パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日

5月22日。私にとってこの日付は、黄色い丸い生き物と、東京じゅうに積み上がったゴミの山という、まったく違う二つの光景が重なる日だ。 「パクパク」が迷路を走り出した日 昭和55年(1980年)5月22日、渋谷のゲームセンターに一台の筐体が置かれた。 黄色い丸がパクパクとエサを食べながら迷路を走り、赤・ピンク・青・オレンジの4匹のモンスターから逃げる。ゲームの名前は『パックマン』。ナムコが送り出したそのゲームが、のちに世界を席巻することになるとは、だれも思っていなかっただろう。 Photo by inunami / CC BY 2.0 当時、ゲームセンターはスペースインベーダーの衝撃がまだ冷めやらない頃だった。エイリアンを撃つ、戦車を撃つ。アーケードというのは「撃つ」場所だった。ところが、パックマンには敵を攻撃する要素がない。ひたすら「食べて逃げる」だけだ。 開発者の岩谷徹氏は「アーケードは暴力的なゲームであふれていた。エイリアンをやっつけるような内容のものばかりだった」と振り返る。だからこそ、違うものを作りたかった。食べることをテーマにした、やわらかいゲームを。パックマンという名前も、物を食べる時の「パクパク」という日本語の擬態語から生まれた。 私がパックマンをはじめて目にしたのは、あの安い倉庫みたいなゲームセンターだったと思う。30円か50円のコインを握りしめて薄暗い店内に入ると、ブラウン管の光の中でそのまるっこい黄色い顔が笑っていた。レバーを4方向に倒しながら迷路を走る感覚は、それまでのシューティングゲームとはまるで違っていた。「逃げる」という体験が、あんなに面白いとは知らなかった。 敵には、それぞれ「性格」があった ゲームに夢中になりながら、私たちは気づかないうちにある不思議を感じていたはずだ。「なんか敵が生きてるみたいだな」と。 実は4匹のモンスターには、それぞれ個性が設計されていた。 赤の「アカベイ」はパックマンをしつこく追いかけてくる。ピンクの「ピンキー」は追いかけるのではなく、パックマンの進行方向の先へ先回りする。水色の「アオスケ」は気まぐれな動きをして、どこへ来るか読みにくい。オレンジの「グズタ」はパックマンに近づきすぎると急にふらふらと離れていく。 これは「個性のある敵キャラクター」という発想の、世界でも最初期の試みだった。今でいえばAIのような概念が、1980年という時代にすでに迷路の中に息づいていた。「追う」「先回り」「気まぐれ」「迷う」という4つの行動パターンが絡み合うことで、迷路の中の戦況は毎回違う顔を見せた。それが「なんか生きてる感じ」の正体だったのだ。 今から46年前のゲームが、現代のAI技術にも通じる考え方を持っていたとは、当時の子どもだった私には想像もできなかった。 パックマンには迷路を攻略するパターンがあり、友達の間で「このルートで行けば5面まで死なない」という攻略法が口伝えに広まった。放課後のゲームセンターで真剣に迷路を走る子どもたちの後ろに人だかりができる。そんな光景が各地であったはずだ。 1980年から7年間で総販売台数は約29万台を超え、「最も成功した業務用ゲーム機」としてギネス・ワールド・レコーズにも認定された。あの黄色い丸が初めて走り出したのが、昭和55年の今日だったとは、当時は知るよしもなかった。 東京が「ゴミ戦争」を戦っていた日 もうひとつ、この5月22日には忘れられない出来事がある。 昭和48年(1973年)5月22日、東京・江東区が杉並区のゴミ搬入を実力で阻止した日だ。 「東京ゴミ戦争」という言葉は、正直なところ、私の記憶にない。当たり前といえば当たり前で、昭和48年の私はまだ4歳だった。怒鳴り合うニュース映像もわかるはずがない。それでも、この出来事を調べていたとき、ふと頭に浮かんだ光景があった。 葛飾区・水元のあの温水プールだ。 社会科見学と、ゴミを燃やす熱 小学4年生、昭和54年ごろのことだ。葛飾区の小学生は「社会科見学」で水元の葛飾清掃工場を訪れた。職員の方に焼却炉の仕組みを教えてもらい、ゴミを燃やした時に出る熱が蒸気となって、隣接する施設のプールを温めていると聞いた。「ゴミの熱でプールが温かくなる」という話は、10歳の子どもにも妙に印象深く残った。 見学のあと、友達とそのプールでばちゃばちゃと泳いだ。余熱利用の仕組みは頭に入っていたけれど、それがどんな歴史の流れの上にあるのかまでは、もちろんわかっていなかった。 「自分のゴミは自分で処理せよ」 ゴミ戦争のあらましはこうだ。江戸時代から現代まで、東京のゴミを受け入れてきた土地が江東区だった。昭和40年代の大量消費社会でゴミが激増すると、江東区の「夢の島」はハエやネズミが大量発生する悪臭の島と化した。東京都は各区に清掃工場を建設して「自区内処理」を推進しようとしたが、杉並区では住民の反対で建設計画が何度も頓挫した。 杉並区で5月21日に反対派による流会が起きたため、江東区では翌5月22日、杉並区のゴミ搬入を実力阻止した。東京都清掃労働組合も連帯してボイコットし、杉並区内のゴミ収集は止まった。 自分たちのゴミを処理する施設を「うちには要らない」と拒み続けた結果、区内にゴミの山が積み上がる。この対立は全国ニュースとなり、「自分のゴミは自分の区で処理する」という原則が東京じゅうで問い直された。 東京・江東区の夢の島。かつてゴミで埋め立てられた島は、現在は公園として整備されている。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報(カラー空中写真)」 あの夏のプールと歴史の線 その問い直しの流れが、東京各区の清掃工場整備を加速させた。葛飾区も例外ではなかった。工場が整備されれば、その焼却熱を地域に還元しようという発想が生まれる。余熱は蒸気となり、隣接する施設のプールを温める。 私が友達と泳いだあの水元のプールは、その歴史的な流れの終着点のひとつだったのだ。 「東京ゴミ戦争」→「自区内処理の推進」→「各区の清掃工場整備」→「余熱利用施設(温水プール)の設置」 社会科見学でその仕組みを教わっていたのに、どうしてその工場ができたのか、なぜ余熱利用という発想が生まれたのか、その背景まで考えたことは一度もなかった。4歳の私には届かなかったニュースが、10歳の私をプールで泳がせていたとは。 昭和55年5月22日、黄色い丸が東京の繁華街に生まれた日。 昭和48年5月22日、東京じゅうのゴミの置き場をめぐって大人たちが怒鳴り合った日。 子どもには見えなかったことが、50年近く経ってようやくつながる。歴史の線は、いつもあとから引かれるものらしい。 あなたの子ども時代に「あれはそういうことだったのか」と気づいた出来事は、何かあるだろうか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ ▶

May 21, 2026

昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝

昭和53年(1978年)の5月、私は小学5年生だった。 その日のテレビには、見たことのない風景が広がっていた。巨大な旅客機が滑走路に降りてくる映像。空港の制服を着た人たちが忙しそうに動き回っている映像。「新東京国際空港、初便到着」とアナウンサーが興奮を抑えながら伝えていた。 しかし正直なところ、成田空港の開港というニュースは、10歳の私にはまだ遠い存在だった。千葉の成田というのは、なんとなく「遠くの場所」で、自分の日常と結びつくような感覚がまるでなかった。 ところが同じ5月21日に、もうひとつの出来事があった。こちらは、私の目の前で起きていたことだった。 踏切の向こうに現れたもの 私は葛飾区に住んでいる。最寄り駅は京成高砂駅だ。 昭和53年5月21日、京成電鉄の空港線が開業し、京成上野駅から成田空港駅(現・東成田駅)まで、特急「スカイライナー」の運行が始まった。 マルーンとクリームの2色塗り。この塗装で昭和53年から走り始めた。 その日、父と一緒に高砂駅の近くの踏切へ見に行った記憶が、今も残っている。あの踏切は「開かずの踏切」と呼ばれるほど電車の通りが多い場所だ。遮断機が下りたまま、なかなか上がらない。その踏切の向こうを、スカイライナーが通り過ぎていった。 マルーンとクリームに塗り分けられた車体。すっと伸びた流線型のボディ。普通の京成電車とは明らかに違う、特別な風格があった。 子どもながらに、「かっこいい」と思った。そして、誇らしかった。 私にとっての「新幹線」 東海道新幹線が開通したのは昭和39年(1964年)のことで、私が生まれる前の話だ。だから「新幹線の開通」という興奮を、私はリアルタイムでは体験していない。 スカイライナーの開通は、私にとってそれに近い感覚だったと思う。 自分の暮らす町の、見慣れた踏切を、特別な列車が通り過ぎていく。それが今日から毎日走るようになった。その事実が、子ども心にずっしりと響いた。遠くの出来事だった「成田空港の開港」とは違って、スカイライナーは目の前にいた。 「スカイライナー」という名前も好きだった。あとで知ったことだが、この名前は日本全国の小学生からの公募で決まったという。子どもたちが名付け親というわけで、余計に親しみを感じた。 騒ぎの中でようやく開いた扉 とはいえ、当時の私には成田空港の開港をめぐる複雑な事情など、何も見えていなかった。 成田空港は本来、昭和48年(1973年)3月に開港する予定だったが、大幅に遅れた。農地を守ろうとする地元農民の反対運動に新左翼の活動家が加わり、機動隊との激しい衝突が続いた。開港直前の昭和53年3月には、反対派が管制塔に突入して機器を破壊し、開港がさらに2か月延期されるという事態まで起きた。 機動隊が重装備で警戒する中での開港式典。出席者はわずか56名だったという。 5月21日、開港後の初便である日本航空のロサンゼルス発の貨物機が到着第1便として着陸し、正午過ぎに旅客機初便のフランクフルト発の日本航空機も続いた。同じ日にスカイライナーも走り始めた。 その日のニュース映像の裏に、そんな長い長い歴史があったとは、踏切の前で目を輝かせていた10歳の私には知る由もなかった。 今も変わらない光景 2010年登場。在来線最速の時速160kmで走り、日暮里―成田空港間を最速36分で結ぶ。 現在、スカイライナーはボディカラーを濃い青と白に変え、シャープな車体でさらに速く成田空港と都心を結んでいる。 高砂駅の近くで、スカイライナーを親子で見に来ている光景を目にすることがある。子どもが目を輝かせ、親が「あれがスカイライナーだよ」と教えている。 そのたびに、あの日の父と私のことを思い出す。 遮断機が下りて、しばらく待って、轟音とともに通り過ぎていったあの列車。成田空港はまだ遠い存在だったけれど、スカイライナーだけは、確かに私の目の前で走っていた。 それが昭和53年5月21日のことだった。 昭和40〜64年の「今日」を、子どもだったあの頃の目線で振り返るシリーズです。あなたにも、昭和の5月21日にまつわる記憶がありますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 | 次の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 ▶

May 20, 2026

成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和

5月の空は高い。梅雨前の、束の間の晴れ間が続くこの季節に、昭和はふたつの大きな出来事を刻んでいる。ひとつは「夢」が開いた日。もうひとつは「夢」が終わった日の話だ。 朝ごはんを食べながら聞いた言葉 1978年(昭和53年)5月20日。 「成田空港反対運動」「過激派」「機動隊と衝突」。 小学生だった私は、朝ごはんを食べながら流れてくるテレビのニュースで、こういう言葉を毎日のように耳にしていた。ヘルメットをかぶった学生、泥まみれの農民、機動隊の盾。子どもには意味がよくわからない、でもなんとなく怖くて騒々しい映像の連続だった。 実は、この日の開港はギリギリの滑り込みだった。本来の開港予定は3月30日。ところが2日前に過激派グループが管制塔に乱入して機器を破壊し、やむなく約2か月延期となった末の、この5月20日だったのだ。開港当日も反対同盟と機動隊の衝突は続き、反対派が燃やした古タイヤの黒煙が空に立ちこめる中、新東京国際空港は産声を上げた。 でも、飛行機そのものは夢だった。 29か国の航空会社34社が乗り入れる、日本初の本格的な国際空港。テレビニュースの騒然とした映像の向こうに、なんとなく「外国」という輝きが透けて見えた気がした。 ところで、このころの為替レートは1ドル300円前後だった。今は1ドル160円くらいでも「大変な円安だ!」と騒がれているが、300円というのはそれより倍もドル高な時代だ。そして振り返ってみれば、昭和から平成、令和と、時代はいつも「円高だ!」「円安だ!」と騒ぎ続けてきた。どうやら、為替というものはいつの時代も誰かを悲鳴させるようにできているらしい。 笑点とサザエさんの間に流れたあの声 もうひとつは1984年(昭和59年)5月20日の話だ。大相撲の力士、高見山大五郎が引退を表明した。 日曜日の夕方といえば、私にとって「笑点」と「サザエさん」の時間だった。その間に流れてくる丸八真綿の布団CM。でんぐり返しからの「まるはーち!」、そしてあのしゃがれた声で「2枚、2枚!2倍、2倍!」。 子どもたちは次の日、学校でこれを真似した。「2倍!2倍!」というキャッチフレーズは一躍ブームになり、子どもから芸人までが口真似をするほどだった。武家屋敷風の部屋に入ってきた高見山が布団に入り、最後に電気を消し忘れるというオチのバージョンもあった。ヒツジの着ぐるみをまとって「ジェシーの羊」(メリーさんの羊の替え歌)が流れるバージョンもあった。どれも、あの図体に似合わない愛嬌があふれていた。 ハワイ・マウイ島出身、本名ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア。身長192センチ、体重205キロ。愛称「ジェシー」。彼は1968年に外国出身力士として初めて幕内に入り、1972年7月場所では外国人力士として史上初の幕内最高優勝を果たした。表彰式ではニクソン米大統領の祝電が読み上げられたというのだから、その注目度がわかる。 ただ、正直に言う。 当時の私が「知っているお相撲さん」といえば、北の湖、輪島、貴ノ花、そして高見山だった。でも相撲中継で見る高見山の印象といえば……ほとんど負けていた記憶しかないのだ。突き落とされ、投げられ、土俵の外に転がり出ていく大きな背中。子ども心に「なんか強くないな、この人」と思っていた。高見山関、本当に申し訳ない(笑)。 もちろん実際には、20年間土俵に立ち続けた鉄人だった。「40歳まで相撲を取りたい」「建設中の両国国技館で相撲を取りたい」という夢を胸に、怪我をおしながら出場を続けた。引退宣言は場所の途中、突然のことだった。千秋楽の最後の一番は黒星だったが、満員の観衆から大声援が降り注ぎ、花道に花束が舞った。 「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と彼は言った。 昭和天皇がのちに「高見山がなぜ辞めたのかね」「残念だったろうな」と語られたと伝わっている。それを知らされた高見山は、「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。40歳まであと1か月。両国国技館の開場は翌1985年。どちらの夢も、わずかに届かなかった。 でも、ジェシーは日本に残った。東関部屋を興し、やがて弟子の曙を横綱に育て上げる。彼の昭和は、引退の日に終わったわけではなかった。 5月20日。煙の中を飛行機が降りてきた日と、土俵を去った大男が泣いた日。 あなたは「まるはーち!」をまだ口から出せますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 ▶

May 19, 2026

5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた

昭和27年(1952年)の5月19日、東京・後楽園球場に4万人の人間が詰めかけた。 野球の試合ではない。ボクシングだ。しかも特設リングをグラウンドの真ん中に組んで戦うというのだから、どれほど異様な熱気だったかが想像できる。 その夜から74年。5月19日は「ボクシングの日」として今も残っている。 そして私は今、この日付を眺めながら思う。日本人はずっと、ボクシングの世界チャンピオンに熱狂してきたのだ、と。時代ごとに「チャンピオン」は変わり、「熱狂の道具」も変わった。でも熱狂そのものは、変わらなかった。 昭和27年 ラジオの前に家族が集まった夜 白井義男という名前を、今の若い人はほとんど知らないだろう。でも昭和の大人たちに聞けば、きっと目が変わる。 彼は昭和27年5月19日、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノ(アメリカ)に15回判定勝ちし、日本人として初めてプロボクシングの世界王者となった。 当時の世界ボクシングにはフライ級からヘビー級まで8つの階級しかなかった。世界チャンピオンは地球上に8人しかいない、ということだ。その「世界の8分の1」に、敗戦からまだ7年しか経っていない日本人がなってしまった。 白井の戦い方は独特だった。「打たれたら打ち返す」が当時の日本ボクシングの常識だったのに対し、彼は「打たせないで打つ」スタイルを貫いた。それを仕込んだのは、GHQの職員として来日していたアルビン・カーン博士というアメリカ人。ボクシングの経験はほとんどないのに、スポーツ生理学の知識を武器に白井を育て上げた。このちょっと不思議なコンビが、日本に初めての世界チャンピオンをもたらした。 その夜、4万人が詰めかけた後楽園球場に来られなかった人々はどうしていたか。 テレビはまだほとんどの家庭にない時代だ(NHKのテレビ放送が始まるのは翌昭和28年)。だから人々はラジオに耳をかっていた。この試合のラジオ聴取率は83%を記録したという。日本中の家が、ラジオの前で固まっていたのだ。 83%という数字の凄まじさを想像してみてほしい。日本中の家がほぼ全部で、同じ音声を聴いている。家族全員が息を殺して、アナウンサーの声に耳を澄ませている。15ラウンドを戦い抜いて判定が告げられた瞬間、ラジオの前でも飛び上がった家族がいたに違いない。 白井が勝ったことは、単純な「スポーツで勝った」ではなかったと思う。あの戦争から立ち直れるんだ、という証明だった。敗戦後の日本人が、自分自身を取り戻す一つの節目。後楽園球場の4万人の歓声は、そういう重さを持っていた。 昭和50年代 テレビの前にかじりついた夜 それから四半世紀が過ぎ、日本は高度経済成長を経て、テレビが一家に一台の時代になっていた。 「私にとってのボクシング世界チャンピオンは具志堅用高だ」と言える世代は、おそらく昭和40年代生まれ前後だろう。その感覚、私にはよくわかる。 具志堅用高は昭和51年(1976年)10月10日にWBA世界ライトフライ級王座を獲得し、そこから昭和56年(1981年)3月8日まで、約4年5か月にわたってチャンピオンに君臨し続けた。13回連続防衛。これは長い間、日本記録だった。 小学生の間ずっと「世界チャンピオンが具志堅用高」という状況だったのだから、それはもう「当たり前の風景」のように感じていたはずだ。 試合の夜は特別だった。 ふだんはボクシングにそれほど興味がなくても、具志堅用高の世界タイトルマッチとなれば話は別だった。テレビの前にかじりついて応援した。家族みんなで。それが当時の日本の、ゴールデンタイムの風景だった。 具志堅の魅力は、強さだけではなかった。独特のアフロヘアと、沖縄訛りの底抜けに明るいキャラクター。「ちばりよー!」という言葉が全国に広まり、沖縄出身の若者が日本中のヒーローになった。那覇の小さな少年がここまで来たんだという物語が、日本人の感情を揺さぶった。 白井義男の時代に「83%のラジオ」があったとすれば、具志堅用高の時代には「茶の間のテレビ」があった。ゴールデンタイムに全国生中継。チャンネルを変えるという選択肢がない時代、日本中が同じ画面を見ていた。 令和の今 スマホの画面に映る「モンスター」 そして今、令和の日本に「モンスター」がいる。 井上尚弥だ。 神奈川県座間市出身、1993年生まれ。ライトフライ級から始まり、スーパーバンタム級まで世界4階級を制覇した。愛称は「モンスター」。 何がそこまで凄いのか。 軽量級というのは、一般に「判定が多い」と言われる。体重が軽い分、一発でKOするほどのパワーを出しにくいからだ。ところが井上尚弥は、世界王者クラスの相手でも試合を終わらせてしまう。ボディブロー、左フック、カウンター、連打——どれもが凶器になる。特にボディ打ちは「内臓をえぐる」とまで表現されるほどだ。 しかも、スピード・テクニック・パワーのどれか一つが突出しているのではなく、全部がトップ水準にある。ボクシング関係者から「欠点が少なすぎる」と言われるゆえんだ。 忘れられない試合がある。2019年のノニト・ドネア戦。井上選手は眼窩底骨折を負いながら激闘を制し、強さだけでなく精神力と修正能力を世界に示した。2023年のスティーブン・フルトン戦では階級を上げて挑み、内容で圧倒してTKO勝利。「井上尚弥は本物中の本物」という評価が決定的になった試合だった。 海外でも評価は高い。パウンド・フォー・パウンド(階級の差を取り払った最強ランキング)で常に上位に名前があり、アメリカやイギリスでもスター選手扱いだ。「日本ボクシング史上最高のボクサー」と評価する声は、国内にとどまらない。 ところで、どこで見るのか問題 ただし、である。 井上尚弥の試合を見たいと思ったとき、かつてのような「テレビをつければゴールデンタイムにやっている」という状況ではなくなっている。 主な視聴方法は今やこうなっている。 まずAmazon Prime Video。近年の日本開催ビッグマッチはAmazonが独占することが多く、プライム会員なら追加料金なしで生配信を観られる。次にLemino(NTTドコモ系の配信サービス)。ボクシング関連コンテンツを多く扱っており、無料部分もある。それからWOWOW。海外開催の試合やビッグマッチで今も放送される。以前より頻度は減ったが、ボクシング中継の伝統は残っている。 地上波テレビはどうなったかというと、具志堅用高の時代、辰吉丈一郎の時代、亀田興毅の時代のような「ゴールデンタイム全国生中継」はかなり減った。放映権料の高騰、配信サービスの普及、若年層のテレビ離れ、配信会社による独占契約——理由はいくつか重なっている。 昭和世代からすれば「寂しい」と感じる変化かもしれない。茶の間のテレビで家族みんなが見ていたあの感覚は、もう戻らない。 でも、実は今のほうが「見やすい」面もある。 かつては深夜開始の試合もあった。録画に失敗することもあった。延長で別の番組がズレることもあった。今はスマホでも観られるし、Amazon Prime Videoなら高画質・見逃し配信・一時停止が当たり前だ。テレビに接続すれば大画面でも楽しめる。「意外と便利」と感じている昭和・平成世代も多いはずだ。 ラジオ、テレビ、スマホ。道具は変わっても 昭和27年、日本中がラジオの前で固まって白井義男を応援した。 昭和50年代、日本中が茶の間のテレビで具志堅用高にかじりついた。 令和の今、日本中がスマホやタブレットの画面で井上尚弥を追いかけている。 道具は変わった。でも熱狂は変わっていない。 白井義男が戦後の日本人に「俺たちも世界一になれる」という夢を見せたように、具志堅用高が沖縄の少年を「日本中のヒーロー」にしたように、井上尚弥は今まさに「日本人が世界の頂点に立てる」ことを体で証明し続けている。 5月19日、ボクシングの日。 後楽園球場に4万人が詰めかけたあの夜から、時代は変わった。でも変わらないものが、ちゃんとある。 昭和50年代当時、具志堅用高の試合は何度ゴールデンタイムで中継されたことか。ボクシングにさほど興味のない私でさえテレビの前にかじりついていたのだから、それがどれほど特別な時間だったかがわかる。そういう「日常の中の非日常」が、もう少しテレビにあってもいいのになあと、たまに思う。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 | 次の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 ▶

May 18, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日

今日は5月18日。 昭和45年(1970年)のこの日、ひとつの法律が静かに公布された。 全国新幹線鉄道整備法。 長い名前だが、内容はシンプルだ。「新幹線を、日本中に走らせよう」という国の約束だ。 この法律のことを調べていたら、自分の記憶がどんどんよみがえってきた。新幹線にまつわる記憶。テレビ越しに見ていた「あの乗り物」への憧れ。そして中学3年の春、東京駅のホームで初めて0系の鼻先を目の前にしたときの、あの感覚。 今日はその話を書いてみたい。 新幹線は、テレビの中にいた 私が育ったのは東京23区の東のはずれだ。下町の気配が残る、庶民的な町だった。 子どもの頃、新幹線はいつも「テレビの中」にあった。 ゴールデンウィーク前になると、ニュースが決まってこの映像を流した。東海道新幹線の車内。通路まであふれかえる乗客。車窓の外を流れる富士山。アナウンサーが「今年のUターンラッシュは——」と話す。 画面を見ながら、子どもの私はぼんやりと思っていた。 あれに乗っている人たちは、どこへ行くんだろう。 京都か。大阪か。あるいはもっと遠い、知らない場所か。 でも、それは完全に「他人事」だった。我が家とは無関係な世界の映像として、ただ眺めていた。 理由は単純で、我が家には旅行の習慣がなかったからだ。 父は、連休が年に一度だけだった 父の仕事は週に1回、平日に休みがあった。日曜日は働いていた。 ゴールデンウィークも、お盆も、関係なかった。世の中がいくら盛り上がっていても、父は仕事に出かけた。まとまった連休といえば、1年にたった一度、お正月の1日と2日——その2日間だけだった。 今の感覚で言えば「それは大変だったね」となるかもしれない。でも当時、私のまわりではそれはめずらしいことではなかった。近所の友達の父親も、似たようなものだった。昭和40年代、50年代の「お父さん」はそういうものだった。家族よりも仕事を優先するのが当たり前で、誰もそれを疑わなかった。 だから、家族でお泊まり旅行に出かけた記憶が、私にはない。 修学旅行や林間学校はあった。でも「家族みんなで旅行」という体験は、子ども時代についぞなかった。 今の常識からすると「えっ、そうなの?」と驚かれるかもしれない。でも私のまわりでは、それはごくふつうのことだった。それくらい、昭和40年代・50年代・60年代のお父さんたちは、よく働いていたのだ。 だから新幹線の映像をテレビで見ながら「来年の夏、乗れるかな」などとは考えなかった。そんな発想自体が、最初からなかった。 昭和45年5月18日、「約束」が生まれた 少し話を遡る。 昭和39年(1964年)、東海道新幹線が開業した。東京オリンピックの9日前のことだ。東京と新大阪を、それまでの特急列車なら6時間以上かかっていたところを、「ひかり」は3時間10分で結んだ。 当初は「あんな高いものを作っても赤字になるだけだ」という声もあった。ところが蓋を開けると、新幹線は大人気だった。通勤でも出張でも観光でも、人々は喜んで乗った。「夢の超特急」と呼ばれた0系の白い車体は、あっという間に時代のシンボルになった。 その成功を見て、政治家や官僚は考えた。「これを全国に広げれば、日本中が豊かになる」と。 そして昭和45年5月18日、全国新幹線鉄道整備法が公布された。 内容はこうだ。時速200キロメートル以上で走れる幹線鉄道を「新幹線」と定義し、全国的な鉄道網として整備していく——という法律だ。要するに「東京と大阪だけじゃなく、日本中に新幹線を走らせる計画を国が主導する」という宣言だった。 この日から3年後の昭和48年、東北新幹線や北陸新幹線などの整備計画が決定される。そしてさらに時間をかけて、新幹線は少しずつ北へ、西へと延びていった。 とはいえ、昭和45年に法律ができたからといって、すぐに全国を新幹線が走り回るわけではない。東北新幹線が東京まで延びてくるのは、昭和60年(1985年)のことだ。 私が子どもだった昭和40年代、50年代——仙台や盛岡に新幹線で行けるようになる未来は、まだ「夢の話」だった。 中学3年、修学旅行の朝 昭和57年(1982年)の春のことだ。 中学3年生の修学旅行。行き先は京都・奈良。 その朝、私はいつもより早起きして、母に用意してもらった弁当を持って中学校へ向かった。校庭に集合して、先生から注意事項を聞いて、クラスごとに並んで出発した。電車を乗り継いで東京駅へ。先生に引率されてホームへ向かった。 そして——目の前に、0系があった。 あの丸っこい白い鼻先。白とブルーの塗り分け。ずらりと並んだ窓。テレビの中でしか見たことがなかったものが、手を伸ばせば届きそうな距離に、本物として存在していた。 正直に言うと、少し呆然とした。 「あ、本当にあるんだ」と思った。変な感想だが、そういう気持ちだった。ずっとテレビ越しに見ていたものが、突然、目の前の現実になった感覚。 車内に乗り込んで、席に着いた。 隣に座った友達と、顔を見合わせた。 お互いにニヤニヤしていた。声に出さなくても、わかった。「こいつも、初めてなんだな」と。 うちだけじゃなかった。同じ町の同じ中学に通っている友達も、同じように「初めて」だったのだ。それが少し、嬉しかった。 動き出したときの、あの感覚 列車が動き出した。 最初はゆっくりだった。東京駅のホームが、少しずつ後ろに流れていく。窓の外の景色が、じわじわと速くなっていく。 そしてある瞬間から、流れる景色が全然違うものになった。 ビルが、電線が、人が、全部流れていって何がなんだかわからなくなる。ただ白と緑のぼんやりした帯になって、後ろへ後ろへ飛んでいく。 スピードというものをあれほど体で感じたのは、後にも先にもあの瞬間だけだと思う。「速い」という言葉が意味を失って、ただ体ごと時間が圧縮されていくような、変な感覚だった。 富士山が見えた。 「富士山だ」と誰かが言い、みんなが窓に顔を寄せた。日本一高い山が、ただただそこにあった。東京から生まれて初めて離れた中学生にとって、富士山の存在感は圧倒的だった。 新幹線は「高嶺の花」だった 修学旅行から帰って、しばらくは新幹線の話ばかりしていた気がする。 でも、それで終わりだった。 その後、自分の意思で新幹線に乗る機会は、なかなかやってこなかった。就職して、出張で乗るようになるまで、新幹線は「特別なとき」だけの乗り物だった。 新幹線は「高嶺の花」だった。 手が届かないわけじゃない。でも、気軽に乗るものじゃない。ゴールデンウィークにテレビで見ていた満員の映像は、「あそこに乗っている人たちとは、自分は違う世界にいる」という感覚と一緒にあった。 今になって思えば、それは思い込みだったかもしれない。でも当時の感覚は確かにそうだった。 「夢の超特急」という言葉は、言い得て妙だと思う。夢——すなわち、「いつかは」という距離感。私にとって長い間、新幹線はそういう存在だった。 長男に乗せてやりたかった 大人になって、子どもが生まれた。 長男が5歳のとき、仕事の関係で九州へ行く用事ができた。会社は往復の飛行機チケットを用意してくれた。でも私は、帰りのチケットをキャンセルした。 博多から東京まで、新幹線で帰ることにしたのだ。 妻と長男を連れて、博多駅のホームに立った。 長男は生まれて初めて新幹線を目の前にして、目を丸くしていた。 「乗るの?これに乗るの?」と聞いた。 「乗る」と答えた。 席に着いて、列車が動き出した瞬間、長男は窓に顔をくっつけて景色を見ていた。その横顔を見ながら、私は何も言わなかった。ただ、昭和57年の春に感じたあの感覚が、じわっと戻ってきた気がした。 ...

May 17, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代

今日は5月17日。 昭和60年(1985年)のこの日、男女雇用機会均等法が成立した。職場における男女の差別を禁止し、募集、採用、昇給、昇進など多くの面で男女を平等に扱うことを定めた法律だ。 法律の名前だけ聞くと、難しい話のように感じるかもしれない。でも私にとってこの法律は、あの頃の母親の背中と深くつながっている。 「男は仕事、女は家庭」という時代 昭和の日本には、当たり前とされていた空気があった。 「男は仕事、女は家庭」。 女性は学校を卒業して就職しても、結婚したら退職するのが当然という慣例が多くの職場に存在した。当時、女性は就職しても数年で辞めていくのが慣例で、男女は平等には扱われていなかった。多くの企業は男女を分けて賃金管理や労務管理をしており、女性は補助労働者として扱われていたのだ。 「寿退社」という言葉があった。結婚を機に会社を辞めることを、まるでおめでたい卒業のように呼んでいた。女性が働き続けることへの社会の目は、今とはまったく違っていた。 それでも昭和の母親たちは働いていた。家庭を守りながら、子どもを育てながら、パートとして、内職として、様々な形で家計を支えていた。 テーブルの上の100円玉と、母の仕事 少し前の記事に書いた話を、もう一度思い出している。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はなかった。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃の母は、何をしていたのだろう。どんな仕事場で、どんな気持ちで働いていたのだろう。子どもだった私には、考えも及ばなかった。 でも今になって思う。昭和の母親がパートとして働くということは、今よりずっと「肩身の狭い」ことだったかもしれない。「母親なのに家を空けて」という目が、社会のどこかにあった時代だ。それでも働いたのは、家族のためだけではなく、自分自身の何かのためでもあったはずだと思う。 スチュワーデス、保母、看護婦──あの呼び名が変わった日 男女雇用機会均等法の成立は、目に見える形でも昭和の風景を変えた。 施行されると、「保母」が「保育士」に、「看護婦」が「看護師」に、「スチュワーデス」が「客室乗務員」などと呼称も変更された。 子どもの頃、テレビのCMに「スチュワーデス」という言葉が出てくると、華やかな憧れの職業として映っていた。「保母さん」という言葉も、幼稚園や保育園の優しい先生の代名詞だった。 その言葉が変わるということは、仕事に対する社会の見方そのものが変わっていくということだった。女性だけの仕事、男性だけの仕事、という区分けが少しずつ溶けていく。昭和という時代の終わりごろに、その変化は静かに始まっていた。 「均等」への道は、遠かった ただ正直に言えば、法律が成立しても、最初は採用や昇進について「禁止」ではなく「努力義務」にとどまっていた。多くの経営者が法制化に強く反対したという背景もあった。 昭和60年の法成立から、実質的な禁止規定へと強化されるまで、さらに月日が必要だった。法律が変わることと、社会が変わることには、タイムラグがある。 それでもあの法律は、確かに何かを変えた。昭和の働く母親たちが、今日という日の積み重ねの上に社会を押し広げていったことを、私はあの100円玉2枚とともに覚えている。 娘たちが生きる時代へ 今、私には子どもが5人いる。そのうちの娘たちが大人になって働く時代は、昭和の母親が生きた時代とはずいぶん違う。 今年の1月、大学受験を控えた娘の合格祈願で湯島天満宮に参拝した話を以前書いた。娘が夢を持って大学に進み、自分のキャリアを考えられる時代。それは昭和60年5月17日に成立した法律が、その後の何十年もかけて少しずつ作ってきた時代でもある。 男女雇用機会均等法という言葉を、娘に説明したことがある。「昔はそんな法律がなかったの?」と娘は少し驚いた顔をした。 その顔を見て、時代が変わったのだと実感した。 おわりに 昭和60年5月17日、一本の法律が成立した。 完璧ではなかった。すぐに世の中が変わったわけでもなかった。でもテーブルの上に100円玉を置いて子どもたちのために働いていた昭和の母親たちの背中が、この法律を少しずつ前に押し進めていったと思う。 あなたのお母さんも、あの時代に何かを背負いながら働いていたのではないだろうか。 今日、そのことを少し思い出してもらえたら嬉しい。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 ▶

May 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった

今日は5月16日。 昭和56年(1981年)のこの日、土曜の夜8時に一本のテレビ番組が産声を上げた。 「オレたちひょうきん族」。 ビートたけし、明石家さんま、島田紳助……漫才ブームで頭角を現した若手芸人たちが集結したこの番組は、昭和のテレビ史上最大のライバル対決「土8戦争」の幕を開けた。 相手は、全員集合だった。 「笑ってる場合ですよ!」と叫んだ教室 昭和56年、私は小学6年生だった。 学校の教室には、当時すでにテレビが置かれていた。昼休みの12時少し前になると、誰かがそのテレビのチャンネルをフジテレビ系に合わせる。流れてくるのは「笑ってる場合ですよ!」だ。 月曜から金曜、正午から放送されたこの帯番組は、漫才ブームを背景に昭和55年(1980年)10月から始まった。B&B、ツービート、オール阪神・巨人……時代の顔ともいえる漫才師たちが次々と登場する。 番組のオープニングで掛け声がかかる瞬間、教室が一つになった。 「笑ってる場合ですよ!」 クラス全員で叫ぶ。そのまま笑いが起きる。先生がいてもお構いなし、という雰囲気だったかもしれない。昭和56年の教室には、そういう「勢い」があった。 全員集合を、卒業した 正直に言う。昭和56年の私は「8時だよ!全員集合」を卒業していた。 小学校低学年の頃、全員集合は神様のような番組だった。いかりや長介の「バカヤロー!」、加藤茶の「ちょっとだけよ」、志村けんのバカ殿。台本通りに徹底的に稽古し、公開生放送で一糸乱れずやり切る。あのコントの完成度は今見ても圧倒的だ。 でも小学6年生になると、変わっていた。 漫才ブームの波が教室の中にまで押し寄せていた。休み時間に漫才の真似をする友達が出てきた。B&Bの「もみじまんじゅう!」、ツービートの毒舌漫才。笑いの空気が変わっていた。そこにひょうきん族が来た。 ビートたけしによると「全員集合」をどうやって視聴率で倒すかということを目標にスタッフたちと色々考えたという。その戦略は、全員集合との徹底的な差別化だった。 全員集合が「台本通りの王道コント」なら、ひょうきん族はアドリブと内輪ウケ。全員集合が「グループで笑いを取る」なら、ひょうきん族は一人一人の個性。全員集合が「子ども・小中学生向けの公開生放送」なら、ひょうきん族は高校生・大学生向けのスタジオ収録。 その差別化が、ちょうど小学校高学年から中学生になろうとしていた私たちの世代に刺さった。全員集合からひょうきん族へ。あの乗り換えはごく自然な流れだったと、今になって思う。 各家庭にテレビが増えた時代 ところでチャンネル争いはどうだったか。 昭和40年代は、一家に一台のテレビを囲んで家族全員で見るのが当たり前だった。チャンネル権は父親が持ち、見たい番組を見られない子どもが拗ねる、という光景が日本中にあった。 ところが昭和50年代に入ると、カラーテレビの価格が下がり、二台目・三台目のテレビが各家庭に入り始めた。子ども部屋に小さなテレビが置かれるようになり、「全員集合を見るかひょうきん族を見るか」という争いは、家庭によってはそもそも起きなくなっていた。 私の家もそうだった。チャンネル争いの記憶がないのは、テレビが複数あったからだと思う。 一台のテレビを囲んで家族が笑う、という昭和の風景は、テレビが増えるとともに少しずつ変わっていった。便利になった分、何かが失われたような気もするが、それもまた時代というものだろう。 「何でもあり」の時代の勢い 今振り返ってみると、昭和56年前後という時代は特別な空気をまとっていた。 漫才ブームが来て、ひょうきん族が始まって、ファミコンがまもなく登場して、バブルに向かって経済が上昇していく。社会全体に「何でもあり」みたいな包容力があって、とにかく「勢い」がみなぎっていた。 教室でテレビに向かってクラス全員で叫ぶ。そのくらいのことは誰も咎めない、という空気が確かにあった。はみ出すことへの許容度が今とは違った。 初回の視聴率は9.5%、その後も8〜10%前後と当初は全く相手にならなかったひょうきん族が、昭和57年(1982年)10月9日についに全員集合の視聴率を初めて上回った。そして昭和60年(1985年)9月28日、全員集合は16年の歴史に幕を下ろした。 あの時代の勢いが、笑いの世代交代を加速させたのだと思う。 「2番組合わせて視聴率50%」 面白い話がある。 全員集合とひょうきん族のスタッフは、打ち上げの席で度々同じ居酒屋で遭遇していたという。周りは「戦争」と言っていたが、当事者同士はライバルであると同時に「同士」でもあった。 「2番組合わせて視聴率50%。笑いを見る人が世の中の半分もいるなんて、俺たちは幸せだなあ」 そう語っていたという逸話が残っている。 あの時代の勢いと包容力の中で、2つの番組は正面からぶつかり、日本中の笑いを二人で背負っていた。それがどれほど豊かな時代だったか、今になってじわじわと感じる。 おわりに 昭和56年5月16日、ひょうきん族が始まった。 「笑ってる場合ですよ!」と叫んだ教室の空気。全員集合を卒業して新しい笑いに乗り換えた小学6年生の感覚。一家に複数台のテレビが入り始めた、あの頃の変化。 昭和56年という年は、笑いだけでなく、日本のいろんなものが一気に動き始めた年だったのかもしれない。 全員集合を見るか、ひょうきん族を見るか。あなたの家の土曜の夜8時は、どちらだっただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代 ▶

May 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった

今日は5月15日。 この日付には、昭和の子どもにとって特別な意味があった。 コロコロコミックの発売日だ。 昭和52年(1977年)5月15日に創刊されたこの漫画雑誌は、昭和54年(1979年)4月号から月刊化され、以来ずっと毎月15日に書店に並んだ。今日という日付は、あの分厚い雑誌を両手に抱えて書店を飛び出した、昭和の子どもたちの記念日でもある。 ドラえもんがテレビに来た、あの春 私がコロコロコミックを買い始めたのは、小学4年生の頃だった。 昭和54年(1979年)4月2日、テレビ朝日でドラえもんのアニメが始まった。月曜から金曜、夕方18時50分から19時の10分間。学校から帰ってランドセルを投げて、テレビの前に飛びつく。あの10分間は、昭和の子どもの放課後の中心だった。 アニメが始まると同時に、コロコロコミックの存在を知った。書店に行くとあの分厚い雑誌が並んでいる。中を開けるとドラえもんがたっぷり詰まっている。しかも他にもたくさんの漫画がある。 「これだ」と思った。 以来、毎月15日は書店に直行する日になった。 二人の編集者が作り上げた、あの雑誌 コロコロコミック誕生の裏には、小さくて熱い物語がある。 仕掛けたのは小学館の学年誌「小学一年生」の副編集長だった千葉和治だ。「小学生が読む、本当の意味での漫画雑誌を作りたい」という夢を持ち、その言葉に藤子・F・不二雄が感化された。「自分の全ての作品の掲載権を預ける」とまで言って協力を申し出た。 編集部はたった二人だった。二人で企画し、二人で500ページを超える創刊号を作り上げた。 昭和52年5月15日、コロコロコミック創刊号が書店に並んだ。表紙には「コロコロコミック」という誌名よりも大きな文字で「ドラえもん」と書かれていた。 創刊当初は季刊、やがて隔月刊、そして昭和54年4月号から月刊へ。毎月15日に翌月号を届ける、あのリズムが生まれた。 「炎のコマ!」と叫びながら コロコロで夢中になった漫画がもう一つある。 **「ゲームセンターあらし」**だ。 主人公の石野あらしが、ギャラクシーウォーズやインベーダーゲームなどのアーケードゲームで「超熱血必殺技」を繰り出しながらライバルと戦う漫画だ。中でも最大の必殺技が**「炎のコマ」**。1秒間に200万回以上の超スピードでレバーを動かすことで、ゲームの処理速度を上回り自機を消してしまうという技だ。技を放つとき、あらしは大きくジャンプして逆立ち状態でコントローラーに向かってぶちかます。 当時の小学生はみんな真似した。ゲームの前で「炎のコマ!」と叫んで、超高速でレバーをガチャガチャ動かす。もちろん何も起きない。でもやらずにいられなかった。 あの頃、私がよく通っていた場所がある。 倉庫か工場の跡地を利用した、広い建物の中に大量のテーブルゲーム機が並んでいる場所だ。少しブームの去ったゲームを格安で遊ばせるビジネスで、1回30円から50円でプレーできた。正規のゲームセンターよりずっと安い。お小遣いが少なくても、長く遊べた。 薄暗い建物の中に、ずらりと並んだテーブルゲーム機。画面の光だけが照らすあの空間に、小学生が群がっていた。 私もギャラクシーウォーズの前に陣取り、「炎のコマ!」と小声で叫びながらレバーを動かしていた。当然うまくはならないが、それでも毎回通った。あの独特の薄暗さと、電子音と、30円玉を握りしめていた感触が、今でも手の中に残っている気がする。 毎月16日の教室 コロコロの発売日は毎月15日。 15日に購入して、翌16日に学校へ持っていく。すると友達も同じコロコロを持ってきている。「読んだ?」「読んだ読んだ」「ゲームセンターあらし、今月すごくない?」「ドラえもんの道具、使いたいな」。 そういう会話が、毎月16日の教室では必ず起きていた。 みんなが同じ雑誌を読んでいるから、話が通じる。「あのシーン」と言うだけで伝わる。「炎のコマ」と言うだけで盛り上がれる。コロコロコミックは漫画雑誌であると同時に、昭和の小学生の「共通言語」だった。 今日、5月15日。 あの頃の15日は、こういう日だった。 おわりに 昭和52年5月15日に二人の編集者が作り上げたあの雑誌は、昭和の小学生の「バイブル」になった。 そして今日、2026年の5月15日発売のコロコロコミック2026年6月号では、長年再掲載されてきた「藤子・F・不二雄名作劇場 ドラえもん」の連載が終了した。新作ではなく過去の名作の再掲載コーナーの終了ではあるが、一つの時代が静かに幕を下ろした気がする。 毎月15日を指折り数えて待っていた、あの頃の自分に教えてあげたい。 あの雑誌は半世紀近く、ずっと続いたよ、と。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった ▶

May 14, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた

今日は5月14日、けん玉の日だ。 大正8年(1919年)のこの日、現代のけん玉の原型となる「日月ボール」が実用新案として登録された。三日月のような浅い皿で、太陽のような球を受ける。日と月をかけた名前が、そのまま道具の形を表していた。 正直に言うと、私自身はあの昭和のけん玉ブームにそれほど深くハマった記憶がない。あの頃、私が夢中だったのはコカ・コーラのヨーヨーだった。赤いコーラのロゴが入ったあのヨーヨーのひもを右手中指にはめ、「犬にかまれた」や「世界一周」の技を練習していた。けん玉より断然ヨーヨー派だった。 でも、けん玉との縁はずっと後になってやってきた。我が家の子どもたちを通じて。 酒の席の遊びが、子どもの手に渡るまで けん玉の歴史は古い。 16世紀のフランスに「ビル・ボケ」という似た遊び道具があり、それが日本には江戸時代中期に伝わったとされている。ただし当時のけん玉は、今のような十字型ではなく、棒の上下に皿がついた形だった。しかも子どもの遊びではなく、大人が酒の席でやる罰ゲームの道具だったというのが面白い。失敗したら酒を飲まされる、というルールだったらしい。 それが明治時代に文部省の教育解説書に「子どもの遊び」として紹介されたことで、少しずつ子どもたちのものになっていった。 そして大正7年(1918年)、広島県呉市の職人・江草濱次が、現代のけん玉の基本構造となる「日月ボール」を考案した。大皿、小皿、そしてけん先という三つの的を持つあの形が、このとき初めて生まれた。翌大正8年のこの日に実用新案として登録され、これが「けん玉の日」の由来になっている。 昭和52年「けん玉ルネッサンス」 日月ボールが生まれてから約60年後の昭和52年(1977年)、日本に突然けん玉の大ブームが訪れた。 後に「けん玉ルネッサンス」と呼ばれるこの爆発的な流行のきっかけは、昭和50年(1975年)に設立された「日本けん玉協会」だった。雑多なけん玉ではなく、統一された規格の競技用けん玉を作り上げ、級・段位の認定制度を整えた。 この競技用けん玉が小学校や学童に普及し、昭和52年ごろから全国の子どもたちの間に一気に広まっていった。1級になったら糸の色が変わる。段位が上がるたびに認定証がもらえる。そういう「上達の見える仕組み」が、子どもたちの心をつかんだのだと思う。 「何回続いた?」「俺、100回いったぞ」「嘘つくな」「ほんとだよ、見てろよ」 休み時間の校庭で、そういうやり取りが毎日繰り返された。私にはヨーヨーで同じやり取りをしていた記憶があるが(笑)、けん玉派の友達はもしかめの回数を誇らしげに語っていた。 学童から帰ってきた、あのけん玉 私自身はヨーヨー派だったが、我が家にもけん玉ブームは確かにやってきた。 子どもたちが小学校に入学して学童保育に通い始めると、そこでけん玉と出会うのだ。学童にはたいていけん玉が置いてあって、放課後に先生や友達と一緒にやるうちに夢中になっていく。そして家に帰ってくると「けん玉買って!」が始まる。 我が家の子どもは男女合わせて5人いる。その5人が、上から順番に学童でけん玉と出会い、順番にその波が家に押し寄せてきた。 けん玉を買ってきた翌日から、家の中に「もしもしかめよ、かめさんよ……」のリズムが響き始める。最初はぎこちない。玉が皿からこぼれ落ちる。「あー!」という声が上がる。また挑戦する。少しずつ続くようになってくる。 そのうちに、上の子たちが反応し始める。 「やらせて、やらせて」 『どや顔』で技を披露する、あの光景 けん玉の奪い合いが始まる。 下の子が一生懸命もしかめをやっていると、上の子が「貸して」と手を伸ばしてくる。渡すと、今度は上の子がすでに習得した技を披露し始めるのだ。 大皿から小皿、小皿から大皿へ。スムーズに乗せながら、ちらりと下の子の方を見る。**『どや顔』**だ。 「お兄ちゃん(お姉ちゃん)すごい!」という言葉を待っている顔。それを引き出したくて、わざわざ技を見せているのだ。下の子はそれを見て、「私も!」「僕も!」となる。またけん玉が奪い合いになる。 その光景が、5人分繰り返された。上の子が下の子に見せつけ、下の子がさらに下の子に見せつける。我が家のけん玉の技は、そうやって上から下へと受け継がれていった。 考えてみれば、けん玉の普及というのも同じ構造だったのかもしれない。できる人が見せる。見た人がやりたくなる。やってみて、できるようになる。また誰かに見せる。昭和52年の「けん玉ルネッサンス」も、そういう連鎖で日本中に広まっていったのだと思う。 「あせらず、あわてず、あきらめず」 日本けん玉協会の初代会長・藤原一生が唱えた「けん玉道」の基本精神は、**「あせらず、あわてず、あきらめず」**という言葉だった。 焦って力を入れても、玉は皿に乗らない。慌てて動かしても、タイミングが合わない。諦めてやめても、上達はしない。ただ落ち着いて、丁寧に、繰り返す。そうすると、ある日突然できなかった技ができるようになる。 子育てにも、そのまま当てはまる言葉だと思う。 おわりに 我が家のどこかに、まだ何本かのけん玉が眠っているはずだ。 5人の子どもたちが次々と夢中になって、次々と飽きて、どこかに置き去りにしていったあのけん玉たち。押し入れの奥か、おもちゃ箱の底か、どこかにひっそりとしまわれているだろう。 探し出して、もう一度やってみようかと思っている。「もしもしかめよ、かめさんよ……」のリズムに合わせて、大皿、小皿、大皿、小皿。 我が家に、もう一度けん玉ブームを起こしてみようか。 探し出したら、子どもたちに声をかけてみようと思っている。 「けん玉、やってみるか?」 あの頃のどや顔を、それぞれもう一度見せてもらえたら嬉しい(笑)。 もし押し入れのけん玉が見つからなかったら、これを機に新しい一本を。日本けん玉協会認定の競技用「大空」は、級・段位の認定にも使える本格派。大人がもう一度始めるにも、ちょうどいい一本です。 日本けん玉協会認定 競技用けん玉「大空」山形工房/競技用けん玉の定番。級・段位認定にも使える本格派 Amazonで見る › ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった ▶

May 13, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃

今日は5月13日。 この日付を調べていて、一つの火災事故のことを知った。 昭和47年(1972年)のこの日、深夜10時27分。大阪・ミナミの繁華街、千日前にあるデパートビルの3階から火の手が上がった。 千日デパート火災。 死者118人・負傷者81人にのぼる人的被害を出し、戦後日本のビル火災として最大の惨事となった。 正直に言う。私はこの事故のことを、ほとんど知らなかった。 昭和44年(1969年)生まれの私は、この火災が起きた当時わずか3歳だった。事故そのものの記憶はまったくない。でも今年の冬、ある場所でこの火災のことが話題に上がり、初めてその全貌を知ることになった。 湯島天満宮から、上野松坂屋へ 今年の1月のことだ。 大学受験を控えた娘の合格祈願のため、家族で湯島天満宮へ参拝に行った。学問の神様・菅原道真を祀るこの神社には、受験シーズンになると合格を祈願する絵馬が鈴なりに並ぶ。娘のために手を合わせ、家族それぞれが心の中で願いを込めた。 その帰りに、上野の松坂屋へ立ち寄った。 エレベーターで上層階のレストランフロアへ。昭和の大型デパートらしい、広々とした食堂だ。白いテーブルクロス、ウェイトレスさんの丁寧な接客。平成も令和も、この場所だけはあの頃の空気が残っているような気がした。 小学生の4男が、メニューをひらいて迷わず言った。 「お子様ランチ!」 旗が刺さった小山のライス、エビフライ、ハンバーグ、スパゲティ。あの見慣れたお子様ランチが運ばれてきた。時代が変わっても、子どもが注文するものは変わらない。思わず笑ってしまった。 食事をしながら、ふと窓の外を眺めた。屋上のほうに目をやりながら、こんな話が出た。 「松坂屋の屋上遊園地、お父さんが子どもの頃に何度も行ったんだよ」 小さな観覧車、豆汽車、飛行機型の乗り物。あの屋上の風の感触が、急に記憶の中からよみがえってきた。 「今はもうないの?」と誰かが聞いた。 「いつからなくなったんだろうね」と私は答えた。 その帰り道、スマートフォンで調べてみて、初めて知ったのだ。屋上遊園地が姿を消していった背景に、千日デパート火災という大きな出来事があったことを。 深夜の惨事 昭和47年5月13日は土曜日だった。 閉店後の夜、3階では売り場の改装工事が行われていた。出火後、火と煙はエスカレーター開口部や空調ダクトを伝って上層階へと急速に広がっていった。火災発生当時、7階で営業していたキャバレーには何の通報もなく、181人の客やホステス、従業員らが逃げ遅れた。煙に巻かれ、窓から飛び降り、救助袋の使い方を誤って転落した人もいた。 近くで菓子店を営んでいた女性は後年こう語っている。「向こうの千日前商店街のアーケードの上に人が『ボトン』と落ちたのを見ました。落ちる時は『キャー』って言って両手バタバタしてたけど、下に落ちたら『どすん』じゃなくて、『ばちゃっ』っていう音が……」。 死者118人。戦後最悪のビル火災だった。 火災が変えた、昭和の風景 この千日デパート火災の翌年、熊本の大洋デパートでも100人を超える死者を出す火災が起きた。 相次ぐ惨事を受けて、消防法が改正された。建物の屋上の半分を、火災時の避難場所として確保することが義務付けられたのだ。 その結果として消えていったのが、デパートの屋上遊園地だった。 昭和30年代から40年代にかけてが全盛期だった。小さな観覧車、メリーゴーラウンド、豆汽車、飛行機型の乗り物、ゲームコーナー。休日に家族でデパートへ行き、大食堂でお子様ランチを食べて、屋上遊園地で遊ぶ。それが昭和の「デパートの定番コース」だった。 消防法の改正で屋上の半分が避難場所になると、大型遊具の設置スペースが取れなくなった。さらにテーマパークやゲームセンターの台頭が追い打ちをかけ、昭和の終わりごろから屋上遊園地は次々と姿を消していった。 松坂屋の上野店の屋上遊園地もいつしかなくなった。私が子どもの頃に何度も遊んだあの場所は、今はもうない。 お子様ランチは、変わらなかった それでも、松坂屋のレストランは残っていた。 4男が頬張るお子様ランチを見ながら、思っていた。あの旗の刺さったライスの形も、エビフライの大きさも、あの頃と大して変わらない。子どもが「お子様ランチ!」と迷わず注文するのも、変わらない。 変わったものと、変わらないものがある。 屋上遊園地は消えた。でもデパートのレストランで、子どもがお子様ランチに目を輝かせる光景は続いている。昭和の子どもだった私が経験したあの「特別な日の記憶」を、令和の4男もきっと同じように感じているはずだ。 おわりに 昭和47年5月13日の夜、大阪のデパートで118人が亡くなった。 3歳だった私にその記憶はない。でも今年の冬、上野松坂屋のレストランで息子のお子様ランチを眺めながら屋上遊園地の話をして、帰り道にスマートフォンで調べて、初めてこの火災のことを知った。 あの惨事が消防法を変え、消防法の改正が屋上遊園地の風景を変えた。昭和の出来事が、こんなにも身近なところに繋がっていたとは思わなかった。 「昭和の今日は何があった日?」を調べていると、時々こういう発見がある。知らなかった事実が、自分の記憶のどこかにひっそりとつながっている瞬間。その感覚が、このシリーズを続ける理由の一つになっている。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた ▶

May 12, 2026