今日は7月8日。梅雨明けを待つ、じっとりと重い空気の季節です。

昭和の家には、たいてい煙が満ちていました。ちゃぶ台の上には灰皿があって、朝から晩まで、白い煙がゆらゆらと立ちのぼっている。テレビの画面も、蛍光灯の傘も、いつのまにかうっすらと黄ばんでいる。あれが、当たり前の風景でした。

ちゃぶ台の上の灰皿と、立ちのぼる白い煙。それが昭和の家の、当たり前の風景だった。(Photo: CC BY 2.5, via Wikimedia Commons)

そして、その煙を切らさないために走るのは、たいてい子どもの役目でした。小銭を握りしめて、近所のたばこ屋まで。「〇〇をひとつ」——そう言えば、子どもにでも売ってくれた時代です。

昭和47年(1972年)の7月8日、その手の中のたばこの箱に、ある小さな一文が初めて刷り込まれました。

「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」

今では考えられないほど控えめな、たった一行。けれど、これが日本のたばこに“警告”が載った、いちばん最初の言葉だったのです。


箱の側面の、たった一行

私たちの世代にとって、たばこの箱の側面に注意書きがあるのは、生まれたときからの当たり前でした。けれど、その一行にも、ちゃんと「始まり」があります。

たばこの箱。いまや大きな面を警告の文字が占めるが、その“はじまり”は側面のたった一行だった。(Photo: Wikimedia Commons)

1972年(昭和47年)より前、日本で売られていたたばこには、健康に関する注意文も警告も、いっさい書かれていませんでした。箱には、ただ商品の顔があるだけ。吸うことに国が注意をうながす、という発想そのものが、まだ世の中になかったのです。

その流れを最初につくったのはアメリカでした。そして日本でも、昭和47年の夏、ついにたばこの箱に文字が載ることになります。記録によれば、まず京都・名古屋・大津の三つの街で、「健康のため吸いすぎに注意しましょう」と側面に印刷したたばこの販売が始まり、その年の8月下旬から、全国へと広がっていったといいます。7月8日は、その最初の一歩がしるされた日、というわけです。

面白いのは、我が家の定番だったあの安いたばこも、ちょうどこの昭和47年の夏に、箱へ健康表示が刷られるようになった、という点です。つまり、私が物心つく前から握らされていたあの一行は、じつはこの頃に生まれたばかりの、まだ新しい言葉だったのです。

ちなみにこの文言は、その後ずっと同じだったわけではありません。1972年から1989年まで、つまり昭和のあいだはずっと「健康のため吸いすぎに注意しましょう」。平成に入った1990年からは「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」と、少し踏み込んだ言い方に変わりました。そして2005年からは、箱の大きな面をつかって、具体的な病気の名前まで書かれるようになります。あの控えめな一行は、時代とともに、どんどん強い言葉になっていったのです。

正直に言えば、私自身はこの「始まり」をまったく覚えていません。昭和47年7月といえば、私はまだ三歳。箱の文字を読むどころではありませんでした。今回この日について調べていて、はじめて「そうだったのか」と知ったくらいです。

私が本当に覚えているのは、その一行そのものではなく——その一行が刷られた箱を握って走った、お使いの記憶のほうなのです。


70円玉を握って

我が家は、両親そろって喫煙者でした。

父も母も、当たり前のようにたばこを吸っていて、家の中はいつも煙の匂い。今にして思えば、子どももその煙を一緒に吸って育ったわけですが、当時はそんなことを気にする人など、まわりに誰もいませんでした。

だから、たばこのお使いは、私の仕事でした。

「〇〇をひとつ」と言えば、子どもにでも売ってくれた。小銭を握って、たばこ屋まで走った。(Photo: CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)

小銭を渡されて、近所のたばこ屋まで走る。買ってくるのは、決まってエコーという銘柄でした。オレンジ色に茶色のストライプが入った、あの細長い箱です。値段はたしか、70円ほど。当時のたばこの中でも、いちばん安い部類のものでした。

そのたばこ屋さんは、高砂駅の北口を出て、すぐ目の前にありました。たばこを対面で売る小さな窓口には、いつもおばちゃんかおじちゃんのどちらかが座っていて、「エコー、〇個ください」と声をかけると、茶色の紙袋にたばこを入れて渡してくれます。

そして、そのたびに、小さな箱に入ったミカン味の、丸い球のガムを——たしか四粒だったと思います——毎回くれるのです。じつを言うと私、そのガムが目当てで、喜んでお使いに行っていたようなものでした。

そのたばこ屋さんは、驚くことに、今も同じ場所にちゃんとあります。

エコーというたばこは、1968年(昭和43年)に売り出された、フィルター付きでは日本でいちばん安いたばこでした。税金の区分でいう「旧三級品」というやつで、とにかく安い。だから、我が家のようなごく普通の家では、重宝されていたのだと思います。のちに俳優の松田優作さんが好んで吸っていたことでも知られる銘柄ですが、子どもの私にとっては、ただ「いつもの、うちのたばこ」でした。

なぜ我が家がエコーだったのか。父がよく、「エコーはフィルターがついている中で一番安いんだ」と言っていたのを覚えています。父も母も、そろってエコー。銘柄で迷うことなど一度もなく、私が買いに行くのは、いつも決まってあのオレンジ色の箱でした。

現金のお駄賃をもらった記憶はありません。私にとっての“ごほうび”は、あくまであのたばこ屋さんがくれるガムだけ。それでも、あの頃の私には、それで十分すぎるくらいだったのです。


校庭に、たばこの煙

たばこの煙は、家の中だけのものではありませんでした。

中学、高校と野球を続けた私にとって、たばこの匂いは、グラウンドの記憶とも結びついています。当時の野球部の監督は、校庭で、平気でたばこを吸いながら指導していました。ノックの合間に一服、選手を集めて話しながら一服。今の学校では、まず考えられない光景でしょう。

そして、その監督に「たばこを買ってこい」と使いに出されるのも、また部員の役目でした。

野球部の顧問というのは、どこの学校でも、たいていはおっかない先生と相場が決まっていました。うちの監督も、その例にもれず。今の感覚でいえば、生徒にたばこを買いに行かせるなんて大問題でしょうが、あの頃は、先生も生徒も、誰ひとり何とも思っていませんでした。

それどころか、私たち部員にとって、たばこのお使いは、ちょっとした“役得”だったのです。だって、その間だけは、あのきつい練習から堂々と抜けられる。買いに行かされる仲間を横目に、「いいなぁ〜」と、うらやましく思ったものでした。

ですから、たまに自分が頼まれたときには——これは内緒の話ですが——できるだけゆっくり、ゆっくりと、道草を食いながら帰ったものです。

考えてみれば、昭和という時代は、たばこの煙にとても寛容でした。電車の中でも、駅のホームでも、職場でも、学校の職員室でも、煙は当たり前に漂っていた。子どもがたばこを買いに行き、大人が子どもの前でふかす。その全部が、なんの疑問もない日常だったのです。


煙の中で育った、私たち

これだけ濃い煙の中で育ったのに、ひとつ、不思議なことがあります。

私も、ひとつ下の妹も、大人になってから、たばこを一度も吸いませんでした。

といっても、そこに深い理由があったわけではありません。親の吸う煙が、内心いやだった——そういうことでもないのです。ただ、吸うタイミングというものがなかった。そして、吸いたいと思うこともなかった。ほんとうに、それだけのことでした。

あんなに毎日たばこを買いに走らされて、家じゅうが煙だらけで、それでも自分では吸わなかった。人が何かを選ぶ、選ばないというのは、案外、そのくらい他愛のないものなのかもしれません。

いま、たばこの箱を見ると、その変わりように驚きます。箱の半分近くを、黒々とした警告の文字が占めている。あの「健康のため吸いすぎに注意しましょう」という、どこか遠慮がちだった一行の“子孫”が、半世紀をかけて、あそこまで強い言葉になった。時代は、確かに変わったのだと感じます。


おわりに

昭和47年7月8日、たばこの箱に、初めて小さな一文が刷られました。

「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」。

その一行が生まれた頃、私はまだ三歳で、そんなことは何も知らないまま、やがてその箱を握りしめて、近所のたばこ屋まで走ることになります。手の中には70円玉。買ってくるのは、オレンジ色のエコーひとつ。家に帰れば、また煙の匂いの中へ戻っていく。

あの煙も、あのお使いも、校庭でたばこをふかしていた監督の姿も、今ではすっかり遠い風景になりました。それでも、たばこの箱の側面をふと見て、あの小さな一行に目がとまると、湿った夏の日の、たばこ屋までの道のりが、すっと目の前によみがえってくるのです。

みなさんは、家族のたばこのお使いに走った記憶はありますか。どんな銘柄を、いくらで買っていたか、覚えているでしょうか。


家じゅうの煙、駄菓子屋のガム、たばこ屋のおばちゃん——。あの頃の「当たり前」は、いまや一枚の写真の中にしか残っていません。昭和の衣・食・住の何気ない風景を、たっぷりの写真で振り返る一冊。ページをめくるたびに、あなたの「お使いの道」も、きっとよみがえってきます。

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このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。


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