6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う

六月の半ば、梅雨の重たい空をながめながら、ふと握り飯のことを考えました。きょう六月十八日は「おにぎりの日」。なんとも素朴で、いい響きの記念日です。 由来を調べてみると、これがなかなか面白いのです。石川県の旧鹿西(ろくせい)町——いまの中能登町——の「ろく」をとって、六月。そして毎月十八日は「米食の日」。「米」という字をばらすと「十」と「八」になるから、十八日。その二つを掛け合わせて、六月十八日。語呂合わせのようでいて、ちゃんと米への敬意がこもった日付なのですね。 そしてこの記念日には、もう一つ、はるかな裏付けがあります。後でゆっくり書きますが、昭和の終わりに、この町から「日本でいちばん古いおにぎり」が出てきたのです。 梅雨どきの、お弁当の記憶 おにぎりと聞いて、私の胸にまず浮かぶのは、歴史でも記念日でもありません。母の手です。 学童野球、中学野球、高校野球と、私はずっと白球を追いかけてきました。だから母が握ってくれたおにぎりは、ごく当たり前に、いつもそこにある存在でした。 具には、ずいぶんわがままなリクエストをしたものです。鮭はもちろん定番。けれど私のいちばんのお気に入りは、なんと焼肉を入れてもらったおにぎりでした。玉子焼き、ウインナーソーセージなんてのも頼みました。母は「そんなの入れて、大丈夫なの?」と苦笑いしながら、それでも握ってくれたのです。 そうそう、白状すると——あの頃は素手でおにぎりを握るのが普通でした。いまの衛生観念からすれば、素手はちょっと考えられないかもしれませんね(笑)。だからでしょうか、母のおにぎりは平気なのに、父が握ったおにぎりは、なんとなく敬遠していました。ごめん、父さん(笑)。 あの頃、おにぎりはごちそうではありませんでした。けれど、ただの白い飯でもなかった。きちんと手のひらで握られて、塩がきいて、海苔が巻かれている。それだけで、あれは「だれかが私のために用意してくれたもの」になっていたのだと思います。冷めても食べられて、こぼさず手で持てて、しかも腹にたまる。子どもにとって、これほど頼もしい食べ物もありませんでした。 野球に明け暮れた中学・高校のころにも、おにぎりはいつもかたわらにありました。 とりわけ高校のころは、朝、お弁当とは別に、おにぎりを四個ほど用意してもらっていました。朝練のある日はとにかく腹が空くのです。昼まではとても我慢できない。それで、授業の合間にそのおにぎりを頬張っていました。いまでいう「早弁」ですね。育ちざかりに部活が重なれば、おにぎりの四個くらい、あっという間でした。 おにぎりは、千年を超えて握られてきた さて、ここからは少しだけ時間をさかのぼってみます。おにぎりという食べ物が、どれほど古くから私たちのそばにあったか。これがちょっと、気が遠くなる話なのです。 そもそも、米を握って食べるという習慣は、文字の記録にもずいぶん古くから残っています。奈良時代に各地で編まれた『風土記』には、握り飯を指すとされる「握飯(にぎりいい)」という言葉がすでに見えるのです。茶碗も箸もいらず、ただ手で握る。これほど原初的な食べ方が、千年以上ものあいだ受け継がれてきたのですね。 いまのおにぎりの直接の祖先とされるのは、平安時代の「屯食(とんじき)」という食べ物です。蒸したもち米を、大きな楕円形に握り固めたもので、一合半ほどもあったといいます。宮中や貴族の屋敷で催しがあったとき、立ち働く人々に「ご苦労さま」と配られた——そんな食べ物だったと伝えられています。千年も前から、人は米を握って、誰かに手渡していたわけです。 握り飯が、もち米からいまのうるち米に替わっていくのは、鎌倉時代の末ごろ。やがて戦国の世になると、おにぎりは武士の兵糧として欠かせないものになりました。中に梅干しを入れたのは、味のためだけでなく、傷みを防ぐ知恵でもあったのでしょう。腰にぶら下げて戦場を駆ける、携帯食としてのおにぎり。皿もいらず、手も汚さず、握ればそのまま食べられる。戦に勝つも負けるも、まずは腹が満ちていなければ始まりません。握り飯は、いわば戦国の兵士たちの命綱でもあったのです。考えてみれば、ずいぶん完成された発明です。 そして江戸時代。米が安定して採れるようになると、おにぎりはようやく庶民のものになりました。畑仕事の合間に、旅の途中に、行楽の弁当に。さらに明治に入ると、握り飯は駅にも進出します。明治十八年(一八八五年)、栃木県の宇都宮駅で売り出されたとされる日本で最初の駅弁は、梅干し入りのおにぎり二つにたくあんを添え、竹の皮で包んだだけの、実に簡素なものだったそうです。汽車に揺られながら、竹の皮を開いておにぎりを頬張る。その情景を想像すると、なんだか旅に出たくなります。 海苔を巻く、という発明 いまでこそ、おにぎりといえば黒い海苔が当たり前ですが、あれが広まったのは案外あとのことです。 四角い板状の海苔——いわゆる「浅草海苔」が江戸の市場に出回るようになったのは、元禄のころ。十七世紀の終わりです。一説には、これをきっかけに海苔を巻いたおにぎりが生まれたといわれています。もっとも、幕末に書かれた『守貞謾稿(もりさだまんこう)』という書物には海苔を巻くという記述が見当たらず、じつのところ諸説あるようです。それでも、パリッとした海苔と握りたての飯が出会ったことが、おにぎりをもう一段おいしくしたのは間違いありません。 ついでに、長年の素朴な疑問にも触れておきましょう。「おにぎり」と「おむすび」は違うのか。これも諸説ありますが、結局のところ同じものを指す、というのが今の共通の理解だそうです。形による呼び分け説、地域による違い説——いろいろ言われますが、要は呼び方の好みなのですね。三角の形が主流なのは、神さまの宿る山をかたどったから、という説まであるそうで、たかが握り飯と侮れません。そういえば「むすび」という言葉じたい、ものを生み出す力をあらわす古い言葉「産霊(むすひ)」に通じる、という話も聞いたことがあります。真偽はともかく、昔の人は握り飯に、ただの腹ごしらえ以上の何かを感じていたのかもしれません。 ちなみに、家で握るおにぎりも、海苔ひとつで驚くほど変わります。有明海産の全型海苔は、香りもパリッと感も格別。握りたての飯に巻いた瞬間の、あのいい匂いは、安いだけの海苔ではなかなか出ません。我が家も、海苔だけは少しいいものを切らさないようにしています。 マルサンのり 有明海産 焼き海苔 全型50枚おにぎりにも手巻きにも。香りとパリッと感が違う有明海産 Amazonで見る › 弥生のおにぎりと、コンビニのおにぎり ここで、冒頭の「おにぎりの日」の由来に戻ります。 昭和六十二年(一九八七年)、石川県の旧鹿西町・杉谷チャノバタケ遺跡の竪穴式住居跡から、黒い炭のかたまりが見つかりました。調べてみると、それは弥生時代中期——およそ二千年前——の、蒸して焼いた跡のある米のかたまり。「チマキ状炭化米塊」と名づけられた、日本でいちばん古いおにぎりの仲間でした。私が十八歳の年のことです。二千年前の誰かが握った米のかたまりが、令和のいまも記念日として残っている。気の遠くなるような話ですが、それだけ握り飯という営みが古くて、変わらないということなのでしょう。 そして不思議なことに、その同じ昭和という時代に、おにぎりはまったく新しい姿でも私たちの前に現れました。コンビニのおにぎりです。昭和五十年代、セブン-イレブンが店先でおにぎりを売り始めると、やがて海苔とご飯を分けておき、食べる直前にパリッと巻ける包装の工夫まで生まれました。家で握るものだったおにぎりが、二十四時間いつでも買えるものになっていく。ツナマヨネーズという、それまでの常識になかった具が登場したのも昭和五十八年(一九八三年)のことだそうです。当時の私には、海苔がしんなりしない包装の仕掛けが、ちょっとした発明のように思えたものでした。 二千年前の弥生のおにぎりと、昭和の終わりのコンビニおにぎり。同じ六月十八日が、その両方を抱えている。これも、おにぎりという食べ物のふところの深さなのだと思います。 令和の食卓で いま、おにぎりは「ONIGIRI」と書かれて、海の向こうでも人気だと聞きます。専門店には行列ができ、外国から来た人が嬉しそうに頬張っている。あの素朴な握り飯が、世界の食べ物になっていく。昭和の子どもだった私には、なんともこそばゆい光景です。 それでいて、おにぎりはいちばん大事なところで、ちっとも変わっていません。大きな地震や災害があるたびに、炊き出しのおにぎりが配られる。冷たい握り飯を両手で受け取って、ほっと息をつく。あの「だれかが私のために握ってくれた」という手のぬくもりは、千年前の屯食からまっすぐ、今日まで続いているのですね。 そして、いま握る側になったのは、ほかでもない私自身です。父親になった私も、子どもたちのためにおにぎりを握ります。とくに週末は、それぞれが自分の野球に持っていくものですから、八個、十個と握ることになる。これがなかなかの重労働で——握りながら、ふと思うのです。あの朝、四個のおにぎりを当たり前のように用意してくれた母も、こうして黙々と手を動かしていたのだなと。「そんなの入れて大丈夫なの?」とこぼしながら焼肉を詰めてくれた、あの苦笑いの意味が、いまになって少しわかる気がするのです。 ついでに白状すると、私のような不器用な父親には、おにぎり型という強い味方があります。ご飯を詰めて、ギュッと押すだけ。形も大きさもそろうし、何より手が熱くない。週末に八個も十個も握るとなれば、これがあるだけで、ずいぶん楽になります。母の時代にこれがあったら、あの苦笑いも少しは減っていたかもしれません(笑)。 おにぎりメーカー 三角 押し型(6個同時)ご飯を詰めて押すだけ。大量に握る週末の強い味方 Amazonで見る › あなたにとっての「忘れられないおにぎり」は、どんな一個でしょうか。母の手の梅干しか、遠足の日の鮭か、それとも部活の帰りに買ったコンビニの一個か。よかったら、コメントで聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年(一九六五年)から昭和六十四年(一九八九年)までの出来事を、当時を生きた子どもの目線でひとつずつ綴っています。あなたの思い出も、ぜひ聞かせてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 18, 2026

6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏

六月十七日。梅雨の合間の、どんよりと重たい空を思い出します。昭和六十年(一九八五年)のこの日、一人の柔道家が現役引退を表明しました。山下泰裕さん。全日本選手権九連覇、ロサンゼルス五輪・無差別級の金メダリスト。そして、いまもって破られていない二〇三連勝という記録を抱えたままの、静かな引退でした。 でも、その話をする前に、どうしても先に書いておきたい夏があります。前の年、昭和五十九年(一九八四年)の夏。ロサンゼルス・オリンピックです。 受験勉強のはずが、テレビの前に座っていた 私にとってロス五輪は、物心がついて初めて、テレビ画面とはいえ自分の意思でしっかり「観て」「応援した」オリンピックでした。だからでしょうか、各競技での日本人選手の活躍は、いまでも驚くほどはっきりと記憶に残っています。 当時の私は中学三年生、十五歳。夏の大会を最後に野球部はもう引退していて、本来なら高校受験に向けて、机にかじりついていなければならない時期でした。ところが、です。連日のオリンピック中継が気になって気になって、どうにも勉強が手につかない。「いまは観ている場合じゃない」と頭では分かっているのに、参考書を開いては、つい音のするほうへ、テレビの前へと吸い寄せられてしまう。外では蝉が鳴いていて、母が台所で立ち働く音がして、そのなかで私だけが、教科書ではなく遠いロサンゼルスとつながっている。受験生としては、いささか困った夏でした。 このロス五輪というのは、日本にとって少し特別な大会でもありました。その四年前、昭和五十五年のモスクワ大会には、日本は政治的な事情で参加できなかった。出場すらかなわなかった選手たちの悔し涙を、子どもながらにニュースで見ていた記憶があります。だからこそ、八年ぶりに堂々と世界の舞台に戻ってきたロス五輪は、見る側の私たちにとっても、どこか「待ちわびていた夏」だったのです。受験を控えた中学三年生の私でさえ、こうして机を離れて引きずり込まれてしまうほどに。 ぴたりと止めた着地と、あの笑顔 なかでも忘れられないのが、体操の森末慎二さんです。種目別・鉄棒の決勝。最後の最後、二回宙返りで降りてきて、その着地をぴたりと止めた瞬間。そして、ゆっくりと、かみしめるように両手を上げていったときの、あの『笑顔』。子ども心にも、「完璧というのは、こういうことを言うんだ」と思いました。 あとで知ったのですが、森末さんはこの鉄棒で十点満点をマークしていたのですね。一切の減点がない、まさにパーフェクトの演技。それをリアルタイムで観ていたのだと思うと、いまさらながら鳥肌が立ちます。森末さんはこの大会、鉄棒で金、跳馬で銀、団体で銅と、一つの大会で金銀銅すべてを持ち帰りました。けれど私の中に焼きついているのは、メダルの色よりも、あの着地と、あの笑顔のほうなのです。 森末さんといえば、自分の名前がそのまま技の名前になっている、数少ない選手の一人でもあります。「モリスエ」と呼ばれるオリジナルの大技。世界のだれもやっていなかった動きを、自分の体で切りひらいて、自分の名を冠した技として残す。子どもだった私には、その意味の大きさまでは分かっていませんでしたが、「この人は、ただ上手なだけの人ではないんだ」ということだけは、なんとなく伝わってきていました。 あの夏、五輪の舞台に野球があった そして、野球です。 ロス五輪では、野球が公開競技として行われていました。正式競技ではないけれど、この大会から各国の代表チーム同士が本気でぶつかり合う形になった。野球小僧だった私には、これがたまらなくうれしかったのを覚えています。自分が毎日ボールを追いかけているその競技が、世界の頂点を決める同じ舞台に並んでいる。それだけで、なんだか誇らしいような気持ちになったものです。 日本代表は、大学生と社会人の選手で編成されたアマチュアチームでした。プロは一人もいない。それでも勝ち上がり、決勝では開催国アメリカを六対三で破って優勝。公開競技ながら、オリンピック初代の野球王者になったのです。プロのスターではない、自分と地続きのように見えるお兄さんたちが、世界の頂点に立った。あの夏、私の中で野球とオリンピックが、初めて一本の線でつながった気がしました。 いま思えば、あの夏の私は、ただ漫然とテレビを観ていたのではなかったのかもしれません。つい数か月前まで、来る日も来る日も土埃の舞うグラウンドで白球を追いかけ、思うようにいかずに悔し涙をのみ、それでも翌朝にはまたバットを握っていた。その日々の、地続きの延長線上に、画面の向こうの選手たちがいたのです。同じように汗をかき、同じように歯を食いしばってきた人たちが、世界のいちばん高いところで、笑ったり、足を引きずったりしている。だからこそ、どうしても人ごとには思えなかった。応援というより、ほとんど自分のことのように観ていた。それが、あの夏のオリンピックだったように思います。 「勝って当たり前」を背負った人 そして、山下泰裕さんです。 いまの若い人には少し想像しにくいかもしれませんが、当時の日本の柔道には「勝って当たり前」という独特の空気がありました。とりわけ山下さんのような絶対王者には、銀でも銅でもなく、金メダルしか許されない。そういう途方もないプレッシャーが、目に見えない重しのようにのしかかっていたはずなのです。 ロス五輪の無差別級。山下さんは二回戦で、右足のふくらはぎを痛めてしまいます。肉離れでした。足を引きずりながら畳に上がっていく王者の姿に、テレビの前の私は思わず息をのみました。あの強い山下さんが、まともに歩けていない。それでも山下さんは勝ち進み、決勝もきっちり制して、金メダルをもぎ取った。 あの瞬間、私はテレビ画面に向かって、歓喜の絶叫をあげていました。誰に聞かせるでもなく、一人で、本当に大きな声で叫んだのを覚えています。「勝って当たり前」を、怪我を負ってなお本当に勝ち切ってしまう人がいる。十五歳の私には、それが人間業とは思えない、途方もないことに見えました。 ただ、その本当の凄みを思い知ったのは、ずっと後年のことでした。大人になってから、私自身がふくらはぎを肉離れしたことがあります。そのとき、いやというほど分かったのです。肉離れというのは、満足に歩くことすらできない。一歩ごとに痛みが走って、足を引きずるのがやっと。スポーツをするなど、とんでもない話です。その状態で――しかも世界じゅうが見つめる五輪の決勝の舞台で――山下さんは相手を投げ、勝ち切ったのか、と。十五歳の夏にテレビの前で叫んだあの感動が、何十年もたって、今度は自分の足の痛みを通して、まったく違う重みでよみがえってきました。あのとき私が叫んでいたものの大きさを、本当の意味で理解できたのは、皮肉にも自分が同じ場所を痛めたときだったのです。 そして一年後、無敵のまま畳を降りた その山下さんが、翌・昭和六十年六月十七日――あの夏に勉強そっちのけでテレビにかじりついた私が、どうにか高校に進んで一年生になっていた、その年の初夏に――記者会見で引退を表明します。 全日本選手権は昭和五十二年から九連覇。世界選手権でも計四度、頂点に立ちました。そしてロス五輪の金メダル。引退から逆算して、その連勝記録は二〇三。負けないまま、誰にも倒されないまま、自分の意思で静かに畳を降りていったのです。前の年には国民栄誉賞も受けていました。アマチュアのスポーツ選手としては、初めての受賞だったと記憶しています。 「勝って当たり前」という重圧を、最後の最後まで背負い、そして実際に勝ち続けた人。その人が、傷を負ってもなお負けず、絶頂のまま身を引いていく。あの夏の絶叫とは、また違う種類の余韻が、私の胸の中に残りました。強い人が、強いまま去っていく。それはどこか、潔さとさみしさが半分ずつ混じったような、不思議な感覚でした。負けて去るのではなく、勝ったまま終わる。子どもだった私には、その引き際の美しさの意味が、まだ半分も分かっていなかったのだと思います。 ロス五輪が、また帰ってくる 時は流れて、令和です。 あのとき足を引きずりながら金メダルを取った山下さんは、のちに日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務めるまでになりました。畳の上のたった一人の王者が、やがて日本のスポーツ全体を背負う立場になっていったわけです。あの夏に絶叫していた少年からすれば、なんとも感慨深い話です。 そして、もう一つ。私が生まれて初めて本気で応援した、あのロサンゼルスという街が、二〇二八年、ふたたびオリンピックの開催地になります。じつに四十四年ぶりのロス五輪です。あの夏、テレビの前で絶叫していた十五歳の少年は、その二〇二八年には五十九歳――六十歳を目前にした年齢になっています。子どもたちも、それぞれの道を歩き始めました。それでも、「ロサンゼルス」という地名を耳にすると、私はいまでも真っ先に、森末さんのあの笑顔と、山下さんの金メダルの瞬間を思い出すのです。 二〇二八年の夏、私はまた、テレビの前で誰かを本気で応援しているでしょうか。きっと、しているのだと思います。あの夏に教わった「観て、応援する」という幸せは、四十年あまりたっても、ちっとも色あせていないのですから。 あなたが、生まれて初めて自分の意思で「観て」「応援した」オリンピックは、どの大会でしたか。テレビの前で思わず叫んでしまった、あの瞬間の記憶があれば、ぜひ聞かせてください。 このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 | 次の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う ▶

June 17, 2026

『坂の上の雲』と正岡子規の野球 ― 上野公園に残る明治のベースボール

白状すると、私は『坂の上の雲』のファンである。 最初はテレビだった。NHKのスペシャルドラマを観て、すっかり引き込まれ、その勢いで司馬遼太郎の原作を手に取った。読み終えて、しばらくしてまた読んだ。そしてもう一度。つまり三度、あの長い物語を読み返したことになる。秋山好古、真之の兄弟、そして正岡子規。明治という時代を、坂の上の一朶の雲を見つめて登っていった青年たちの物語は、何度読んでも飽きることがない。不思議なもので、読み返すたびに心に引っかかる場面が変わる。若い頃に通り過ぎた一行が、歳を重ねてから読むと、急に立ち上がってくることがあるのだ。長い小説を読み返す愉しみは、たぶんそこにある。 なかでも私が好きなのは、物語の序盤、まだ何者でもない真之と子規が、東京で青春を過ごす場面だ。そこに、野球が出てくる。上野の草原で、書生たちがボールを追いかける場面である。 俳人・正岡子規と野球。一見、結びつかないようでいて、実はこのふたつ、切っても切れない関係にある。今日はその話を書いてみたい。じつはこの日、私は所用で上野に来ていて、その合間の休憩時間に少し走った。せっかく現地にいるのだから、自分の足で確かめないわけにはいかない。その話は、最後に。 俳人になる前の、野球青年だった子規 正岡子規は慶応三年(一八六七年)の生まれ。日本にベースボールを伝えたのは、明治五年(一八七二年)頃、第一大学区第一番中学(のちの開成学校)で教えていたアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンだとされている。ちなみにこのウィルソン、子規より一年あとの二〇〇三年に、やはり野球殿堂入りを果たしている。伝えた人と広めた人が、百年あまりの時を経て同じ殿堂に並んでいるのだから、出来すぎなくらい美しい話だ。 子規が大学予備門(のちの一高)の学生だった明治十九年から二十三年頃には、まだ「野球」という日本語すら一般には定着していなかった。横文字のまま「ベースボール」と呼ばれる、書生たちの新しい遊びだった。 子規はこれに夢中になった。仲間たちと連れ立って、上野公園の空き地でボールを追いかけた。守備位置は捕手。のちに病床に伏す人、という印象の強い子規が、二十歳そこそこの頃には汗まみれでマスクをかぶり、ミットを構えていたのである。 有名な逸話がある。子規の幼名は「升(のぼる)」。これにちなんで、雅号のひとつを「野球」と書いて「のぼーる」と読ませた。ただし、誤解のないように書いておくと、「野球(やきゅう)」という訳語そのものは、のちに教育者の中馬庚が考案したものとされる。子規の「野球(のぼーる)」は、あくまで自分の名前にボールを忍ばせた言葉遊びだ。それでも、雅号にまで持ち込むほど好きだった、ということがよく分かる。 言葉の人が、野球に残した言葉 子規の野球への貢献は、プレーだけにとどまらない。彼は言葉の人だった。「打者」「走者」「直球」「四球」――今では当たり前に使われている野球用語の多くを日本語に訳し、その普及に貢献したとされる。新聞「日本」の記者となってからは、ルールや面白さを伝える随筆を書き、野球を詠んだ俳句や短歌も数多く残した。 久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも これは子規の短歌である。万葉集ばりの枕詞「久方の」のあとに、いきなり「アメリカ人」と「ベースボール」が続く。この取り合わせの大胆さに、私は笑ってしまうと同時に、しびれてしまう。古典の教養と、舶来の新しい遊びへの少年のような好奇心。子規という人の魅力が、この一首に凝縮されている気がするのだ。 その功績が認められ、没後百年にあたる二〇〇二年、子規は野球殿堂入りを果たしている。俳人が野球殿堂に名を連ねるというのは、考えてみれば不思議な光景だが、明治の野球黎明期を知る者にとっては、むしろ当然の顕彰だったのだろう。 小説の上野の場面は、ほぼ史実だった さて、『坂の上の雲』に描かれた上野での野球は、司馬遼太郎の創作ではない。 子規自身の随筆『筆まかせ』に、明治二十三年三月二十一日の午後、上野公園の博物館横の空き地で試合をしたことが記されている。このとき子規が守ったのは、やはり捕手だった。つまり、小説の中で書生たちがボールを追っていたあの草原は、子規が実際にプレーしていた場所そのものなのである。 しかも、この試合には少し切ない背景がある。子規はその前年、明治二十二年に最初の喀血をしている。「子規」という号自体、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスにちなんだものだ。つまり明治二十三年春のこの試合は、すでに病を抱えた体で立ったグラウンドだった。子規が思い切りボールを追えた時間は、実はもう、残り少なかったのである。 三度読んだ小説の一場面が、百三十年以上前の上野に実在した光景だった。この事実を知ったとき、私は物語と現実の距離が、すっと縮まったような気がした。 正岡子規記念球場のこと 現在、上野公園の中に野球場がある。正式名称は「上野恩賜公園野球場」。東京文化会館の裏手にあたる、両翼六十五メートルほどの小ぶりなグラウンドで、休日には草野球や少年野球でにぎわう。 この球場に、二〇〇六年(平成十八年)七月二十一日、「正岡子規記念球場」という愛称が付けられた。上野恩賜公園の開園百三十周年を記念する事業の一環で、同じ日に句碑の除幕式も行われている。碑に刻まれているのは、子規のこの句だ。 春風や まりを投げたき 草の原 春の風に吹かれて、ボールを投げたくてたまらない。若き日の子規の、体の奥から湧き上がるような野球への思いが、十七文字にそのまま閉じ込められている。 ひとつ付け加えておくと、この球場そのものが子規の時代からあったわけではない。子規たちがプレーしたのは、あくまで公園内の空き地や草原である。後年、そのゆかりを記念して、いま公園にある球場に子規の名が冠された、というのが正確なところだ。それでも、子規がボールを追った同じ上野の杜に、彼の名を持つグラウンドがあり、今も子どもたちが白球を追いかけている。これはなかなか、いい話ではないかと思う。 白球を追った者として 実は私自身、中学から高校まで野球部で白球を追いかけてきた人間である。昭和五十年代の終わりから六十年代、来る日も来る日も泥だらけでボールを追った日々を思い出すと、明治の書生たちが上野の草原ではしゃいでいた光景が、他人事とは思えなくなる。 道具も整わない、ルールの翻訳すらこれからという時代に、それでもボールを投げ、打ち、走ることが、たまらなく楽しかったのだろう。その楽しさは、百年経っても変わらない。子規は三十四年の短い生涯のうち、晩年の多くを病床で過ごした。だからこそ、思い切り体を動かせた上野での日々は、彼にとってかけがえのない時間だったはずだ。「まりを投げたき」という句に込められた切実さは、病を得てからの子規が振り返る、あの草の原の眩しさでもあったのだと思う。 令和の野球は、ずいぶん遠くまで来た。メジャーリーグで日本人選手が当たり前に活躍し、きらびやかなボールパークの映像が毎日のように流れてくる。それ自体は素晴らしいことだと思う。けれど野球の原点は、子規たちが駆け回った、あの何もない草の原にある。ボールひとつとバットが一本あれば、それだけで日が暮れるまで楽しかった――その感覚を、私は自分の少年時代の空き地や校庭の記憶として、確かに知っている。 走って、確かめてきた その日は、上野での用事の合間に少し時間が空いた。せっかく現地にいるのだから、走らない手はない。私は身軽になって、公園の中を走り出した。 まず向かったのは、国立科学博物館の前である。大きな楠が枝を広げ、その向こうにシロナガスクジラの実物大模型が横たわっている。広場には観光客や家族連れが思い思いに腰を下ろしている。舗装された明るい広場だ。けれど、ここがあの「博物館横の空き地」の一帯なのだと思うと、足元の景色が少し違って見えてくる。百三十年あまり前、この近くで子規たちがボールを追っていた。観光客のざわめきの底に、書生たちの掛け声が聞こえてくるような気がした。 球場は、東京文化会館の裏手にあった。入口の門には、堂々と「正岡子規記念球場」の看板が掲げられている。足元のマンホールの蓋にまで、同じ文字が刻まれていた。そして、ちょうどこの日は少年たちが試合の最中だった。金網の向こう、土のグラウンドと天然芝の上を、白いユニフォームが駆けていく。打球の音と、監督の声と、子どもたちの歓声。「今も子どもたちが白球を追いかけている」と先に書いたが、それはまさに、目の前の実景だった。 句碑は、球場脇の木陰にひっそりと立っていた。これがなかなか凝った造りで、黒い御影石の上に、白い円盤がはめ込まれている。近づいてよく見ると、その円盤は野球のボールなのだ。白い革に縫い目が走り、その縫い目の間を縫うように、句が刻まれている。 春風や まりを投げたき 草の原 文字だけで知っていたこの句が、ボールの意匠の中に立ち上がっているのを見て、思わず唸ってしまった。手前には台東区教育委員会による解説板があり、平成十八年七月の建立であること、子規の経歴と野球への貢献が丁寧に記されている。 目を閉じて 句碑の前を離れ、グラウンドの脇にしばらく立った。 少年たちの声を聞きながら、私は目を閉じてみた。ここで、若き日の子規と真之が野球をしている。汗まみれの書生たちが、声を上げ、ボールを追い、笑っている。まだ何者でもない青年たちが、これから登っていく坂の上の雲を、まだ知らないままに。 目を開けると、目の前では令和の少年たちが白球を追っていた。明治の書生も、昭和の野球少年だった私も、いま目の前で駆けるあの子たちも――根っこのところは、何ひとつ変わっていない。春風の中でボールを投げたい、ただそれだけの気持ちで、人は草の原に立つのだ。 三度読んだ小説の一場面が、自分の足で立つ現実の風景とひとつになった。用事の合間のほんの短い時間だったけれど、忘れがたいひとときになった。 まだ読んだことのない方は、ぜひ一度。明治という時代を、坂の上の一朶の雲を見つめて登っていく青年たちの物語です。長い旅ですが、何度でも読み返したくなります。 新装版 坂の上の雲(一)司馬遼太郎/文春文庫(新装版・全8巻)。まずは第一巻から Amazonで見る › 皆さんには、好きな小説の舞台を訪ねてみたい場所がありますか。よろしければ、コメントで教えてください。

June 13, 2026

青カップのグローブ ― 昭和の空き地と、母のパート代と

高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。紐が切れたのだという。その紐を手にしながら、ふと遠い記憶の蓋が開いた。 昭和の子供の放課後は、今とはまるで違う世界だった。 ランドセルを家に放り込んで外に出ると、近所の空き地には学年もクラスも関係なく子供たちが集まっていた。誰かが仕切るわけでもなく、気がつけばチームに分かれて野球が始まっている。そういう時代だった。 野球のルールを教えてくれたのも、プレーを褒めてくれたのも、みんな上級生だった。今でいう「地域の子育て」が、あの空き地では自然に成立していた。 ある日、先輩のひとりが使っているグローブが目に入った。 一目見た瞬間に、全身が反応した。あれが欲しい。 青地に白糸。カップ型に刺繍されたマーク。後から知ることになるが、それが「美津濃(ミズノ)青カップ」だった。軟式用が青、硬式用が赤。昭和の野球少年なら誰もが憧れた、あのグローブだ。 まず向かったのは、イトーヨーカドーに入っていたスポーツ店だった。しかし置いていない。 今のように大型スポーツ専門店があちこちにある時代ではなかった。どこに行けば買えるのか、小学4年生の自分には見当もつかなかった。 そこへ転機が訪れた。同じグローブをすでに買ってもらったクラスメイトが現れたのだ。うらやましさで胸がいっぱいになりながら、とにかく聞き出した。メーカーはどこか。どこで売っているのか。 教えてもらった店は、自転車で20分ほどのところにあった。ドキドキしながら扉を開けると、店内にはミズノのグローブがずらりと並んでいた。あの青カップもあった。手に取った瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。 メーカー 美津濃(ミズノ) マーク 青カップ(軟式用) ウェブ タータンウェブ 種別・価格 オールラウンド用・7,800円 帰宅して母に話した。「あのグローブが欲しい」と。 当然、即答はなかった。しかし母はこう言ってくれた。「パートのお給料日まで待っていてね。」 7,800円。昭和の専業主婦がパートで稼ぐ金額の重さが、大人になった今にはわかる。それを出してくれるということが、どれだけのことだったか。 それからの毎日が、我ながら笑える。 放課後になると例の店へ自転車を走らせ、グローブを手に取っては棚の奥深くに押し込んで帰る。他の誰かに買われてしまわないように。それを給料日当日の夕方まで、毎日続けた。 そしてついに、その日が来た。 母のパート先の前で、仕事が終わるのを待ち構えた。そのまま二人で自転車を走らせ、店へ向かった。 店主のおじさんは僕の顔を見るなり、すぐに覚えていてくれた。毎日確認に来ていたのだから当たり前といえば当たり前だが、おじさんも一緒になって喜んでくれた。昭和の商店街には、そういう温かさがあった。 美津濃。青カップ。タータンウェブ。オールラウンド用。7,800円。 あの日グローブを手にしたときの感触は、半世紀近く経った今も手のひらに残っている。 あの頃から今まで、いくつものグローブと出会ってきた。どれも、それぞれに大切な記憶として胸の奥にしまってある。 先日、高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。その紐を手にしながら、ふとあの空き地のことを思い出した。上級生たちのこと、クラスメイトのこと、そして母のパートのお給料日のことを。 今、グローブを通じて息子と関わっていること。それが、また新しい宝物になっていく気がする。

May 11, 2026