「安くなってから買おう」は、なぜ損なのか?──世界的ベストセラー『JUST KEEP BUYING』をやさしく解説!

株価が下がるニュースを見ると「もう少し待ってから買おう」と思い、上がると「今さら買うのは高いかな」と思う。そうやって迷っているうちに、結局なにもしないまま1年が過ぎた……。そんな経験はありませんか? 今回紹介する『JUST KEEP BUYING(ジャスト・キープ・バイイング)』は、そのモヤモヤに100年以上のデータで答えを出してくれる一冊です。タイトルを直訳すると「ただ買い続けなさい」。じつにシンプルですが、この6文字の裏には、驚くほど納得できる理由があります。 著者のニック・マジューリさんは、アメリカの資産運用会社リソルツ・ウェルス・マネジメントの最高執行責任者であり、データサイエンティストでもある人物。「なんとなくそう思う」ではなく、「データで調べたらこうだった」と語ってくれるのが本書の最大の魅力です。 この記事では、本書の要点を中学生が読んでもわかるくらいやさしくまとめました。むずかしい専門用語は使いません。それでは、さっそく見ていきましょう。 1. 「貯金」と「投資」、どっちを頑張るべき? お金の本を読むと、「まず節約しろ」と言う本と「早く投資しろ」と言う本があって混乱しますよね。本書の答えは明快で、どちらを頑張るべきかは、あなたの今の状況で変わるというものです。 判断のしかたはシンプル。「1年でいくら貯められるか」と「今持っている資産が1年でどれくらい増えそうか」を比べるだけ。 貯められる額のほうが大きいなら「貯金」に、資産が生む額のほうが大きいなら「投資」に力を入れる。 たとえば貯金が30万円しかない人が、投資のリターンを1%上げようと必死に勉強しても、増えるのは年3,000円。それより残業や副業で月1万円多く稼ぐほうが、はるかに効果的です。逆に資産が3,000万円ある人が100円の節約に神経をすり減らすのは、時間の使い方としてもったいない。同じ努力でも、効く場所は人によって違うのです。 2. 「収入の2割を貯金」に縛られなくていい 「手取りの20%は貯金しましょう」というアドバイスをよく聞きます。でも本書は、この手の万人共通のルールを疑います。理由は単純で、収入も家族構成も家賃も、人によってまったく違うからです。 大切なのは、他人が決めた数字ではなく自分が無理なく貯められる額を知ること。計算式もこれ以上ないほど簡単です。 貯められる額 = 収入 - 支出 部活の練習量と同じで、先輩と同じメニューをこなす必要はありません。自分の体力に合った量を、ケガをせずに続けることのほうが結果につながります。貯金も「ゼロでない限り、まずは合格」。少額でも仕組みにしてしまえば、あとは時間が働いてくれます。 ただし、投資を始める前にひとつだけ用意しておきたいのが生活費3〜6か月分の緊急資金です。この現金がないと、急な出費のときに、いちばん売りたくないタイミングで投資を取り崩すことになります。ゲームで言えば回復アイテムを持たずにボス戦へ行くようなもの。守りを固めてから攻める順番が大切です。 3. 節約でがんばるより、収入を増やすほうが強い 支出を削る努力には、必ず限界があります。家賃も食費もゼロにはできないからです。一方で、収入には上限がありません。だから本書は、節約より収入アップに時間を使うことをすすめます。 そのために有効なのが自分への投資。スキルを身につける、資格を取る、経験を積む。人的資本という「自分という資産」を大きくすれば、そこから生まれるお金は一生ものです。 さらに著者は、稼いだお金の使い道として「収入を生む資産を買う」ことを重視します。株式やインデックスファンドは、持っているだけで企業の稼ぎを分けてくれる存在。給料という「自分が働いて得るお金」と、資産という「お金が働いて得るお金」。この2つのエンジンを回すのが、資産形成の王道だというわけです。 4. 昇給したら、生活レベルはどこまで上げていい? 給料が上がったとき、生活をまったく変えないのはつらいものです。かといって全部使えば、お金は永遠に貯まりません。そこで本書が提案するのが、「昇給額の50%ルール」。 増えた収入の半分は使っていい。残りの半分は貯金・投資に回す。 月給が2万円増えたら、1万円は好きに使い、1万円は積立に上乗せする。これなら「頑張ったご褒美」も感じられて、貯蓄率も自然に上がります。ガマンだけの計画は、ダイエットと同じでいつか反動が来ます。続けられるルールこそが最強なのです。 5. 罪悪感なくお金を使う「2倍ルール」 お金の勉強をすると、逆に使うことが怖くなる人がいます。3,000円の服を買うだけで「投資に回すべきでは」と悩んでしまう。これは楽しくありません。 そこで登場するのが2倍ルール。ぜいたくをしたくなったら、同じ金額を投資に回すと決めるのです。1万円の食事に行くなら、1万円を積立に入れる。そこまでして欲しいかを考える判断基準にもなりますし、実行すれば「未来の自分にも同額を渡した」ことになるので、堂々と楽しめます。 お金は使うためにあります。貯めることが目的になってしまうと、何のための資産形成かわからなくなってしまいます。 6. 「安くなるまで待つ」は、神様でも勝てない ここが本書のいちばん有名なパートです。著者は膨大なデータで、2つの方法を比べました。 ひとつは毎月コツコツ買い続ける方法(ドルコスト平均法)。もうひとつは、現金をためておいて暴落したときにまとめて買う方法。しかも後者は「いつが底値かを完璧に言い当てられる」という、神様レベルの反則的な条件をつけての比較です。 結果はどうだったか。多くの期間で、コツコツ買い続けたほうが勝ちました。理由は、待っている間に市場が上がってしまうから。底を待つ人は、上昇分をまるごと取り逃がすのです。 未来を完璧に予測できる神でさえ、待っていては買い続ける人に勝てない。 未来が読めない私たちが、タイミングを当てられるはずがありません。だから答えは、とにかく買い続ける。これがタイトルの意味です。 同じ理由で、まとまったお金が手に入ったときも「様子を見ながら」より早く市場に入れたほうが有利になりやすいとデータは示しています。大事なのは、買わない期間をつくらないことです。 7. 暴落は「入場料」。こわい時こそ買い続ける とはいえ、買い続けるのは口で言うほど簡単ではありません。相場が3割下がり、SNSに悲観的な言葉があふれる時期は必ずやってきます。 本書はその下落を、「リターンを得るために払う入場料」だと表現します。遊園地に入るのにチケット代がいるように、株式の高いリターンには「値動きに耐える」という代金がついている。無料で乗れるアトラクションはないのです。 だからこそおすすめされるのが、自動積立という仕組み。毎月決まった日に自動で買い付ける設定にしておけば、こわくても、忙しくても、機械が淡々と実行してくれます。意志の力に頼らないことが、感情に負けないための最善策です。 そして買う対象は、当てにいく個別株より世界中に分散されたインデックスファンド。プロでも市場平均に勝ち続けるのは至難の業だと、データがはっきり示しています。 8. いちばん大切な資産は、増やせない「時間」 最後に本書が語るのは、お金の話ではありません。時間の話です。 お金は減っても取り戻せます。しかし時間だけは、どんな大富豪でも買い戻せません。だから著者は、お金は時間を取り戻すために使えと言います。時短家電を買う、通勤の短い家に住む、人に頼む。それは浪費ではなく、人生でいちばん貴重な資産への投資です。 資産を増やす目的は、数字を大きくすることではなく、自分の時間を自由にすること。 では、その自由はいくらあれば手に入るのか。本書が紹介するのが有名な「4%ルール」です。資産の4%を毎年取り崩す前提なら、必要な金額は1年の生活費の25倍。年間300万円で暮らすなら7,500万円が目安、という具合に、ぼんやりした不安が「数字」に変わります。 なお「いつ売るのか」についても本書は答えを示しています。売っていいのは、資産の偏りを直すとき、一つの銘柄に集中しすぎているとき、そして人生の目的のためにお金を使うとき。値動きが不安だから売る、は理由になりません。 そして本書は、資産が増えても幸福感がすぐには追いつかない理由にも触れています。だからこそ、遠い将来の目標だけを見つめて今を犠牲にしないこと。今日を楽しみながら、淡々と買い続ける。これが著者の伝えたい姿だと感じました。 私にとっての『JUST KEEP BUYING』 最後に、少しだけ個人的な話をさせてください。 ...

August 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月4日──同い年の黄門さまとは、夕方に出会った

今日は8月4日。夏休みも折り返しにさしかかる、暑さのいちばん厚い時期です。 今から57年前、1969年(昭和44年)のこの日、TBS系の月曜夜8時、『ナショナル劇場』という枠でひとつの時代劇が始まりました。 『水戸黄門』です。 私が生まれたのは、その年の4月。つまりこの番組がスタートしたとき、私は生後4か月の赤ん坊でした。まったくの同い年です。 ──と書くと思い入れたっぷりに聞こえますが、正直に申し上げます。私は月曜夜8時の『水戸黄門』を、ほとんど見ていません。 私の『水戸黄門』は、夕方の再放送で始まりました。 定着しない枠に、京都から時代劇を まずは、その始まりのほうから。 『水戸黄門』は、松下電器(現・パナソニック)の一社提供による『ナショナル劇場』という枠で放送が始まりました。この枠、それまではハナ肇とクレージーキャッツのコメディや布施明主演の青春ドラマなど、現代劇が多かったといいます。ところがどれもシリーズとして定着しない。ならば京都発の時代劇でいこう、と方針が決まって生まれたのが『水戸黄門』でした。企画の中心にいたのは、松下電器宣伝部の逸見稔さんと、制作会社C.A.Lの西村俊一さんです。 初代の黄門さまを演じたのは、俳優座の東野英治郎さん。それまで映画やドラマでは悪役を演じることが多かった人で、62歳にして水戸黄門役が初主演だったそうです。助さんは杉良太郎さん、格さんは横内正さん、元義賊で伊賀忍者という設定の風車の弥七は中谷一郎さん。うっかり八兵衛の高橋元太郎さんは第2部からの登場なので、この時点ではまだ一行にいません。 第1部は1969年8月4日から翌1970年3月9日まで、全32話。記念すべき第1話のタイトルは「俺は助さんおまえは格さん」でした。 こうして日本中の茶の間に、黄門さまが歩き出しました。その同じ年、私は生まれたばかりで、まだ何も見ていません。 私の『水戸黄門』は、外が明るいうちに始まった 小学生になったころ、私は夕方の再放送で『水戸黄門』を見るようになりました。 毎日欠かさず、というほどではありません。平日の、ときどき。学校から帰ってきて、そのままテレビの前に座る日がある、という程度です。そしてたいていの場合、私は一人で見ていました。 いま思うと、これは少し不思議な体験でした。 月曜の夜8時には、最新シリーズの黄門さまが日本中の茶の間を歩いている。その同じ番組を、私は何年も前に作られた回で、平日の夕方に見ていた。同い年のはずなのに、リアルタイムではずっとすれ違い続けていたわけです。 しかも第何部の第何話かなど、子どもの私には知りようがありません。話は毎回きれいに完結するので、順番を気にする必要もない。私にとって『水戸黄門』は、時系列というものが最初から存在しない番組でした。どこから見ても始まりで、どこで終わっても終わりだった。 それでいて、何も困らなかった。むしろそれが、あの番組のいちばんの発明だったのかもしれません。 そして、相撲へ 夕方の再放送には、決まった続きがありました。 黄門さまの旅が終わると、私はそのまま大相撲の中継に移ります。ちょうど上位の取り組みが始まるころ合いでした。江戸時代の旅から、いきなり土俵の上へ。いま並べると妙な取り合わせですが、当時の私にはひと続きの夕方でした。 相撲を見ていた理由については、以前この連載でも書きました。夕方5時の門限です。外で遊べる時間には終わりがあって、それを過ぎたら家にいるしかない。家にいるということは、テレビの前にいるということでした。 つまり私の『水戸黄門』は、「見たくて見た番組」というより、「家にいる時間にそこで流れていたもの」に近い。夜8時に家族そろって見る番組ではなく、一人で、外の明るさを背中に感じながら見る番組だった。同じ番組でも、見る時間帯が違えば、まるっきり別の記憶になるのだと思います。 「お決まり」は、最初からあったわけではない いまや誰でも知っている、あの終盤の場面。格さんが印籠を掲げ、悪代官たちが一斉に平伏す。 ところが、あの様式は最初から完成していたわけではないようです。ひと暴れした後に印籠を見せて正体を明かす──あのお馴染みのパターンに近い形が使われるようになったのは第2部からで、第1部で使われていた印籠とはデザインも違っていたといいます。 主題歌の「あゝ人生に涙あり」も、番組とともに歩いた一曲でした。作詞は山上路夫さん、作曲は木下忠司さん。初代の歌い手は、助さんと格さん──つまり杉良太郎さんと横内正さんです。その後、第4部からは里見浩太朗さんと横内正さん、第9部からは里見浩太朗さんと大和田伸也さん、と、歌い手も助さん格さんの交代とともに移り変わっていきました。 再放送でバラバラに見ていた私は、当然そんな変遷を知りません。黄門さまが印籠を出すのは、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前のことでした。生まれたときからそこにあったものを、人は「最初からそうだった」と思い込む。あの番組は、私にとってその典型だったのだと思います。 いま振り返ると、私があの番組を見ていた理由も、そこにあった気がします。物語の流れが、おおむね決まっている。誰が悪いのか、最後にどうなるのか、見る前からわかっている。ふつうならそれは退屈の理由になるはずですが、子どもの私にとっては逆でした。あの安心感、あの安定感が、心地よかったのだと思います。 先が読めないものを追いかけるのは、それなりに体力が要ります。夕方の一時間に私が求めていたのは、そういうものではありませんでした。今日も黄門さまは旅をしていて、今日も悪いやつは負ける。それがそのとおりに起きるのを確かめるために、私は座っていたのかもしれません。 私は、助さん派だった 子どもが時代劇を見るとき、たいてい黄門さま本人には感情移入しません。おじいさんですから。目がいくのは、暴れるほうです。 私は、助さん派でした。それも、里見浩太朗さんの助さんが一番のお気に入りでした。 里見さんが佐々木助三郎を演じたのは、第3部から第17部まで。年数にして16年半にわたります。つまり私が小学生で夕方の再放送を見ていたころ、画面の中の助さんは、まず間違いなく里見浩太朗さんでした。「助さんといえばこの人」と刷り込まれたのは、当然といえば当然だったわけです。 格さんには、印籠を掲げて「この紋所が目に入らぬか」と言う、あの一番おいしい役目があります。それでも私は助さんのほうがよかった。子どもが誰を好きになるかは、だいたい理屈ではないものです。 42年の旅の、終わり 『水戸黄門』は、その後ずっと続きました。 黄門さまは東野英治郎さんから西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さんへと引き継がれていきます。そして2002年、第31部。ついに里見浩太朗さんが、黄門役に座りました。 あの助さんが、黄門さまになったのです。 夕方の再放送で、私が一番かっこいいと思っていた男。その人が三十年かけて、旅の主役の側へ回った。子どものころに刷り込まれた序列というのは、四十を過ぎても案外そのまま残っているものです。 そして2011年。第43部をもって、TBS系のレギュラー放送としての『水戸黄門』は終わりました。最終回スペシャルの放送は、同年12月19日。42年の歴史に幕、と報じられました。終了が明らかになった際、里見浩太朗さんはTBS本社での会見で、後ろから斬られたようだ、残念というより痛い、という趣旨のことを語っています。この年はほかにも『3年B組金八先生』や『渡る世間は鬼ばかり』が区切りを迎え、TBSの長寿ドラマがまとめて姿を消しました。 私はそのとき42歳。生後4か月だった赤ん坊は、番組が終わるときに42歳になっていた。つまり私は、『水戸黄門』とほとんど同じ年月を生きてきたことになります。 これほど正確に自分と並走した番組を、ほかに思いつきません。しかも私は、その42年のうちの何割かを、夕方の再放送という裏口から覗いていただけでした。 令和の茶の間から いま私の家には、地上波のテレビがありません。大きな液晶モニターで、YouTubeやNetflixを見ています。見たいものを、見たいときに、見たいだけ。便利です。文句のつけようがありません。 ただ、いまの配信の見方は、あのころの夕方の再放送によく似ています。順番など気にせず、途中から入って、話が終わればそれでいい。私は昭和の夕方に、すでに配信のような見方をしていたのかもしれません。 違うのは、選んでいなかったということです。テレビをつけたら黄門さまが歩いていて、終わったら相撲が始まった。選んでいないからこそ、体に残っている。いま自分で選んで見ているものが、40年後に同じように残っている自信は、正直あまりありません。 おわりに 1969年8月4日。私が生後4か月だったその夜、テレビの中でひとりの老人が旅に出ました。 その旅は42年続き、私が42歳になった年に終わりました。同い年でありながら、私はその始まりも終わりも、きちんとは見ていません。見ていたのは、小学生のころの、外がまだ明るい夕方の一時間だけです。 それでも「黄門さまがずっとそこにいた」という感覚だけは、いまも体に残っています。たぶん、選ばずに浴びたものというのは、そういうふうに残るのでしょう。 そして、あの旅の最後にいたのは、私が一番好きだった助さんでした。夕方の茶の間で刀を振っていた男が、四十年かけて黄門さまになり、そのまま番組を送り出した。私が見届けなかった終わりを、あの人が引き受けてくれていた。そう思うと、見ていなかったことが、少しだけ許される気がします。 あなたにとっての『水戸黄門』は、夜の番組でしたか。それとも私と同じ、夕方の番組でしたか。何代目の黄門さまがいちばんしっくりきますか。よろしければ、あなたの茶の間の話も聞かせてください。 ...

August 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月3日──トラと基板とひまわりと。少年に届かなかった三つのニュース

三つ並んで、三つとも空白だった 8月3日という日付を調べていて、少し困ったことになりました。 昭和の出来事が、きれいに三つ出てきたのです。昭和51年のTK-80発売、昭和54年の神野寺トラ脱走事件、昭和59年のひまわり3号打ち上げ。しかも自分の年齢を当てはめてみると、順に小学1年生、小学4年生、中学3年生。少年時代がちょうど三段に切り取られている。 これはいい記事が書けそうだ、と思いました。 思ったのですが、正直に申し上げます。私は、この三つをどれ一つとして覚えていません。 「あの夏か」という手応えが、まったく立ち上がってこない。三つ並んで、三つとも空白でした。 ただ、書きながら気づいたことがあります。同じ「覚えていない」でも、覚えていない理由がそれぞれ違うのです。早すぎて届かなかったもの。近いのに届かなかったもの。近すぎて、届いていることにさえ気づかなかったもの。 その三つの距離の話を、今日は書いてみます。 昭和54年、隣の県でトラが逃げた まずは真ん中の、いちばん派手な話から。 昭和54年8月2日の夜、千葉県君津市の鹿野山にある神野寺という寺で、飼われていたベンガルトラ3頭が檻から逃げ出しました。関東最古とも伝えられる古刹の境内に、当時は観光用の動物園が併設されていて、十二支にちなんだ動物たちが飼われていたのだそうです。 3頭のうち1頭はすぐに戻ってきましたが、生後1年ほどのオスとメスの2頭が行方不明になりました。体長はおよそ1.5メートル、体重は100キロ前後。まだ子どもとはいえ、山に放たれたトラです。 寺からの通報を受けた千葉県警が現地対策本部を設置したのが、翌3日の未明でした。警察官、消防団、猟友会。総勢およそ500人が山に入り、周辺の住民には外出禁止令が出されます。夏休みの真っ最中で、寺の周辺には観光客や合宿中の学生も滞在していました。近くのマザー牧場で予定されていた野外コンサートも中止になっています。 メスは4日の朝に射殺されました。ここで話が複雑になります。全国から「射殺するな」「かわいそうだ」という抗議が殺到し、寺の住職までが射殺という判断を疑問視する発言をした。これに猟友会が激怒して、捜索は一時中断してしまいます。 残るオスは、そこから山中を逃げ続けました。決着がついたのは28日。近隣の民家の飼い犬がトラに襲われて死んでいるのが見つかり、その日のうちに射殺されて、27日間の騒動はようやく終わりました。 日本中がひと夏、山に潜む1頭のトラを追いかけていたわけです。連日ニュースになったはずですし、テレビの前で息を呑んだ子どもも大勢いたはずです。 なのに、私にはその記憶がない。 なぜだろうと考えて、地図を見て、腑に落ちました。君津は、たしかに隣の県です。距離でいえば東京の西のはずれより近いくらいかもしれません。でも当時のわが家に車はなく、父は休みらしい休みがない人で、家族で泊まりがけの旅行に出た記憶も一度もない。房総というのは、私にとって「行ったことのない土地」でした。 行ったことのない土地は、地図の上でどれだけ近くても、遠いのです。10歳の私にとって、鹿野山は月の裏側と大差なかったのだと思います。 昭和51年、8万8500円の基板 次は、いちばん古い話。 昭和51年8月3日、日本電気――今のNECが、TK-80という製品を発売しました。「Training Kit」の頭文字を取った名前のとおり、これは完成品ではありません。ビニール袋に入った部品と、組み立て説明書と、回路図。買った人が自分でハンダごてを握って、一枚の基板の上に組み上げる。そういう代物でした。 価格は8万8500円。中途半端な数字に見えますが、これには理由があって、当時の企業で係長や課長が自分の判断で決裁できる金額の上限が10万円だったからだ、と伝えられています。技術者が上司に相談せずに買える値段。それが8万8500円でした。 そもそも売る側も、これが売れるとは思っていませんでした。マイクロプロセッサという新しい部品を売り込もうにも、客先を回って説明しても理解してもらえない。ならば技術者に触って覚えてもらおう、という販売促進のための教材だったのです。月に200台も出れば上出来、という見込みでした。 ふたを開けたら、月に2000台売れました。 しかも買ったのは想定していた企業の技術者だけではなく、学生や、経営者や、ただの物好きたちでした。秋葉原のラジオ会館に開設されたサポート窓口には人が集まり、そこからパソコンという文化が立ち上がっていく。日本のマイコンブームは、この一枚の基板から始まったといわれています。 このとき、私は7歳。小学1年生の夏休みです。 覚えていないのは当然だ、と胸を張って言えます。だってこれは、大人ですら誰も知らなかった出来事なのですから。売っている本人たちが月200台と踏んでいたものが、どうして下町の小学1年生に届くでしょうか。 ニュースが子どもに届かなかったのではなく、ニュースそのものがまだ存在していなかった。トラの話とは、まるで種類の違う「遠さ」です。 昭和59年、天気予報の裏側が打ち上がった 三つめ。昭和59年8月3日、種子島宇宙センターからN-IIロケット6号機が飛び立ちました。積んでいたのは静止気象衛星「ひまわり3号」です。 ここで少しおかしな話があります。この打ち上げ、本来の予定より2日遅れました。理由は、台風7号の接近です。 台風を見張るために飛ばす衛星が、台風に足止めされていた。昭和の夏らしいというか、なんとも人間くさい話だと思います。 ひまわり3号は、この年の秋から本格的な運用に入りました。地球の雲の画像を1日に何度も送ってきて、それがそのまま夕方のテレビの天気予報に流れる。私たちが「明日は雨か」と口にするとき、その根拠は宇宙から届いていたわけです。 このとき、私は15歳。中学3年生でした。 そして三つのなかで、この打ち上げを覚えていないことが、いちばん自分でも意外でした。トラや基板と違って、ひまわりの成果は毎日目に入っていたはずだからです。テレビをつければ、白い渦がぐるぐると回っている。あの映像を見ていない日のほうが少なかったでしょう。 ひまわりの初号機が上がったのは昭和52年です。私が小学2年生のときですから、物心ついてからこちら、雲の写真が映る天気予報しか知らずに育ったことになります。3号はその三代目。世代交代が起きていたことにも、当然ながらまるで気づいていませんでした。 つまり私は、恩恵だけを受け取って、その出どころに一度も関心を向けなかったということになります。近すぎて、意識の対象にすらならなかった。空気を覚えていないのと同じことです。 遠すぎて届かないものと、近すぎて見えないもの。人間が取りこぼすものには、どうやら両側があるらしいと、この歳になって思います。 同じ日付、同じ会社 ここまで書いてきて、ひとつ気づいたことがあります。 TK-80をつくったのは日本電気です。そしてひまわり3号を開発・製造したのも、日本電気でした。 8年の隔たりを挟んで、同じ8月3日に、同じ会社が、一方では8万8500円の裸の基板を、一方では宇宙に浮かべる気象衛星を世に出している。片方は日本のパソコン文化の出発点になり、片方は毎日の天気予報を支えた。 昭和という時代の底力みたいなものが、この符合には少しだけ透けて見える気がします。 そして今、私はその基板の子孫にあたる機械でこの文章を書き、朝はその衛星の子孫が撮った雲を見て一日の見通しを立てている。覚えていなかった二つの出来事が、いつのまにか私の生活そのものになっていた。 ...

August 3, 2026

厚底シューズ歴7年の私が「ワラーチ」で走ったら、ニヤけが止まらなくなった話

はじめに ― 職場の同僚に「変な履物」を勧められた きっかけは、職場のランニング仲間からの一言でした。 「これ、走れるサンダルなんですよ」 彼はすでにワラーチのユーザーで、実物を持ってきて見せてくれました。薄いゴム板にヒモを通しただけの、いわばゴムのわらじ。正直、最初の感想は「……これで走るんですか?」でした。 そのうえで、こんな提案をもらいます。 「私、もう一足欲しいと思っていまして。自作キットが2足分で3,000円で買えるんですが、割り勘で購入して1足ずつ使いませんか?」 実物を目の前にして説明を聞いているうちに、めっちゃ興味がわいてしまいました。ひとり1,500円。失敗しても痛くない金額です。二つ返事で了承し、購入をお願いしました。 半信半疑のまま自作キットが手元に来て、実際に作って走ってみたわけですが――結論から言うと、しばらく忘れていた「走ることそのものの楽しさ」を思い出しました。 近年の私はすっかり厚底シューズに慣れきっていて、脚を「守られている」状態が当たり前になっていました。そこへワラーチです。一歩ごとに、足裏からズンズンと地面の情報が体に響いてくる。この感覚がとにかく心地よくて、走りながら口元がゆるんでしまう。はたから見れば完全に「ニヤけた変な人」です(笑)。 この記事では、そんなワラーチについて、 そもそもワラーチとは何なのか(発祥地・歴史) 履いて走ることで期待できるメリット 一方で、必ず知っておくべきデメリット・注意点 自作キットの実際 を、初心者なりの実体験を交えてまとめます。 はじめにお断り この記事は、ワラーチ歴わずか2回・計10kmの人間が書いたファーストインプレッションです。ベテランの方から見れば「そこはまだ何もわかってない」という部分だらけだと思います。だからこそ、始めたばかりの人間が何を感じ、何をやらかしたかを、できるだけ正直に残しておきたくて書いています。 親指と人差し指の間を通したヒモが甲でクロスし、足首まわりをぐるりと囲む。靴に慣れた目で見ると、あまりに情報量が少なくて逆に驚きます。 ワラーチとは ― 「走る民族」の履物 ワラーチ(huarache/ワラチェ、ハラッチとも表記)は、メキシコ北西部の先住民族・ララムリ(別名タラウマラ族) が古くから履いてきたサンダルを原型とする履物です。 構造は驚くほどシンプルで、 ソール:足型に切り出した1枚のゴム板(伝統的には廃タイヤ) ストラップ:ソールに開けた穴に通した革ヒモ(現代では主にパラコード) これだけ。クッションもアーチサポートもヒールカウンターもありません。「足裏を石やトゲから守る最低限の板」に、脱げないためのヒモが付いているだけの道具です。 ララムリはメキシコ・チワワ州の峡谷地帯(バランカ・デル・コブレ/通称「銅峡谷」)に暮らし、このサンダルで起伏の激しい山道を100km単位で走ることから「走る民族」と呼ばれてきました。 語源には諸説あり ― 「わらじ」説は本当か? 「huarache」という語は、メキシコ先住民の言語プレペチャ語で「サンダル」を意味する語(kwarachi など)に由来する、というのが一般的な説明です。 一方、日本では 「語源は日本語の"わらじ"だ」という説 がネット上でよく紹介されています。江戸時代に太平洋を渡った日本人が伝えた、という話ですが、これは学術的に裏づけられたものではなく、音の似た偶然から生まれた俗説と考えるのが妥当でしょう。 ただ、形も発想も本当によく似ているのは事実です。薄い板を足裏に当て、ヒモで結ぶ。地球の反対側で同じ答えにたどり着いたと考えると、それはそれでロマンがあります。 後で出てくるゴムシートの写真を眺めていると、素材こそ違え、発想は本当にわらじそのものだなと思えてきます。 ワラーチが世界に広まった理由 ― 『BORN TO RUN』 ワラーチが一部のマニアの道具から世界的なムーブメントになった決定打が、2009年に刊行されたクリストファー・マクドゥーガルのノンフィクション 『BORN TO RUN 走るために生まれた』 です。 「なぜ高機能シューズが進化し続けているのに、ランナーの故障は減らないのか?」という問いを軸に、ララムリの走りと文化を追ったこの本は世界的なベストセラーとなり、ベアフット(裸足)ランニング/ミニマルシューズの一大ブームを巻き起こしました。 この流れの中で、 ビブラム ファイブフィンガーズに代表されるミニマルシューズの登場 自作ワラーチのDIY文化の広がり ワラーチ限定のリレーマラソンなど、国内イベントの開催 といった動きが生まれ、日本にも定着していきます。 面白いのは、その後ランニング界が 真逆の方向=厚底カーボン へ大きく振れたこと。今、私たちは「極厚」と「極薄」という両極端の選択肢を、両方手にしているわけです。(そして私は、まんまと両方履いています) 厚底 vs ワラーチ ― 同じVibramなのに、真逆 私の普段の相棒は HOKA SPEEDGOAT 6。当たり前ですが、両者はまったくの別物でした。 ...

August 3, 2026

なぜ、同じ収入でも「貯まる人」と「貯まらない人」がいるの?──100年読み継がれる名著『バビロンの大富豪』を中学生にもわかるように解説!

毎月まじめに働いているのに、なぜかお金が残らない。かたや、同じくらいの収入なのに、しっかりお金を増やしていく人もいる――。この違いは、いったいどこから生まれるのでしょうか? じつはその答えは、いまから約100年前、いえ、物語の舞台までさかのぼれば数千年前から、まったく変わっていません。 今回紹介するのは、世界中で読み継がれるお金の古典『バビロンの大富豪』(原題 The Richest Man in Babylon)。著者は、アメリカの実業家ジョージ・S・クレイソンさんです。1926年に発表されたこの本は、古代都市バビロンを舞台にした「物語」のかたちで、お金を貯め・守り・増やすための原理原則を教えてくれます。 物語には、いくら働いてもお金がたまらないと嘆く馬車職人や竪琴弾きが登場します。彼らが大富豪アルカドのもとをたずね、富の秘密を教わっていく――そんな親しみやすいストーリー仕立てなので、お金の本が苦手な人でもすっと入っていけます。 むずかしい専門用語はほとんど出てきません。中学生が読んでもわかるくらいやさしいのに、大人が一生使えるお金の知恵がぎっしりつまっている――それが、この本が100年も愛され続ける理由です。今日はその中身を、8つのポイントにしぼってやさしく解説していきます! ① まずは「収入の10分の1」を自分のために取っておく バビロン一のお金持ち・アルカドが、いちばん最初に教えたルールはこれです。 稼いだお金のうち、少なくとも10分の1は、自分のために取っておきなさい。 給料が入ったら、10枚のうち9枚で暮らし、残りの1枚は「なかったもの」として貯金にまわす。たったこれだけです。 ポイントは、余ったら貯めるのではなく、先に貯めること。ゲームでいえば、冒険に出る前にまずセーブしておくようなものです。残ったお金で生活する――この順番にするだけで、財布は少しずつ、でも確実に太っていきます。 「たった10分の1で何が変わるの?」と思うかもしれません。でもアルカドは言います。少しずつでも貯め始めた人の財布には、不思議とお金が流れ込んでくるようになる、と。 おもしろいのは、10分の1を抜いても暮らし向きはほとんど変わらないという点です。人は手元にあるお金を、あればあるだけ使ってしまうもの。だからこそ、最初にひとつまみ取り分けておくだけで、生活の質を落とさずに、着実に資産の芽を育てられるのです。 ② 「必要な出費」と「ただ欲しいだけの出費」を分ける 貯金を始めると、多くの人がこう思います。「10分の1を抜いたら、生活が苦しくなるのでは?」 でも本書はきっぱり言います。欲しいものと、必要なものは、まったくの別物だと。 人の欲望には限りがありません。収入が増えれば、欲しいものも同じだけ増えていく。だから、いくら稼いでも「使いたい欲」に追いつかれてしまうのです。 そこで大事になるのが「予算を立てる」こと。使ってもいい金額をあらかじめ決めておけば、気まぐれな衝動買いにブレーキがかかります。使っていないサブスクや、なんとなく続けている固定費を見直すだけでも、意外と削れるお金は見つかるものです。 ③ 貯めたお金を「働かせる」――お金にもうひとり働いてもらう お金をただ金庫に眠らせておくのは、じつはもったいないこと。本書は、貯めたお金をさらにお金を生む「種」として使いなさいと教えます。 貯めた黄金を働かせれば、それがまた新しい黄金を連れてくる。 これは、畑にまいた1粒の種が、やがて何十粒もの実をつけるのと同じ。お金がお金を呼び、その増えたお金がまた次のお金を呼ぶ。雪だるまが転がるほど大きくなるように、時間を味方につければ、資産はふくらんでいきます。 大事なのは、少額でもいいから「働く場所」にお金を置いてみること。早く始めた人ほど、この雪だるまを大きく育てられます。 本書がすごいのは、この「お金に働いてもらう」という発想を、数千年前の物語の中ですでに語っていること。自分の体は一日24時間しか働けませんが、お金には休みも眠りもありません。あなたが寝ている間も、遊んでいる間も、こつこつと働き続けてくれる――そんなもうひとりの働き手を持てるかどうかが、大きな分かれ道になります。 ④ 大切なお金を「守る」――わからないものには手を出さない お金は、増やすことよりも失わないことのほうがずっと大切です。100かけて増やしても、1回の大失敗でゼロになっては意味がありません。 本書には「黄金の五つの法則」という教えがあり、その中でくり返し警告されるのがこれです。 黄金は、自分がよく知らないものに投資する人から、逃げていく。 SNSやネットで見かける「絶対もうかる」「今だけ」という甘い話ほど、あやしいもの。よく知らないゲームにいきなり大金を課金しないのと同じで、中身が理解できないものには近づかない。これが、お金を守るいちばんの盾になります。 本書には、大金を持ちながらだまされて全財産を失ってしまう人の話も出てきます。共通しているのは、「早く増やしたい」というあせりにつけこまれた点です。判断に迷ったら、その道にくわしい信頼できる人の意見を聞くこと。そして、うますぎる話は「何かおかしい」と一歩引いて考えること。守りを固めてこそ、増やす攻めが生きてきます。 ⑤ 自分の「稼ぐ力」こそ、最大の資本 お金を貯めて、増やして、守る。それも大事ですが、本書はもうひとつ、意外な資産に目を向けさせます。それは――あなた自身です。 稼ぐ力を高めることは、いちばん確実な投資である。 同じ仕事でも、スキルや知識が上がれば、もらえる報酬も上がっていきます。これは、ゲームでレベルを上げると強い装備が手に入るのと似ています。本を読む、勉強する、経験を積む。こうした自己投資は、一度身につけば一生あなたから離れません。 学校でも会社でも、学び続ける人のところに、お金を稼ぐチャンスは集まってくるのです。 しかも、この「稼ぐ力」は不景気にも強いのが特長です。株や不動産の値段は下がることがありますが、あなたが身につけた知識やスキルは、値下がりしません。自分という資本を育てることは、どんな時代でも裏切らない、いちばん確実な投資なのです。 ⑥ 「未来の自分」に、いまから仕送りをしておく 若いうちや元気なうちは、なかなか実感がわかないもの。でも本書は、将来の自分と家族のために、いまから準備しておくことの大切さを説きます。 たとえば、家賃を払い続けるかわりに自分の住まいを持つこと。あるいは、年をとって働けなくなったときのために、少しずつ備えを積み上げておくこと。 これは、遠くにいる「未来の自分」へ、毎月少しずつ仕送りをしておくようなイメージです。いまの自分がほんの少しがまんするだけで、未来の自分がずっと楽になる。金額の大きさよりも「続けること」が大切で、その積み重ねが、安心できる暮らしの土台になります。備えがある人は、心にも余裕が生まれます。 ⑦ 借金は「返せる計画」でコツコツ片づける 本書には、借金まみれだったラクダ商人・ダバシールが、見事に立ち直る物語が出てきます。そのカギになったのが、シンプルなお金の配分ルールでした。 収入の10分の7で暮らし、10分の2で借金を返し、10分の1を自分のために貯める。 ポイントは、借金を返しながらも貯金をやめなかったこと。返済だけに追われると心が折れてしまいますが、少しでも自分のお金が増えていくと、前を向いて続けられます。 借金は、あわてて一気に返そうとしなくて大丈夫。返せる計画を立てて、一歩ずつ。地味ですが、これがいちばん確実な脱出法です。 ⑧ 「幸運」は、行動して備えた人のところにやってくる 最後に、この本がくり返し伝える大切なメッセージです。 幸運の女神は、行動する人に微笑む。 ...

August 2, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月2日──道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場

車道の真ん中を、堂々と歩く 道路の真ん中を歩く。あれは何度やっても、少しだけ悪いことをしているような、妙にわくわくする感覚があります。いつもは白い線の内側にいなければいけない場所に、堂々と立っている。あの高揚は、大人になっても変わりません。 その感覚が東京で初めて公式に許されたのが、1970年(昭和45年)8月2日でした。銀座、新宿、池袋、浅草。この4か所で、東京都内初の歩行者天国が実施されたのです。このとき私は1歳4か月。当然ながら記憶はありませんが、今回調べていて、なぜ道路を人間に返さなければならなかったのかを知り、少し息を呑みました。 「道路が笑顔で埋まった」 その日の人出は、4か所あわせておよそ80万人。 翌8月3日の東京新聞は、朝刊の1面トップでこの日を伝えました。見出しは「道路が笑顔で埋まった」。当時の写真を見ると、銀座通りは本当に人・人・人で埋め尽くされています。日傘、半袖のワイシャツ、子どもの手を引く母親。そのすべてが、いつもは車が占領しているはずのアスファルトの上に立っている。 言い出したのは、当時の東京都知事・美濃部亮吉さんでした。「車から人間へ」。この一言に、あの時代の東京が抱えていたものが全部詰まっています。 なぜ、道路を人間に返す必要があったのか 1970年は、日本の交通事故死者数が過去最悪を記録した年でした。その数、1万6,765人。1年で、です。あまりの多さに、当時これは「交通戦争」と呼ばれました。日清戦争の戦死者数を上回る勢いで人が死んでいく、という意味です。しかもそのうち15歳以下の子どもが12.5パーセント。8人に1人が子どもでした。 そしてもうひとつ、歩行者天国のわずか2週間前の出来事があります。 1970年7月18日、東京都杉並区の東京立正高校で、体育の授業を受けていた生徒43人が次々と目やのどの痛みを訴え、病院に運ばれました。日本で初めて確認された、光化学スモッグの被害です。この日、同じ症状を訴えた人は都内だけで5,208人。原因は、自動車や工場から出る排気ガスが強い紫外線を浴びて化学反応を起こしたことでした。 体育の授業中に、高校生が空気で倒れる。そんな夏の直後に、東京は道路から車を追い出したのです。歩行者天国というのんびりした響きの裏に、これだけ切実な事情がありました。 道路は、もともと遊び場だった もっとも、道路を人に開放する試みはこれが最初ではありません。1958年(昭和33年)には神田の東紺屋町で、日曜と祝日に道路を柵で仕切って子どもたちの遊び場として提供する「遊戯道路」が設けられ、後に都内へ広がっていきました。 「遊戯道路」という言葉が、私はとても好きです。道路は遊ぶところだ、と大人が認めていた。子どもが道路で遊ぶのは当たり前で、だから車のほうに遠慮してもらう。そういう順番だったのです。 そして、その順番が生きていた場所を、私はよく知っています。 高砂の「路地球場」 高砂で過ごした子ども時代を思い返すと、いちばん印象に残っているのは、やはり「路地野球」です。私たちにとって道路は、単なる通り道ではなく、毎日のように集まる遊び場であり、野球場そのものでした。 もちろん幹線道路ではありません。遊んでいたのは幅4メートルほどの細い路地で、車が頻繁に通るような場所ではなく、近所の人が行き来する程度の静かな道でした。そこに数人、多い日には十数人もの子どもたちが集まり、二つのチームに分かれて試合をしていました。使うのは柔らかいビニール製のボールとプラスチックのバット。みんな思い思いに好きなプロ野球チームの帽子をかぶり、本物のプロ野球選手になったような気分でプレーしていたものです。 グラウンドづくりも子どもたちの仕事でした。どこから拾ってきたのか、ブロック塀の破片で道路にホームベースや塁の位置を書き、毎日試合をしていたので、その路地にはいつもベースの跡が残っていました。誰に教わるでもなく、みんなで自然に「球場」を作り上げていたのです。 路地で野球をする以上、本物の球場のようにはいきません。道の両側には民家が並び、打球は塀や壁に当たって思わぬ方向へ跳ね返ります。だからこそ独自のルールが次々と生まれました。塀に当たって跳ね返ったボールをノーバウンドで捕ればアウト。前方の家の庭まで打ち込めばホームラン。路地の形そのものが、球場のフェンスやスタンドの役割を果たしていたような感覚でした。 さらに面白かったのは、路地ごとにルールが違っていたことです。近所のあちこちに「路地球場」があり、別の町内の友達に誘われて遊びに行くと、その場所ならではのルールがある。まるで違う球場へ遠征するような気分になったものです。 中でも忘れられないのが、「かみなりおやじ」と呼ばれていた家です。その家にボールを打ち込むと、もしご主人に気づかれたら大目玉。だからその家に打ち込んだ瞬間、「即チェンジ!」という特別ルールがありました。ホームランでもアウトでもなく、とにかく攻守交代です。子どもたちは笑いながらも、その家だけは本気で避けようとしていました。今思えば、近所の大人たちとの距離が近かった時代ならではの、微笑ましいルールだったように思います。 もちろん道路ですから、人や車が通れば試合は一時中断です。「車!」「人来た!」と誰かが声を上げると、みんな一斉にプレーを止め、通り過ぎるのを待ってから何事もなかったように再開しました。当時は今ほど交通量も多くなく、子どもたちも自然と周囲に気を配りながら遊んでいました。 今では道路で野球をする光景を見ることはほとんどありません。しかし昭和のあの頃、私たちにとって路地は最高の野球場であり、毎日が公式戦のような真剣勝負の舞台でした。道幅わずか数メートルの小さな「球場」に、子どもたちの工夫と笑い声、そして野球への夢がぎっしり詰まっていたのです。 銀座は憧れの都会、上野は普段着の都会 歩行者天国そのものの記憶も、ひとつあります。 子どもの頃、歩行者天国といえば、何度か銀座へ連れて行ってもらった記憶があります。父は仕事で休日も家を空けることが多かったので、一緒に出かけるのは母と妹、そして私の三人でした。 当時の銀座は、私にとってまさに「特別な都会」でした。テレビや雑誌で見るような華やかな街で、大人がおしゃれをして歩く場所。実際に歩行者天国を歩いてみても、どこか自分が場違いなところへ来てしまったような感覚がありました。人の多さや洗練された街並みに圧倒され、わくわくする反面、なぜか落ち着かず、少し疲れてしまったことを覚えています。 そして帰り道、上野に立ち寄ると、不思議なくらい気持ちがほっとしました。「やっぱり上野くらいがちょうどいいな」「ここが自分にとって落ち着く都会なんだ」と感じた、その時の感覚は今でも印象に残っています。 私にとって本当に身近だった歩行者天国は、銀座ではなく上野中央通りでした。高砂から京成線一本、乗り換えもなく行けて、家族で買い物や食事に出かけるにはちょうどいい距離です。百貨店やアメ横があり、公園や動物園、美術館もある。見るものがたくさんあって、それでいて下町らしい親しみやすさも残っている。背伸びをしなくても楽しめる街だったのです。 銀座が「憧れの都会」だとすれば、上野は「普段着の都会」。そんな違いを、子どもながらに感じていたように思います。だからこそ上野では、歩行者天国を歩いていても緊張することはなく、人混みの中にいてもどこか安心感がありました。 高砂で育った私にとって、銀座は「東京を代表する特別な街」、上野は「自分たち下町の延長線上にある、一番身近な都会」でした。 実は、一本の道だった ところが今回、調べていて驚いたことがあります。 1973年(昭和48年)6月10日、上野から銀座まで5.5キロにわたる、当時「世界一長い」と言われた歩行者天国が実現していたのです。上野広小路にこれだけの人出があったのは、関東大震災のとき、昭和5年の海と空の博覧会に次いで三度目のことだったといいます。 つまり、私が場違いだと感じた銀座と、ほっとした上野は、同じ中央通りの南の端と北の端だったわけです。車を締め出されたアスファルトは、ずっと一本につながっていた。あの居心地の悪さと安心感の差は、道が違ったからではなく、同じ道のどちら側に立っているかの違いだったと思うと、少し可笑しくなります。 80万人と、十数人 こうして並べてみると、面白いことに気づきます。 銀座には80万人が車道にあふれ、高砂の路地には十数人が集まってブロック塀の破片でベースを描いていた。片方は都知事が号令をかけた一大イベントで、もう片方は誰の許可も得ていない勝手な占領です。けれど、やっていることは同じでした。アスファルトの上に、車ではなく人が立つ。銀座の80万人は日曜の数時間だけそれをやり、私たちは毎日やっていたわけです。 「車!」の一声でみんなが道の端に寄る。あれは、道路を借りている側の作法でした。歩行者天国が標識と警察官の力で実現していたものを、路地の子どもたちは声と目配りだけで成立させていたのかもしれません。 令和のいま 銀座の歩行者天国は、いまも続いています。土曜・日曜と祝日、中央通りから車が消えて、人が真ん中を歩く。あの日から56年、あの光景はまだ生きています。一方、5.5キロの「世界一長い歩行者天国」のほうは、神田のあたりで途切れ、上野までつながることはなくなりました。 交通事故の死者数は、2021年には2,636人まで減りました。1970年の1万6,765人の、およそ6分の1です。ガードレール、歩道橋、横断歩道。あの年に必死で整備が始まったものが、半世紀かけてこれだけの差を生みました。 その代わりに、路地から子どもの声が消えました。安全と引き換えに何かを手放した、と言うつもりはありません。1万6,765人という数字を知ってしまうと、あの時代がよかったとは、とても言えないからです。ただ、ブロック塀の破片で描いたベースの跡が、雨で消えるまで路地に残っていたこと。あれだけは覚えておきたいと思っています。 みなさんは、子どものころ道路で何をして遊んでいましたか。あるいは、歩行者天国の思い出はありますか。よかったら教えてください。 いまの子どもは、さすがに路地では野球ができません。でも公園や庭先でなら、あの頃と同じことができます。柔らかいカラーバットとボール、それにグローブがひとそろいになったセットです。当たっても痛くない素材なので、小さなお子さんやお孫さんの「はじめての野球」にちょうどいい。ブロック塀のかわりに、おじいちゃんがピッチャーをやってあげてください。 野球3種セット(カラーバット/やわらかボール/子供用グローブ)当たっても痛くないやわらか素材の入門セット。バット・ボール・グローブが揃うので、公園や庭先ですぐに遊べる。孫との初めてのキャッチボールにも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

August 2, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月1日──「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ

夏休みのど真ん中に、ひとりのスターが生まれた 8月1日。子どものころ、この日は「夏休みがまだたっぷり残っている」という、いちばん贅沢な時期でした。カレンダーの残りが分厚くて、8月31日という言葉がまだ他人事だったころです。 その8月1日に、16歳の少年がレコード店の棚に並びました。1972年(昭和47年)、郷ひろみさんが「男の子女の子」でデビューします。 このとき、私は3歳です。当然ながら、この日のことは何ひとつ覚えていません。ただ、この日から始まったものが、そのあと十数年にわたって、私の家の夜の「音」をつくり続けることになります。 「フォーリーブスの弟」から始まった デビュー曲のキャッチフレーズは「フォーリーブスの弟」。4人組の先輩より多く伸びるようにと、4より大きい5(ゴー)から「郷」の字が当てられました。芸名の由来からして、いま聞くとずいぶん大らかな、昭和らしい話です。 郷さんはこの年の1月2日にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優デビューしており、歌手はその後でした。9月25日にはデビュー曲がオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、11月には第14回日本レコード大賞の新人賞を受賞します。 三人が揃った 「新御三家」。郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の三人です。 いちばん早かったのは野口五郎さんでした。1971年5月1日に「博多みれん」でデビュー。これが演歌調で、2作目の「青いリンゴ」でポップス路線に転じて成功します。次が西城秀樹さんで、1972年3月25日の「恋する季節」。そして同じ年の8月1日に郷ひろみさん。 三人のなかでデビューはいちばん遅かったのに、オリコンのベストテン入りは郷さんが最初でした。野口さんの「オレンジの雨」、西城さんの「情熱の嵐」がベストテンに入るのは翌1973年になってから。そしてその1973年、郷さんはブロマイドの年間売上で1位となり、三人は「新御三家」と呼ばれるようになります。 こうして1年3か月ほどの間に三人が出そろい、ここから昭和50年代いっぱい、茶の間のテレビは、この三人抜きには回らなくなります。 相撲から歌番組へ ——我が家の、いつもの夜 当時は本当に毎日のように、どこかの局で歌番組が放送されていた印象があります。今のように音楽を好きなときに聴ける時代ではなかったので、新しい曲や人気歌手を見ることができる歌番組は、家族みんなの楽しみでした。 我が家でも夕食時になると自然とテレビがつき、ニュースや野球中継がない日は歌番組が流れていました。とくに1978年に始まった『ザ・ベストテン』は家族みんなが楽しみにしていた番組で、「今日は誰が1位かな」「あの歌手は何位まで上がるかな」と順位を見ながら話をするのも毎週の楽しみでした。ベストテン入りした曲は学校でも話題になり、翌日には友達同士で口ずさんでいた記憶があります。 チャンネル権というものは、我が家には特にありませんでした。父が家にいる時間帯は父の希望が優先でしたが、歌番組は家族全員で楽しめる内容だったため、大きくチャンネル争いになることはあまりなかったのです。相撲中継の時期には夕方5時の門限に間に合うように帰宅し、そのまま相撲を見て、夕食後はその流れで歌番組を見る。相撲から歌番組へと続くこの流れが、我が家のいつもの夜の過ごし方でした。 テレビは一家に一台という家庭もまだ珍しくなく、家族が同じ番組を一緒に見るのが当たり前の時代です。だからこそ流行歌は家族全員が自然と覚えてしまい、歌手の名前や新曲が共通の話題になっていました。今振り返ると、家族みんなで同じ音楽を楽しんだ、とても温かい時間だったと思います。 男の子だって、夢中でした ここで、はっきり書いておきたいことがあります。男子から見た新御三家は、決して「女の子だけのアイドル」ではありませんでした。私自身、かなり夢中になって見ていました。歌番組が始まると自然とテレビの前に座り、誰が出るのか楽しみにしていたものです。 郷ひろみさんといえば、「お嫁サンバ」はもちろん、「哀愁のカサブランカ」、そして樹木希林さんとのデュエット曲「林檎殺人事件」。あの曲は『ザ・ベストテン』で4週連続の1位になりました。ほかにも「よろしく哀愁」「ハリウッド・スキャンダル」と、挙げ始めたらきりがありません。テレビに郷さんが登場すると、華やかな衣装とキレのあるダンス、そして抜群のスター性に、子どもながら「やっぱりスターは違うな」と感じていました。 西城秀樹さんは、やはり何といっても「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。1979年のこの曲はオリコンで5週連続1位、80.8万枚を売り上げ、『ザ・ベストテン』では番組初の満点9999点を記録しました。あの曲が流れ始めると、日本中が熱狂していたと言っても大げさではないと思います。サビになると、みんなが自然と腕で「Y」「M」「C」「A」の文字を作りながら歌っていました。学校でも友達同士でまねをしたり、運動会やレクリエーションで振り付けを踊ったりして、「YMCA」のポーズを知らない子はいないくらいの大ブーム。今でもイントロを聴くだけで、当時の熱気がよみがえってきます。 野口五郎さんも歌唱力が抜群で、「私鉄沿線」や「甘い生活」など、しっとりとした名曲を数多く歌っていました。郷さんや西城さんとはまた違う魅力があり、新御三家はそれぞれ個性がはっきりしていて、そこが歌番組を見る楽しみの一つでもありました。 数字にも占有ぶりが出ています。1970年代後半から1980年代前半にかけて、三人のうち誰か1人が毎週『夜のヒットスタジオ』に出演していました。出演回数は西城さん188回、郷さん175回、野口さん123回です。 新曲は歌番組で初めて耳にし、翌日には学校で「あの歌よかったね」「昨日見た?」という会話が自然に始まる。男子も女子も関係なく新御三家の曲を口ずさんでいましたし、誰が好きかを話題にすることも珍しくありませんでした。彼らはまさに、時代を象徴するスターだったと思います。 「上の世代の大スター」になっていく 中学、高校へと進むにつれて、子どものころのように毎週欠かさず歌番組を見ることは少なくなっていきました。部活動や受験勉強で忙しくなり、テレビそのものを見る時間が減っていったこともあります。私自身が夢中になったのはプロレスと野球で、アイドルといえば松田聖子ではなく河合奈保子、そして中森明菜でした。 それでも、新曲が出れば気になりますし、新御三家の存在が自分の中から消えることはありませんでした。子どものころに夢中になって見ていたスターですから、歌番組で見かければ自然と足を止めてしまう、そんな存在だったように思います。 高校生になるころには、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんは、もはや「憧れのお兄さん」というよりも、日本を代表する大スターという印象でした。自分たちよりずっと上の世代のスターという感覚になっていましたが、それでも新曲や活躍はしっかりチェックしていました。 二十数年後、体育館のステージに そして、その思いが何十年か後に、思いがけない形でよみがえる出来事がありました。 以前、中森明菜さんについて書いた記事で、社会人になって勤務していた会社の全国大会で、突然、体育館のステージに明菜さんが現れた感動を書きました。実はその前年の全国大会にも、私は野球で出場していたのです。そして、その年のシークレットゲストこそが、郷ひろみさんでした。 大会二日目の夜、会場となった体育館には大勢の社員が集まり、「今年は誰が来るんだろう」と期待に胸を膨らませていました。そして照明が落ち、ステージに現れたのが郷ひろみさん。あの瞬間の歓声は、今でも忘れることができません。 披露してくれたのは、当時大ヒットしていた「GOLDFINGER ‘99」。イントロが流れた瞬間、会場のボルテージは一気に最高潮に達しました。体育館中の誰もがリズムに乗り、手拍子をしながらサビを大合唱。「ア・チ・チ・ア・チ!」というフレーズは、会場全体が一つになって響き渡り、まるで本物のコンサート会場にいるような熱気でした。 子どものころ、茶の間のテレビ越しに「お嫁サンバ」や「林檎殺人事件」を夢中で見ていたあの郷ひろみさんが、いまは目の前のステージで歌っている——その不思議な感覚は、言葉では表せません。テレビの向こう側の遠いスターだった人と、同じ空間で歌い、同じ時間を共有している。その事実だけで胸がいっぱいになりました。 翌年には、中森明菜さんが同じ体育館のステージに立ちました。子どものころに歌番組で憧れていたスターたちと、大人になって同じ空間を共有できたあの二年間は、私にとって忘れることのできない特別な思い出です。少年時代にブラウン管の向こうで輝いていたスターたちが、時を経て目の前で歌ってくれた。昭和という時代を生きた私だからこそ味わえた、何ものにも代えがたい幸せな時間だったように思います。 令和のいま 2018年5月、西城秀樹さんが亡くなりました。63歳でした。三人揃って毎週テレビに映っていたころを知っている身には、いまだにうまく飲み込めない出来事です。 一方で郷ひろみさんは、70歳になったいまも現役です。1972年8月1日に棚に並んだ16歳が、54年間ずっと第一線にいる。ちょっと考えられないことです。 そして「YOUNG MAN」は、いまも運動会や応援席で鳴っています。歌った人が誰かを知らない子どもたちが、あの「Y・M・C・A」のポーズをとっている。それを見るたびに、あの人たちが作ったものは、名前が消えてもまだ残っているんだな、と思います。 みなさんは、新御三家のうち誰派でしたか。あるいは、ご家庭の茶の間ではどの歌番組が流れていましたか。よかったら教えてください。 あの夜9時、家族みんなでテレビの前に集まった『ザ・ベストテン』。その舞台裏を、番組を作った総合演出者みずからが書いた一冊です。ランキングはどう決まっていたのか、あの中継はどうやって実現したのか——歌手を追いかけて全国を飛び回ったスタッフたちの奮闘が、昭和の歌謡曲の熱気とともによみがえります。あの頃テレビの前にいた方には、たまらない読み物です。 ザ・ベストテン(新潮文庫)山田修爾。番組の総合演出者が明かす『ザ・ベストテン』の舞台裏。ランキングの仕組みから中継の裏側まで、昭和歌謡が最も輝いた時代の記録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月31日】欠けていく太陽と、黒い下敷き | 次の記事:【8月2日】道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場 ▶ ...

August 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月31日──欠けていく太陽と、黒い下敷き

今日は7月31日。7月の最終日です。 夏休みが始まって十日ほど。宿題帳の白いページと、朝顔の観察日記と、朝から降りそそぐ蝉の声。八月の本番はまだこれからで、子どもにとっては一年でいちばん長くて濃い季節の、入り口のあたりでしょうか。 そんな夏の一日ですが、昭和56年(1981年)の7月31日、日本の空ではちょっと不思議なことが起きていました。 お昼どき、太陽が欠けたのです。 昭和56年、夏の真昼に太陽が欠けた 昭和56年7月31日、日本各地で部分日食が観測されました。 日食というのは、太陽と地球のあいだに月が割り込んで、太陽を隠してしまう現象です。月が太陽をすっぽり覆えば皆既日食、真ん中だけを隠してリングのように見えれば金環日食、そして一部分だけをかじり取るように隠すのが部分日食です。 この日、月の影が地球にいちばん濃く落ちた場所——つまり皆既日食が見られたのは、当時のソ連の南部でした。黒海のあたりからシベリアへと、影の帯が大陸を横切っていったのです。日本はその帯からは外れていましたが、太陽の一部が欠ける部分日食のほうは、昼前から午後にかけての空で、しっかりと見ることができました。 では、どのくらい欠けたのか。記録によれば、名古屋で食分がおよそ0.55。食分というのは太陽の直径がどれだけ隠されたかを表す数字で、0.55なら太陽の半分以上が月に隠されたことになります。関東でもだいたい半分前後、そして北へ行くほど深く欠けました。北日本では、月が太陽をもっとぐいと食べ込んでいったのです。 太陽の半分が消える。しかも夏休みの真っ昼間に。これは子どもにとって、ちょっとした事件だったはずです。 半分も欠けると、あたりの様子も少しだけ変わります。真っ暗になるわけではありませんが、真昼の光がなんとなく薄くなり、影の輪郭がいつもより硬くなる。じりじりと照りつけていた日差しが、ほんの少しだけやわらぐ。空を見上げなくても、「あれ、なんだか変だぞ」と肌で感じる——そういう不思議な明るさになるのです。 太陽が欠けるという出来事を、昔の人はとても恐れていました。平安時代の975年、京の都で皆既日食が起きたときには、太陽が墨のように光を失い、鳥が飛び乱れ、昼なのに空に星が見えたと記録されています。人々は不吉なことの前触れだとおびえ、朝廷は「大赦」——罪人を赦す特別なはからい——まで出したほどでした。 それが、昭和の子どもにとっては、恐怖でもなんでもありませんでした。ただただ「面白いもの」だったのです。学校の理科で、なぜ日食が起きるのかを習っている。だから怖くない。怖くないから、思いきりわくわくできる。太陽と月と地球の位置関係が、自分の頭の真上で実演されている——それは、教科書が本物になる瞬間でした。 ちなみに昭和56年という年は、赤城乳業の「ガリガリ君」や、ロッテの「雪見だいふく」が世に出た年でもありました。黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』が大ブームになったのもこの年です。冷凍庫の中身も、テレビの中も、少しずつ新しくなっていく——そんな時代の夏でした。 下敷きと、煤ガラスと さて、昭和の子どもは、この欠けた太陽を、いったいどうやって見ていたのでしょう。 太陽をそのまま肉眼で見てはいけない。それは今も昔も同じです。でも、昭和の観察方法はなかなか大胆でした。 いちばん多かったのは、黒い下敷きです。筆箱の横にいつも差してある、あの黒いプラスチックの下敷き。あれを目に当てて、みんなで空を見上げたものです。ほかにも、ロウソクの炎でガラス板を炙って煤をつけた「煤ガラス」、真っ黒なサングラス、使い終わって真っ黒に感光したフィルム。とにかく「黒くて、向こうが透けて見えにくいもの」を、片っ端から太陽にかざしていました。 ただ、ここは正直に書いておかなければなりません。これらの方法は、今では「やってはいけない」とされています。黒い下敷きや煤ガラスは、目に見える光は減らしてくれても、目に見えない赤外線や紫外線までは防げません。気づかないうちに目の奥、網膜を傷めてしまう危険があるのです。当時はそこまで知られていませんでした。「みんながやっていたから」で済んでいた時代でした。 そんな中に、道具がいらなくて、しかも安全な方法もひとつありました。木漏れ日です。木の葉と葉のあいだの小さな隙間が、ちょうどピンホールカメラのように働いて、地面に映る木漏れ日のひとつひとつが、欠けた太陽と同じ三日月の形になる。空を見上げなくても、足元に日食が映っていたのです。あれに気づいた子は、ちょっと得意げだったものです。 夏休みという時期も、日食にはうってつけでした。学校は休みでも、こういう日は「自由研究にちょうどいい」と、太陽の欠け具合を時間ごとにスケッチした子もいたはずです。何時何分にどれだけ欠けて、いつ元に戻ったか。画用紙に並んだいくつもの丸い太陽は、それだけで立派な夏の研究になりました。宿題に追われる夏に、空のほうから宿題の題材が降ってきたようなものです。 私の記憶 昭和56年の夏、私は小学6年生、12歳でした。 正直に言うと、太陽が欠けたことそのものは、はっきりとは覚えていません。ただ、7月31日という日づけには、日食とはまったく別の、とても濃い記憶が残っています。 夏休みの朝といえば、まずラジオ体操でした。首から下げた出席カードに、毎朝ひとつずつ判子を押してもらう。そして、その最終日がちょうど7月31日だったのです。最終日には、ためた判子のカードと引き換えに、花火やお菓子、ノートといった景品と交換してもらえました。ひと夏かけて集めた判子が、最後にごほうびに変わる日。子どもにとっては、これがちょっとした晴れ舞台でした。 ラジオ体操が終わると、午前中は学校のプールです。ふた学年ごとに分かれて泳ぎに行く日があって、それがない日には、自転車で5分ほどの区民プールへ友達数人と繰り出して、2時間くらいずっと泳いでいました。プールがなければ虫取り。とにかく、朝から日が暮れるまで、外にいた夏でした。 そう考えると、あの日——太陽が昼前から午後にかけて半分近くも欠けていったころ、私はたぶん、もらったばかりの景品を握りしめていたか、区民プールの水の中で友達とふざけ合っていたかの、どちらかだったのだと思います。頭の真上の空で月が太陽を食べていることよりも、手にした花火のほうが、そのときの私にとっては、よほどの大事件だったのでしょう。 当時はインターネットもスマートフォンもありません。珍しい自然現象があっても、情報源はテレビと新聞、そして近所の口コミくらいでした。だからこそ、ひとつの出来事を、家族や友達と同じ時間に分け合うことに、特別な意味がありました。日食そのものを覚えていない私でも、「太陽を直接見ちゃだめだよ」と大人に言われたような——そんな声の記憶だけは、どこか夏の底に沈んでいる気がします。 そしてうれしいことに、あのラジオ体操は今も同じように続いていて、今度は私の子どもが、あの出席カードに判子を押してもらっています(笑)。 じつは、これは今朝の風景です。夏祭りの提灯がまだ揺れている朝の広場に、子どもたちが集まってくる。そして最終日の今日は、あの頃とまったく同じように、景品の引き換えがありました。 私の子どもがもらってきたのは、手持ち花火のセットと、のり塩のポテトチップスでした。 ——45年前に私がもらった、花火と、お菓子。並べてみれば、ほとんど同じです。カードと景品と、夏の朝のあの眠たさだけは、何ひとつ変わっていません。太陽が半分も欠けたあの夏から45年が過ぎても、子どもの夏の入り口は、ちゃんと同じ場所にありました。 令和の空を見上げる 時代は流れて、令和になりました。 平成に入ってからも、日本では大きな日食が何度かありました。平成21年(2009年)7月22日には、鹿児島のトカラ列島で皆既日食が見られ、日本中が朝から空を見上げました。平成24年(2012年)5月21日には、東京でも金環日食が見られました。朝の通勤・通学の時間帯、駅のホームでも、歩道でも、多くの人が立ち止まって同じ空を見ていた——あの朝を覚えている方も多いでしょう。 このときの主役は、もう黒い下敷きではありませんでした。「日食グラス」です。専用の遮光板が入った観察メガネが、コンビニでも本屋でも売られ、直前には売り切れが続出しました。そしてもうひとつ、昭和にはなかったもの——スマートフォン。欠けていく太陽を写真に撮って、その場でSNSに上げる。日本中が同じ瞬間に、同じ空を、画面越しにも分かち合ったのです。 道具は下敷きから日食グラスへ。ひとりで見上げた空から、みんなで見上げる空へ。ずいぶん変わりました。でも、太陽がだんだん欠けていくのを見上げるときの、あの「うわぁ」という声にならない気持ちだけは、昭和の子どもも令和の子どもも、たぶん同じなのだと思います。 おわりに 次に東京のすぐ近くで大きな日食が起きるのは、そう遠い先ではありません。2035年9月2日、北陸から北関東にかけて、皆既日食の帯が通る予定です。東京でも、太陽がほとんど欠ける大きな部分日食になります。そのとき私は66歳。孫がいれば、一緒に空を見上げているかもしれません。もちろん今度は、ちゃんとした日食グラスで。 昭和56年の、あの夏の真昼。太陽が欠けていったあの日を、あなたは覚えていますか。 そして、何で空を見上げましたか。黒い下敷きでしたか、それとも——。 昭和の子どもは黒い下敷きで見上げましたが、今はもう、それをやってはいけません。太陽観察には、専用の遮光板を使ってください。これは日本製の「たいようめがね」。JIS規格の遮光板で、日食はもちろん、太陽黒点の観察にも使えます。夏休みの自由研究にもぴったりですし、何より安全です。2035年の皆既日食まで、大切に取っておくのもいいかもしれません。 太陽観察の必需品 たいようめがね(遮光板)日食・太陽観察用の遮光板。黒い下敷きや煤ガラスと違い、赤外線・紫外線もしっかりカットして目を守る。自由研究にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 31, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月30日──沖縄の車が右から左へ、一夜で入れ替わった日

今日は7月30日。夏の日差しが、いよいよ本気になってくる頃です。 正直に告白します。私はこの日にあった出来事を、まったく覚えていません。 1978年(昭和53年)のこの日、私は小学3年生。9歳です。9歳といえば、記憶にしっかり残っていておかしくない年齢です。運動会のこと、夏休みのこと、あの頃見ていたテレビ番組のことなら、いくらでも思い出せます。それなのに、この日のことだけは、頭の中が真っ白なのです。 でもそれは、私が忘れっぽいからではなかったのかもしれません。調べていくうちに、そう思うようになりました。この日、東京から遠く離れた沖縄で、世界にも例のない大事業が行われていたのです。 覚えていない、という不思議 1978年7月30日、午前6時。沖縄県じゅうの車が、一夜にして右側通行から左側通行へと切り替わりました。 実施された日付にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれるこの出来事は、いま振り返れば、日本の交通史に残る大事件です。それなのに、当時9歳だった私の記憶には、かけらも残っていません。 なぜだろう、と考えてみました。 私が育ったのは、東京・葛飾の高砂。京成高砂駅のすぐそばの、下町でした。我が家に車はありませんでした。父は週に6日働いていて、家族で遠くへ出かけることもほとんどない暮らしです。「車が右から左になる」というニュースは、車を運転しない子どもにとって、あまりにも遠い世界の話だったのだと思います。 そもそも「沖縄」という場所自体が、当時の私にはずいぶん遠かった。飛行機に乗ったこともなければ、家族旅行の記憶もない少年にとって、沖縄は地図の上の、南のほうにある名前でしかありませんでした。 実際、この記事を書くにあたって記憶をたどってみても、「沖縄」にまつわる思い出は、私の中から何ひとつ出てきませんでした。よほど縁がなかったのでしょう。あの夏、私は確かにどこかで9歳の毎日を過ごしていたはずなのに、沖縄で起きていた歴史的な一夜とは、まるで別の世界に生きていたようです。 だから、この記事は少し特別です。いつもは自分の記憶をたどって書いていますが、今日は違います。私自身が、この出来事を今あらためて知りながら、みなさんと一緒に驚いていく——そんな記事になります。 一夜で、島がひっくり返った そもそも、なぜ沖縄だけが右側通行だったのでしょうか。 沖縄は戦後の27年近く、アメリカの統治下にありました。車はアメリカと同じ右側通行。日本に復帰したのは1972年(昭和47年)5月15日ですが、そのあとも右側通行は続きました。一つの国では通行方法を一つに統一する——そう定めた国際条約があるにもかかわらず、道路も、標識も、人々の運転の習慣も、一気にひっくり返すことなど簡単にはできません。結局、日本に戻ってからも約6年間、沖縄は「日本なのに車は右」という状態が続いたのです。 その積年の宿題を、たった一晩で片づけたのが「730」でした。 7月29日の午後10時。緊急車両をのぞくすべての車の通行が禁止され、県内一斉にサイレンが鳴り響きました。それを合図に、変更作業が始まります。翌30日の午前6時まで、わずか8時間の勝負でした。 動員された作業員は約800人、車両は約300台。かかった費用は約19億円。標識を付け替え、信号を切り替え、道路に描かれた白線を引き直し、ガードレールの向きまで直していく。気の遠くなるような作業を、真夜中の8時間に詰め込んだのです。 この短時間を可能にしたのが、世界で初めて採用された「カバーアンドテープ方式」でした。あらかじめ左側通行用の標識や信号を設置しておき、それをカバーで覆って隠しておく。当日はそのカバーを外すだけ。道路の白線も、左側通行用のものを先に描いてから黒いテープで覆っておき、当日バーナーでテープを焼き剥がす。考案した久高弘さんの名を取って「久高方式」とも呼ばれています。 さらにこの数日前には台風8号が沖縄に接近していて、信号機や大型標識のカバーが先に吹き飛ばされてしまうという一幕もありました。まさに、天気とも時間とも戦った一夜だったのです。 もっとも、夜が明けてからが本当の勝負でした。長年しみついた右側通行の癖は、ある朝を境にそう簡単には抜けません。切り替え直後は各地で接触事故が相次ぎ、那覇などの市街地では、しばらく交通マヒが続いたといいます。頭ではわかっていても、体が覚えているものはすぐには変えられない。島じゅうの人が、その戸惑いを一緒にくぐり抜けたのです。 沖縄の言葉で、アメリカ統治の時代を「アメリカ世(ゆー)」、日本復帰後を「大和世(やまとゆー)」と言うそうです。「730」は、目に見える形での復帰の総仕上げでした。人々にとっては、単なる交通ルールの変更ではなかったのです。 そのとき、バスはどうなったのか ここからが、私がいちばん驚いた話です。 車が右側通行から左側通行に変わると、いちばん困るのは、実はバスなのです。 考えてみてください。右側通行の国のバスは、乗り降りするドアが車体の右側についています。運転席は左。ところが左側通行になると、お客さんは道路の左側の歩道から乗り降りするので、ドアは左になければいけない。運転席も右に移さなければならない。つまり、それまで走っていたバスは、一台残らず使えなくなってしまうのです。 当時、沖縄島にあった左ハンドル・右ドアのバスは、およそ1,200台。「729車(ナナニイキュウしゃ)」と呼ばれるこれらの車両を、たった一晩で右ハンドル・左ドアに置き換えなければなりませんでした。 全部を改造している時間はありません。そこで、右ハンドルの新車を900台あまり一気に投入し、さらに160台あまりを改造して間に合わせました。このとき導入されたバスを、いまでも「730車(ナナサンマルしゃ)」と呼びます。あまりに大量だったので、メーカーも各社で分担が決められました。琉球バスは日産ディーゼルと日野、那覇交通はいすゞ、東陽バスは日野、沖縄バスは三菱ふそう、というように。 作業当日の段取りも、聞けば聞くほど鮮やかです。 新しい730車は、事前に旧米軍基地の跡地に集結させておく。7月29日、それまでのバス(729車)が最後の運行を終えると同時に、運賃箱や両替用の小銭を抜き取って、そのまま基地跡地に格納。入れ替わりに、パトカーの先導で730車が各営業所へと回送されていきます。車庫では、路線別・ダイヤ別にバスがきれいに並べられ、両替金が積み込まれていく——。 一晩のあいだに、島じゅうのバスが、そっくり別の車両に入れ替わったのです。 私は今、路線バスの運転士として毎日ハンドルを握っています。だから、この話は他人事とは思えません。 バスというのは、一台走らせるだけでも、始業点検をして、運賃箱を確認し、忘れ物がないかを見て、ダイヤどおりに出庫させるまでに、たくさんの人の手がかかっています。営業所では何十台ものバスが、それぞれ決められた順番で動いています。 それなのに、沖縄では、そのすべてを一晩で入れ替えたというのです。車両だけではありません。運賃箱も、小銭も、行先表示も、担当する路線も、翌朝には何事もなかったかのように走り始めなければならない。現場を知る者としては、「本当にそんなことができたのか」と思ってしまうほどの大仕事です。 もし自分がその現場にいたら、一睡もできなかったでしょう。どこか一つでも段取りを間違えれば、翌朝の路線はたちまち混乱してしまいます。それをほとんど混乱なくやり遂げた先人たちの準備力とチームワークには、ただ驚くばかりです。私にとって730は、交通ルールが変わった日というだけではなく、日本のバス業界が成し遂げた、まさに奇跡の一夜だったのだと感じています。 令和に残った、二台のバス あれから、47年が経ちました。 大量に投入された730車も、時とともに古くなり、新しいバスに置き換えられて、一台また一台と姿を消していきました。そして今、当時の姿のまま沖縄に残っている730バスは、沖縄バスと東陽バスが持つ、たった2台だけになりました。記念すべき日には、この2台が右側通行時代を再現して走ることもあるそうです。 私たちが当たり前だと思っている「車は左」という光景。それは、日本のどこでも最初から当たり前だったわけではありませんでした。少なくとも沖縄では、47年前のあの一夜に、800人の手と19億円と、900台を超える新しいバスによって、人の手で作られたものだったのです。 私が毎日握っているハンドル。何百回と曲がってきた左側の車線。乗り降りするお客さんが、当たり前のように左のドアから乗ってくること。そのすべてが、誰かの膨大な準備と苦労の上に成り立っている。そう思うと、いつもの見慣れた景色が、少し違って見えてきます。 おわりに 7月30日。私にとっては、記憶が真っ白な一日でした。 でも、覚えていないということは、知らなくていいということではありませんでした。9歳の私には遠すぎた沖縄の一夜を、50年近く経って、バスのハンドルを握る立場になってから、ようやく知ることができた。そう思うと、この「記憶にない一日」も、私にとって意味のある一日になった気がします。 みなさんは、「730」を覚えていますか。沖縄で暮らしていた方なら、あの日の混乱や興奮を、はっきりと覚えているかもしれません。私のように本土にいた方は、そもそもニュースになっていたかどうかも、記憶にないのではないでしょうか。同じ夏の同じ一日でも、立っている場所によって、こんなにも見え方が違う。それもまた、昭和という時代の面白さなのだと思います。 730を成し遂げた沖縄のバスは、今も個性豊かに島を走っています。現存する730車をはじめ、路線バスで巡る沖縄の魅力を一冊にまとめたガイドブックがこちら。バス好きにはもちろん、「レンタカー以外の沖縄旅」を考えている方にもおすすめです。いつか私も、あの2台の730車に会いに行きたいと思っています。 沖縄の路線バス おでかけガイドブック[第4版]室井昌也・谷田貝哲。路線バスで巡る沖縄の観光ガイド決定版。バス会社各社の紹介から名所へのアクセスまで、バス旅の魅力が詰まった一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 30, 2026

お金持ちになるのに「がまん」だけじゃダメ?──200万部突破『お金の大学』を、いちばんやさしく解説!

「お金持ちになりたい!」——そう思ったとき、あなたならどうしますか? 「とにかく節約して、コツコツ貯金する」と答えた人は、じつは半分正解で半分まちがいです。ただ貯めるだけでは、お金持ちにはなれません。 今回紹介するのは、令和で一番売れているお金の本『本当の自由を手に入れる お金の大学』(改訂版)。著者は、YouTubeの人気チャンネル「リベ大」でおなじみの両@リベ大学長さんです。学長さんは高校生のときに起業し、10代で1年に1億円以上を稼いだこともある、お金のプロ中のプロ。 そんな学長さんが「これだけは知っておいてほしい」とまとめたのが、一生お金に困らないための「5つの力」です。この記事では、中学生が読んでもわかるくらいやさしく、それでいて、これから資産形成を始める大人の方にしっかり役立つように、8つのポイントで解説していきます! ① そもそものゴールは「経済的自由」 この本がめざすゴールは、ただの「お金持ち」ではありません。経済的自由という状態です。 経済的自由とは、かんたんに言うと「働かなくても、入ってくるお金だけで生活できる状態」のこと。 生活に必要なお金 < 自動で入ってくるお金 この式が成り立てば、「お金のために、いやな仕事をむりやり続ける」必要がなくなります。好きなことを選べる、自由な人生に近づけるんです。 「自動で入ってくるお金」って何?と思いますよね。たとえば、持っている株からもらえる配当(その会社が「ありがとう」とくれるお金)や、貸したお金の利子などがそうです。最初はほんの少しでOK。この“自分で働かなくても入ってくるお金”を、コツコツ育てていくのがゴールなんです。 そして、そのゴールにたどり着くための地図が、次に紹介する「5つの力」です。 ② 【貯める力】一番効くのは「固定費」を見直すこと 節約というと、「お菓子をがまんする」「安いものを選ぶ」を思いうかべますよね。でも学長さんは、そこより先に見直すべきものがあると言います。それが固定費です。 固定費とは、毎月ほぼ自動で出ていくお金のこと。スマホ代、保険、家賃などがそうです。ゲームの「月額課金」を、使っていないのにずっと払い続けているイメージです。 たとえばスマホを大手から格安SIMに変えると、月5,000円が1,500円になったりします。これだけで1年に約4万円の節約。毎日ジュースをがまんするより、ずっとラクで効果も大きいんです。 もう一つ見直したいのが保険です。日本には「社会保険」という国のしくみがしっかりあるので、じつは民間の医療保険やがん保険は、多くの人にとって入りすぎだと学長さんは言います。「なんとなく安心だから」で入っている保険を見直すだけで、年に何万円も浮くことがあるんです。 一度見直せば、あとは自動でずっとおトク。これが固定費のすごさ。 ③ 【増やす力】お金にも“アルバイト”してもらう 貯めたお金を、ただ貯金箱に入れておくのはもったいない。学長さんは「お金にも働いてもらおう」と言います。それが投資です。 投資と聞くと「ギャンブルでしょ?」とこわく感じるかもしれません。でも学長さんがすすめるのは、世界中の会社にまとめて少しずつ投資する「インデックス投資」という方法。1社だけに賭けるのではなく、クラス全員の平均点を買うようなイメージなので、リスクが低いんです。 そして投資の最強の味方が複利。増えたお金がさらにお金を生み、雪だるまのようにふくらんでいきます。最初は小さくても、時間をかけるほどスピードがどんどん速くなるのが複利のすごさです。 しかも今は「新NISA」という、投資で増えたお金に税金がかからないおトクな制度もあります。ふつうは増えた分の約2割を税金として取られるので、これはかなり大きい。国が「投資してね」と用意してくれた、使わないと損なしくみなんです。 投資で最大の味方になるのは「時間」です。だからこそ、思い立った“今日”が、いつでも一番早いスタートになります。 ④ 【稼ぐ力】収入の入り口を増やす 貯める・増やすと同じくらい大事なのが、そもそもの収入を増やす「稼ぐ力」です。 多くの大人は、収入が「会社の給料」ひとつだけ。でもそれって、イスの脚が1本しかないようなもの。その脚が折れたら(会社をやめることになったら)、一気にたおれてしまいます。 だから学長さんは、給料に加えて「副業」で収入の柱を増やそうと言います。ブログ、動画編集、ハンドメイド作品を売る……好きなことや得意なことがお金になる時代です。 脚が2本、3本とあれば、1本折れても大丈夫。収入の入り口が多いほど、人生は安定するんです。 もう一つ大切なのが、お金の“生み出し方”です。給料は「だれかに雇われてもらうお金」。いっぽう副業の多くは「自分でお金を生み出す力」です。この「自分で生み出す力」は身につけるのが少し大変ですが、一度手に入れれば一生モノの武器になります。 ⑤ 【使う力】お金は「幸せ」に変えてこそ意味がある 「え、使う“力”?貯めるのが大事じゃないの?」と思いますよね。じつはここが、この本のいちばん深いところ。 お金は、ただ持っているだけでは1円も幸せを生みません。使って初めて、思い出や経験、人とのつながりに変わります。 ガチャに全部つっこんで一瞬で終わるより、友だちとの旅行や、ずっと役立つ本にお金を使ったほうが、心に残りますよね。 学長さんがすすめる「いい使い方」の代表が、経験・人・寄付です。旅行やチャレンジといった経験は、あとから「思い出」という財産になります。人へのプレゼントや寄付は、まわりを笑顔にして、それがめぐりめぐって自分にも返ってくる。お金は「ひとりじめ」するより「上手に回す」ほうが、大きな幸せを生むんです。 大切なのは「何を買うか」より「それで自分が本当に幸せになれるか」。 お金は目的ではなく、幸せになるための道具。この考え方を持てるかどうかで、人生は大きく変わります。 ⑥ 【守る力】せっかくのお金を減らさない 最後の力は、貯めて増やしたお金を「守る」力です。じつは、お金を失う落とし穴はあちこちにあります。 詐欺(さぎ):「絶対もうかる」という話は、ほぼウソ ムダづかい:見栄(みえ)を張るための買い物 インフレ:物の値段が上がって、お金の価値が下がること とくに気づきにくいのがインフレです。たとえば今100円のジュースが、10年後に150円になっていたら、同じ100円玉ではもうジュースが買えません。お金を貯金箱に入れっぱなしにするだけだと、金額は同じでも「買える量」がこっそりへっていくんです。だからこそ、③の「増やす力」が、じつは守る力にもつながっています。 RPGで苦労して手に入れたレア装備を、油断してぬすまれたらショックですよね。お金も同じで、貯めるのと同じくらい「減らさない」ことが大事なんです。「うまい話には裏がある」と覚えておくだけで、多くのピンチを防げます。 ⑦ 「知らない」が、いちばん損をする ここまで読んで「こんなに大事なこと、学校でも会社でもちゃんと教わらなかったな」と思いませんでしたか? そうなんです。お金の知識は、とても大切なのに学校ではほとんど教えてくれません。だから、知っている人と知らない人で、大人になってから大きな差がついてしまう。 お金の不安の正体は、「知らないこと」が多いからかもしれません。 逆に言えば、知識さえあれば不安は消せるということ。何をどうすればいいか、道すじが見えるからです。この本が200万部も売れたのは、その「見えない不安」を消してくれるからなんですね。 ⑧ 完璧じゃなくていい。まず一歩から 5つの力(貯める・増やす・稼ぐ・使う・守る)を、いきなり全部マスターする必要はありません。学長さんも「バランスよく、少しずつ育てよう」と言っています。 大事なのは、テストの一夜づけのようにあわてることではなく、毎日コツコツ続けること。1つずつでも身につければ、平均的な人でも必ず今より自由な生活に近づけます。 そして、資産形成に「もう遅い」はありません。あなたが動き出す“今日”が、これからの人生でいちばん若い日です。1日でも早く始めた分だけ、時間を味方につけられます。 じつは、この本は私自身の人生も変えました 最後に、少しだけ私の話をさせてください。 私がこの本に出会ったのは、2021年。妻から初版を手渡されたのがきっかけでした。それまでの私は、お金について「なんとなく不安だけど、何をどうすればいいのか分からない」という状態。でもこの一冊を読んで、資産形成の“進むべき方向”と、今すぐやるべき“具体的な行動”が、はっきりと見えたんです。 ...

July 29, 2026