住宅ローンという名の長期戦――借り換えと、金利上昇を前にした今の心境

はじめに――4人家族から始まった住み替え 2014年5月。当時住んでいた東京都葛飾区の持ち家は床面積60㎡で、ローンのない状態だった。結婚してから子どもが生まれ、4人家族となったことで少しずつ手狭さを感じるようになっていた。家自体に不満があったわけではない。ただ毎日の生活の中で、子どもたちが動き回るたびに、この家の限界を感じる場面が増えていった。 そこで同じ葛飾区の高砂に新築戸建てを購入することにした。京成線 高砂駅北口から徒歩5分、床面積102㎡。購入価格は4,070万円。手元の資金から470万円を頭金として用意し、残る3,600万円を34年ローンで借り入れた。60㎡から102㎡への住み替えは、私たち家族にとって大きな決断だったが、後悔はしていない。その後子どもはさらに増え、現在は6人家族となった。広さを求めた判断は、結果的に正しかった。 当時選んだのは変動金利0.975%。借入先はメガバンクで、月々の返済額は103,702円だった。 東京の住宅街。2014年、私たちは60㎡から102㎡への住み替えを決断した。(Photo: Syced / CC0) 購入時のローン概要 項目 内容 購入物件 新築戸建て 東京都葛飾区高砂(102㎡) 最寄り駅 京成線 高砂駅北口 徒歩5分 購入価格 40,700,000円 頭金 4,700,000円 借入額 36,000,000円 金融機関 メガバンク 金利タイプ 変動金利 0.975% 返済期間 34年 月々の返済額 103,702円 なお、2014年という購入タイミングは、今振り返れば首都圏の不動産価格がまだ比較的割安だった時期にあたる。このエリアで駅徒歩5分・100㎡超の戸建てというのは、現在ではなかなか見当たらない。縁があってこの家に出会えたことは、純粋に幸運だったと感じている。 当時の私のお金に対する知識は、お世辞にも豊かとは言えなかった。FXを本気で「投資」だと思い、ドル建て一時払い終身保険を心から「良い商品」だと信じていた時期だ。住宅ローンも「変動か固定か」という入り口の議論はしたものの、深く考え抜いたというよりは、当時の金利水準から直感的に変動を選んだというのが正直なところだった。リベ大に出会うのは、この購入から6年後の2020年のことになる。 借り換えを決意するまで――ネット銀行の壁 借り換えを意識し始めたのは2017年のことだ。まだリベ大とは出会っておらず、当時は漠然と「住宅ローン金利はまだ下がりそうだ」という感覚があった。周囲でも借り換えの話題が出ていたし、少しでも金利を下げられるなら動くべきだと考えた。 まず手をつけたのは、金利の低いネット銀行への申し込みだった。当時すでにネット銀行の住宅ローン金利は店舗型金融機関より明確に低く、まず金利の低い順に片っ端から仮審査を申し込んでいった。結果は――すべての仮審査で「通過」の連絡が来た。ここで気を良くしたのがいけなかった。本審査に進むと、どの銀行でも揃って「申し込み融資金額の減額」を条件として提示してきた。事実上の否決である。 ネット銀行の「仮審査通過」は、従来型の店舗型金融機関の仮審査通過とは、まったくの別物だった。 店舗型の金融機関では、仮審査が通れば基本的に本審査も通るという感覚がある。仮審査の段階である程度の精度でスクリーニングしているからだ。しかしネット銀行は違った。仮審査は本当に「仮」であり、精度の低い入り口に過ぎなかった。私のケースでは複数のネット銀行すべてで同じ結果となり、時間と手間だけが過ぎていった。この経験は後々まで、私の中に「ネット銀行の仮審査を過信してはいけない」という教訓として残っている。 ネット銀行での借り換えを諦めた後、ふと思い出したのが職場に出入りしていた中央労働金庫の担当者だった。相談してみると、変動金利0.625%での借り換えが可能とのことだった。当初の0.975%からの▲0.350ポイントの引き下げだ。借り換えを決断した。 金融政策の司令塔・日本銀行。長年続いたゼロ金利政策が、2025年に動き始めた。(Photo: Suicasmo / CC BY-SA 4.0) 借り換え前後の比較 項目 借り換え前(メガバンク) 借り換え後(中央労働金庫) 適用金利 0.975% 0.625% 月々の返済額 103,702円 100,203円 月々の削減額 ― 約3,500円 項目 内容 借り換え実行日 2018年2月23日 借り換え時の残債 32,723,037円 借り換え融資額 33,300,000円 借り換えにかかった諸費用 576,963円 新たな返済期間 30年5か月 諸費用576,963円を月々の削減額約3,500円で割ると、元が取れるまでには約165か月、つまり約13年8か月かかる計算になる。単純な数字だけを見れば、借り換えの「お得感」は決して大きくない。それでも残債が大きく返済期間が長い局面での0.35ポイントの差は、長期にわたる利息負担に確実に影響する。判断は間違っていなかったと思っている。 ...

May 21, 2026

パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日

5月22日。私にとってこの日付は、黄色い丸い生き物と、東京じゅうに積み上がったゴミの山という、まったく違う二つの光景が重なる日だ。 「パクパク」が迷路を走り出した日 昭和55年(1980年)5月22日、渋谷のゲームセンターに一台の筐体が置かれた。 黄色い丸がパクパクとエサを食べながら迷路を走り、赤・ピンク・青・オレンジの4匹のモンスターから逃げる。ゲームの名前は『パックマン』。ナムコが送り出したそのゲームが、のちに世界を席巻することになるとは、だれも思っていなかっただろう。 Photo by inunami / CC BY 2.0 当時、ゲームセンターはスペースインベーダーの衝撃がまだ冷めやらない頃だった。エイリアンを撃つ、戦車を撃つ。アーケードというのは「撃つ」場所だった。ところが、パックマンには敵を攻撃する要素がない。ひたすら「食べて逃げる」だけだ。 開発者の岩谷徹氏は「アーケードは暴力的なゲームであふれていた。エイリアンをやっつけるような内容のものばかりだった」と振り返る。だからこそ、違うものを作りたかった。食べることをテーマにした、やわらかいゲームを。パックマンという名前も、物を食べる時の「パクパク」という日本語の擬態語から生まれた。 私がパックマンをはじめて目にしたのは、あの安い倉庫みたいなゲームセンターだったと思う。30円か50円のコインを握りしめて薄暗い店内に入ると、ブラウン管の光の中でそのまるっこい黄色い顔が笑っていた。レバーを4方向に倒しながら迷路を走る感覚は、それまでのシューティングゲームとはまるで違っていた。「逃げる」という体験が、あんなに面白いとは知らなかった。 敵には、それぞれ「性格」があった ゲームに夢中になりながら、私たちは気づかないうちにある不思議を感じていたはずだ。「なんか敵が生きてるみたいだな」と。 実は4匹のモンスターには、それぞれ個性が設計されていた。 赤の「アカベイ」はパックマンをしつこく追いかけてくる。ピンクの「ピンキー」は追いかけるのではなく、パックマンの進行方向の先へ先回りする。水色の「アオスケ」は気まぐれな動きをして、どこへ来るか読みにくい。オレンジの「グズタ」はパックマンに近づきすぎると急にふらふらと離れていく。 これは「個性のある敵キャラクター」という発想の、世界でも最初期の試みだった。今でいえばAIのような概念が、1980年という時代にすでに迷路の中に息づいていた。「追う」「先回り」「気まぐれ」「迷う」という4つの行動パターンが絡み合うことで、迷路の中の戦況は毎回違う顔を見せた。それが「なんか生きてる感じ」の正体だったのだ。 今から46年前のゲームが、現代のAI技術にも通じる考え方を持っていたとは、当時の子どもだった私には想像もできなかった。 パックマンには迷路を攻略するパターンがあり、友達の間で「このルートで行けば5面まで死なない」という攻略法が口伝えに広まった。放課後のゲームセンターで真剣に迷路を走る子どもたちの後ろに人だかりができる。そんな光景が各地であったはずだ。 1980年から7年間で総販売台数は約29万台を超え、「最も成功した業務用ゲーム機」としてギネス・ワールド・レコーズにも認定された。あの黄色い丸が初めて走り出したのが、昭和55年の今日だったとは、当時は知るよしもなかった。 東京が「ゴミ戦争」を戦っていた日 もうひとつ、この5月22日には忘れられない出来事がある。 昭和48年(1973年)5月22日、東京・江東区が杉並区のゴミ搬入を実力で阻止した日だ。 「東京ゴミ戦争」という言葉は、正直なところ、私の記憶にない。当たり前といえば当たり前で、昭和48年の私はまだ4歳だった。怒鳴り合うニュース映像もわかるはずがない。それでも、この出来事を調べていたとき、ふと頭に浮かんだ光景があった。 葛飾区・水元のあの温水プールだ。 社会科見学と、ゴミを燃やす熱 小学4年生、昭和54年ごろのことだ。葛飾区の小学生は「社会科見学」で水元の葛飾清掃工場を訪れた。職員の方に焼却炉の仕組みを教えてもらい、ゴミを燃やした時に出る熱が蒸気となって、隣接する施設のプールを温めていると聞いた。「ゴミの熱でプールが温かくなる」という話は、10歳の子どもにも妙に印象深く残った。 見学のあと、友達とそのプールでばちゃばちゃと泳いだ。余熱利用の仕組みは頭に入っていたけれど、それがどんな歴史の流れの上にあるのかまでは、もちろんわかっていなかった。 「自分のゴミは自分で処理せよ」 ゴミ戦争のあらましはこうだ。江戸時代から現代まで、東京のゴミを受け入れてきた土地が江東区だった。昭和40年代の大量消費社会でゴミが激増すると、江東区の「夢の島」はハエやネズミが大量発生する悪臭の島と化した。東京都は各区に清掃工場を建設して「自区内処理」を推進しようとしたが、杉並区では住民の反対で建設計画が何度も頓挫した。 杉並区で5月21日に反対派による流会が起きたため、江東区では翌5月22日、杉並区のゴミ搬入を実力阻止した。東京都清掃労働組合も連帯してボイコットし、杉並区内のゴミ収集は止まった。 自分たちのゴミを処理する施設を「うちには要らない」と拒み続けた結果、区内にゴミの山が積み上がる。この対立は全国ニュースとなり、「自分のゴミは自分の区で処理する」という原則が東京じゅうで問い直された。 東京・江東区の夢の島。かつてゴミで埋め立てられた島は、現在は公園として整備されている。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報(カラー空中写真)」 あの夏のプールと歴史の線 その問い直しの流れが、東京各区の清掃工場整備を加速させた。葛飾区も例外ではなかった。工場が整備されれば、その焼却熱を地域に還元しようという発想が生まれる。余熱は蒸気となり、隣接する施設のプールを温める。 私が友達と泳いだあの水元のプールは、その歴史的な流れの終着点のひとつだったのだ。 「東京ゴミ戦争」→「自区内処理の推進」→「各区の清掃工場整備」→「余熱利用施設(温水プール)の設置」 社会科見学でその仕組みを教わっていたのに、どうしてその工場ができたのか、なぜ余熱利用という発想が生まれたのか、その背景まで考えたことは一度もなかった。4歳の私には届かなかったニュースが、10歳の私をプールで泳がせていたとは。 昭和55年5月22日、黄色い丸が東京の繁華街に生まれた日。 昭和48年5月22日、東京じゅうのゴミの置き場をめぐって大人たちが怒鳴り合った日。 子どもには見えなかったことが、50年近く経ってようやくつながる。歴史の線は、いつもあとから引かれるものらしい。 あなたの子ども時代に「あれはそういうことだったのか」と気づいた出来事は、何かあるだろうか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ ▶

May 21, 2026

昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝

昭和53年(1978年)の5月、私は小学5年生だった。 その日のテレビには、見たことのない風景が広がっていた。巨大な旅客機が滑走路に降りてくる映像。空港の制服を着た人たちが忙しそうに動き回っている映像。「新東京国際空港、初便到着」とアナウンサーが興奮を抑えながら伝えていた。 しかし正直なところ、成田空港の開港というニュースは、10歳の私にはまだ遠い存在だった。千葉の成田というのは、なんとなく「遠くの場所」で、自分の日常と結びつくような感覚がまるでなかった。 ところが同じ5月21日に、もうひとつの出来事があった。こちらは、私の目の前で起きていたことだった。 踏切の向こうに現れたもの 私は葛飾区に住んでいる。最寄り駅は京成高砂駅だ。 昭和53年5月21日、京成電鉄の空港線が開業し、京成上野駅から成田空港駅(現・東成田駅)まで、特急「スカイライナー」の運行が始まった。 マルーンとクリームの2色塗り。この塗装で昭和53年から走り始めた。 その日、父と一緒に高砂駅の近くの踏切へ見に行った記憶が、今も残っている。あの踏切は「開かずの踏切」と呼ばれるほど電車の通りが多い場所だ。遮断機が下りたまま、なかなか上がらない。その踏切の向こうを、スカイライナーが通り過ぎていった。 マルーンとクリームに塗り分けられた車体。すっと伸びた流線型のボディ。普通の京成電車とは明らかに違う、特別な風格があった。 子どもながらに、「かっこいい」と思った。そして、誇らしかった。 私にとっての「新幹線」 東海道新幹線が開通したのは昭和39年(1964年)のことで、私が生まれる前の話だ。だから「新幹線の開通」という興奮を、私はリアルタイムでは体験していない。 スカイライナーの開通は、私にとってそれに近い感覚だったと思う。 自分の暮らす町の、見慣れた踏切を、特別な列車が通り過ぎていく。それが今日から毎日走るようになった。その事実が、子ども心にずっしりと響いた。遠くの出来事だった「成田空港の開港」とは違って、スカイライナーは目の前にいた。 「スカイライナー」という名前も好きだった。あとで知ったことだが、この名前は日本全国の小学生からの公募で決まったという。子どもたちが名付け親というわけで、余計に親しみを感じた。 騒ぎの中でようやく開いた扉 とはいえ、当時の私には成田空港の開港をめぐる複雑な事情など、何も見えていなかった。 成田空港は本来、昭和48年(1973年)3月に開港する予定だったが、大幅に遅れた。農地を守ろうとする地元農民の反対運動に新左翼の活動家が加わり、機動隊との激しい衝突が続いた。開港直前の昭和53年3月には、反対派が管制塔に突入して機器を破壊し、開港がさらに2か月延期されるという事態まで起きた。 機動隊が重装備で警戒する中での開港式典。出席者はわずか56名だったという。 5月21日、開港後の初便である日本航空のロサンゼルス発の貨物機が到着第1便として着陸し、正午過ぎに旅客機初便のフランクフルト発の日本航空機も続いた。同じ日にスカイライナーも走り始めた。 その日のニュース映像の裏に、そんな長い長い歴史があったとは、踏切の前で目を輝かせていた10歳の私には知る由もなかった。 今も変わらない光景 2010年登場。在来線最速の時速160kmで走り、日暮里―成田空港間を最速36分で結ぶ。 現在、スカイライナーはボディカラーを濃い青と白に変え、シャープな車体でさらに速く成田空港と都心を結んでいる。 高砂駅の近くで、スカイライナーを親子で見に来ている光景を目にすることがある。子どもが目を輝かせ、親が「あれがスカイライナーだよ」と教えている。 そのたびに、あの日の父と私のことを思い出す。 遮断機が下りて、しばらく待って、轟音とともに通り過ぎていったあの列車。成田空港はまだ遠い存在だったけれど、スカイライナーだけは、確かに私の目の前で走っていた。 それが昭和53年5月21日のことだった。 昭和40〜64年の「今日」を、子どもだったあの頃の目線で振り返るシリーズです。あなたにも、昭和の5月21日にまつわる記憶がありますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 | 次の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 ▶

May 20, 2026

成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和

5月の空は高い。梅雨前の、束の間の晴れ間が続くこの季節に、昭和はふたつの大きな出来事を刻んでいる。ひとつは「夢」が開いた日。もうひとつは「夢」が終わった日の話だ。 朝ごはんを食べながら聞いた言葉 1978年(昭和53年)5月20日。 「成田空港反対運動」「過激派」「機動隊と衝突」。 小学生だった私は、朝ごはんを食べながら流れてくるテレビのニュースで、こういう言葉を毎日のように耳にしていた。ヘルメットをかぶった学生、泥まみれの農民、機動隊の盾。子どもには意味がよくわからない、でもなんとなく怖くて騒々しい映像の連続だった。 実は、この日の開港はギリギリの滑り込みだった。本来の開港予定は3月30日。ところが2日前に過激派グループが管制塔に乱入して機器を破壊し、やむなく約2か月延期となった末の、この5月20日だったのだ。開港当日も反対同盟と機動隊の衝突は続き、反対派が燃やした古タイヤの黒煙が空に立ちこめる中、新東京国際空港は産声を上げた。 でも、飛行機そのものは夢だった。 29か国の航空会社34社が乗り入れる、日本初の本格的な国際空港。テレビニュースの騒然とした映像の向こうに、なんとなく「外国」という輝きが透けて見えた気がした。 ところで、このころの為替レートは1ドル300円前後だった。今は1ドル160円くらいでも「大変な円安だ!」と騒がれているが、300円というのはそれより倍もドル高な時代だ。そして振り返ってみれば、昭和から平成、令和と、時代はいつも「円高だ!」「円安だ!」と騒ぎ続けてきた。どうやら、為替というものはいつの時代も誰かを悲鳴させるようにできているらしい。 笑点とサザエさんの間に流れたあの声 もうひとつは1984年(昭和59年)5月20日の話だ。大相撲の力士、高見山大五郎が引退を表明した。 日曜日の夕方といえば、私にとって「笑点」と「サザエさん」の時間だった。その間に流れてくる丸八真綿の布団CM。でんぐり返しからの「まるはーち!」、そしてあのしゃがれた声で「2枚、2枚!2倍、2倍!」。 子どもたちは次の日、学校でこれを真似した。「2倍!2倍!」というキャッチフレーズは一躍ブームになり、子どもから芸人までが口真似をするほどだった。武家屋敷風の部屋に入ってきた高見山が布団に入り、最後に電気を消し忘れるというオチのバージョンもあった。ヒツジの着ぐるみをまとって「ジェシーの羊」(メリーさんの羊の替え歌)が流れるバージョンもあった。どれも、あの図体に似合わない愛嬌があふれていた。 ハワイ・マウイ島出身、本名ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア。身長192センチ、体重205キロ。愛称「ジェシー」。彼は1968年に外国出身力士として初めて幕内に入り、1972年7月場所では外国人力士として史上初の幕内最高優勝を果たした。表彰式ではニクソン米大統領の祝電が読み上げられたというのだから、その注目度がわかる。 ただ、正直に言う。 当時の私が「知っているお相撲さん」といえば、北の湖、輪島、貴ノ花、そして高見山だった。でも相撲中継で見る高見山の印象といえば……ほとんど負けていた記憶しかないのだ。突き落とされ、投げられ、土俵の外に転がり出ていく大きな背中。子ども心に「なんか強くないな、この人」と思っていた。高見山関、本当に申し訳ない(笑)。 もちろん実際には、20年間土俵に立ち続けた鉄人だった。「40歳まで相撲を取りたい」「建設中の両国国技館で相撲を取りたい」という夢を胸に、怪我をおしながら出場を続けた。引退宣言は場所の途中、突然のことだった。千秋楽の最後の一番は黒星だったが、満員の観衆から大声援が降り注ぎ、花道に花束が舞った。 「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と彼は言った。 昭和天皇がのちに「高見山がなぜ辞めたのかね」「残念だったろうな」と語られたと伝わっている。それを知らされた高見山は、「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。40歳まであと1か月。両国国技館の開場は翌1985年。どちらの夢も、わずかに届かなかった。 でも、ジェシーは日本に残った。東関部屋を興し、やがて弟子の曙を横綱に育て上げる。彼の昭和は、引退の日に終わったわけではなかった。 5月20日。煙の中を飛行機が降りてきた日と、土俵を去った大男が泣いた日。 あなたは「まるはーち!」をまだ口から出せますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 ▶

May 19, 2026

5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた

昭和27年(1952年)の5月19日、東京・後楽園球場に4万人の人間が詰めかけた。 野球の試合ではない。ボクシングだ。しかも特設リングをグラウンドの真ん中に組んで戦うというのだから、どれほど異様な熱気だったかが想像できる。 その夜から74年。5月19日は「ボクシングの日」として今も残っている。 そして私は今、この日付を眺めながら思う。日本人はずっと、ボクシングの世界チャンピオンに熱狂してきたのだ、と。時代ごとに「チャンピオン」は変わり、「熱狂の道具」も変わった。でも熱狂そのものは、変わらなかった。 昭和27年 ラジオの前に家族が集まった夜 白井義男という名前を、今の若い人はほとんど知らないだろう。でも昭和の大人たちに聞けば、きっと目が変わる。 彼は昭和27年5月19日、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノ(アメリカ)に15回判定勝ちし、日本人として初めてプロボクシングの世界王者となった。 当時の世界ボクシングにはフライ級からヘビー級まで8つの階級しかなかった。世界チャンピオンは地球上に8人しかいない、ということだ。その「世界の8分の1」に、敗戦からまだ7年しか経っていない日本人がなってしまった。 白井の戦い方は独特だった。「打たれたら打ち返す」が当時の日本ボクシングの常識だったのに対し、彼は「打たせないで打つ」スタイルを貫いた。それを仕込んだのは、GHQの職員として来日していたアルビン・カーン博士というアメリカ人。ボクシングの経験はほとんどないのに、スポーツ生理学の知識を武器に白井を育て上げた。このちょっと不思議なコンビが、日本に初めての世界チャンピオンをもたらした。 その夜、4万人が詰めかけた後楽園球場に来られなかった人々はどうしていたか。 テレビはまだほとんどの家庭にない時代だ(NHKのテレビ放送が始まるのは翌昭和28年)。だから人々はラジオに耳をかっていた。この試合のラジオ聴取率は83%を記録したという。日本中の家が、ラジオの前で固まっていたのだ。 83%という数字の凄まじさを想像してみてほしい。日本中の家がほぼ全部で、同じ音声を聴いている。家族全員が息を殺して、アナウンサーの声に耳を澄ませている。15ラウンドを戦い抜いて判定が告げられた瞬間、ラジオの前でも飛び上がった家族がいたに違いない。 白井が勝ったことは、単純な「スポーツで勝った」ではなかったと思う。あの戦争から立ち直れるんだ、という証明だった。敗戦後の日本人が、自分自身を取り戻す一つの節目。後楽園球場の4万人の歓声は、そういう重さを持っていた。 昭和50年代 テレビの前にかじりついた夜 それから四半世紀が過ぎ、日本は高度経済成長を経て、テレビが一家に一台の時代になっていた。 「私にとってのボクシング世界チャンピオンは具志堅用高だ」と言える世代は、おそらく昭和40年代生まれ前後だろう。その感覚、私にはよくわかる。 具志堅用高は昭和51年(1976年)10月10日にWBA世界ライトフライ級王座を獲得し、そこから昭和56年(1981年)3月8日まで、約4年5か月にわたってチャンピオンに君臨し続けた。13回連続防衛。これは長い間、日本記録だった。 小学生の間ずっと「世界チャンピオンが具志堅用高」という状況だったのだから、それはもう「当たり前の風景」のように感じていたはずだ。 試合の夜は特別だった。 ふだんはボクシングにそれほど興味がなくても、具志堅用高の世界タイトルマッチとなれば話は別だった。テレビの前にかじりついて応援した。家族みんなで。それが当時の日本の、ゴールデンタイムの風景だった。 具志堅の魅力は、強さだけではなかった。独特のアフロヘアと、沖縄訛りの底抜けに明るいキャラクター。「ちばりよー!」という言葉が全国に広まり、沖縄出身の若者が日本中のヒーローになった。那覇の小さな少年がここまで来たんだという物語が、日本人の感情を揺さぶった。 白井義男の時代に「83%のラジオ」があったとすれば、具志堅用高の時代には「茶の間のテレビ」があった。ゴールデンタイムに全国生中継。チャンネルを変えるという選択肢がない時代、日本中が同じ画面を見ていた。 令和の今 スマホの画面に映る「モンスター」 そして今、令和の日本に「モンスター」がいる。 井上尚弥だ。 神奈川県座間市出身、1993年生まれ。ライトフライ級から始まり、スーパーバンタム級まで世界4階級を制覇した。愛称は「モンスター」。 何がそこまで凄いのか。 軽量級というのは、一般に「判定が多い」と言われる。体重が軽い分、一発でKOするほどのパワーを出しにくいからだ。ところが井上尚弥は、世界王者クラスの相手でも試合を終わらせてしまう。ボディブロー、左フック、カウンター、連打——どれもが凶器になる。特にボディ打ちは「内臓をえぐる」とまで表現されるほどだ。 しかも、スピード・テクニック・パワーのどれか一つが突出しているのではなく、全部がトップ水準にある。ボクシング関係者から「欠点が少なすぎる」と言われるゆえんだ。 忘れられない試合がある。2019年のノニト・ドネア戦。井上選手は眼窩底骨折を負いながら激闘を制し、強さだけでなく精神力と修正能力を世界に示した。2023年のスティーブン・フルトン戦では階級を上げて挑み、内容で圧倒してTKO勝利。「井上尚弥は本物中の本物」という評価が決定的になった試合だった。 海外でも評価は高い。パウンド・フォー・パウンド(階級の差を取り払った最強ランキング)で常に上位に名前があり、アメリカやイギリスでもスター選手扱いだ。「日本ボクシング史上最高のボクサー」と評価する声は、国内にとどまらない。 ところで、どこで見るのか問題 ただし、である。 井上尚弥の試合を見たいと思ったとき、かつてのような「テレビをつければゴールデンタイムにやっている」という状況ではなくなっている。 主な視聴方法は今やこうなっている。 まずAmazon Prime Video。近年の日本開催ビッグマッチはAmazonが独占することが多く、プライム会員なら追加料金なしで生配信を観られる。次にLemino(NTTドコモ系の配信サービス)。ボクシング関連コンテンツを多く扱っており、無料部分もある。それからWOWOW。海外開催の試合やビッグマッチで今も放送される。以前より頻度は減ったが、ボクシング中継の伝統は残っている。 地上波テレビはどうなったかというと、具志堅用高の時代、辰吉丈一郎の時代、亀田興毅の時代のような「ゴールデンタイム全国生中継」はかなり減った。放映権料の高騰、配信サービスの普及、若年層のテレビ離れ、配信会社による独占契約——理由はいくつか重なっている。 昭和世代からすれば「寂しい」と感じる変化かもしれない。茶の間のテレビで家族みんなが見ていたあの感覚は、もう戻らない。 でも、実は今のほうが「見やすい」面もある。 かつては深夜開始の試合もあった。録画に失敗することもあった。延長で別の番組がズレることもあった。今はスマホでも観られるし、Amazon Prime Videoなら高画質・見逃し配信・一時停止が当たり前だ。テレビに接続すれば大画面でも楽しめる。「意外と便利」と感じている昭和・平成世代も多いはずだ。 ラジオ、テレビ、スマホ。道具は変わっても 昭和27年、日本中がラジオの前で固まって白井義男を応援した。 昭和50年代、日本中が茶の間のテレビで具志堅用高にかじりついた。 令和の今、日本中がスマホやタブレットの画面で井上尚弥を追いかけている。 道具は変わった。でも熱狂は変わっていない。 白井義男が戦後の日本人に「俺たちも世界一になれる」という夢を見せたように、具志堅用高が沖縄の少年を「日本中のヒーロー」にしたように、井上尚弥は今まさに「日本人が世界の頂点に立てる」ことを体で証明し続けている。 5月19日、ボクシングの日。 後楽園球場に4万人が詰めかけたあの夜から、時代は変わった。でも変わらないものが、ちゃんとある。 昭和50年代当時、具志堅用高の試合は何度ゴールデンタイムで中継されたことか。ボクシングにさほど興味のない私でさえテレビの前にかじりついていたのだから、それがどれほど特別な時間だったかがわかる。そういう「日常の中の非日常」が、もう少しテレビにあってもいいのになあと、たまに思う。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 | 次の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 ▶

May 18, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日

今日は5月18日。 昭和45年(1970年)のこの日、ひとつの法律が静かに公布された。 全国新幹線鉄道整備法。 長い名前だが、内容はシンプルだ。「新幹線を、日本中に走らせよう」という国の約束だ。 この法律のことを調べていたら、自分の記憶がどんどんよみがえってきた。新幹線にまつわる記憶。テレビ越しに見ていた「あの乗り物」への憧れ。そして中学3年の春、東京駅のホームで初めて0系の鼻先を目の前にしたときの、あの感覚。 今日はその話を書いてみたい。 新幹線は、テレビの中にいた 私が育ったのは東京23区の東のはずれだ。下町の気配が残る、庶民的な町だった。 子どもの頃、新幹線はいつも「テレビの中」にあった。 ゴールデンウィーク前になると、ニュースが決まってこの映像を流した。東海道新幹線の車内。通路まであふれかえる乗客。車窓の外を流れる富士山。アナウンサーが「今年のUターンラッシュは——」と話す。 画面を見ながら、子どもの私はぼんやりと思っていた。 あれに乗っている人たちは、どこへ行くんだろう。 京都か。大阪か。あるいはもっと遠い、知らない場所か。 でも、それは完全に「他人事」だった。我が家とは無関係な世界の映像として、ただ眺めていた。 理由は単純で、我が家には旅行の習慣がなかったからだ。 父は、連休が年に一度だけだった 父の仕事は週に1回、平日に休みがあった。日曜日は働いていた。 ゴールデンウィークも、お盆も、関係なかった。世の中がいくら盛り上がっていても、父は仕事に出かけた。まとまった連休といえば、1年にたった一度、お正月の1日と2日——その2日間だけだった。 今の感覚で言えば「それは大変だったね」となるかもしれない。でも当時、私のまわりではそれはめずらしいことではなかった。近所の友達の父親も、似たようなものだった。昭和40年代、50年代の「お父さん」はそういうものだった。家族よりも仕事を優先するのが当たり前で、誰もそれを疑わなかった。 だから、家族でお泊まり旅行に出かけた記憶が、私にはない。 修学旅行や林間学校はあった。でも「家族みんなで旅行」という体験は、子ども時代についぞなかった。 今の常識からすると「えっ、そうなの?」と驚かれるかもしれない。でも私のまわりでは、それはごくふつうのことだった。それくらい、昭和40年代・50年代・60年代のお父さんたちは、よく働いていたのだ。 だから新幹線の映像をテレビで見ながら「来年の夏、乗れるかな」などとは考えなかった。そんな発想自体が、最初からなかった。 昭和45年5月18日、「約束」が生まれた 少し話を遡る。 昭和39年(1964年)、東海道新幹線が開業した。東京オリンピックの9日前のことだ。東京と新大阪を、それまでの特急列車なら6時間以上かかっていたところを、「ひかり」は3時間10分で結んだ。 当初は「あんな高いものを作っても赤字になるだけだ」という声もあった。ところが蓋を開けると、新幹線は大人気だった。通勤でも出張でも観光でも、人々は喜んで乗った。「夢の超特急」と呼ばれた0系の白い車体は、あっという間に時代のシンボルになった。 その成功を見て、政治家や官僚は考えた。「これを全国に広げれば、日本中が豊かになる」と。 そして昭和45年5月18日、全国新幹線鉄道整備法が公布された。 内容はこうだ。時速200キロメートル以上で走れる幹線鉄道を「新幹線」と定義し、全国的な鉄道網として整備していく——という法律だ。要するに「東京と大阪だけじゃなく、日本中に新幹線を走らせる計画を国が主導する」という宣言だった。 この日から3年後の昭和48年、東北新幹線や北陸新幹線などの整備計画が決定される。そしてさらに時間をかけて、新幹線は少しずつ北へ、西へと延びていった。 とはいえ、昭和45年に法律ができたからといって、すぐに全国を新幹線が走り回るわけではない。東北新幹線が東京まで延びてくるのは、昭和60年(1985年)のことだ。 私が子どもだった昭和40年代、50年代——仙台や盛岡に新幹線で行けるようになる未来は、まだ「夢の話」だった。 中学3年、修学旅行の朝 昭和57年(1982年)の春のことだ。 中学3年生の修学旅行。行き先は京都・奈良。 その朝、私はいつもより早起きして、母に用意してもらった弁当を持って中学校へ向かった。校庭に集合して、先生から注意事項を聞いて、クラスごとに並んで出発した。電車を乗り継いで東京駅へ。先生に引率されてホームへ向かった。 そして——目の前に、0系があった。 あの丸っこい白い鼻先。白とブルーの塗り分け。ずらりと並んだ窓。テレビの中でしか見たことがなかったものが、手を伸ばせば届きそうな距離に、本物として存在していた。 正直に言うと、少し呆然とした。 「あ、本当にあるんだ」と思った。変な感想だが、そういう気持ちだった。ずっとテレビ越しに見ていたものが、突然、目の前の現実になった感覚。 車内に乗り込んで、席に着いた。 隣に座った友達と、顔を見合わせた。 お互いにニヤニヤしていた。声に出さなくても、わかった。「こいつも、初めてなんだな」と。 うちだけじゃなかった。同じ町の同じ中学に通っている友達も、同じように「初めて」だったのだ。それが少し、嬉しかった。 動き出したときの、あの感覚 列車が動き出した。 最初はゆっくりだった。東京駅のホームが、少しずつ後ろに流れていく。窓の外の景色が、じわじわと速くなっていく。 そしてある瞬間から、流れる景色が全然違うものになった。 ビルが、電線が、人が、全部流れていって何がなんだかわからなくなる。ただ白と緑のぼんやりした帯になって、後ろへ後ろへ飛んでいく。 スピードというものをあれほど体で感じたのは、後にも先にもあの瞬間だけだと思う。「速い」という言葉が意味を失って、ただ体ごと時間が圧縮されていくような、変な感覚だった。 富士山が見えた。 「富士山だ」と誰かが言い、みんなが窓に顔を寄せた。日本一高い山が、ただただそこにあった。東京から生まれて初めて離れた中学生にとって、富士山の存在感は圧倒的だった。 新幹線は「高嶺の花」だった 修学旅行から帰って、しばらくは新幹線の話ばかりしていた気がする。 でも、それで終わりだった。 その後、自分の意思で新幹線に乗る機会は、なかなかやってこなかった。就職して、出張で乗るようになるまで、新幹線は「特別なとき」だけの乗り物だった。 新幹線は「高嶺の花」だった。 手が届かないわけじゃない。でも、気軽に乗るものじゃない。ゴールデンウィークにテレビで見ていた満員の映像は、「あそこに乗っている人たちとは、自分は違う世界にいる」という感覚と一緒にあった。 今になって思えば、それは思い込みだったかもしれない。でも当時の感覚は確かにそうだった。 「夢の超特急」という言葉は、言い得て妙だと思う。夢——すなわち、「いつかは」という距離感。私にとって長い間、新幹線はそういう存在だった。 長男に乗せてやりたかった 大人になって、子どもが生まれた。 長男が5歳のとき、仕事の関係で九州へ行く用事ができた。会社は往復の飛行機チケットを用意してくれた。でも私は、帰りのチケットをキャンセルした。 博多から東京まで、新幹線で帰ることにしたのだ。 妻と長男を連れて、博多駅のホームに立った。 長男は生まれて初めて新幹線を目の前にして、目を丸くしていた。 「乗るの?これに乗るの?」と聞いた。 「乗る」と答えた。 席に着いて、列車が動き出した瞬間、長男は窓に顔をくっつけて景色を見ていた。その横顔を見ながら、私は何も言わなかった。ただ、昭和57年の春に感じたあの感覚が、じわっと戻ってきた気がした。 ...

May 17, 2026

6大固定費の見直し②──保険の整理

「投資は投資、保険は保険」。頭ではわかっていた。でも行動に移すまでに、じつに4年かかった。 まず「棚卸し」から始めた 『お金の大学』を読んでから最初にやったことのひとつが、我が家の保険を全部並べてみることでした。保険証券をかき集め、「何に、いくら払っているのか」を一覧にしてみる。そうしないと、そもそも何を見直すかが決まりません。 出てきたのは、大きくふたつ。 保険名 種別 契約日 保険期間 積立利率変動型終身保険(米国通貨建) 一時払い終身 2011年6月1日 終身 スーパーがん保険 終身がん保険 1994年7月1日 終身 ここに火災保険(個人賠償責任特約付き)が加わりますが、主な見直し対象はこの2本でした。 ❶ スーパーがん保険──現在も継続中 1994年7月、30年以上前に契約した保険です。 項目 内容 月額保険料 1,270円 契約開始 1994年7月1日 2026年5月時点の解約払戻金 397,800円 損益を数字で整理してみた 2026年5月現在で31年10か月、約382か月払い続けているとすると、総払込保険料は次のようになります。 総払込保険料(概算):約48.5万円 解約払戻金:約39.8万円 差額(実質コスト):約8.7万円 年間換算コスト:約2,700円 31年以上にわたってがんの保障を持ち続けて、実質コストは年間約2,700円。純粋な「保険料の損得」という視点で見れば、かなり健闘している契約だと思います。 1990年代の保険には「予定利率が高い」「同条件では今入りづらい」という特徴があります。月1,270円という保険料は、今の水準から見ると破格といっていいかもしれません。 もちろん「解約して約40万円を受け取る」という選択もあります。ただ、保険として機能しながらこの戻り率なら、貯蓄商品としては平凡でも、保険商品としての役割は十分に果たしている。そう判断して、現在も継続中です。 ❷ ドル建て終身保険──4年越しの決断 問題はこちらでした。 項目 内容 商品名 積立利率変動型終身保険(米国通貨建) 契約日 2011年6月1日 一時払い保険料 3,467,109円 契約時為替レート 81.18円/米ドル 保険金額 50,000米ドル 2020年──解約できなかった 『お金の大学』を読んで、このドル建て終身保険が「見直し対象」であることはすぐにわかりました。投資と保険を一緒に詰め込んだ商品。両学長がYouTubeでも繰り返し言っていた「ぼったくり保険は早く解約して、優良なインデックス投資信託と必要な掛け捨て保険に分けなさい」──まさにこれが当てはまる契約でした。 頭では理解していた。でも、手が動かなかった。 2020年の時点では、契約日から10年が経過しておらず、円ベースでは元本割れの状態。為替差益でプラスになっているとはいえ、「損をした気持ち」が拭えず、解約のボタンを押せませんでした。あの感覚は、FXで損切りできなかったときとよく似ていました。感情がブレーキを踏んでしまうのです。 「理解と行動の間には、4年分の距離があった」というのが正直なところです。 2024年1月──ようやく解約 契約から12年以上が経った2024年1月30日、ついに解約に踏み切りました。 項目 内容 解約日 2024年1月30日 解約払戻金(米ドル) 47,206.71米ドル 解約時為替レート 146.88円/米ドル 解約払戻金(円換算) 6,933,721円 払い込んだ3,467,109円が、6,933,721円になって戻ってきた。一見すると倍になっており「良かった」と見えます。でも、ここで立ち止まって考えてみました。 ...

May 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代

今日は5月17日。 昭和60年(1985年)のこの日、男女雇用機会均等法が成立した。職場における男女の差別を禁止し、募集、採用、昇給、昇進など多くの面で男女を平等に扱うことを定めた法律だ。 法律の名前だけ聞くと、難しい話のように感じるかもしれない。でも私にとってこの法律は、あの頃の母親の背中と深くつながっている。 「男は仕事、女は家庭」という時代 昭和の日本には、当たり前とされていた空気があった。 「男は仕事、女は家庭」。 女性は学校を卒業して就職しても、結婚したら退職するのが当然という慣例が多くの職場に存在した。当時、女性は就職しても数年で辞めていくのが慣例で、男女は平等には扱われていなかった。多くの企業は男女を分けて賃金管理や労務管理をしており、女性は補助労働者として扱われていたのだ。 「寿退社」という言葉があった。結婚を機に会社を辞めることを、まるでおめでたい卒業のように呼んでいた。女性が働き続けることへの社会の目は、今とはまったく違っていた。 それでも昭和の母親たちは働いていた。家庭を守りながら、子どもを育てながら、パートとして、内職として、様々な形で家計を支えていた。 テーブルの上の100円玉と、母の仕事 少し前の記事に書いた話を、もう一度思い出している。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はなかった。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃の母は、何をしていたのだろう。どんな仕事場で、どんな気持ちで働いていたのだろう。子どもだった私には、考えも及ばなかった。 でも今になって思う。昭和の母親がパートとして働くということは、今よりずっと「肩身の狭い」ことだったかもしれない。「母親なのに家を空けて」という目が、社会のどこかにあった時代だ。それでも働いたのは、家族のためだけではなく、自分自身の何かのためでもあったはずだと思う。 スチュワーデス、保母、看護婦──あの呼び名が変わった日 男女雇用機会均等法の成立は、目に見える形でも昭和の風景を変えた。 施行されると、「保母」が「保育士」に、「看護婦」が「看護師」に、「スチュワーデス」が「客室乗務員」などと呼称も変更された。 子どもの頃、テレビのCMに「スチュワーデス」という言葉が出てくると、華やかな憧れの職業として映っていた。「保母さん」という言葉も、幼稚園や保育園の優しい先生の代名詞だった。 その言葉が変わるということは、仕事に対する社会の見方そのものが変わっていくということだった。女性だけの仕事、男性だけの仕事、という区分けが少しずつ溶けていく。昭和という時代の終わりごろに、その変化は静かに始まっていた。 「均等」への道は、遠かった ただ正直に言えば、法律が成立しても、最初は採用や昇進について「禁止」ではなく「努力義務」にとどまっていた。多くの経営者が法制化に強く反対したという背景もあった。 昭和60年の法成立から、実質的な禁止規定へと強化されるまで、さらに月日が必要だった。法律が変わることと、社会が変わることには、タイムラグがある。 それでもあの法律は、確かに何かを変えた。昭和の働く母親たちが、今日という日の積み重ねの上に社会を押し広げていったことを、私はあの100円玉2枚とともに覚えている。 娘たちが生きる時代へ 今、私には子どもが5人いる。そのうちの娘たちが大人になって働く時代は、昭和の母親が生きた時代とはずいぶん違う。 今年の1月、大学受験を控えた娘の合格祈願で湯島天満宮に参拝した話を以前書いた。娘が夢を持って大学に進み、自分のキャリアを考えられる時代。それは昭和60年5月17日に成立した法律が、その後の何十年もかけて少しずつ作ってきた時代でもある。 男女雇用機会均等法という言葉を、娘に説明したことがある。「昔はそんな法律がなかったの?」と娘は少し驚いた顔をした。 その顔を見て、時代が変わったのだと実感した。 おわりに 昭和60年5月17日、一本の法律が成立した。 完璧ではなかった。すぐに世の中が変わったわけでもなかった。でもテーブルの上に100円玉を置いて子どもたちのために働いていた昭和の母親たちの背中が、この法律を少しずつ前に押し進めていったと思う。 あなたのお母さんも、あの時代に何かを背負いながら働いていたのではないだろうか。 今日、そのことを少し思い出してもらえたら嬉しい。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 ▶

May 16, 2026

スマホ代を月15,000円から5,000円へ──格安SIM乗り換え体験記

『お金の大学』との出会いから行動へ。最初に手をつけたのは、6大固定費の筆頭・通信費でした。 前回まで、私がFXで約150万円を溶かした話、そして『お金の大学』との出会いによって「本当の意味での投資とは何か」に気づいた話をしてきました。 両学長の教えのとおり、まずは「貯める力」を鍛えることから始めます。6大固定費の見直し──その第一弾として取り組んだのが、通信費です。 2020年当時の我が家の状況 まず、当時の家族構成と資産状況を整理しておきます。 私:51歳、妻:49歳 長男:大学4年、長女:中学1年、次男:小学5年、三男:小学1年、四男:保育園年少 預貯金:約2,000万円 ドル建て終身一時払い生命保険:約350万円 住宅ローン残高:約3,300万円 給与年収:約500万円、家賃収入:約100万円 7人家族の大所帯。預貯金はそれなりにあるものの、住宅ローンの重さが家計に圧しかかっている状況でした。 当時スマホを使っていたのは私・妻・長男の3人。auとSoftBankの間を行ったり来たりしながら使っていました。当時の世間の関心といえば「iPhoneをどこで一番お得に手に入れてキャリアを乗り換えるか」、そこに尽きていたように思います。今もその空気は続いているように感じますが。 当時の料金はauで、1人あたり約5,000円、3人合計で月15,000〜16,000円ほど。この数字を改めて見たとき、「高すぎる」と感じました。 mineoへの乗り換えを決断 そこで選んだのが、格安SIMの**mineo(マイネオ)**です。 乗り換えを決める前は、正直かなり不安がありました。 周りに格安SIMを使っている人がまったくいない 通信品質が大丈夫なのか心配 手続きがほぼネット完結──当時は店員さんにやってもらうのが当たり前だったので、戸惑いがあった それでも思い切って3GBプラン(デュアルタイプ:音声通話+データ通信)に3人で乗り換えました。 2020年当時のmineo料金(参考) データ容量 デュアルタイプ(音声+データ) シングルタイプ(データのみ) 500MB 約1,310円 約700円 1GB 約1,410円 約800円 3GB(選択) 約1,510円 約900円 6GB 約2,190円 約1,580円 10GB 約3,130円 約2,520円 20GB 約4,590円 約3,980円 ※2020年前後の税込前料金ベース 当時のmineoはdocomo回線(Dプラン)・au回線(Aプラン)・SoftBank回線(Sプラン)の3回線から選べるのが強みでした。また「パケット放題」「フリータンク」「パケットギフト」など、ユーザー同士で通信容量を融通し合える独自サービスも人気でした。 乗り換えた結果、1人あたり約1,500円、3人で約5,000円に。 月約10,000〜11,000円の削減に成功しました。 乗り換えてみて──不安は杞憂だった 結論から言えば、使用上の不具合はまったく感じませんでした。 「品質が落ちるんじゃないか」という不安は完全な杞憂でした。手続きも、一度やってみると思いのほかスムーズ。「なぜもっと早くやらなかったんだろう」というのが正直な感想です。 ひとつ大きな気づきがありました。それは、これまで「利用料金」と「機種代」をごっちゃにして考えていたということ。2つが混在したままでは、自分が払っているお金が高いのか安いのか、正確に判断できていなかったのです。 分けて考えるようになったことで、ものごとがシンプルに整理できました。 そして何より大きかったのは、大手キャリアの「囲い込み」の外に初めて踏み出せたということです。囲いの中にいる間は、その外に選択肢があることすら気づきにくい。一歩出てしまえば、「なぜずっとここにいたんだろう」と思うほど、世界が広がって見えました。 おそらくこの感覚は、スマホだけの話ではない。保険・住宅・車など、ほかの固定費見直しにも、まったく同じことが言えると思っています。 現在の我が家──日本通信SIMへ移行 それから数年が経ち、現在の我が家はiPhoneを6台使用しています。格安SIMの会社も「日本通信SIM」に切り替えました。 プラン 台数 月額 20GBプラン(1,390円) 5台 6,950円 1GBプラン(290円) 1台 290円 合計 6台 約8,000円 子どもたちが増えてスマホの台数が倍になったにもかかわらず、月額は約8,000円に収まっています。家族の誰ひとり、使用上の不都合を感じていません。 ...

May 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった

今日は5月16日。 昭和56年(1981年)のこの日、土曜の夜8時に一本のテレビ番組が産声を上げた。 「オレたちひょうきん族」。 ビートたけし、明石家さんま、島田紳助……漫才ブームで頭角を現した若手芸人たちが集結したこの番組は、昭和のテレビ史上最大のライバル対決「土8戦争」の幕を開けた。 相手は、全員集合だった。 「笑ってる場合ですよ!」と叫んだ教室 昭和56年、私は小学6年生だった。 学校の教室には、当時すでにテレビが置かれていた。昼休みの12時少し前になると、誰かがそのテレビのチャンネルをフジテレビ系に合わせる。流れてくるのは「笑ってる場合ですよ!」だ。 月曜から金曜、正午から放送されたこの帯番組は、漫才ブームを背景に昭和55年(1980年)10月から始まった。B&B、ツービート、オール阪神・巨人……時代の顔ともいえる漫才師たちが次々と登場する。 番組のオープニングで掛け声がかかる瞬間、教室が一つになった。 「笑ってる場合ですよ!」 クラス全員で叫ぶ。そのまま笑いが起きる。先生がいてもお構いなし、という雰囲気だったかもしれない。昭和56年の教室には、そういう「勢い」があった。 全員集合を、卒業した 正直に言う。昭和56年の私は「8時だよ!全員集合」を卒業していた。 小学校低学年の頃、全員集合は神様のような番組だった。いかりや長介の「バカヤロー!」、加藤茶の「ちょっとだけよ」、志村けんのバカ殿。台本通りに徹底的に稽古し、公開生放送で一糸乱れずやり切る。あのコントの完成度は今見ても圧倒的だ。 でも小学6年生になると、変わっていた。 漫才ブームの波が教室の中にまで押し寄せていた。休み時間に漫才の真似をする友達が出てきた。B&Bの「もみじまんじゅう!」、ツービートの毒舌漫才。笑いの空気が変わっていた。そこにひょうきん族が来た。 ビートたけしによると「全員集合」をどうやって視聴率で倒すかということを目標にスタッフたちと色々考えたという。その戦略は、全員集合との徹底的な差別化だった。 全員集合が「台本通りの王道コント」なら、ひょうきん族はアドリブと内輪ウケ。全員集合が「グループで笑いを取る」なら、ひょうきん族は一人一人の個性。全員集合が「子ども・小中学生向けの公開生放送」なら、ひょうきん族は高校生・大学生向けのスタジオ収録。 その差別化が、ちょうど小学校高学年から中学生になろうとしていた私たちの世代に刺さった。全員集合からひょうきん族へ。あの乗り換えはごく自然な流れだったと、今になって思う。 各家庭にテレビが増えた時代 ところでチャンネル争いはどうだったか。 昭和40年代は、一家に一台のテレビを囲んで家族全員で見るのが当たり前だった。チャンネル権は父親が持ち、見たい番組を見られない子どもが拗ねる、という光景が日本中にあった。 ところが昭和50年代に入ると、カラーテレビの価格が下がり、二台目・三台目のテレビが各家庭に入り始めた。子ども部屋に小さなテレビが置かれるようになり、「全員集合を見るかひょうきん族を見るか」という争いは、家庭によってはそもそも起きなくなっていた。 私の家もそうだった。チャンネル争いの記憶がないのは、テレビが複数あったからだと思う。 一台のテレビを囲んで家族が笑う、という昭和の風景は、テレビが増えるとともに少しずつ変わっていった。便利になった分、何かが失われたような気もするが、それもまた時代というものだろう。 「何でもあり」の時代の勢い 今振り返ってみると、昭和56年前後という時代は特別な空気をまとっていた。 漫才ブームが来て、ひょうきん族が始まって、ファミコンがまもなく登場して、バブルに向かって経済が上昇していく。社会全体に「何でもあり」みたいな包容力があって、とにかく「勢い」がみなぎっていた。 教室でテレビに向かってクラス全員で叫ぶ。そのくらいのことは誰も咎めない、という空気が確かにあった。はみ出すことへの許容度が今とは違った。 初回の視聴率は9.5%、その後も8〜10%前後と当初は全く相手にならなかったひょうきん族が、昭和57年(1982年)10月9日についに全員集合の視聴率を初めて上回った。そして昭和60年(1985年)9月28日、全員集合は16年の歴史に幕を下ろした。 あの時代の勢いが、笑いの世代交代を加速させたのだと思う。 「2番組合わせて視聴率50%」 面白い話がある。 全員集合とひょうきん族のスタッフは、打ち上げの席で度々同じ居酒屋で遭遇していたという。周りは「戦争」と言っていたが、当事者同士はライバルであると同時に「同士」でもあった。 「2番組合わせて視聴率50%。笑いを見る人が世の中の半分もいるなんて、俺たちは幸せだなあ」 そう語っていたという逸話が残っている。 あの時代の勢いと包容力の中で、2つの番組は正面からぶつかり、日本中の笑いを二人で背負っていた。それがどれほど豊かな時代だったか、今になってじわじわと感じる。 おわりに 昭和56年5月16日、ひょうきん族が始まった。 「笑ってる場合ですよ!」と叫んだ教室の空気。全員集合を卒業して新しい笑いに乗り換えた小学6年生の感覚。一家に複数台のテレビが入り始めた、あの頃の変化。 昭和56年という年は、笑いだけでなく、日本のいろんなものが一気に動き始めた年だったのかもしれない。 全員集合を見るか、ひょうきん族を見るか。あなたの家の土曜の夜8時は、どちらだっただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代 ▶

May 15, 2026