄り切った。 18歳9カ月、史上最年少金星。 土俵下に降りた千代の富士は言った。 「三重丸って言っておいてよ。いや、五重丸だ」 負けた横綱が18歳の少年に最大級の賛辞を贈ったあの言葉。強さを認める者にしか言えない清々しさがあった。 そして2日後の5月14日、千代の富士は引退を表明した。 「体力の限界……気力も無くなり、引退することになりました」 ハンカチで目をぬぐいながら振り絞るように言ったあの言葉を、テレビの前で聞いたとき、言葉が出なかった。 小結のころから追いかけてきた青いまわしの力士が、土俵を去った。 おわりに 平成3年5月12日、千代の富士は18歳の貴花田に道を譲った。 昭和54年ごろ、テレビの画面に薄い青のまわしをした力士を見つけて「かっこいい」と思った小学生の私は、その力士が小結から関脇、大関、横綱へと駆け上がっていくのをずっと見続けた。そして横綱を10年以上務めた末に涙をぬぐいながら引退する姿まで見届けた。 千代の富士は2016年に61歳で亡くなった。訃報を聞いたとき、真っ先に浮かんだのは記録でも数字でもなく、あの薄い青のまわしと、左前みつを取った瞬間の爆発的な前進だった。 あなたが子どもの頃に「かっこいい」と思ったスポーツ選手は、誰だっただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃 ▶

May 11, 2026

青カップのグローブ ― 昭和の空き地と、母のパート代と

高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。紐が切れたのだという。その紐を手にしながら、ふと遠い記憶の蓋が開いた。 昭和の子供の放課後は、今とはまるで違う世界だった。 ランドセルを家に放り込んで外に出ると、近所の空き地には学年もクラスも関係なく子供たちが集まっていた。誰かが仕切るわけでもなく、気がつけばチームに分かれて野球が始まっている。そういう時代だった。 野球のルールを教えてくれたのも、プレーを褒めてくれたのも、みんな上級生だった。今でいう「地域の子育て」が、あの空き地では自然に成立していた。 ある日、先輩のひとりが使っているグローブが目に入った。 一目見た瞬間に、全身が反応した。あれが欲しい。 青地に白糸。カップ型に刺繍されたマーク。後から知ることになるが、それが「美津濃(ミズノ)青カップ」だった。軟式用が青、硬式用が赤。昭和の野球少年なら誰もが憧れた、あのグローブだ。 まず向かったのは、イトーヨーカドーに入っていたスポーツ店だった。しかし置いていない。 今のように大型スポーツ専門店があちこちにある時代ではなかった。どこに行けば買えるのか、小学4年生の自分には見当もつかなかった。 そこへ転機が訪れた。同じグローブをすでに買ってもらったクラスメイトが現れたのだ。うらやましさで胸がいっぱいになりながら、とにかく聞き出した。メーカーはどこか。どこで売っているのか。 教えてもらった店は、自転車で20分ほどのところにあった。ドキドキしながら扉を開けると、店内にはミズノのグローブがずらりと並んでいた。あの青カップもあった。手に取った瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。 メーカー 美津濃(ミズノ) マーク 青カップ(軟式用) ウェブ タータンウェブ 種別・価格 オールラウンド用・7,800円 帰宅して母に話した。「あのグローブが欲しい」と。 当然、即答はなかった。しかし母はこう言ってくれた。「パートのお給料日まで待っていてね。」 7,800円。昭和の専業主婦がパートで稼ぐ金額の重さが、大人になった今にはわかる。それを出してくれるということが、どれだけのことだったか。 それからの毎日が、我ながら笑える。 放課後になると例の店へ自転車を走らせ、グローブを手に取っては棚の奥深くに押し込んで帰る。他の誰かに買われてしまわないように。それを給料日当日の夕方まで、毎日続けた。 そしてついに、その日が来た。 母のパート先の前で、仕事が終わるのを待ち構えた。そのまま二人で自転車を走らせ、店へ向かった。 店主のおじさんは僕の顔を見るなり、すぐに覚えていてくれた。毎日確認に来ていたのだから当たり前といえば当たり前だが、おじさんも一緒になって喜んでくれた。昭和の商店街には、そういう温かさがあった。 美津濃。青カップ。タータンウェブ。オールラウンド用。7,800円。 あの日グローブを手にしたときの感触は、半世紀近く経った今も手のひらに残っている。 あの頃から今まで、いくつものグローブと出会ってきた。どれも、それぞれに大切な記憶として胸の奥にしまってある。 先日、高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。その紐を手にしながら、ふとあの空き地のことを思い出した。上級生たちのこと、クラスメイトのこと、そして母のパートのお給料日のことを。 今、グローブを通じて息子と関わっていること。それが、また新しい宝物になっていく気がする。

May 11, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間

今日は5月11日。 昭和の朝には、決まったリズムがあった。 目が覚めると台所からご飯の炊ける匂いがして、テレビをつけると子ども番組が始まっている。朝ごはんを食べながらテレビを見て、時計の代わりに番組の流れで時間を感じていた。 あの頃の朝のことを、今日は書きたい。 朝ごはんとピンポンパン 朝ごはんを食べながら見ていたのが、フジテレビの**「ママとあそぼう!ピンポンパン」**だった。 昭和41年(1966年)10月3日から昭和57年(1982年)まで、実に15年半にわたって放送されたこの幼児番組は、フジテレビの若手女性アナウンサーが「おねえさん」として司会を務める形式で、歌や体操やお話のコーナーが続く、朝の子どもの定番だった。 お茶碗を両手で持ちながら、画面を眺めていた。おねえさんが歌う。カッパのカータンがとぼけたことを言う。子どもたちが体操をする。 朝ごはんを食べながら見る番組というのは、不思議と記憶に残るものだ。おかずの味と、テレビから流れてくる音楽と、台所で動く母の気配が、全部混ざり合って一つの記憶になっている。 そして番組のフィナーレに、あれがあった。 「おもちゃへいこう!」 新兵ちゃんの掛け声とともに、スタジオに出演していた子どもたちが一斉にスタジオセットの大木へと突進していく。「おもちゃの木」の節穴の中には、おもちゃがぎっしり詰まっている。子どもたちは我先にと手を伸ばして、おもちゃを抱きしめる。 テレビの前で、それをただ見ていた。 本当に羨ましかった。 昭和40年代の子どもにとって、おもちゃは誕生日かクリスマスの「特別なもの」だ。駄菓子屋で10円のお菓子を買うのとは、まったく違う話だ。だからあの木が眩しかった。「ねえ、ピンポンパン出たい」と母に言った子どもが、日本中に無数にいたはずだ。 「ぱたぱたママ」が流れたら、保育園の時間 ピンポンパンが終わると、続いて始まるのが**「ひらけ!ポンキッキ」**だった。 昭和48年(1973年)4月から始まったフジテレビの幼児番組で、ガチャピンとムックという2体のキャラクターと「おねえさん」が進行する、こちらも昭和を代表する子ども番組だ。「およげ!たいやきくん」を世に出した番組としても知られている。 ポンキッキが始まると、それが保育園へ行く時間の合図だった。 番組の最初のほうに流れていたのが**「ぱたぱたママ」と「一本でもニンジン」**。のこいのこさんが歌うこれらの曲が聞こえてくると、「そろそろだな」という感覚があった。 「いちほんでもにんじん、にほんでもにんじん、さんぼんでもにんじん……」 そのメロディーを1曲聞き終わると、母の声がかかった。 「行くわよ」 玄関に向かう。年子の妹も一緒だ。外に出ると、母が自転車を出して待っている。後ろの荷台と前のカゴ、あるいはハンドルにまたがるようにして、3人で乗り込む。 3人乗り自転車。 今の感覚では「危ない」と言われるが、昭和の頃はそれが当たり前だった。お母さんが自転車をこいで、子どもを前後に乗せて保育園や幼稚園に連れて行く。朝の住宅街には、そういう自転車がたくさん走っていた。 母の背中に顔をうずめながら、自転車が走り出す。まだテレビの音が耳の中に残っていた。「ぱたぱたママ」のメロディーが、頭の中でまだ続いていた。 阿久悠と小林亜星が作った朝の歌 「ピンポンパン体操」はオリコン童謡チャート1位、260万枚の大ヒットを記録した曲だが、その作詞・作曲を手掛けたのが阿久悠と小林亜星というコンビだ。 当時の日本を代表する作詞家と作曲家が、子ども番組のために本気で曲を作っていた。「トラのプロレスラーはシマシマパンツ……」というあの歌詞は、今も口をついて出てくる人がいるはずだ。 「ひらけ!ポンキッキ」の「ぱたぱたママ」や「一本でもニンジン」も同様だ。一見シンプルな子ども向けの歌に、プロの作り手たちが真剣に向き合っていた。だからこそ半世紀経った今も、あのメロディーは記憶の奥底に生きている。 子どもの頃に耳に入った音楽は、言葉や映像よりも深いところに刻まれる。「ぱたぱたママ」が流れると、今でも反射的に「そろそろ行かないと」という感覚がよみがえる。頭ではなく体が覚えているのだ。 おわりに ピンポンパンのおもちゃの木を羨ましく眺めて、ポンキッキの「ぱたぱたママ」を聞きながら保育園へ向かった。母の背中に揺られる自転車の上で、テレビから流れてきた歌がまだ耳の中に残っていた。 毎朝、毎朝、同じことの繰り返しだった。 でも今になって思う。あの繰り返しの中に、昭和の朝のすべてが詰まっていた。朝ごはんの匂いと、テレビの音楽と、母の「行くわよ」という声と、年子の妹と一緒に乗り込んだ自転車の揺れ。 それが私の、昭和の朝だった。 あなたの昭和の朝には、どんな音楽が流れていただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった ▶

May 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話

今日は母の日だ。 5月の第2日曜日。店先にカーネーションが並び、テレビのCMが「お母さんへの感謝を」と呼びかける、毎年やってくるこの日。 今年の母の日は、少し違う気持ちで迎えている。 母が入院しているからだ。 今年88歳になる母は、今、病院のベッドの上にいる。容態は楽観できない。だからこそ今日という日が、いつもより少しだけ重く、そしてあたたかく感じられる。 一人の少女の「ありがとう」から始まった 母の日の始まりは、20世紀初頭のアメリカだ。 1905年5月9日、アメリカのフィラデルフィアに住むアンナ・ジャービスという女性の母が亡くなった。母は生前、南北戦争で傷ついた兵士たちの看護に人生を捧げた人だった。アンナはその母をしのんで教会に白いカーネーションを飾り、「生きているうちに母に感謝を伝える日を作るべきだ」と訴え続けた。 その想いがアメリカ中に広がり、1914年、ウィルソン大統領が5月の第2日曜日を「母の日」として国民の祝日に定めた。 日本には大正時代にキリスト教を通じて伝わり、昭和12年(1937年)に森永製菓が「森永母の日大会」を大々的に開催したことで全国に広まった。そして戦後の昭和24年(1949年)ごろから、5月の第2日曜日が定着した。 一人の少女が亡き母に手向けた白いカーネーションが、海を越えて昭和の子どもたちの手にも届いた。 昭和の子どもと、カーネーション問題 昭和の母の日に、子どもたちを悩ませたことがあった。 カーネーションをどうやって渡すか問題だ。 学校ではこの時期、図工の時間に赤いカーネーションを折り紙や画用紙で作ることが多かった。または近所の花屋で本物を買う。問題はその先だ。 「はい、これ」と無造作に渡せれば苦労はない。でも昭和の子どもにとって、母親に面と向かって「いつもありがとう」と言うのは、気恥ずかしくてたまらないことだった。 テーブルの上にそっと置いておく。気づかれないうちに花瓶に差しておく。そういう作戦を取った子どもは多かったはずだ。母親はそれをわかっていて、わざと気づかないふりをして後で「あら、かわいい」と言ってくれる。その距離感が、昭和の親子の間にはあった。 思えば、照れくさくて言えないことを花が代わりに言ってくれる──それがカーネーションという花の役割だったのかもしれない。 テーブルの上の100円玉と、母の背中 昨日の記事で、こんな話を書いた。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はない。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃、母がどんな思いでその100円玉を置いていたか、子どもの私には考えも及ばなかった。ただ嬉しくて、握りしめて飛び出していた。 でも母の日になると、ふと気になった。お母さんは今日も仕事に行くのだろうか。疲れていないだろうか。毎日毎日、子どもたちのために働いて、帰ってきてご飯を作って、洗濯をして。それが当たり前の風景すぎて、当たり前すぎることに気づかなかった。 カーネーションを買いに行ったのは、母の日の朝だった。近所の花屋で赤いカーネーションを1本選んだ。帰ってきた母に、うまく渡せたかどうか、正直あまり覚えていない。たぶん「はい」と差し出して、母が「ありがとう」と言って、それで終わりだったと思う。 でも母は、そのカーネーションをちゃんと花瓶に差して、しばらく飾っていた。 88歳の母へ あれから何十年が経った。 母は妹の最初の出産を機に、妹夫婦と同居するようになった。3人の孫に囲まれた暮らしの中で、妹の子どもたちだけでなく、私の子どもたちも合わせて8人の孫を可愛がってくれた。 昭和の時代に私たち兄妹を育て、平成を生き、令和になっても孫たちの笑顔の中心にいた。そんな母が今年、88歳になる。 今、母は入院している。病室のベッドの上で、今日の母の日を迎えている。容態は、楽観できるものではない。 それでも──いや、だからこそ、今日ははっきりと言いたい。 私たち兄妹を育ててくれて、8人の孫を可愛がってくれて、本当にありがとう。 私はあなたの子どもで、本当に良かった。 照れくさくて昭和の子どもの頃には言えなかった言葉を、57歳になった今、この場所に書いておく。 おわりに 母の日に母親が健在であれば赤いカーネーションを贈る、という習慣がある。アンナ・ジャービスが白いカーネーションから始めた母の日が、日本では赤と白という形に引き継がれた。 今日、赤いカーネーションを贈れる人は、ぜひ贈ってほしい。 照れくさくてもいい。うまく言葉にならなくてもいい。昭和の子どもたちがそうだったように、花がきっと代わりに言ってくれる。 あなたのお母さんの、あの頃の背中を、今日だけ少し思い出してもらえたら嬉しい。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間 ▶

May 9, 2026

三男が生まれた日、僕は100万円をFXに突っ込んだ

私が「投資」という言葉を意識したのは、2013年の9月のことです。 なぜそこまではっきり覚えているかといえば、三男が生まれたタイミングだったから。産声を聞いたあの瞬間から、胸の奥にじわじわと広がってきたのは感動だけではありませんでした。同時に、正体のよくわからない焦りのようなものが、ゆっくりと込み上げてきたのです。 「何かをやらなくちゃ。このままじゃダメだ。」 当時、私にはすでに三人の子どもがいました。長男、長女、そして次男。そして今度で四人目——三男の誕生です。守るべきものが増えるということは、同時に「自分に何かあったら」という不安の重さも増すということでした。 「何か」をやらなければという焦りは、なぜかまっすぐ「投資」という言葉に向かいました。知識があったわけでも、誰かに勧められたわけでもない。ただ、インターネットをポチポチと検索しながら、気づいたらFXという世界に辿り着いていたのです。 どうにかこうにか口座開設を完了させ、100万円を入金。画面の前で「いざ!」と気合を入れたはいいものの、正直なところ何をどうすればいいのか、まったく分かりませんでした。チャートの読み方も、注文の仕組みも、レバレッジの意味さえも。 それでも、人生で最初の「エントリー」だけは、なんとか成功させました。 そこから先は、これまでの人生で経験したことのない感覚の連続でした。数字が動くたびに心臓が跳ねる。プラスになれば息が上がり、マイナスになれば胃が縮む。たった数万円の値動きで、これほどまでに感情が揺さぶられるとは思っていませんでした。 たまたまその日は、何かの経済指標の発表時間と重なっていたようです。2〜3時間、ただ値動きをドキドキしながら眺めていると、突然、相場が円安方向に大きく動き出しました。含み益がみるみる膨らんでいく。8万円のプラス。 震える手で決済ボタンを押しました。 あのときの感覚を、今でもはっきり覚えています。「俺の人生は、これからバラ色だ」と、本気でそう思いました。お金は、努力しなくても手に入るのかもしれない——そんな、恐ろしいほど根拠のない自信が、全身に満ちていました。 ビギナーズラックというものは、本当にあるんですね。 しかし振り返れば、あの8万円の勝利こそが、その後の「泥沼」への入口でした。 次回:興奮が慢心に変わるとき——FXという沼の、深さを知る お金と僕の12年戦争 ─ シリーズ一覧 次の話:第2話 必勝法を探し続けた男の末路──FXやらかし図鑑 ▶ 第1話 三男が生まれた日、僕は100万円をFXに突っ込んだ(この記事) 第2話 必勝法を探し続けた男の末路──FXやらかし図鑑 第3話 一冊の本が、すべてを変えた──『お金の大学』との出会い 第4話 スマホ代を月15,000円から5,000円へ──格安SIM乗り換え体験記 第5話 6大固定費の見直し②──保険の整理 第6話 住宅ローンという名の長期戦──借り換えと金利上昇 第7話 手放した日から、お金が貯まりはじめた──マークIIとの別れ 第8話 「株主」にはなれた。でも「投資家」にはなれなかった 第9話 「短期トレード」の果てに──インデックス投資という長期戦のはじまり 第10話 「廃止決定」の制度に、子どもたちの未来を託した──ジュニアNISA編 第11話 「もう一本の柱」iDeCo──節税と引き換えに、60歳まで縛るという選択 第12話 二軒の戸建がくれた、もう一本の柱──戸建賃貸業のはじまり

May 9, 2026