昭和の今日は何があった日? ―5月26日―

5月26日 ― 高速の夢と、海辺の悲劇 昭和の5月26日という日付には、まるで表と裏のように、ふたつのまったく違う出来事が刻まれている。 ひとつは、日本中が前向きな興奮に沸いた日。もうひとつは、晴れた海辺で突然に悲劇が訪れた日。どちらも昭和という時代の、正直な顔だと思う。 「東名」が全部つながった ― 昭和44年5月26日 1969年(昭和44年)のこの日、東名高速道路が全線開通した。 東京インターチェンジから愛知県の小牧インターチェンジまで、約346キロ。それまで国道1号線を使えば東京から名古屋まで9時間半かかっていたのが、一気に5時間を切るようになったという。足柄サービスエリアで記念式典が行われ、建設を支えた外国人技術顧問たちも出席して全線を走り抜けたと記録されている。 私が生まれたのは、この年の4月だ。つまり東名が全線つながったのは、私の誕生からわずか1ヶ月後のことになる。生まれた直後の日本で、こんな一大事が起きていたとは、調べてみるまで知らなかった。 もちろん、生後1ヶ月の私にその意味がわかるはずもない。 そして正直に言えば、「東名高速でドライブ」というのは、私の子ども時代には縁遠い話だった。父の休みといえば、まとまって休めるのは正月の1日と2日だけ。あとは週に一度、平日に休みがあるだけだった。家族がそろう日曜日に父がいる、ということ自体がなかった。だから家族みんなで出かけるという機会は、ほとんどなかった。自家用車を持てるほどの余裕もまだなかった。 宿泊旅行など、したことがなかった。 でもそれは、私の家だけの話ではなかったと思う。周りの友達の家も、似たようなものだった。父が必死で働いてくれているのは、子どもながらにわかっていた。だから「どうして旅行に行かないの」とか「なんで車がないの」なんて、口に出したことは一度もない。それは「高嶺の花」であって、羨むものでもなかった。そういう時代だった。 東名高速道路・厚木インターチェンジ付近。背景に大山を望む。昭和44年のこの日、この道がつながった。(Photo: Σ64 / CC BY-SA 3.0) ただ、テレビのニュースに映る東名高速の映像は、なんとなく覚えている。ずらりと並ぶクルマ、広いサービスエリア、富士山を背景にした高速の風景。画面の向こうの話ではあったけれど、「いつかはああなりたい」という気持ちを、国民みんなが抱いていたのかもしれない。豊かになっていくことへの期待と意欲を、あの時代のテレビはうまく掻き立てていたように思う。 昨年の夏、大阪まで それから半世紀以上が経った。 昨年の夏、私は子どもたちを車に乗せて、3泊4日の大阪旅行に出かけた。自宅近くの首都高の入口から乗って、一度も高速を降りることなく大阪まで着いてしまった。一昨年の夏は5泊6日で福井まで行ったが、やはりすべて高速道路でつながっていた。 ハンドルを握りながら、何度か不思議な気持ちになった。 これだけの距離を、これだけ快適につないだ道を、誰かが作ったのだ。山を削り、川に橋をかけ、トンネルを掘り、何年もかけて。あの昭和44年の式典に出席した技術者たちが、その最初の大仕事をやり遂げた。そう思うと、先人たちの仕事への畏怖と感謝が、運転しながら自然と湧いてきた。 そしてもうひとつ、胸の奥にあたたかいものが来た。 私が子ども時代にできなかった「家族旅行」を、今、自分の子どもたちとしている。それは私だけが特別になったわけではない。あの時代から少しずつ、多くの家族が同じことをできるようになった。問題がないわけではないけれど、それでも私たちは「豊かになっている」と実感できる。その豊かさは、必死で産み育ててくれた父と母の上に積み重なっているものだ、と思ったら、感謝の気持ちが溢れてきた。 そしてふと思った。数十年後、私の子どもたちはどんな時代に、どんなことを思い返すのだろう。その想像が、なんだかとても楽しかった。 遠足の海辺で ― 昭和58年5月26日 ところでこの5月26日には、もうひとつ忘れてはならない出来事がある。 1983年(昭和58年)の午前11時59分。秋田県の沖合を震源とするマグニチュード7.7の大地震が起きた。「日本海中部地震」だ。 揺れ自体は震度5。しかし地震の数分後、日本海沿岸に最大6メートルを超える津波が押し寄せた。死者104人のうち、100人が津波で命を落とした。 その中に、遠足中の小学生たちがいた。 秋田県の合川南小学校の4年生と5年生が、2台のバスで男鹿半島の加茂青砂海岸を訪れていた。バスの中で揺れが収まるのを待ったあと、海岸に降りてお弁当を広げようとした瞬間、津波がきた。13人の子どもたちが波にのまれた。 昭和58年、私は14歳だった。同じ5月の晴れた日、遠足でお弁当を広げようとしていた子どもたち。その光景を想像するだけで、言葉が出ない。 1983年(昭和58年)5月26日・日本海中部地震の震度分布図。津波で104人が犠牲になった。(出典:気象庁 / CC BY 4.0) 日本海側では津波の経験が少なく、地震のあとに海へ近づいてはいけないという意識が広まっていなかった。それが被害を大きくした。この地震を機に、日本では津波防災教育が大きく変わっていった。 それでも、2011年の東日本大震災では、日本海中部地震とは比較にならないほどの津波が三陸沿岸を飲み込み、二万人近い命が失われた。教訓を積み重ねてきたはずの私たちが、また大自然の前に立ち尽くした。 人間の生み出す力は偉大だと思う。東名高速道路のように、山を削り、川に橋をかけ、何年もかけて道をつなぐ。そういう力を、私たちは確かに持っている。しかし大自然の前では、その力が幾度となく無力になる瞬間がある。絶望を知り、それでも立ち上がり、また前へ進む。日本という国は、そうやってここまで来た。 これからも、きっとそうやって進んでいくのだと思う。 同じ日付に、ふたつの昭和 高速道路の開通に沸いた昭和44年と、遠足の子どもたちが津波に飲み込まれた昭和58年。 同じ5月26日に、まるで違う昭和がある。前に進む喜びと、自然の前での人間の無力さ。どちらも昭和という時代が正直に刻んだ記録だ。 あなたにとって、昭和の5月はどんな思い出が残っているだろうか。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった ▶

May 26, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日

今日、5月25日は、私がずっと「夏の映画」だと思い込んでいた出来事の、本当の誕生日だ。 昭和52年(1977年)5月25日。アメリカで一本の映画が公開された。タイトルは『スター・ウォーズ』。わずか32の劇場からスタートしたその映画は、瞬く間に全米を席巻し、ジョーズが打ち立てた興行収入の記録を塗り替え、やがてアカデミー賞7部門を獲得した。しかし私は、この日付を長い間知らなかった。 そりゃそうだ。私にとってスター・ウォーズは「昭和53年の夏」の記憶だからだ。 一年間、日本の子どもたちは待たされた 全米公開から約一年が経った昭和53年(1978年)6月、ようやく『スター・ウォーズ』は日本の劇場にやってきた。今でこそ日米ほぼ同時公開が当たり前だが、当時は半年や一年のタイムラグは珍しくなかった。 それでも、その一年間が長かったことは確かだ。「スター・ウォーズ」という映画の噂は、日本にいる子どもたちの耳にもじわじわと届いていた。アメリカで信じられない映像が作られた、光の剣で戦うシーンがある、ロボットが出てくる……。「宇宙戦艦ヤマト」でSFアニメの洗礼を受け、「仮面ライダー」で変身ヒーローに慣れ親しんだ当時の日本の子どもたちにとって、その情報は十分すぎるほど想像を掻き立てるものだった。 待ちきれないファンの中には、大枚をはたいてアメリカまで観に行った人もいたという。今の感覚では信じられないような話だが、海外旅行がまだ贅沢だった時代に、映画一本のためにそこまでした人がいたというのだから、いかに熱狂的だったかがわかる。 映画の舞台「タトゥイーン惑星」のロケ地となったチュニジア・ネフタ周辺の砂丘。あの幻の惑星は、北アフリカの実在する大地に宿っていた。(Photo: DamienSlattery / CC BY-SA 3.0) 王冠の裏に、銀河がいた 私の記憶の中でスター・ウォーズは、映画館よりも先に「コカ・コーラの王冠」で登場した。 日本公開に合わせて、コカ・コーラとファンタのびん入り飲料に、スター・ウォーズのタイアップ王冠が登場した。1本50円の190ミリリットル入り。王冠の内側のビニールをペりとめくると、そこにダース・ベイダーやR2-D2、C-3POといったキャラクターが印刷されていた。コンプリートしたくても、毎日毎日コーラを買い続ける小遣いなどあるはずがない。 だから子どもたちはどうしたか。自販機に備え付けられた栓抜きを使って、大人たちが飲み干してそのまま置いていった王冠を拾ったのだ。栓抜きの溝に引っかかったまま残っている王冠に指を突っ込んで取り出す。地面に落ちているものも当然見逃さない。 私はさらに大胆な手に出た。小学校の正門前にある駄菓子屋——学校指定の用品も売っているような、あの馴染みの店だ——に置いてあった栓抜きの下の王冠受け容器ごと外して、ひっくり返して中身をぶちまけたのだ。今思えば相当なことをしていたが、当時はそれを「工夫」だと信じて疑わなかった。 しかし王冠を手に入れても、それで終わりではない。本当の目的はここからだった。 集めた王冠をアスファルトの地面に置き、靴底で踏みながら足を引きずる。ゴリゴリと摩擦をかけ続けると、王冠のギザギザの縁と、内側のビニール面が少しずつ分離してくる。それをTシャツの布地を外側と内側からはさみ込んで、ギザギザの縁を布に食い込ませる——完成。手製のスター・ウォーズバッジである。 ダース・ベイダーのバッジを胸に貼り付けた瞬間の、あの満足感。100円も使わずに、靴底と地面だけで作り上げた銀河系グッズ。今思えばなんとも必死な話だが、当時はそれが当たり前の「創意工夫」だった。 チュニジア・アジムの「モス・アイズリー・カンティーナ」のロケ地。映画の中でルークとハン・ソロが出会った宇宙酒場は、ここで撮影された。(Photo: Stefan Krasowski / CC BY 2.0) お菓子屋さんでも同じような熱気があった。明治の「マーブルチョコレート」には、スター・ウォーズのキャラクター入りマスコットが同梱された小さな筒入り商品が登場し、1個70円で売られた。みんなが欲しがったのはダース・ベイダーだったが、なぜかチューバッカばかり出てきた──そんな「恨み節」が後になっても語り継がれているのだから、あのブームはリアルだった。森永は「スター・ウォーズ・キャラメル」を発売し、マクドナルドではドリンクを頼むとルーク・スカイウォーカー、C-3PO&R2-D2、ダース・ベイダーの絵柄が入ったカップが出てきた。 映画を観る前から、銀河はすでに子どもたちの手のひらに降りてきていたのだ。 光の剣でチャンバラをした夏 昭和53年の夏休み。映画館の前に子どもたちが列を作った。 宇宙船が音を轟かせてスクリーンを横切る冒頭のシーン。ルーク・スカイウォーカーがライトセーバーを手にする場面。ダース・ベイダーが黒いマントとともに登場した瞬間の、あの重低音。CGなど存在しない時代に、あれほどの映像をどうやって作ったのか今でも不思議だ。 映画館を出た子どもたちは、棒切れや傘を手にしてライトセーバーのチャンバラを始めた。「シュウゥゥ」という効果音を口で言いながら。「フォース」という言葉の意味はよくわからなくても、なんとなく重要なものだということはわかった。ダース・ベイダーに憧れた子も、少なくなかったと思う。あの声、あの存在感、あのマスク——悪役なのに、主人公よりもかっこよかった。 ジョージ・ルーカス監督は、日本の時代劇、特に黒澤明監督の作品から大きなインスピレーションを得ていたとされている。ライトセーバーは刀を、ダース・ベイダーのヘルメットは鎧兜を模したものだと言われていた。遠い銀河の物語が、実は私たちの文化の血を受け継いでいたという事実は、後になって知ると不思議な誇らしさがあった。 チュニジア・アジムに残る「オビ=ワン・ケノービの家」のロケ地。荒野に立つ白い石造りの家——ルークが初めてオビ=ワンと出会う、あの場所だ。(Photo: Stefan Krasowski / CC BY 2.0) 昭和52年5月25日——知らなかった、私の時代の誕生日 話を戻そう。 昭和52年の今日、5月25日。私は12歳だった。その日もおそらく、公園で野球をしていたか、駄菓子屋でホームランバーを買っていたか、テレビのアニメに夢中になっていたか——そんな普通の一日を過ごしていたはずだ。 遠い国の映画館で、歴史が変わっていることを知る由もなく。 それが一年後、コカ・コーラの王冠になり、マーブルチョコのマスコットになり、映画館の行列になって、私の目の前にやってきた。昭和の子ども時代の記憶は、案外そういう形で届くものだったのかもしれない——誰かが5月25日に作ったものが、一年かけて、夏の思い出になって。 あなたも、あの夏の行列を覚えているだろうか。王冠を拾って歩いた、あの日のことを。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月24日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ―5月26日― ▶

May 25, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 5月24日

黒澤明、世界を黙らせた日の翌朝 昭和55年(1980年)5月24日の朝刊を、私は覚えていない。 当時の私はまだ小学校に上がったばかりで、新聞を読む習慣などなかったし、カンヌという南フランスの街の名前も知らなかった。でも大人たちは知っていた。おそらくテレビのニュースでも伝えられていた。黒澤明監督の映画『影武者』が、カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールを受賞した、という知らせを。 前日の5月23日(日本時間)、フランスで開かれた第33回カンヌ国際映画祭の授賞式で、『影武者』がグランプリに輝いた。日本映画がこの賞をとったのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督『地獄門』以来、実に26年ぶりのことだった。 この映画には、公開前から話題が絶えなかった。 武田信玄の影武者として生きる小泥棒の物語を、黒澤はおよそ23億円という当時の日本映画では破格の製作費をかけて作り上げた。しかもその資金集めに協力したのが、ほかならぬハリウッドの二大巨匠、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスだった。あの「ゴッドファーザー」のコッポラと、「スター・ウォーズ」のルーカスが、それぞれ外国版プロデューサーとして名を連ね、世界配給のために動いた。 子どもの私が「スター・ウォーズ」の名前を聞いて目を輝かせていた頃、そのルーカスが、海の向こうで黒澤明のために奔走していたわけだ。あとになってその事実を知ったとき、なにか不思議な縁のようなものを感じた。黒澤の「隠し砦の三悪人」が、ルーカスの「スター・ウォーズ」に影響を与えていたとも言われているから、返礼のようなものだったのかもしれない。 主演の仲代達矢が二役を演じ、山崎努、萩原健一、根津甚八といった芸達者が揃う。北海道から姫路城、熊本城へとロケ地を縦断し、富士山麓には巨大な武田屋形のオープンセットまで建てられた。その配給収入は27億円を超え、その年の邦画のトップに輝いた。 カンヌ映画祭の赤いカーペット。昭和55年5月23日、ここで『影武者』がパルム・ドールを受賞した。(Photo: Rita Molnár / CC BY-SA 3.0) パルム・ドールの報が届いた翌朝の5月24日、大人たちの間でこの映画の話が弾んでいたことは想像に難くない。職場でも、居酒屋でも、「黒澤はやっぱりすごい」「コッポラやルーカスも認めたんだから」という声が聞こえてきただろう。 私はそのとき何をしていたのだろうか。たぶん、ホームランバーを舐めながら公園で遊んでいたか、友達の家でゲームに興じていたか。世界が黒澤明に喝采を送っていたその5月の昼下がりに、昭和の子どもたちはいつも通りの日常を生きていた。 赤線が消えていく、その少し前の話 ずっと以前のこと、昭和31年(1956年)5月24日に、ひとつの法律が公布された。 売春防止法、という。 売春を助長する行為を処罰し、その防止を図ることを目的としたこの法律は、翌昭和32年4月に施行され、罰則の完全施行は昭和33年4月とされた。そして昭和33年に、「赤線」と呼ばれた地域が廃止されていった。 「赤線」とは何か。それは地図に赤い線で囲われた、公娼制度のもとで黙認されていた地区のことだ。戦後の混乱期に各地で形成されたそうした場所は、昭和20年代から30年代にかけて、街の地理の一部として存在していた。 私が育った葛飾でも、立石という町にその痕跡が残っていた。 京成立石駅の北口あたり、商店街の喧騒からほんの少し路地に入ったところに、子どもの目にも「ここはなんか違う」と感じさせる一角があった。建物の造り、看板の雰囲気、ひっそりとした佇まい。大人が子どもに説明するような場所ではなかったから、私はただ漠然と「近づいてはいけない」という空気だけを感じていた。昭和の時分、立石には旧赤線の名残りを留めた一角や特殊浴場と呼ばれる施設が残っており、それは人々の日常のすぐそばに、当然のように溶け込んでいた。 今になって調べてみると、戦後の東京には赤線と呼ばれる地域が十数か所も存在していたという。立石もそのひとつだった。「東京中が赤線だった」と当時の新聞記者が嘆いたという記録すら残っている。昭和33年の赤線廃止以降も、そうした場所の「残り香」は街のあちこちにしみついていて、私が小学生だった昭和50年代にも、その気配はまだ消えてはいなかった。 葛飾区立石の航空写真(2006年撮影)。昭和の面影を残す路地が、今も密集している。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報」CC BY 4.0 売春防止法の公布から、私が生まれるまでに10年以上ある。だから「赤線」そのものを見た記憶はない。しかし、その名残のような場所が日常のすぐ隣に当たり前に存在していたあの頃と、今の時代とでは、街の風景も、人々の感覚も、まるで別の世界のように変わってしまった。 法律ひとつで街の風景が変わる。昭和という時代は、そういう変化が幾重にも積み重なってできた時代だったのだと、今になって思う。 5月24日という日は、大人の世界では二つの大きな出来事に挟まれた日だ。世界に誇る映画監督の受賞という晴れやかな知らせと、街の闇を法律で塗り替えようとした戦後の苦しみと。 どちらも昭和という同じ時代の、同じ5月24日に刻まれている。 あなたは、この日の昭和をどう覚えていますか? ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 ▶

May 24, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月23日~

五月の風が少し強くなる頃、世界のどこかで、昭和の日本を揺さぶるニュースが届くことがある。 この日付には、四年という時間を隔てて、まったく別の舞台で生まれたふたつの「快挙」が眠っている。どちらも、当時の新聞のスポーツ欄や社会面を飾り、茶の間の話題をさらった出来事だ。 世界のクロサワ、カンヌで勝つ——昭和55年(1980年)5月23日 フランスのカンヌから、日本中が沸くようなニュースが飛び込んできた。 黒澤明監督の映画「影武者」が、第33回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞したのだ。日本映画がカンヌの頂点に立つのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督「地獄門」以来、実に26年ぶりの快挙だった。 「影武者」は、戦国武将・武田信玄の影武者に仕立てられた小泥棒の物語だ。信玄の死後、その秘密を守るために「信玄」を演じ続けることを強いられた男が、やがて武田家の滅亡とともに無名のまま消えていく。主演は仲代達矢さん。もともと主演に決まっていた勝新太郎さんが撮影途中で降板するという大騒動もあり、公開前から世間の注目を集めていた。 私は当時小学生で、「カンヌ映画祭」が何なのかわかるはずもなかった。ただ「日本の映画がフランスで一番になった」というニュースが夕方のテレビで繰り返し流れ、父か母が「えらいことになったな」とつぶやいていた記憶だけがある。 それが何の意味を持つのか、大人になってから少しずつわかってきた。 当時の黒澤明は、日本の映画会社から資金を出してもらえない状況が続いていた。そこに手を差し伸べたのが、「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラと「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスだった。世界の頂点にいたハリウッドの鬼才ふたりは、「マスター・クロサワが資金難で映画を撮れないなどあってはならない」と20世紀FOXへの出資交渉に動いた。黒澤が描いた数百枚にも及ぶ絵コンテを目にした彼らは、驚愕して言葉を失ったという。 私たちが公園で野球をしたり、駄菓子屋でアイスを舐めていたあの頃、世界はそれほどの目で、日本の一人の老監督を見つめていた。 上野公園に残る黒澤明の手形。世界が認めた「マスター・クロサワ」の足跡。(Photo: Daderot / CC0) 後年「影武者」を改めて観たとき、私はその映像美に言葉を失った。信玄の影武者として「本物」になろうと足掻きながら、最後まで「偽者」のままで死んでいく男の孤独。土煙の戦場に身一つで踏み込み、矢に射られて倒れていくラストシーン。あれだけの絵を、あの時代に一人の人間がつくり上げたという事実に、今も静かに圧倒される。 三兄弟、同時に関取へ——昭和59年(1984年)5月23日 舞台はがらりと変わって、大相撲の世界へ。 この日、一つの番付発表が相撲ファンを沸かせた。井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決まり、すでに関取だった長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾と合わせて、史上初の三兄弟同時関取が実現したのだ。 「井筒三兄弟」——。父は、「もろ差しの名人」と呼ばれた元関脇・鶴ヶ嶺昭男。自らが師匠を務める井筒部屋に、三人の息子を全員入門させた。長男・鶴嶺山、次男・逆鉾、そして末っ子の寺尾。鹿児島の血を引く父子四人が、同じ土俵で汗を流していた。 私がちょうど千代の富士の昇進を追いかけながら相撲中継に熱中していた頃の話だ。千代の富士が横綱へと駆け上がっていったあの時代、テレビには引き締まった筋肉の「ウルフ」と並んで、細身の体で激しい突っ張りを繰り出す寺尾の姿があった。あの甘いマスクと、信じられないほど速い突っ張りのコントラストが妙に記憶に残っている。 三兄弟の母・節子さんは、当時「蔵前小町」と呼ばれるほどの美人だったという。三兄弟から深く慕われていた節子さんが亡くなったとき、すでに力士だった長男と次男に、父・鶴ヶ嶺はこう言ったそうだ。「おまえらお客さんいるんだから帰れ」と。そうして三男・寺尾の四股名は、亡き母の旧姓から一字をとって付けられた。 相撲の家族とは、こういうものなのだ、と思った。土俵の上の激しさとは裏腹に、その根っこに流れているものは、ひどく人間的なあたたかさだ。 寺尾こと現・錣山親方。細身の体から繰り出す突っ張りで長く土俵を沸かせた。(Photo: FourTildes / CC BY-SA 3.0) 昭和59年のあの番付発表の日、父親の鶴ヶ嶺はどんな顔をしていたのだろう。三人の息子が同時に「関取」として土俵に立つ——親として、師匠として、どんな言葉もきっとうまく出てこなかったのではないか、と想像する。 二つの「父と子」の話として 並べてみると、昭和55年と59年のこの日の出来事には、どこか共鳴するものがある。 カンヌでパルム・ドールを受けた黒澤明も、自分の映画を撮るために敬愛する弟子たちの力を借りた。三兄弟も、父親が切り拓いた土俵の上を、それぞれの足で歩いた。受け継ぐもの、超えようとするもの、守り続けるもの。「影武者」の問いかけと、三人の力士の姿が、同じ五月二十三日という日付の中でひそかに重なって見える。 そしてこの話を書きながら、ふと自分のことを思った。 私には妻との間に4男1女、5人の子どもがいる。歳の差はあるが、みな丈夫で元気に育ってくれた。そして5人全員が、小学生時代に同じ学童野球チームに所属した(末っ子は現在も所属中だ)。そのチームは、今から45、6年前——私自身が小学生だった頃に所属していたチームでもある。 同じグラウンド、同じユニフォーム、世代をまたいで続く縁というものが、確かにある。 いつの日か、私も含めた6人全員で同じグラウンドに立って、野球の試合をしたい。それが今の私の、ひそかな楽しみであり目標だ。そのためにも毎日のランニングと懸垂を続けている。笑われるかもしれないが、本気でそう思っている。 鶴ヶ嶺親方が三人の息子と同じ土俵に立った気持ちが、少しだけわかる気がする。 あなたには、子どもや孫と「同じ場所に立つ」夢があるだろうか? 【昭和55年(1980年)5月23日】第33回カンヌ国際映画祭にて、黒澤明監督「影武者」がパルム・ドール受賞。日本映画26年ぶりの栄冠。 【昭和59年(1984年)5月23日】大相撲・井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決定。長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾とともに史上初の三兄弟同時関取が実現。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月24日 ▶

May 23, 2026

パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日

5月22日。私にとってこの日付は、黄色い丸い生き物と、東京じゅうに積み上がったゴミの山という、まったく違う二つの光景が重なる日だ。 「パクパク」が迷路を走り出した日 昭和55年(1980年)5月22日、渋谷のゲームセンターに一台の筐体が置かれた。 黄色い丸がパクパクとエサを食べながら迷路を走り、赤・ピンク・青・オレンジの4匹のモンスターから逃げる。ゲームの名前は『パックマン』。ナムコが送り出したそのゲームが、のちに世界を席巻することになるとは、だれも思っていなかっただろう。 Photo by inunami / CC BY 2.0 当時、ゲームセンターはスペースインベーダーの衝撃がまだ冷めやらない頃だった。エイリアンを撃つ、戦車を撃つ。アーケードというのは「撃つ」場所だった。ところが、パックマンには敵を攻撃する要素がない。ひたすら「食べて逃げる」だけだ。 開発者の岩谷徹氏は「アーケードは暴力的なゲームであふれていた。エイリアンをやっつけるような内容のものばかりだった」と振り返る。だからこそ、違うものを作りたかった。食べることをテーマにした、やわらかいゲームを。パックマンという名前も、物を食べる時の「パクパク」という日本語の擬態語から生まれた。 私がパックマンをはじめて目にしたのは、あの安い倉庫みたいなゲームセンターだったと思う。30円か50円のコインを握りしめて薄暗い店内に入ると、ブラウン管の光の中でそのまるっこい黄色い顔が笑っていた。レバーを4方向に倒しながら迷路を走る感覚は、それまでのシューティングゲームとはまるで違っていた。「逃げる」という体験が、あんなに面白いとは知らなかった。 敵には、それぞれ「性格」があった ゲームに夢中になりながら、私たちは気づかないうちにある不思議を感じていたはずだ。「なんか敵が生きてるみたいだな」と。 実は4匹のモンスターには、それぞれ個性が設計されていた。 赤の「アカベイ」はパックマンをしつこく追いかけてくる。ピンクの「ピンキー」は追いかけるのではなく、パックマンの進行方向の先へ先回りする。水色の「アオスケ」は気まぐれな動きをして、どこへ来るか読みにくい。オレンジの「グズタ」はパックマンに近づきすぎると急にふらふらと離れていく。 これは「個性のある敵キャラクター」という発想の、世界でも最初期の試みだった。今でいえばAIのような概念が、1980年という時代にすでに迷路の中に息づいていた。「追う」「先回り」「気まぐれ」「迷う」という4つの行動パターンが絡み合うことで、迷路の中の戦況は毎回違う顔を見せた。それが「なんか生きてる感じ」の正体だったのだ。 今から46年前のゲームが、現代のAI技術にも通じる考え方を持っていたとは、当時の子どもだった私には想像もできなかった。 パックマンには迷路を攻略するパターンがあり、友達の間で「このルートで行けば5面まで死なない」という攻略法が口伝えに広まった。放課後のゲームセンターで真剣に迷路を走る子どもたちの後ろに人だかりができる。そんな光景が各地であったはずだ。 1980年から7年間で総販売台数は約29万台を超え、「最も成功した業務用ゲーム機」としてギネス・ワールド・レコーズにも認定された。あの黄色い丸が初めて走り出したのが、昭和55年の今日だったとは、当時は知るよしもなかった。 東京が「ゴミ戦争」を戦っていた日 もうひとつ、この5月22日には忘れられない出来事がある。 昭和48年(1973年)5月22日、東京・江東区が杉並区のゴミ搬入を実力で阻止した日だ。 「東京ゴミ戦争」という言葉は、正直なところ、私の記憶にない。当たり前といえば当たり前で、昭和48年の私はまだ4歳だった。怒鳴り合うニュース映像もわかるはずがない。それでも、この出来事を調べていたとき、ふと頭に浮かんだ光景があった。 葛飾区・水元のあの温水プールだ。 社会科見学と、ゴミを燃やす熱 小学4年生、昭和54年ごろのことだ。葛飾区の小学生は「社会科見学」で水元の葛飾清掃工場を訪れた。職員の方に焼却炉の仕組みを教えてもらい、ゴミを燃やした時に出る熱が蒸気となって、隣接する施設のプールを温めていると聞いた。「ゴミの熱でプールが温かくなる」という話は、10歳の子どもにも妙に印象深く残った。 見学のあと、友達とそのプールでばちゃばちゃと泳いだ。余熱利用の仕組みは頭に入っていたけれど、それがどんな歴史の流れの上にあるのかまでは、もちろんわかっていなかった。 「自分のゴミは自分で処理せよ」 ゴミ戦争のあらましはこうだ。江戸時代から現代まで、東京のゴミを受け入れてきた土地が江東区だった。昭和40年代の大量消費社会でゴミが激増すると、江東区の「夢の島」はハエやネズミが大量発生する悪臭の島と化した。東京都は各区に清掃工場を建設して「自区内処理」を推進しようとしたが、杉並区では住民の反対で建設計画が何度も頓挫した。 杉並区で5月21日に反対派による流会が起きたため、江東区では翌5月22日、杉並区のゴミ搬入を実力阻止した。東京都清掃労働組合も連帯してボイコットし、杉並区内のゴミ収集は止まった。 自分たちのゴミを処理する施設を「うちには要らない」と拒み続けた結果、区内にゴミの山が積み上がる。この対立は全国ニュースとなり、「自分のゴミは自分の区で処理する」という原則が東京じゅうで問い直された。 東京・江東区の夢の島。かつてゴミで埋め立てられた島は、現在は公園として整備されている。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報(カラー空中写真)」 あの夏のプールと歴史の線 その問い直しの流れが、東京各区の清掃工場整備を加速させた。葛飾区も例外ではなかった。工場が整備されれば、その焼却熱を地域に還元しようという発想が生まれる。余熱は蒸気となり、隣接する施設のプールを温める。 私が友達と泳いだあの水元のプールは、その歴史的な流れの終着点のひとつだったのだ。 「東京ゴミ戦争」→「自区内処理の推進」→「各区の清掃工場整備」→「余熱利用施設(温水プール)の設置」 社会科見学でその仕組みを教わっていたのに、どうしてその工場ができたのか、なぜ余熱利用という発想が生まれたのか、その背景まで考えたことは一度もなかった。4歳の私には届かなかったニュースが、10歳の私をプールで泳がせていたとは。 昭和55年5月22日、黄色い丸が東京の繁華街に生まれた日。 昭和48年5月22日、東京じゅうのゴミの置き場をめぐって大人たちが怒鳴り合った日。 子どもには見えなかったことが、50年近く経ってようやくつながる。歴史の線は、いつもあとから引かれるものらしい。 あなたの子ども時代に「あれはそういうことだったのか」と気づいた出来事は、何かあるだろうか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ ▶

May 22, 2026

昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝

昭和53年(1978年)の5月、私は小学5年生だった。 その日のテレビには、見たことのない風景が広がっていた。巨大な旅客機が滑走路に降りてくる映像。空港の制服を着た人たちが忙しそうに動き回っている映像。「新東京国際空港、初便到着」とアナウンサーが興奮を抑えながら伝えていた。 しかし正直なところ、成田空港の開港というニュースは、10歳の私にはまだ遠い存在だった。千葉の成田というのは、なんとなく「遠くの場所」で、自分の日常と結びつくような感覚がまるでなかった。 ところが同じ5月21日に、もうひとつの出来事があった。こちらは、私の目の前で起きていたことだった。 踏切の向こうに現れたもの 私は葛飾区に住んでいる。最寄り駅は京成高砂駅だ。 昭和53年5月21日、京成電鉄の空港線が開業し、京成上野駅から成田空港駅(現・東成田駅)まで、特急「スカイライナー」の運行が始まった。 マルーンとクリームの2色塗り。この塗装で昭和53年から走り始めた。 その日、父と一緒に高砂駅の近くの踏切へ見に行った記憶が、今も残っている。あの踏切は「開かずの踏切」と呼ばれるほど電車の通りが多い場所だ。遮断機が下りたまま、なかなか上がらない。その踏切の向こうを、スカイライナーが通り過ぎていった。 マルーンとクリームに塗り分けられた車体。すっと伸びた流線型のボディ。普通の京成電車とは明らかに違う、特別な風格があった。 子どもながらに、「かっこいい」と思った。そして、誇らしかった。 私にとっての「新幹線」 東海道新幹線が開通したのは昭和39年(1964年)のことで、私が生まれる前の話だ。だから「新幹線の開通」という興奮を、私はリアルタイムでは体験していない。 スカイライナーの開通は、私にとってそれに近い感覚だったと思う。 自分の暮らす町の、見慣れた踏切を、特別な列車が通り過ぎていく。それが今日から毎日走るようになった。その事実が、子ども心にずっしりと響いた。遠くの出来事だった「成田空港の開港」とは違って、スカイライナーは目の前にいた。 「スカイライナー」という名前も好きだった。あとで知ったことだが、この名前は日本全国の小学生からの公募で決まったという。子どもたちが名付け親というわけで、余計に親しみを感じた。 騒ぎの中でようやく開いた扉 とはいえ、当時の私には成田空港の開港をめぐる複雑な事情など、何も見えていなかった。 成田空港は本来、昭和48年(1973年)3月に開港する予定だったが、大幅に遅れた。農地を守ろうとする地元農民の反対運動に新左翼の活動家が加わり、機動隊との激しい衝突が続いた。開港直前の昭和53年3月には、反対派が管制塔に突入して機器を破壊し、開港がさらに2か月延期されるという事態まで起きた。 機動隊が重装備で警戒する中での開港式典。出席者はわずか56名だったという。 5月21日、開港後の初便である日本航空のロサンゼルス発の貨物機が到着第1便として着陸し、正午過ぎに旅客機初便のフランクフルト発の日本航空機も続いた。同じ日にスカイライナーも走り始めた。 その日のニュース映像の裏に、そんな長い長い歴史があったとは、踏切の前で目を輝かせていた10歳の私には知る由もなかった。 今も変わらない光景 2010年登場。在来線最速の時速160kmで走り、日暮里―成田空港間を最速36分で結ぶ。 現在、スカイライナーはボディカラーを濃い青と白に変え、シャープな車体でさらに速く成田空港と都心を結んでいる。 高砂駅の近くで、スカイライナーを親子で見に来ている光景を目にすることがある。子どもが目を輝かせ、親が「あれがスカイライナーだよ」と教えている。 そのたびに、あの日の父と私のことを思い出す。 遮断機が下りて、しばらく待って、轟音とともに通り過ぎていったあの列車。成田空港はまだ遠い存在だったけれど、スカイライナーだけは、確かに私の目の前で走っていた。 それが昭和53年5月21日のことだった。 昭和40〜64年の「今日」を、子どもだったあの頃の目線で振り返るシリーズです。あなたにも、昭和の5月21日にまつわる記憶がありますか? ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 | 次の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 ▶

May 21, 2026

成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和

5月の空は高い。梅雨前の、束の間の晴れ間が続くこの季節に、昭和はふたつの大きな出来事を刻んでいる。ひとつは「夢」が開いた日。もうひとつは「夢」が終わった日の話だ。 朝ごはんを食べながら聞いた言葉 1978年(昭和53年)5月20日。 「成田空港反対運動」「過激派」「機動隊と衝突」。 小学生だった私は、朝ごはんを食べながら流れてくるテレビのニュースで、こういう言葉を毎日のように耳にしていた。ヘルメットをかぶった学生、泥まみれの農民、機動隊の盾。子どもには意味がよくわからない、でもなんとなく怖くて騒々しい映像の連続だった。 実は、この日の開港はギリギリの滑り込みだった。本来の開港予定は3月30日。ところが2日前に過激派グループが管制塔に乱入して機器を破壊し、やむなく約2か月延期となった末の、この5月20日だったのだ。開港当日も反対同盟と機動隊の衝突は続き、反対派が燃やした古タイヤの黒煙が空に立ちこめる中、新東京国際空港は産声を上げた。 でも、飛行機そのものは夢だった。 29か国の航空会社34社が乗り入れる、日本初の本格的な国際空港。テレビニュースの騒然とした映像の向こうに、なんとなく「外国」という輝きが透けて見えた気がした。 ところで、このころの為替レートは1ドル300円前後だった。今は1ドル160円くらいでも「大変な円安だ!」と騒がれているが、300円というのはそれより倍もドル高な時代だ。そして振り返ってみれば、昭和から平成、令和と、時代はいつも「円高だ!」「円安だ!」と騒ぎ続けてきた。どうやら、為替というものはいつの時代も誰かを悲鳴させるようにできているらしい。 笑点とサザエさんの間に流れたあの声 もうひとつは1984年(昭和59年)5月20日の話だ。大相撲の力士、高見山大五郎が引退を表明した。 日曜日の夕方といえば、私にとって「笑点」と「サザエさん」の時間だった。その間に流れてくる丸八真綿の布団CM。でんぐり返しからの「まるはーち!」、そしてあのしゃがれた声で「2枚、2枚!2倍、2倍!」。 子どもたちは次の日、学校でこれを真似した。「2倍!2倍!」というキャッチフレーズは一躍ブームになり、子どもから芸人までが口真似をするほどだった。武家屋敷風の部屋に入ってきた高見山が布団に入り、最後に電気を消し忘れるというオチのバージョンもあった。ヒツジの着ぐるみをまとって「ジェシーの羊」(メリーさんの羊の替え歌)が流れるバージョンもあった。どれも、あの図体に似合わない愛嬌があふれていた。 ハワイ・マウイ島出身、本名ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア。身長192センチ、体重205キロ。愛称「ジェシー」。彼は1968年に外国出身力士として初めて幕内に入り、1972年7月場所では外国人力士として史上初の幕内最高優勝を果たした。表彰式ではニクソン米大統領の祝電が読み上げられたというのだから、その注目度がわかる。 ただ、正直に言う。 当時の私が「知っているお相撲さん」といえば、北の湖、輪島、貴ノ花、そして高見山だった。でも相撲中継で見る高見山の印象といえば……ほとんど負けていた記憶しかないのだ。突き落とされ、投げられ、土俵の外に転がり出ていく大きな背中。子ども心に「なんか強くないな、この人」と思っていた。高見山関、本当に申し訳ない(笑)。 もちろん実際には、20年間土俵に立ち続けた鉄人だった。「40歳まで相撲を取りたい」「建設中の両国国技館で相撲を取りたい」という夢を胸に、怪我をおしながら出場を続けた。引退宣言は場所の途中、突然のことだった。千秋楽の最後の一番は黒星だったが、満員の観衆から大声援が降り注ぎ、花道に花束が舞った。 「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と彼は言った。 昭和天皇がのちに「高見山がなぜ辞めたのかね」「残念だったろうな」と語られたと伝わっている。それを知らされた高見山は、「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。40歳まであと1か月。両国国技館の開場は翌1985年。どちらの夢も、わずかに届かなかった。 でも、ジェシーは日本に残った。東関部屋を興し、やがて弟子の曙を横綱に育て上げる。彼の昭和は、引退の日に終わったわけではなかった。 5月20日。煙の中を飛行機が降りてきた日と、土俵を去った大男が泣いた日。 あなたは「まるはーち!」をまだ口から出せますか? ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 ▶

May 20, 2026

5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた

昭和27年(1952年)の5月19日、東京・後楽園球場に4万人の人間が詰めかけた。 野球の試合ではない。ボクシングだ。しかも特設リングをグラウンドの真ん中に組んで戦うというのだから、どれほど異様な熱気だったかが想像できる。 その夜から74年。5月19日は「ボクシングの日」として今も残っている。 そして私は今、この日付を眺めながら思う。日本人はずっと、ボクシングの世界チャンピオンに熱狂してきたのだ、と。時代ごとに「チャンピオン」は変わり、「熱狂の道具」も変わった。でも熱狂そのものは、変わらなかった。 昭和27年 ラジオの前に家族が集まった夜 白井義男という名前を、今の若い人はほとんど知らないだろう。でも昭和の大人たちに聞けば、きっと目が変わる。 彼は昭和27年5月19日、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノ(アメリカ)に15回判定勝ちし、日本人として初めてプロボクシングの世界王者となった。 当時の世界ボクシングにはフライ級からヘビー級まで8つの階級しかなかった。世界チャンピオンは地球上に8人しかいない、ということだ。その「世界の8分の1」に、敗戦からまだ7年しか経っていない日本人がなってしまった。 白井の戦い方は独特だった。「打たれたら打ち返す」が当時の日本ボクシングの常識だったのに対し、彼は「打たせないで打つ」スタイルを貫いた。それを仕込んだのは、GHQの職員として来日していたアルビン・カーン博士というアメリカ人。ボクシングの経験はほとんどないのに、スポーツ生理学の知識を武器に白井を育て上げた。このちょっと不思議なコンビが、日本に初めての世界チャンピオンをもたらした。 その夜、4万人が詰めかけた後楽園球場に来られなかった人々はどうしていたか。 テレビはまだほとんどの家庭にない時代だ(NHKのテレビ放送が始まるのは翌昭和28年)。だから人々はラジオに耳をかっていた。この試合のラジオ聴取率は83%を記録したという。日本中の家が、ラジオの前で固まっていたのだ。 83%という数字の凄まじさを想像してみてほしい。日本中の家がほぼ全部で、同じ音声を聴いている。家族全員が息を殺して、アナウンサーの声に耳を澄ませている。15ラウンドを戦い抜いて判定が告げられた瞬間、ラジオの前でも飛び上がった家族がいたに違いない。 白井が勝ったことは、単純な「スポーツで勝った」ではなかったと思う。あの戦争から立ち直れるんだ、という証明だった。敗戦後の日本人が、自分自身を取り戻す一つの節目。後楽園球場の4万人の歓声は、そういう重さを持っていた。 昭和50年代 テレビの前にかじりついた夜 それから四半世紀が過ぎ、日本は高度経済成長を経て、テレビが一家に一台の時代になっていた。 「私にとってのボクシング世界チャンピオンは具志堅用高だ」と言える世代は、おそらく昭和40年代生まれ前後だろう。その感覚、私にはよくわかる。 具志堅用高は昭和51年(1976年)10月10日にWBA世界ライトフライ級王座を獲得し、そこから昭和56年(1981年)3月8日まで、約4年5か月にわたってチャンピオンに君臨し続けた。13回連続防衛。これは長い間、日本記録だった。 小学生の間ずっと「世界チャンピオンが具志堅用高」という状況だったのだから、それはもう「当たり前の風景」のように感じていたはずだ。 試合の夜は特別だった。 ふだんはボクシングにそれほど興味がなくても、具志堅用高の世界タイトルマッチとなれば話は別だった。テレビの前にかじりついて応援した。家族みんなで。それが当時の日本の、ゴールデンタイムの風景だった。 具志堅の魅力は、強さだけではなかった。独特のアフロヘアと、沖縄訛りの底抜けに明るいキャラクター。「ちばりよー!」という言葉が全国に広まり、沖縄出身の若者が日本中のヒーローになった。那覇の小さな少年がここまで来たんだという物語が、日本人の感情を揺さぶった。 白井義男の時代に「83%のラジオ」があったとすれば、具志堅用高の時代には「茶の間のテレビ」があった。ゴールデンタイムに全国生中継。チャンネルを変えるという選択肢がない時代、日本中が同じ画面を見ていた。 令和の今 スマホの画面に映る「モンスター」 そして今、令和の日本に「モンスター」がいる。 井上尚弥だ。 神奈川県座間市出身、1993年生まれ。ライトフライ級から始まり、スーパーバンタム級まで世界4階級を制覇した。愛称は「モンスター」。 何がそこまで凄いのか。 軽量級というのは、一般に「判定が多い」と言われる。体重が軽い分、一発でKOするほどのパワーを出しにくいからだ。ところが井上尚弥は、世界王者クラスの相手でも試合を終わらせてしまう。ボディブロー、左フック、カウンター、連打——どれもが凶器になる。特にボディ打ちは「内臓をえぐる」とまで表現されるほどだ。 しかも、スピード・テクニック・パワーのどれか一つが突出しているのではなく、全部がトップ水準にある。ボクシング関係者から「欠点が少なすぎる」と言われるゆえんだ。 忘れられない試合がある。2019年のノニト・ドネア戦。井上選手は眼窩底骨折を負いながら激闘を制し、強さだけでなく精神力と修正能力を世界に示した。2023年のスティーブン・フルトン戦では階級を上げて挑み、内容で圧倒してTKO勝利。「井上尚弥は本物中の本物」という評価が決定的になった試合だった。 海外でも評価は高い。パウンド・フォー・パウンド(階級の差を取り払った最強ランキング)で常に上位に名前があり、アメリカやイギリスでもスター選手扱いだ。「日本ボクシング史上最高のボクサー」と評価する声は、国内にとどまらない。 ところで、どこで見るのか問題 ただし、である。 井上尚弥の試合を見たいと思ったとき、かつてのような「テレビをつければゴールデンタイムにやっている」という状況ではなくなっている。 主な視聴方法は今やこうなっている。 まずAmazon Prime Video。近年の日本開催ビッグマッチはAmazonが独占することが多く、プライム会員なら追加料金なしで生配信を観られる。次にLemino(NTTドコモ系の配信サービス)。ボクシング関連コンテンツを多く扱っており、無料部分もある。それからWOWOW。海外開催の試合やビッグマッチで今も放送される。以前より頻度は減ったが、ボクシング中継の伝統は残っている。 地上波テレビはどうなったかというと、具志堅用高の時代、辰吉丈一郎の時代、亀田興毅の時代のような「ゴールデンタイム全国生中継」はかなり減った。放映権料の高騰、配信サービスの普及、若年層のテレビ離れ、配信会社による独占契約——理由はいくつか重なっている。 昭和世代からすれば「寂しい」と感じる変化かもしれない。茶の間のテレビで家族みんなが見ていたあの感覚は、もう戻らない。 でも、実は今のほうが「見やすい」面もある。 かつては深夜開始の試合もあった。録画に失敗することもあった。延長で別の番組がズレることもあった。今はスマホでも観られるし、Amazon Prime Videoなら高画質・見逃し配信・一時停止が当たり前だ。テレビに接続すれば大画面でも楽しめる。「意外と便利」と感じている昭和・平成世代も多いはずだ。 ラジオ、テレビ、スマホ。道具は変わっても 昭和27年、日本中がラジオの前で固まって白井義男を応援した。 昭和50年代、日本中が茶の間のテレビで具志堅用高にかじりついた。 令和の今、日本中がスマホやタブレットの画面で井上尚弥を追いかけている。 道具は変わった。でも熱狂は変わっていない。 白井義男が戦後の日本人に「俺たちも世界一になれる」という夢を見せたように、具志堅用高が沖縄の少年を「日本中のヒーロー」にしたように、井上尚弥は今まさに「日本人が世界の頂点に立てる」ことを体で証明し続けている。 5月19日、ボクシングの日。 後楽園球場に4万人が詰めかけたあの夜から、時代は変わった。でも変わらないものが、ちゃんとある。 昭和50年代当時、具志堅用高の試合は何度ゴールデンタイムで中継されたことか。ボクシングにさほど興味のない私でさえテレビの前にかじりついていたのだから、それがどれほど特別な時間だったかがわかる。そういう「日常の中の非日常」が、もう少しテレビにあってもいいのになあと、たまに思う。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 | 次の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 ▶

May 19, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日

今日は5月18日。 昭和45年(1970年)のこの日、ひとつの法律が静かに公布された。 全国新幹線鉄道整備法。 長い名前だが、内容はシンプルだ。「新幹線を、日本中に走らせよう」という国の約束だ。 この法律のことを調べていたら、自分の記憶がどんどんよみがえってきた。新幹線にまつわる記憶。テレビ越しに見ていた「あの乗り物」への憧れ。そして中学3年の春、東京駅のホームで初めて0系の鼻先を目の前にしたときの、あの感覚。 今日はその話を書いてみたい。 新幹線は、テレビの中にいた 私が育ったのは東京23区の東のはずれだ。下町の気配が残る、庶民的な町だった。 子どもの頃、新幹線はいつも「テレビの中」にあった。 ゴールデンウィーク前になると、ニュースが決まってこの映像を流した。東海道新幹線の車内。通路まであふれかえる乗客。車窓の外を流れる富士山。アナウンサーが「今年のUターンラッシュは——」と話す。 画面を見ながら、子どもの私はぼんやりと思っていた。 あれに乗っている人たちは、どこへ行くんだろう。 京都か。大阪か。あるいはもっと遠い、知らない場所か。 でも、それは完全に「他人事」だった。我が家とは無関係な世界の映像として、ただ眺めていた。 理由は単純で、我が家には旅行の習慣がなかったからだ。 父は、連休が年に一度だけだった 父の仕事は週に1回、平日に休みがあった。日曜日は働いていた。 ゴールデンウィークも、お盆も、関係なかった。世の中がいくら盛り上がっていても、父は仕事に出かけた。まとまった連休といえば、1年にたった一度、お正月の1日と2日——その2日間だけだった。 今の感覚で言えば「それは大変だったね」となるかもしれない。でも当時、私のまわりではそれはめずらしいことではなかった。近所の友達の父親も、似たようなものだった。昭和40年代、50年代の「お父さん」はそういうものだった。家族よりも仕事を優先するのが当たり前で、誰もそれを疑わなかった。 だから、家族でお泊まり旅行に出かけた記憶が、私にはない。 修学旅行や林間学校はあった。でも「家族みんなで旅行」という体験は、子ども時代についぞなかった。 今の常識からすると「えっ、そうなの?」と驚かれるかもしれない。でも私のまわりでは、それはごくふつうのことだった。それくらい、昭和40年代・50年代・60年代のお父さんたちは、よく働いていたのだ。 だから新幹線の映像をテレビで見ながら「来年の夏、乗れるかな」などとは考えなかった。そんな発想自体が、最初からなかった。 昭和45年5月18日、「約束」が生まれた 少し話を遡る。 昭和39年(1964年)、東海道新幹線が開業した。東京オリンピックの9日前のことだ。東京と新大阪を、それまでの特急列車なら6時間以上かかっていたところを、「ひかり」は3時間10分で結んだ。 当初は「あんな高いものを作っても赤字になるだけだ」という声もあった。ところが蓋を開けると、新幹線は大人気だった。通勤でも出張でも観光でも、人々は喜んで乗った。「夢の超特急」と呼ばれた0系の白い車体は、あっという間に時代のシンボルになった。 その成功を見て、政治家や官僚は考えた。「これを全国に広げれば、日本中が豊かになる」と。 そして昭和45年5月18日、全国新幹線鉄道整備法が公布された。 内容はこうだ。時速200キロメートル以上で走れる幹線鉄道を「新幹線」と定義し、全国的な鉄道網として整備していく——という法律だ。要するに「東京と大阪だけじゃなく、日本中に新幹線を走らせる計画を国が主導する」という宣言だった。 この日から3年後の昭和48年、東北新幹線や北陸新幹線などの整備計画が決定される。そしてさらに時間をかけて、新幹線は少しずつ北へ、西へと延びていった。 とはいえ、昭和45年に法律ができたからといって、すぐに全国を新幹線が走り回るわけではない。東北新幹線が東京まで延びてくるのは、昭和60年(1985年)のことだ。 私が子どもだった昭和40年代、50年代——仙台や盛岡に新幹線で行けるようになる未来は、まだ「夢の話」だった。 中学3年、修学旅行の朝 昭和57年(1982年)の春のことだ。 中学3年生の修学旅行。行き先は京都・奈良。 その朝、私はいつもより早起きして、母に用意してもらった弁当を持って中学校へ向かった。校庭に集合して、先生から注意事項を聞いて、クラスごとに並んで出発した。電車を乗り継いで東京駅へ。先生に引率されてホームへ向かった。 そして——目の前に、0系があった。 あの丸っこい白い鼻先。白とブルーの塗り分け。ずらりと並んだ窓。テレビの中でしか見たことがなかったものが、手を伸ばせば届きそうな距離に、本物として存在していた。 正直に言うと、少し呆然とした。 「あ、本当にあるんだ」と思った。変な感想だが、そういう気持ちだった。ずっとテレビ越しに見ていたものが、突然、目の前の現実になった感覚。 車内に乗り込んで、席に着いた。 隣に座った友達と、顔を見合わせた。 お互いにニヤニヤしていた。声に出さなくても、わかった。「こいつも、初めてなんだな」と。 うちだけじゃなかった。同じ町の同じ中学に通っている友達も、同じように「初めて」だったのだ。それが少し、嬉しかった。 動き出したときの、あの感覚 列車が動き出した。 最初はゆっくりだった。東京駅のホームが、少しずつ後ろに流れていく。窓の外の景色が、じわじわと速くなっていく。 そしてある瞬間から、流れる景色が全然違うものになった。 ビルが、電線が、人が、全部流れていって何がなんだかわからなくなる。ただ白と緑のぼんやりした帯になって、後ろへ後ろへ飛んでいく。 スピードというものをあれほど体で感じたのは、後にも先にもあの瞬間だけだと思う。「速い」という言葉が意味を失って、ただ体ごと時間が圧縮されていくような、変な感覚だった。 富士山が見えた。 「富士山だ」と誰かが言い、みんなが窓に顔を寄せた。日本一高い山が、ただただそこにあった。東京から生まれて初めて離れた中学生にとって、富士山の存在感は圧倒的だった。 新幹線は「高嶺の花」だった 修学旅行から帰って、しばらくは新幹線の話ばかりしていた気がする。 でも、それで終わりだった。 その後、自分の意思で新幹線に乗る機会は、なかなかやってこなかった。就職して、出張で乗るようになるまで、新幹線は「特別なとき」だけの乗り物だった。 新幹線は「高嶺の花」だった。 手が届かないわけじゃない。でも、気軽に乗るものじゃない。ゴールデンウィークにテレビで見ていた満員の映像は、「あそこに乗っている人たちとは、自分は違う世界にいる」という感覚と一緒にあった。 今になって思えば、それは思い込みだったかもしれない。でも当時の感覚は確かにそうだった。 「夢の超特急」という言葉は、言い得て妙だと思う。夢——すなわち、「いつかは」という距離感。私にとって長い間、新幹線はそういう存在だった。 長男に乗せてやりたかった 大人になって、子どもが生まれた。 長男が5歳のとき、仕事の関係で九州へ行く用事ができた。会社は往復の飛行機チケットを用意してくれた。でも私は、帰りのチケットをキャンセルした。 博多から東京まで、新幹線で帰ることにしたのだ。 妻と長男を連れて、博多駅のホームに立った。 長男は生まれて初めて新幹線を目の前にして、目を丸くしていた。 「乗るの?これに乗るの?」と聞いた。 「乗る」と答えた。 席に着いて、列車が動き出した瞬間、長男は窓に顔をくっつけて景色を見ていた。その横顔を見ながら、私は何も言わなかった。ただ、昭和57年の春に感じたあの感覚が、じわっと戻ってきた気がした。 ...

May 18, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代

今日は5月17日。 昭和60年(1985年)のこの日、男女雇用機会均等法が成立した。職場における男女の差別を禁止し、募集、採用、昇給、昇進など多くの面で男女を平等に扱うことを定めた法律だ。 法律の名前だけ聞くと、難しい話のように感じるかもしれない。でも私にとってこの法律は、あの頃の母親の背中と深くつながっている。 「男は仕事、女は家庭」という時代 昭和の日本には、当たり前とされていた空気があった。 「男は仕事、女は家庭」。 女性は学校を卒業して就職しても、結婚したら退職するのが当然という慣例が多くの職場に存在した。当時、女性は就職しても数年で辞めていくのが慣例で、男女は平等には扱われていなかった。多くの企業は男女を分けて賃金管理や労務管理をしており、女性は補助労働者として扱われていたのだ。 「寿退社」という言葉があった。結婚を機に会社を辞めることを、まるでおめでたい卒業のように呼んでいた。女性が働き続けることへの社会の目は、今とはまったく違っていた。 それでも昭和の母親たちは働いていた。家庭を守りながら、子どもを育てながら、パートとして、内職として、様々な形で家計を支えていた。 テーブルの上の100円玉と、母の仕事 少し前の記事に書いた話を、もう一度思い出している。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はなかった。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃の母は、何をしていたのだろう。どんな仕事場で、どんな気持ちで働いていたのだろう。子どもだった私には、考えも及ばなかった。 でも今になって思う。昭和の母親がパートとして働くということは、今よりずっと「肩身の狭い」ことだったかもしれない。「母親なのに家を空けて」という目が、社会のどこかにあった時代だ。それでも働いたのは、家族のためだけではなく、自分自身の何かのためでもあったはずだと思う。 スチュワーデス、保母、看護婦──あの呼び名が変わった日 男女雇用機会均等法の成立は、目に見える形でも昭和の風景を変えた。 施行されると、「保母」が「保育士」に、「看護婦」が「看護師」に、「スチュワーデス」が「客室乗務員」などと呼称も変更された。 子どもの頃、テレビのCMに「スチュワーデス」という言葉が出てくると、華やかな憧れの職業として映っていた。「保母さん」という言葉も、幼稚園や保育園の優しい先生の代名詞だった。 その言葉が変わるということは、仕事に対する社会の見方そのものが変わっていくということだった。女性だけの仕事、男性だけの仕事、という区分けが少しずつ溶けていく。昭和という時代の終わりごろに、その変化は静かに始まっていた。 「均等」への道は、遠かった ただ正直に言えば、法律が成立しても、最初は採用や昇進について「禁止」ではなく「努力義務」にとどまっていた。多くの経営者が法制化に強く反対したという背景もあった。 昭和60年の法成立から、実質的な禁止規定へと強化されるまで、さらに月日が必要だった。法律が変わることと、社会が変わることには、タイムラグがある。 それでもあの法律は、確かに何かを変えた。昭和の働く母親たちが、今日という日の積み重ねの上に社会を押し広げていったことを、私はあの100円玉2枚とともに覚えている。 娘たちが生きる時代へ 今、私には子どもが5人いる。そのうちの娘たちが大人になって働く時代は、昭和の母親が生きた時代とはずいぶん違う。 今年の1月、大学受験を控えた娘の合格祈願で湯島天満宮に参拝した話を以前書いた。娘が夢を持って大学に進み、自分のキャリアを考えられる時代。それは昭和60年5月17日に成立した法律が、その後の何十年もかけて少しずつ作ってきた時代でもある。 男女雇用機会均等法という言葉を、娘に説明したことがある。「昔はそんな法律がなかったの?」と娘は少し驚いた顔をした。 その顔を見て、時代が変わったのだと実感した。 おわりに 昭和60年5月17日、一本の法律が成立した。 完璧ではなかった。すぐに世の中が変わったわけでもなかった。でもテーブルの上に100円玉を置いて子どもたちのために働いていた昭和の母親たちの背中が、この法律を少しずつ前に押し進めていったと思う。 あなたのお母さんも、あの時代に何かを背負いながら働いていたのではないだろうか。 今日、そのことを少し思い出してもらえたら嬉しい。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 ▶

May 17, 2026