【昭和の今日は何があった日?】7月6日──「本を読むなら、バットを振る」、サラダ記念日がわからなかった高3の夏

7月6日は「サラダ記念日」です。歌人・俵万智さんの第一歌集『サラダ記念日』の表題歌にちなんだ、いまではすっかりおなじみの記念日ですね。 けれど、白状します。この歌集が世に出た1987年(昭和62年)の夏、当時18歳・高校3年生だった私は、「サラダ記念日」という言葉の意味が、まったくわかっていませんでした。今日はその「わからなかった私」の話から、始めさせてください。 一冊で短歌を変えた歌集 『サラダ記念日』は、俵万智さんの第一歌集です。河出書房新社から1987年5月8日に刊行されました。作者の俵さんは1962年生まれ。当時は神奈川県立橋本高校で国語を教える先生で、まだ24歳の新人歌人でした。 俵さんは大阪府の生まれ。早稲田大学で歌人・佐佐木幸綱さんと出会って短歌を始め、卒業後は高校の先生をしながら作品を発表していました。1985年には「野球ゲーム」という一連で角川短歌賞の次席に選ばれるなど、口語短歌の期待の新星として、すでに名を知られはじめていた人です。 じつは、この歌集にはちょっとした裏話があります。もともとは角川書店から出す話もあったのですが、当時の社長・角川春樹さんが「短い詩の本は売れない」と反対したというのです。結局よそから出た一冊がミリオンセラーになり、角川さんはのちに「人生最大の失敗だった」と振り返ったと伝わっています。それほど、誰にも売れると予想できなかった一冊でした。 歌集の初版は、わずか8,000部。短歌の本など、数百部も刷れば十分という世界です。それがこの一冊は爆発的に売れ、最終的に280万部を超え、1987年度のベストセラーランキングで、あらゆる本を抑えて堂々の第1位に輝きました。歌集が売上のてっぺんに立つなど、前にも後にも例のない出来事です。 何がそんなに新しかったのか。俵さんは、それまで「難しくて格調高いもの」と思われていた短歌を、私たちが普段しゃべる言葉──口語で詠んでみせたのです。恋人が手料理をほめてくれた。ただそれだけの日常のひとこまを、五・七・五・七・七の三十一文字にすくい取る。「与謝野晶子以来の天才歌人」とまで言われました。 『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 刊行から2ヶ月後、本のなかで名づけられた「7月6日」を、現実のカレンダーで初めて迎えた日。朝日新聞の「天声人語」がこの歌を取り上げると、出版社には1日で約1,500本もの電話注文が殺到したそうです。その年の新語・流行語大賞では「新語部門・表現賞」に選ばれ、「記念日」という言葉そのものを世間に広めました。まさに、社会現象です。 「本を読むなら、バットを振る」 さて、その社会現象のまっただ中にいたはずの、18歳の私です。 1987年の夏、私は高校3年生。最後の夏の大会を目前に控えた、野球部の球児でした。来る日も来る日も、白球を追って土にまみれていました。 恥ずかしながら、当時の私には本を読む習慣がまるでなく、「本を読むなら、バットを振る」と、それはもう大まじめに思っていました(笑)。歌集どころか、活字そのものが、遠い世界の話でした。 それでも、『サラダ記念日』という本の名前や、俵万智さんというお名前は、なんとなく知ってはいました。テレビだったか、新聞だったか──どこで知ったのかは、いま思い出そうとしても、まるで思い出せません。ただ、はっきりしているのは、短歌そのものには、まったくの無関心だったということです。あの頃の私は、たぶん野球以外のことには、何ひとつ興味がわかなかったのだと思います。 よく覚えているのは、同級生の部員に一人、勉強のよくできる奴がいて、そいつが会話のなかで「〇〇だから〇月〇日は〇〇記念日な」なんて言い回しを、さらりと使っていたことです。仲間うちで流行っていたわけではありません。ただ、その頭のいい一人だけが、なぜか口にしていた。今になって、ふと思い出します。 正直に言うと、それを聞いても私は「はぁ?何、それ!」という感じで、何のことやらよくわかっていませんでした。私のまわりの仲間も、たぶん似たような温度感だったと思います。汗と土埃のグラウンドに、短歌なんてものが入り込んでくる隙間は、これっぽっちもなかったのです。 いま振り返ると、あの夏の自分について、一つだけ言い直しておきたいことがあります。さきほど、私は「野球のことしか考えていなかった」と書きました。けれど、正確には──「野球のことしか考えたくはなかった」。そう書くほうが、たぶん正しいのです。 当たり前のことですが、高校野球は、残りひと月ほどで終わりを迎える。それは自分でもわかっていました。終われば、卒業後の進路を考えなければならない。うちの家の経済状況で、大学進学なんて可能なのか。そもそも、今の自分の学力では、進学などお話にならないのではないか。──そんな思いは、頭の奥で、もくもくと湧いては来ていたのだと思います。 でも私は、そのどれ一つにも正面から向き合うことなく、ただ「野球」に逃げ込んでいました。白球を追いかけている間だけは、面倒なことを何も考えずにいられたからです。いまこの年になって振り返ると、あの夏のグラウンドには、そうやって逃げ込んでいた一人の自分が、確かにいたのだと思います。 いま、あの夏の「はぁ?」がわかる あれから39年。57歳になった私は、ようやく、あの夏の「はぁ?」の正体がわかるようになりました。せっかくなので、当時の私にも通じるように、かみ砕いて書いてみます。 なぜ、たった一冊の歌集が280万部も売れたのか。答えは、俵さんが短歌を「自分たちの言葉」に取り戻してくれたからです。かしこまった言葉づかいではなく、友だちと話すみたいなことばで、恋やごはんや、なんでもない一日を歌にしていい。そう教えてくれたのです。 それまで短歌といえば、年配の人の趣味か、教科書の中の古めかしいもの、というイメージでした。それを俵さんは、同じ時代を生きる若者のことばで歌ってみせた。だからこそ、ふだん短歌に縁のなかった若い世代、とりわけ同世代の女性たちの心を、一気につかんだのです。 そしてもう一つ、大きな発明がありました。それは「記念日」という考え方です。特別な日というのは、誰かに決めてもらうものではなく、自分の気持ちひとつで名づけていいものなんだ──。じつは「7月6日」という日付も、その日に何かが起きたわけではなく、恋のイメージが強い七夕(7日)のあえて前日を選び、「なんでもない日こそ記念日にしたい」という思いから決められたものだそうです。 だから、たくさんの人が「それなら私も」と動きました。出版社が募った投稿短歌は、なんと20万首にも上ったといいます。みんなが自分の言葉で、自分の記念日を詠みはじめたのです。 熱は、本の外へもあふれ出しました。「〇〇記念日」という言い回しは巷にあふれ、スポーツ新聞の見出しにまで躍り、パロディ本や英語の対訳版、テレビドラマまで生まれたといいます。──そう考えると、あの頭のいい同級生が「〇〇記念日な」と口にしていたのも、けっして気取った特別なことではなかったのですね。彼はただ、その夏の世の中の空気を、そのまましゃべっていただけだったのです。 そして──ここが私にとっての、いちばんの発見でした。あの表題歌が生まれたきっかけは、じつはサラダではなく、お弁当に入れたカレー味の唐揚げだったこと。しかもその一首は、お弁当を持って“野球を見に行った日”に思いついたものだというのです。俵さんが歌人として注目されるきっかけになった作品の題名も、「野球ゲーム」でした。 世間が短歌に沸いていたあの夏、グラウンドにいた私はまったく知らなかったけれど。「サラダ記念日」は、私が大好きな野球場の空気のなかから生まれた歌でもあったのです。なんだ、ちゃんと地続きだったんじゃないか──39年越しに、そう思いました。 それぞれの「記念日」 こうして背景を知ってみると、短歌にまるで興味のなかったあの頃の私にも、確かに"記念日"はあったのだと気づきます。 そう、最後の夏の大会です。勝っても負けても、あの一日は、間違いなく私の人生の記念日でした。記念日は自分で名づけていいものだと俵さんが言うのなら、私にとっての「サラダ記念日」は、あの土のグラウンドの上に、ちゃんとあったのです。バットを振っていた私は、私なりのやり方で、ひと夏の記念日を刻んでいたのだと思います。 それは、進路の不安から逃げ込んだ先だったのかもしれません。それでも、あれほど夢中で逃げ込める場所があったこと自体、いま思えば、とても幸せなことでした。あの夏の自分を、責める気にはなりません。むしろ「よく最後まで白球を追いかけたな」と、そっと声をかけてやりたいくらいです。 令和のいま、私たちは毎日のようにスマホで「いいね」を押しています。「この味がいいね」の"いいね"が、時代を越えて別の意味を持つようになったのも、なんだか面白いものです。俵さんご自身、後年になって「いいねの元祖ですね」と言われる、と語っていました。たった一つの「いいね」で幸せになれる──そんな歌だったと知ると、あの頃「はぁ?」と首をかしげていた自分が、少しかわいく思えてきます。 「はぁ?何、それ!」だったあの一首の背景を、こうして39年越しに知って、静かに腑に落ちる。これもまた、遅れてやってきた、私だけの小さな記念日なのかもしれません。 あなたには、誰かに決められたのではなく、自分で「これは記念日だ」と思えた一日がありますか。そして1987年の夏、あなたは「サラダ記念日」を、どんなふうに聞いていましたか。よかったら、コメントで聞かせてください。 あの夏、私が「はぁ?」と首をかしげた一冊。39年越しにページを開いてみると、かしこまらない言葉で日常のきらめきをすくい取る、その心地よさに驚かされます。若い日に読み逃した方も、あの頃むさぼり読んだ方も。この機会に、あなたの「サラダ記念日」を探しに。 サラダ記念日(河出文庫)俵万智。短歌を“自分たちの言葉”に取り戻した、280万部の不朽の第一歌集 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月5日】センターコートに立った日本人、沢松和子のウィンブルドン制覇 | 次の記事:【7月7日】三角屋根の向こうのハンバーグ、すかいらーくと「外食元年」 ▶

July 6, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月5日──センターコートに立った日本人、沢松和子のウィンブルドン制覇

七月に入ると、テレビの向こうから芝生の緑がまぶしく見える季節がやってきます。ウィンブルドン。白いウェアの選手たちが、手入れの行き届いた芝のコートで球を追う——今ではすっかり夏の風物詩ですが、この大会で日本中が沸きに沸いた一日が、昭和にありました。 昭和五十年七月五日。この日、沢松和子さんとアン清村さんのペアが、ウィンブルドン選手権の女子ダブルスで優勝しました。日本人女子テニス選手として、史上初めての四大大会タイトル。ウィンブルドンのセンターコートに、日本人女性が初めて立った日でもありました。 私はこのとき六歳。まだ保育園に通っていた年で、正直に言えば、この歴史的な快挙をリアルタイムで見た記憶はありません。それでも「テニス」という言葉には、少年時代のいろいろな風景がくっついています。今日はその糸をたぐりながら、あの日のことを書いてみようと思います。 センターコートの大接戦 決勝の相手は、フランソワーズ・デュール(フランス)とベティ・ストーブ(オランダ)という強豪ペアでした。試合は 7-5、1-6、7-5 という大接戦。第一セットを取り、第二セットを落とし、最終セットも競り合いの末にもぎ取る——スコアだけ見ても、手に汗握る展開だったことが伝わってきます。 大会最終日、男子シングルスの決勝が終わったあと、沢松さんは日本人女子選手として初めてウィンブルドンのセンターコートに足を踏み入れました。テニスの聖地の、いちばん格式の高い舞台。そこに立った日本人がいる、というだけで、当時の熱狂は想像がつきます。 沢松和子さんは兵庫県西宮市の生まれ。祖父の代からのテニスの名門一家に育ち、国内では一九六七年から一九七五年までの足かけ八年間で百九十二連勝という、とてつもない記録を打ち立てた人でした。この連勝記録は、今なお破られていないといいます。若いころには全仏オープンとウィンブルドンのジュニア部門で優勝し、日本人テニス選手として史上初のプロ選手にもなった、まさに草分けの存在でした。 パートナーのアン清村さんは、アメリカ・カリフォルニア生まれの日系三世。父はテニスコーチ、母は日本で二番目に強かったという選手で、この優勝は「アジア系アメリカ人」の女性として初めてのウィンブルドン制覇でもありました。日本とアメリカ、二つの国にルーツを持つ二人が、テニスの本場イギリスの芝生の上で頂点に立った——今の言葉で言えば、なんとも国境を越えた快挙だったわけです。そして沢松さんは、この偉業を最後に、その年限りで現役を退いています。まさに有終の美でした。 「録画」で全国が沸いた 今の私たちからすると不思議に思えるのですが、この試合が日本で大反響を呼んだ背景には、「衛星中継が始まって間もない時期だった」という事情がありました。試合の模様は録画でテレビ放映されたそうです。生中継ではなく、録画。それでも日本人女性初の快挙は全国に伝わり、空前のテニスブームを巻き起こしました。 先日この欄で、NHKの二十四時間衛星放送が世界で初めて始まった日のことを書きました。地球の裏側の映像が、時間差なくお茶の間に届く——その当たり前が、まだ当たり前ではなかった時代です。昭和五十年のこの日は、そのもっと前。海の向こうの芝生のコートで起きたことが、フィルムに焼き付けられ、時間をかけて日本に届き、それでも人々を熱狂させた。情報の伝わり方そのものが、今とはまるで違っていたわけです。 生中継ではなく録画なのに、日本中がテニスに沸いた。むしろ、すぐには見られないからこそ、届いた映像に人々は食い入ったのかもしれません。海の向こうの快挙を、時間差でみんなが分かち合った——そんな時代の空気が、この記録の背景にはありました。 もともと昭和五十年前後は、日本のテニスが元気だった時期でもありました。この沢松さんたちの優勝が決定打となって、いわゆる「第二次テニスブーム」が巻き起こったといわれています。そしてこのブームは、一時のものでは終わりませんでした。十年あまりにわたって続き、全国のあちこちにコートが整備され、会社の福利厚生施設や自治体の運動場、別荘地のペンションにまで、こぞってテニスコートが作られていったのです。白いウェアでラケットを振る——それが、あの時代の「おしゃれなスポーツ」の代名詞になっていきました。 野球少年の目に映ったテニス さて、六歳の私に話を戻します。この優勝の記憶はなくても、そのあと日本に広がっていったテニスブームは、子ども時代の風景の一部として、たしかに体に残っています。 昭和五十年代、テニスは本当に身近なスポーツでした。もとをたどれば、この沢松さんたちの活躍が第二次テニスブームの大きなきっかけのひとつだったといいます。土地の有効利用としてあちこちにテニスコートが作られ、街にはテニススクールが増えていきました。 じつは、これを書きながら一つ、腑に落ちたことがあります。私が通っていた保育園の隣の土地に、あるとき突然、テニスコートとテニススクールができたのです。当時は「なんだか新しいものができたな」くらいにしか思っていませんでしたが、いま振り返ってみると、まさにこの時期でした。全国にコートが次々と生まれていったあの流れの、ほんの一区画。京成高砂の、線路と保育園と、私の暮らしのすぐそばにも、テニスブームの波はちゃんと届いていたわけです。半世紀近くたって、その突然のコートが、遠いウィンブルドンのセンターコートと一本の糸でつながった——そう気づいたときは、少し不思議な気持ちになりました。 そのテニス人気を象徴していたのが、アニメ『エースをねらえ!』でした。もとは昭和四十八年に放送された作品で、私が夕方のテレビで楽しみに見ていたのは、その再放送だったはずです。名門・西高テニス部に入った岡ひろみが、鬼コーチ宗方仁にしごかれながら成長していく——いわゆるスポ根の名作ですが、私はこれを毎夕方、かなり楽しみにして見ていました。 面白かったのは、途中で作品の色が変わっていったことです。最初のころは、ひろみが男子部の藤堂先輩に憧れていて、「お蝶夫人と藤堂の関係はどうなの?」なんて、ちょっとした恋愛物語かな?と思いながら見ていました。それがだんだん、ガチの「スポ根」テニス版になっていったんですね。一球一球に泣いて、汗をかいて、それでもラケットを握る。少女マンガの入り口から入って、気づけばスポーツに夢中になる少年の胸まで熱くしてしまう——今思えば、あれもテニスブームの熱の一部だったのでしょう。 私自身はといえば、心はすっかり野球に向かっていました。ポータブルラジオで巨人戦を聴き、空き地でボールを追いかける毎日。ラケットよりバットのほうがずっと手に馴染む子どもでした。それでも、同じ「スポーツに夢中になる」という気持ちの入り口は、きっとテニス少女たちも野球少年も同じだったのだろうと、今になって思います。 令和のウィンブルドンと、あの夏 正直に打ち明けますと、私はテニスそのものを熱心に追いかける子どもではありませんでした。それでも、小学生のころにテレビで名前を覚えた選手が何人かいます。男子ならマッケンロー、ボルグ。女子ならナブラチロワ。週末のニュース番組のスポーツコーナーで、ウィンブルドンあたりの映像がちょいちょい流れていて、なんとなく耳と目に残ったのです。みんな海外の選手でした。テニスの一番てっぺんの舞台は、日本人がどうこうできる場所ではない——子ども心に、そう思い込んでいた気がします。 だからこそ、時が流れて、錦織圭さんや大坂なおみさんが、あのウィンブルドンや世界の大舞台で活躍しているのを見たときは、本当に驚きました。あそこは日本選手が活躍できる場所ではない、と思っていた自分の思い込みが、気持ちよく裏切られたのです。いや、テニスだけではありません。野球の大谷翔平さんをはじめ、今はさまざまな競技で、たくさんの日本人選手がとんでもないことをやってのけている。同じ日本人として、とても誇らしい気持ちになります。 そして、その誇らしさの、いちばん最初の一歩を記した人たちがいたことを、忘れてはいけないと思うのです。まだ「日本人がテニスの世界で勝つ」ことが夢のまた夢だった時代に、録画された試合に時間差で日本中が沸いた昭和五十年の夏。センターコートに初めて立った日本人がいた、あの七月五日。半世紀近く前のその一球が、今の日本選手たちが立つ芝生に、たしかに根を張っているのだと思うと、少し胸が熱くなります。 みなさんには、テニスにまつわるどんな思い出がありますか? 夢中になったアニメ、通ったスクール、あるいはテレビにかじりついて応援した試合——よかったら、コメントで聞かせてください。 あの夕方、私の胸まで熱くした『エースをねらえ!』。岡ひろみが涙とともに一球ずつ強くなっていくあの物語は、半世紀たった今読んでも、まったく色あせません。テニスに青春を重ねた世代にも、スポ根の原点にふれてみたい方にも。この夏、あの熱をもう一度いかがでしょう。 エースをねらえ! 文庫版 全10巻セット(ホーム社漫画文庫)山本鈴美香。第二次テニスブームを象徴した不朽のスポ根名作。あの夕方の熱が、そのまま一冊に Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月4日】テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送 | 次の記事:【7月6日】「本を読むなら、バットを振る」、サラダ記念日がわからなかった高3の夏 ▶

July 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月4日──テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送

7月4日。昭和62年(1987年)のこの日、NHK衛星第1テレビジョン──いわゆるBS1が、世界で初めてテレビの24時間放送を開始しました。 「テレビが一日中やっている」。今では当たり前すぎて、何がすごいのか分からないかもしれません。でも当時、テレビには「終わり」があったのです。深夜になると番組が終わり、君が代が流れ、そして画面には砂嵐──。あの「ザーッ」という音とともに、テレビは毎晩眠りについていました。 その「テレビの眠り」を、初めてなくしたのが、この日の衛星放送だったのです。 深夜の砂嵐と「放送終了」の記憶 私が子どもの頃、テレビ放送には明確な「閉店時間」がありました。深夜、番組がすべて終わると、日の丸の映像とともに君が代が流れ、「JOAK-TV」などとコールサインが読み上げられて、放送終了。その後は例の砂嵐です。局によっては、静かな音楽とともに翌日の番組案内が流れたり、時報のような画面が映ったりと、それぞれに「店じまい」の作法がありました。そして早朝、また何事もなかったかのように「開店」する。テレビには、人間と同じような一日のリズムがあったのです。 私にも、はっきりと覚えている記憶があります。国旗の映像や「君が代」が流れたり、静かな音楽が流れたりしたあと、画面が急に白黒のザーッという砂嵐になる。あれを見たときは、「テレビも寝るんだ」と本気で思っていました。そして「今日はもう何もやっていないんだ」と、少し寂しい気持ちになったのです。 夜の家はとても静かで、時計の音だけが聞こえてきて、「もう本当に夜中なんだな」と子どもながらに感じたのを覚えています。 普段なら絶対に見られない時間まで起きていたという、ちょっと大人になったような特別な気分。そして、「もう寝なさい」というテレビからの合図のような放送終了。あれは今でも、私の昭和の思い出の一つです。 テレビは「いつでも見られるもの」ではなく、「放送している時間だけ見られるもの」でした。だからこそ、一つひとつの番組が貴重だったのかもしれません。 「ゆり2号」が運んだ未来 そもそも衛星放送とは何だったのか。少しだけ、その道のりを振り返ってみます。 「衛星」とテレビの関わりは、実は衛星「放送」より前、衛星「中継」から始まっています。昭和38年(1963年)11月、日本とアメリカを結ぶ初のテレビ衛星中継実験が成功しました。ところが、この歴史的な中継が最初に伝えたのは、なんとケネディ大統領暗殺という衝撃的なニュースだったのです。翌年の東京オリンピックでは、五輪史上初の衛星中継が実現。宇宙を経由して、海の向こうの出来事が「その日のうちに」茶の間へ届く時代が始まりました。 そして日本の衛星「放送」の歴史は、昭和53年(1978年)に打ち上げられた実験用放送衛星「ゆり」に始まります。昭和59年(1984年)には後継機「ゆり2号a」によって、NHK衛星第1テレビジョンの試験放送がスタート。これは世界初の直接受信方式の衛星放送でした。 もともとの大きな目的は「難視聴地域の解消」でした。山間部や離島など、地上の電波が届きにくい地域が、当時は全国で42万世帯もあったといわれます。しかし赤道上空3万6千キロの衛星からなら、日本全国あまねく電波を届けられる。実際、それまで難視聴地域だった小笠原諸島で本土と同じテレビが見られるようになったときには、祝賀行事まで行われたそうです。 「テレビが映る」。ただそれだけのことが、お祝いになる。今からは想像もつきませんが、それだけテレビが、暮らしの真ん中にあった時代だったのだと思います。 そして昭和62年7月4日、「ゆり2号b」を使ったBS1が、独自編成による24時間放送を開始しました。海外のニュースやスポーツ中継、高音質を活かした音楽番組など、地上波とはひと味違うラインナップ。深夜だろうが早朝だろうが、チャンネルを合わせれば必ず何かが映っている。「テレビは深夜に眠るもの」という常識が、この日、静かに書き換えられたのです。 視聴者の反響も大きく、問い合わせが殺到したといいます。地球の裏側のニュースが、リアルタイムで、しかも真夜中でも見られる。今の感覚では当たり前でも、当時としてはまさに「未来」そのものだったのでしょう。 18歳の夏、パラボラアンテナは遠い存在だった 昭和62年7月。私は高校3年生、18歳の夏でした。 思えば昭和62年という年は、時代が大きく動いた年でもありました。4月には国鉄が分割民営化されてJRが誕生。世の中はバブル景気へと向かい、街全体がどこか浮き足立っていた──そんな時代です。テレビの世界で「世界初の24時間放送」が始まったのも、日本中が「もっと便利に、もっと豊かに」と前のめりになっていた、あの時代の空気と無縁ではなかったのかもしれません。 そんな中、私はといえば、テレビどころではありませんでした。まさに夏の甲子園大会を目指して、高校野球部最後の夏を迎えていたのです。7月といえば、地方大会の真っ只中。頭の中はテレビの中の世界ではなく、目の前の白球のことでいっぱいでした。 では、「衛星放送が世界初の24時間放送を開始した」というニュースを、当時の私はどう受け止めていたのか。正直に言えば、認識はしていたものの、「そうなんだー」といった程度でした。最後の夏に打ち込む高校球児にとって、宇宙から降ってくる電波の話は、あまりにも遠い世界の出来事だったのです。 無理もありません。衛星放送は「見ようと思えば見られるもの」ではなく、「見られる家が限られているもの」だったからです。 というのも、衛星放送を見るには専用のパラボラアンテナとチューナーが必要で、決して安い買い物ではなかったからです。 そして我が家には、とうとうパラボラアンテナが付くことはありませんでした。そのため、屋根やベランダに大きなパラボラアンテナが取り付けられている友達や近所の家を見るたびに、「いいなあ、衛星放送が見られるんだ」と、少し羨ましい気持ちになったものです。 当時のパラボラアンテナは、どこか最先端の象徴のようにも見えました。あの白いお椀型のアンテナが空を向いている姿を見上げては、「あの家では特別な番組が映るんだろうな」と、子ども心に想像を膨らませていたのです。 その後、衛星放送は平成元年(1989年)に本放送へ移行し、平成3年(1991年)には民間初の有料放送WOWOWも開局。大リーグ中継や海外サッカーなど、「BSでしか見られないもの」が増えるにつれて、パラボラアンテナは徐々に、憧れの対象から当たり前の風景へと変わっていきました。あの日、昭和62年7月4日に始まった24時間放送は、その長い普及の道のりの、記念すべき一歩だったのです。 テレビが眠らなくなって、失ったもの あれから約40年。実は現在、我が家には地上波デジタル放送を視聴できるテレビがありません。その代わりに大画面の液晶モニターがあり、YouTubeやNetflixなどの動画配信サービスを楽しんでいます。 子どもたちにとっての「テレビ」は、放送を待って見るものではなく、見たいものを見たい時に、いつでも気軽に楽しめる存在です。私が子どもの頃とは、本当に隔世の感があります。 当時は、見たい番組があれば放送時間までにブラウン管テレビの前に座っていなければ、見ることができませんでした。「見逃したら終わり」が当たり前の時代だったのです。 だからこそ、毎週決まった時間を楽しみに待つワクワク感や、家族みんなで同じ番組を見て笑ったり驚いたりした時間は、とても貴重な思い出として心に残っています。 そして、ときどき思うのです。「放送終了」があった時代のテレビには、一日の「区切り」があったなあ、と。君が代が流れて砂嵐になれば、「ああ、もう寝なきゃ」と観念する。テレビが眠るから、人間も眠る。そんな、のんびりした夜の秩序が、確かにあったのです。 昭和62年7月4日にテレビが眠らなくなり、平成にはインターネットが眠らなくなり、令和の今、私たちのポケットの中では、世界中の映像が休みなく流れ続けています。あの日パラボラアンテナを羨ましく見上げていた少年は、まさか40年後、アンテナすらない家で、指先ひとつで世界中の映像を呼び出す暮らしをしているとは、想像もしていませんでした。 テレビが眠らなくなった日──それは、私たちの夜が少しずつ長くなっていく、その始まりの日だったのかもしれません。 みなさんは、深夜の「砂嵐」を覚えていますか? 夜更かしの果てに、君が代と放送終了に立ち会ってしまった夜はありましたか? テレビに「終わり」があった時代のことを、よかったらコメントで教えてください。 砂嵐、君が代、テスト画面、そして「あの番組はどうやって生まれたのか」──。テレビが暮らしの真ん中にあった昭和のテレビ史を、制作の裏話とともに掘り起こした一冊があります。あの頃ブラウン管の前に座っていた世代には、ページをめくるたびに「あった、あった」と声が出るはずです。 発掘テレビ秘話 昭和編加藤義彦/彩流社。昭和のテレビ番組の舞台裏を掘り起こす、同世代にはたまらない一冊 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月3日】元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏 | 次の記事:【7月5日】センターコートに立った日本人、沢松和子のウィンブルドン制覇 ▶

July 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月3日──元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏

オロナミンCの日、その語呂合わせ 7月3日は「オロナミンCの日」なのだそうです。「オロナ(7)ミ(3)ンC」という、なんとも昭和らしい語呂合わせから、製造元の大塚製薬株式会社が制定した記念日とのこと。累計販売本数が300億本を突破したことを記念して定められたと聞けば、あの独特な甘さと炭酸の刺激が、いかに多くの日本人の記憶に染みついているかがわかります。 私が子供の頃には、すでに「あって当たり前」の飲み物でした。しかし調べてみると、オロナミンCの誕生は1965年(昭和40年)2月。私が生まれる4年前のことです。ちょうど高度経済成長のまっただ中、東京オリンピックの興奮も冷めやらぬ頃に、大正製薬の「リポビタンD」に対抗する形で世に送り出された商品だったそうです。 首都高速道路や東海道新幹線が開通し、日本中が「もっと速く、もっと元気に」と前のめりになっていた時代。そんな空気の中で「元気ハツラツ」を掲げる栄養ドリンクが生まれたのは、ある意味で必然だったのかもしれません。私が物心つく頃には、そうした高度成長の熱気はすでに一段落していましたが、オロナミンCという商品だけは、変わらぬ姿で駄菓子屋の片隅に鎮座していました。 「オロナ」+「ミンC」、名前の由来 オロナミンCという名前、実は大塚製薬の看板商品だった皮膚薬「オロナイン軟膏」の「オロナ」と、「ビタミンC」の「ミンC」を組み合わせたものだと知って、思わず膝を打ちました。子供の頃はそんなことを考えたこともなく、ただ「元気の出る飲み物」として棚に並んでいたわけですが、企業としては薬品のブランド力をうまく橋渡ししていたのですね。 発売当初、炭酸を含んでいることを理由に医薬品としては認められなかったそうです。当時の感覚では少々残念な判断にも思えますが、これが結果的に薬局以外の場所――駄菓子屋や商店、自動販売機――でも自由に売られる清涼飲料水としての普及を後押ししたというのですから、世の中は分からないものです。ライバルであった大正製薬の「リポビタンD」が医薬品として薬局を中心に売られていたのとは対照的に、オロナミンCは子供の生活圏である駄菓子屋にまで入り込んでくることができた。この違いが、私たち昭和の子供世代の記憶に、オロナミンCがより身近な存在として刻まれた理由のひとつかもしれません。 大村崑さんと、ホーロー看板の記憶 オロナミンCといえば、まず思い浮かぶのが大村崑さんの顔です。「うれしいとねぇ、めがねが落ちるんですよ!」という白黒テレビCMから始まり、やがて「元気ハツラツ!」の掛け声とともに、昭和40年代の茶の間にすっかり定着していきました。大村さんは発売当初からおよそ10年もの間CMに出演し続け、1970年の大阪万博の際には、気球に乗って「オロナミンCを飲んで万国博へ行こう!」と呼びかけるCMまで作られたというから驚きです。それだけ長く同じ顔が茶の間に映り続けたということは、それだけ多くの子供たちの記憶に、あの笑顔が刻み込まれたということでもあるのでしょう。 そういえば、家族それぞれが自分好みにオロナミンCをアレンジして飲む、という趣向のCMもあったように記憶しています。ミルクを入れて「オロナミンセーキ」にしたり、大人はウイスキーやジンを垂らしたり。中には、ほぐした卵黄を溶き入れて飲むという飲み方まであったような気がします。私自身は試したことがないのですが、本当だとしたら、今の感覚ではちょっと驚きの組み合わせです。当時の栄養ドリンクには、こうして「混ぜて自分流にする」という遊び心の文化があったのかもしれません。 そして忘れてはならないのが、街角のあちこちに掲げられていたホーロー看板です。大村崑さんの笑顔と一緒に、当時大塚製薬がスポンサーだった『黄金バット』『巨人の星』『天才バカボン』、あるいは『アタックNo.1』といった人気番組のキャラクターが隅に描かれた看板が、全国津々浦々の商店の壁に貼られていたそうです。 私の記憶でも、看板は本当にあちこちにありました。駄菓子屋やたばこ屋の軒先はもちろん、当時はまだ木製の電柱もあちこちに残っていて、そこにも貼られていたのを覚えています。学校への行き帰り、あるいは近所を自転車で走り回っているときに、ふと視界の端に大村崑さんの笑顔が飛び込んでくる。特に意識して見ていたわけではないのに、気がつけばあの独特な看板のデザインは、しっかりと記憶に焼き付いていました。 看板の中には『巨人の星』の星飛雄馬が隅に描かれたバージョンもあったそうで、後から知って「あの頃見ていたのは、もしかしたらそれだったのかもしれない」と、記憶を重ね合わせています。ただ、小学校低学年の頃はテレビCMや看板で目にするばかりで、実際に飲むことはありませんでした。オロナミンCはどこか「大人の飲み物」のような感じがしましたし、瓶もコーラよりひと回り小さかったので、駄菓子屋で選ぶ時にはつい大きいほうのコーラに手が伸びてしまう。子供心にも、量で選んでいたのかもしれません。今思えば、あの小さな瓶には大人の世界への憧れのようなものが詰まっていたのかもしれませんが、当時の私にはただ「ちょっと背伸びした飲み物」に見えていただけでした。 「小さな巨人」と、我が家の応援歌 私にとって特に感慨深いのは、1976年(昭和51年)からおよそ四半世紀にわたって、オロナミンCが読売ジャイアンツとタイアップしていたという事実です。CMの最後には「オロナミンCは小さな巨人です!」というフレーズが使われ、昭和58年頃までは大村崑さんが、それ以降は中畑清選手をはじめとする巨人軍の選手たちがこの台詞を口にしていたといいます。「Cパワーが、Gパワーになる」というキャッチコピーも使われていたそうで、ビタミンCの力が読売ジャイアンツ(G)の力になる、というダジャレのような発想も、なんとも昭和らしい大らかさを感じます。 私が物心つく頃には、すでにジャイアンツファンとしてラジオにかじりついていた身です(先日この欄でも書きましたが、夜のナイター中継を追いかける少年でした)。テレビでもラジオでも、巨人戦の合間に流れてくるオロナミンCのCMは、応援と一体になった風景の一部でした。看板やCMで繰り返し目にしていたあの飲み物が、まさか自分にとって「特別な一本」になるとは、当時は思ってもみませんでした。 小学5年生の夏、初めての一本 初めてオロナミンCを飲んだのは、小学5年生の夏休みのことでした。パートに出ていた母が、職場で6本入りパックをいただいてきたのです。長らく看板とCMの中だけの存在だったオロナミンCが、ついに我が家の食卓に並んだ瞬間、何とも言えぬ喜びがこみ上げてきました。それまで幾度となく看板やテレビの向こうに見ていた、あの小さな瓶が、今まさに自分の手の中にある――そう思うと、栓を抜く前から胸が高鳴っていたのを覚えています。「これがジャイアンツの選手たちが飲んでたやつかー」――そう思いながら王冠の栓を抜いて口に運んだ、あの瞬間は今でも鮮明に覚えています。 味は想像していたよりもずっと不思議なものでした。すっぱくて、シュワシュワしていて、どこか薬っぽい感じもする。そして何より驚いたのは、飲んだ後のオシッコが真っ黄色になっていたことです(笑)。ビタミンB2の色だと知ったのはずっと後のことで、当時は「これはとんでもない飲み物なんだ」と、変な意味で衝撃を受けたのを覚えています。 後になって知ったのですが、これは私だけの体験ではなく、当時オロナミンCやリポビタンDといったビタミン飲料を飲んだ子供たちの多くが同じように驚いていたのだそうです。今なら「ああ、ビタミンB2ね」と笑って済ませられますが、あの頃は誰も教えてくれない、ちょっとした発見でした。テレビの向こうの大村崑さんも巨人軍の選手たちも、まさか子供たちがこんなところで盛り上がっているとは思ってもいなかったでしょう。 今も変わらぬ「元気ハツラツ」 あれから半世紀近くが経ち、オロナミンCは今も店頭に並び続けています。CMキャラクターは時代とともに移り変わり、令和の今では仮面ライダーとタイアップするなど、姿を変えながらも生き続けている。あの木製の電柱も、駄菓子屋の軒先も、今の街並みからはほとんど姿を消してしまいましたが、瓶のデザインや「元気ハツラツ」という言葉だけは、驚くほど当時のまま残っています。 私も令和の今、たまにオロナミンCを手に取ることがありますが、そのたびに、あの小学5年生の夏休みの記憶がよみがえってきます。母が職場からもらってきた6本入りパック、初めて栓を抜いた時の高鳴り、そして誰にも教わらなかった「発見」の驚き。変わらないのは、あの甘酸っぱい味と炭酸の刺激、そして子供の頃の胸の高鳴りなのかもしれません。 皆さんは、オロナミンCにまつわる思い出はありますか。あの看板を、あのCMを、あの味を、今も覚えていらっしゃいますか。 暑さが本番を迎えるこの季節。あの「元気ハツラツ」を、久しぶりに一本いかがでしょう。半世紀変わらないあの味は、飲んだ瞬間、あなたを子どもの頃のあの夏へ連れ戻してくれるはずです。箱で冷やしておけば、夏バテ気味の毎日の、ささやかな相棒になります。 大塚製薬 オロナミンC ドリンク 120ml×50本1965年から変わらない「元気ハツラツ」。冷蔵庫にストックしておきたい、夏の定番の一本 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月2日】手作りの翼が、琵琶湖に落ちていった夏 | 次の記事:【7月4日】テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送 ▶

July 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月2日──手作りの翼が、琵琶湖に落ちていった夏

今日は7月2日。梅雨明けが近づき、空がだんだんと夏の色になってくるころです。 夏が来ると、決まって思い出すテレビ番組があります。手作りの飛行機に乗った人が、高い台の上から琵琶湖へ向かって飛び出していく、あの番組です。たいていの機体は、翼をバタバタさせながら、あっという間に水面へ落ちていきました。それでも私は、画面にかじりついて見ていたものです。 鳥人間コンテスト。 その記念すべき第1回が開かれたのが、昭和52年(1977年)の今日、7月2日のことでした。当時の私は八歳、小学二年生。とはいえ、正直に申し上げると、この「第1回」をリアルタイムで見た記憶は、私にはありません。なぜそう言い切れるのか。それには、ちゃんとした理由があるのです。 それは『びっくり日本新記録』の一企画から始まった 鳥人間コンテストは、最初から独立した大きな番組だったわけではありません。 第1回が開かれたのは、滋賀県近江八幡市の宮ヶ浜水泳場。読売テレビが主催したこの大会は、もともと『びっくり日本新記録』という人気番組の中の、いち企画として始まりました。一般から募った参加者が、風変わりな競技で日本一を競う。そんな視聴者参加型のバラエティ番組の一コーナーだったのです。 そう、あの『びっくり日本新記録』です。チャレンジボーイの轟二郎さんが、本名の三浦康一で毎回さまざまな競技に体当たりしていた、あの番組です。「逆立ち相撲」で日本一になったこともありましたね。私は毎回、轟二郎さんのチャレンジを楽しみに見ていたものです(笑)。もっとも、その轟二郎さんが鳥人間コンテストに出場していたかどうかは、残念ながら私の記憶には残っていません。 番組のお手本になったのは、イギリスで昭和46年(1971年)に始まった「バードマン・ラリー」という催しでした。人力だけで飛ぶ飛行機を自作して飛距離を競うという、当時の日本人にはなんとも突拍子もないアイデアです。ところが、いざ始めてみるとこれがすごかった。第1回優勝機の記録は82.44メートル。当時の世界記録が48メートルだったのですから、いきなり大きく塗り替えてしまったわけです。しかもこの優勝機を設計したのは、本職の航空機技術者でした。素朴な遊び心の裏に、本気の技術が隠れていたのです。 第1回が放送されたのは、この『びっくり日本新記録』の中だけ。単独の番組として独立するのは、翌昭和53年(1978年)の第2回からでした。つまり第1回はまだ小さな企画にすぎず、八歳の私の記憶に残っていないのも、無理はなかったのです。 扇風機とスイカと、わが家の夏の風物詩 私が鳥人間コンテストを夢中で見るようになったのは、それが「夏の風物詩」として定着してからのことです。 夏休みの昼下がりか夕方になると、居間のブラウン管テレビの前には、自然と家族が集まっていました。エアコンはまだ家になく、扇風機が首を振りながら「ブーン」と音を立てて回っている。窓は網戸にして開け放ち、外からはセミの大合唱。冷えた麦茶やスイカを食べながら見る鳥人間コンテストは、わが家の夏の風物詩でした。 番組が始まると、琵琶湖に組まれた高いスタート台が映ります。その高さを見るだけで、「あんなところから飛ぶなんて怖くないのかな」と胸がドキドキしたものです。 母は「危ないねえ」と言いながらも、いつの間にか手を止めて見入っている。私は「飛べ! 飛べ!」と大騒ぎ。家族みんなが同じ場面で声を上げる、そんな時間でした。 機体が飛び立つと、「おーっ!」と歓声が上がる。遠くまで飛べば拍手、すぐ湖へ落ちても「惜しかったなあ」と残念がる。誰かを笑うというより、「よく挑戦したね」という気持ちで見ていたように思います。 翼の形ひとつで、飛び方が変わる 大学生や会社のチームが、何か月もかけて飛行機を作ったと紹介されると、「すごいなあ。こんなのを自分たちで作れるんだ」と感心しました。 理科の勉強は好きでも嫌いでもありませんでしたが、翼の形やプロペラの工夫で飛距離が変わることには、不思議な魅力を感じていました。同じように台から飛び出しても、ある機体はふわりと伸びていき、ある機体はストンと落ちてしまう。その違いがどこから来るのか、子どもながらに面白かったのです。 番組を観た翌日には、家の前や近所の空き地で紙飛行機を飛ばして遊びました。「昨日の飛行機みたいに飛ばないかな」と、折り方を変えたり、羽の角度を少し曲げたりして夢中になったものです。たった一枚の紙なのに、友達と「今のはすごく飛んだ!」と競い合う時間が、本当に楽しかった。あれはきっと、テレビで見た鳥人間たちの、ささやかな真似ごとだったのでしょう。 落ちても、また挑む 今になって思うのですが、あの番組の魅力は、実は「飛ぶこと」だけではなかった気がします。 初期の鳥人間コンテストは、ルールがほとんど決まっていませんでした。だから、本気で記録を狙う真剣な機体もあれば、明らかに飛ぶ気のない、鳥の着ぐるみを着て琵琶湖にダイブするだけの参加者もいたのです。真面目に挑む人と、笑わせにきている人。その両方が同じ台の上から飛び出していく、あの自由なごちゃ混ぜ感がありました。 それでも、飛び込んでいく人たちを見ていると、どこか胸が熱くなったものです。ギリシャ神話のイカロスも、蝋でかためた翼で空を目指しました。日本にも、ライト兄弟より前に飛行原理を考えたとされる二宮忠八という人がいたと伝わります。形は違えど、鳥人間たちも同じ夢を追っていたのでしょう。 そして、誰かが空を飛ぼうと本気で挑戦する姿を見ていると、自分まで何かに挑戦したくなる。記録の数字よりも、「よし、やってみよう」という気持ちのほうが、私の心には残りました。 半世紀かけて、翼は琵琶湖を渡った おふざけ半分に見えた大会も、年を追うごとに本格的になっていきました。 大きな転機は昭和60年(1985年)。人の脚力でプロペラを回して飛ぶ「人力プロペラ機」が登場し、記録が一気に290メートル台まで伸びたのです。翌年には滑空機部門と人力プロペラ機部門が分けられ、競技としての性格が一段とはっきりしてきました。 そしてついに平成に入ると、琵琶湖そのものを横断してしまう機体まで現れます。第1回の世界記録が48メートルだったことを思えば、まさに桁違いの進化です。令和の今では、最高記録は往復コースで70キロ近くにまで達しているといいます。あのころ数十メートルで水面に落ちていた手作りの翼が、半世紀かけて、本当に湖を渡る翼になったのです。 それでも、番組の根っこにあるものは変わっていないように思います。手作りの飛行機で、自分の力で、空を飛ぶ。その一点だけは、昭和52年のあの日からずっと同じなのです。 おわりに 昭和のテレビには、家族みんなが同じ番組を見て、笑ったり驚いたりする力がありました。鳥人間コンテストも、その一つだったと思います。 今でも夏になって鳥人間コンテストの映像を見ると、いろいろなものが一緒によみがえってきます。扇風機の風、麦茶の入ったガラスのコップ、スイカの甘い香り、家族の笑い声。そして、あの少し丸みを帯びたブラウン管テレビの画面まで。 あの頃の夏は、テレビが家族を一つの部屋に集めてくれる、特別な存在でした。そして鳥人間コンテストは、子どもだった私に「人は本気になれば空だって目指せるんだ」と、夢を見せてくれた番組だったのです。 今年の夏も、誰かが琵琶湖の上で、空へ飛び出していくのでしょう。落ちるかもしれない。でも、飛ぶかもしれない。その一瞬のために台に立つ人たちに、あのころと同じ気持ちで、声援を送りたいと思います。 みなさんは、鳥人間コンテストにどんな思い出がありますか。 ところで、あの夏の翌日に夢中で飛ばした紙飛行機。あれは今の子どもたち――孫の世代にも、ちゃんと通じる遊びです。折り方ひとつで驚くほど飛ぶ名作が集まった一冊があれば、この夏、親子で、あるいはおじいちゃんと孫で、ちょっとした「鳥人間コンテスト」が開けます。 親子であそぶ折り紙ヒコーキ かんたんに折れて よく飛ぶ名作・13機日本折り紙ヒコーキ協会・戸田拓夫/かんたんに折れて、本当によく飛ぶ。夏休みの親子・孫との時間に Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月1日】変わり続けた箱と、変わらない一本 | 次の記事:【7月3日】元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏 ▶ ...

July 2, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月1日──変わり続けた箱と、変わらない一本

今日は7月1日。本格的な夏が、すぐそこまで来ています。 この日は、昭和生まれの二つの「もの」が、今も私たちのそばで生きている記念日でもあります。一つは、世界の音楽の聴き方を変えてしまった小さな箱。もう一つは、半世紀ものあいだ、頑として姿を変えなかった一本のアイス。 1979年(昭和54年)7月1日、ソニーが初代ウォークマン「TPS-L2」を発売しました。そして7月1日は、「井村屋あずきバーの日」でもあります。 奇しくも同じ日に重なった、この二つ。片方は時代に合わせて何度も生まれ変わりながら、もう片方は何ひとつ変えないまま、令和の今日まで生き延びてきました。今日はこの二つの「生き残り方」の話を、私の昭和の記憶とともに書いてみたいと思います。 「再生専用機なんて売れない」──その反対を押し切って ウォークマンが生まれたきっかけは、ソニーの創業者の一人・井深大さんの、ちょっとした「わがまま」でした。 井深さんは出張のたびに、当時のソニー製の小型テープレコーダー「TC-D5」(通称カセットデンスケ)を担いで、飛行機の中で音楽を聴いていました。けれどこれが、約1.7キロもある代物。重くてかなわない。そこで「すでにある小型テープレコーダー『プレスマン』から録音機能を外して、再生だけでいいからステレオで聴けるものを作ってくれ」と注文を出します。 ところが社内の反応は冷ややかでした。「録音機は売れる。でも、再生しかできない機械なんて、いったい誰が買うんだ」。当時の常識では、録音できないテーププレーヤーなど、商品として考えられなかったのです。その反対を押し切ったのが、もう一人の創業者・盛田昭夫さんでした。 こうして1979年7月1日、初代ウォークマン「TPS-L2」が世に出ます。標準価格は33,000円。本体の色は、若者のブルージーンズをイメージしたメタリックブルー。ヘッドホン端子が二つ付いていて、友達や恋人と同じ音楽を分け合える。発売当初は新聞も雑誌もさほど大きく扱いませんでしたが、ヘッドホンで音楽を持ち歩く若者たちの口コミから火がつき、やがて日本中へ、そして世界へと広がっていきました。 「ウォークマン」という言葉は、のちに『広辞苑』や『オックスフォード英語辞典』にも載るほど、携帯音楽プレーヤーそのものの代名詞になっていきます。家の中で「聴く」ものだった音楽が、外へ「持ち出す」ものになった──ウォークマンの登場は、昭和の「音」の歴史の、大きな曲がり角でした。 十歳の私の相棒は、ラジオだった ここで正直に告白します。1979年、ウォークマンが世に出たとき、私は小学校四年生、十歳でした。けれど当時の私は、ウォークマンという存在をまったく知りませんでした。 先日この欄でも書きましたが、あの頃の私の相棒は、一台の携帯ラジオだったのです。布団にもぐってナイターに耳を澄ませ、好きな番組に周波数を合わせる。音楽を「持ち歩く」なんて発想は、十歳の私の世界には、まだどこにもありませんでした。 私がウォークマンをはっきり意識したのは、それからずっとあと、高校に入学してからのことでした。 高校生の私と、アイワの「ウォークマン」 高校生になると、まわりの友達が次々とヘッドホンで音楽を聴くようになっていました。電車やバスの中でヘッドホンをしている姿は、昭和60年前後にはすっかりおなじみの光景です。私もどうしても欲しくなって、親に頼みました。 ただ──実際に買ってもらったのは、ソニーのウォークマンではありませんでした。少しだけ値段の安かった、アイワの携帯カセットプレーヤーだったのです。 本当はウォークマンが欲しかった。でも、子どもながらに、少しでも家計の負担を軽くしたくて、つい親に遠慮してしまったんですね。今思えば微笑ましい見栄ですが、当時の私には精いっぱいの気づかいでした。 もっとも、当時はその手の携帯カセットプレーヤーを、メーカーがどこであろうと、みんなまとめて「ウォークマン」と呼んでいました。だから私のアイワも、私にとっては立派な「ウォークマン」。先ほどの『広辞苑』の話ではありませんが、商品名が一つの時代の合言葉になっていた、よき時代でした。 一本のテープに、時間ごと詰め込んで あの頃、音楽を聴くというのは、今よりずっと手間のかかる、けれど豊かな道のりでした。私の場合、その流れはだいたいこんな具合です。 まず、家にはミニコンポがありました。レコードプレーヤー、アンプ、カセットデッキが一体になった、あの憧れの一式です。金曜日にレコード店で新譜を買ってきては、歌詞カードを眺めながら、まず家でレコードをじっくりと聴く。 次に、そのレコードをカセットテープへダビングします。TDK、maxell、AXIA、ソニー──60分や90分のテープを用意して、レコードからカセットデッキへ録音していく。A面とB面それぞれの収録時間を計算しながら曲順を考えるのも、楽しみの一つでした。曲と曲のあいだは一時停止(PAUSE)ボタンを駆使して、余計な無音が入らないように録る。今でいうプレイリスト作り、いや、それ以上に手のかかる作業です。 そうして仕上げた一本を、翌朝プレーヤーに入れて持ち出す。私は通学のとき、イヤホンを耳に差し込んで自転車を走らせていました。 こうして誰もが、自分だけの「マイベストテープ」を作っていました。お気に入りの曲だけを集めた、いわば「俺のベスト」です。私のまわりでよく顔をそろえていたのは、サザンオールスターズ、中森明菜、チェッカーズ、そして松田聖子。一本のテープが、その人の音楽の好みをそのまま映す名刺のようなものでした。 テープ選びにもこだわりがありました。一番普及していたノーマル(TYPE I)、高音がきれいで人気だったクローム(TYPE II)、最高音質だけれど値の張ったメタル(TYPE IV)。高校生のお小遣いでメタルはなかなか手が出ませんが、少し奮発してクロームを買った友達が「やっぱり音がいい!」と得意げにしていたのを、今でも笑って思い出します。 そして、カセットならではの「あるある」も数えきれません。電池が切れかかると、再生の音程がだんだん下がってきて、「そろそろ電池交換だな」と気づく。早送りと巻き戻しを繰り返すうちにテープが伸びたり、デッキの中で絡まったり。引き出してしまったテープを、鉛筆をリール穴に差し込んでカリカリと手で巻き直す──あの作業は、昭和のカセット世代に共通の思い出ではないでしょうか。 あずきバー──「変わらない」を選んだ一本 さて、ここで7月1日のもう一つの主役、井村屋の「あずきバー」に触れておきましょう。 あずきバーが生まれたのは1973年(昭和48年)。アイス市場が大手乳業メーカーの牙城だった当時、和菓子屋の井村屋はなかなか食い込めずにいました。頭を抱える開発担当者に、初代社長の井村二郎さんが言ったそうです。「うちには、あずきがあるやろ」。 その一言から、「ぜんざいをそのまま凍らせる」という発想で生まれたのが、あずきバーでした。1本30円。あずき、砂糖、水あめ、塩──たった四つの材料だけで、乳製品も添加物も使わない。だからこそ、あの歯が立たないほどの硬さが生まれました。のちに「世界一硬いアイス」とまで呼ばれるあの食感は、ごまかしのきかない素材へのこだわりの、裏返しでもあったのです。 私が四歳のときに世に出たあずきバーは、私が大人になっても、こうして年を重ねた今も、まったく同じ顔をして冷凍ケースに並んでいます。半世紀ものあいだ、ほとんど何ひとつ変えずに。 令和の今、二つの昭和を並べてみる 面白いのは、この二つの「昭和生まれ」が、まったく逆の生き方で令和まで生き残ったことです。 ウォークマンは、変わり続けることで生き残りました。カセットから始まり、CD、MD、メモリースティック……と、時代の記録媒体が変わるたびに姿を変え、カセット式は2010年にひっそりと国内販売を終えました。それでも「ウォークマン」という名前は、今もソニーのポータブルプレーヤーとして、ハイレゾ音源を聴ける最新機種にまで受け継がれています。中身を何度も入れ替えながら、名前と「音楽を持ち歩く」という志だけは、捨てなかったのです。 いっぽうのあずきバーは、変わらないことで生き残りました。材料は今もあの四つだけ。あの硬さも変わらない(むしろ昔より硬くなった、とも言われます)。そして2021年度には、年間の販売本数が3億本を突破しました。何も変えなかったからこそ、世代を超えて愛され続けている。 進化することで生き延びたウォークマン。変わらないことで生き延びたあずきバー。正反対の二つが、奇しくも同じ7月1日を記念日に持ち、令和の今日も、私たちのすぐそばにいます。 今はスマートフォン一台で、何千万曲でもすぐに聴ける時代です。便利になったものだと、心から思います。けれど、あの頃の私たちには、自分で時間をかけて作り上げた一本のカセットテープに、特別な愛着がありました。あれは、音楽そのものだけでなく、そのテープを編んだ時間も、買いに行った金曜日の高揚も、自転車を漕いだ通学路の風景も──ぜんぶ一緒に持ち歩いていた時代だったのだと思います。 現役のバス運転士として毎日ハンドルを握る私の、すぐ手の届くところにも、この二つはまだ生きています。コンビニの冷凍ケースに並ぶあずきバー。そして、形を変えながらも鳴り続けるウォークマンの遺伝子。 変わることで生き残るもの。変わらないことで生き残るもの。あなたの暮らしのそばにも、昭和生まれのまま、今も静かに生き続けている「もの」が、ありませんか。 そして今日、7月1日。半世紀、何ひとつ変えなかったあの一本を、久しぶりに齧ってみるのはいかがでしょう。あの歯が立たないほどの硬さも、ほろりと崩れるあずきの素朴な甘さも、子どもの頃のあの夏と、まったく同じ味のままです。 井村屋 BOXあずきバー 6本入あずき・砂糖・水あめ・塩だけ。1973年から変わらない“世界一硬いアイス”。箱でストックしておきたい夏の定番 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月30日──布団の中の、小さな実況中継

今日は6月30日。一年のちょうど真ん中、折り返しの日です。梅雨の重たい雲の下、それでも夏がもうそこまで来ているのを、肌のどこかで感じはじめる頃です。 この日は「トランジスタの日」でもあります。1948年(昭和23年)6月30日、アメリカのベル研究所で、三人の物理学者が生み出した小さな小さな部品が、はじめて世の中に公開されました。トランジスタです。 理科の授業に出てきそうな、なんだか難しい話に聞こえるかもしれません。けれども、この豆粒のような部品こそが、やがて昭和の子どもの手のひらに、ひとつの宝物を届けてくれることになります。トランジスタラジオです。 トランジスタという、小さな魔法 トランジスタが発明されるまで、ラジオの心臓部には「真空管」という、ガラスでできた電球のような部品が使われていました。だからラジオは大きくて、重くて、電源を入れてもすぐには鳴らず、温まるのをしばらく待たなければなりませんでした。茶の間にどっしりと置かれ、家族みんなで囲むもの。ラジオは「家具」だったのです。 ところがトランジスタは、爪の先ほどの大きさで、電気も食わず、衝撃にも強い。この小さな部品が真空管に取って代わったとき、ラジオは劇的に小さくなりました。 世界で最初のトランジスタラジオは、1954年にアメリカのリージェンシー社が発売しました。世界初の栄冠こそ譲りましたが、その翌年、日本でも快挙が起こります。1955年(昭和30年)、東京通信工業——のちのソニーが、「SONY」の名を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を世に送り出したのです。 当時の東京通信工業は、社員数が三百人にも満たない、まだ無名の小さな会社でした。井深大(いぶか・まさる)と盛田昭夫(もりた・あきお)という二人の創業者が、「自分たちの手でトランジスタを作り、それでラジオをこしらえる」という、無謀とも言われた目標に、まさに社運を賭けて挑んだのです。トランジスタでラジオを作るなど不可能だ——そんな声を一つひとつはねのけ、彼らは小さな箱の中に、新しい時代を詰め込みました。 さらに1957年(昭和32年)、ソニーは当時世界最小の「TR-63」を完成させます。「ポケッタブルラジオ」というキャッチコピーで売り出されたこの一台は、サラリーマンの月給ほどもする高級品でしたが、アメリカで飛ぶように売れ、「SONY」の名を世界中に知らしめました。やがてこの会社が、ウォークマンを生み、世界を代表する電機メーカーへと駆け上がっていくのですが、その出発点に、手のひらにのる一台のラジオがあったというのは、なんだか胸が熱くなる話ではありませんか。 このとき、ラジオの意味そのものが変わりました。家族でひとつを囲む「家具」から、一人ひとりが、聴きたいときに、聴きたい場所で耳を傾ける「自分だけの道具」へ。「トランジスタグラマー」なんて流行語まで生まれたほど、トランジスタは時代の合言葉になっていきました。 私が生まれる二十年以上も前の話です。けれども、この小さな魔法が、のちに私の少年時代の夜を、こっそりと彩ってくれることになるのです。 布団の中の、小さな実況中継 トランジスタラジオと聞いて、私の胸に最初に浮かんでくるのは、やっぱり野球のことです。 私の手にトランジスタラジオがやってきたのは、小学校三年生、九歳の誕生日プレゼントとしてでした。昭和53年(1978年)のことです。子どもの頃から無類の巨人ファンだった私にとって、これほどうれしい贈り物はありませんでした。 というのも、当時のテレビのナイター中継は、試合の終盤になると放送時間が来て、ぷつりと終わってしまうことがしょっちゅうあったのです。いちばんいいところで、画面がほかの番組に変わってしまう。あの悔しさといったらありませんでした。そんなとき、毎回活躍してくれたのが、誕生日にもらったこの小さなラジオでした。 布団に入って、そっとラジオのスイッチを入れる。イヤホンを耳に押し込む。テレビとちがって、映像はありません。それでも、ラジオから聞こえてくるアナウンサーの実況だけで、私の頭の中には、その試合の光景がはっきりと、まるで映像のように映し出されていたのです。打球の伸びも、走者の足も、ぜんぶ見えている気がしました。 その証拠に、と言ってはなんですが、いまでも私は当時の巨人の打順をそらで言えます。1番センター柴田、2番サード高田、3番レフト張本、4番ファースト王、5番セカンドのシピン、6番ライト淡口、7番ショート河埜、8番キャッチャー吉田、9番ピッチャー堀内……(笑)。ほら、こうしてすらすら出てくる。布団の中で毎晩のように聞いていた名前は、半世紀近くたった今も、しっかりと私の体に染みついているのです。 そうしてラジオで知った試合の続きは、翌朝の学校での、またとない自慢の種でもありました。「ゆうべの試合、王さん打ったぞ」「堀内、最後まで投げきった」。テレビの中継が終わったあとの展開を知っているのは、布団の中でこっそりラジオを握りしめていた者だけ。教室でそれを得意げに話すのは、子どもなりの、ちょっとした誇りだったのです。あの頃の巨人は、私たち少年にとって、まぎれもないヒーローでした。 「聴く」から「する」へ そんなふうに、布団の中でラジオの野球にのめり込んでいた少年も、中学、高校と進むうちに、ラジオを手にする時間は少しずつ減っていきました。 理由は、いたって単純です。野球部の活動に、すっかり夢中になっていたからです。 考えてみれば、これはちょっと面白い変化でした。小学生の私は、ラジオの実況を聴きながら、見えないグラウンドを頭の中に思い描く「聴く側」の子どもでした。それが気づけば、自分自身がそのグラウンドに立ち、白球を追いかける「する側」になっていたのです。耳をすませて憧れていた世界に、いつのまにか、自分の足で踏み込んでいた。 イヤホンから流れてくる誰かの実況ではなく、自分のスパイクが土を蹴る音、バットが芯でボールをとらえる音。私にとっての夏の音は、そうやって少しずつ、入れ替わっていったのでした。 茅の輪をくぐって、もう半分 さて、6月30日に話を戻しましょう。 この日は、昔から各地の神社で「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」が行われる日でもあります。一年の前半でたまった穢れを祓い落とし、残り半年を無事に過ごせるよう願う、古くからの神事です。神社によっては、茅(ちがや)で編んだ大きな輪が境内に設えられ、人々はそれをくぐって身を清めます。「茅の輪くぐり」です。 正直に告白すると、子どもの頃の私は、こんな神事があることなど、まるで知りませんでした。6月30日が一年の折り返しだということも、半年の穢れを祓う日だということも、すっかり大人になってから知ったことばかりです。 当時の私にとっての6月30日は、ただただ「夏休みが、もうすぐそこまで来ている日」。それ以上でも、それ以下でもありませんでした。一学期の終わりが近づくこの時期の、あのそわそわとした高揚感だけは、今でもはっきりと思い出せます。 それでも、こうして大人になって暦を眺めてみると、6月30日というのは不思議な日だと思います。一年のちょうど真ん中。半分が終わって、半分が残っている。あの頃の私の心は、茅の輪のことなど露知らず、もうすっかり、ラジオから聞こえてくる夏の音のほうへ飛んでいっていたのでしょう。 おわりに あの「ポケッタブルラジオ」から数えて七十年近く。今、私たちは一人一台、手のひらにのる小さな箱を持ち歩いています。スマートフォンです。あれもまた、トランジスタという小さな部品の、はるか遠い子孫なのだと思うと、少し不思議な気持ちになります。 今では、どんな球場の試合も、手のひらの画面で映像つきで観られるようになりました。便利になったものです。けれども、あのモノラルのスピーカーから流れる実況に耳をすませ、見えないグラウンドを頭の中で必死に描いていた、あの時間。映像がないからこそ、想像することそのものが、楽しみの大きな一部だったように思うのです。アナウンサーの声色ひとつで、ホームランの大きさも、内野ゴロの惜しさも、ぜんぶ自分の頭の中でふくらませていた。あれはあれで、ぜいたくな野球の楽しみ方でした。 バスのハンドルを握る今も、私の運転席にはいつも何かの音が流れています。形は変わっても、声と一緒に時間を過ごすという習慣だけは、あの布団の中の夜から、ずっと変わっていないのかもしれません。 一年の折り返しの日。あなたにとって、あの小さなラジオから流れていたのは、どんな音でしたか。 あの頃の「手のひらの相棒」は、令和のいまも姿を変えて生き続けています。なかでも、手回しとソーラーで充電でき、いざというときスマホの充電もできる防災ラジオは、ひとつ備えておくと心強いものです。枕元のナイター中継に、そして梅雨明けから本番を迎える台風・地震への備えに。 ソニー 防災ラジオ ICF-B99(FM/AM/ワイドFM・手回し充電・ソーラー充電・スマホ充電対応)手回しと太陽光で充電でき、スマホ給電・LEDライトも。枕元にも、防災の備えにも一台 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月29日】生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって | 次の記事:【7月1日】変わり続けた箱と、変わらない一本 ▶

June 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月29日──生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって

私が生まれる、三年前の水曜日 今日は六月二十九日。振り返ってみると、この日は私にとって少し不思議な意味を持つ日でした。というのも、1966年(昭和41年)の今日、ビートルズが初めて日本の地を踏んだ日だからです。 正直に申し上げます。私はこの出来事を、自分の記憶として語ることができません。私が生まれたのは1969年の四月。ビートルズ来日は、それより三年近くも前のできごとです。つまり、その朝、日本中が沸き返っていたとき、私はまだこの世にいませんでした。 ですから今日は、いつもとは少し趣向を変えてみようと思います。「子どもの頃の記憶」ではなく、「この記事を書きながら、私自身がビートルズという存在を一から知っていく」という形で進めてみたいのです。そしてその先で、私が子ども時代に夢中になった歌い手たちと、この四人組とが、どこかでつながっているのではないか──そんな予感を、確かめてみたいと思います。 あの五日間に、日本で起きたこと 調べはじめて、まず驚いたのは、その騒ぎの途方もない大きさでした。 ドイツでの公演を終えたビートルズを乗せた飛行機が、台風の影響で予定より遅れて羽田空港に降り立ったのは、1966年6月29日の午前三時三十九分。深夜にもかかわらず、四人は日本航空のハッピをはおってタラップを降りたといいます。その日の午後には、宿泊先の東京ヒルトンホテルで記者会見。そして6月30日から7月2日までの三日間、日本武道館で計五回、一回あたり十一曲・約三十五分のコンサートが開かれ、のべ五万人を動員しました。 あとで知って意外だったのは、この1966年が、ビートルズ自身にとっても大きな曲がり角の年だったということです。彼らはこの来日の直前に名盤『リボルバー』を録り終えており、しかもこの世界ツアーが、結果的に彼らの最後のツアーになりました。観客の悲鳴で自分たちの演奏も聞こえない巡業に疲れ、「アイドル」から「アーティスト」へと脱皮していく、ちょうどその境目だったのです。日本でも分刻みのスケジュールに縛られ、日中はホテルに缶詰めだったといいます。武道館で歌われたのは、「イエスタデイ」「ペイパーバック・ライター」「デイ・トリッパー」といった曲々。その曲名を並べて眺めているだけで、あの夜の熱気が少しだけ立ちのぼってくる気がします。 ただ、すんなり実現したわけではなかったようです。武道館はもともと武道のための「神聖な殿堂」とされ、「そんな場所で不良の音楽をやらせるとは何事か」という右翼団体の反対や、「観に行ってはならない」と通達を出した学校まであったといいます。三日間のコンサートには、機動隊員を含めのべ五千五百人もの警官が配されたそうです。今の私たちの感覚では、ちょっと想像がつきません。 そしてもう一つ、私の胸に残ったのが、テレビのことでした。7月1日昼の公演を日本テレビが録画し、その日の夜に放送したところ、視聴率はなんと56.5パーセント。これは特別番組として、今なお破られていない歴代最高記録だといいます。さらに調べると、私が小学生だった1978年にも、この武道館公演はテレビで特別に再放送されていました。つまり私の子ども時代には、ビートルズはもう「歴史」であり「伝説」だったのです。 武道館という、「最初の扉」 ここで「武道館」という名前が出てきて、私は思わずハッとしました。 実はつい三日前、私はこの連載で、1976年の猪木とアリの一戦を取り上げたばかりでした。あの異種格闘技戦の舞台もまた、日本武道館だったのです。 つまり武道館は、ビートルズがロックの「聖地」に変え、その十年後には格闘技の「聖地」にもなった場所でした。後の時代に数えきれないミュージシャンが「いつかはあのステージに」と夢見る、あの大きな箱の、いちばん最初の扉を開けたのが、この四人だった──そう知ると、三日前に書いた猪木の汗と、今日のビートルズの歓声とが、同じ床の上でつながっているような気がしてきます。 そもそも武道館は、1964年の東京オリンピックの柔道会場として建てられた、当時はまだ真新しい建物でした。武道のために生まれたその場所が、わずか二年後に世界一のロックバンドを迎え入れ、やがて音楽の殿堂へと姿を変えていく。一つの建物がたどる運命というのも、ずいぶん数奇なものだなと思います。 おもしろいことに、肝心のコンサートそのものは、必ずしも絶賛ばかりではなかったようです。当時のビートルズはツアー暮らしに疲れ切っていた頃で、十一曲の歌い回しは散漫で、肩透かしを食らった熱心なファンも少なくなかった、という記録が残っています。完璧ではなかったのに、伝説になった。これもまた、猪木とアリのあの一戦とそっくりだなと、私は少しおかしくなりました。 あの客席に、若き日の“ジュリー”がいた さて、ここからが、私が本当に知りたかったことです。 ビートルズの来日は、日本の若者たちに途方もない衝撃を与えました。髪を伸ばし、仲間と楽器を持ち寄ってバンドを組む若者が次々に現れ、やがて「グループ・サウンズ(GS)」という空前のブームが、日本中を覆っていきます。長髪に、おそろいの衣装。今の私たちが思い浮かべる「昭和のバンド像」の原型は、この頃にできあがったのですね。 そのGSの頂点に立ったのが、ザ・タイガースでした。ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともに「GS御三家」と呼ばれ、人気を競い合い、テレビにも映画にも引っ張りだこになります。そして、そのザ・タイガースのボーカルこそ、のちに私が子どもの頃にテレビで見ていた沢田研二さん──ジュリーだったのです。 調べていて、思わず声が出たのはここでした。1966年のビートルズ武道館公演の客席に、まだデビュー前の沢田さんがいた、というのです。前身バンドのファンから「絶対に観た方がいい」とチケットを渡されて足を運び、そして彼は、こう漏らしたと伝えられています。「こんなものにはなれないと思った」と。 私がブラウン管の中の堂々たる「スター」として眺めていたジュリーが、その出発点では、生身のビートルズを見上げて打ちのめされていた。私が生まれる前の武道館の客席と、私の子ども時代のお茶の間とが、一本の線でつながった瞬間でした。 「騒がしいバンド」から、「路地裏の少年」へ そしてもう一人、どうしても確かめたい人がいました。桑田佳祐さんです。 少し前にこの連載で、私はサザンオールスターズのことを書きました。1978年、「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」で初めて彼らを見たとき、私は「何だ、この騒がしいバンドは!?」と面食らった──そんな思い出です。 その桑田さんが、筋金入りのビートルズ好きだということを、私は今回あらためて知りました。ご本人が「外国の文化にもろに影響を受けている」と語りつつ、「日本語の“ワビ”“サビ”の感覚を出していきたい」とも言う。憧れと、そこから日本語の歌へと向き直っていく姿勢。サザンのあの不思議な日本語の響きの奥には、確かにビートルズがいたのです。しかも桑田さんは2015年の武道館公演で、「武道館は、私が小五のとき、ビートルズが来日してライブをやった場所です」と語り、敬意を込めてビートルズの「HELP!」を歌い上げたといいます。私が生まれる前に来た四人を、桑田さんは十歳の少年として見上げていたのですね。 そして──ここからが、私自身のいちばん個人的な話になります。 数えきれない歌い手の中で、私が心の底から惚れ込んだのは、浜田省吾さんでした。出会いは、大学に入って間もない頃です。知り合ったばかりの友達の車に乗せてもらったとき、カーステレオから流れてきた一曲に、私は思わず「なんだこれ、めちゃくちゃいい!!」と身を乗り出していました。「これ、誰?」と尋ねて教えてもらったその曲は──たしか「路地裏の少年」だったと思います(笑)。浜田さんの、ソロデビュー曲でした。 あとになって、この出会い方そのものに、私はちょっと震えました。というのも、浜田さんもまた、少年の頃に友人の部屋でラジオから流れてきたビートルズに「一瞬で恋に落ちた」人だったからです。スピーカーから不意に飛び込んできた音に、頭を殴られたように夢中になる──その同じ瞬間を、私は二十年近くもあとに、友達の車の助手席で味わっていたわけです。「なんだこれ!?」という、あの胸の高鳴り。ジュリーから、桑田さんを経て、それは確かに私のところまで受け継がれていたのかもしれません。 その浜田さんもまた、武道館を「聖なる場所」と呼びます。理由を問われて、「心に残っている武道館のイメージは、ビートルズの初来日。1966年、俺は中学二年生で、十四歳だった」と語っているのです。そして彼がいちばん好きなアルバムに挙げるのは、よりによって、あの四人が来日直前に録り終えたばかりの『Revolver』だといいます。 結局のところ、私はビートルズをリアルタイムでは知りません。けれど今日、書きながら、はっきりと気づきました。私はずっと、彼らの“こだま”を聴いて育っていたのだと。テレビの中のジュリーを通して、子どもの私を驚かせたサザンを通して、そして何より、大人になった私が自分で見つけて惚れ込んだ浜田省吾さんを通して。生まれる前に鳴ったはずのあの音は、長い回り道をしながら、確かに私のところまで届いていたのです。 みなさんにとって、「自分が生まれる前のはずなのに、なぜか懐かしい曲」はありますか。 私がこの記事で何度も書いた、あの武道館の五回のステージ。その三十日と七月一日の演奏は、実は録音が残り、いまも『ライブ・アット・ブドウカン 1966』として聴くことができます。悲鳴に半ばかき消されながら、それでも確かに鳴っていた“最初の音”。記事を読んで「あの夜の音を、実際に聴いてみたい」と思った方に。 ライブ・アット・ブドウカン 1966(ザ・ビートルズ)1966年6月30日・7月1日、まさにこの記事の武道館公演を収めた実況録音盤 Amazonで見る › 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(1965〜1989年)のできごとを、当時子どもだった私の目線で振り返る連載です。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月28日】世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった | 次の記事:【6月30日】布団の中の、小さな実況中継 ▶

June 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月28日──世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった

今日は6月28日。梅雨の晴れ間に、夏の重たい空気が少しずつ混じりはじめる頃です。 カレンダーの上では何でもない一日に見えますが、この6月28日という日付は、戦後の日本が「世界の中の自分」をどう見つめてきたかを、不思議なほど映し出しています。 1979年(昭和54年)のこの日、東京で初めての先進国首脳会議――「東京サミット」が開かれました。そしてそのちょうど十年前、1969年(昭和44年)の同じ6月28日。私が生まれた年の新宿で、夜ごと若者たちが歌い、ついに機動隊と衝突した日でもありました。 赤坂に世界の宰相が集った日。新宿に名もなき若者が集った日。同じ日付の十年違いに、昭和という時代の二つの顔が見えてきます。 赤坂に集った、七人の宰相 1979年6月28日から二日間、東京・赤坂の迎賓館に、世界の主要国の首脳が集まりました。第五回先進国首脳会議、通称「東京サミット」。サミットが日本で開かれるのは、これが初めてでした。 そもそもサミットとは、先進国の首脳が一堂に会し、世界経済や国際政治の難題を膝詰めで話し合う場です。第一回は1975年、フランスのランブイエに集まったのが始まりでした。敗戦からわずか三十数年、その「先進国クラブ」の主催国に日本がなったということは、この国が名実ともに世界経済の一角を担う大国へと駆け上がった証でもありました。焼け野原から立ち上がった国が、世界の宰相をもてなす側に回る――東京サミットは、戦後日本の一つの到達点だったのです。 議長を務めたのは、日本の大平正芳首相。「アーウー宰相」とも呼ばれた、あの独特の語り口の人です。そのテーブルには、アメリカのカーター大統領、フランスのジスカール・デスタン大統領、西ドイツのシュミット首相、イタリアのアンドレオッティ首相、カナダのクラーク首相、そしてイギリスのサッチャー首相が顔をそろえました。 議題の中心は、石油でした。前年に起きたイラン革命の余波で原油の供給が激減し、世界は「第二次石油危機」のただ中にあったのです。各国は日本に石油輸入の数値目標を示すよう迫り、大平首相は「数値を出せば内閣がつぶれる」との危機感から抵抗を重ねたと、後の外交文書には残っています。最後には押し切られる形で、日本は目標値を受け入れました。 二度目の石油危機は、六年前の第一次石油危機ほどの大混乱こそ招きませんでしたが、それでも「省エネルギー」という言葉が日常に浸透し、節電や節約が盛んに呼びかけられた時代でした。 会議の前には、物騒な事件もありました。開催前の6月8日未明、迎賓館の正門めがけて無人の小型トラックが突っ込み、街路樹に衝突して炎上したのです。過激派による犯行声明が出され、東京は厳戒態勢に包まれました。 そんな大ニュースの渦中、小学四年生の私は何を見ていたのか――。 正直に申し上げます。このサミットのことを、私は今もってまるで覚えていないのです。少し前に流行った国会答弁の言葉を借りるなら、「記憶にございません」。世界の宰相が赤坂に集まろうと、大平首相が石油に頭を悩ませていようと、十歳の私の関心は、まったく別のところにありました。 「記憶にございません」──十歳の私の1979年 では、小学四年生だった私の1979年は、いったい何でできていたのか。サミットの記憶は空っぽなのに、こちらは驚くほど鮮明によみがえってきます。 まず、この年に『ドラえもん』のテレビアニメが始まりました。「どこでもドア」さえあれば、行きたい場所へひとっ跳び。「もしもボックス」があれば、どんな世界だって作り出せる。あの未来の道具たちに、私はどれほど憧れたことでしょう。 木曜の夜は、家族そろって『ザ・ベストテン』の前に陣取るのが我が家の決まりでした。1979年は本当に名曲ぞろいで、「魅せられて」「関白宣言」「ガンダーラ」「銀河鉄道999」「YOUNG MAN」「夢追い酒」……毎週のランキング発表に、家族で一喜一憂したものです。土曜の夜には『8時だョ!全員集合』、ほかにも『クイズダービー』や『欽ちゃんのどこまでやるの!』。茶の間は、いつも笑い声で満ちていました。 マンガといえば、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『ドカベン』『がきデカ』、そしてこの年に連載が始まった『キン肉マン』。少し前から続くインベーダーゲームの熱もまだ冷めず、ポケットにはスーパーカー消しゴム、店先にはガチャガチャ、友達はラジコンやBB弾の鉄砲に夢中でした。 サミットも石油危機も、まるで別世界の話。十歳の私の世界は、テレビとマンガと駄菓子屋とで、ぴかぴかに輝いていたのです。 サッチャーから高市へ──四十七年越しの縦糸 ふたたび、赤坂のテーブルに目を戻します。あの東京サミットのテーブルにいたサッチャー首相は、実はこのとき、首相になってまだ二か月足らずでした。1979年5月に就任したばかりの、イギリス史上初の女性首相。その初めての大きな国際舞台が、この東京だったのです。女性が一国の宰相を務めること自体がまだ世界的にも珍しかった時代、男性ばかりが居並ぶ首脳の中で、サッチャーの姿はひときわ目を引いたことでしょう。 それから四十七年。2026年6月、フランス東部の保養地エビアンで開かれたG7サミットに、日本の高市早苗首相が出席しました。2025年10月に就任した、日本で初めての女性総理大臣。彼女にとっても、これが初めてのG7でした。 不思議な縁を感じたのは、高市首相がサミットに先立って訪れた英国で、サッチャー元首相がかつて使っていた執務室を訪ねていたことです。報道によれば、高市首相はその仕事ぶりに思いを馳せ、自らも強い意志をもって必要な変革を成し遂げる、と語ったといいます。 1979年の東京で世界デビューを飾った女性宰相サッチャー。2026年のエビアンで、その背中に思いを重ねた日本初の女性宰相。同じ六月のサミットという舞台で、四十七年の時を越えて二人の女性指導者が結ばれている――そう思うと、少し胸が熱くなります。 そして、もう一つ繰り返されていたものがあります。石油です。1979年がイラン革命による石油危機なら、2026年はホルムズ海峡をめぐる中東情勢の緊迫。エネルギーの安定供給が、またもサミットの主要議題になりました。資源を持たないこの国は、半世紀近くたっても、同じ不安の前に立たされ続けているのです。 十年前の同じ日──昭和44年、私が生まれた年の新宿 ここで時計を、東京サミットのちょうど十年前に戻します。 1969年(昭和44年)。私が四月に、この世に生まれた年です。 当時の日本は、高度経済成長のただ中にありながら、足元では学生運動が燃え盛っていました。この年の1月には、東大の安田講堂に立てこもった学生たちが機動隊によって排除され(東大安田講堂事件)、全国の大学が紛争に揺れ、翌1970年の日米安保条約改定を見すえて、街には不穏な熱気が満ちていました。 その熱気が歌になって噴き出した場所が、新宿駅の西口でした。 1969年の春ごろから、毎週土曜の夕方になると、西口の地下広場に若者たちが集まり、ギターを手に反戦歌を歌うようになります。「ベトナムに平和を!」を掲げるベ平連の青年たちが中心でした。岡林信康の「友よ」、高田渡の「自衛隊に入ろう」をもじった「機動隊に入ろう」――歌は人を呼び、議論を呼び、最大で約七千人が地下広場を埋めたといいます。人々はそこを「反戦広場」と呼びました。 彼らが訴えたのは、ベトナム戦争への反対でした。アメリカの戦争に、日本も加担しているのではないか――そんな問いが、若者たちの口から歌になって響いたのです。決まった指導者がいるわけでも、整然とした組織があるわけでもありません。仕事帰りの勤め人や通りすがりの学生までが足を止め、見知らぬ者同士が肩を並べて声を合わせる。地下広場は、誰もが主役になれる不思議な熱気に包まれていました。 しかし、膨れあがった集会を当局は見過ごしませんでした。そして6月28日の夜、ついに機動隊と若者が衝突します。地下に催涙弾が撃ち込まれ、六十名以上が逮捕され、通りがかりの女性まで巻き添えで負傷する騒ぎとなりました。 翌日、警察は地下広場に道路交通法を適用し、案内表示はひと晩のうちに「西口広場」から「西口通路」へと書き換えられました。「広場」であれば人は立ち止まり、歌い、語り合える。けれど「通路」では、立ち止まることすら許されない。名前を変えるだけで、空間の意味が一変したのです。歌声は、七月を最後に姿を消しました。 このとき、私は生後二か月あまりの赤ん坊でした。当然、何ひとつ覚えてなどいません。けれど、私が産声をあげたその年、私の生まれた東京の街で、これほどの熱と衝突があったのだと思うと、妙に感慨深いものがあります。 思えば昭和44年という年は、高度経済成長の繁栄と、それに異を唱える若者たちの叫びとが、激しくぶつかり合った年でした。豊かさへ向かって突き進む大人たちと、その足元で「本当にこのままでいいのか」と問いを突きつける若者たち。私は、そんな時代の只中に生まれ落ちたことになります。 おわりに 世界を変えようと新宿の路上で歌った若者たちの熱は、わずか十年のうちに鎮められ、「広場」は「通路」へと姿を変えました。その同じ十年で、日本は世界の首脳を迎える経済大国へと駆け上がります。私はちょうどその十年を、赤ん坊から十歳の少年へと育ちながら生きていたわけですが、当の本人ときたら、『ドラえもん』と『ザ・ベストテン』に夢中の毎日でした。 東京サミットの議長を務めた大平正芳首相は、その約一年後、1980年(昭和55年)6月12日、首相在任のまま急逝します。日本で初めてのサミットをやり遂げた人が、一年も経たぬうちにこの世を去ったのです。 1969年、私が生まれた年の新宿では、若者が「世界を変えたい」と歌い、1979年、十歳の私の頭の中は「どこでもドア」でいっぱいで、その傍らで世界の宰相たちが石油に頭を悩ませていました。そして2026年、日本初の女性首相が、フランスでまた同じ石油の心配をしている。 6月28日という一日を手がかりにたどってみると、世界の中の日本の姿が、半世紀分つながって見えてきます。あなたが生まれた年、あなたの街では、どんなことが起きていたでしょうか。少し調べてみると、思いがけない時代の顔に出会えるかもしれません。 あの夏、新宿の地下広場で本当は何が起きていたのか。当時その場に立っていた一人の女性が、半世紀の時を経て、写真と言葉で「広場」の記憶をたどった一冊があります。歴史の教科書には数行で終わってしまう出来事の、その熱と息づかいにふれてみたい方に。 1969 新宿西口地下広場大木晴子・鈴木一誌/新宿書房。あの「反戦広場」に立っていた当事者が綴る、写真と記憶の記録 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 28, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月27日──「○○さんちの工事、止まったんだってよ」──昭和の町と「日照権」

今日は6月27日。梅雨の晴れ間に、久しぶりのお日さまが差すと、なんだかほっとする季節です。 「日当たりのいい家」「南向きの部屋」。私たちは、あたりまえのようにそう口にします。ところが、その「日当たり」が、法律で守られるべき大切なものなのだと裁判所がはじめてはっきり認めたのは、じつは、それほど昔のことではありません。 昭和47年(1972年)6月27日。最高裁判所が、「日照(にっしょう)」と「通風(つうふう)」は法律で守られるに値する生活の利益だ、という判断をくだしました。これが、6月27日が「日照権の日」と呼ばれるようになったきっかけです。 法律の話、と聞くと身がまえてしまいますが、その底にあるのは、子どもの頃に空き地で遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、ごく素朴な気持ちでした。きょうは、その「陽だまり」をめぐる昭和の話を、私の育った町の風景とともに、少し書いてみたいと思います。 「日なた」が、裁判になった ことのおこりは、東京・世田谷の、ある住宅街でした。 南隣の家が、二階部分を増築しました。ところが、その増築のせいで、北側にあったお宅には、日中の陽がほとんど差さなくなってしまったのです。風の通りも悪くなりました。しかも、その増築は建築基準法に違反したもので、東京都知事から「工事をやめなさい」「違反した部分を取りこわしなさい」という命令まで出ていたのに、それを無視して建ててしまったものでした。 陽の当たらなくなった家の人は、とうとう引っ越しを余儀なくされます。そうして、争いは裁判になりました。 最高裁判所は、こう述べました。日照や通風は、快適で健康な生活に欠かせない「生活上の利益」である、と。お日さまの光や、家を抜けていく風は、ただの気分の問題ではなく、人が健やかに暮らすために守られるべきものなのだ、とはっきり言いきったのです。 もちろん、「少しでも陰ったら、すぐにいけない」という話ではありません。世の中、おたがいさまで、ある程度は我慢しあって暮らしている。けれど、その「我慢の限度」を超えてしまったときには、相手に責任を問える――。そういう考え方が、このときに定まりました。 判決がくだったのは、昭和47年。私はまだ三歳で、もちろん、この裁判のことなど知るよしもありません。 それにしても、と思うのです。お日さまが当たるかどうかなど、それまでは、わざわざ裁判で争うようなことではなかったはずです。陽は、空から、ただで、みんなに降りそそぐもの。誰のものでもないからこそ、誰のものでもあった。その当たり前が、当たり前でいられなくなってきた。だからこそ、こんな裁判が必要になったのでしょう。なぜこの時代に、こんな争いがわざわざ起きたのか。それを考えると、あの頃の町の景色が、すうっとよみがえってくるのです。 空き地が、どんどん消えていった 私が生まれ育ったのは、葛飾区の高砂です。京成電車の線路際で、来る日も来る日も電車を眺めて育ちました。 昭和40年代から50年代にかけての日本は、とにかく「建てる」時代でした。高度経済成長のまっただなか。人が都市にどっと集まり、住む家が足りず、土地が足りず、建物は空に向かってぐんぐん伸びていきます。木造の平屋がならんでいた町に、鉄筋の団地やマンションが、にょきにょきと姿をあらわしていきました。 子どもにとって、それは「権利」だの「法律」だのという、難しい話ではありませんでした。もっと単純で、もっと切実な変化でした。 きのうまで草野球をしていた空き地に、ある日、ぐるりと囲いができる。気がつけば基礎が打たれ、足場が組まれ、シートがかけられ、見上げるほどの建物が建っていく。遊び場がひとつ、またひとつと消えていく。そして、当たり前のように広がっていた空が、少しずつ、少しずつ狭くなっていく――。 昭和50年代、私が小学生だった頃は、近所にもまだ、空き地が点々と残っていました。なかには、硬いボールを使って野球ができるほど広い場所も、何ヶ所かはあったのです。私たちにとっては、またとないグラウンドでした。 それが、一つ、また一つと消えていきました。ある場所は建売住宅に、ある場所はマンションに。気がつけば、きのうまでボールを追いかけていたその土地に、知らない誰かの新しい暮らしが建っている。そんなふうにして、私たちの野球場は、静かに数を減らしていったのです。 そして、そんな時代でしたから、大人たちの会話のなかにも、ときどき、こんな話がまじるようになりました。 「○○さんのところ、二階の増築工事が止まっちゃったんだってよ」 「なんか、誰かにさされたみたいだよ」 「○○さんの建て替え、ストップさせられたらしい」 子どもだった私には、その意味の半分もわかっていませんでした。けれど、いまになって思うのです。これはまさに、あの世田谷の裁判で争われたのと、そっくり同じ出来事だったのだ、と。二階の増築。工事の差し止め。判決の舞台になったのと同じことが、私のすぐ近所でも、現実に起きていたのです。 当時の町の工務店だって、「日照権」のことも、守らなければいけない決まりも、本当はちゃんとわかっていたはずです。それでも、お客さんからの頼みだし、これくらいならバレやしないだろう――。そんな空気も、どこかにあったのかもしれません(笑)。 ただ、それを頭から責める気には、なれないのです。あの判決をきっかけに、ようやく法律の整備が進みはじめた、ちょうどその過渡期。新しいルールが、まだ世の中のすみずみまでは行きわたっていなかった。あの時代だからこそ生まれた、すきま風のようなトラブルだったのだろうと思います。 そういえば、ああいう「工事が止まった」「さされた」という話、いまではめっきり、耳にしなくなりました。 みんなの夢は、「土地付きの一戸建て」だった 正直に言うと、子どもだった私には、団地やマンションへの特別なあこがれは、ありませんでした。 むしろ、あの頃の大人たちが胸に抱いていた夢は、もっとはっきりとした、別のかたちをしていたように思います。自分の土地を持ち、そこに一戸建ての我が家を構える――いわゆる「マイホーム」です。私の親も、まさにそうでした。家を「持つ」というのは、土地ごと自分のものにすることであり、それが一国一城のあるじになる、ということだったのです。分譲マンションを買う、という選択肢は、まだあまり一般的ではありませんでした。 そう考えると、少しだけ、切ない気持ちにもなります。私が硬球を追いかけていた、あの空き地に建っていった建売住宅は、見方を変えれば、どこかの家族の「マイホームの夢」が、ひとつかなった姿でもあったのですから。私の遊び場が消えていくことと、よその誰かの夢がかなうことは、じつは同じひとつのできごとの、表と裏だったのです。 そうやって、限られた土地に、それぞれの「我が家」が、肩を寄せ合うようにして建っていきました。みんなが自分の城を求めれば、当然、隣の家との間で「日当たり」はぶつかります。日照権をめぐる争いというのは、思えば、誰もがマイホームを夢見た、その熱気の裏側で生まれてきたものだったのかもしれません。 「お日さま」を分けあう、ものさし 世田谷の判決のあと、日本のあちこちで、同じような「日照権」をめぐる争いが起きるようになりました。あとから建った高い建物のせいで、もとからあった家に陽が差さなくなる。そういうトラブルが、都市のいたるところで噴き出していたのです。 そこで、国も動きます。昭和51年(1976年)には建築基準法が改正され、「日影規制(にちえいきせい)」というものが設けられました。建物が、周りの家にどれだけの時間、影を落としてよいか。それを地域ごとに線引きする決まりです。いわば、限りあるお日さまを、ご近所みんなで分けあうための「ものさし」でした。 思えば、「日照権」という言葉が新聞やテレビをにぎわせたあの頃は、ひたすら前へ前へと進んできた日本が、ふと立ち止まって「このままでいいんだろうか」と考えはじめた時代でもありました。工場の煙、川の汚れ――「公害」という言葉が世の中に広まったのも、ちょうど同じ頃のことです。豊かになるのは、うれしい。背の高いビルも、新しい団地も、まぶしい。けれど、その豊かさが、誰かの陽だまりや、子どもの遊び場や、きれいな空気を、知らないうちに奪ってはいないか。そんな問い直しが、日本のあちこちで芽を出しはじめていた時代だったのだと思います。 いまの住宅街を歩いてみると、家と家のあいだに、それなりの空が残されています。冬の昼間でも、路地のどこかには、ちゃんと陽だまりができている。それは、あの時代に「陽の当たる暮らし」を守ろうとした人たちの、争いと、工夫と、知恵の積み重ねの上にあるのだ――。そう思うと、足もとに落ちている何でもない日なたが、少しだけ、ありがたく見えてくるのです。 令和の空を見上げて 時は流れ、令和になりました。 街を見渡せば、昭和の頃には考えられなかったような高さの、タワーマンションが立ちならんでいます。日照をめぐる話は、いまも消えてはいません。新しいビルが一棟建つたびに、その足もとの町では、同じような相談やもめごとが、いまも静かに続いているようです。 私はいま、路線バスの運転席から、毎日この町の空を眺めています。長年、同じ道を走っていても、年々、沿道のビルの背が高くなり、フロントガラスの先に見える空が、また少し狭くなったな、と感じることがあります。 それでも、信号待ちでふと窓の外に目をやると、住宅街の小さな庭先で、洗濯物が陽を浴びてゆれている。その何気ない光景を見るたびに、ああ、この陽だまりは、ちゃんと守られてきたものなんだな、と思うのです。 昭和47年6月27日。あの日、最高裁が「お日さまの光は、守るに値する」と認めたこと。難しい法律の判決に見えて、その底にあったのは、空き地で日が暮れるまで遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、あの感覚――「陽の当たる場所は、気持ちがいい」という、ただそれだけの、あたりまえの願いだったのかもしれません。 あなたの育った町にも、いつのまにか消えてしまった空き地や、知らないうちに狭くなっていった空は、ありませんでしたか。 同じ場所に立って、昭和の町と令和の町を重ねてみる――そんな一冊があります。写真家・善本喜一郎さんが、1984年に撮ったまさにその場所に、何十年もたって同じアングルで立ち、いまの東京を撮り直した写真集です。消えた空き地、高くなったビル、狭くなった空。ページをめくるたびに、この記事に書いたような「町の移り変わり」が、目の前にくっきりと立ちあらわれます。 東京タイムスリップ1984⇔2021善本喜一郎/河出書房新社。同じ場所・同じアングルで撮り比べた、昭和と令和の東京。シリーズ累計のヒット作 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ...

June 27, 2026