6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった

六月十三日。カレンダーの記念日欄には「FMの日」とあります。アルファベットでFが六番目、Mが十三番目だから、という語呂合わせです。そして昭和五十七年(一九八二年)のこの日、スペインでサッカーのワールドカップが開幕しました。 ちなみにこの日は、昭和六十二年(一九八七年)に広島の衣笠祥雄選手がルー・ゲーリッグの連続試合出場世界記録を塗り替えた日でもあります。ただ、鉄人の話は六月七日の記事でたっぷり書いたばかりなので、きょうは別の話を。 実は今回の二つ──FMもスペイン大会も、正直に白状すると、当時の私の記憶にはほとんど残っていません。けれど「覚えていない」ことにも、それなりの理由がありました。きょうは、その理由のほうの話です。 世界が沸き始めた日、野球少年は素振りをしていた 昭和五十七年六月十三日、スペイン・バルセロナのカンプノウ・スタジアム。九万人を超える大観衆の前で、前回王者アルゼンチンとベルギーの開幕戦が行われました。アルゼンチンの十番をつけていたのが、当時二十一歳のディエゴ・マラドーナ。これが彼のワールドカップ・デビュー戦でした(試合はベルギーが一対〇で勝っています)。大会はその後、パオロ・ロッシを擁するイタリアが優勝。いまもサッカー史に残る名大会として語り継がれています。 で、そのとき十三歳、中学一年生だった私はといえば──何も覚えていません。本当に、何ひとつ。 もっとも、これは私だけのことではなかったと思います。昭和五十七年の日本にとって、ワールドカップはまだ遠い遠い大会でした。日本代表は一度も本大会に出場したことがなく、Jリーグもまだ影も形もない時代。テレビでサッカーといえば、正月の高校サッカーくらいのもので、海の向こうの大会を生中継で追いかけるという習慣そのものが、お茶の間にはほとんどなかったのです。 そして当時の私は野球部に入ったばかりの、根っからの野球小僧でした。『キャプテン翼』の連載が少年ジャンプで始まったのは前年の昭和五十六年。けれど翼くんが私の心に飛び込んでくるのは、もう少し先の話です。つまりこの開幕の日の私は、まだ「キャプテン翼以前」。マラドーナという名前すら、知らなかったはずです。世界中がスペインの熱狂に沸いていたその夜も、私はたぶん、いつもどおり素振りをして、巨人戦を見て、眠っていたのだと思います。サッカーのワールドカップは、昭和五十七年の野球少年の暮らしの、ずっと外側にありました。 四年後の早朝、マラドーナに釘付けになった ところが、です。四年後の昭和六十一年(一九八六年)、メキシコ大会。十七歳の高校二年生になっていた私は、早朝のテレビ放映を夢中で見ていました。 メキシコと日本の時差は十五時間。向こうの昼の試合は、日本ではちょうど夜明け前から早朝の時間帯にあたります。つまりワールドカップを見るということは、いつもよりずっと早く起きるということでした。野球少年だった私を、早起きしてまでテレビの前に座らせる「サッカーの大会」。四年前には考えられなかったことです。 きっかけは、もちろん翼くんです。中学時代にこっそりはまった『キャプテン翼』が、野球少年の中に「サッカーを見る目」を作ってくれていた。そして画面の中には、漫画よりも漫画みたいな選手が、本当にいたのです。 マラドーナ。決して大きくはない体で、次々とドリブルで相手選手を抜き去っていく、あの力強いプレー。ボールが足に吸い付いたまま、屈強なディフェンダーが何人がかりで止めにきても、倒れない、止まらない。準々決勝のイングランド戦では、のちに「神の手」と呼ばれるあの一撃と、五人抜きの「世紀のゴール」を、わずか数分のあいだに両方やってのけました。手で押し込んだゴールですら「ゴール」と言わせてしまう。理屈ではありません。あの小さな背中には、それを許させてしまうだけの、圧倒的な存在感があったのです。 スペイン大会を素通りした少年は、四年かけて、ようやくワールドカップに追いついた──いや、翼くんとマラドーナに、追いつかされたのでした。 FMは「お兄さんのもの」、私の相棒は携帯ラジオ さて、もうひとつの「FMの日」。これも白状すると、当時の私はFM放送をあまり聞いた記憶がありません。FMといえば音楽番組。本屋には「FMレコパル」や「週刊FM」といったFM情報誌が並び、二週間分の番組表を蛍光ペンでチェックして、お目当ての曲が流れる時間にカセットテープの録音ボタンに指をかけて待つ──そんな「エアチェック」に励むのは、もう少し年上の、ちょっとお兄さんたちの世界。レコードを買うお金のない時代に、FMとカセットは音楽好きの強い味方だったわけですが、小学生の私には、まだずいぶんと背伸びの領域に感じられていました。 そのかわり、ラジオそのものとは、ずっと早くから深い付き合いがありました。 小学三年生のころ。すでに立派な野球小僧だった私は、プロ野球の巨人戦をテレビで欠かさず見ていました。ところが、テレビ中継には終わりがあります。たいてい二十一時前ごろ、試合の決着がつこうがつくまいが、中継はぷつりと終わってしまう。九回裏、一打逆転の場面でも、お構いなしに、です。あの「続きが見られない」悔しさは、昭和の野球少年なら誰もが知っていると思います。 でも、ラジオなら最後まで聞ける。テレビが「ここまで」と打ち切ったその先を、ラジオの実況はちゃんと最後のアウトまで届けてくれるのです。当時のAMラジオは夜の看板がナイター中継で、各局が看板アナウンサーと解説者をそろえて、延長になろうが何だろうが、試合が終わるまで付き合ってくれました。テレビに置いていかれた野球少年にとって、これほど頼もしい存在はありません。 それを知った私は、誕生日のプレゼントに携帯ラジオを選び、買ってもらいました。年に一度の誕生日プレゼントです。おもちゃでも、野球の道具でもなく、ラジオ。小学三年生の選択としてはずいぶん渋い気もしますが、当時の私にとっては「巨人戦の続きが聞ける魔法の箱」だったのですから、迷いはなかったのだと思います。 それからの習慣は決まっています。テレビ中継が終わると、携帯ラジオのチャンネルを野球中継に合わせ、枕元に置いて、布団に入る。画面はないけれど、アナウンサーの声と球場のざわめきだけで、場面はいくらでも目に浮かびました。実況が早口になれば走者が走り、歓声がわっと膨らめば白球が外野の頭上を越えていく。むしろ目をつぶっているぶん、想像のグラウンドはテレビより広かったかもしれません。 スペイン大会が開幕した昭和五十七年の夜も、きっと私の枕元では、ナイター中継が小さく流れていたはずです。世界の熱狂は、まだ私の布団までは届いていなかったけれど、私には私の、夜の続きがあったのです。 手のひらサイズのラジオは、令和のいまも現役です。あの頃の相棒のような一台は、枕元のナイター中継はもちろん、いざというときの防災ラジオとしても、ひとつ持っておくと心強いものです。 ソニー ポケットラジオ ICF-P27(FM/AM/ワイドFM)手のひらサイズの定番。枕元のナイターにも、防災の備えにも Amazonで見る › 令和の今、枕元にはスマホがあるけれど あれから四十四年。いままさに、北中米でワールドカップが開幕したばかりです。スペイン大会を素通りしたあの野球少年が、いまは開幕戦の日程を指折り数えて待つようになったのですから、人生はわからないものです。つい先日は、地元の四つ木・立石に点在する『キャプテン翼』の銅像九体を、ランニングで巡ってきた話も書きました。十三歳の私に教えてあげたら、きっと信じないでしょう。 観る環境も、すっかり変わりました。スマホひとつで試合が見られて、見逃した試合は翌朝に配信で追いかけられる。ラジオもradikoで、全国の放送局が手のひらに収まる時代になりました。野球中継が「二十一時前に終わってしまう」悔しさを、いまの子どもたちは知らないでしょう。続きが気になるなら、指先ひとつで続きが手に入るのですから。 それでも、ふと思うのです。枕元の小さなラジオに耳を澄ませて、音だけで満員の球場を思い描いた、あの夜の豊かさのことを。見えないからこそ見えたものが、確かにあった気がします。情報がいくらでも手に入る時代になったからこそ、あの「音だけの夜」が、妙に贅沢なものだったように思えてくるのです。 みなさんには、「枕元のラジオ」の思い出はありますか。そして、初めて夢中になったワールドカップは、どの大会でしたか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日 | 次の記事:6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入 ▶

June 13, 2026

ドライブシュートだぁぁぁ ― ワールドカップ前夜に、四つ木と『キャプテン翼』を思う

明日、ワールドカップが開幕する 明日、二〇二六年六月十一日。北中米の三か国――アメリカ、カナダ、メキシコを舞台に、ワールドカップが開幕する。三つの国にまたがって行われるのは大会史上はじめてのことで、出場国はこれまでで最多の四十八か国にまでふくらんだ。開幕戦の地は、メキシコシティ。あの伝説的なスタジアム、エスタディオ・アステカに、世界中の目が集まる。 そして、私たちの日本代表も、当然のようにそこにいる。八大会連続、八度目の出場である。グループステージの初戦も、開幕からほんの数日後に控えている。眠い目をこすりながら、夜中や明け方にテレビの前に陣取る――そんな夏が、また始まろうとしている。 ――「当然のように」と書いて、ふと手が止まった。本当に、当然なのだろうか。少なくとも私が少年だったころの日本にとって、ワールドカップという舞台は、月の裏側のように遠い、手のとどかない場所だった。テレビの中の、よその国のお祭りだった。それが今では、出ていることに誰も驚かない。この四十年あまりで、私たちはずいぶん遠くまで来たものだと思う。 野球少年が、ボールを持ち出した日 時間を、その四十年あまり巻き戻したい。 一九八三年(昭和五十八年)十月十三日。木曜日の夜、テレビ東京系で一本のアニメがはじまった。『キャプテン翼』である。原作はその二年前から週刊少年ジャンプで連載がはじまっていたが、動いて、しゃべって、必殺シュートを放つ翼くんたちを茶の間で見たときの衝撃は、今もはっきりと覚えている。汗くさい根性ものとはまるで違う、明るくて、爽やかで、空までボールが飛んでいきそうな世界だった。 そのとき私は十四歳、中学二年生。野球一筋の、バリバリの野球少年だった。バットを振り、白球を追うことしか頭になかった少年が、たった一本のアニメに足もとをすくわれた。サッカーである。野球少年でありながら、私はすっかりサッカーに夢中になってしまった。 思えば、あの作品にはずるいくらいの魅力があった。重力を無視したようなドライブシュート、二人で放つツインシュート、そして地を這うようなタイガーショット。スポーツの「正しさ」よりも、少年の「こうだったらいいのに」を真ん中に置いた世界。野球で鍛えた負けん気が、そっくりそのままサッカーへ流れ込んでいくのに、時間はかからなかった。 困ったのは、サッカーボールなど持っていなかったことだ。そこで私は、部活が終わったあと、こっそりと学校のサッカーボールを持ち出した。そして帰り道の途中にある空き地で、野球のユニフォーム姿のまま、ボールを蹴った。胸には野球部の誇り、足もとには翼くんへの憧れ。今思えば、なんともちぐはぐな格好だったろう。 それでも、私は本気だった。あるときは大空翼になり、あるときは岬太郎になり、あるときはライバルの日向小次郎になりきった。「ドライブシュートだぁぁぁ……!」と叫びながらボールを蹴り上げ、「タイガーショット!!」と、一人で実況までつけた。極めつけは帽子だ。野球少年のくせに、私はゴールキーパー・若林源三と同じアディダスの帽子をかぶっていた。野球帽ではなく、である。あのころの私の頭の中では、グラウンドとサッカー場の境目が、もう溶けてなくなっていたのだと思う。 そしてこれは、私だけのことではなかったはずだ。あの放送がはじまってから、全国の公園や空き地は、ボールを追う少年たちであふれかえった。それまで野球少年ばかりだった日本の原っぱの景色を、一本のアニメが塗り替えてしまったのだ。今の日本サッカーの土台には、あのとき足もとを変えられた、数えきれない少年たちがいる。私も、その末席に、確かにいた。 翼くんは、葛飾の子だった 大人になってから知って、思わず膝を打ったことがある。『キャプテン翼』の作者・高橋陽一先生が、私の暮らす葛飾区の、それも四つ木の出身だということだ。 作中で翼くんが所属するチーム「南葛」。この名前は、高橋先生の母校である東京都立南葛飾高校の略称からきているという。物語の舞台そのものはサッカー王国・静岡をイメージしているそうだが、その名前のルーツは、まぎれもなく、私たちの葛飾にあったのだ。テレビの向こうのまぶしい世界が、実はすぐ隣町とつながっていた。そう知ったときの、くすぐったいような誇らしさは、今でもうまく言葉にできない。 その縁もあって、今の四つ木界隈は、すっかり「キャプテン翼の街」になっている。京成電鉄の四ツ木駅は翼くんたちの名場面で彩られ、駅を出れば、高橋先生監修のキャラクター銅像が、四つ木・立石の各所に九体も点在している。最初の大空翼像が四つ木つばさ公園にお披露目されたのが二〇一三年。地元には作中と同じ名を冠したサッカークラブ「南葛SC」も生まれ、毎年一月には「キャプテン翼CUPかつしか」という大会まで開かれている。漫画の中の南葛が、現実の葛飾の街へと、ゆっくり染み出してきたようなものである。 九体の銅像を、走って巡った そして今日、二〇二六年六月十日。ワールドカップ開幕の前日に、私は仕事の休憩時間を使って、九体すべてをランニングで巡ってきた。名づけて「キャプテン翼銅像コンプリートラン」。総距離は、およそ七キロである。 出発は、翼くんたちの装飾でいろどられた京成・四ツ木駅。駅前のポケットパークに立つ石崎了から走り出し―― 四つ木公園の日向小次郎、 四つ木つばさ公園の大空翼、 めだかの小道のロベルト本郷と翼――このあたりは住宅街で信号も少なく、足が気持ちよく前へ出た。 葛飾郵便局前の中沢早苗、 渋江公園の岬太郎を過ぎると、道はいよいよ立石エリアへ。 下町の商店街の匂いの中を進み、立石みちひろばで若林源三と再会したときには、思わず足が止まった。中学のころ、野球少年のくせに、わざわざ同じアディダスの帽子をかぶっていた、あの守護神である。 そして奥戸街道を東へ。最後にたどり着いたゴールは、南葛飾高校の前に立つ、ツインシュートの翼像だった。 走り終えて、はっとした。出発点は翼くんの装飾に包まれた駅、そして終着点は、「南葛」という名前そのものが生まれた高校の前。私はこの七キロで、知らず知らずのうちに、物語の名前の故郷まで走り着いていたことになる。よくできた円環だと、一人で妙に感心してしまった。 走りながら、おかしくなって、つい笑ってしまった。四十年あまり前、放課後の空き地まで、こっそり持ち出したサッカーボールを抱えて走っていったあの少年が、今は仕事の合間に、同じ葛飾の路地を、銅像を追いかけて走っている。格好こそ違え、やっていることはちっとも変わっていない。翼くんに会いに行くためなら、私はいつだって走り出してしまうらしい。 あの空き地で、私が一人何役もこなして「なりきって」いた翼も、岬も、小次郎も若林も、今は確かなかたちを与えられて、私の暮らす町に立っている。憧れて真似していたヒーローたちの足もとに、五十代も半ばを過ぎた私が、息を切らせて立つ。なんだか、長い夢の続きの中を走っているような心地だった。 その『キャプテン翼』も、二〇二五年の春、四十三年にわたる長い連載に幕を下ろした。私が中学二年で出会った翼くんは、私が還暦を前にするまで、ずっとどこかで走り続けていたことになる。今日、銅像となって動かない翼くんの前に立っても、不思議と「終わった」という感じはしなかった。むしろ、ここから先はきみたちを見てきた私たちが走る番だ、とでも言われているような気がした。 「ワールドカップ」という、かつての夢のゴール 最初の翼像の除幕式で、高橋先生はこんなことを語っていたという。この作品のゴールは、大空翼がワールドカップの舞台に立ち、そこで活躍することだ、と。 このひとことに、私はしばらく胸を掴まれた。 考えてみてほしい。翼くんがテレビの中を駆け回っていたあのころ、現実の日本代表は、ワールドカップに一度も出たことがなかった。ワールドカップで活躍することなど、漫画の中だけの、それこそ翼くんの夢物語だったのだ。空き地でドライブシュートを蹴っていた野球少年の私も、まさか自分が生きているうちに、日の丸を背負った選手たちが本当にあの舞台に立つ日が来るとは、想像もしていなかった。 それが、どうだろう。今や日本代表は八大会連続の出場を果たし、選手たちは「ワールドカップ優勝が目標」と、ためらいなく口にする。そして私たち国民も、「もしかしたら」と、本気で期待してしまう時代になった。翼くんがひたむきに追いかけた夢のゴールに、現実のほうがいつのまにか追いつき、いまや肩を並べ、追い越そうとさえしている。漫画が現実の先を走り、現実が必死にそれを追いかけ、そしてとうとう手が届いた。これは、本当に、すごいことだ。 明日、開幕の笛が鳴る。テレビの前に座るとき、私はきっと、今日めぐった九体の銅像を――そしてその向こうに、あの空き地で、野球のユニフォームのままボールを蹴っていた十四歳の自分を思い出すだろう。「ドライブシュートだぁぁぁ……!」と、誰もいない原っぱで叫んでいた、あの少年を。あの少年に、教えてやりたい。きみが夢中で真似していたあの夢物語は、いつか本物になるんだよ、と。そして四十年あまり経っても、きみはやっぱり、翼くんを追いかけて走っているよ、と。 あなたには、サッカーにまつわる「あのころの夢」が、ありますか。 【コースガイド】キャプテン翼銅像コンプリートラン(約7km) 最後に、今日走ったコースを記しておきます。葛飾の下町を巡りながら、翼くんたちに会える約7キロ。走ってみたい方は、ぜひ。 スタート:京成四ツ木駅(駅前のラッピング・翼の装飾を見てから出発) ① 石崎了像 ― 四ツ木駅前ポケットパーク(駅から徒歩1分) ② 日向小次郎像 ― 四つ木公園(平和橋通りを北へ/約300m) ③ 大空翼像 ― 四つ木つばさ公園(北東方向へ/約450m) ④ ロベルト本郷&翼像 ― めだかの小道(木根川中央公園方向へ/約500m) ⑤ 中沢早苗像 ― 葛飾郵便局前(約350m) ⑥ 岬太郎像 ― 渋江公園(平和橋通り方向へ/約900m) ⑦ 翼〈ヒールリフト〉像 ― 立石一丁目児童遊園(約800m) ⑧ 若林源三像 ― 立石みちひろば(京成立石駅方面へ/約900m) ⑨ 翼〈ツインシュート〉像 ― 南葛飾高校前(奥戸街道を東へ/約1.3km) ゴール! ...

June 10, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日

6月2日。梅雨入りを前にした空は、晴れたり曇ったりと、どっちつかずの顔をしている。蒸し暑い昼のあと、夜になって雲が切れると、まだ低いところに月が出ていたりする。今日は、その月の話から始めたい。 私が生まれる三年前、月にそっと降りた機械があった 正直に書くと、私はこの日付をつい最近まで知らなかった。 私にとって「人類と月」といえば、まずアポロ11号だ。ニール・アームストロングが月面に足跡を残し、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と語った、あの夏。昭和44年(1969年)の7月のことだ。 ところが、その昭和44年というのは、私が生まれた年でもある。私が生まれたのは4月だから、人類が初めて月に立ったとき、私はまだ生まれて三か月ほどの赤ん坊だった。当然、何ひとつ覚えていない。母に抱かれて、月のことなどつゆ知らず、すやすや眠っていたのだろう。 つまり、私の世代にとって月とは、物心ついたときには「もう人間が行ったことのある場所」だった。教科書にもテレビにも、月は当たり前のように「行ける星」として出てきた。月へ行くというのが、どれほど途方もない挑戦だったのか、私たちはほとんど実感しないまま大きくなった。 そんな私たちの「当たり前」を、こっそり用意してくれていたのが、今日6月2日の出来事だ。 昭和41年(1966年)6月2日。アメリカの無人月探査機「サーベイヤー1号」が、月面にそっと軟着陸した。アメリカにとって、初めての月軟着陸だった。 それまでの探査機は、月にぶつかる寸前まで写真を撮りながら、最後は文字どおり月面に激突して終わっていた。「届く」ことと「降りる」ことは、まったく別の難しさだったのだ。空気のない月では、パラシュートは使えない。だから逆噴射のロケットだけを頼りに、落ちていく速度を、ぎりぎりまで自力で殺さなければならない。 サーベイヤー1号は、それをやってのけた。エンジンを噴かしてゆっくりと速度を落とし、四本の脚で、静かに月面に立った。そして、何ごともなかったかのように、1万枚を超える月面の写真を地球に送り続けた。砂利のような地面。小さなクレーター。地球からは決して見えなかった、足もとの月の素顔。 月面に静かに立つサーベイヤー1号。NASAの月周回探査機「ルナー・リコネサンス・オービター」が撮影。昭和41年6月2日、この機械が月に降りたことで、アポロへの道が開かれた。(Photo: NASA / パブリックドメイン) これは、来たるべきアポロ計画──人間を月に着陸させる計画──のための、いわば下見であり、リハーサルだった。人を乗せて降ろす前に、まず機械だけで「本当にちゃんと降りられるのか」「月の地面はやわらかすぎて沈んでしまわないか」を確かめておく。その地味で慎重な一歩が、今日という日だったわけだ。 派手なアポロ11号の陰に隠れて、私はこの「先に降りた機械」のことをずっと知らずにいた。けれど、考えてみればこのサーベイヤーがいなければ、私が赤ん坊だったあの夏の偉業もなかった。私たちの「月は行ける場所」という当たり前は、この日、誰にも気づかれないくらい静かに始まっていたのだ。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 私が宇宙を意識するようになったきっかけは、はっきりしている。父だ。 物心ついてから何度も、父は私にこう言った。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 何度も、何度も聞いた。テレビで月が映るたび、夜空に月が出ているのを見つけるたび、父はまるで自分のことのように、誇らしげにそう言うのだった。その「すごいよなぁ」には、嘘やお世辞のない、心からの感嘆がこもっていた。 子どもだった私は、父がそこまで言うのだから、よほどすごいことなのだろう、と素直に思った。今思えば、父は私が生まれたまさにその年に人類が月へ行くのを、大人として、リアルタイムで目撃した世代なのだ。あの興奮を、息子にも分けてやりたかったのだろう。父にとって月は「行ける場所」になったばかりの、まだ熱を持った夢だったのだ。 そうして父から受け取った「宇宙ってすごい」という気持ちは、私の中でどんどん育っていった。 スペースシャトルが、筆箱の上を飛んでいた 小学生になると、私たちの宇宙の主役は、アポロからスペースシャトルへと変わっていた。 ロケットは打ち上げると使い捨て。それが当たり前だった時代に、スペースシャトルは「翼を持ち、宇宙から滑空して帰ってきて、また飛ぶ」という、まるでSFそのものの乗り物だった。打ち上げのときはロケットなのに、帰りは飛行機のように滑走路に降りてくる。あの白い機体が大気圏に突入してくる映像を、私は固唾をのんで見ていた。 そして気がつけば、スペースシャトルは、私たちの身のまわりのありとあらゆる文房具の上を飛んでいた。筆箱にスペースシャトル。下敷きにスペースシャトル。ノートの表紙にも、消しゴムのケースにも、スペースシャトル。あの精悍な白い翼が、青い地球を背景にプリントされていた。 スペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げ(1983年4月)。あの白い翼と噴煙が、昭和の子どもたちの筆箱や下敷きの上を飛んでいた。(Photo: U.S. Department of Defense / パブリックドメイン) もちろん、テレビの中の宇宙も負けてはいなかった。「宇宙戦艦ヤマト」で地球を救うために十四万八千光年の旅に出て、「銀河鉄道999」で汽車に乗って星々を渡り、「キャプテンハーロック」の黒い髑髏の旗に胸を熱くした。私はもう、すっかり夢中だった。 夜、近所の空き地から見上げる月は、ただの白い丸ではなかった。「あそこに人が行ったんだ」「あそこに、足跡があるんだ」と思いながら見上げる月だった。父の「すごいよなぁ」と、筆箱のスペースシャトルと、テレビのヤマトとが、すべて一本につながって、私の頭の上の夜空に広がっていた。 そして令和、宇宙はとうとう「商売」になった 時は流れて、令和8年(2026年)。 宇宙の主役は、いまやイーロン・マスク氏が率いる民間企業「スペースX(SpaceX)」だ。国家がしのぎを削っていた宇宙開発を、一企業が引っ張る時代が来た。これだけでも、昭和の子どもだった私には、十分に未来の話である。 マスク氏が掲げる究極の目標は途方もない。「人類を多惑星種族にする」──つまり、地球に大災害が起きても人類が絶滅しないように、火星に自立した都市を作る、という構想だ。百人以上を一度に運べる超大型宇宙船「スターシップ」を完成させ、やがて数十万人から百万人規模の火星都市を目指す。 野球にたとえるなら、こうなるだろうか。使い捨てないロケット「ファルコン9」は地区大会の優勝。衛星網「スターリンク」で甲子園出場決定。火星に着陸できたら、いよいよ全国制覇。そして火星に都市を建設するというのは──プロリーグをまるごと一つ新設するようなものだ。それくらい、一段ごとの難しさが桁違いなのである。 すべては、あの慎重な一歩の延長線上に こんな時代が来るなんて、昭和の子どもだった私には、想像もつかなかった。 筆箱の上を飛んでいたスペースシャトルが、まさか民間企業のロケットに主役を譲る時代が来るとは。ヤマトやハーロックが旅した宇宙の、その手前の火星に、人が町を作ろうとしているとは。 けれど、忘れてはいけない。それもこれも、すべては今日6月2日の、あの「サーベイヤー1号 月面軟着陸」からの、まっすぐな延長線上にあるのだ。 逆噴射でそろりそろりと速度を落とし、四本の脚で静かに月へ降りた、あの小さな機械。誰にも気づかれないほど慎重だったあの一歩がなければ、アポロの足跡も、父の「すごいよなぁ」も、私の筆箱のスペースシャトルも、そしてマスク氏の火星都市の夢も、何ひとつ始まらなかった。 夢というのは、いきなり大きく見えるものではない。たいていは、誰かがそっと脚を伸ばした、地味で慎重な一歩から始まっている。六十年かけて、その一歩は火星にまで届こうとしている。 今夜、もし雲が切れて月が見えたら、ぜひ一度、見上げてみてほしい。あの白い丸の上には、六十年前の小さな機械が、今もまだ静かに立っている。父が「すごいよなぁ」と言った、あの月だ。 あなたの宇宙への入り口は、いったい誰の、どんな一言でしたか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代 | 次の記事:「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日) ▶

June 2, 2026