七夕の夜、笹の葉に短冊を揺らしていたあの頃。空を見上げれば天の川——というのは、いかにも昭和の子どもらしい7月7日の過ごし方でした。けれど今日は、同じ7月7日に生まれた、もう一つの「星」の話をさせてください。
1970年(昭和45年)7月7日。東京・府中市の甲州街道沿いに、一軒のレストランが開店しました。名前を「スカイラーク」——のちの「すかいらーく」です。スカイラークとは、英語でヒバリのこと。空へまっすぐ舞い上がる、あの小さな鳥です。七夕の日に、ひばりの名を持つ店が羽ばたいた。日本で初めての、郊外型ファミリーレストランの誕生でした。
「外食元年」——食卓の外側が変わった年
いまでこそ、私たちは当たり前のように「ファミレス行こうか」と口にします。けれど、その言葉が生まれるためには、どこかに「最初の一軒」がなければならなかった。それが、すかいらーくでした。
作ったのは、長野県出身の横川4兄弟。もともと商売とは無縁の一家だったそうです。1962年(昭和37年)に、東京・ひばりが丘団地で「ことぶき食品」という小さな食料品スーパーを始めたものの、大型スーパーの進出に押されてうまくいかない。そこで兄弟は、もう一度アメリカへ渡って外食の現場を見て回りました。ビッグボーイやデニーズ。広いガラス張りの店に、家族連れが当たり前のように集っている光景。あの豊かさを日本にも、と考えたのです。
マクドナルドの導入も検討したものの、ライセンス契約に3億円かかると言われて断念。それならばと、自分たちでファミリーレストランを作る道を選びました。目をつけたのは、日本でも急速に広がりはじめていたマイカーブーム。車で移動する家族連れを迎えるなら、街なかより郊外だ——そう読んで、甲州街道という幹線道路沿いに1号店を構えたのです。
開店当時の店は、大きな三角屋根に、天井まで届くガラス窓。まるでアメリカの街道沿いから、そのまま切り取ってきたような姿でした。高度経済成長のただ中にあった当時の日本人にとって、それは「憧れ」そのものだったといいます。そしてメニューには、ハンバーグとエビフライを一枚の皿に一緒に盛る、という当時としては画期的な工夫。子どもが好きなものを、少しずつ、いっぺんに。その発想が、家族みんなの心をつかみました。

外食業界では、この1970年を「外食元年」と呼びます。同じ年、大阪万博の会場にはケンタッキーフライドチキンが出店し、翌1971年にはマクドナルドとミスタードーナツが日本1号店を出す。日本人が「食」において初めて世界を意識し、外で食べることそのものにワクワクした——そんな時代の、まさに号砲でした。すかいらーくは開店から5年で店舗数100を超え、やがて全盛期には700店を超えるまでに広がっていきます。
すかいらーくが持ち込んだのは、味やメニューだけではありませんでした。レストランとしては初めて、注文をその場で打ち込むハンディ端末やPOSの仕組みを取り入れ、少ない人数でもてきぱきと店を回せる態勢を作り上げます。安くて、速くて、清潔で、きちんと挨拶をしてくれる——当たり前のようでいて、当時の日本の食堂にはなかなか無かったものを、この店は一つひとつ形にしていったのです。
そして何より大きかったのは、すかいらーくが「新しい休日のかたち」を生み出したことでした。日曜日、家族そろって車に乗り込み、郊外のレストランへ出かけて、みんなで同じテーブルを囲む。テレビのコマーシャルには、そんな幸せそうな家族が、繰り返し映し出されました。マイカーとファミレス。それは、豊かになりゆく昭和の家庭にとって、まぶしい憧れの象徴だったのです。
——もっとも。その絵に描いたような休日は、どんな家庭にも当てはまるものではありませんでした。
我が家にとっての「外食」
さて、そんな外食革命の号砲が鳴った1970年7月、私はまだ1歳。ヒバリが羽ばたいたことなど、当然、何も知りません。
けれど、私が物心つく頃には、ファミレスという言葉は少しずつ、子どもたちの生活の隅にも入り込んできていました。ただ——正直に打ち明けますと、我が家にとって「外食」は、そう気軽なものではありませんでした。
我が家の外食には、二つの「決まり」がありました。
一つは、月に一度の楽しみです。母がパートで働いていて、その給料日が毎月25日でした。その日の夕方、母がパートから帰ってくると、母と私、そして妹の三人で、高砂駅のそばにあったイトーヨーカドーへ買い物に出かけます。ひととおり買い物を済ませると、そのままヨーカドーの中にあった小さなレストランに入り、その日の夕食をそこでとる——いつのまにか、それが我が家の習慣になっていました。
その小さなレストランで、私と妹が頼むものは、いつも決まっていました。おまけのおもちゃが付いてくる「お子様ランチ」です。ケチャップで味つけしたごはんが、こんもりとお山の形に盛られ、そのてっぺんには、小さな旗が一本、ちょこんと刺さっている。あの旗と、おまけのおもちゃ欲しさに、私たちは毎月、迷うことなくそれを選んだものでした。そして母はというと、これもまた決まって、ラーメン。子どもの頃の私は、その組み合わせを、これっぽっちも不思議に思っていませんでした。けれど——いま振り返ると、母はきっと、自分のことよりも、私たち子どもに「外で食べる」という経験をさせてやりたかったのだと思うのです。子どもにはおもちゃの付いたお子様ランチを。自分は、一杯のラーメンを。その選択の奥にあった母の気持ちに気づいたのは、ずいぶん大人になってからのことでした。
外食は特別なもので、月に一度きり。そして、その席に、父の姿はありませんでした。
もう一つは、年に一度、家族全員がそろう外食です。毎年正月の2日、親戚の集まりに向かう途中で、決まって「元禄寿司」という回転寿司へ立ち寄りました。この日ばかりは、父も含めた家族四人がそろいます。目の前をぐるぐると回っていくお寿司を、自分の手で好きなだけ取って、お腹いっぱいになるまで食べる。子どもにとって、これほど心の躍る食事はありませんでした。店を出るとき、私はいつも心の中で、そっとつぶやいたものです。「——また来年だね」と。たった年に一度。それでも、いや、年に一度だからこそ、あの回転寿司は今も、本当に楽しい思い出として、私の中に残り続けています。

初めてのファミレス
そんな私が、生まれて初めて本物のファミリーレストランに足を踏み入れたのは、中学1年生のとき。昭和57年のことでした。
しかも、親と一緒ではありません。同級生だけ、数名で行ったのです。子どもだけでファミレスに入る——それだけで、なんだか少し大人になったような、くすぐったい気分でした。場所は、国道6号線沿い、亀有警察署の向かいにあったデニーズ。何を注文したのかは、正直、もう覚えていません。たぶん、ホットケーキのセットあたりだったと思います。
でも、一つだけ、はっきりと覚えている衝撃があります。それは——コーヒーが、何杯でもおかわりできたこと。「えっ、何杯飲んでもいいの!?」「これ、めっちゃお得だー!」。中学生の私たちは、その事実に本気で興奮し、結局、コーヒーを何杯もおかわりしながら、数時間もねばっていました(笑)。
思えばファミリーレストランは、私たちの世代の青春時代に、欠くことのできない存在でした。友人に悩みを聞いてもらったとき。彼女とのデートで食事をするとき。五、六人で何かの打ち合わせをするとき。——気づけばいつも、決まってファミレスにいたのです。あのボックス席で、何杯目かのコーヒーを前に、私たちは笑い、悩み、少しずつ大人になっていきました。
ガストになった星
時は流れて、令和のいま。
あの「すかいらーく」という看板は、実はもう、街から消えています。バブル崩壊後、より手頃な価格帯の「ガスト」へと衣替えが進み、2009年には「すかいらーく」という名前のお店そのものがなくなりました。そして2024年1月、あの記念すべき1号店——長らく「ガスト国立店」として営業していた、府中の甲州街道沿いのあの場所も、半世紀を超える歴史に静かに幕を下ろしました。
けれど、星が消えたわけではありません。ガスト、ジョナサン、バーミヤン、夢庵、しゃぶ葉——いま日本中にあるこれらのお店は、みなあの日のヒバリの子孫たちです。グループ全体では、3000を超える店舗が今日も灯りをともしています。

ただ、その姿はずいぶん変わりました。注文はテーブルのタッチパネルで。料理を運んでくるのは、猫の顔をした配膳ロボット。ドリンクバーでジュースをおかわりし放題。私が子どもの頃、あれほど特別だった「外で食べる」という行為は、いつのまにか、ごく当たり前の日常になりました。
便利で、安くて、いつでも入れる。それはきっと、幸せなことなのでしょう。でも——三角屋根を見上げてドキドキしたあの気持ちを、今の子どもたちは味わえるのだろうか。ときどき、そんなことを考えてしまう私がいます。
そういえば——あの店の名前は、ヒバリでした。七夕の夜に見上げた星の光に、どこか似た響きの名前です。半世紀前のあの日、府中の甲州街道に舞い降りた一羽のヒバリは、日本の家族に、ちょっとした特別な時間を配って回りました。私にとってのそれは、月に一度のヨーカドー。年に一度の回転寿司。そして、中学生になって初めて自分の足で踏み入れた、あのデニーズの、何杯ものコーヒー——。どれも、決して豪華ではないけれど、いまも胸の奥でぽっと灯り続けている、大切な星たちです。
あなたにとっての「初めてのファミレス」は、どこの、何でしたか。あの一皿の記憶を、よかったらコメントで聞かせてください。
すかいらーくの誕生から、外食元年、そして令和の配膳ロボットまで。私たちが「外で食べる」ことに込めてきた憧れと変化を、まるごと一冊にたどった本があります。あの三角屋根にドキドキした世代には、ページの一つひとつが「あの頃」と地続きに感じられるはずです。
このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。
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