【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった

今日は5月12日。 この日付を調べていて、一枚の土俵の映像が頭に浮かんだ。 平成3年(1991年)5月12日、大相撲夏場所の初日。18歳の貴花田が横綱・千代の富士を寄り切りで破り、史上最年少金星を挙げた。そしてその2日後、千代の富士は引退を表明した。 あの一番の話を書く前に、まず私が千代の富士のファンになった話をしたい。 青いまわしの、上昇する力士 昭和54年(1979年)から昭和56年(1981年)ごろのことだ。 私はまだ小学校の低学年から中学年だった。テレビで大相撲中継を見ていると、一人の力士が目に飛び込んできた。 千代の富士。当時はまだ小結から関脇、そして大関へと番付を駆け上がっていく上昇期にあった。横綱になる前の、ぐんぐんと力をつけていくあの時代の千代の富士だ。 最初に目を引いたのは、まわしの色だった。薄い青。他の力士が黒や濃い色のまわしをしめている中で、千代の富士だけが澄んだ青のまわしをしていた。それだけで、なんとなく他とは違う存在感があった。 そして取組が始まった瞬間、さらに驚いた。 速い。 それまで相撲というものに、それほど強い関心を持っていなかった。体の大きな男たちがぶつかり合う競技、というくらいの印象しかなかった。でも千代の富士の相撲は、その印象をひっくり返した。 立ち合いから低く、鋭く当たる。頭を相手の胸からアゴの下に差し込むようにして、左手が一瞬で相手のまわしを掴みにいく。左前みつ。そこを取った瞬間から、もう勝負は見えていた。頭を胸につけたまま一気に前に出る。相手がどれだけ大きくても、あの体勢から止めることはできなかった。 素直に思った。 かっこいい。 小結から関脇へ、関脇から大関へ。番付を上げるたびに千代の富士の相撲は研ぎ澄まされていった。私はその上昇をリアルタイムで追いかけながら、夢中でテレビ中継を見続けた。 「時間いっぱい!」の瞬間 千代の富士のファンになってから、相撲中継の見方が変わった。 特に集中したのが、**「時間いっぱい!」**の直後だ。 行司が「時間いっぱい、手をついて」と告げ、両者が仕切りに入る。その瞬間から、私は一点だけを見ていた。 千代の富士の左手が、相手の前みつを取れるか。 テレビの前で体が前のめりになる。「取れ、取れ、取れ!」と心の中で叫んでいた。 前みつを取った瞬間の千代の富士の動きは、まるで弾けるようだった。低い体勢から爆発的な力で相手を押し込む。ガッと音がしそうなほどの前進。相手が土俵を割るまでの時間は、ほんの数秒だ。 あの数秒のために、私は毎場所の相撲中継を見ていた。 鋼の肉体と、孤独な努力 千代の富士の肉体が、また特別だった。 北海道の漁師町出身のこの力士は、入門当初は体が細くて「横綱になれる体じゃない」と言われていた。肩の脱臼を繰り返す弱点もあった。それを克服するために、誰よりも筋力トレーニングに取り組んだ。 その結果生まれたのが、あの彫刻のような上半身だ。三角形に盛り上がった肩、浮き出た筋肉の線、引き締まった腹。昭和の力士の中で、あれほど「鍛えられた体」を持っていた力士は他にいなかった。 昭和56年(1981年)初場所、千代の富士はついに初優勝を遂げた。そして同年9月場所で横綱に昇進した。 小結から見続けてきた青いまわしの力士が、ついに土俵の頂点に立った。テレビの前で「やった」と思った記憶がある。 その後の千代の富士は知っての通りだ。幕内優勝31回、通算1045勝、53連勝、国民栄誉賞。昭和の相撲をひとりで背負うような存在になっていった。 18歳の少年が、ウルフを倒した日 あれから10年後。平成3年(1991年)5月12日、夏場所初日。 貴花田光司、18歳9カ月。のちの横綱・貴乃花だ。前の場所で幕内下位から優勝争いに加わる快進撃を見せ、日本中の注目を集めていた。その貴花田が初日から千代の富士と当たることが決まった。 場内がどよめいた。 取組が始まると、貴花田は低く当たり、ひたすら前に出た。引かなかった。変化しなかった。千代の富士が突き落としを狙っても、ただ正面から前に出続けた。そのまま貴花田が寄り切った。 18歳9カ月、史上最年少金星。 土俵下に降りた千代の富士は言った。 「三重丸って言っておいてよ。いや、五重丸だ」 負けた横綱が18歳の少年に最大級の賛辞を贈ったあの言葉。強さを認める者にしか言えない清々しさがあった。 そして2日後の5月14日、千代の富士は引退を表明した。 「体力の限界……気力も無くなり、引退することになりました」 ハンカチで目をぬぐいながら振り絞るように言ったあの言葉を、テレビの前で聞いたとき、言葉が出なかった。 小結のころから追いかけてきた青いまわしの力士が、土俵を去った。 おわりに 平成3年5月12日、千代の富士は18歳の貴花田に道を譲った。 昭和54年ごろ、テレビの画面に薄い青のまわしをした力士を見つけて「かっこいい」と思った小学生の私は、その力士が小結から関脇、大関、横綱へと駆け上がっていくのをずっと見続けた。そして横綱を10年以上務めた末に涙をぬぐいながら引退する姿まで見届けた。 千代の富士は2016年に61歳で亡くなった。訃報を聞いたとき、真っ先に浮かんだのは記録でも数字でもなく、あの薄い青のまわしと、左前みつを取った瞬間の爆発的な前進だった。 あなたが子どもの頃に「かっこいい」と思ったスポーツ選手は、誰だっただろうか。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃 ▶

May 12, 2026

必勝法を探し続けた男の末路──FXやらかし図鑑

お金と僕の12年戦争・第2話 結論から言おう。 僕はFXで150万円溶かした。 しかも一度ではない。やめては始め、やめては始めを4〜5回繰り返しながら、トータルでその金額に到達した。我ながら見事な負けっぷりだと思う。(笑) 2013年、僕はFXという名の沼に、両足どころか頭まで突っ込んでいた。 ① YouTube沼にはまる「必勝法」探し まず僕がやったのは、YouTubeでFX関連動画を片っ端から漁ることだった。 「FX 必勝法」「FX 勝てる手法」「月収100万円」──そんなワードで検索しまくり、もっともらしいことを言っているチャンネルを見つけては、その手法を試してみる。うまくいかなければ別の動画を探す。また試す。また探す。 今思えば完全に必勝法コレクターだった。 そもそも、もし本当に必勝法があるなら、その人はYouTubeで無料公開なんてしない。当たり前のことに、当時の僕は気づけなかった。 ② 謎のインジケーターに課金する男 動画だけでは飽き足らず、次は「エントリータイミングを教えてくれる魔法のツール」を探し始めた。 いわゆるインジケーターというやつだ。チャートに重ねると「買い」「売り」のサインが出る。無料のものを試し、効かないとわかると有料のものに手を出す。数千円、ときには1万円以上払ったこともあった。 結論から言うと、全部ゴミだった。いや、ゴミというより「後付けで勝率を良く見せる詐欺ツール」といった方が正確かもしれない。 授業料、高すぎた。 ③ コツコツ積み上げて、ドカンと吹き飛ばす 利益が少し出るとすぐ決済してしまう。それが僕の悪いクセだった。 「逃げ切った!」という快感が忘れられず、ちょっと勝っては利確、ちょっと勝っては利確。口座残高の数字が小さく増えていくのが嬉しかった。 しかしその一方で、損失が出ると「もう少し待てば戻るはず…」と粘り続ける。 その非対称さに気づかないまま続けた結果、ある日やってくる。 コツコツ積み上げた利益が、一回のドカンで全部消えた。 やった人間にしかわからない、あの虚無感。 ④「長期投資」という名の現実逃避 損切りができなかった。本当にできなかった。 「もう少し待てば戻るはず」と含み損を抱えたまま放置するのはまだかわいい方で、僕がやったのはさらに上をいく言い訳だった。 「これは長期投資だから」 FXの含み損を前に、僕は突然「長期投資家」に変身した。スワップポイントが少し入ってくるのをいいことに、現実から目を背け続けた。 もちろんそんな「長期投資」に未来はなく、最終的には強制ロスカットか、耐えきれずに大損で決済するかのどちらかだった。 ⑤ 負けを取り返そうとして、さらに深みへ 損失が膨らむと、人間おかしくなる。 「このまま終われない」「一発で取り返せるはずだ」──そう思って、証拠金に対して明らかに過大なポジションを持った。 するとどうなるか。少し値が動くだけで口座残高がガクガク揺れる。ロスカットの恐怖で気持ちが不安定になる。夜も落ち着かない。 ハイレバレッジは、トレードではなく恐怖との戦いだった。 ⑥ ポジポジ病という名の持病 「ポジションを持っていないと落ち着かない」 これが厄介だった。根拠なんてない。ただ、何かに乗っていないと不安なのだ。 そんなポジションだから当然、仕事中も気になる。バスを運転しながら(※停車中です)「今どうなってるかな…」と頭の片隅でチャートが浮かぶ。 本末転倒とはこのことだった。お金を増やすために始めたはずが、本業に支障をきたしていた。 やめる。また始める。を4〜5回繰り返した。 こんな失敗だらけでも、僕はFXをやめられなかった。 「次こそは」「今度こそうまくやれる」──懲りない男は、しばらく間を置いてはまたチャートを開いた。それを4〜5回繰り返した。 今思えば、完全にギャンブルと同じ心理だった。 そして今──正しい付き合い方にたどり着いた そんな失敗だらけの僕だが、実はFXを完全にやめたわけではない。 現在も20万円をFX口座に入れてある。ただし、以前とは決定的に違うことがある。 もうFXを「投資」だとは思っていない。 趣味だ。釣りや競馬と同じ感覚で、溶かしてもいい範囲のお金でたまに楽しむ。大儲けしようなどとは微塵も考えていない。 150万円という授業料を払って、ようやくたどり着いた「正しいFXとの付き合い方」がこれだ。 そして2020年、僕は本当の意味での「投資」に出会うことになる。 次回へ続く。 私がFXで溶かした150万円の正体は、結局のところ「技術」ではなく「心理」の問題でした。必勝法探し、損切りできない、ポジポジ病——なぜ知識があっても勝てないのか。その答えを、これ以上なく突き詰めた名著がこれです。当時の私が読んでいれば、授業料はずっと安く済んだはずです。 ...

May 11, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間

今日は5月11日。 昭和の朝には、決まったリズムがあった。 目が覚めると台所からご飯の炊ける匂いがして、テレビをつけると子ども番組が始まっている。朝ごはんを食べながらテレビを見て、時計の代わりに番組の流れで時間を感じていた。 あの頃の朝のことを、今日は書きたい。 朝ごはんとピンポンパン 朝ごはんを食べながら見ていたのが、フジテレビの**「ママとあそぼう!ピンポンパン」**だった。 昭和41年(1966年)10月3日から昭和57年(1982年)まで、実に15年半にわたって放送されたこの幼児番組は、フジテレビの若手女性アナウンサーが「おねえさん」として司会を務める形式で、歌や体操やお話のコーナーが続く、朝の子どもの定番だった。 お茶碗を両手で持ちながら、画面を眺めていた。おねえさんが歌う。カッパのカータンがとぼけたことを言う。子どもたちが体操をする。 朝ごはんを食べながら見る番組というのは、不思議と記憶に残るものだ。おかずの味と、テレビから流れてくる音楽と、台所で動く母の気配が、全部混ざり合って一つの記憶になっている。 そして番組のフィナーレに、あれがあった。 「おもちゃへいこう!」 新兵ちゃんの掛け声とともに、スタジオに出演していた子どもたちが一斉にスタジオセットの大木へと突進していく。「おもちゃの木」の節穴の中には、おもちゃがぎっしり詰まっている。子どもたちは我先にと手を伸ばして、おもちゃを抱きしめる。 テレビの前で、それをただ見ていた。 本当に羨ましかった。 昭和40年代の子どもにとって、おもちゃは誕生日かクリスマスの「特別なもの」だ。駄菓子屋で10円のお菓子を買うのとは、まったく違う話だ。だからあの木が眩しかった。「ねえ、ピンポンパン出たい」と母に言った子どもが、日本中に無数にいたはずだ。 「ぱたぱたママ」が流れたら、保育園の時間 ピンポンパンが終わると、続いて始まるのが**「ひらけ!ポンキッキ」**だった。 昭和48年(1973年)4月から始まったフジテレビの幼児番組で、ガチャピンとムックという2体のキャラクターと「おねえさん」が進行する、こちらも昭和を代表する子ども番組だ。「およげ!たいやきくん」を世に出した番組としても知られている。 ポンキッキが始まると、それが保育園へ行く時間の合図だった。 番組の最初のほうに流れていたのが**「ぱたぱたママ」と「一本でもニンジン」**。のこいのこさんが歌うこれらの曲が聞こえてくると、「そろそろだな」という感覚があった。 「いちほんでもにんじん、にほんでもにんじん、さんぼんでもにんじん……」 そのメロディーを1曲聞き終わると、母の声がかかった。 「行くわよ」 玄関に向かう。年子の妹も一緒だ。外に出ると、母が自転車を出して待っている。後ろの荷台と前のカゴ、あるいはハンドルにまたがるようにして、3人で乗り込む。 3人乗り自転車。 今の感覚では「危ない」と言われるが、昭和の頃はそれが当たり前だった。お母さんが自転車をこいで、子どもを前後に乗せて保育園や幼稚園に連れて行く。朝の住宅街には、そういう自転車がたくさん走っていた。 母の背中に顔をうずめながら、自転車が走り出す。まだテレビの音が耳の中に残っていた。「ぱたぱたママ」のメロディーが、頭の中でまだ続いていた。 阿久悠と小林亜星が作った朝の歌 「ピンポンパン体操」はオリコン童謡チャート1位、260万枚の大ヒットを記録した曲だが、その作詞・作曲を手掛けたのが阿久悠と小林亜星というコンビだ。 当時の日本を代表する作詞家と作曲家が、子ども番組のために本気で曲を作っていた。「トラのプロレスラーはシマシマパンツ……」というあの歌詞は、今も口をついて出てくる人がいるはずだ。 「ひらけ!ポンキッキ」の「ぱたぱたママ」や「一本でもニンジン」も同様だ。一見シンプルな子ども向けの歌に、プロの作り手たちが真剣に向き合っていた。だからこそ半世紀経った今も、あのメロディーは記憶の奥底に生きている。 子どもの頃に耳に入った音楽は、言葉や映像よりも深いところに刻まれる。「ぱたぱたママ」が流れると、今でも反射的に「そろそろ行かないと」という感覚がよみがえる。頭ではなく体が覚えているのだ。 おわりに ピンポンパンのおもちゃの木を羨ましく眺めて、ポンキッキの「ぱたぱたママ」を聞きながら保育園へ向かった。母の背中に揺られる自転車の上で、テレビから流れてきた歌がまだ耳の中に残っていた。 毎朝、毎朝、同じことの繰り返しだった。 でも今になって思う。あの繰り返しの中に、昭和の朝のすべてが詰まっていた。朝ごはんの匂いと、テレビの音楽と、母の「行くわよ」という声と、年子の妹と一緒に乗り込んだ自転車の揺れ。 それが私の、昭和の朝だった。 あなたの昭和の朝には、どんな音楽が流れていただろうか。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった ▶

May 11, 2026

青カップのグローブ ― 昭和の空き地と、母のパート代と

高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。紐が切れたのだという。その紐を手にしながら、ふと遠い記憶の蓋が開いた。 昭和の子供の放課後は、今とはまるで違う世界だった。 ランドセルを家に放り込んで外に出ると、近所の空き地には学年もクラスも関係なく子供たちが集まっていた。誰かが仕切るわけでもなく、気がつけばチームに分かれて野球が始まっている。そういう時代だった。 野球のルールを教えてくれたのも、プレーを褒めてくれたのも、みんな上級生だった。今でいう「地域の子育て」が、あの空き地では自然に成立していた。 ある日、先輩のひとりが使っているグローブが目に入った。 一目見た瞬間に、全身が反応した。あれが欲しい。 青地に白糸。カップ型に刺繍されたマーク。後から知ることになるが、それが「美津濃(ミズノ)青カップ」だった。軟式用が青、硬式用が赤。昭和の野球少年なら誰もが憧れた、あのグローブだ。 まず向かったのは、イトーヨーカドーに入っていたスポーツ店だった。しかし置いていない。 今のように大型スポーツ専門店があちこちにある時代ではなかった。どこに行けば買えるのか、小学4年生の自分には見当もつかなかった。 そこへ転機が訪れた。同じグローブをすでに買ってもらったクラスメイトが現れたのだ。うらやましさで胸がいっぱいになりながら、とにかく聞き出した。メーカーはどこか。どこで売っているのか。 教えてもらった店は、自転車で20分ほどのところにあった。ドキドキしながら扉を開けると、店内にはミズノのグローブがずらりと並んでいた。あの青カップもあった。手に取った瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。 メーカー 美津濃(ミズノ) マーク 青カップ(軟式用) ウェブ タータンウェブ 種別・価格 オールラウンド用・7,800円 帰宅して母に話した。「あのグローブが欲しい」と。 当然、即答はなかった。しかし母はこう言ってくれた。「パートのお給料日まで待っていてね。」 7,800円。昭和の専業主婦がパートで稼ぐ金額の重さが、大人になった今にはわかる。それを出してくれるということが、どれだけのことだったか。 それからの毎日が、我ながら笑える。 放課後になると例の店へ自転車を走らせ、グローブを手に取っては棚の奥深くに押し込んで帰る。他の誰かに買われてしまわないように。それを給料日当日の夕方まで、毎日続けた。 そしてついに、その日が来た。 母のパート先の前で、仕事が終わるのを待ち構えた。そのまま二人で自転車を走らせ、店へ向かった。 店主のおじさんは僕の顔を見るなり、すぐに覚えていてくれた。毎日確認に来ていたのだから当たり前といえば当たり前だが、おじさんも一緒になって喜んでくれた。昭和の商店街には、そういう温かさがあった。 美津濃。青カップ。タータンウェブ。オールラウンド用。7,800円。 あの日グローブを手にしたときの感触は、半世紀近く経った今も手のひらに残っている。 あの頃から今まで、いくつものグローブと出会ってきた。どれも、それぞれに大切な記憶として胸の奥にしまってある。 先日、高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。その紐を手にしながら、ふとあの空き地のことを思い出した。上級生たちのこと、クラスメイトのこと、そして母のパートのお給料日のことを。 今、グローブを通じて息子と関わっていること。それが、また新しい宝物になっていく気がする。 あわせて読みたい▼ 千羽鶴に込められた思い──甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと 野球少年の帽子、どう洗ってる?キャップウォッシャーで型崩れなし

May 11, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話

今日は母の日だ。 5月の第2日曜日。店先にカーネーションが並び、テレビのCMが「お母さんへの感謝を」と呼びかける、毎年やってくるこの日。 今年の母の日は、少し違う気持ちで迎えている。 母が入院しているからだ。 今年88歳になる母は、今、病院のベッドの上にいる。容態は楽観できない。だからこそ今日という日が、いつもより少しだけ重く、そしてあたたかく感じられる。 一人の少女の「ありがとう」から始まった 母の日の始まりは、20世紀初頭のアメリカだ。 1905年5月9日、アメリカのフィラデルフィアに住むアンナ・ジャービスという女性の母が亡くなった。母は生前、南北戦争で傷ついた兵士たちの看護に人生を捧げた人だった。アンナはその母をしのんで教会に白いカーネーションを飾り、「生きているうちに母に感謝を伝える日を作るべきだ」と訴え続けた。 その想いがアメリカ中に広がり、1914年、ウィルソン大統領が5月の第2日曜日を「母の日」として国民の祝日に定めた。 日本には大正時代にキリスト教を通じて伝わり、昭和12年(1937年)に森永製菓が「森永母の日大会」を大々的に開催したことで全国に広まった。そして戦後の昭和24年(1949年)ごろから、5月の第2日曜日が定着した。 一人の少女が亡き母に手向けた白いカーネーションが、海を越えて昭和の子どもたちの手にも届いた。 昭和の子どもと、カーネーション問題 昭和の母の日に、子どもたちを悩ませたことがあった。 カーネーションをどうやって渡すか問題だ。 学校ではこの時期、図工の時間に赤いカーネーションを折り紙や画用紙で作ることが多かった。または近所の花屋で本物を買う。問題はその先だ。 「はい、これ」と無造作に渡せれば苦労はない。でも昭和の子どもにとって、母親に面と向かって「いつもありがとう」と言うのは、気恥ずかしくてたまらないことだった。 テーブルの上にそっと置いておく。気づかれないうちに花瓶に差しておく。そういう作戦を取った子どもは多かったはずだ。母親はそれをわかっていて、わざと気づかないふりをして後で「あら、かわいい」と言ってくれる。その距離感が、昭和の親子の間にはあった。 思えば、照れくさくて言えないことを花が代わりに言ってくれる──それがカーネーションという花の役割だったのかもしれない。 テーブルの上の100円玉と、母の背中 昨日の記事で、こんな話を書いた。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はない。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃、母がどんな思いでその100円玉を置いていたか、子どもの私には考えも及ばなかった。ただ嬉しくて、握りしめて飛び出していた。 でも母の日になると、ふと気になった。お母さんは今日も仕事に行くのだろうか。疲れていないだろうか。毎日毎日、子どもたちのために働いて、帰ってきてご飯を作って、洗濯をして。それが当たり前の風景すぎて、当たり前すぎることに気づかなかった。 カーネーションを買いに行ったのは、母の日の朝だった。近所の花屋で赤いカーネーションを1本選んだ。帰ってきた母に、うまく渡せたかどうか、正直あまり覚えていない。たぶん「はい」と差し出して、母が「ありがとう」と言って、それで終わりだったと思う。 でも母は、そのカーネーションをちゃんと花瓶に差して、しばらく飾っていた。 88歳の母へ あれから何十年が経った。 母は妹の最初の出産を機に、妹夫婦と同居するようになった。3人の孫に囲まれた暮らしの中で、妹の子どもたちだけでなく、私の子どもたちも合わせて8人の孫を可愛がってくれた。 昭和の時代に私たち兄妹を育て、平成を生き、令和になっても孫たちの笑顔の中心にいた。そんな母が今年、88歳になる。 今、母は入院している。病室のベッドの上で、今日の母の日を迎えている。容態は、楽観できるものではない。 それでも──いや、だからこそ、今日ははっきりと言いたい。 私たち兄妹を育ててくれて、8人の孫を可愛がってくれて、本当にありがとう。 私はあなたの子どもで、本当に良かった。 照れくさくて昭和の子どもの頃には言えなかった言葉を、57歳になった今、この場所に書いておく。 おわりに 母の日に母親が健在であれば赤いカーネーションを贈る、という習慣がある。アンナ・ジャービスが白いカーネーションから始めた母の日が、日本では赤と白という形に引き継がれた。 今日、赤いカーネーションを贈れる人は、ぜひ贈ってほしい。 照れくさくてもいい。うまく言葉にならなくてもいい。昭和の子どもたちがそうだったように、花がきっと代わりに言ってくれる。 あなたのお母さんの、あの頃の背中を、今日だけ少し思い出してもらえたら嬉しい。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間 ▶

May 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙

今日は5月9日、アイスクリームの日だ。 明治2年(1869年)のこの日、横浜・馬車道通りの「氷水屋」が日本で初めてアイスクリームを製造・販売した。当時の名称は「あいすくりん」。その値段、1人前2分。現代の価値に換算すると、およそ8000円。 8000円のアイスクリームだ。 幕末から明治の日本人がそれを口にしたとき、いったいどんな顔をしたのだろうか。冷たくて、甘くて、これまで食べたことのない何かが口の中に広がる。 その「8000円のあいすくりん」が、昭和の子どもたちの手の中に収まる10円や20円のアイスになるまでに、100年の歴史があった。 でも今日書きたいのは、その歴史よりも、もっと小さな話だ。 あの頃の、放課後のことを書きたい。 テーブルの上の、100円玉2枚 小学生の頃、1日のお小遣いは50円から100円だった。 学校から帰ると、母親の姿はなかった。パートの仕事に出ていたから、家の中はいつも静かだった。玄関を開けると、シンとした空気と、どこか懐かしいにおいがした。 ランドセルを下ろして台所に行くと、テーブルの上に必ずそれがあった。 簡単な手紙と、100円玉が2枚。 「おかえりなさい」という母の文字。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 それだけのことだ。長い言葉は何もない。でもあの100円玉2枚が、「今日も仕事に行ってくるけど、ちゃんとあなたたちのことを思っているよ」という母の気持ちそのものだったと、今になってわかる。 当時の私はそんなことを考えもしなかった。ただ100円玉を握りしめると、体の中に火がついたように外に飛び出したくなった。 プラバットとカラーボールを持って 玄関の横に置いてあったプラスチックのバットとカラーボールを手に取る。 昭和の子どもの定番の遊び道具だ。本物の木製バットは高くて危ないから、軽くて柔らかいプラスチック製のバットとゴム製のカラーボールがセットで売っていた。あの取り合わせは昭和の放課後の象徴だったと思う。 学校のそばの公園まで走った。走りながら、すでに頭の中では試合が始まっていた。 公園に着くと、友達がもう来ていた。ランドセルがベンチの上に無造作に積まれている。「遅いぞ」と誰かが言う。「今来たばっかりだろ」と誰かが言い返す。そういう会話が毎日繰り返された。 王さんの一本足と、淡口選手の「おしりプリッ」 バットを持つと、誰もがあのポーズを真似た。 王貞治の、一本足打法だ。 左足を高く上げて、ぐっとタイミングを合わせてバットを振り下ろす。「世界の王」と呼ばれたあの打撃フォームは、昭和の子どもたちにとってあこがれそのものだった。誰もがやってみる。でもバランスを崩してよろけて、笑いが起きる。それがまた楽しかった。 もう一人、必ず誰かが真似したのが淡口憲治選手だった。 読売ジャイアンツの外野手として活躍した淡口選手の打席での構えは、独特だった。バットを構えるとき、腰をひねるようにして「おしりをプリッ」と出すあの仕草が、子どもの目にはたまらなくおかしく見えた。真似すると必ず笑いが起きる。誰かがやるたびに「プリッ!」「プリッ!」と声が上がり、公園が笑い声に包まれた。 毎日やった。毎日笑った。同じことを何度繰り返しても、飽きることがなかった。 駄菓子屋のホームランバー ひとしきり野球で遊ぶと、公園のそばの駄菓子屋に吸い込まれるように入っていった。 昭和の公園の近くには、たいてい駄菓子屋があった。小さな店で、ガラスケースの中にカラフルな駄菓子が並んでいる。奥のおばちゃんは、子どもが来ても急かさない。じっくり選んでいいよ、という空気があった。 冷凍ケースの前に立つと、白い霧が漏れてくる。中を覗き込む。 ホームランバーを選ぶ。 昭和35年(1960年)に協同乳業が発売したこのアイスには、棒に「当たり」の焼き印が押してあった。「当たり」が出れば、お店でもう1本もらえる。みんな食べ終わった棒をそっとめくって、息をのんで確認する。「当たりだ!」という声が上がると、その場が一瞬盛り上がる。「ずるい」と誰かが言い、「運だろ」と誰かが言い返す。 100円あれば、ホームランバーを買っても十分おつりが来た。残りのお金で何を買うか、それもまた大事な選択だった。 毎日同じことの繰り返しが、なぜあんなに楽しかったのか 学校から帰る。100円玉を握りしめる。バットとボールを持って公園へ走る。王さんの真似をする。淡口選手の「プリッ」で笑う。駄菓子屋でホームランバーを食べる。 毎日毎日、同じことの繰り返しだった。 でも、本当に楽しかった。 なぜあんなに楽しかったのか、大人になってから何度か考えたことがある。たぶんそれは、毎日が「同じようで違った」からだと思う。今日の王さんの真似は昨日より上手くいった。今日は当たりが出た。今日は淡口選手の真似で一番笑いが取れた。そういう小さな違いが、繰り返しの中に宝のように散らばっていた。 そして何より、あの場所にはいつも誰かがいた。 おわりに 明治2年に8000円だったあいすくりんは、昭和にはコイン1枚で買える食べ物になっていた。 テーブルの上の100円玉2枚。プラバットとカラーボール。王さんの一本足打法と、淡口選手の「プリッ」。駄菓子屋のホームランバーの当たりくじ。 あの放課後は、何も特別なことなどなかった。母親の手紙に深い意味を見出すこともなく、ただ100円玉を握って走り出していただけだ。 でも今、それがどれほど豊かな時間だったかが、ようやくわかる。 あなたの放課後には、何があっただろうか。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話 ▶

May 9, 2026

三男が生まれた日、僕は100万円をFXに突っ込んだ

お金と僕の12年戦争・第1話 私が「投資」という言葉を意識したのは、2013年の9月のことです。 なぜそこまではっきり覚えているかといえば、三男が生まれたタイミングだったから。産声を聞いたあの瞬間から、胸の奥にじわじわと広がってきたのは感動だけではありませんでした。同時に、正体のよくわからない焦りのようなものが、ゆっくりと込み上げてきたのです。 「何かをやらなくちゃ。このままじゃダメだ。」 当時、私にはすでに三人の子どもがいました。長男、長女、そして次男。そして今度で四人目——三男の誕生です。守るべきものが増えるということは、同時に「自分に何かあったら」という不安の重さも増すということでした。 「何か」をやらなければという焦りは、なぜかまっすぐ「投資」という言葉に向かいました。知識があったわけでも、誰かに勧められたわけでもない。ただ、インターネットをポチポチと検索しながら、気づいたらFXという世界に辿り着いていたのです。 どうにかこうにか口座開設を完了させ、100万円を入金。画面の前で「いざ!」と気合を入れたはいいものの、正直なところ何をどうすればいいのか、まったく分かりませんでした。チャートの読み方も、注文の仕組みも、レバレッジの意味さえも。 それでも、人生で最初の「エントリー」だけは、なんとか成功させました。 そこから先は、これまでの人生で経験したことのない感覚の連続でした。数字が動くたびに心臓が跳ねる。プラスになれば息が上がり、マイナスになれば胃が縮む。たった数万円の値動きで、これほどまでに感情が揺さぶられるとは思っていませんでした。 たまたまその日は、何かの経済指標の発表時間と重なっていたようです。2〜3時間、ただ値動きをドキドキしながら眺めていると、突然、相場が円安方向に大きく動き出しました。含み益がみるみる膨らんでいく。8万円のプラス。 震える手で決済ボタンを押しました。 あのときの感覚を、今でもはっきり覚えています。「俺の人生は、これからバラ色だ」と、本気でそう思いました。お金は、努力しなくても手に入るのかもしれない——そんな、恐ろしいほど根拠のない自信が、全身に満ちていました。 ビギナーズラックというものは、本当にあるんですね。 しかし振り返れば、あの8万円の勝利こそが、その後の「泥沼」への入口でした。 次回:興奮が慢心に変わるとき——FXという沼の、深さを知る この12年戦争が終わってみて、いま思うのは「もし最初にこの一冊を読んでいたら」ということです。私がFXで彷徨ったあげく、ようやく資産形成の“正しい順番”を教えてくれたのが、この本でした。詳しくは第3話で書きますが、これから始める方には、遠回りをしないためにも、まずここから読んでほしいと思います。 【改訂版】本当の自由を手に入れる お金の大学両@リベ大学長/朝日新聞出版。私の12年の回り道を、最短ルートに変えてくれた一冊(新NISA対応の改訂版) Amazonで見る › お金と僕の12年戦争 ─ シリーズ一覧 次の話:第2話 必勝法を探し続けた男の末路──FXやらかし図鑑 ▶ 第1話 三男が生まれた日、僕は100万円をFXに突っ込んだ(この記事) 第2話 必勝法を探し続けた男の末路──FXやらかし図鑑 第3話 一冊の本が、すべてを変えた──『お金の大学』との出会い 第4話 スマホ代を月15,000円から5,000円へ──格安SIM乗り換え体験記 第5話 6大固定費の見直し──保険の整理 第6話 住宅ローンという名の長期戦──借り換えと金利上昇 第7話 手放した日から、お金が貯まりはじめた──マークIIとの別れ 第8話 「株主」にはなれた。でも「投資家」にはなれなかった 第9話 「短期トレード」の果てに──インデックス投資という長期戦のはじまり 第10話 「廃止決定」の制度に、子どもたちの未来を託した──ジュニアNISA編 第11話 「もう一本の柱」iDeCo──節税と引き換えに、60歳まで縛るという選択 第12話 二軒の戸建がくれた、もう一本の柱──戸建賃貸業のはじまり 第13話 大家業、はじめの一歩──「売りますか?」に「貸します」と答えた日 第14話 二軒目は、意図して買いに行った──松戸・築古戸建、オーナーチェンジ購入記

May 9, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった

今日は5月8日。 この日付を調べていて、昭和40年(1965年)の5月8日にタツノコプロのテレビアニメ第1号作品「宇宙エース」が放送開始したことを知った。 正直に言う。「宇宙エース」を観た記憶が私にはない。再放送も含めて、まったく記憶にないのだ。 でも「そこから始まったのか」と知ったとき、じわじわと感慨がわいてきた。なぜなら、この番組が礎を作ったタツノコプロは、私にとって忘れられない土曜日の夜と深く結びついているから。 タツノコプロの、すべての始まり 昭和38年(1963年)、東京都国分寺市に「竜の子プロダクション」──のちのタツノコプロが生まれた。 創業者は人気漫画家・吉田竜夫と弟たちの三兄弟だ。「自分の漫画をアニメにしたい」という夢を抱いて立ち上げた会社だったが、アニメ制作のノウハウはゼロだった。新聞に求人広告を出すと、夢を持った若者が約60人集まった。専門家ではない、ほぼ素人の集団だ。 その60人が必死に作り上げたのが、昭和40年5月8日放送開始の「宇宙エース」だった。 宇宙船団からはぐれて地球にたどり着いた惑星パールム星の王子・エースが、スーパーパワーで悪と戦うSFアドベンチャーだ。当時はカラーテレビがまだ普及していなかったため、モノクロで制作された。視聴率は平均16.5%。大ヒットとは言えない数字だったが、1年間・全52話を走り切った。 そしてこの経験が、すべての土台になった。 「宇宙エース」で培ったノウハウと人材が、マッハGoGoGo、科学忍者隊ガッチャマン、そして「タイムボカン」シリーズへと受け継がれていく。ちなみに「ガッチャマン」の悪の組織名「ギャラクター」は、宇宙エースに登場した悪役の名前からそのまま引き継がれたものだ。 昭和40年5月8日に産声を上げた白黒の宇宙人の少年が、昭和アニメの歴史を動かした。 土曜日の夜が、一番好きだった 宇宙エースを私は知らない。でもタツノコプロが作り上げていったその世界は、私の子ども時代の中心にあった。 昭和50年代のある時期から、私にとって土曜日は特別な日になった。 正確に言えば、土曜日の夜6時30分から始まるあの時間帯のためだけに、一週間を生きていたと言っても過言ではないくらいだった。 18時30分──タイムボカンシリーズ。 ヤッターマン、ゼンダマン、オタスケマン……タツノコプロが生んだあの黄金のコメディシリーズだ。毎週ドロンジョ一味が悪巧みをして、最後に爆発してやられる。わかっているのに笑ってしまう。あのパターンの心地よさといったらなかった。ドロンジョ様はなぜか怖くなくて、むしろ愛おしかった。 19時00分──まんが日本昔ばなし。 「♪むかし むかし そのむかし」のオープニングとともに始まる、あたたかいアニメ。コミカルな話もあれば、ちょっと怖い話もあった。常田富士男と市原悦子の二人が何役もこなす語りは、今思い返しても唯一無二の味わいだ。 19時30分──仮面ライダーV3。 仮面ライダーといえば1号・2号という刷り込みがあったが、V3はそれを軽く超えてきた。風見志郎のスタイリッシュな戦いぶり、ダブルタイフーンの必殺技。デストロン怪人のおどろおどろしいデザインに毎週ビビりながら、それでも目を離せなかった。 20時00分──8時だよ!全員集合。 加藤茶のちょっとだけよ、いかりや長介のバカヤロー、志村けんのバカ殿……土曜の夜8時になると日本中の茶の間が爆笑に包まれた。「ドリフのコントが終わったら今週も終わりだ」という感覚があった。そして、ドリフが終わった後の9時台に始まる番組が、また最高だった。 21時00分──Gメン'75。 ドスの利いた丹波哲郎が率いる捜査チームが、大物犯罪者を追い詰めていく。子どもには少し難しいドラマだったけれど、あの重厚な雰囲気に引き込まれた。 そして、必ず来る。 「もう寝なさい!」 母か父の声が飛んでくる。9時を過ぎると、子どもは布団に入らなくてはいけない。Gメンの核心に差し掛かったところで、強制終了だ。しぶしぶ布団に入りながら、「今日の犯人は誰だったんだろう」と天井を見つめた。翌日、友達に結末を聞くのがまた楽しみだった。 あの夜のことを、今も覚えている 18時30分から21時まで。2時間半の土曜の夜。 タイムボカン、まんが日本昔ばなし、仮面ライダーV3、全員集合、Gメン'75。このラインナップを思い出すだけで、今でも胸がじわっと熱くなる。 昭和の土曜日は、学校が午前中で終わった。給食を食べて、午後からは自由だ。友達と外で遊んで、日が暮れて家に帰って、ご飯を食べて風呂に入って、そしてあの時間が始まる。 一週間の中で、あの夜が一番好きだった。 そしてそのすべての始まりが、昭和40年5月8日の夜6時15分に、白黒のテレビ画面に映し出された無名のアニメだったとは、当時の私には知る由もなかった。 おわりに 「宇宙エース」を私は知らない。でも宇宙エースがなければ、あの土曜日の夜はなかった。 素人60人が新聞広告で集まり、ノウハウもないまま作り上げた一本の白黒アニメが、タツノコプロという会社を育て、タイムボカンシリーズを生み、あの土曜日の夜の記憶を作った。 始まりはいつも、誰にも気づかれないところにある。 あなたが子どもの頃に夢中になっていた、あの土曜日の夜のことを、少しだけ思い出してもらえただろうか。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙 ▶

May 8, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃

今日は5月7日。五月の日差しが少しずつ強くなってくる。 昭和の子どもにとって、初夏の楽しみといえば学校帰りの駄菓子屋や商店で買うアイスだった。10円、20円、30円。小さなお小遣いを握りしめて、冷凍ショーケースの白い霧の向こうを覗き込んで選ぶ、あの時間。 昭和44年(1969年)の5月7日、佐賀県の小さなお菓子屋から、一本のアイスが世に出た。 「ブラックモンブラン」。 今も九州の人々に愛され続けるそのアイスは、遠いフランスの雪山の麓で生まれた夢から始まった。そしてそのアイスが作り上げた「チョコバリ系」というジャンルが、昭和50年代の東京の子どもに、忘れられない衝撃を与えることになる。 モンブランを見た男の、とんでもない発想 昭和40年代の初め、竹下製菓の3代目社長・竹下小太郎はヨーロッパへの経済視察旅行に参加した。 訪れたのはフランス・アルプスの山岳リゾート地、シャモニー。標高が高く、夏でも冷え込むその街の向こうに、ヨーロッパ最高峰の白銀の頂・モンブラン山がそびえていた。 それを眺めながら、竹下小太郎の頭に一つの考えが浮かんだ。 「この真っ白い雪山に、チョコレートをかけて食べたらさぞ美味しいだろう」 帰国後、竹下は試作を繰り返した。バニラアイスをチョコレートで包み、その外側にザクザクとしたクッキークランチをまぶす。シンプルだが、当時のアイスとしては革命的な組み合わせだった。 当時の子ども向けアイスといえば、甘味料を加えた色水を棒に刺して固めただけのシンプルなアイスキャンデーが主流だった。バニラアイスにチョコレートとクッキーという「洋菓子風の高級感」は、それまでの駄菓子アイスとはまったく別の存在だった。 アイスクリームの最高峰を目指すという意味を込め、その名前にあの山を冠した。昭和44年5月7日、ブラックモンブランが誕生した。 フライみたいなアイスの、あの衝撃 ブラックモンブランは九州を中心に広まった。しかし昭和50年代に入ると、同じ「チョココーティングのクランチアイス」という系統の商品が、少しずつ全国にも姿を現し始めた。 私が東京でそれを初めて目にしたのは、昭和50年代のことだった。 近所の商店の冷凍ケースの中に、見たことのない形のアイスがあった。「チョコバリ」。 最初は、アイスだとわからなかった。表面がチョコレートでびっしりと覆われていて、まるでフライのようにゴツゴツとしている。「これ、アイスなの?」という衝撃だった。それまでのアイスといえば、細長い棒に色のついた氷が刺さったもの、あるいは丸いカップに入ったもの。チョコレートの鎧をまとった、あんな見た目のアイスを見たことがなかった。 どんな味がするんだろう。かじったらどうなるんだろう。中は何が入っているんだろう。 ところが、当時の私のお小遣いでは、チョコバリは少し高価に感じた。いつも買っていた棒アイスや氷菓子に比べると、値段がワンランク上だった。友達と一緒にいるのに「買えない」とは言いたくない。でも財布の中身が心もとない。そういう複雑な気持ちで、ケースの前でしばらくじっと見つめていた記憶がある。 結局その日は買えなかった。 初めてチョコバリを口にしたとき、チョコレートとクランチがバリッと割れて、中からひんやりとしたバニラが出てくるあの瞬間の感触は、今でも鮮明に覚えている。「こんな食べ物があったのか」という発見の味だった。 アイスが呼び起こす、リアルな記憶 今でも、スーパーやコンビニでチョコバリ系のアイスを見かけることがある。 棒に刺さったチョココーティングのアイスが、冷凍ケースの中に並んでいる。何気なく目に入るだけで、あの頃の記憶が一気によみがえってくる。 不思議なことに、映像として出てくるのだ。 昭和50年代のあの商店の前。一緒にいた友達の顔。その日に何をしていたか。どんな季節だったか。アイスを眺めながら「買おうかどうしようか」と迷っていた自分の、あの気持ち。 アイスひとつで、そこまで鮮明に出てくることが、我ながら不思議だと思う。 これは「プルーストの記憶」と呼ばれる現象に近いのかもしれない。フランスの作家マルセル・プルーストが、マドレーヌを紅茶に浸した瞬間に幼少期の記憶が洪水のようによみがえるという体験を書いた有名な場面だ。味や匂い、視覚の記憶は、言葉や論理で整理された記憶よりも深いところに刻まれていて、ふとしたきっかけで突然、リアルな映像として浮かび上がってくることがある。 チョコバリを見るたびに、私の中の昭和50年代の夏が戻ってくる。あの頃の友達と、あの頃の町の空気と、お小遣いが足りなくて買えなかったあの悔しさまで、セットで。 「当たり」が出たときの、あの興奮 ブラックモンブランには、子どもたちを夢中にさせるもう一つの仕掛けがあった。 アイスの棒に書かれた**「当たり」くじ**だ。 食べ終わった棒をそっとめくると、「はずれ」か「当たり」の文字が現れる。「当たり」が出れば、お店でもう一本と交換できる。昭和52年から数年間は、特賞として500円の当たりが設けられていた時期もあったという。子どものお小遣いが数百円の時代に、アイス一本で500円が当たる。それはもう、宝くじに近い興奮だった。 棒をじっと見つめて、息をのんで文字を確認するあの瞬間。「当たり」の文字が見えたときの「やった!」という叫びは、九州でも東京でも、昭和の子どもたちに共通の体験だったはずだ。 おわりに 昭和44年5月7日、一人の菓子屋の社長がフランスの雪山に見た夢が、佐賀の工場でアイスになった。 そのアイスが生み出した「チョコバリ系」というジャンルは、やがて九州を飛び出して日本中の冷凍ケースに並ぶようになった。東京の子どもが「フライみたいなアイス」に目を丸くした昭和50年代の夏も、その流れの中の一コマだ。 今もスーパーの冷凍ケースの前で、チョコバリをじっと眺めることがある。買うかどうか迷いながら。あの頃と違うのは、今は買える財布の中身があるということだけだ。 それでも、手に取る前の一瞬、昭和50年代の夏がリアルな映像となってよみがえってくる。あの頃の友達と、あの頃の商店と、あの「フライみたいなアイス」への、ときめきとともに。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月6日──「ワープロ」という言葉が生まれた日、そして今 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった ▶

May 7, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月6日──「ワープロ」という言葉が生まれた日、そして今

今日は5月6日。連休が明けて、また日常が始まる。 昭和の大人たちにとって、この時期はデスクに積み上がった仕事が待ち構えていた。書類、報告書、手紙。昭和の職場では、そのすべてが手書きか、和文タイプライターで打たれていた。 そんな昭和の「書く仕事」を、根本から変えてしまった機械がある。 ワープロ──ワードプロセッサーの略だ。 昭和57年(1982年)の5月6日、富士通がある機械を発表した。日本初の100万円以下のワープロ、その名も「マイオアシス」。この日が、「ワープロ」という言葉が日本に定着するきっかけになった日でもある。 75万円の「文明の利器」 「マイオアシス」の価格は75万円だった。 今の感覚では「それでも高い」と思うかもしれない。でも当時のワープロは1台500万円以上が当たり前の時代だった。それが75万円になった。半額以下どころか、7分の1以下だ。オフィスの大型機械だったワープロが、初めて「買えるかもしれない」という存在になった瞬間だった。 この発売に合わせて、富士通は大相撲の人気力士・高見山を起用したテレビCMを大量に放映した。外国人力士として初めて幕内最高優勝を果たし、愛嬌あふれるキャラクターで日本中に人気だったあの高見山が、ワープロのキーボードを叩く映像が全国に流れた。 このCMの中で繰り返し使われた「ワープロ」という略称が、そのまま日本語として定着した。それまでは「日本語ワードプロセッサー」と呼ばれていたこの機械を、日本人は「ワープロ」と呼ぶようになった。 高見山とワープロ。なんとも昭和らしい組み合わせだと思う。 和文タイプライターからワープロへ ワープロが登場する前、日本の職場で文書を作るのがいかに大変だったか、今の若い世代には想像もつかないかもしれない。 和文タイプライターというものがあった。2000個以上の活字が並んだ大きな盤の上を、専用の棒で一文字一文字探して、ガチャンと打ち込んでいく。熟練のタイピストが必死に習得した職人技だった。それでも漢字の種類は限られていて、特殊な文字は使えなかった。 ワープロが変えたのは、そこだった。キーボードでひらがなを打てば、漢字に変換してくれる。間違えても、印刷前なら何度でも直せる。文章を丸ごと動かしたり、コピーしたりもできる。 昭和の大人たちが初めてワープロを触ったときの驚きは、相当なものだったはずだ。「こんなことができるのか」という感動と、「自分にも使えるだろうか」という不安が入り交じった、あの顔が目に浮かぶ。 「ワープロしちゃう」が流行語になった昭和60年代 マイオアシスが発表された昭和57年から数年後、ワープロは急速に普及していった。 昭和60年(1985年)には、東芝が9万9800円という価格のワープロを発売して「10万円以下」の壁を破った。さらにカシオが5万9800円という衝撃の低価格機を投入し、「電卓戦争の再現」とマスコミに騒がれた。 価格が下がるにつれ、ワープロは家庭にも入り込んできた。「ワープロしちゃう」という言葉が若者の間で流行語になったのも昭和60年代のことだ。 少し裕福な家の友達の家にワープロがあって、みんなで触らせてもらった。カタカタと打てば漢字が出てくる、あの感覚の新鮮さ。学校の作文や卒論をワープロで打ち込んだあの誇らしさ。昭和の終わりごろ、私たちの世代はそうやってワープロと出会った。 ワープロが消え、パソコンが来て、そしてAIが来た 昭和が終わり平成に入ると、ワープロは静かに姿を消していった。 パソコンが普及し、ワープロソフトが使えるようになると、専用機を買う理由がなくなった。「Rupo」「書院」「文豪」「オアシス」──かつてワープロのブランド名として輝いていたそれらの名前は、今の若い世代はほとんど知らない。 そしてパソコン時代が来て、インターネットが来て、スマートフォンが来た。気がつけば、私たちは次々と「新しい文明の利器」を手にしながら、ここまで来た。 そして今、また大きな波が来ている。 AIだ。 今、私たちが手にしているもの 昭和57年に75万円だったワープロが「文明の利器」と呼ばれた。 今、15万円程度のMacBook Airを手にすれば、かつてのスーパーコンピューター顔負けの処理能力と、高度なAIが使える。文章を書かせれば、あっという間に仕上げてくる。調べものをすれば、必要な情報を整理してまとめてくれる。翻訳も、要約も、提案も、瞬時だ。 さらに今はエージェント型のAIまで登場している。人間が「こういうことをやっておいて」と指示を出せば、AIが自律的に考え、判断し、作業を完了させてしまう。ワープロが「手書きからの解放」だったとすれば、AIエージェントは「作業そのものからの解放」に向かっている。 昭和57年に75万円のワープロに驚いた人たちが、今この時代を見たら何と言うだろうか。 これはもはや道具の進化ではなく、現代の産業革命だと思う。蒸気機関が肉体労働を変えたように、AIは知的労働そのものを変えようとしている。 おわりに──振り返ることで、感謝がわいてくる 昭和57年5月6日、「ワープロ」という言葉が日本に生まれた。 あの日、75万円の黒い箱の前でおそるおそるキーボードを叩いた大人たちがいた。「こんなことができるのか」と目を丸くしながら、書く仕事の未来が変わっていく予感を感じていたはずだ。 あれから40年以上が経った。 和文タイプライターからワープロへ。ワープロからパソコンへ。パソコンからスマートフォンへ。そして今、AIへ。 振り返ってみると、私たちはとんでもない時代の変化の中を生きてきたのだと気づく。そして今、その変化のスピードはさらに加速している。 昭和の道具たちへの懐かしさとともに、今この時代に生きていることへの感謝がじわじわと湧いてくる。75万円のワープロに驚いた世代が、AIと一緒に仕事をする時代を生きている。それ自体が、ものすごいことだと思うのだ。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃 ▶

May 6, 2026