【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年

六月十六日の本編では、私たちの子ども時代をまるごと呑み込んでいった、あのインベーダーゲームそのものの話をしました。きょうはその番外編です。 同じインベーダーの話なのに、舞台がまるで違います。日本の喫茶店ではありません。太平洋を渡った先、アメリカ・カリフォルニア。そして主役は、いまをときめく、あの経営者――ソフトバンクの孫正義さんです。 本編でもお話ししたとおり、昭和五十三年(一九七八年)にタイトーが世に出した「スペースインベーダー」は、あっという間に日本中を呑み込みました。喫茶店のテーブルは次々とゲーム機の筐体に置き換わり、店に入ればコーヒーよりも先に、あの迫ってくる電子音が耳に飛び込んでくる。ゲーム機ばかりを並べた「インベーダーハウス」という専門店まで生まれ、子どもたちは攻略法を競い合い、大人はネクタイ姿のままテーブルに肘をついて画面をにらんでいました。あんまり百円玉が吸い込まれていくものだから、世の中で百円玉が足りなくなった、なんて話まで囁かれたほどです。子どもも大人も、テーブルの上に百円玉を積み上げて、画面の中の侵略者を撃ち落とすことに夢中になっていました。 私はそのとき九歳。葛飾の子どもにとっても、あの「ピポピポ」と降りてくる音は、どこか特別な響きを持っていました。 正直に打ち明けると、私自身は、あのブームのど真ん中で百円玉を積み上げていた口ではありません。当時は野球に明け暮れる九歳。インベーダーは、もっぱら「横目で見ていた」遊びでした。喫茶店のテーブル型の台を、ガラス越しにちらりと覗く。近所の上級生の百円玉が、次から次へと機械に吸い込まれていくのを、後ろから眺める。撃つよりも、見ていた。そんな野球少年でした。それでも、あの一歩ずつ迫ってくる電子音だけは、なぜか今でも耳の奥にはっきりと残っています。 ブームが冷めたころ、海の向こうの留学生 さて、ここからが本題です。 あれほどの熱狂も、永遠には続きませんでした。爆発的に燃え上がったぶん、火が消えるのも早かった。一年半ほどで人々はあっさり飽きて、あれだけ高値で取引されていた筐体が、こんどは引き取り手もなく倉庫に山積みになっていきました。誰の目にも「もう終わったもの」でした。 ところが、その「終わったもの」を、まるで違う目で見ていた人がいた。冒頭でふれた孫正義さん、その人です。当時まだ二十歳そこそこ。カリフォルニア大学バークレー校で経済学を学ぶ、卒業前の、れっきとした「学生」の身分でした。彼は渡米まもないころから、語学学校の教師に「将来はビデオゲームを使った商売をやりたい」と語っていたといいます。漠然とした夢ではなく、すでに頭の中で算盤をはじいていたのでしょう。 その学生が、こう考えた。──日本でブームが終わったインベーダーの機械は、いまや余って、安く手に入る。けれどアメリカでは、まだこれからだ、と。 いまでこそ「輸入して転売」と聞けば誰でも思いつく発想かもしれません。けれど一九七〇年代に、留学先の異国でそれを実際にやってのけた二十歳の学生がいた、というのは、やはり並のことではありません。 太平洋を越えた、中古のインベーダー 孫さんは、日本で売れ残った機械を安く仕入れました。一台百万円もした筐体を、捨て値同然で買い集めたといいます。そしてそれを、船ではなく飛行機で空輸した。船便ならずっと安く済むところを、あえて高い空輸を選んだ。アメリカでブームに火がつく前に、先回りして置いてしまいたかったからです。 置き場所に選んだのは、若者でにぎわう店でした。日本でいう喫茶店――とは少し違って、アメリカではアイスクリーム店や、ステーキレストランの待合室。順番を待つあいだ、退屈した客が二十五セント硬貨を放り込む。売上を店と分ける、いまでいう歩合の仕組みです。 もっとも、はじめから歓迎されたわけではありません。「うちにゲーム機なんか置いたら、店の雰囲気が壊れる」と渋る店主も少なくなかった。孫さんはそれを、一軒一軒、直談判で口説き落としていったといいます。 そして、こんな話が伝わっています。設置したばかりの機械が動かない、と連絡を受けて駆けつけてみると、機械は壊れてなどいなかった。コインボックスに二十五セント硬貨が入りすぎて、あふれて、それで止まっていたのです。まわりに集まった客たちは、腹を抱えて笑っていたといいます。 結果、半年ほどで設置台数はおよそ三百五十台にまで広がり、利益は一億円を超えたと伝えられています。さらに孫さんは、キャンパス近くのゲームセンターまで一軒、銀行から借金をして買い取りました。そこに毎日の売上を細かく見る「日次決算」を持ち込み、機械一台ごとに、置いてから何日で元が取れるかまで見極めた。働く人の見極めも徹底していて、まずは広く雇い入れ、本当に働く者だけを残していったといいます。そうして、わずか一か月で売上を三倍にしてみせた。学生が片手間にやった商売、という規模では、もうありません。 事実関係を、少し整理しておきます この逸話、語り手によって数字がまちまちです。「五万円で十台」と書くものもあれば「五万円で二十台」とするものもある。空輸代が一台七万円だった、という具体的な話も出てきます。細かい数字は伝聞で揺れているので、ここでは「ブームの去った中古機を安く仕入れ、空輸し、歩合で置いて、数か月で一億円規模を稼いだ」という骨格だけを、確かなものとして受け取っておくのがよさそうです。世に出ている記述の多くは、孫さんの評伝(大下英治氏による一連の著作)にたどりつきます。 このあたりの留学時代と起業の物語を、もっとじっくり読んでみたい方には、この一冊を。何も持たない若者が、自分を信じて海を渡っていく――冒険小説のような面白さがあります。 孫正義 起業の若き獅子大下英治/講談社。インベーダー留学時代から起業までを描いた評伝 Amazonで見る › もうひとつ、混同されやすい点を。孫さんはこの時期、バークレーの先生たちと組んで音声付きの翻訳機を開発し、その権利をシャープに売って、やはり一億円ほどを手にしています。インベーダーの話とこの翻訳機の話は、しばしば一つに混ぜて語られますが、本来は同じ留学時代の、別々の商売です。「翻訳機で得た金を元手にゲーム機を輸入した」と書かれることもあれば、ゲーム機の商売そのものが大きな利益を生んだ、と語られることもある。どちらが先で、どちらがどちらの元手か――そこは諸説あって、はっきり一本の線では結べません。確かなのは、二十歳そこそこの留学生が、ほぼ同じ時期に、二つの商売でそれぞれ一億円規模の話を作っていた、という事実のほうです。 そして青年は、日本へ帰る アメリカでひととおりの成功を収めた孫さんは、やがて大学を卒業し、日本へ帰ってきます。そして昭和五十六年(一九八一年)九月、二十四歳のとき、福岡の地で、パソコン向けソフトの卸売を手がける「日本ソフトバンク」を起こしました。社員はわずか数人。世間がまだ「ソフトウェア」という言葉すらほとんど知らない時代の、ささやかな船出でした。けれど、ブームの去ったインベーダーの中に値打ちを見抜いたあの目は、こんどはパソコンという、これから来るものの中に未来を見ていた。仕入れて、運んで、置いて、回収して――留学時代に体ひとつで覚えた商売の型は、形を変えて、そのまま受け継がれていったように思えます。 令和のいま、あらためて思うこと 葛飾の喫茶店のテーブルで、私たちが百円玉を積み上げて遊んでいたそのゲームを、同じころ、海の向こうの二十歳の青年は「商売の種」として見ていた。同じインベーダーを、こちらは遊び、あちらは商いにしていた。こちらの百円玉と、あちらの二十五セント硬貨。同じ機械が、太平洋をはさんで、まったく違う意味を持っていた。その視点の違いを思うと、なんとも不思議な気持ちになります。 しかも彼が目をつけたのは、ブームの真っ盛りではなく、熱が冷めて誰もが見向きしなくなった「残り物」のほうでした。みんなが飽きて手放した機械の中に、まだ値打ちが残っている――そう見抜く目こそが、のちのソフトバンクの、あの次々と大きな賭けに出ていく経営の、いちばん最初の芽だったのかもしれません。いまや人工知能だ、巨大ファンドだと、桁の違う話ばかりが聞こえてきますが、その出発点が、私たちの子ども時代をにぎわせた、あの電子音の機械だったというのは――昭和を生きた身には、どこか痛快な話です。 私たちが夢中で侵略者を撃っていたあのテーブルは、誰かにとっては、未来を撃ち出す発射台だったわけです。 その発射台は、いまどこまで飛んだのか。つい先日、令和八年(二〇二六年)六月一日のことです。孫さんが率いるソフトバンクグループの時価総額が、ついにトヨタ自動車を抜いて、国内企業の首位に立ちました。トヨタが時価総額のトップを明け渡すのは、実に二十二年半ぶり。「日本一の会社といえばトヨタ」というのが長らく私たちの常識でしたから、たとえ一時的にせよ、これは大きなニュースになりました。生成AIや半導体への巨額投資が市場の期待を集めての逆転で、その時価総額は一時、四十八兆円、四十九兆円という途方もない額に達したといいます。ブームの去った中古のインベーダーを抱えて太平洋を渡った青年が、半世紀ののちに、自動車王国の頂をひっくり返した――こうして並べてみると、やはり出来すぎた物語のように思えてきます。 孫さんは「三百年続く企業をつくる」といった、気の遠くなるような話を平気で口にする人です。その三百年の、いちばん最初の一歩が、私たちと同じ昭和の電子音から始まっていた。雲の上の大富豪の物語かと思いきや、出発点には、私たちの記憶と地続きの、あの懐かしい筐体が立っている。そう思うと、遠い話が急に身近に感じられて、なんだか可笑しくも、頼もしくもあるのです。 みなさんは、インベーダーゲームに、どんな思い出をお持ちでしょうか。喫茶店の台、ゲームセンター、それとも友だちの家。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた | 次の記事:6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏 ▶ ...

June 16, 2026

6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた

六月十六日。梅雨のただ中、長靴と傘がランドセルの相棒になる季節です。カレンダーの記念日欄を見ると、きょうは「和菓子の日」。そしてもうひとつ、私たちの世代にとっては見逃せない記念日が、そっと並んでいます——「スペースインベーダーの日」です。 昭和五十三年(一九七八年)の六月十六日、当時のタイトー本社ビルで、一台のテレビゲームの新作発表会が開かれました。その名は『スペースインベーダー』。開発したのは西角友宏さんという技術者です。画面の上から迫りくる宇宙人を、自分の操るビーム砲で迎え撃つ——いまでは当たり前の「自分で撃ち返せる」という双方向のおもしろさを、世に知らしめた一台でした。同年七月ごろから全国へ出荷されると、それはもう、文字どおり日本中を侵略していきます。 きょうは、その「侵略」を、いちばん下っ端の小学生として迎え撃った——いや、迎え撃てずに、ただ眺めていた私の話です。 イトーヨーカドーの、踊り場の一台 記憶を掘り起こしてみます。私とインベーダーの最初の出会いは、よく語られる喫茶店のテーブル型の筐体ではありませんでした。 イトーヨーカドーの、一階と二階をつなぐ階段。その中間にある踊り場に、立ったままプレーするタイプの大きな筐体が、ぽつんと一台、置かれていたのです。ブラウン管を上から覗き込む、背の高い箱型のやつです。喫茶店のテーブルに埋め込まれた、あの寝そべったような筐体を知ったのは、ずっとあとのことでした。 当時の私は小学三年生。正直に白状すると、一ゲームいくら、というあの金額は、三年生の小遣いではそうそう出せるものではありませんでした。けれど、興味のほうはバリバリにあったのです。だから私はどうしたか。プレーしている上級生のすぐ後ろに陣取って、画面を食い入るように見ていました。自分の百円玉ではない、誰かの一機が右へ左へ動くのを、まるで自分が動かしているような顔をして、ただ見ていたのです。 あの、ズン、ズン、ズン、ズン……と地鳴りのように響く、インベーダーが一歩ずつ近づいてくる音。敵の数が減るほどにテンポが速くなって、こちらの鼓動まで一緒に速くなっていく、あの独特の音。五列に並んだ五十五匹の宇宙人と、ときおり画面の上をすーっと横切る赤い円盤(あれを撃ち落とすと点が高いのだと、上級生が教えてくれました)。踊り場の薄明かりの中でぼうっと光るその画面を、私はいったい何度、よそのお兄さんの肩越しに見上げたことでしょう。 いま思えば、おかしな話です。そもそもイトーヨーカドーというのは、当時の私たちにとって、子どもだけで出入りしてはいけないことになっている場所でした。それなのに、私はちゃっかり行っちゃっているわけです。そして、後ろから覗かせてもらっていた上級生たち——彼らだって、しょせんは小学生です。それが何回も、何回も百円玉を投入していく。あの軍資金は、いったいどこから出ていたのか。当時は「すごいなあ」と思って見ていましたが、いざ自分が親の立場になって考えてみると、よくもまあ、と苦笑いするしかありません。 百円玉が、日本から消えた夏 私が踊り場で指をくわえて見ていたころ、世の中では、とんでもないことが起きていました。 それまでのテレビゲームといえば、画面の壁をボールで崩していく『ブロック崩し』のようなものが主流でした。ところがインベーダーは、向こうから攻めてくる。こちらが撃つ。撃ち返される。やられる——。腕を上げれば上げるほど長く生き延びられて、もっとやりたくなる。この「上達していく手応え」と「迎え撃つ緊張感」こそが、それまでのゲームにはなかった魔力でした。喫茶店でコーヒー一杯の値段で何十分も粘る大人が続出し、社会問題のように語られたほどです。 『スペースインベーダー』の人気は、喫茶店にテーブル型の筐体を持ち込ませ、やがてゲーム機ばかりを並べた「ゲーム喫茶」や、店員すらいない二十四時間営業の「インベーダーハウス」まで生み出していきます。コーヒーを飲む店だったはずの喫茶店が、いつのまにかテーブルという卓上が光る箱に置き換わっている。そんな光景が、日本中に広がっていきました。「インベーダー」は、その年の流行語になりました。なかでも語り草になっているのが、百円玉の話です。あまりに多くの百円玉がゲーム機の中に吸い込まれていったため、世間で百円硬貨が足りなくなり、日本銀行がふだんの三倍ほどの量を世に送り出した——そんな記事が新聞に載るほどだったといいます。 そんな熱狂のなかで、高得点を狙うつわものたちが編み出したのが、攻略法の元祖とも呼ばれる「名古屋撃ち」でした。インベーダーが最下段の一歩手前まで攻め込んでくると、なぜか敵の弾が自分のビーム砲をすり抜けて当たらない——もとはゲームの不具合(バグ)だったその仕様を逆手に取り、ぎりぎりまで引きつけて撃ちまくる、という技です。名前の由来は「名古屋で広まったから」とも、「あと一段で〝終わり〟、それと〝尾張(名古屋)〟をかけた」とも言われますが、本当のところは、いまもって誰も知らないのだそうです。 三十円、十円。ようやく私の番が来た さて、踊り場で見ているだけだった私にも、ちゃんと順番が回ってくる日が来ます。 世の中に次々と新しいゲームが登場すると、インベーダーは少しずつ「古いゲーム」になっていきました。すると、あれほど強気だったプレー代が、一気に下がりはじめるのです。五十円、三十円、そしてついには十円なんていう値札まで現れました。そうした型落ちの筐体を、倉庫のような建物に所狭しと並べた——いわゆる倉庫型のゲームセンターが、あちこちにできました。薄暗くて、どこか秘密基地めいていて、子どもにはほんの少しだけ背伸びが必要な場所。それでも十円玉一枚で遊べるとなれば、私たちにとっては立派な天国でした。 そこで、ようやく私にも、遊ぶことができるようになったのです。十円玉を握りしめて。あの踊り場の上級生たちが百円玉を惜しげもなく入れていた、その同じゲームを、私は数年遅れの十円で、心ゆくまで撃ちました。 もちろん、後ろから見て覚えた攻略法も、ここぞとばかりに使いました。敵が最下段の一歩手前まで降りてきたところを、端から順に狙い撃つ「名古屋撃ち」。そしてもうひとつ、群れの真ん中の列を一気に撃ち抜く技——私たちの界隈では、これを「新宿撃ち」と呼んでいました。ところがあとで知ったのですが、同じこの技、地域によっては「京都撃ち」とも「中央突破」とも呼ばれていたそうです。携帯電話もインターネットもない時代、攻略法は友だちから友だちへと口づてに伝わり、その途中で、町ごとに勝手な名前がついていったのです。同じ撃ち方なのに、隣の町では別の名前で呼ばれている。いま思えば、それもまた、ずいぶんのんびりとした、いい時代の話です。 背伸びして眺めていた憧れに、自分の指で、やっと追いついた瞬間でした。数年越しの片想いが、十円玉一枚でようやく実った——そんな気分だったように思います。 令和の子どもは、「見ているだけの時間」を知らない 時代は変わりました。 いまの子どもたちは、ゲームをするのに、お金を握りしめて家を出る必要がありません。スマートフォンの中に、家庭用ゲーム機の中に、無数のゲームが入っていて、その多くは、始めるだけならお金もかからない。上級生の背中越しに覗き込む必要も、十円玉が貯まるのを待つ必要も、ないのです。 それは間違いなく、豊かで、いい時代です。私だって、もし子どもの頃にそんな環境があったら、諸手を挙げて喜んだことでしょう。けれど、と私はつい思ってしまうのです。あの、一ゲームが出せなくて、ただ見ていた時間。誰かのプレーを食い入るように見つめて、技を盗んで、いつか自分も、と焦がれていたあの時間。あれはあれで、悪くないものだったな、と。 欲しいものがすぐ手に入らない。だから、よその上級生の背中越しに憧れ、十円玉が貯まるのをじりじりと待つ。手が届かないからこそ、あの踊り場の小さな画面の光は、あんなにもまぶしく見えたのかもしれません。いまの子どもたちには、あの「待っているあいだの時間」だけは、もう手に入らない宝物なのかもしれない——そんなことを、つい考えてしまうのです。 現に、わが家でもゲームに夢中になっている子どもを見て、私はつい「ゲームばっかりやって……」と、口では文句を言ってしまいます。ところが内心はどうかというと、「わかるわかる」と全力でうなずいている自分がいる。それどころか、母親が渋い顔で様子をうかがっているのに気づくと、心の中でこっそり「おい、ママの目があるんだから、もっと上手くやれ」と、すっかり子どもの肩を持っている始末です。叱る側に回ったはずなのに、気持ちのほうは、あの踊り場で背伸びをしていた頃から一歩も動いていない。我ながら、おかしくなってしまいます(笑)。 考えてみれば、子どもだけで入ってはいけないイトーヨーカドーに、ちゃっかり忍び込んでいたのも私でした。親の目を盗んで何かに夢中になる——それはどうやら、いつの時代も変わらない、子どもの特権のようです。 そういえば、あの「名古屋撃ち」を含む歴代のスペースインベーダーは、いまではNintendo Switchで、いつでも好きなだけ遊べます。十円玉も、上級生の背中も、もう要りません。あの頃の自分に教えてやったら、目を丸くするでしょうね。 スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション - Switchタイトー/1978年のオリジナルから歴代作品まで収録 Amazonで見る › あなたが初めてインベーダーに出会ったのは、どこの台でしたか。喫茶店のテーブルでしたか、駄菓子屋の店先でしたか、それとも私のように、デパートの踊り場あたりでしたか。一ゲーム、いくらでしたか。よかったら、あなたの「最初の一台」の思い出も、聞かせてください。 この「昭和の今日は何があった日?」シリーズでは、昭和四十年から六十四年までの出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。同じ時代を生きた方の「あの頃」の思い出やコメントも、ぜひお待ちしています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた | 次の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 ▶

June 16, 2026

6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた

六月十五日。梅雨の晴れ間の、湿った緑の匂いがする季節です。きょうは何の日かと調べてみて、思わず手が止まりました。昭和六十年(一九八五年)のこの日、東京・吉祥寺の小さな貸しビルの一室で、株式会社スタジオジブリが設立されたのだそうです。 トトロの、魔女の宅急便の、あのジブリです。いまや日本中の、いや世界中の子どもたちが知っているあの名前が、産声を上げたのが四十一年前のきょう。そして当時十六歳、高校一年生だった私は、そんなことが起きていたとは、まったく知りませんでした。 昭和六十年六月、十六歳の私 昭和六十年の六月といえば、私は高校に入学して二か月あまり。野球部の一年生です。朝練に始まり、授業中は眠気と戦い、放課後は日が暮れるまで白球を追いかけ、玉のような汗をかいて家に帰る。そんな毎日でした。夏の大会を前に、先輩たちの空気がぴりぴりと張り詰めていく、ちょうどそんな頃です。 だから正直に白状すると、この日の私の記憶に「ジブリ」の文字はかけらもありません。それもそのはずで、当時はまだ世の中の誰も、その名前を知らなかったのです。第一作の公開は翌年のこと。設立の日のジブリは、看板も実績もない、生まれたての小さな会社にすぎませんでした。 それに正直なところ、高校生になった私が映画館でお金を払って観ていたのは、ジブリのような作品ではありませんでした。『ビー・バップ・ハイスクール』に『スケバン刑事』。つまり、ばりばりのツッパリ青春もののほうです(笑)。ヒロシとトオルの喧嘩に痺れ、スケバンのアクションに見入る。野球部帰りの十六、七歳の私には、腐海や王蟲の壮大な世界より、不良少年たちのどたばたのほうが、よほど自分たちの放課後に近く感じられたのです。だから設立されたばかりのジブリのことなど、当時の私の視界には、これっぽっちも入っていませんでした。 でも、私たちはとっくに出会っていた ジブリという名前は知らなくても、実は私たちの世代は、その作り手たちの作品の中で育っていました。 スタジオの中心となる宮崎駿と高畑勲。この二人は、ジブリ設立のずっと前から、テレビの中にいたのです。昭和四十九年、私が五歳のときに放送された『アルプスの少女ハイジ』。あの作品の演出が高畑勲で、画面構成として支えていたのが宮崎駿でした。昭和五十三年、小学三年生のときにNHKで放送された『未来少年コナン』は宮崎駿の初監督作。そして昭和五十四年公開の『ルパン三世 カリオストロの城』も、宮崎駿の映画初監督作品です。 つまり、夕方のテレビの前に座っていた昭和の子どもたちは、誰に教わるでもなく、のちのジブリの味を舌で覚えていたわけです。ハイジがブランコのように大きく揺れるあのオープニング。コナンが足の指で塔の壁にぶら下がる、あのありえないけれど信じてしまう動き。あれが全部、同じ人たちの手から生まれていたのだと知るのは、私の場合、ずいぶん大人になってからのことでした。 吉祥寺のワンフロアから始まった スタジオジブリ誕生の直接のきっかけは、昭和五十九年三月に公開された『風の谷のナウシカ』でした。私が中学三年に上がる、ちょうどその春のことです。腐海と王蟲の世界を描いたあの映画が大きな評判を呼び、これを受けて出版社の徳間書店が出資し、制作会社トップクラフトを母体とする新しいスタジオが作られた。それが昭和六十年六月十五日のことです。 ですから厳密にいうと、『風の谷のナウシカ』はジブリ設立より前の作品で、ジブリ製ではありません。けれど再放送のときには冒頭にジブリのロゴが付きますし、公式の歴史でも事実上の第一作のように扱われています。会社よりも先に、作品のほうが生まれていた。ジブリとは、そういう順序で始まったスタジオなのです。 「ジブリ」という名前は、サハラ砂漠に吹く熱風のことで、第二次大戦中のイタリアの偵察機の名前でもあったそうです。命名したのは、無類の飛行機好きで知られる宮崎駿。「日本のアニメーション界に熱風を巻き起こそう」という思いを込めたといいます。ちなみに本来の発音は「ギブリ」のほうが近いそうで、つまり世界一有名なあのスタジオ名は、読み間違いから生まれたことになります。なんだか、ほっとする話ではありませんか。 驚くのは、その所帯の小ささです。場所は吉祥寺駅近くの貸しビルのワンフロア。しかも設立からしばらくの間は、正社員を雇わなかったといいます。映画の興行は水物だから、いつでも畳めるように、作品ごとに七十人ほどのスタッフを集め、完成したら解散する。そんな方式だったのだそうです。 のちに国民的どころか世界的な存在になるスタジオが、「いつ終わってもおかしくない」覚悟の上に建てられた仮設小屋のようなものだったとは。何が大きく育つかなんて、その瞬間には誰にも分からないものなのですね。 そして翌昭和六十一年八月、ジブリ第一作『天空の城ラピュタ』が公開されます。さらに昭和六十三年四月には『となりのトトロ』と『火垂るの墓』が、なんと二本立てで同時公開。いま考えると信じられないような豪華な、そして観終わったあとの心の置きどころに困る組み合わせですが、これも昭和の出来事なのです。トトロも火垂るの墓も、ぎりぎり「昭和の映画」なのですね。 五人の子どもたちと、ジブリと 考えてみると、ジブリの映画が「国民的」になっていった道のりには、映画館だけでなく、お茶の間のテレビとビデオデッキの存在が大きかったように思います。金曜の夜にテレビでジブリ作品が放映されると、翌日の学校や職場でその話になる。録画したビデオを、子どもが擦り切れるほど繰り返し観る。劇場公開のときは静かだった『となりのトトロ』が、やがて誰もが知る存在になっていったのも、そうやって一家のテレビの前で何度も再生されたからこそでしょう。映画というより、家族の暮らしの一部。ジブリ作品には、そういう染み込み方をする力がありました。 私自身がジブリ作品ときちんと向き合うことになるのも、ずっとあとのことです。我が家には五人の子どもがいます。子育ての日々の中に、ジブリの映画はいつも当たり前のようにありました。 そして、我が家の子どもたちは、揃ってジブリ映画が大好きでした。テレビで放映されればもちろん一家でかじりつき、新作が劇場にかかれば、これは必ず観に行く。それが我が家の決まりごとのようになっていました。かつて腐海より不良少年に夢中だった父親が、いつのまにか子どもたちに連れられて映画館のジブリ作品の前に座っている。人生というのは、おかしなところに連れていってくれるものです。 高校球児だった私が汗を流していたあの六月に、吉祥寺の小さな部屋で生まれた会社が、めぐりめぐって我が子たちの子ども時代を彩ることになる。十六歳の私に教えてあげたら、きっとぽかんとするでしょう。お前の子どもは五人だぞ、と教えたら、もっとぽかんとするでしょうが。 おまけ──きょうは千葉県民の日 ところで六月十五日は「千葉県民の日」でもあります。制定されたのは昭和五十九年。県の人口が五百万人を突破したのを記念して定められたもので、日付は明治六年のこの日に木更津県と印旛県が合併して千葉県が誕生したことに由来するそうです。 葛飾の子どもだった私にとって、千葉は江戸川の向こう側の世界でした。そして恥ずかしながら、私は長いあいだ、とんでもない勘違いをしていました。「千葉県民の日は、千葉県民ならディズニーランドにタダで入れる」と、本気で思い込んでいたのです(笑)。どこでそんな話を仕入れたのか、いまとなっては分かりません。調べてみると、そんな事実は過去にも一度もなかったようです。県民の日にディズニーが無料になる──いかにもありそうで、まことしやかに信じてしまう。そういう「県民の日伝説」のようなものが、あの頃あちこちにあった気がします。 千葉県民の日には、県内の公立学校が休みになり、施設の入場が無料や割引になるところもあるとか。学校が休みになる記念日が県ごとにあるなんて、昭和の東京の子どもは知りませんでした。ちょっとうらやましい話です。 結びに 何かが始まった日というのは、たいてい静かなものです。昭和六十年六月十五日も、テレビが速報を流したわけでも、教室で話題になったわけでもない。けれどあの日、確かに何かが始まっていて、それは何十年もかけて、私たちの暮らしの中に深く根を下ろしました。 我が家で、子どもたちが擦り切れるほど繰り返し観た一本は、やはり『となりのトトロ』でした。昭和六十三年公開の、ぎりぎり「昭和の映画」。今では美しい高画質で、いつでも家族そろって、あの森の風に会いに行けます。 となりのトトロ [Blu-ray]スタジオジブリ/宮崎駿監督。昭和63年公開の不朽の名作 Amazonで見る › みなさんにとって、いちばん思い出深いジブリ作品は何ですか。誰と、どこで観た映画でしょうか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入 | 次の記事:6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた ▶

June 15, 2026

6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入

六月も半ばになると、教室の窓の外はもう夏の匂いがしていました。昭和五十九年(一九八四年)のきょう六月十四日。中学三年生、十五歳だった私たちの世界で、いちばん熱かったものは何かと聞かれたら、私は迷わずこう答えます。プロレスです。 この日の夜、東京・蔵前国技館で行われた第二回IWGP優勝戦、アントニオ猪木対ハルク・ホーガン。昭和のプロレス史に「蔵前暴動」として刻まれることになる、あの夜の話をさせてください。 金曜八時、テレビの前の私 当時の私は、毎週欠かさずプロレスを見ていました。金曜夜八時、テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』。野球部員でしたから、昼間はボールを追いかけて、夜はテレビの前でリングに釘付けになる。そんな中学生でした。 金曜八時といえば、裏では『太陽にほえろ!』が放送されていた激戦の時間帯です。チャンネルをどちらに合わせるか。それは昭和の茶の間における、ひとつの政治問題でもありました。そして画面の中では、古舘伊知郎アナウンサーの実況が炸裂している。「闘いのワンダーランド」「燃える闘魂」──次から次へと繰り出される言葉の砲弾が、リングの上の攻防を何倍にも大きく見せてくれました。プロレスは目で見るだけのものではなく、耳で聴くものでもあったのです。 夢中になった入り口は、初代タイガーマスクです。佐山聡さんがマスクの下にいた、あのタイガーマスク。ダイナマイト・キッドとの空中戦、小林邦昭との抗争。四次元殺法という言葉がぴったりの、見たこともない動きの連続に、テレビの前で本当にワクワクドキドキしたものです。私が小学六年生の春にデビューして、中学二年の夏に突然マスクを置いて消えてしまった。あの喪失感も含めて、タイガーマスクは私の昭和プロレスの原点でした。 そして、なんといってもアントニオ猪木です。ホーガンはもちろん、スタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シン。強敵が次から次へとやってくる。なかでも忘れられないのが、昭和五十七年の、ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇の「はぐれ国際軍団」三人を相手にした、一対三のハンディキャップマッチです。一人対三人ですよ。いま冷静に振り返ると、とんでもないことをやっていたと思います。けれど当時の私たちは、それを大真面目に、固唾をのんで見ていたのです。猪木なら、本当に三人倒すかもしれない。そう思わせる何かが、あの人にはありました。 一年越しのリベンジマッチ さて、昭和五十九年六月十四日です。 この試合には前段があります。ちょうど一年と少し前、昭和五十八年六月二日。同じ蔵前国技館で行われた第一回IWGP優勝戦で、猪木はホーガンの必殺技アックスボンバーを浴び、場外で失神KO負けを喫しました。世に言う「舌出し失神」です。あの猪木が、リング下で白目をむいて伸びている。テレビの前の少年には、にわかには信じられない光景でした。 しかもこの一年で、ホーガンはさらに大きくなっていました。映画『ロッキー3』に出演し、昭和五十九年の一月にはWWF世界ヘビー級王者にまで上りつめている。四十一歳の猪木と、三十一歳の絶頂期ホーガン。一年越しのリベンジマッチに、蔵前国技館は超満員。誰もが、猪木の雪辱だけを信じて集まっていました。 試合は午後八時二十分にゴング。一進一退の攻防から両者場外でもつれ、十七分十五秒、両者リングアウト。協議の末に時間無制限の延長戦が決まりますが、これもわずか二分余りで再び両者カウントアウト。そして再々延長に突入した、そのときでした。 ここで少しだけ、長州力という男の話をしなければなりません。昭和五十七年、長州は藤波辰巳(現・辰爾)に向かって「俺はお前の噛ませ犬じゃない」と吠え、下剋上ののろしを上げました。そこから始まった藤波との抗争は「名勝負数え歌」と呼ばれ、長州は維新軍のリーダーとして、猪木の新日本に反旗を翻す側のスターになっていた。つまりこの夜、リングサイドの長州は、猪木とは敵対関係の真っただ中にいたのです。 リングサイドにいたその長州力が、再々延長のさなか、突如として猪木とホーガンの双方にリキ・ラリアットを見舞いました。混乱の中、先にリングに戻った猪木がリングアウト勝ち。猪木は念願のIWGP初制覇を果たしました──が、館内は祝福どころではありません。 「こんな決着があるか」。一年待ったリベンジマッチの結末が、第三者の乱入によるリングアウト勝ちでは、納得できるはずもない。怒った観客が座布団やゴミをリングに投げ込み、場内は騒然。ついには蔵前警察署から警官十八人が出動する事態となりました。新日本プロレス史上初の本格的な暴動、「蔵前暴動」です。 さて、ここで正直に告白しなければなりません。私はこの夜のことを、覚えていないのです。 毎週欠かさず『ワールドプロレスリング』を見ていた中学三年生が、昭和プロレス史に残る大事件の夜を思い出せない。自分でも不思議でなりません。翌日の教室では、絶対に話題になっていたはずなのです。誰かが「昨日の蔵前、すごかったらしいぞ」と騒ぎ、誰かがスポーツ新聞の見出しを語り、長州はけしからんと誰かが憤っていたはずなのです。それなのに、その場面がどうしても出てこない。 記憶とは不思議なものです。タイガーマスクの宙を舞う姿や、一対三に挑む猪木の背中のような「画」は、四十年経ったいまも鮮明に焼き付いているのに、事件としてのあの夜だけが、すっぽりと抜け落ちている。けれど、こうも思うのです。覚えていないのは、あの頃の私にとって、金曜八時のプロレスがそれだけ「当たり前の日常」だったからではないか、と。特別な夜として構えて見ていたのではなく、毎週の暮らしの中に、プロレスが空気のように溶け込んでいた。覚えていないことが、かえって熱中の深さの証拠になっている気がするのです。 蔵前国技館、最後の年 ところで、この昭和五十九年は、蔵前国技館にとって最後の年でもありました。この年の秋場所を最後に三十年余りの役目を終え、翌昭和六十年一月には隅田川の対岸に両国国技館が開館します。力道山の時代から数々の名勝負を見届けてきた「プロレスの聖地」は、最後の最後に、座布団の舞う大暴動まで見届けて幕を下ろしたことになります。 蔵前という土地は、私にとって遠い場所ではありませんでした。子どもの頃から乗り慣れた都営浅草線で、京成高砂から押上を抜けて、まっすぐ行った先に蔵前駅はあります。同じ一本の線路の先で、あの夜、大人たちが本気で怒り、警官隊が駆けつけていた。そう思うと、テレビの中の出来事が、急に地続きのものに感じられるのです。 本気で信じていた、あの熱 いまになって思います。あの頃の私たちは、プロレスを「本当か嘘か」という物差しで見ていませんでした。猪木は本当に強いのか。あの技は本当に効いているのか。そんなことを教室で大真面目に議論するのが、あの時代の男子の日常でした。答えなんて出ません。でも、その答えの出なさこそが、昭和のプロレスの魔力だったのだと思います。 大人たちは時々、「プロレスなんて八百長だろう」と水を差しました。けれど少年の私には、それはどうでもいいことでした。一対三で立ち向かう猪木の背中も、四次元殺法のタイガーマスクも、舌を出して失神した猪木が一年かけて挑んだリベンジマッチも、私の中ではぜんぶ「本当」だったからです。観客が本気で怒って暴動になるくらい、みんなが本気で信じていた。あの夜の蔵前の怒りは、裏を返せば、それだけ深く信じられていたことの証拠なのだと、いまなら分かります。 あれから四十年余り。IWGPの名前は、いまも新日本プロレスの最高峰のベルトに受け継がれています。あの夜、蔵前で観客を激怒させた「IWGP」という三文字が、令和の東京ドームで歓声を浴びている。猪木さんも、ホーガンも、もうこの世にいません。けれど「元気ですかーッ!」の声は、私の耳の奥で、いまもはっきりと鳴っています。そして令和のいま、見たい試合はいつでもスマートフォンで呼び出せます。便利になりました。けれど、家族でチャンネルを取り合いながら、週に一度の放送を正座して待った、あのざわざわした金曜八時の夜は、もうどこにもないのです。 みなさんは、昭和のプロレスにどんな思い出がありますか。テレビの前で叫んだ技の名前、学校でのプロレスごっこ、忘れられない名勝負──よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった | 次の記事:6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた ▶

June 14, 2026

6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった

六月十三日。カレンダーの記念日欄には「FMの日」とあります。アルファベットでFが六番目、Mが十三番目だから、という語呂合わせです。そして昭和五十七年(一九八二年)のこの日、スペインでサッカーのワールドカップが開幕しました。 ちなみにこの日は、昭和六十二年(一九八七年)に広島の衣笠祥雄選手がルー・ゲーリッグの連続試合出場世界記録を塗り替えた日でもあります。ただ、鉄人の話は六月七日の記事でたっぷり書いたばかりなので、きょうは別の話を。 実は今回の二つ──FMもスペイン大会も、正直に白状すると、当時の私の記憶にはほとんど残っていません。けれど「覚えていない」ことにも、それなりの理由がありました。きょうは、その理由のほうの話です。 世界が沸き始めた日、野球少年は素振りをしていた 昭和五十七年六月十三日、スペイン・バルセロナのカンプノウ・スタジアム。九万人を超える大観衆の前で、前回王者アルゼンチンとベルギーの開幕戦が行われました。アルゼンチンの十番をつけていたのが、当時二十一歳のディエゴ・マラドーナ。これが彼のワールドカップ・デビュー戦でした(試合はベルギーが一対〇で勝っています)。大会はその後、パオロ・ロッシを擁するイタリアが優勝。いまもサッカー史に残る名大会として語り継がれています。 で、そのとき十三歳、中学一年生だった私はといえば──何も覚えていません。本当に、何ひとつ。 もっとも、これは私だけのことではなかったと思います。昭和五十七年の日本にとって、ワールドカップはまだ遠い遠い大会でした。日本代表は一度も本大会に出場したことがなく、Jリーグもまだ影も形もない時代。テレビでサッカーといえば、正月の高校サッカーくらいのもので、海の向こうの大会を生中継で追いかけるという習慣そのものが、お茶の間にはほとんどなかったのです。 そして当時の私は野球部に入ったばかりの、根っからの野球小僧でした。『キャプテン翼』の連載が少年ジャンプで始まったのは前年の昭和五十六年。けれど翼くんが私の心に飛び込んでくるのは、もう少し先の話です。つまりこの開幕の日の私は、まだ「キャプテン翼以前」。マラドーナという名前すら、知らなかったはずです。世界中がスペインの熱狂に沸いていたその夜も、私はたぶん、いつもどおり素振りをして、巨人戦を見て、眠っていたのだと思います。サッカーのワールドカップは、昭和五十七年の野球少年の暮らしの、ずっと外側にありました。 四年後の早朝、マラドーナに釘付けになった ところが、です。四年後の昭和六十一年(一九八六年)、メキシコ大会。十七歳の高校二年生になっていた私は、早朝のテレビ放映を夢中で見ていました。 メキシコと日本の時差は十五時間。向こうの昼の試合は、日本ではちょうど夜明け前から早朝の時間帯にあたります。つまりワールドカップを見るということは、いつもよりずっと早く起きるということでした。野球少年だった私を、早起きしてまでテレビの前に座らせる「サッカーの大会」。四年前には考えられなかったことです。 きっかけは、もちろん翼くんです。中学時代にこっそりはまった『キャプテン翼』が、野球少年の中に「サッカーを見る目」を作ってくれていた。そして画面の中には、漫画よりも漫画みたいな選手が、本当にいたのです。 マラドーナ。決して大きくはない体で、次々とドリブルで相手選手を抜き去っていく、あの力強いプレー。ボールが足に吸い付いたまま、屈強なディフェンダーが何人がかりで止めにきても、倒れない、止まらない。準々決勝のイングランド戦では、のちに「神の手」と呼ばれるあの一撃と、五人抜きの「世紀のゴール」を、わずか数分のあいだに両方やってのけました。手で押し込んだゴールですら「ゴール」と言わせてしまう。理屈ではありません。あの小さな背中には、それを許させてしまうだけの、圧倒的な存在感があったのです。 スペイン大会を素通りした少年は、四年かけて、ようやくワールドカップに追いついた──いや、翼くんとマラドーナに、追いつかされたのでした。 FMは「お兄さんのもの」、私の相棒は携帯ラジオ さて、もうひとつの「FMの日」。これも白状すると、当時の私はFM放送をあまり聞いた記憶がありません。FMといえば音楽番組。本屋には「FMレコパル」や「週刊FM」といったFM情報誌が並び、二週間分の番組表を蛍光ペンでチェックして、お目当ての曲が流れる時間にカセットテープの録音ボタンに指をかけて待つ──そんな「エアチェック」に励むのは、もう少し年上の、ちょっとお兄さんたちの世界。レコードを買うお金のない時代に、FMとカセットは音楽好きの強い味方だったわけですが、小学生の私には、まだずいぶんと背伸びの領域に感じられていました。 そのかわり、ラジオそのものとは、ずっと早くから深い付き合いがありました。 小学三年生のころ。すでに立派な野球小僧だった私は、プロ野球の巨人戦をテレビで欠かさず見ていました。ところが、テレビ中継には終わりがあります。たいてい二十一時前ごろ、試合の決着がつこうがつくまいが、中継はぷつりと終わってしまう。九回裏、一打逆転の場面でも、お構いなしに、です。あの「続きが見られない」悔しさは、昭和の野球少年なら誰もが知っていると思います。 でも、ラジオなら最後まで聞ける。テレビが「ここまで」と打ち切ったその先を、ラジオの実況はちゃんと最後のアウトまで届けてくれるのです。当時のAMラジオは夜の看板がナイター中継で、各局が看板アナウンサーと解説者をそろえて、延長になろうが何だろうが、試合が終わるまで付き合ってくれました。テレビに置いていかれた野球少年にとって、これほど頼もしい存在はありません。 それを知った私は、誕生日のプレゼントに携帯ラジオを選び、買ってもらいました。年に一度の誕生日プレゼントです。おもちゃでも、野球の道具でもなく、ラジオ。小学三年生の選択としてはずいぶん渋い気もしますが、当時の私にとっては「巨人戦の続きが聞ける魔法の箱」だったのですから、迷いはなかったのだと思います。 それからの習慣は決まっています。テレビ中継が終わると、携帯ラジオのチャンネルを野球中継に合わせ、枕元に置いて、布団に入る。画面はないけれど、アナウンサーの声と球場のざわめきだけで、場面はいくらでも目に浮かびました。実況が早口になれば走者が走り、歓声がわっと膨らめば白球が外野の頭上を越えていく。むしろ目をつぶっているぶん、想像のグラウンドはテレビより広かったかもしれません。 スペイン大会が開幕した昭和五十七年の夜も、きっと私の枕元では、ナイター中継が小さく流れていたはずです。世界の熱狂は、まだ私の布団までは届いていなかったけれど、私には私の、夜の続きがあったのです。 手のひらサイズのラジオは、令和のいまも現役です。あの頃の相棒のような一台は、枕元のナイター中継はもちろん、いざというときの防災ラジオとしても、ひとつ持っておくと心強いものです。 ソニー ポケットラジオ ICF-P27(FM/AM/ワイドFM)手のひらサイズの定番。枕元のナイターにも、防災の備えにも Amazonで見る › 令和の今、枕元にはスマホがあるけれど あれから四十四年。いままさに、北中米でワールドカップが開幕したばかりです。スペイン大会を素通りしたあの野球少年が、いまは開幕戦の日程を指折り数えて待つようになったのですから、人生はわからないものです。つい先日は、地元の四つ木・立石に点在する『キャプテン翼』の銅像九体を、ランニングで巡ってきた話も書きました。十三歳の私に教えてあげたら、きっと信じないでしょう。 観る環境も、すっかり変わりました。スマホひとつで試合が見られて、見逃した試合は翌朝に配信で追いかけられる。ラジオもradikoで、全国の放送局が手のひらに収まる時代になりました。野球中継が「二十一時前に終わってしまう」悔しさを、いまの子どもたちは知らないでしょう。続きが気になるなら、指先ひとつで続きが手に入るのですから。 それでも、ふと思うのです。枕元の小さなラジオに耳を澄ませて、音だけで満員の球場を思い描いた、あの夜の豊かさのことを。見えないからこそ見えたものが、確かにあった気がします。情報がいくらでも手に入る時代になったからこそ、あの「音だけの夜」が、妙に贅沢なものだったように思えてくるのです。 みなさんには、「枕元のラジオ」の思い出はありますか。そして、初めて夢中になったワールドカップは、どの大会でしたか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日 | 次の記事:6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入 ▶

June 13, 2026

6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日

六月の夕方五時すぎ。梅雨どきの空はまだ十分に明るくて、子どもたちは外遊びから帰ってくるか、家のテレビの前に座りこんでいる時間です。台所からは、お母さんの包丁の音と、煮物の匂い。お父さんはまだ会社。ちゃぶ台に夕飯が並ぶまでの、あの何でもない時間。昭和の、ごくありふれた月曜日の夕方でした。 昭和五十三年(一九七八年)六月十二日、午後五時十四分。その当たり前の時間を、突然の大きな揺れが襲いました。宮城県沖地震です。 その日、東京も揺れた 地震の規模はマグニチュード七・四。震源は宮城県の沖合、深さ約四十キロ。仙台などで当時の基準の震度五を観測し、揺れは東北地方を中心に、北海道から関東、中部、近畿あたりまで、列島のほぼ半分に及びました。 そして東京も、震度四。私は当時九歳、小学三年生です。葛飾の家にも、あの揺れは確かに届いていたはずなのです。 九歳の私に、揺れそのものの記憶は、正直なところ残っていません。けれど、その夜のニュースと翌朝のテレビは、はっきりと覚えています。倒壊した建物やブロック塀の映像が、何度も何度も繰り返し流れていました。なかでも忘れられないのが、一階部分がぺしゃんこに押しつぶされたビルの映像です。パチンコ店が入っていた雑居ビルが、上の階の重みでつぶれている。建物というのは、ああいうふうに「潰れる」ものなのか。九歳の目に焼きついたあの映像は、半世紀近くたったいまも、鮮明に思い出すことができます。 夕方五時十四分という時刻を、いま改めて考えてみます。学校から帰って、ランドセルを玄関に放り出して、原っぱや路地での遊びからそろそろ戻ってくる時間。各家庭がこれから夕飯の支度にとりかかる、その入り口の時間帯です。あの地震は、そういう「暮らしのまんなか」を直撃したのでした。 それでも、恐れられていた火災は、仙台市内でわずか八件と、事前の予測を大きく下回りました。「地震が来たらまず火の始末」という意識が市民に根づいていたこと、初夏で暖房を使っていなかったこと、そして本震の八分前に小さな前震があり、火を消した家庭が多かったこと。昭和の合言葉「地震だ、火を消せ」が、本当に機能した地震だったのです。 ブロック塀が、子どもたちの通学路で 宮城県沖地震では、東北全体で二十八人の方が亡くなり、負傷者は一万人を超えました。住宅の全半壊は七千棟以上。ただ、この地震が後の日本に残した教訓は、被害の数字そのものより、犠牲の「出かた」にありました。倒れた家屋の下敷きになった方よりも、ブロック塀や石塀、門柱の倒壊に巻き込まれて亡くなった方のほうが、ずっと多かったのです。 ブロック塀は、昭和の住宅地の風景そのものでした。私が育った葛飾の下町も、細い路地の両側にブロック塀や万年塀が連なっていて、子どもたちは毎日その脇を歩いて学校に通っていました。塀の上を歩いて怒られた子、塀の穴から隣の家の犬をのぞいた子。あれほど暮らしに馴染んでいたものが、ひとたび大きく揺れれば凶器になる。誰もがうすうす知っていながら、誰も真剣に考えてこなかったことを、この地震は突きつけました。 もうひとつ、この地震が初めて見せたものがあります。「大都市の地震」です。当時の仙台は人口五十万を超える大都市で、丘を切りひらいた新しい住宅団地がどんどん広がっていた時代でした。被害はその新興住宅地に集中し、都市ガスの復旧には約一カ月。電気、水道、電話という、都市の暮らしを支える線がいっせいに切れたとき何が起きるのか。日本が初めて目の当たりにした「都市型地震」だったと言われています。 この教訓から、昭和五十六年(一九八一年)に建物の耐震基準が大きく見直されました。いまも不動産の世界で使われる「新耐震」「旧耐震」という言葉。その境目を作ったのが、この宮城県沖地震なのです。発生日の六月十二日は、いまも宮城県の「県民防災の日」とされ、毎年この日に防災訓練が行われています。仙台のラジオ局では、毎日夕方五時十四分になると「宮城県沖地震が発生した時刻です」と伝える番組があるそうです。四十八年たっても、あの時刻は忘れられていないのです。 大人になって、震災は「見るもの」ではなくなった 九歳の私にとって、震災はテレビの中の出来事でした。けれど大人になるにつれ、それは少しずつ、自分の側へ近づいてきます。 平成七年(一九九五年)一月十七日、阪神・淡路大震災。私は二十五歳でした。冬の早朝、まだ眠っている都市を直下の揺れが襲い、高速道路が横倒しになり、六千四百人を超える方が亡くなりました。崩れた建物の多くが「旧耐震」の時代に建てられたものだったと、後の検証は伝えています。宮城県沖地震が残した宿題は、まだ終わっていなかったのです。朝のテレビが映し出した、横倒しの阪神高速。あの一枚の画は、「都市は地震に勝てるはずだ」という、私たちがどこかで抱いていた思い込みを、根こそぎ崩していきました。このときの私はまだ、九歳のあの日と同じように、画面のこちら側にいました。 そして平成二十三年(二〇一一年)三月十一日、東日本大震災。四十一歳の私は、もう画面のこちら側にはいませんでした。当時の私は路線バスの運転手で、あの日も乗務中だったのです。 走っているバスのハンドル越しにも、はっきりとわかる強い揺れでした。バスを路肩に停め、揺れが収まるのをじっと待つ。お客様を乗せたまま、車内で過ごしたあの数分間の長かったこと。やがて揺れが収まり、運行を再開しましたが、本当の異変が始まったのは、夕方の帰宅ラッシュからでした。 鉄道がすべて止まっている。動いているのは、バスとタクシーだけ。そこへ、家族を迎えに行く車が都内へどっと流れ込み、道路は身動きのとれない大渋滞になりました。私のバスは営業に出たまま、その渋滞のただなかに、お客様を乗せたまま立ち往生したのです。歩道には、家路を歩く人の列が夜まで途切れることなく続いていました。結局、車庫に戻れたのは、日付が変わった夜中の三時頃だったと記憶しています。 九歳のとき、テレビ画面のこちら側から見ていた震災。その三十三年後、私は人を家へ運ぶ側として、震災の夜の中にいました。震源は皮肉にも、あの日と同じ「宮城県沖」を含む、東北の太平洋沖。同じ海が、規模も性質もまるで違う災害を、同じ土地に、そして今度は私自身の一日に、もたらしたのです。 令和のいま、「次」は三つ指折り数えられている そして令和の今、関東に暮らす私たちは、専門家から「次」の候補をはっきり示されています。 ひとつめは、首都直下地震。マグニチュード七クラスの地震が今後三十年以内に起きる確率は、七十パーセント程度とされています。私たちの足元で、いつ起きてもおかしくないと言われ続けている、いちばん身近な脅威です。 ふたつめは、南海トラフ巨大地震。令和七年(二〇二五年)に確率の算出方法が見直され、三十年以内の発生確率は「六十〜九十パーセント程度以上」と「二十〜五十パーセント」というふたつの数字が併記されることになりました。数字に幅はあっても、「可能性が高い」という評価そのものは変わっていません。 そしてみっつめが、相模トラフの巨大地震。百年余り前、大正十二年(一九二三年)の関東大震災を起こした、関東の足元のプレート境界です。十万人を超える犠牲の多くが火災によるものだったあの震災は、私たちの祖父母の世代にとっての「地震」の原風景でした。「地震だ、火を消せ」という昭和の合言葉も、九月一日の防災の日も、もとをたどればこの震災に行き着きます。相模トラフの巨大地震そのものは数百年単位の間隔と考えられていますが、首都直下のマグニチュード七クラスは、その大きな地震に向かう過程で起きやすくなるとも言われています。 数字を並べると、正直、少し怖くなります。けれど思い出したいのは、宮城県沖地震からの四十八年間、日本がただ怯えていたわけではない、ということです。ブロック塀の点検が始まり、耐震基準が変わり、緊急地震速報が生まれ、学校の防災訓練は当たり前になった。いまでは揺れが来る数秒前に、ポケットの中のスマートフォンが一斉に鳴って教えてくれます。昭和五十三年のあの日、何の前触れもなく夕方の台所を襲った揺れのことを思えば、隔世の感があります。九歳の私たちが経験した「夕方五時十四分」は、決して無駄にはなっていないのです。 今夜、寝る前に、寝室の家具の置き方をひとつ見直してみる。水のペットボトルを一本、買い足しておく。それが、昭和五十三年六月十二日の揺れを知っている世代の、ささやかな務めなのかもしれません。 みなさんには、忘れられない地震の記憶がありますか。子どもの頃にテレビで見たもの、大人になって自分の身に起きたこと。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と | 次の記事:6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった ▶

June 12, 2026

6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と

朝、玄関の戸を開けて、湿った土の匂いがふっと鼻に届くと、ああ、梅雨が来たな、と思います。きょう六月十一日は、暦の上の「入梅」。立春や八十八夜と同じ雑節のひとつで、梅の実が熟す頃に降る雨だから「梅雨」、その入り口だから「入梅」です。いまは気象庁が「梅雨入りしたとみられます」と発表してくれますが、昔の人は暦のこの日を境に、およそ三十日間を梅雨と心得ていたのだそうです。令和八年は、ちょうどきょうが暦の上の入梅にあたります。そこから六月十一日は「傘の日」という記念日にもなっています。 そしてもうひとつ。昭和四十七年(一九七二年)のこの日は、当時通産大臣だった田中角栄が、あの『日本列島改造論』を発表した日でもあります。 傘と、列島改造。一見なんのつながりもない二つですが、どちらも昭和の雨の日の風景の、すぐそばにあったものです。きょうは梅雨入りの朝にふさわしく、雨の話から始めさせてください。 雨の日の通学路 子どもの頃の梅雨は、いまよりずっと長く感じられました。 私が育った高砂のあたりは、当時はまだ木々の生い茂った空き地があちこちに残っている町でした。梅雨どきの雨の日に歩いていると、ブロック塀や草むらのそこかしこに、カタツムリやアマガエルの姿を頻繁に見つけることができたものです。アスファルトとコンクリートばかりになったいまの高砂からは、ちょっと想像がつかないかもしれません。 登校の途中でカタツムリを捕まえて、そのまま教室に持ってくるクラスメイトもいましたね。雨の日の教室の窓際で、誰かの筆箱の上をのんびり這っていくカタツムリ。あのカタツムリたちがその後どうなったのか、いまとなっては知るよしもありませんが、雨の日にしかない、あの小さなにぎわいだけは妙に記憶に残っています。 学校に着くころには、靴下のつま先がじっとり湿っている。教室の後ろにずらりと並んだ傘から、ぽたぽたと水が垂れて、廊下に細い川をつくる。雨の日の小学校には、あの独特の、濡れた布と土埃の混ざったような匂いがありました。 ビニール傘は、東京の下町生まれ ところで、いまや日本の雨の日の象徴のようになっているビニール傘。あれが東京の下町で生まれた発明品だということを、ご存じでしょうか。 つくったのは、江戸の享保年間から続く老舗の傘問屋「武田長五郎商店」、いまのホワイトローズという会社です。もとは煙草の商いから始まり、煙草を湿気から守る油紙で雨合羽をこしらえて雨具屋に転じ、大名行列の雨具まで納めたという、筋金入りの「雨」の家系。戦後すぐの傘は綿の布張りが主流で、雨に濡れると染料が溶けて色落ちし、服にシミをつけてしまうのが悩みの種でした。そこに目をつけた九代目が、進駐軍の持ち込んだ「ビニール」という新素材で、傘にかぶせる防水カバーをつくった。これが昭和二十八年(一九五三年)に大当たりします。 やがてナイロン傘の登場でカバーが売れなくなると、今度はビニールそのもので傘をつくってしまえと、昭和三十三年(一九五八年)、世界初のビニール傘を完成させました。昭和三十九年(一九六四年)の東京オリンピックで来日したアメリカのバイヤーの目にとまり、海を渡っていったといいますから、たいしたものです。 いまやコンビニのレジ脇に当たり前のように並ぶビニール傘。その元祖は、東京・下町の老舗傘問屋が昭和三十三年(一九五八年)に世に送り出した、世界初の発明品だった。(Photo: KKPCW / CC BY-SA 4.0) 余談をひとつ。昭和五十五年(一九八〇年)ごろ、この会社はある都議会議員から「顔が見える透明で丈夫な傘がほしい」と頼まれます。雨の日の街頭演説で、黒い傘は聴衆に圧迫感を与えるが、透明な傘なら表情が伝わるし、庶民的に見える、というのです。こうして生まれた選挙用の頑丈なビニール傘は、口コミで議員たちの間に広まったのだとか。選挙カーの上の透明な傘に、そんな来歴があったとは。 私が子どもだった昭和五十年代、ビニール傘はまだいまほど「使い捨て」のものではなかったように思います。透明な傘越しに見上げる雨空が、布傘の下より少しだけ明るかったこと。あの感じは、昭和の発明がくれた小さな贈り物だったのかもしれません。 三歳の私の頭の上で、日本が変わり始めた さて、もうひとつの六月十一日。昭和四十七年(一九七二年)のきょう、田中角栄が『日本列島改造論』を発表しました。 新幹線と高速道路で日本中を結び、太平洋側に集まりすぎた工場を地方に移して、東京の過密と地方の過疎を一気に解決する──そんな大風呂敷の構想です。当時の東京は、人口の三割が国土の一パーセントに住むといわれた超過密状態。発表の翌月には田中は総裁選を制して総理大臣になり、本は九十一万部を超えるベストセラーになりました。政策の本がその年の売り上げ四位に入ったというのですから、当時の熱気がうかがえます。 『日本列島改造論』を引っさげ、昭和四十七年(一九七二年)七月、総理大臣の座に駆け上がった田中角栄。新潟の寒村から身を起こした「今太閤」の描いた構想は、日本中を熱狂させた。(Photo: 首相官邸ホームページ / CC BY 4.0) このとき私は三歳。本の中身など知るよしもありません。けれど、いま振り返ると、私が子ども時代を過ごした昭和四十年代の終わりから五十年代の町には、たしかに、いつもどこかで工事の音がしていました。 なかでも印象に残っているのが、環状七号線──環七の工事です。 いまでこそ環七は当たり前のように中川を渡っていますが、私の小学生時代、あの橋はまだ存在しませんでした。環七は中川で分断されていて、青戸側と高砂側を行き来するには、けっこうな迂回を強いられたものです。その「最後の切れ目」をつなぐ橋の工事が、ちょうど私の小学生時代に進められていたのでした。 橋の名は、青砥橋。青戸二丁目と高砂一丁目を結ぶ、長さ六百四十メートル余りの長大橋です。昭和五十四年(一九七九年)の秋に工事が始まり、完成は昭和六十年(一九八五年)一月。私が中学三年の冬のことです。そして実は、この青戸から奥戸にかけての区間こそ環七で最後まで残っていた未開通区間で、青砥橋の完成によって、環七は計画からおよそ五十八年をかけて、ようやく全線がつながったのでした。子どもの頃に毎日眺めていた工事現場が、東京の大動脈の「最後のひと筆」だったとは。 中川をまたいで青戸と高砂を結ぶ青砥橋。スカイツリーを背に、ゆるい弧を描いて伸びている。当たり前のように渡っているこの橋が完成して、環七はようやく一本につながった。 いま車で渡ると、意外と登るな、と感じるゆるい坂。歩いてみると、想像よりずっと長い。そして橋の上から見おろす中川は、下町の空が広く感じられて、なかなかの抜け感があります。高砂側から青砥駅の方へ向かうときの目印にもなっていて、すっかり生活の一部です。当たり前のように渡っているこの橋が「なかった」頃の町を知っている、というのは、考えてみれば不思議な感覚ですね。 列島改造論が環七をつくったわけではありません。環七の計画自体は戦前にまでさかのぼります。それでも、日本中を道路と橋でつなごうという、あの時代の大きなうねりの末端が、私の町の、あの工事現場だったのだと思います。子どもの頃の耳に残る槌音は、日本がまだ「建設中」だった時代の音でした。 もっとも、列島改造の構想は土地の投機を呼んで地価が跳ね上がり、オイルショックと重なって「狂乱物価」と呼ばれるインフレを招くことにもなりました。茶の間で大人たちが顔を曇らせていた「物価が上がる」という言葉の出どころが、まさかこの日の発表にあったとは。子どもの私は、知るはずもありませんでした。 令和の雨の日に いまの東京で雨が降ると、駅前はビニール傘の花畑になります。コンビニで数百円。壊れたら、買い替える。あの下町の傘問屋が手塩にかけて生んだ発明は、皮肉なことに「いちばん粗末に扱われる傘」の代名詞にもなってしまいました。 それでも私は、透明な傘を差して見上げる梅雨空が、嫌いではありません。雨粒がビニールを叩く音は、昭和の雨の日と、たいして変わらないのですから。 みなさんは、子どもの頃の雨の日に、どんな思い出がありますか。お気に入りの傘の色、長靴の中に入ってしまった雨水の冷たさ、通学路で見つけたカタツムリ、そして、いつのまにか町から消えていった空き地のこと──よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う | 次の記事:6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日 ▶

June 11, 2026

6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026

6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す

梅雨の走りの、少し湿った朝の空気を吸い込むと、私はなぜか古いカセットテープの匂いを思い出します。きょう六月九日は、六と九で「ロック」と読む語呂合わせから、「ロックの日」とされているのだそうです。音楽のロックを称える日。そう聞いただけで、私の頭の中では、もう何十年も前のテレビの歌番組のテーマ曲が鳴りはじめてしまうのです。 しかも六月九日は、昭和三十九年(一九六四年)生まれの薬師丸ひろ子さんの誕生日でもあります。私より五つ年上の、銀幕のスター。もっとも、その話はあとで正直に白状するとして――きょうはまず、昭和の子どもだった私が、どんなふうに音楽と出会っていったのかを書かせてください。 木曜の夜九時が、待ち遠しかった 歌番組といえば何かと問われたら、私は迷わず『ザ・ベストテン』と答えます。 昭和五十三年(一九七八年)に始まった、TBSの音楽番組。毎週木曜日の夜九時から、黒柳徹子さんと久米宏さんの司会で、その週のランキングを一位までカウントダウンしていく生放送です。私がまだ小学生の頃のことですが、とにかく木曜の夜九時が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。 そして翌日の金曜日。学校に行けば、まず友だちと「答え合わせ」です。何位だったか、誰がランクインしたか、自分の予想は当たったか。ひとしきり盛り上がったあとは、もう来週の予想を語り合っている。たかが歌のランキングに、よくもまあ、あれだけ夢中になれたものだと思います。 それに、私たちにとってベストテンは、観るだけでなく「録(と)る」ものでもありました。毎週、ラジカセをわざわざテレビの前まで運んできて、お気に入りの歌をカセットテープに録音するのです。録音するには、赤い録音ボタンと、それとは少し離れたところにある白い再生ボタンを、二つ同時にガチャッと押し込まなければなりませんでした。あの重たい手応えを、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 ところが、これがときどき失敗するのです。押し込みが甘かったのか、肝心のところが録れていなかった――そんな"やらかし"をした仲間がいると、金曜日の教室はもう大盛り上がり。順位の答え合わせと同じくらい、いや、ときにはそれ以上に、誰それの録音失敗談こそが、その週いちばんのごちそうだったのです。 なかでもダントツに覚えているのが、西城秀樹さんの「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。何週にもわたって一位を独走したあげく、ついに得点が満点に達してしまった。レコードの売上も、有線のリクエストも、ラジオも、はがきも、ぜんぶが一位。その満点というのが、九千九百九十九点。番組の得点ボードは四桁までしか表示できませんでしたから、子ども心にも「これ、表示する数字が足りないじゃないか!」と大騒ぎしたものです。9がずらりと並んだあの数字の壮観は、いまでも目に焼きついています。両手で「Y・M・C・A」とやる振り付けを、教室のみんなで真似していたのも、ちょうどあの頃でした。 もうひとつ忘れられないのが、めったにテレビに出ない歌手が出演するとなったときの騒ぎようです。たとえば松山千春さん。「テレビは出るもんじゃなく、見るものだ」という考えで、長らく出演を断っていた人でした。その千春さんがベストテンに出るらしい――そんな話が伝わってくると、私たちはもう大興奮、大騒ぎでした。ところが不思議なことに、これだけ騒いだのですから本番を見逃すはずがないのに、いざ放送を見た瞬間の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているのです。残っているのは、その前のソワソワした昂(たかぶ)りばかり。当日の私は、興奮しすぎて、かえってぼうっとしていたのかもしれません。 そして、ランキングの数字とはまた別に、私の胸に深く刻まれているコーナーがあります。「今週のスポットライト」です。久米さんが独特の"ため"をきかせて「今週の……スポッ……トライト!」と読み上げる、その週の注目曲をお披露目する枠でした。 あれは小学生の頃です。そのスポットライトに、ゴダイゴというグループが登場して、「ガンダーラ」という曲を歌いました。ゴダイゴって何だ? ガンダーラって何だ? 名前からして、何もかもが分からない。頭の中は「???」でいっぱいでした。けれど――そのよく分からなさを吹き飛ばすように、「ガンダーラ、ガンダーラ」と繰り返されるあの旋律が、たった一度聴いただけで、私をすっかり虜(とりこ)にしてしまったのです。早く、もう一度あれが聴きたい。子どもにそう思わせるほど、その一曲は強烈でした。のちに、あれが日本テレビのドラマ『西遊記』の歌だと知るのですが、私にとっての「ガンダーラ」は、ドラマよりも先に、あのスポットライトの一瞬から始まったのでした。 ランキングの頂点で満点に輝く曲があり、めったに姿を見せない人がいて、そして、まだ誰も知らない才能がそっと照らし出される。一つの番組の中に、音楽との出会いのぜんぶが詰まっていたように思います。 フォークから、ロックへ 私が物心つく前、世の中ではフォークソングが鳴っていました。ギター一本で、自分のことばを歌う。少し上の世代のお兄さん、お姉さんたちが夢中になっていた音楽です。 それが、私が小学校から中学、高校へと上がっていくにつれて、少しずつ景色が変わっていきました。フォークがニューミュージックと呼ばれるようになり、やがてバンドの音が前に出てくる。私が高校生だった昭和六十年代の半ばには、エレキギターをかき鳴らすバンドが、すっかり時代の主役になっていました。のちに「バンドブーム」と呼ばれる、あの熱気の入り口です。自分の聴く音楽が、上の世代から受け継いだものではなく、「自分たちの世代のもの」に変わっていく。その手触りを、ちょうど多感な時期に味わえたのは、いま思えば幸せなことだったのかもしれません。 レコード、貸しレコード屋、そしてエアチェック とはいえ、子どもにとって音楽は、そう簡単に手に入るものではありませんでした。 レコードは高い。アルバム一枚が、子どものお小遣いではなかなか手の届かない値段です。そんな私たちの強い味方が、貸しレコード屋でした。昭和五十五年(一九八〇年)ごろから街に増えていったあの店で、聴きたいアルバムを借りてきて、家でカセットテープに録(と)る。一枚分の値段で、何枚分もの音楽を自分のものにできた気がしたものです。 そして、もうひとつの方法が「エアチェック」。ラジオの、とくにFM放送で流れる曲を、ラジカセで録音するのです。FMの番組表が載った雑誌をめくって、お目当ての曲がかかる時間に印をつけ、その時刻になったら録音ボタンに指をかけて待ち構える。曲の頭が切れないように、DJのおしゃべりが終わる呼吸を読んで、そっとボタンを押す。そうやって自分だけの一本を編んでいくのが、たまらなく楽しかった。 テープが擦り切れるまで聴いた、あの一本。きっと皆さんにも、それぞれの「あの一本」があるのではないでしょうか。 そういえば、カセットテープは令和のいまも、ちゃんと売られています。あの頃と同じmaxellの録音用テープ。手元のラジカセがまだ動くなら、もう一度「自分だけの一本」を編んでみるのも、いいかもしれません。 maxell 録音用カセットテープ 46分 11本パックあの頃と同じノーマルポジション。音楽の録音に Amazonで見る › 私のアイドルは、河合奈保子から中森明菜へ さて、冒頭の薬師丸ひろ子さんの話です。 正直に言うと、私はそれほどの映画少年ではありませんでした。だから薬師丸さんも、私にとっては「そうそう、いたいた」という感じの存在で……熱心なファンの方には、本当に申し訳ないのですが。映画館のスクリーンよりも、私の目はもっぱらテレビの歌番組のほうを向いていたのです。 その歌番組の中で、私の心を占めるアイドルは、ちょうど移り変わっていく時期にありました。明るくて健康的な河合奈保子さんから、どこか翳(かげ)りのある大人びた中森明菜さんへ。ちょうど私が中学に上がるころのことだったでしょうか。いま思えば、自分が子どもから少年へと背伸びをはじめた時期と、好みの移りゆきが重なっていたのかもしれません。アイドルの趣味というのは、その人がどんな子どもだったかを、案外正直に映してしまうものなのですね。 令和の今、思うこと いまは、聴きたい曲があれば、スマートフォンで指を一本動かすだけで、世界中の音楽がすぐに鳴り出します。ランキングを来週まで待つこともなければ、貸しレコード屋に走ることも、録音ボタンの前で息を殺すこともない。歌いたくなれば、カラオケに行けばいい。……そういえば、ベストテンに夢中だったあの頃、カラオケボックスなんてまだありませんでした。覚えたての歌を、私たちはいったいどこで歌っていたのでしょうね。お風呂場でしょうか。(笑) 便利になりました。本当に、便利になったと思います。ただ、いま思うのは、あの頃は国じゅうのみんなが、たった一つの番組を囲んで、いっせいに盛り上がっていたのだということです。木曜の夜、同じ時間に、同じランキングに、一喜一憂する。翌日の教室で、その話で誰とでも通じ合える。九千九百九十九点に日本じゅうが沸く、なんていう一体感は、音楽の聴き方が一人ひとりのものになった今では、なかなか味わえないものかもしれません。 皆さんにとっての「歌番組」といえば、何でしたか。木曜の夜、テレビの前で順位を待ったあの時間に、どんな曲が流れていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の「きょう」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で、ゆっくりと振り返っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた | 次の記事:6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う ▶

June 9, 2026

6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた

梅雨入りの近い六月の朝。地上は今にも降り出しそうな鈍色(にびいろ)の空でも、地下鉄のホームへ降りてしまえば、雨も風も関係のない別世界がひろがっています。少しだけ埃(ほこり)っぽくて、生暖かい風がトンネルの奥からふわりと吹いてくる、あの感じ。きょう六月八日は、その地下鉄にまつわる、私のちょっと不思議な思い出の話をさせてください。 私にとっての「地下鉄」は、都営浅草線だった 私は京成高砂のあたりで育ちました。だから私にとって「地下鉄」というと、まっさきに思い浮かぶのは、都営地下鉄浅草線です。 高砂の駅から電車に乗って出かけるとき、行き先にはおおきく二つの方向がありました。ひとつは、京成上野のほう。もうひとつは、押上を抜けて都営浅草線へと入っていく、浅草のほうです。同じ高砂発の電車でも、上野へ向かうときと、浅草方面へ向かうときとでは、子どもながらに、何か明らかに違うものを感じていました。 上野方面が、どこか馴染みのある、地つづきの世界だとすれば、浅草方面は——その先で、ほかのいくつもの地下鉄の線と複雑に絡み合っている、「難しい」世界でした。日本橋だ、新橋だと、聞いたこともない乗り換えの駅がいくつも連なっていて、子どもの私には、その入り組んだ様子が、どうにも手に負えないものに見えたのです。 それでも、退屈はしませんでした。車両のなかに貼られた、いくつもの地下鉄の線が色とりどりに描かれた路線図。あれを眺めているだけで、目的の駅に着くまでの時間は、あっという間に過ぎていったのです。見たこともない駅の名前をひとつひとつ目で追いながら、「ここには、いったいどんな町があるのだろう」と、私は飽きもせず想像をふくらませていました。 いま思えば、そんな路線図の中に、あの黄色い線も、きっとあったはずです。行ったこともなければ、乗ったこともない。ただ眺めて、その先の町を空想するだけの、一本の線として。 昭和六十三年六月八日、黄色い線が全部つながった その黄色い線が、ついに端から端までひとつながりになったのが、昭和六十三年(一九八八年)の六月八日でした。 この日、営団地下鉄有楽町線の新富町〜新木場間が開業し、和光市から新木場までの全線、二十八・三キロが開通したのです。昭和四十九年(一九七四年)に池袋〜銀座一丁目の区間が開業してから、実に十四年越しの全線開通でした。ラインカラーは、あの黄色。湾岸の埋め立て地・新木場までが、一本の線でようやく都心と結ばれた瞬間でした。 そういえば、この「有楽町線」という名前そのものが、公募で決まったものだと知ったのは、ずっとあとのことでした。開業の前の年、営団地下鉄が路線名を広く一般から募ったところ、二千五百を超える案、三万通あまりもの応募が寄せられたのだそうです。そのなかでいちばん多かったのが「有楽町線」だった。子どものころ、あの黄色い線をただ眺めていた私には、線の名前ひとつにも、どこかの誰かの「こう呼びたい」という思いがこもっていたなんて、思いもよらないことでした。 終点の「新木場」という地名も、考えてみれば面白いものです。もともと江東区には材木商が集まる「木場」という街がありました。その木材の街が、手狭になった都心から湾岸の埋め立て地へと移ってできたのが「新しい木場」、すなわち新木場なのです。当時はまだ、貯木場の水面と倉庫が広がる、発展のこれからという土地でした。そこへ地下鉄が一本通った。海の近くの埋め立て地にまで、都心の地下鉄が手を伸ばしてきたのです。 このとき、私は十九歳。昭和という時代も、いよいよ最後の年に差しかかっていました。正直に言えば、私はこのニュースを、たいして気に留めていませんでした。都営浅草線には親しんでいた私にとっても、有楽町線は、子どものころ車内の路線図でただ眺めていた、あの「行ったこともない一本」のままだったのです。 そしてこの黄色い線には、もうひとつ、私がのちのち驚かされることになる仕掛けがありました。西の端の和光市では、東武東上線と線路がつながっていて、電車はそのまま相手の線へと乗り入れていく。新木場を出た電車が、乗り換えなしで、はるか埼玉の森林公園のほうまで走っていくのです。この「乗り換えなし」という何でもない事実が、それから十数年後、思いがけず私の胸を打つことになります。 新木場で気づいた、母へ続く一本の線 時は流れ、私は三十代になっていました。縁あって佐川急便に勤め、配属されたのが、よりによって、あの新木場の営業所だったのです。 そう、昭和六十三年にようやく全線がつながった、あの有楽町線の終着駅です。十九歳の私が聞き流していた街に、まさか自分が毎日通うことになるとは、思ってもみませんでした。荷物に追われる日々のなかで、新木場という地名が、かつてニュースで聞いた「全線開通」の終点だったことなど、すっかり忘れていました。 朝早くから、トラックが何台も出入りし、伝票の束と荷物の山に追われる毎日でした。湾岸の埋め立て地は海の風が強く、冬はことさら冷えました。それでも昼休みにふと外へ出ると、すぐそこまで水辺が迫っていて、ここはやっぱり海を埋め立ててできた街なのだな、と妙に納得したものです。子どものころ路線図の上で眺めていた「新木場」という三文字の終点に、まさか自分が毎朝、汗をかきながら立っているとは——人生というのは、つくづく分からないものです。 ある日のこと。新木場駅に掲示されていた路線図を、何の気なしに眺めていて、私はふと手が止まりました。 「この線……一本で、川越まで行けるのか」 当時、母は川越に住んでいました。新木場から有楽町線に乗れば、和光市で東武東上線へとそのまま乗り入れ、川越まで、乗り換えなしでたどり着いてしまう。あの、子どものころ車内の路線図で眺めては「どんな町だろう」と空想していた黄色い線の、ずっと先に、母の暮らす街がつながっていた。気づいた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなったのを覚えています。 実際に私は、数えるほどではありますが、仕事を終えたその足で、職場から川越の母のもとへ向かったことがあります。東京湾の埋め立て地にある終着駅と、小江戸と呼ばれる川越の母の家。一見すると何の関わりもない二つの場所が、一本の黄色い線でまっすぐに結ばれている。揺られていく車内で、私は妙な感慨にとらわれていました。 窓の外を流れていく景色が、地下のトンネルから、やがて地上の住宅街へと変わっていく。海辺の終着駅を出た電車が、いつのまにか埼玉の街並みを走っている。その車窓の移り変わりそのものが、新木場と川越という遠く離れた二つの場所が、確かにひと続きの土地なのだと、目で教えてくれているようでした。 十九歳のとき、私が気にも留めなかったあの全線開通。それが巡り巡って、三十代になった私と、母とを結ぶ一本の道になっていた。子どものころ車内の路線図を眺めて「どんな町だろう」と空想していた黄色い線は、ずっと先のずっと先で、ちゃんと私自身の暮らしへとつながっていたのです。眺めるだけだったあの線に、いつのまにか私は、毎日乗っていた。 令和の電車は、もっと遠くまでつながっている あれから、東京の鉄道は、ますます複雑に、そして遠くまでつながりました。 いくつもの路線が互いに乗り入れ、横浜のずっと向こうから都心を抜け、さらに別の県へと、一本の電車が県境をいくつも越えて走っていく。今では、それが当たり前の風景です。手元のスマートフォンに行き先を打ち込めば、最短の経路が一瞬で表示される。乗り換えの回数も、何分後に着くかも、すべて画面が教えてくれます。私の子どもたちは、私のように路線図とにらめっこして、見知らぬ駅名に空想をふくらませることも、もうないのかもしれません。 便利になったぶん、あの新木場での小さな驚き——「この線、母までつながっていたのか」というあの感覚は、いまではかえって味わいにくくなった気もします。経路を教えてくれる矢印は、たしかに便利です。けれど、地図の上の一本の線が、いつのまにか自分の大切な人へとまっすぐ続いていたと気づく、あの胸の奥がふっと温かくなる驚きまでは、運んできてはくれないのですから。 地図の上のただの一本の線が、めぐりめぐって、自分の大切な人へとつながっている。そんなことに気づく瞬間が、人生にはときどき、ふいに訪れるのですね。 あなたの暮らしの地図にも、知らないうちに、誰かと自分とを結んでいた「一本の線」は、ありませんか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと | 次の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す ▶

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