6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入

六月も半ばになると、教室の窓の外はもう夏の匂いがしていました。昭和五十九年(一九八四年)のきょう六月十四日。中学三年生、十五歳だった私たちの世界で、いちばん熱かったものは何かと聞かれたら、私は迷わずこう答えます。プロレスです。 この日の夜、東京・蔵前国技館で行われた第二回IWGP優勝戦、アントニオ猪木対ハルク・ホーガン。昭和のプロレス史に「蔵前暴動」として刻まれることになる、あの夜の話をさせてください。 金曜八時、テレビの前の私 当時の私は、毎週欠かさずプロレスを見ていました。金曜夜八時、テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』。野球部員でしたから、昼間はボールを追いかけて、夜はテレビの前でリングに釘付けになる。そんな中学生でした。 金曜八時といえば、裏では『太陽にほえろ!』が放送されていた激戦の時間帯です。チャンネルをどちらに合わせるか。それは昭和の茶の間における、ひとつの政治問題でもありました。そして画面の中では、古舘伊知郎アナウンサーの実況が炸裂している。「闘いのワンダーランド」「燃える闘魂」──次から次へと繰り出される言葉の砲弾が、リングの上の攻防を何倍にも大きく見せてくれました。プロレスは目で見るだけのものではなく、耳で聴くものでもあったのです。 夢中になった入り口は、初代タイガーマスクです。佐山聡さんがマスクの下にいた、あのタイガーマスク。ダイナマイト・キッドとの空中戦、小林邦昭との抗争。四次元殺法という言葉がぴったりの、見たこともない動きの連続に、テレビの前で本当にワクワクドキドキしたものです。私が小学六年生の春にデビューして、中学二年の夏に突然マスクを置いて消えてしまった。あの喪失感も含めて、タイガーマスクは私の昭和プロレスの原点でした。 そして、なんといってもアントニオ猪木です。ホーガンはもちろん、スタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シン。強敵が次から次へとやってくる。なかでも忘れられないのが、昭和五十七年の、ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇の「はぐれ国際軍団」三人を相手にした、一対三のハンディキャップマッチです。一人対三人ですよ。いま冷静に振り返ると、とんでもないことをやっていたと思います。けれど当時の私たちは、それを大真面目に、固唾をのんで見ていたのです。猪木なら、本当に三人倒すかもしれない。そう思わせる何かが、あの人にはありました。 一年越しのリベンジマッチ さて、昭和五十九年六月十四日です。 この試合には前段があります。ちょうど一年と少し前、昭和五十八年六月二日。同じ蔵前国技館で行われた第一回IWGP優勝戦で、猪木はホーガンの必殺技アックスボンバーを浴び、場外で失神KO負けを喫しました。世に言う「舌出し失神」です。あの猪木が、リング下で白目をむいて伸びている。テレビの前の少年には、にわかには信じられない光景でした。 しかもこの一年で、ホーガンはさらに大きくなっていました。映画『ロッキー3』に出演し、昭和五十九年の一月にはWWF世界ヘビー級王者にまで上りつめている。四十一歳の猪木と、三十一歳の絶頂期ホーガン。一年越しのリベンジマッチに、蔵前国技館は超満員。誰もが、猪木の雪辱だけを信じて集まっていました。 試合は午後八時二十分にゴング。一進一退の攻防から両者場外でもつれ、十七分十五秒、両者リングアウト。協議の末に時間無制限の延長戦が決まりますが、これもわずか二分余りで再び両者カウントアウト。そして再々延長に突入した、そのときでした。 ここで少しだけ、長州力という男の話をしなければなりません。昭和五十七年、長州は藤波辰巳(現・辰爾)に向かって「俺はお前の噛ませ犬じゃない」と吠え、下剋上ののろしを上げました。そこから始まった藤波との抗争は「名勝負数え歌」と呼ばれ、長州は維新軍のリーダーとして、猪木の新日本に反旗を翻す側のスターになっていた。つまりこの夜、リングサイドの長州は、猪木とは敵対関係の真っただ中にいたのです。 リングサイドにいたその長州力が、再々延長のさなか、突如として猪木とホーガンの双方にリキ・ラリアットを見舞いました。混乱の中、先にリングに戻った猪木がリングアウト勝ち。猪木は念願のIWGP初制覇を果たしました──が、館内は祝福どころではありません。 「こんな決着があるか」。一年待ったリベンジマッチの結末が、第三者の乱入によるリングアウト勝ちでは、納得できるはずもない。怒った観客が座布団やゴミをリングに投げ込み、場内は騒然。ついには蔵前警察署から警官十八人が出動する事態となりました。新日本プロレス史上初の本格的な暴動、「蔵前暴動」です。 さて、ここで正直に告白しなければなりません。私はこの夜のことを、覚えていないのです。 毎週欠かさず『ワールドプロレスリング』を見ていた中学三年生が、昭和プロレス史に残る大事件の夜を思い出せない。自分でも不思議でなりません。翌日の教室では、絶対に話題になっていたはずなのです。誰かが「昨日の蔵前、すごかったらしいぞ」と騒ぎ、誰かがスポーツ新聞の見出しを語り、長州はけしからんと誰かが憤っていたはずなのです。それなのに、その場面がどうしても出てこない。 記憶とは不思議なものです。タイガーマスクの宙を舞う姿や、一対三に挑む猪木の背中のような「画」は、四十年経ったいまも鮮明に焼き付いているのに、事件としてのあの夜だけが、すっぽりと抜け落ちている。けれど、こうも思うのです。覚えていないのは、あの頃の私にとって、金曜八時のプロレスがそれだけ「当たり前の日常」だったからではないか、と。特別な夜として構えて見ていたのではなく、毎週の暮らしの中に、プロレスが空気のように溶け込んでいた。覚えていないことが、かえって熱中の深さの証拠になっている気がするのです。 蔵前国技館、最後の年 ところで、この昭和五十九年は、蔵前国技館にとって最後の年でもありました。この年の秋場所を最後に三十年余りの役目を終え、翌昭和六十年一月には隅田川の対岸に両国国技館が開館します。力道山の時代から数々の名勝負を見届けてきた「プロレスの聖地」は、最後の最後に、座布団の舞う大暴動まで見届けて幕を下ろしたことになります。 蔵前という土地は、私にとって遠い場所ではありませんでした。子どもの頃から乗り慣れた都営浅草線で、京成高砂から押上を抜けて、まっすぐ行った先に蔵前駅はあります。同じ一本の線路の先で、あの夜、大人たちが本気で怒り、警官隊が駆けつけていた。そう思うと、テレビの中の出来事が、急に地続きのものに感じられるのです。 本気で信じていた、あの熱 いまになって思います。あの頃の私たちは、プロレスを「本当か嘘か」という物差しで見ていませんでした。猪木は本当に強いのか。あの技は本当に効いているのか。そんなことを教室で大真面目に議論するのが、あの時代の男子の日常でした。答えなんて出ません。でも、その答えの出なさこそが、昭和のプロレスの魔力だったのだと思います。 大人たちは時々、「プロレスなんて八百長だろう」と水を差しました。けれど少年の私には、それはどうでもいいことでした。一対三で立ち向かう猪木の背中も、四次元殺法のタイガーマスクも、舌を出して失神した猪木が一年かけて挑んだリベンジマッチも、私の中ではぜんぶ「本当」だったからです。観客が本気で怒って暴動になるくらい、みんなが本気で信じていた。あの夜の蔵前の怒りは、裏を返せば、それだけ深く信じられていたことの証拠なのだと、いまなら分かります。 あれから四十年余り。IWGPの名前は、いまも新日本プロレスの最高峰のベルトに受け継がれています。あの夜、蔵前で観客を激怒させた「IWGP」という三文字が、令和の東京ドームで歓声を浴びている。猪木さんも、ホーガンも、もうこの世にいません。けれど「元気ですかーッ!」の声は、私の耳の奥で、いまもはっきりと鳴っています。そして令和のいま、見たい試合はいつでもスマートフォンで呼び出せます。便利になりました。けれど、家族でチャンネルを取り合いながら、週に一度の放送を正座して待った、あのざわざわした金曜八時の夜は、もうどこにもないのです。 みなさんは、昭和のプロレスにどんな思い出がありますか。テレビの前で叫んだ技の名前、学校でのプロレスごっこ、忘れられない名勝負──よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった | 次の記事:6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた ▶

June 14, 2026

『坂の上の雲』と正岡子規の野球 ― 上野公園に残る明治のベースボール

白状すると、私は『坂の上の雲』のファンである。 最初はテレビだった。NHKのスペシャルドラマを観て、すっかり引き込まれ、その勢いで司馬遼太郎の原作を手に取った。読み終えて、しばらくしてまた読んだ。そしてもう一度。つまり三度、あの長い物語を読み返したことになる。秋山好古、真之の兄弟、そして正岡子規。明治という時代を、坂の上の一朶の雲を見つめて登っていった青年たちの物語は、何度読んでも飽きることがない。不思議なもので、読み返すたびに心に引っかかる場面が変わる。若い頃に通り過ぎた一行が、歳を重ねてから読むと、急に立ち上がってくることがあるのだ。長い小説を読み返す愉しみは、たぶんそこにある。 なかでも私が好きなのは、物語の序盤、まだ何者でもない真之と子規が、東京で青春を過ごす場面だ。そこに、野球が出てくる。上野の草原で、書生たちがボールを追いかける場面である。 俳人・正岡子規と野球。一見、結びつかないようでいて、実はこのふたつ、切っても切れない関係にある。今日はその話を書いてみたい。じつはこの日、私は所用で上野に来ていて、その合間の休憩時間に少し走った。せっかく現地にいるのだから、自分の足で確かめないわけにはいかない。その話は、最後に。 俳人になる前の、野球青年だった子規 正岡子規は慶応三年(一八六七年)の生まれ。日本にベースボールを伝えたのは、明治五年(一八七二年)頃、第一大学区第一番中学(のちの開成学校)で教えていたアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンだとされている。ちなみにこのウィルソン、子規より一年あとの二〇〇三年に、やはり野球殿堂入りを果たしている。伝えた人と広めた人が、百年あまりの時を経て同じ殿堂に並んでいるのだから、出来すぎなくらい美しい話だ。 子規が大学予備門(のちの一高)の学生だった明治十九年から二十三年頃には、まだ「野球」という日本語すら一般には定着していなかった。横文字のまま「ベースボール」と呼ばれる、書生たちの新しい遊びだった。 子規はこれに夢中になった。仲間たちと連れ立って、上野公園の空き地でボールを追いかけた。守備位置は捕手。のちに病床に伏す人、という印象の強い子規が、二十歳そこそこの頃には汗まみれでマスクをかぶり、ミットを構えていたのである。 有名な逸話がある。子規の幼名は「升(のぼる)」。これにちなんで、雅号のひとつを「野球」と書いて「のぼーる」と読ませた。ただし、誤解のないように書いておくと、「野球(やきゅう)」という訳語そのものは、のちに教育者の中馬庚が考案したものとされる。子規の「野球(のぼーる)」は、あくまで自分の名前にボールを忍ばせた言葉遊びだ。それでも、雅号にまで持ち込むほど好きだった、ということがよく分かる。 言葉の人が、野球に残した言葉 子規の野球への貢献は、プレーだけにとどまらない。彼は言葉の人だった。「打者」「走者」「直球」「四球」――今では当たり前に使われている野球用語の多くを日本語に訳し、その普及に貢献したとされる。新聞「日本」の記者となってからは、ルールや面白さを伝える随筆を書き、野球を詠んだ俳句や短歌も数多く残した。 久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも これは子規の短歌である。万葉集ばりの枕詞「久方の」のあとに、いきなり「アメリカ人」と「ベースボール」が続く。この取り合わせの大胆さに、私は笑ってしまうと同時に、しびれてしまう。古典の教養と、舶来の新しい遊びへの少年のような好奇心。子規という人の魅力が、この一首に凝縮されている気がするのだ。 その功績が認められ、没後百年にあたる二〇〇二年、子規は野球殿堂入りを果たしている。俳人が野球殿堂に名を連ねるというのは、考えてみれば不思議な光景だが、明治の野球黎明期を知る者にとっては、むしろ当然の顕彰だったのだろう。 小説の上野の場面は、ほぼ史実だった さて、『坂の上の雲』に描かれた上野での野球は、司馬遼太郎の創作ではない。 子規自身の随筆『筆まかせ』に、明治二十三年三月二十一日の午後、上野公園の博物館横の空き地で試合をしたことが記されている。このとき子規が守ったのは、やはり捕手だった。つまり、小説の中で書生たちがボールを追っていたあの草原は、子規が実際にプレーしていた場所そのものなのである。 しかも、この試合には少し切ない背景がある。子規はその前年、明治二十二年に最初の喀血をしている。「子規」という号自体、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスにちなんだものだ。つまり明治二十三年春のこの試合は、すでに病を抱えた体で立ったグラウンドだった。子規が思い切りボールを追えた時間は、実はもう、残り少なかったのである。 三度読んだ小説の一場面が、百三十年以上前の上野に実在した光景だった。この事実を知ったとき、私は物語と現実の距離が、すっと縮まったような気がした。 正岡子規記念球場のこと 現在、上野公園の中に野球場がある。正式名称は「上野恩賜公園野球場」。東京文化会館の裏手にあたる、両翼六十五メートルほどの小ぶりなグラウンドで、休日には草野球や少年野球でにぎわう。 この球場に、二〇〇六年(平成十八年)七月二十一日、「正岡子規記念球場」という愛称が付けられた。上野恩賜公園の開園百三十周年を記念する事業の一環で、同じ日に句碑の除幕式も行われている。碑に刻まれているのは、子規のこの句だ。 春風や まりを投げたき 草の原 春の風に吹かれて、ボールを投げたくてたまらない。若き日の子規の、体の奥から湧き上がるような野球への思いが、十七文字にそのまま閉じ込められている。 ひとつ付け加えておくと、この球場そのものが子規の時代からあったわけではない。子規たちがプレーしたのは、あくまで公園内の空き地や草原である。後年、そのゆかりを記念して、いま公園にある球場に子規の名が冠された、というのが正確なところだ。それでも、子規がボールを追った同じ上野の杜に、彼の名を持つグラウンドがあり、今も子どもたちが白球を追いかけている。これはなかなか、いい話ではないかと思う。 白球を追った者として 実は私自身、中学から高校まで野球部で白球を追いかけてきた人間である。昭和五十年代の終わりから六十年代、来る日も来る日も泥だらけでボールを追った日々を思い出すと、明治の書生たちが上野の草原ではしゃいでいた光景が、他人事とは思えなくなる。 道具も整わない、ルールの翻訳すらこれからという時代に、それでもボールを投げ、打ち、走ることが、たまらなく楽しかったのだろう。その楽しさは、百年経っても変わらない。子規は三十四年の短い生涯のうち、晩年の多くを病床で過ごした。だからこそ、思い切り体を動かせた上野での日々は、彼にとってかけがえのない時間だったはずだ。「まりを投げたき」という句に込められた切実さは、病を得てからの子規が振り返る、あの草の原の眩しさでもあったのだと思う。 令和の野球は、ずいぶん遠くまで来た。メジャーリーグで日本人選手が当たり前に活躍し、きらびやかなボールパークの映像が毎日のように流れてくる。それ自体は素晴らしいことだと思う。けれど野球の原点は、子規たちが駆け回った、あの何もない草の原にある。ボールひとつとバットが一本あれば、それだけで日が暮れるまで楽しかった――その感覚を、私は自分の少年時代の空き地や校庭の記憶として、確かに知っている。 走って、確かめてきた その日は、上野での用事の合間に少し時間が空いた。せっかく現地にいるのだから、走らない手はない。私は身軽になって、公園の中を走り出した。 まず向かったのは、国立科学博物館の前である。大きな楠が枝を広げ、その向こうにシロナガスクジラの実物大模型が横たわっている。広場には観光客や家族連れが思い思いに腰を下ろしている。舗装された明るい広場だ。けれど、ここがあの「博物館横の空き地」の一帯なのだと思うと、足元の景色が少し違って見えてくる。百三十年あまり前、この近くで子規たちがボールを追っていた。観光客のざわめきの底に、書生たちの掛け声が聞こえてくるような気がした。 球場は、東京文化会館の裏手にあった。入口の門には、堂々と「正岡子規記念球場」の看板が掲げられている。足元のマンホールの蓋にまで、同じ文字が刻まれていた。そして、ちょうどこの日は少年たちが試合の最中だった。金網の向こう、土のグラウンドと天然芝の上を、白いユニフォームが駆けていく。打球の音と、監督の声と、子どもたちの歓声。「今も子どもたちが白球を追いかけている」と先に書いたが、それはまさに、目の前の実景だった。 句碑は、球場脇の木陰にひっそりと立っていた。これがなかなか凝った造りで、黒い御影石の上に、白い円盤がはめ込まれている。近づいてよく見ると、その円盤は野球のボールなのだ。白い革に縫い目が走り、その縫い目の間を縫うように、句が刻まれている。 春風や まりを投げたき 草の原 文字だけで知っていたこの句が、ボールの意匠の中に立ち上がっているのを見て、思わず唸ってしまった。手前には台東区教育委員会による解説板があり、平成十八年七月の建立であること、子規の経歴と野球への貢献が丁寧に記されている。 目を閉じて 句碑の前を離れ、グラウンドの脇にしばらく立った。 少年たちの声を聞きながら、私は目を閉じてみた。ここで、若き日の子規と真之が野球をしている。汗まみれの書生たちが、声を上げ、ボールを追い、笑っている。まだ何者でもない青年たちが、これから登っていく坂の上の雲を、まだ知らないままに。 目を開けると、目の前では令和の少年たちが白球を追っていた。明治の書生も、昭和の野球少年だった私も、いま目の前で駆けるあの子たちも――根っこのところは、何ひとつ変わっていない。春風の中でボールを投げたい、ただそれだけの気持ちで、人は草の原に立つのだ。 三度読んだ小説の一場面が、自分の足で立つ現実の風景とひとつになった。用事の合間のほんの短い時間だったけれど、忘れがたいひとときになった。 まだ読んだことのない方は、ぜひ一度。明治という時代を、坂の上の一朶の雲を見つめて登っていく青年たちの物語です。長い旅ですが、何度でも読み返したくなります。 新装版 坂の上の雲(一)司馬遼太郎/文春文庫(新装版・全8巻)。まずは第一巻から Amazonで見る › 皆さんには、好きな小説の舞台を訪ねてみたい場所がありますか。よろしければ、コメントで教えてください。 走って考えたことシリーズ、ほかの記事はこちら▼ ドライブシュートだぁぁぁ──四つ木と『キャプテン翼』を思う 厚底シューズ歴7年の私が「ワラーチ」で走ったら、ニヤけが止まらなくなった話 雨の御茶ノ水、人の手が掘った谷を走る

June 13, 2026

6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった

六月十三日。カレンダーの記念日欄には「FMの日」とあります。アルファベットでFが六番目、Mが十三番目だから、という語呂合わせです。そして昭和五十七年(一九八二年)のこの日、スペインでサッカーのワールドカップが開幕しました。 ちなみにこの日は、昭和六十二年(一九八七年)に広島の衣笠祥雄選手がルー・ゲーリッグの連続試合出場世界記録を塗り替えた日でもあります。ただ、鉄人の話は六月七日の記事でたっぷり書いたばかりなので、きょうは別の話を。 実は今回の二つ──FMもスペイン大会も、正直に白状すると、当時の私の記憶にはほとんど残っていません。けれど「覚えていない」ことにも、それなりの理由がありました。きょうは、その理由のほうの話です。 世界が沸き始めた日、野球少年は素振りをしていた 昭和五十七年六月十三日、スペイン・バルセロナのカンプノウ・スタジアム。九万人を超える大観衆の前で、前回王者アルゼンチンとベルギーの開幕戦が行われました。アルゼンチンの十番をつけていたのが、当時二十一歳のディエゴ・マラドーナ。これが彼のワールドカップ・デビュー戦でした(試合はベルギーが一対〇で勝っています)。大会はその後、パオロ・ロッシを擁するイタリアが優勝。いまもサッカー史に残る名大会として語り継がれています。 で、そのとき十三歳、中学一年生だった私はといえば──何も覚えていません。本当に、何ひとつ。 もっとも、これは私だけのことではなかったと思います。昭和五十七年の日本にとって、ワールドカップはまだ遠い遠い大会でした。日本代表は一度も本大会に出場したことがなく、Jリーグもまだ影も形もない時代。テレビでサッカーといえば、正月の高校サッカーくらいのもので、海の向こうの大会を生中継で追いかけるという習慣そのものが、お茶の間にはほとんどなかったのです。 そして当時の私は野球部に入ったばかりの、根っからの野球小僧でした。『キャプテン翼』の連載が少年ジャンプで始まったのは前年の昭和五十六年。けれど翼くんが私の心に飛び込んでくるのは、もう少し先の話です。つまりこの開幕の日の私は、まだ「キャプテン翼以前」。マラドーナという名前すら、知らなかったはずです。世界中がスペインの熱狂に沸いていたその夜も、私はたぶん、いつもどおり素振りをして、巨人戦を見て、眠っていたのだと思います。サッカーのワールドカップは、昭和五十七年の野球少年の暮らしの、ずっと外側にありました。 四年後の早朝、マラドーナに釘付けになった ところが、です。四年後の昭和六十一年(一九八六年)、メキシコ大会。十七歳の高校二年生になっていた私は、早朝のテレビ放映を夢中で見ていました。 メキシコと日本の時差は十五時間。向こうの昼の試合は、日本ではちょうど夜明け前から早朝の時間帯にあたります。つまりワールドカップを見るということは、いつもよりずっと早く起きるということでした。野球少年だった私を、早起きしてまでテレビの前に座らせる「サッカーの大会」。四年前には考えられなかったことです。 きっかけは、もちろん翼くんです。中学時代にこっそりはまった『キャプテン翼』が、野球少年の中に「サッカーを見る目」を作ってくれていた。そして画面の中には、漫画よりも漫画みたいな選手が、本当にいたのです。 マラドーナ。決して大きくはない体で、次々とドリブルで相手選手を抜き去っていく、あの力強いプレー。ボールが足に吸い付いたまま、屈強なディフェンダーが何人がかりで止めにきても、倒れない、止まらない。準々決勝のイングランド戦では、のちに「神の手」と呼ばれるあの一撃と、五人抜きの「世紀のゴール」を、わずか数分のあいだに両方やってのけました。手で押し込んだゴールですら「ゴール」と言わせてしまう。理屈ではありません。あの小さな背中には、それを許させてしまうだけの、圧倒的な存在感があったのです。 スペイン大会を素通りした少年は、四年かけて、ようやくワールドカップに追いついた──いや、翼くんとマラドーナに、追いつかされたのでした。 FMは「お兄さんのもの」、私の相棒は携帯ラジオ さて、もうひとつの「FMの日」。これも白状すると、当時の私はFM放送をあまり聞いた記憶がありません。FMといえば音楽番組。本屋には「FMレコパル」や「週刊FM」といったFM情報誌が並び、二週間分の番組表を蛍光ペンでチェックして、お目当ての曲が流れる時間にカセットテープの録音ボタンに指をかけて待つ──そんな「エアチェック」に励むのは、もう少し年上の、ちょっとお兄さんたちの世界。レコードを買うお金のない時代に、FMとカセットは音楽好きの強い味方だったわけですが、小学生の私には、まだずいぶんと背伸びの領域に感じられていました。 そのかわり、ラジオそのものとは、ずっと早くから深い付き合いがありました。 小学三年生のころ。すでに立派な野球小僧だった私は、プロ野球の巨人戦をテレビで欠かさず見ていました。ところが、テレビ中継には終わりがあります。たいてい二十一時前ごろ、試合の決着がつこうがつくまいが、中継はぷつりと終わってしまう。九回裏、一打逆転の場面でも、お構いなしに、です。あの「続きが見られない」悔しさは、昭和の野球少年なら誰もが知っていると思います。 でも、ラジオなら最後まで聞ける。テレビが「ここまで」と打ち切ったその先を、ラジオの実況はちゃんと最後のアウトまで届けてくれるのです。当時のAMラジオは夜の看板がナイター中継で、各局が看板アナウンサーと解説者をそろえて、延長になろうが何だろうが、試合が終わるまで付き合ってくれました。テレビに置いていかれた野球少年にとって、これほど頼もしい存在はありません。 それを知った私は、誕生日のプレゼントに携帯ラジオを選び、買ってもらいました。年に一度の誕生日プレゼントです。おもちゃでも、野球の道具でもなく、ラジオ。小学三年生の選択としてはずいぶん渋い気もしますが、当時の私にとっては「巨人戦の続きが聞ける魔法の箱」だったのですから、迷いはなかったのだと思います。 それからの習慣は決まっています。テレビ中継が終わると、携帯ラジオのチャンネルを野球中継に合わせ、枕元に置いて、布団に入る。画面はないけれど、アナウンサーの声と球場のざわめきだけで、場面はいくらでも目に浮かびました。実況が早口になれば走者が走り、歓声がわっと膨らめば白球が外野の頭上を越えていく。むしろ目をつぶっているぶん、想像のグラウンドはテレビより広かったかもしれません。 スペイン大会が開幕した昭和五十七年の夜も、きっと私の枕元では、ナイター中継が小さく流れていたはずです。世界の熱狂は、まだ私の布団までは届いていなかったけれど、私には私の、夜の続きがあったのです。 手のひらサイズのラジオは、令和のいまも現役です。あの頃の相棒のような一台は、枕元のナイター中継はもちろん、いざというときの防災ラジオとしても、ひとつ持っておくと心強いものです。 ソニー ポケットラジオ ICF-P27(FM/AM/ワイドFM)手のひらサイズの定番。枕元のナイターにも、防災の備えにも Amazonで見る › 令和の今、枕元にはスマホがあるけれど あれから四十四年。いままさに、北中米でワールドカップが開幕したばかりです。スペイン大会を素通りしたあの野球少年が、いまは開幕戦の日程を指折り数えて待つようになったのですから、人生はわからないものです。つい先日は、地元の四つ木・立石に点在する『キャプテン翼』の銅像九体を、ランニングで巡ってきた話も書きました。十三歳の私に教えてあげたら、きっと信じないでしょう。 観る環境も、すっかり変わりました。スマホひとつで試合が見られて、見逃した試合は翌朝に配信で追いかけられる。ラジオもradikoで、全国の放送局が手のひらに収まる時代になりました。野球中継が「二十一時前に終わってしまう」悔しさを、いまの子どもたちは知らないでしょう。続きが気になるなら、指先ひとつで続きが手に入るのですから。 それでも、ふと思うのです。枕元の小さなラジオに耳を澄ませて、音だけで満員の球場を思い描いた、あの夜の豊かさのことを。見えないからこそ見えたものが、確かにあった気がします。情報がいくらでも手に入る時代になったからこそ、あの「音だけの夜」が、妙に贅沢なものだったように思えてくるのです。 みなさんには、「枕元のラジオ」の思い出はありますか。そして、初めて夢中になったワールドカップは、どの大会でしたか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日 | 次の記事:6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入 ▶

June 13, 2026

6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日

六月の夕方五時すぎ。梅雨どきの空はまだ十分に明るくて、子どもたちは外遊びから帰ってくるか、家のテレビの前に座りこんでいる時間です。台所からは、お母さんの包丁の音と、煮物の匂い。お父さんはまだ会社。ちゃぶ台に夕飯が並ぶまでの、あの何でもない時間。昭和の、ごくありふれた月曜日の夕方でした。 昭和五十三年(一九七八年)六月十二日、午後五時十四分。その当たり前の時間を、突然の大きな揺れが襲いました。宮城県沖地震です。 その日、東京も揺れた 地震の規模はマグニチュード七・四。震源は宮城県の沖合、深さ約四十キロ。仙台などで当時の基準の震度五を観測し、揺れは東北地方を中心に、北海道から関東、中部、近畿あたりまで、列島のほぼ半分に及びました。 そして東京も、震度四。私は当時九歳、小学三年生です。葛飾の家にも、あの揺れは確かに届いていたはずなのです。 九歳の私に、揺れそのものの記憶は、正直なところ残っていません。けれど、その夜のニュースと翌朝のテレビは、はっきりと覚えています。倒壊した建物やブロック塀の映像が、何度も何度も繰り返し流れていました。なかでも忘れられないのが、一階部分がぺしゃんこに押しつぶされたビルの映像です。パチンコ店が入っていた雑居ビルが、上の階の重みでつぶれている。建物というのは、ああいうふうに「潰れる」ものなのか。九歳の目に焼きついたあの映像は、半世紀近くたったいまも、鮮明に思い出すことができます。 夕方五時十四分という時刻を、いま改めて考えてみます。学校から帰って、ランドセルを玄関に放り出して、原っぱや路地での遊びからそろそろ戻ってくる時間。各家庭がこれから夕飯の支度にとりかかる、その入り口の時間帯です。あの地震は、そういう「暮らしのまんなか」を直撃したのでした。 それでも、恐れられていた火災は、仙台市内でわずか八件と、事前の予測を大きく下回りました。「地震が来たらまず火の始末」という意識が市民に根づいていたこと、初夏で暖房を使っていなかったこと、そして本震の八分前に小さな前震があり、火を消した家庭が多かったこと。昭和の合言葉「地震だ、火を消せ」が、本当に機能した地震だったのです。 ブロック塀が、子どもたちの通学路で 宮城県沖地震では、東北全体で二十八人の方が亡くなり、負傷者は一万人を超えました。住宅の全半壊は七千棟以上。ただ、この地震が後の日本に残した教訓は、被害の数字そのものより、犠牲の「出かた」にありました。倒れた家屋の下敷きになった方よりも、ブロック塀や石塀、門柱の倒壊に巻き込まれて亡くなった方のほうが、ずっと多かったのです。 ブロック塀は、昭和の住宅地の風景そのものでした。私が育った葛飾の下町も、細い路地の両側にブロック塀や万年塀が連なっていて、子どもたちは毎日その脇を歩いて学校に通っていました。塀の上を歩いて怒られた子、塀の穴から隣の家の犬をのぞいた子。あれほど暮らしに馴染んでいたものが、ひとたび大きく揺れれば凶器になる。誰もがうすうす知っていながら、誰も真剣に考えてこなかったことを、この地震は突きつけました。 もうひとつ、この地震が初めて見せたものがあります。「大都市の地震」です。当時の仙台は人口五十万を超える大都市で、丘を切りひらいた新しい住宅団地がどんどん広がっていた時代でした。被害はその新興住宅地に集中し、都市ガスの復旧には約一カ月。電気、水道、電話という、都市の暮らしを支える線がいっせいに切れたとき何が起きるのか。日本が初めて目の当たりにした「都市型地震」だったと言われています。 この教訓から、昭和五十六年(一九八一年)に建物の耐震基準が大きく見直されました。いまも不動産の世界で使われる「新耐震」「旧耐震」という言葉。その境目を作ったのが、この宮城県沖地震なのです。発生日の六月十二日は、いまも宮城県の「県民防災の日」とされ、毎年この日に防災訓練が行われています。仙台のラジオ局では、毎日夕方五時十四分になると「宮城県沖地震が発生した時刻です」と伝える番組があるそうです。四十八年たっても、あの時刻は忘れられていないのです。 大人になって、震災は「見るもの」ではなくなった 九歳の私にとって、震災はテレビの中の出来事でした。けれど大人になるにつれ、それは少しずつ、自分の側へ近づいてきます。 平成七年(一九九五年)一月十七日、阪神・淡路大震災。私は二十五歳でした。冬の早朝、まだ眠っている都市を直下の揺れが襲い、高速道路が横倒しになり、六千四百人を超える方が亡くなりました。崩れた建物の多くが「旧耐震」の時代に建てられたものだったと、後の検証は伝えています。宮城県沖地震が残した宿題は、まだ終わっていなかったのです。朝のテレビが映し出した、横倒しの阪神高速。あの一枚の画は、「都市は地震に勝てるはずだ」という、私たちがどこかで抱いていた思い込みを、根こそぎ崩していきました。このときの私はまだ、九歳のあの日と同じように、画面のこちら側にいました。 そして平成二十三年(二〇一一年)三月十一日、東日本大震災。四十一歳の私は、もう画面のこちら側にはいませんでした。当時の私は路線バスの運転手で、あの日も乗務中だったのです。 走っているバスのハンドル越しにも、はっきりとわかる強い揺れでした。バスを路肩に停め、揺れが収まるのをじっと待つ。お客様を乗せたまま、車内で過ごしたあの数分間の長かったこと。やがて揺れが収まり、運行を再開しましたが、本当の異変が始まったのは、夕方の帰宅ラッシュからでした。 鉄道がすべて止まっている。動いているのは、バスとタクシーだけ。そこへ、家族を迎えに行く車が都内へどっと流れ込み、道路は身動きのとれない大渋滞になりました。私のバスは営業に出たまま、その渋滞のただなかに、お客様を乗せたまま立ち往生したのです。歩道には、家路を歩く人の列が夜まで途切れることなく続いていました。結局、車庫に戻れたのは、日付が変わった夜中の三時頃だったと記憶しています。 九歳のとき、テレビ画面のこちら側から見ていた震災。その三十三年後、私は人を家へ運ぶ側として、震災の夜の中にいました。震源は皮肉にも、あの日と同じ「宮城県沖」を含む、東北の太平洋沖。同じ海が、規模も性質もまるで違う災害を、同じ土地に、そして今度は私自身の一日に、もたらしたのです。 令和のいま、「次」は三つ指折り数えられている そして令和の今、関東に暮らす私たちは、専門家から「次」の候補をはっきり示されています。 ひとつめは、首都直下地震。マグニチュード七クラスの地震が今後三十年以内に起きる確率は、七十パーセント程度とされています。私たちの足元で、いつ起きてもおかしくないと言われ続けている、いちばん身近な脅威です。 ふたつめは、南海トラフ巨大地震。令和七年(二〇二五年)に確率の算出方法が見直され、三十年以内の発生確率は「六十〜九十パーセント程度以上」と「二十〜五十パーセント」というふたつの数字が併記されることになりました。数字に幅はあっても、「可能性が高い」という評価そのものは変わっていません。 そしてみっつめが、相模トラフの巨大地震。百年余り前、大正十二年(一九二三年)の関東大震災を起こした、関東の足元のプレート境界です。十万人を超える犠牲の多くが火災によるものだったあの震災は、私たちの祖父母の世代にとっての「地震」の原風景でした。「地震だ、火を消せ」という昭和の合言葉も、九月一日の防災の日も、もとをたどればこの震災に行き着きます。相模トラフの巨大地震そのものは数百年単位の間隔と考えられていますが、首都直下のマグニチュード七クラスは、その大きな地震に向かう過程で起きやすくなるとも言われています。 数字を並べると、正直、少し怖くなります。けれど思い出したいのは、宮城県沖地震からの四十八年間、日本がただ怯えていたわけではない、ということです。ブロック塀の点検が始まり、耐震基準が変わり、緊急地震速報が生まれ、学校の防災訓練は当たり前になった。いまでは揺れが来る数秒前に、ポケットの中のスマートフォンが一斉に鳴って教えてくれます。昭和五十三年のあの日、何の前触れもなく夕方の台所を襲った揺れのことを思えば、隔世の感があります。九歳の私たちが経験した「夕方五時十四分」は、決して無駄にはなっていないのです。 今夜、寝る前に、寝室の家具の置き方をひとつ見直してみる。水のペットボトルを一本、買い足しておく。それが、昭和五十三年六月十二日の揺れを知っている世代の、ささやかな務めなのかもしれません。 みなさんには、忘れられない地震の記憶がありますか。子どもの頃にテレビで見たもの、大人になって自分の身に起きたこと。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と | 次の記事:6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった ▶

June 12, 2026

6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と

朝、玄関の戸を開けて、湿った土の匂いがふっと鼻に届くと、ああ、梅雨が来たな、と思います。きょう六月十一日は、暦の上の「入梅」。立春や八十八夜と同じ雑節のひとつで、梅の実が熟す頃に降る雨だから「梅雨」、その入り口だから「入梅」です。いまは気象庁が「梅雨入りしたとみられます」と発表してくれますが、昔の人は暦のこの日を境に、およそ三十日間を梅雨と心得ていたのだそうです。令和八年は、ちょうどきょうが暦の上の入梅にあたります。そこから六月十一日は「傘の日」という記念日にもなっています。 そしてもうひとつ。昭和四十七年(一九七二年)のこの日は、当時通産大臣だった田中角栄が、あの『日本列島改造論』を発表した日でもあります。 傘と、列島改造。一見なんのつながりもない二つですが、どちらも昭和の雨の日の風景の、すぐそばにあったものです。きょうは梅雨入りの朝にふさわしく、雨の話から始めさせてください。 雨の日の通学路 子どもの頃の梅雨は、いまよりずっと長く感じられました。 私が育った高砂のあたりは、当時はまだ木々の生い茂った空き地があちこちに残っている町でした。梅雨どきの雨の日に歩いていると、ブロック塀や草むらのそこかしこに、カタツムリやアマガエルの姿を頻繁に見つけることができたものです。アスファルトとコンクリートばかりになったいまの高砂からは、ちょっと想像がつかないかもしれません。 登校の途中でカタツムリを捕まえて、そのまま教室に持ってくるクラスメイトもいましたね。雨の日の教室の窓際で、誰かの筆箱の上をのんびり這っていくカタツムリ。あのカタツムリたちがその後どうなったのか、いまとなっては知るよしもありませんが、雨の日にしかない、あの小さなにぎわいだけは妙に記憶に残っています。 学校に着くころには、靴下のつま先がじっとり湿っている。教室の後ろにずらりと並んだ傘から、ぽたぽたと水が垂れて、廊下に細い川をつくる。雨の日の小学校には、あの独特の、濡れた布と土埃の混ざったような匂いがありました。 ビニール傘は、東京の下町生まれ ところで、いまや日本の雨の日の象徴のようになっているビニール傘。あれが東京の下町で生まれた発明品だということを、ご存じでしょうか。 つくったのは、江戸の享保年間から続く老舗の傘問屋「武田長五郎商店」、いまのホワイトローズという会社です。もとは煙草の商いから始まり、煙草を湿気から守る油紙で雨合羽をこしらえて雨具屋に転じ、大名行列の雨具まで納めたという、筋金入りの「雨」の家系。戦後すぐの傘は綿の布張りが主流で、雨に濡れると染料が溶けて色落ちし、服にシミをつけてしまうのが悩みの種でした。そこに目をつけた九代目が、進駐軍の持ち込んだ「ビニール」という新素材で、傘にかぶせる防水カバーをつくった。これが昭和二十八年(一九五三年)に大当たりします。 やがてナイロン傘の登場でカバーが売れなくなると、今度はビニールそのもので傘をつくってしまえと、昭和三十三年(一九五八年)、世界初のビニール傘を完成させました。昭和三十九年(一九六四年)の東京オリンピックで来日したアメリカのバイヤーの目にとまり、海を渡っていったといいますから、たいしたものです。 いまやコンビニのレジ脇に当たり前のように並ぶビニール傘。その元祖は、東京・下町の老舗傘問屋が昭和三十三年(一九五八年)に世に送り出した、世界初の発明品だった。(Photo: KKPCW / CC BY-SA 4.0) 余談をひとつ。昭和五十五年(一九八〇年)ごろ、この会社はある都議会議員から「顔が見える透明で丈夫な傘がほしい」と頼まれます。雨の日の街頭演説で、黒い傘は聴衆に圧迫感を与えるが、透明な傘なら表情が伝わるし、庶民的に見える、というのです。こうして生まれた選挙用の頑丈なビニール傘は、口コミで議員たちの間に広まったのだとか。選挙カーの上の透明な傘に、そんな来歴があったとは。 私が子どもだった昭和五十年代、ビニール傘はまだいまほど「使い捨て」のものではなかったように思います。透明な傘越しに見上げる雨空が、布傘の下より少しだけ明るかったこと。あの感じは、昭和の発明がくれた小さな贈り物だったのかもしれません。 三歳の私の頭の上で、日本が変わり始めた さて、もうひとつの六月十一日。昭和四十七年(一九七二年)のきょう、田中角栄が『日本列島改造論』を発表しました。 新幹線と高速道路で日本中を結び、太平洋側に集まりすぎた工場を地方に移して、東京の過密と地方の過疎を一気に解決する──そんな大風呂敷の構想です。当時の東京は、人口の三割が国土の一パーセントに住むといわれた超過密状態。発表の翌月には田中は総裁選を制して総理大臣になり、本は九十一万部を超えるベストセラーになりました。政策の本がその年の売り上げ四位に入ったというのですから、当時の熱気がうかがえます。 『日本列島改造論』を引っさげ、昭和四十七年(一九七二年)七月、総理大臣の座に駆け上がった田中角栄。新潟の寒村から身を起こした「今太閤」の描いた構想は、日本中を熱狂させた。(Photo: 首相官邸ホームページ / CC BY 4.0) このとき私は三歳。本の中身など知るよしもありません。けれど、いま振り返ると、私が子ども時代を過ごした昭和四十年代の終わりから五十年代の町には、たしかに、いつもどこかで工事の音がしていました。 なかでも印象に残っているのが、環状七号線──環七の工事です。 いまでこそ環七は当たり前のように中川を渡っていますが、私の小学生時代、あの橋はまだ存在しませんでした。環七は中川で分断されていて、青戸側と高砂側を行き来するには、けっこうな迂回を強いられたものです。その「最後の切れ目」をつなぐ橋の工事が、ちょうど私の小学生時代に進められていたのでした。 橋の名は、青砥橋。青戸二丁目と高砂一丁目を結ぶ、長さ六百四十メートル余りの長大橋です。昭和五十四年(一九七九年)の秋に工事が始まり、完成は昭和六十年(一九八五年)一月。私が中学三年の冬のことです。そして実は、この青戸から奥戸にかけての区間こそ環七で最後まで残っていた未開通区間で、青砥橋の完成によって、環七は計画からおよそ五十八年をかけて、ようやく全線がつながったのでした。子どもの頃に毎日眺めていた工事現場が、東京の大動脈の「最後のひと筆」だったとは。 中川をまたいで青戸と高砂を結ぶ青砥橋。スカイツリーを背に、ゆるい弧を描いて伸びている。当たり前のように渡っているこの橋が完成して、環七はようやく一本につながった。 いま車で渡ると、意外と登るな、と感じるゆるい坂。歩いてみると、想像よりずっと長い。そして橋の上から見おろす中川は、下町の空が広く感じられて、なかなかの抜け感があります。高砂側から青砥駅の方へ向かうときの目印にもなっていて、すっかり生活の一部です。当たり前のように渡っているこの橋が「なかった」頃の町を知っている、というのは、考えてみれば不思議な感覚ですね。 列島改造論が環七をつくったわけではありません。環七の計画自体は戦前にまでさかのぼります。それでも、日本中を道路と橋でつなごうという、あの時代の大きなうねりの末端が、私の町の、あの工事現場だったのだと思います。子どもの頃の耳に残る槌音は、日本がまだ「建設中」だった時代の音でした。 もっとも、列島改造の構想は土地の投機を呼んで地価が跳ね上がり、オイルショックと重なって「狂乱物価」と呼ばれるインフレを招くことにもなりました。茶の間で大人たちが顔を曇らせていた「物価が上がる」という言葉の出どころが、まさかこの日の発表にあったとは。子どもの私は、知るはずもありませんでした。 令和の雨の日に いまの東京で雨が降ると、駅前はビニール傘の花畑になります。コンビニで数百円。壊れたら、買い替える。あの下町の傘問屋が手塩にかけて生んだ発明は、皮肉なことに「いちばん粗末に扱われる傘」の代名詞にもなってしまいました。 それでも私は、透明な傘を差して見上げる梅雨空が、嫌いではありません。雨粒がビニールを叩く音は、昭和の雨の日と、たいして変わらないのですから。 みなさんは、子どもの頃の雨の日に、どんな思い出がありますか。お気に入りの傘の色、長靴の中に入ってしまった雨水の冷たさ、通学路で見つけたカタツムリ、そして、いつのまにか町から消えていった空き地のこと──よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う | 次の記事:6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日 ▶

June 11, 2026

ドライブシュートだぁぁぁ ― ワールドカップ前夜に、四つ木と『キャプテン翼』を思う

明日、ワールドカップが開幕する 明日、二〇二六年六月十一日。北中米の三か国――アメリカ、カナダ、メキシコを舞台に、ワールドカップが開幕する。三つの国にまたがって行われるのは大会史上はじめてのことで、出場国はこれまでで最多の四十八か国にまでふくらんだ。開幕戦の地は、メキシコシティ。あの伝説的なスタジアム、エスタディオ・アステカに、世界中の目が集まる。 そして、私たちの日本代表も、当然のようにそこにいる。八大会連続、八度目の出場である。グループステージの初戦も、開幕からほんの数日後に控えている。眠い目をこすりながら、夜中や明け方にテレビの前に陣取る――そんな夏が、また始まろうとしている。 ――「当然のように」と書いて、ふと手が止まった。本当に、当然なのだろうか。少なくとも私が少年だったころの日本にとって、ワールドカップという舞台は、月の裏側のように遠い、手のとどかない場所だった。テレビの中の、よその国のお祭りだった。それが今では、出ていることに誰も驚かない。この四十年あまりで、私たちはずいぶん遠くまで来たものだと思う。 野球少年が、ボールを持ち出した日 時間を、その四十年あまり巻き戻したい。 一九八三年(昭和五十八年)十月十三日。木曜日の夜、テレビ東京系で一本のアニメがはじまった。『キャプテン翼』である。原作はその二年前から週刊少年ジャンプで連載がはじまっていたが、動いて、しゃべって、必殺シュートを放つ翼くんたちを茶の間で見たときの衝撃は、今もはっきりと覚えている。汗くさい根性ものとはまるで違う、明るくて、爽やかで、空までボールが飛んでいきそうな世界だった。 そのとき私は十四歳、中学二年生。野球一筋の、バリバリの野球少年だった。バットを振り、白球を追うことしか頭になかった少年が、たった一本のアニメに足もとをすくわれた。サッカーである。野球少年でありながら、私はすっかりサッカーに夢中になってしまった。 思えば、あの作品にはずるいくらいの魅力があった。重力を無視したようなドライブシュート、二人で放つツインシュート、そして地を這うようなタイガーショット。スポーツの「正しさ」よりも、少年の「こうだったらいいのに」を真ん中に置いた世界。野球で鍛えた負けん気が、そっくりそのままサッカーへ流れ込んでいくのに、時間はかからなかった。 困ったのは、サッカーボールなど持っていなかったことだ。そこで私は、部活が終わったあと、こっそりと学校のサッカーボールを持ち出した。そして帰り道の途中にある空き地で、野球のユニフォーム姿のまま、ボールを蹴った。胸には野球部の誇り、足もとには翼くんへの憧れ。今思えば、なんともちぐはぐな格好だったろう。 それでも、私は本気だった。あるときは大空翼になり、あるときは岬太郎になり、あるときはライバルの日向小次郎になりきった。「ドライブシュートだぁぁぁ……!」と叫びながらボールを蹴り上げ、「タイガーショット!!」と、一人で実況までつけた。極めつけは帽子だ。野球少年のくせに、私はゴールキーパー・若林源三と同じアディダスの帽子をかぶっていた。野球帽ではなく、である。あのころの私の頭の中では、グラウンドとサッカー場の境目が、もう溶けてなくなっていたのだと思う。 そしてこれは、私だけのことではなかったはずだ。あの放送がはじまってから、全国の公園や空き地は、ボールを追う少年たちであふれかえった。それまで野球少年ばかりだった日本の原っぱの景色を、一本のアニメが塗り替えてしまったのだ。今の日本サッカーの土台には、あのとき足もとを変えられた、数えきれない少年たちがいる。私も、その末席に、確かにいた。 翼くんは、葛飾の子だった 大人になってから知って、思わず膝を打ったことがある。『キャプテン翼』の作者・高橋陽一先生が、私の暮らす葛飾区の、それも四つ木の出身だということだ。 作中で翼くんが所属するチーム「南葛」。この名前は、高橋先生の母校である東京都立南葛飾高校の略称からきているという。物語の舞台そのものはサッカー王国・静岡をイメージしているそうだが、その名前のルーツは、まぎれもなく、私たちの葛飾にあったのだ。テレビの向こうのまぶしい世界が、実はすぐ隣町とつながっていた。そう知ったときの、くすぐったいような誇らしさは、今でもうまく言葉にできない。 その縁もあって、今の四つ木界隈は、すっかり「キャプテン翼の街」になっている。京成電鉄の四ツ木駅は翼くんたちの名場面で彩られ、駅を出れば、高橋先生監修のキャラクター銅像が、四つ木・立石の各所に九体も点在している。最初の大空翼像が四つ木つばさ公園にお披露目されたのが二〇一三年。地元には作中と同じ名を冠したサッカークラブ「南葛SC」も生まれ、毎年一月には「キャプテン翼CUPかつしか」という大会まで開かれている。漫画の中の南葛が、現実の葛飾の街へと、ゆっくり染み出してきたようなものである。 九体の銅像を、走って巡った そして今日、二〇二六年六月十日。ワールドカップ開幕の前日に、私は仕事の休憩時間を使って、九体すべてをランニングで巡ってきた。名づけて「キャプテン翼銅像コンプリートラン」。総距離は、およそ七キロである。 出発は、翼くんたちの装飾でいろどられた京成・四ツ木駅。駅前のポケットパークに立つ石崎了から走り出し―― 四つ木公園の日向小次郎、 四つ木つばさ公園の大空翼、 めだかの小道のロベルト本郷と翼――このあたりは住宅街で信号も少なく、足が気持ちよく前へ出た。 葛飾郵便局前の中沢早苗、 渋江公園の岬太郎を過ぎると、道はいよいよ立石エリアへ。 下町の商店街の匂いの中を進み、立石みちひろばで若林源三と再会したときには、思わず足が止まった。中学のころ、野球少年のくせに、わざわざ同じアディダスの帽子をかぶっていた、あの守護神である。 そして奥戸街道を東へ。最後にたどり着いたゴールは、南葛飾高校の前に立つ、ツインシュートの翼像だった。 走り終えて、はっとした。出発点は翼くんの装飾に包まれた駅、そして終着点は、「南葛」という名前そのものが生まれた高校の前。私はこの七キロで、知らず知らずのうちに、物語の名前の故郷まで走り着いていたことになる。よくできた円環だと、一人で妙に感心してしまった。 走りながら、おかしくなって、つい笑ってしまった。四十年あまり前、放課後の空き地まで、こっそり持ち出したサッカーボールを抱えて走っていったあの少年が、今は仕事の合間に、同じ葛飾の路地を、銅像を追いかけて走っている。格好こそ違え、やっていることはちっとも変わっていない。翼くんに会いに行くためなら、私はいつだって走り出してしまうらしい。 あの空き地で、私が一人何役もこなして「なりきって」いた翼も、岬も、小次郎も若林も、今は確かなかたちを与えられて、私の暮らす町に立っている。憧れて真似していたヒーローたちの足もとに、五十代も半ばを過ぎた私が、息を切らせて立つ。なんだか、長い夢の続きの中を走っているような心地だった。 その『キャプテン翼』も、二〇二五年の春、四十三年にわたる長い連載に幕を下ろした。私が中学二年で出会った翼くんは、私が還暦を前にするまで、ずっとどこかで走り続けていたことになる。今日、銅像となって動かない翼くんの前に立っても、不思議と「終わった」という感じはしなかった。むしろ、ここから先はきみたちを見てきた私たちが走る番だ、とでも言われているような気がした。 「ワールドカップ」という、かつての夢のゴール 最初の翼像の除幕式で、高橋先生はこんなことを語っていたという。この作品のゴールは、大空翼がワールドカップの舞台に立ち、そこで活躍することだ、と。 このひとことに、私はしばらく胸を掴まれた。 考えてみてほしい。翼くんがテレビの中を駆け回っていたあのころ、現実の日本代表は、ワールドカップに一度も出たことがなかった。ワールドカップで活躍することなど、漫画の中だけの、それこそ翼くんの夢物語だったのだ。空き地でドライブシュートを蹴っていた野球少年の私も、まさか自分が生きているうちに、日の丸を背負った選手たちが本当にあの舞台に立つ日が来るとは、想像もしていなかった。 それが、どうだろう。今や日本代表は八大会連続の出場を果たし、選手たちは「ワールドカップ優勝が目標」と、ためらいなく口にする。そして私たち国民も、「もしかしたら」と、本気で期待してしまう時代になった。翼くんがひたむきに追いかけた夢のゴールに、現実のほうがいつのまにか追いつき、いまや肩を並べ、追い越そうとさえしている。漫画が現実の先を走り、現実が必死にそれを追いかけ、そしてとうとう手が届いた。これは、本当に、すごいことだ。 明日、開幕の笛が鳴る。テレビの前に座るとき、私はきっと、今日めぐった九体の銅像を――そしてその向こうに、あの空き地で、野球のユニフォームのままボールを蹴っていた十四歳の自分を思い出すだろう。「ドライブシュートだぁぁぁ……!」と、誰もいない原っぱで叫んでいた、あの少年を。あの少年に、教えてやりたい。きみが夢中で真似していたあの夢物語は、いつか本物になるんだよ、と。そして四十年あまり経っても、きみはやっぱり、翼くんを追いかけて走っているよ、と。 あなたには、サッカーにまつわる「あのころの夢」が、ありますか。 【コースガイド】キャプテン翼銅像コンプリートラン(約7km) 最後に、今日走ったコースを記しておきます。葛飾の下町を巡りながら、翼くんたちに会える約7キロ。走ってみたい方は、ぜひ。 スタート:京成四ツ木駅(駅前のラッピング・翼の装飾を見てから出発) ① 石崎了像 ― 四ツ木駅前ポケットパーク(駅から徒歩1分) ② 日向小次郎像 ― 四つ木公園(平和橋通りを北へ/約300m) ③ 大空翼像 ― 四つ木つばさ公園(北東方向へ/約450m) ④ ロベルト本郷&翼像 ― めだかの小道(木根川中央公園方向へ/約500m) ⑤ 中沢早苗像 ― 葛飾郵便局前(約350m) ⑥ 岬太郎像 ― 渋江公園(平和橋通り方向へ/約900m) ⑦ 翼〈ヒールリフト〉像 ― 立石一丁目児童遊園(約800m) ⑧ 若林源三像 ― 立石みちひろば(京成立石駅方面へ/約900m) ⑨ 翼〈ツインシュート〉像 ― 南葛飾高校前(奥戸街道を東へ/約1.3km) ゴール! ...

June 10, 2026

6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026

6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す

梅雨の走りの、少し湿った朝の空気を吸い込むと、私はなぜか古いカセットテープの匂いを思い出します。きょう六月九日は、六と九で「ロック」と読む語呂合わせから、「ロックの日」とされているのだそうです。音楽のロックを称える日。そう聞いただけで、私の頭の中では、もう何十年も前のテレビの歌番組のテーマ曲が鳴りはじめてしまうのです。 しかも六月九日は、昭和三十九年(一九六四年)生まれの薬師丸ひろ子さんの誕生日でもあります。私より五つ年上の、銀幕のスター。もっとも、その話はあとで正直に白状するとして――きょうはまず、昭和の子どもだった私が、どんなふうに音楽と出会っていったのかを書かせてください。 木曜の夜九時が、待ち遠しかった 歌番組といえば何かと問われたら、私は迷わず『ザ・ベストテン』と答えます。 昭和五十三年(一九七八年)に始まった、TBSの音楽番組。毎週木曜日の夜九時から、黒柳徹子さんと久米宏さんの司会で、その週のランキングを一位までカウントダウンしていく生放送です。私がまだ小学生の頃のことですが、とにかく木曜の夜九時が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。 そして翌日の金曜日。学校に行けば、まず友だちと「答え合わせ」です。何位だったか、誰がランクインしたか、自分の予想は当たったか。ひとしきり盛り上がったあとは、もう来週の予想を語り合っている。たかが歌のランキングに、よくもまあ、あれだけ夢中になれたものだと思います。 それに、私たちにとってベストテンは、観るだけでなく「録(と)る」ものでもありました。毎週、ラジカセをわざわざテレビの前まで運んできて、お気に入りの歌をカセットテープに録音するのです。録音するには、赤い録音ボタンと、それとは少し離れたところにある白い再生ボタンを、二つ同時にガチャッと押し込まなければなりませんでした。あの重たい手応えを、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 ところが、これがときどき失敗するのです。押し込みが甘かったのか、肝心のところが録れていなかった――そんな"やらかし"をした仲間がいると、金曜日の教室はもう大盛り上がり。順位の答え合わせと同じくらい、いや、ときにはそれ以上に、誰それの録音失敗談こそが、その週いちばんのごちそうだったのです。 なかでもダントツに覚えているのが、西城秀樹さんの「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。何週にもわたって一位を独走したあげく、ついに得点が満点に達してしまった。レコードの売上も、有線のリクエストも、ラジオも、はがきも、ぜんぶが一位。その満点というのが、九千九百九十九点。番組の得点ボードは四桁までしか表示できませんでしたから、子ども心にも「これ、表示する数字が足りないじゃないか!」と大騒ぎしたものです。9がずらりと並んだあの数字の壮観は、いまでも目に焼きついています。両手で「Y・M・C・A」とやる振り付けを、教室のみんなで真似していたのも、ちょうどあの頃でした。 もうひとつ忘れられないのが、めったにテレビに出ない歌手が出演するとなったときの騒ぎようです。たとえば松山千春さん。「テレビは出るもんじゃなく、見るものだ」という考えで、長らく出演を断っていた人でした。その千春さんがベストテンに出るらしい――そんな話が伝わってくると、私たちはもう大興奮、大騒ぎでした。ところが不思議なことに、これだけ騒いだのですから本番を見逃すはずがないのに、いざ放送を見た瞬間の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているのです。残っているのは、その前のソワソワした昂(たかぶ)りばかり。当日の私は、興奮しすぎて、かえってぼうっとしていたのかもしれません。 そして、ランキングの数字とはまた別に、私の胸に深く刻まれているコーナーがあります。「今週のスポットライト」です。久米さんが独特の"ため"をきかせて「今週の……スポッ……トライト!」と読み上げる、その週の注目曲をお披露目する枠でした。 あれは小学生の頃です。そのスポットライトに、ゴダイゴというグループが登場して、「ガンダーラ」という曲を歌いました。ゴダイゴって何だ? ガンダーラって何だ? 名前からして、何もかもが分からない。頭の中は「???」でいっぱいでした。けれど――そのよく分からなさを吹き飛ばすように、「ガンダーラ、ガンダーラ」と繰り返されるあの旋律が、たった一度聴いただけで、私をすっかり虜(とりこ)にしてしまったのです。早く、もう一度あれが聴きたい。子どもにそう思わせるほど、その一曲は強烈でした。のちに、あれが日本テレビのドラマ『西遊記』の歌だと知るのですが、私にとっての「ガンダーラ」は、ドラマよりも先に、あのスポットライトの一瞬から始まったのでした。 ランキングの頂点で満点に輝く曲があり、めったに姿を見せない人がいて、そして、まだ誰も知らない才能がそっと照らし出される。一つの番組の中に、音楽との出会いのぜんぶが詰まっていたように思います。 フォークから、ロックへ 私が物心つく前、世の中ではフォークソングが鳴っていました。ギター一本で、自分のことばを歌う。少し上の世代のお兄さん、お姉さんたちが夢中になっていた音楽です。 それが、私が小学校から中学、高校へと上がっていくにつれて、少しずつ景色が変わっていきました。フォークがニューミュージックと呼ばれるようになり、やがてバンドの音が前に出てくる。私が高校生だった昭和六十年代の半ばには、エレキギターをかき鳴らすバンドが、すっかり時代の主役になっていました。のちに「バンドブーム」と呼ばれる、あの熱気の入り口です。自分の聴く音楽が、上の世代から受け継いだものではなく、「自分たちの世代のもの」に変わっていく。その手触りを、ちょうど多感な時期に味わえたのは、いま思えば幸せなことだったのかもしれません。 レコード、貸しレコード屋、そしてエアチェック とはいえ、子どもにとって音楽は、そう簡単に手に入るものではありませんでした。 レコードは高い。アルバム一枚が、子どものお小遣いではなかなか手の届かない値段です。そんな私たちの強い味方が、貸しレコード屋でした。昭和五十五年(一九八〇年)ごろから街に増えていったあの店で、聴きたいアルバムを借りてきて、家でカセットテープに録(と)る。一枚分の値段で、何枚分もの音楽を自分のものにできた気がしたものです。 そして、もうひとつの方法が「エアチェック」。ラジオの、とくにFM放送で流れる曲を、ラジカセで録音するのです。FMの番組表が載った雑誌をめくって、お目当ての曲がかかる時間に印をつけ、その時刻になったら録音ボタンに指をかけて待ち構える。曲の頭が切れないように、DJのおしゃべりが終わる呼吸を読んで、そっとボタンを押す。そうやって自分だけの一本を編んでいくのが、たまらなく楽しかった。 テープが擦り切れるまで聴いた、あの一本。きっと皆さんにも、それぞれの「あの一本」があるのではないでしょうか。 そういえば、カセットテープは令和のいまも、ちゃんと売られています。あの頃と同じmaxellの録音用テープ。手元のラジカセがまだ動くなら、もう一度「自分だけの一本」を編んでみるのも、いいかもしれません。 maxell 録音用カセットテープ 46分 11本パックあの頃と同じノーマルポジション。音楽の録音に Amazonで見る › 私のアイドルは、河合奈保子から中森明菜へ さて、冒頭の薬師丸ひろ子さんの話です。 正直に言うと、私はそれほどの映画少年ではありませんでした。だから薬師丸さんも、私にとっては「そうそう、いたいた」という感じの存在で……熱心なファンの方には、本当に申し訳ないのですが。映画館のスクリーンよりも、私の目はもっぱらテレビの歌番組のほうを向いていたのです。 その歌番組の中で、私の心を占めるアイドルは、ちょうど移り変わっていく時期にありました。明るくて健康的な河合奈保子さんから、どこか翳(かげ)りのある大人びた中森明菜さんへ。ちょうど私が中学に上がるころのことだったでしょうか。いま思えば、自分が子どもから少年へと背伸びをはじめた時期と、好みの移りゆきが重なっていたのかもしれません。アイドルの趣味というのは、その人がどんな子どもだったかを、案外正直に映してしまうものなのですね。 令和の今、思うこと いまは、聴きたい曲があれば、スマートフォンで指を一本動かすだけで、世界中の音楽がすぐに鳴り出します。ランキングを来週まで待つこともなければ、貸しレコード屋に走ることも、録音ボタンの前で息を殺すこともない。歌いたくなれば、カラオケに行けばいい。……そういえば、ベストテンに夢中だったあの頃、カラオケボックスなんてまだありませんでした。覚えたての歌を、私たちはいったいどこで歌っていたのでしょうね。お風呂場でしょうか。(笑) 便利になりました。本当に、便利になったと思います。ただ、いま思うのは、あの頃は国じゅうのみんなが、たった一つの番組を囲んで、いっせいに盛り上がっていたのだということです。木曜の夜、同じ時間に、同じランキングに、一喜一憂する。翌日の教室で、その話で誰とでも通じ合える。九千九百九十九点に日本じゅうが沸く、なんていう一体感は、音楽の聴き方が一人ひとりのものになった今では、なかなか味わえないものかもしれません。 皆さんにとっての「歌番組」といえば、何でしたか。木曜の夜、テレビの前で順位を待ったあの時間に、どんな曲が流れていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の「きょう」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で、ゆっくりと振り返っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた | 次の記事:6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う ▶

June 9, 2026

6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた

梅雨入りの近い六月の朝。地上は今にも降り出しそうな鈍色(にびいろ)の空でも、地下鉄のホームへ降りてしまえば、雨も風も関係のない別世界がひろがっています。少しだけ埃(ほこり)っぽくて、生暖かい風がトンネルの奥からふわりと吹いてくる、あの感じ。きょう六月八日は、その地下鉄にまつわる、私のちょっと不思議な思い出の話をさせてください。 私にとっての「地下鉄」は、都営浅草線だった 私は京成高砂のあたりで育ちました。だから私にとって「地下鉄」というと、まっさきに思い浮かぶのは、都営地下鉄浅草線です。 高砂の駅から電車に乗って出かけるとき、行き先にはおおきく二つの方向がありました。ひとつは、京成上野のほう。もうひとつは、押上を抜けて都営浅草線へと入っていく、浅草のほうです。同じ高砂発の電車でも、上野へ向かうときと、浅草方面へ向かうときとでは、子どもながらに、何か明らかに違うものを感じていました。 上野方面が、どこか馴染みのある、地つづきの世界だとすれば、浅草方面は——その先で、ほかのいくつもの地下鉄の線と複雑に絡み合っている、「難しい」世界でした。日本橋だ、新橋だと、聞いたこともない乗り換えの駅がいくつも連なっていて、子どもの私には、その入り組んだ様子が、どうにも手に負えないものに見えたのです。 それでも、退屈はしませんでした。車両のなかに貼られた、いくつもの地下鉄の線が色とりどりに描かれた路線図。あれを眺めているだけで、目的の駅に着くまでの時間は、あっという間に過ぎていったのです。見たこともない駅の名前をひとつひとつ目で追いながら、「ここには、いったいどんな町があるのだろう」と、私は飽きもせず想像をふくらませていました。 いま思えば、そんな路線図の中に、あの黄色い線も、きっとあったはずです。行ったこともなければ、乗ったこともない。ただ眺めて、その先の町を空想するだけの、一本の線として。 昭和六十三年六月八日、黄色い線が全部つながった その黄色い線が、ついに端から端までひとつながりになったのが、昭和六十三年(一九八八年)の六月八日でした。 この日、営団地下鉄有楽町線の新富町〜新木場間が開業し、和光市から新木場までの全線、二十八・三キロが開通したのです。昭和四十九年(一九七四年)に池袋〜銀座一丁目の区間が開業してから、実に十四年越しの全線開通でした。ラインカラーは、あの黄色。湾岸の埋め立て地・新木場までが、一本の線でようやく都心と結ばれた瞬間でした。 そういえば、この「有楽町線」という名前そのものが、公募で決まったものだと知ったのは、ずっとあとのことでした。開業の前の年、営団地下鉄が路線名を広く一般から募ったところ、二千五百を超える案、三万通あまりもの応募が寄せられたのだそうです。そのなかでいちばん多かったのが「有楽町線」だった。子どものころ、あの黄色い線をただ眺めていた私には、線の名前ひとつにも、どこかの誰かの「こう呼びたい」という思いがこもっていたなんて、思いもよらないことでした。 終点の「新木場」という地名も、考えてみれば面白いものです。もともと江東区には材木商が集まる「木場」という街がありました。その木材の街が、手狭になった都心から湾岸の埋め立て地へと移ってできたのが「新しい木場」、すなわち新木場なのです。当時はまだ、貯木場の水面と倉庫が広がる、発展のこれからという土地でした。そこへ地下鉄が一本通った。海の近くの埋め立て地にまで、都心の地下鉄が手を伸ばしてきたのです。 このとき、私は十九歳。昭和という時代も、いよいよ最後の年に差しかかっていました。正直に言えば、私はこのニュースを、たいして気に留めていませんでした。都営浅草線には親しんでいた私にとっても、有楽町線は、子どものころ車内の路線図でただ眺めていた、あの「行ったこともない一本」のままだったのです。 そしてこの黄色い線には、もうひとつ、私がのちのち驚かされることになる仕掛けがありました。西の端の和光市では、東武東上線と線路がつながっていて、電車はそのまま相手の線へと乗り入れていく。新木場を出た電車が、乗り換えなしで、はるか埼玉の森林公園のほうまで走っていくのです。この「乗り換えなし」という何でもない事実が、それから十数年後、思いがけず私の胸を打つことになります。 新木場で気づいた、母へ続く一本の線 時は流れ、私は三十代になっていました。縁あって佐川急便に勤め、配属されたのが、よりによって、あの新木場の営業所だったのです。 そう、昭和六十三年にようやく全線がつながった、あの有楽町線の終着駅です。十九歳の私が聞き流していた街に、まさか自分が毎日通うことになるとは、思ってもみませんでした。荷物に追われる日々のなかで、新木場という地名が、かつてニュースで聞いた「全線開通」の終点だったことなど、すっかり忘れていました。 朝早くから、トラックが何台も出入りし、伝票の束と荷物の山に追われる毎日でした。湾岸の埋め立て地は海の風が強く、冬はことさら冷えました。それでも昼休みにふと外へ出ると、すぐそこまで水辺が迫っていて、ここはやっぱり海を埋め立ててできた街なのだな、と妙に納得したものです。子どものころ路線図の上で眺めていた「新木場」という三文字の終点に、まさか自分が毎朝、汗をかきながら立っているとは——人生というのは、つくづく分からないものです。 ある日のこと。新木場駅に掲示されていた路線図を、何の気なしに眺めていて、私はふと手が止まりました。 「この線……一本で、川越まで行けるのか」 当時、母は川越に住んでいました。新木場から有楽町線に乗れば、和光市で東武東上線へとそのまま乗り入れ、川越まで、乗り換えなしでたどり着いてしまう。あの、子どものころ車内の路線図で眺めては「どんな町だろう」と空想していた黄色い線の、ずっと先に、母の暮らす街がつながっていた。気づいた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなったのを覚えています。 実際に私は、数えるほどではありますが、仕事を終えたその足で、職場から川越の母のもとへ向かったことがあります。東京湾の埋め立て地にある終着駅と、小江戸と呼ばれる川越の母の家。一見すると何の関わりもない二つの場所が、一本の黄色い線でまっすぐに結ばれている。揺られていく車内で、私は妙な感慨にとらわれていました。 窓の外を流れていく景色が、地下のトンネルから、やがて地上の住宅街へと変わっていく。海辺の終着駅を出た電車が、いつのまにか埼玉の街並みを走っている。その車窓の移り変わりそのものが、新木場と川越という遠く離れた二つの場所が、確かにひと続きの土地なのだと、目で教えてくれているようでした。 十九歳のとき、私が気にも留めなかったあの全線開通。それが巡り巡って、三十代になった私と、母とを結ぶ一本の道になっていた。子どものころ車内の路線図を眺めて「どんな町だろう」と空想していた黄色い線は、ずっと先のずっと先で、ちゃんと私自身の暮らしへとつながっていたのです。眺めるだけだったあの線に、いつのまにか私は、毎日乗っていた。 令和の電車は、もっと遠くまでつながっている あれから、東京の鉄道は、ますます複雑に、そして遠くまでつながりました。 いくつもの路線が互いに乗り入れ、横浜のずっと向こうから都心を抜け、さらに別の県へと、一本の電車が県境をいくつも越えて走っていく。今では、それが当たり前の風景です。手元のスマートフォンに行き先を打ち込めば、最短の経路が一瞬で表示される。乗り換えの回数も、何分後に着くかも、すべて画面が教えてくれます。私の子どもたちは、私のように路線図とにらめっこして、見知らぬ駅名に空想をふくらませることも、もうないのかもしれません。 便利になったぶん、あの新木場での小さな驚き——「この線、母までつながっていたのか」というあの感覚は、いまではかえって味わいにくくなった気もします。経路を教えてくれる矢印は、たしかに便利です。けれど、地図の上の一本の線が、いつのまにか自分の大切な人へとまっすぐ続いていたと気づく、あの胸の奥がふっと温かくなる驚きまでは、運んできてはくれないのですから。 地図の上のただの一本の線が、めぐりめぐって、自分の大切な人へとつながっている。そんなことに気づく瞬間が、人生にはときどき、ふいに訪れるのですね。 あなたの暮らしの地図にも、知らないうちに、誰かと自分とを結んでいた「一本の線」は、ありませんか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと | 次の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す ▶

June 8, 2026

雨の御茶ノ水、人の手が掘った谷を走る

東京ドームでの応援を終えて外に出ると、空は薄墨色で、小雨がぽつぽつと落ちていた。傘をさすほどでもない。こういう日は、いっそ走り出してしまったほうが気持ちがいい。 水道橋から神田川沿いに出る。川は深い谷の底を流れていて、両岸の石垣は一面、蔦と夏草に覆われている。梅雨どきの緑は、晴れた日よりもずっと濃い。雨に濡れて、葉の一枚一枚が光っているように見えた。 谷の底を、電車がすれ違う 御茶ノ水のあたりまで来ると、谷はいよいよ深くなる。眼下を中央線のオレンジと総武線の黄色がすれ違い、特急が静かに滑り込んでいく。崖の上には順天堂の新しいタワーや、ガラス張りのビルが並ぶ。電車と、川と、高層ビルが、ひとつの画面の中に層になって重なっている。東京でもなかなか出会えない景色だ。 ここに来るといつも、ひとつ不思議に思うことがある。 ——この谷は、自然にできたものではない。 四百年前、誰かが山を割った 実はこの渓谷は、四百年前に人の手で掘られたものだ。もともとここには神田山と呼ばれる台地(今の本郷台地)があった。江戸の洪水対策と外堀づくりのために、その台地を真っ二つに掘り割って川を通した。元和六年(1620)、徳川秀忠の命を受けて工事を担ったのが、仙台藩の伊達政宗。だからこの区間は今も「仙台堀」と呼ばれている。のちに四代藩主・綱村が川幅を広げ、おおよそ今の姿になった。 スコップも重機もない時代に、山を割って谷をつくる。雨に濡れた石垣をのぼる蔦を見上げながらそのことを思うと、足が少し止まってしまう。 聖橋にも、昭和が残っている 谷に架かる聖橋も、由来をたどると面白い。あの優美なコンクリートのアーチ橋は、昭和二年(1927)、関東大震災からの復興事業として架けられたものだ。設計は当時まだ若かった建築家・山田守。「聖橋」という名前は公募で決まったもので、両岸に建つ湯島聖堂とニコライ堂、二つの「聖堂」を結ぶことに由来している。 江戸の土木、昭和の復興、そして令和のガラスのビル。この谷の上では、ぜんぶの時間が一度に見えてしまう。 走る速さは、気づくための速さ 走るというのは、こういう景色とすれ違うためにちょうどいい速さなのかもしれない。車では速すぎて、歩きでは少し遠い。雨の日にゆっくり走っていると、いつもなら通り過ぎてしまう「誰かの手仕事」に、ふと目が留まる。 このあと湯島の坂を上がって、上野へ。京成上野の駅前で足を止めたころには、雨はほとんど上がっていた。四キロちょっとの、寄り道だらけの観光ラン。記録はたいしたことないけれど、四百年と昭和とをまたいで走った気がして、なんだか少し得をした気分になった。 走って考えたことシリーズ、ほかの記事はこちら▼ ドライブシュートだぁぁぁ──四つ木と『キャプテン翼』を思う 厚底シューズ歴7年の私が「ワラーチ」で走ったら、ニヤけが止まらなくなった話 『坂の上の雲』と正岡子規の野球──上野公園に残る明治のベースボール

June 8, 2026