昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代

六月になりました。 カレンダーをめくると、一日はちょうど衣替え。学校に通っていたころは、この日を境に冬服が夏服に変わって、教室の景色がいっせいに明るくなったのを覚えています。詰襟の窮屈さから解放されて、白い半袖シャツの軽さが妙に誇らしかった。台所の冷蔵庫に冷えた麦茶が常備されはじめるのも、だいたいこのころでした。 そんな夏のはじまりの六月一日。昭和の時代、この日にはいろいろなことがありました。たとえば昭和六十一年(一九八六年)の六月一日には、上野動物園で日本初の人工授精による赤ちゃんパンダ「トントン」が誕生しています。 でも、私にとっての「上野のパンダ」と言えば、やっぱりこの二頭なのです。 ランランと、カンカン。 今日はこの話を、少し長めに、のんびりと書かせてください。 父の肩車の上で 昭和四十八年(一九七三年)のことだったと思います。私はまだ保育園に通う幼い子どもでした。その日は遠足で、両親も一緒に上野動物園へ行きました。 お目当ては、もちろんパンダです。 昭和四十七年(一九七二年)、日中国交正常化の記念として中国からやってきたランランとカンカン。白と黒の、丸っこくて、笹を抱えてもそもそ食べるあの不思議な生きものを一目見ようと、日本中が熱に浮かされていました。その熱が、私たち親子を上野へと連れて行ったわけです。 ジャイアントパンダ。白と黒の丸い体で笹を食べる姿が、日本中を夢中にさせた。(Photo: J. Patrick Fischer / CC BY-SA 3.0) ところが――です。 正直に告白しますと、私はあの日、ランランとカンカンを本当に見られたのかどうか、思い出せないのです。 覚えているのは、別のことばかり。パンダのいる建物の前には、気が遠くなるような大行列ができていました。長い長い時間を並んで、ようやく中へ入れたこと。そして父が私を肩車してくれたこと。あの高い視界の感触は、今でもはっきりと残っています。 でも、肩車の上から、私はちゃんとパンダを見たのでしょうか。それとも、人垣の向こうの黒い点のような何かを、パンダだと思い込んだだけだったのでしょうか。記憶の肝心なところが、すっぽりと抜け落ちているのです。 そのかわりに鮮明に残っているのは、人、人、人で溢れかえっていた園内の光景。そして、園内放送でやたらと流れていた「迷子のお知らせ」のアナウンスです。 「○○色のズボンに、○○の絵のシャツを着た、○歳くらいの男の子を保護しています……」 あの放送ばかりが、なぜか耳に焼きついている。肝心のパンダではなく、迷子の放送。我ながら「そこっ?」とツッコミたくなりますが、子どもの記憶というのは、案外そういうものなのかもしれません。大人が「これを覚えておきなさい」と思うところより、ぜんぜん別の隅っこを、勝手に大事にしまい込んでしまう。 それでもいいのです。父の肩の温かさと、迷子の放送と、果てしない行列。それが私にとっての「ランランとカンカンに会いに行った日」の、まぎれもない全部なのですから。 V3とタロウの、輝かしい年 ちなみに、その昭和四十八年という年。私にとっては、パンダ以外でも特別に光り輝いている一年でした。 なぜなら、テレビの中のヒーローがいちばん格好よかった時代だからです。 仮面ライダーは、V3。(昭和四十八年二月〜昭和四十九年二月) そしてウルトラマンは、タロウ。(昭和四十八年四月〜昭和四十九年四月) この二人が同じ時期に画面の中で戦っていたのですから、当時の男の子にとって、これ以上の幸福があったでしょうか。風見志郎が変身する三段変身に胸を躍らせ、ウルトラの父と母の息子であるタロウの登場に、ウルトラ兄弟の世界がどこまでも広がっていくのを感じていました。 保育園からの帰り道、私はきっとV3かタロウになりきって、見えない怪人や怪獣と戦っていたはずです。そして週末になれば、上野のパンダのように、テレビの前にもまた「人、人、人」――いや、こちらは家族みんなが集まって、かじりつくようにして見ていたのでした。 パンダもV3もタロウも、ぜんぶ同じ年の出来事。そう並べてみると、昭和四十八年というのは、私の幼い心がいちばん豊かに満たされていた年だったのだなと、しみじみ思います。 そして、令和八年の六月 さて、ここからは少し、今の話をしなければなりません。 令和八年(二〇二六年)の六月一日、現在。日本国内に、ジャイアントパンダは一頭もいません。 これを書いていて、自分でも信じられないような気持ちになります。 まず、令和七年(二〇二五年)の六月。和歌山のアドベンチャーワールドにいた四頭――良浜(らうひん)、結浜(ゆいひん)、彩浜(さいひん)、楓浜(ふうひん)――が、中国へ返還されました。涙ながらに見送ったファンの姿が、ニュースで大きく取り上げられていたのを覚えている方も多いでしょう。 そして、日本に残ったのは、東京・上野動物園の双子、「シャオシャオ」と「レイレイ」だけ。この二頭も、令和八年の一月下旬、ついに中国へと返還されました。 これをもって、日本国内のパンダの飼育頭数は、ゼロ。 昭和四十七年にランランとカンカンがやってきてから、五十四年。半世紀以上にわたって途切れることなく続いてきた「日本の動物園でパンダに会える時代」が、今、いったん幕を閉じたのです。 笹をもそもそと食べるパンダ。この姿を日本の動物園で見られる日が、また来ることを願っている。(Photo: Manyman / CC BY-SA 3.0) いなくなって、はじめてわかること 「上野にパンダがいない。」 この一文を、昭和の子どもだった私が読んだら、いったいどんな顔をするでしょう。たぶん、まったく信じないと思います。上野の動物園にパンダがいないなんて、空に太陽がないと言われるくらい、ありえないことに感じられたはずですから。 あの日、果てしない行列に並び、父に肩車をしてもらってまで会いに行った白黒の生きもの。見られたのかどうかも怪しい、けれども確かにそこに「いた」はずのランランとカンカン。その末裔とも言える時代の流れが、半世紀の時を経て、ひとつの区切りを迎えた。 考えてみれば、私が肩車の上で見たかもしれない(見られなかったかもしれない)あの光景は、「日本にパンダがいる時代」の、ほんとうに初期の一場面だったわけです。そしてその時代の終わりを、私は今、こうして大人になって見届けている。 なんだか、不思議な巡り合わせです。 時代は変わります。当たり前にそこにあったものが、ある日ふっと姿を消す。パンダだけの話ではありません。近所の駄菓子屋も、屋上の遊園地も、いつの間にか消えていきました。そして私たちは、なくなってからようやく、「ああ、あれは特別なものだったんだな」と気づくのです。 でも――きっと、また会える日が来ると、私は思っています。 いつかまた、上野の動物園に黒と白のあの姿が戻ってきて、孫の手を引いたおじいさんやおばあさんが、長い行列に並ぶ日が来る。そのとき子どもたちは、肩車の上から、ちゃんとパンダを見られるでしょうか。それとも、私のように迷子の放送ばかり覚えて帰るのでしょうか。 どちらでもいい。その記憶は、きっと一生ものになるのですから。 みなさんにとっての「上野のパンダ」は、どの子でしょうか。ランランとカンカンでしょうか。トントンや、シャンシャンでしょうか。よろしければ、あなたのパンダの思い出も、聞かせてください。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 ▶

May 31, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気

5月31日「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 昭和64年(1989年)の5月31日、世界保健機関(WHO)が「世界禁煙デー」を制定した。 この日付を調べていて、私はふと手が止まった。昭和64年——それは昭和という時代が幕を下ろした年だ。元号としての昭和は1月7日で終わっているけれど、暦の上では5月31日もまだ「昭和64年」と呼べる。煙にまみれた昭和という時代の、いちばん最後の年の5月の終わりに、世界が「もう、煙のない時代へ行こう」と号令をかけた。そう思うと、なんだか出来すぎた偶然のように感じられて、しばらく考え込んでしまった。 私は昭和44年生まれで、子ども時代をすっぽり昭和の中で過ごした世代だ。そして改めて思うのは、あの頃の空気には、文字どおりたばこの煙が溶け込んでいた、ということなのだ。 家じゅうが、煙でできていた 我が家は、父も母も、二人そろって喫煙者だった。 今になって思い返すと、私はずいぶんと濃い煙の中で育ったものだなと、つい苦笑いしてしまう。茶の間にも灰皿があり、台所にも灰皿があり、家のあちこちで細い煙が立ちのぼっていた。両親がそれぞれ火をつければ、狭い家の中は、ちょっとした煙幕のようになる。今なら「子どもがいる部屋でそんなに……」と眉をひそめられるところだろうが、あの頃はそれが我が家の、ごく普通の風景だった。 そして子どもの私は、それを「煙い」とすら思っていなかった。世の中のすべてがそういう匂いだったから、煙を煙と感じる感覚そのものが、まだ育っていなかったのだ。たばこの匂いは、私にとっては父の匂いであり、母の匂いであり、つまりは「家の匂い」だった。 「echo」を買いに走った夕暮れ そんな家で育ったから、たばこのお使いには、たびたび行かされた。 我が家の銘柄は「echo(エコー)」だった。子ども心にも、たぶん安いやつなんだろうな、と何となく察していた。たしか一箱70円くらいだったと記憶している。親から小銭を握らされて、近所のたばこ屋まで「エコー一つ」と買いに走る。あの頃は年齢確認なんて言葉もなかったから、子どもがたばこを買うのに、誰も何も言わなかった。 たばこ屋というのは、どこも判で押したように同じ店構えをしていた。ガラスのショーケースの中に、色とりどりの箱が定規で測ったように整然と並んでいる。これは専売制のもとで陳列の仕方が細かく決められていたからで、だから日本中のたばこ屋が、似たような顔をしていた。背伸びをして小銭を差し出し、慣れた手つきで箱を渡してもらう、あの短いやりとり。それも昭和の子どもの、ありふれた日課のひとつだった。 昭和を代表する国産たばこ銘柄。左からわかば・しんせい・エコー・ゴールデンバット。どれも庶民に親しまれた安価な銘柄だ。(Photo: Haha169 / CC BY-SA 3.0) そして、お使いを頼んできたのは親だけではない。 中学に上がると、今度は部活の顧問の先生に、たびたびたばこを頼まれるようになった。先生の銘柄は「Peace(ピース)」。練習の合間に「おい、ピース買ってきてくれ」と小遣いを渡され、走って買いに行く。今ならまず間違いなく問題になる話だが、当時はそれが当たり前だった。 そもそも、その先生は野球部の指導をしながら、校庭で平然と一服していたのだ。ノックバットを片手に、口の端にたばこをくわえて、「もっと声出せ!」と檄を飛ばす。煙をくゆらせながらグラウンドに立つ先生の姿に、誰一人として違和感を覚えなかった。思い返すと笑ってしまうけれど、あれもまた、まぎれもない昭和の風景だった。 「ピース」のパッケージ。戦後すぐから続く高級銘柄で、贈り物にも使われた。野球部の顧問が「ピース買ってきてくれ」と言っていたあの箱だ。(Photo: Alf van Beem / CC0 パブリックドメイン) 鼻が覚えている、外の世界の煙 家の外に一歩出ても、世界はやっぱり煙かった。 駅のホームには大きな丸い灰皿が点々と置かれ、白い煙がいくつも立ちのぼっていた。けれど煙かったのはホームだけではない。電車の中でも、バスの車内でも、人々は当たり前のようにたばこを吸っていた。走る車内に煙がたなびき、座席の肘掛けには小さな灰皿がついている。 極めつけは、病院の待合室だ。体の具合が悪くて来ているはずの場所で、患者さんがゆったりとたばこをふかしている。診察を待ちながら、煙の中で順番を待つ。今思えば何とも倒錯した光景だが、当時はそれを誰もおかしいと言わなかった。それくらい、たばこは生活のすみずみにまで、空気のように溶け込んでいたのである。 長い電車やバスの旅から帰って服を脱ぐと、生地に独特の匂いが染みついていた。今思えばそれはまぎれもなく受動喫煙だったのだけれど、あの頃の子どもは「これが電車の匂い」くらいにしか思っていなかった。 ちなみに当時のたばこの値段はこうだった。 時代 一箱の価格(目安) 代表銘柄 昭和40年代 約60〜70円 エコー・わかば・ゴールデンバット 昭和50年代 約120円前後 しんせい・ハイライト 昭和60年代 200円台 マイルドセブン・セブンスター 今の感覚からすると気が遠くなるほど安かった。 「けむりが苦手です」という小さな声 そんな煙だらけの世の中に、少しずつ別の声が混じりはじめたのも昭和のことだった。 昭和51年(1976年)、新幹線「こだま」のたった一両に、こっそり禁煙車が設けられた。十六両編成のうち、わずか一両。けれどこれが子ども連れの旅行者や女性客に思いのほか喜ばれて、「もっと増やしてほしい」という署名運動にまで広がっていった。 昭和53年(1978年)には「嫌煙権」という、当時としては耳新しい言葉が登場する。「たばこのけむりが苦手です」——そう書かれたバッジを胸につける人が現れた。たばこをやめてくれと迫るのではなく、ただ、きれいな空気を吸わせてほしい、という静かな願いだった。 たった一両の禁煙車と、胸の小さなバッジ。そんなささやかなものから始まった変化が、長い時間をかけて世の中の空気そのものを入れ替えていった。その流れの行き着いた先のひとつが、昭和の最後の年の5月31日、あの「世界禁煙デー」だったのだと思う。 煙の向こうにあったもの 今の子どもたちは、路上でたばこを吸う大人を見ることのほうが珍しくなった。駅のホームから、あの銀色の大きな灰皿はすっかり姿を消した。電車の中はもちろん、病院の待合室でたばこを吸う人など、もうどこにもいない。野球の指導中に校庭で一服する先生など、今では考えられないだろう。 変わってよかったと、心から思う。健康のためにも、子どもたちのためにも。 それでも、と思う。鼻の奥に残るあの煙の匂いは、私にとっては、父と母の匂いそのものだ。二人がそれぞれ火をつけて、狭い茶の間に煙が満ちていく——あの頃はそれが、ごく当たり前の家族の風景だった。「エコー一つ」と握らされた小銭の感触も、「ピース買ってきてくれ」と笑っていた先生の声も、今でもふっと胸の奥でよみがえる。煙そのものを懐かしむわけではないけれど、その煙の向こうにあった昭和という時代は、たしかに、私の子ども時代そのものだった。 ひとつだけ、自分でも不思議に思うことがある。あれだけ濃い煙の中で育ったというのに、私も妹も、大人になってからついにたばこを吸うことはなかった。理由はよくわからない。たばこ屋まで走った日々が、あんなにも当たり前だったのに。あるいは、当たり前すぎたからこそ、自分で火をつけてみようとは思わなかったのかもしれない。煙の中で育った子どもが、煙を選ばなかった——それもまた、昭和から平成へと移りゆく、時代の変わり目に立っていたということなのだろうか。 あなたの家では、たばこはどんな存在だったでしょうか。誰かのお使いで、たばこ屋まで走った夕暮れを、覚えていますか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月30日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代 ▶

May 30, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月30日~

5月30日——夢と、ゴミと、あの頃の風景 5月の終わりが近づくと、なんとなく学年のリズムが見えてくる頃だった。運動会が終わって少しぼんやりしたような、けれどまだ夏休みには遠い、中途半端に気持ちのいい季節。グラウンドの土はもう初夏の匂いで、体操着の脇が汗でじわりと湿る頃だ。 そんな5月30日という日に、昭和はふたつの大きな「出来事」を刻んでいる。 ひとつは、日本の自動車史に残る夢のマシンの誕生。もうひとつは、「自分のゴミは自分で持ち帰る」という、今では当たり前すぎて忘れかけた運動の産声だ。どちらの話も、私の子供時代の記憶と、不思議なくらいぴったり重なっている。 走るより、飛ぶ感じ——コスモスポーツ、颯爽と登場 昭和42年(1967年)5月30日。東洋工業(現・マツダ)が、世界をあっと言わせた1台の車を世に送り出した。「コスモスポーツ」である。 それがなぜ世界を驚かせたかというと、搭載していたエンジンが普通のエンジンとまったく違っていたからだ。ロータリーエンジン——三角形のローターがくるくると回転して動力を生み出す、それまで誰も量産化できなかった夢のエンジンを、広島の自動車メーカーがついに実用化してのけた。 このエンジンはもともと、西ドイツのNSU社のフェリックス・ヴァンケルという技術者が発明したものだ。ピストンが上下する従来のレシプロエンジンとは根本的に異なり、三角形のローターが楕円形のハウジングの中で回転することで動力を得る。部品点数が少なく、振動が少なく、小型で高出力。「夢のエンジン」と言われた。 しかし量産化には致命的な壁があった。「チャターマーク」と呼ばれるエンジン内壁の波状摩耗だ。ローターの先端(アペックスシール)がハウジング内壁を高速で摺動するうちに、ハウジング表面が波打つように削れてしまう。これが「悪魔の爪痕」と恐れられた現象だ。 世界中の自動車メーカーがこの壁に直面し、次々と開発を諦めていった。NSU社自身も完全な解決策を見出せないまま、前に進めなかった。しかしマツダは諦めなかった。若い技術者たちが交代でアペックスシールを手作りしては試験を繰り返し、失敗の数は10万回を超えたともいわれる。その執念が、6年間の開発期間を経て実を結んだ。 昭和42年5月30日、その執念はついに市販車として世に出た。最高速度185km/h、0→400m加速16.3秒。低く流線型を描くボディは「走るというより、飛ぶ感じ」と形容された。価格は148万円——当時の大卒初任給が2万円台だったことを思えば、庶民には夢のまた夢だ。月に30台前後しか売れなかったという。それでも意味があった。「日本にこんな車が作れる」という事実そのものが、技術者たちの誇りであり、日本自動車産業の底力を世界に示すものだったからだ。 翌昭和43年(1968年)には、このコスモスポーツが「マラソン・ド・ラ・ルート」という約8万4000kmに及ぶ過酷な長距離耐久レースに参戦し、84時間走り続けて完走した。ロータリーエンジンの耐久性と信頼性を、実戦で証明してみせたのだ。 マツダ・コスモスポーツ(1967年中期型)。低く流れるようなボディラインと、世界初の量産ロータリーエンジンを搭載。(Photo: Tokumeigakarinoaoshima / CC BY-SA 4.0) それでも私は、コスモスポーツというものに、子供ながらに途方もないロマンを感じていた。 昭和40年代後半、近所を走るのはほとんどがカローラとかサニーといった、四角くて地味な乗用車だった。たまにブルーバードSSS(スリーエス)やセリカが通ると、子供たちは手を止めて見た。それくらい「かっこいい国産車」は珍しかった。そんな中、雑誌のグラビアで見るコスモスポーツのシルエットは、もはや別次元だった。ドア下部にかけてなだらかに落ちるウエストライン、細く切れ上がったテールランプ——宇宙船みたいだと思った。 「コスモ」という名前がまた宇宙時代にぴったりで、実際に名前の由来はイタリア語で「宇宙」を意味するCosmoだったという。1969年にはアポロ11号が月に着いた。その数年前にコスモスポーツが生まれた、というタイミングも、何かを象徴しているような気がする。あの頃、人類も日本も、宇宙に向かって飛び立とうとしていた。 コスモスポーツは後に「サバンナRX-7」「RX-8」へと系譜をつなぐ。あの独特の甲高いエンジン音は、ロータリーが生み出す独自の音だった。私がはじめてその音を路地で聞いたとき、「なんかすごいものが走り抜けた」としか言えない感覚があった。エンジン音が違う。アクセルを踏んだときの音の伸び方が違う。子供の耳にも、それははっきりとわかった。 マツダ10Aロータリーエンジン(1972年型)。コスモスポーツに搭載されたロータリーエンジンの実物。三角形のローターが回転して動力を生み出す独自の構造が特徴。(Photo: TTTNIS / CC0 パブリックドメイン) マットビハイクルと、銭湯の夜 そしてもうひとつ、コスモスポーツが私の記憶に深く刻まれている理由がある。「帰ってきたウルトラマン」に登場する、あのマットビハイクルだ。 1971年から放送が始まったこの番組で、怪獣攻撃隊MATの隊員たちが乗り込むパトロール特捜車両——それがコスモスポーツをベースにしたマットビハイクルだった。白いボディに赤いライン、天井にはパトランプ。改造といえばそのくらいで、超合金のロボットや宇宙船とは違い、どこか「本物の車感」がにじみ出ていた。 子供だった私は、あの流線型のシルエットをずっと「外車」だと思い込んでいた。国産車にあんなかっこいいデザインがあるはずがない、と。近所を走るカローラやブルーバードとは、まるで別の生き物に見えたのだ。それがまさか広島のメーカーが作った純国産車だと知ったときの驚きは、今でも覚えている。「日本ってすごいじゃないか」と、子供心に誇らしかった。 ところで、つい最近まで私はこう思い込んでいた。「帰ってきたウルトラマン」が、自分がリアルタイムでテレビで見た最初のウルトラマンだ、と。 3歳か4歳のころのぼんやりした記憶がある。当時、我が家はまだ借り住まいで、家風呂がなかった。夕方になると母に連れられて銭湯へ行くのが日課だった。番台のおばちゃんに頭を下げて、脱衣所で服を脱いで、湯船の熱さに「あちっ」と言いながら入る。そのルーティンが終わって、さあ帰ろうとなったとき、私は母にこう言い張ったのだという。「早く帰ろう、ウルトラマンが始まっちゃう!」 金曜日の夜19時——。母に引きずられるように番台を通り抜け、まだ少し濡れた髪のままテレビの前に駆け込む。そんな光景が、記憶のかけらとして残っている。お風呂上がりのほわほわした体温と、テレビから聞こえてくる特撮のBGMが、記憶の中で混ざり合っている。 しかし改めて調べてみると、「帰ってきたウルトラマン」の放送は1971年(昭和46年)4月から翌年3月まで。私が生まれたのは昭和44年(1969年)4月だから、放送開始のときはまだ2歳だ。2歳の記憶が「テレビの前に駆け込む」ほど鮮明に残るはずがない。 では、あの銭湯の記憶は何だったのか。 答えはおそらく、「ウルトラマンA(エース)」か「ウルトラマンタロウ」だ。エースは1972年4月から翌年3月放送、タロウは1973年4月から翌年3月放送。どちらも同じ金曜夜19時、TBS系。私が3歳〜5歳のちょうど「ぼんやり覚えている」年齢と重なる。 つまり、銭湯から急いで帰っていたあの夜のウルトラマンは、郷秀樹ではなく、北斗星司か東光太郎だった可能性が高い。 それでも私の中では「帰ってきたウルトラマン」と「マットビハイクル」が刷り込まれている。「帰ってきた」という言葉のインパクトが強すぎたのだろう。子供はタイトルに引きずられる。「帰ってきた」のだから、きっと自分も見ていたはずだ——そういう無意識の補完が起きていたのかもしれない。 昭和の子供の記憶なんて、どれもそんなふうに、いくつかの断片がひとつに溶け合っているものだ。でもそれはそれで、悪くない気がしている。記憶が混ざり合うのは、それだけ夢中になっていた証拠でもあるから。 「自分のゴミは自分で持ち帰る」——530運動、豊橋から全国へ さて5月30日というこの日付は、もうひとつの昭和の記憶とも重なっている。「530(ゴミゼロ)運動」だ。 昭和50年(1975年)の5月、愛知県豊橋市で「自分のゴミは自分で持ち帰りましょう」という合言葉のもと、市民運動が産声を上げた。その名称の由来は、日付の語呂合わせ——5(ゴ)、3(ミ)、0(ゼロ)。5月30日だから「ゴミゼロ」。言われてみれば単純明快なのに、それまで誰も言わなかった。 発端は、豊橋市東部の山を歩く登山者や行楽客が増えるにつれ、空き缶やゴミが山道に散乱するようになったことだった。豊橋山岳会の会長が「これはおかしい」と立ち上がり、市に提唱したのがはじまりだという。昭和50年11月に行われた初の一斉清掃には、147団体・約12万人が参加した。その後、この運動は全国に広がり、今では5月30日が「ゴミゼロの日」として定着している。 この頃の日本を思い返すと、正直、ゴミに対する感覚は今とはまったく違った。 昭和40年代、私が野球をやっていた公園には、普通に空き缶が転がっていた。誰かが飲んだコーラの缶、アイスのゴミ、菓子の袋。今で言えば「ひどい」話なのだが、当時の子供たちはそれを当たり前の風景として受け入れていた。誰も拾わなかったし、叱られることもなかった。「ゴミ問題」という言葉自体、テレビのニュースで難しいおじさんたちが話すことで、子供には遠い話だった。 川にゴミを捨てることも、当時は珍しくなかった。近所の用水路には、ときどき古い自転車や家電の残骸が沈んでいた。大人たちも見て見ぬふりをしていた。「誰かが片付けるだろう」という、ぼんやりした空気が漂っていた。高度成長期の日本は、豊かになることに必死で、その豊かさが生み出すゴミのことをあまり考えていなかったのだと思う。 だから、学校でリヤカーを引いて廃品回収をしたときの記憶は、少し違う質感がある。あれは先生に言われたからやるのではなく、「瓶や新聞紙が資源になる」という感覚が、どこかで子供心に本物だと伝わっていた気がする。大人たちの意識が変わり始めていた時期と、私が物心ついた時期がちょうど重なっていた。 昭和52年(1977年)には空き缶の路上投棄を規制する条例が各地で制定され始め、昭和60年代に入ると「ポイ捨て禁止」の看板が公園や道路に目立ち始めた。530運動が豊橋から全国に広がっていった昭和50年代、日本の街と人の意識は、少しずつ、でも確かに変わろうとしていた。 私が子供のころに感じた「ゴミのある風景」は、今の子供たちにはほとんど想像できないかもしれない。それは悪いことではなく、その変化を積み重ねてきた大人たちの努力の証だ。豊橋の山岳会の会長が「これはおかしい」と声を上げた日から、半世紀近くが過ぎた。 5月の終わりに思うこと コスモスポーツと530運動。並べると不思議な組み合わせだが、どちらも昭和という時代の「欲望と反省」の両面を映しているような気がする。 高度成長の夢を詰め込んだロータリーエンジンの夢の車が誕生した一方で、その成長が街に撒き散らした空き缶を拾い集める運動が生まれた——どちらも同じ昭和という時代の日本の空の下にある出来事だ。 前に突き進む力と、足元を見直す力。その両方がなければ、時代はうまく動いていかない。マツダの技術者たちが「悪魔の爪痕」に諦めなかったように、豊橋の一人の市民が「これはおかしい」と声を上げたように、昭和という時代はそういう「諦めない人たち」の集積で動いていた。 夢に向かって突き進んでいたあの時代が、少しずつ自分の足元を見直しはじめた瞬間が、この5月30日という日のどこかに刻まれているようで、私には妙に感慨深い。 あなたは昭和の「ゴミ」の風景を、どんなふうに覚えていますか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 ▶

May 29, 2026

5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄

五月も末になると、空気がじっとりとしてくる。梅雨の足音がそこまで聞こえてくるような、少し重たい青空が広がる季節だ。昭和の子どもたちにとって、この頃は運動会が終わり、夏休みまでまだずいぶん先という、少し間延びした時期だった。特別なことが起きるわけでもない、ただ日々が流れていく5月の終わり。 でも、5月29日という日は、昭和という時代を語るうえで忘れられないふたつの出来事を抱えている。今日は少し遠回りしながら、その話をしてみたい。 「昭和の女王」は横浜の魚屋の娘だった 昭和12年(1937年)5月29日、神奈川県横浜市磯子区の小さな魚屋「魚増」に、一人の女の子が生まれた。 本名は加藤和枝。のちに「美空ひばり」として、昭和の歌謡界を丸ごと背負って立つ人物となる、その赤ちゃんである。 私が生まれたのは昭和44年(1969年)だから、ひばりさんとは32年もの開きがある。物心ついたのが昭和50年代に入った頃だから、考えてみれば私はリアルタイムの美空ひばりをほとんど知らない。紅白歌合戦で歌う姿も、テレビの歌番組での映像も、子ども時代の記憶にはほとんど出てこない。 実はそれには理由があった。昭和48年(1973年)、実弟が起こした不祥事のあおりを受けて、ひばりさんは紅白歌合戦への出場を辞退せざるを得なくなった。それまで10年連続で紅組のトリを務めてきた大歌手が、である。私が物心ついた昭和50年代はちょうどその時期と重なっていた。だから、茶の間のテレビでひばりさんの歌う姿をなかなか目にすることができなかったのだ。 その代わり、美空ひばりという名前は、どこか別の形で私の中に刷り込まれていた。母が台所で口ずさむ鼻歌。街のどこかから流れてくるラジオの音。駄菓子屋の軒先でも、銭湯の脱衣所でも、「美空ひばり」という名前が大人たちの間でさりげなく語られた。顔も声もよく知らないまま、「すごい人がいる」という空気だけが漂っていた。子どもの私の中で、美空ひばりはいつしか「テレビに出てこない伝説の人」になっていた。 ひばりさんは9歳でデビューした。終戦直後の昭和21年(1946年)のことだ。焼け野原の横浜で、母・喜美枝が一念発起して「青空楽団」を作り、近所の公民館や銭湯に舞台を設けた。そこで初めて「美空和枝」の名で歌った女の子が、のちに昭和最大のスターになるとは、誰も想像しなかっただろう。戦争に出征した父の壮行会で「九段の母」を歌い、周囲の大人たちを泣かせたのは、まだ6歳の頃だったという。人を泣かせる力は、最初からあの小さな体に宿っていた。 昭和40年(1965年)には「柔」でレコード大賞を受賞した。そのころの私はまだ生まれてもいないが、昭和の茶の間ではひばりさんの歌声が、家族みんなで囲むテレビから流れていたはずだ。歌番組も、ドラマも、映画も。あの時代のひばりさんはまさに全盛期を走っていた。 生涯で発表したオリジナル曲は517曲、レコードの売り上げは8000万枚を超えたという。映画にも160本近く出演した。そんな数字を並べても、ひばりさんという存在の大きさはうまく伝わらない気がする。「女王」とか「昭和の歌姫」とか、どんな言葉を当てはめても、すぐに溢れ出してしまうような人だった。 私がはっきりと「ああ、これが美空ひばりだ」と感じた瞬間は、昭和63年(1988年)の「川の流れのように」だった。長い闘病を乗り越えて、東京ドームのこけら落とし公演で復活を果たしたひばりさんが、晩年に残した曲だ。テレビ画面のなかのひばりさんは、歌っているというより、ただそこに存在しているだけでオーラを放っていた。「伝説」とはこういうことか、と19歳の私は感じた。言葉にならない何かが、画面を通しても伝わってきた。 その東京ドームコンサートは昭和63年(1988年)4月に開かれた。体調は決して万全ではなかった。足腰の痛みはほとんど回復しておらず、肝機能の数値も心もとない状態のまま本番の日を迎えたという。それでもひばりさんは「すべてのお客様に顔を見てもらいたい」と言い、本人の希望で作られた長い花道を、歌い終えたあとに歩いた。5万人の観衆の前で。 その翌年、平成元年(1989年)の6月24日、美空ひばりは52歳でこの世を去った。昭和という元号の最後の年のことだった。死去後、女性として初めて国民栄誉賞が贈られた。 昭和の始まりとともに生まれ、昭和の終わりとほぼ重なるように逝った人。横浜の小さな魚屋に生まれた女の子が、ひとつの時代を丸ごと背負って歌った。5月29日は、そんな奇跡のような声が産声を上げた日でもある。 東京・上野公園に残る美空ひばりの手形。昭和12年(1937年)5月29日生まれ。昭和とともに歌い続け、平成元年に52歳で逝った。(Photo: Daderot / CC0 パブリックドメイン) 地下を走った夢、千年の都の地面の下へ もうひとつ、5月29日の出来事を話したい。 昭和56年(1981年)のこの日、京都市で「烏丸線」が開業した。京都市内初の市営地下鉄である。 私は当時12歳。葛飾に住む中学生だったから、京都の地下鉄開業など直接には関係のない話だ。でも、当時の子どもたちがそうであったように、「地下鉄」というものには不思議な憧れがあった。地面の下をトンネルが通り、電車が走っている。その事実だけで、何かSFのような、冒険のようなわくわく感があった。新しい路線が開業するたびにニュースになった時代で、地下鉄は都市の「現代化」を象徴するものでもあった。 この地下鉄が生まれるまでには、長い長い歴史がある。 京都には、日本最初の一般営業用電車として明治28年(1895年)に開業した路面電車があった。クリーム色と深緑のツートンカラーの車体が烏丸通や四条通を走り、83年間にわたって市民の足となってきた。ところが昭和に入ると自動車が急増した。昭和40年(1965年)に14万台だった京都市内の自家用車は、1980年には38万台と3倍近くに膨れ上がった。古都ならではの道幅の狭い通りを車が埋め、市電は渋滞に巻き込まれて定時運行もままならなくなっていった。 存続を求める署名が27万人分も集まったにもかかわらず、昭和53年(1978年)9月30日、京都市電は全廃された。日本初の路面電車が83年の歴史に幕を閉じた日として、全国的にも大きく報道されたという。廃止後も全国から記念乗車券の注文が殺到し、再販売したほどだった。市民がその消滅をどれほど惜しんだか、伝わってくる気がする。 市電が消えてから、京都市内の公共交通はほぼバスだけになった。渋滞は深刻なままで、バスも定時には走れない。市民は地下鉄の開業を、じっと待ち続けていた。 工事は昭和49年(1974年)に始まった。千年の都の地下を掘るのだから、普通の工事ではすまない。文化財保護法に基づいて、あちこちで埋蔵文化財の発掘調査が行われた。平安京の遺構が眠っているかもしれない土の下を、少しずつ、丁寧に掘り進んでいく。工期が延び、財政難も重なり、何度も計画が見直された。 もうひとつ、この地下鉄には当時としては特別な思いが込められていた。バリアフリーだ。昭和44年(1969年)頃から、車椅子を使う市民や障害者支援団体が何年もかけて京都市に請願を続け、主要4駅にエレベーターを設置することを実現させた。当初の設計から駅のホーム形式を変更するという大きな決断もあった。「バリアフリー」という言葉さえまだ一般的でなかった時代に、市民の声が行政を動かした。千年以上の歴史が積み重なった都市の地下に、新しい時代の思いが込められていたのだ。 そして昭和56年5月29日、北大路駅から京都駅までの6.6キロメートルが開通した。 前夜から駅に並んで始発電車に乗ろうとした中学生たちの話が残っている。深夜に京都駅前をうろついていたら警察官に「こんな夜中にアカン」と叱られ、タクシーで帰宅させられた子もいた。翌朝また早起きして乗りに来たという子もいたというから、その熱狂がしのばれる。新しい地下鉄の始発電車に乗るためなら、お巡りさんに怒られたって構わない。そういう気持ちになれた時代だった。 京都市営地下鉄烏丸線のホームドア。昭和56年(1981年)5月29日に開業した京都市初の地下鉄は、今も千年の都の地下を走り続けている。(Photo: NatsuTV / CC0 パブリックドメイン) 5月29日という日 美空ひばりの誕生日と、京都地下鉄の開業日。一見まったく関係のない二つの出来事だが、どちらも「昭和の時間の積み重なり」というものを感じさせる。 ひばりさんは昭和という時代そのものを声にした。地下鉄は、千年という時間が眠る地面の下を走った。 昭和の時代を生きた私たちは、それとは気づかないまま、そういう大きな流れの中に埋もれて日々を過ごしていた。駄菓子を買って、公園で野球をして、夕暮れになれば家に帰って。大人の世界では大きなことが起きていたのに、子どもの目には届かなかった。 あの頃の街に、美空ひばりの声が流れていたとき、私は何をしていたのだろう。公園でボールを追いかけていたのか、駄菓子屋の前でたむろしていたのか。確かめようのないことだが、あの声は確かにどこかで流れていて、気づかないまま聴いていたはずだ。記憶の底に、あの声は静かに沈んでいる。 5月29日という日付を手がかりに、こうして昭和を掘り起こしてみると、知らなかったことがまだまだ山ほどある。自分が生きた時代のことなのに、知らないことがこんなにある。それが、このシリーズを書き続ける理由でもある。 あなたにとって、美空ひばりという声はどんな記憶と結びついていますか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月28日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月30日~ ▶

May 28, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月28日~

5月28日、昭和に刻まれた三つの記憶 5月も終わりに近づいた28日。この日付には、昭和という時代の厚みを感じさせる出来事がいくつも重なっている。 縄文の巨人、山の奥で目を覚ます――昭和41年(1966年) まず昭和41年のこの日から始めたい。 屋久島の標高1,300メートル、高塚山の南斜面で、一人の役場職員が巨木に辿り着いた。旧上屋久町の観光課に勤める岩川貞次さん、42歳。古老から「山の奥に化け物みたいな杉がある」と聞かされ、その伝承を確かめるために深い森をかき分けてきたのだった。 そこに立っていたのは、胸の高さで周囲16メートルを超える、人類の記憶をはるかに遡るような杉の木だった。岩川さんはその姿に圧倒され、自分の名前「岩」の字を取って「大岩杉」と名付けた。 後に「縄文杉」と呼ばれるようになるこの木の推定樹齢は、7,200年とも2,170年とも言われる。どちらにせよ、弥生時代どころか縄文の昔から、その島で風雨をやり過ごしてきたことになる。 屋久島の縄文杉。胸高周囲16.4メートル、推定樹齢2000〜7200年。昭和41年5月28日に現代人が初めて「発見」した。(Photo: Chris 73 / CC BY-SA 3.0) 私が生まれたのは昭和40年代。縄文杉が「発見」されたのはその直前だった。発見後しばらくは世間にもほとんど知られることなく、登山ブームで一般に広まるのはずっと先のことだ。私が子どもだった頃、縄文杉という言葉を耳にした記憶はほとんどない。だが今思えば、私が公園で草野球をしたり、近所の駄菓子屋でアイスを買ったりしていたあの頃も、屋久島の奥深くでは縄文杉がただ静かにそこに立っていたのだ。 人間の営みとはまったく別の時間軸で生きている木がある。そう知るだけで、昭和という時代も、自分の子どもの頃も、ずいぶんと小さく、そしてかけがえのないものに見えてくる。 ヘルメットが宙を舞った日――昭和55年(1980年)5月28日 昭和55年のこの日、川崎球場は異様な熱気に包まれていた。 ロッテ・オリオンズの張本勲が、プロ野球史上初となる通算3000本安打の大台に、あと2本まで迫っていたのだ。 この年、張本は40歳。かつて首位打者を7度も獲得した「安打製造機」も、いまや選手生活の最終盤にいた。巨人を離れ、ロッテに移籍したのはただ一つの目的のため――3000本安打を達成すること。 阪急ブレーブス戦の第1打席で1本を積み重ね2998本。第2、第3打席は凡退。迎えた6回裏、第4打席。マウンドには、速球で名を馳せた山口高志が立っていた。張本はマウンドを見つめながら読んでいた。「記録がかかった場面で、山口もかわすピッチングはしないだろう。初球は甘く来る」。 初球だった。真ん中高めへの速球。張本のバットがうなりを上げた。打った瞬間に分かる、文句なしの当たりだった。打球はライトスタンドの照明塔を直撃して大きく弾んだ。3000本安打、それもホームランでの達成だった。 張本はヘルメットを力いっぱい宙に投げ上げ、自身も飛び上がった。ベンチが総出で駆け寄り、花火が15発打ち上げられ、黄金のくす玉が割れた。スタンドからは色とりどりのテープが舞い降りた。 そしてスタンドには、故郷・広島から母が来ていた。野球には詳しくない母だったが、3000本まで残り10本となったとき、白い丸を10個書いて1本ずつ塗りつぶしていたという。試合後、張本は母の手を取り、グラウンドへ連れ出した。 川崎球場のライトスタンド(1989年撮影)。昭和55年5月28日、この球場で張本勲が3000本安打をホームランで達成した。(Photo: Yasuoyamada / CC BY-SA 3.0) 私はあのとき小学5年生。野球が好きで、公園でよく素振りをしていた。王貞治の一本足打法を真似ることもあったが、巨人時代の張本勲の打撃フォームもよく真似ていた。あの独特の構え、広角に弾き返すしなやかなスイング。子どもが公園でコピーしたくなる、そういう「形」を持っている打者だった。 だから張本がロッテに移籍したと聞いたとき、正直「なぜ?」という気持ちがあった。巨人のユニフォームが似合いすぎていたからだ。移籍の理由が3000本安打への執念だったと知ったのは、もう少し後のことだ。そして迎えたこの5月28日、40歳の張本が現役でスタンドにホームランを叩き込んだ。いま思えば、40歳でプロの球場に立ち続けていること自体が、すでに常人の域を超えた話だった。 3085本という通算安打数は、いまも日本プロ野球の最多記録として破られていない。 教授とボウイとたけしが同じ画面にいた――昭和58年(1983年)5月28日 昭和58年、同じ5月28日に、まったく別の衝撃が日本の映画館を揺るがしていた。 大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の公開初日だった。 出演者の顔ぶれを見ると、当時の中学・高校生たちがどれほど興奮したか想像できる。デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし。世界的ロックスター、YMOの「教授」、漫才の天才。三人とも役者が本業ではない。 私は昭和58年に14歳、中学2年生だった。YMOの音楽はラジオから流れてきていたし、ビートたけしは「THE MANZAI」や「オレたちひょうきん族」で笑いの頂点にいた時期だ。「その二人が、デヴィッド・ボウイと同じ戦争映画に出る」という情報が流れた時の、あの不思議な感覚は今も覚えている。 舞台は第二次世界大戦中のジャワ島、日本軍の捕虜収容所。坂本龍一が日本軍将校ヨノイ大尉を演じ、ボウイが捕虜の英国将校セリアズを演じた。ビートたけしは、独特の存在感で下士官ハラを演じた。 坂本龍一が手がけた映画音楽は、映像と同時代の語り草となった。「Merry Christmas Mr. Lawrence」のあのメロディは、映画を観ていない人の耳にも届いた。 坂本龍一。『戦場のメリークリスマス』で俳優・作曲家として世界に名を刻み、2023年に71歳で逝去した。(Photo: Ryota Nakanishi / CC BY-SA 3.0) 大島渚監督はかつてこう言った。「ボウイやタケシやサカモトが私を選んでくれたおかげで完成した。そのことは日本のみならず世界の驚異だった」と。 5月28日という日付に、あの映画の初日が重なっていたとは、長い間知らなかった。昭和58年の私はまだ、そこまで映画情報を丁寧に追いかけていなかった。だが今こうして振り返ると、あの夏の前、初夏の空気の中であの映画が産声を上げたことが、妙に腑に落ちる気がする。 昭和の5月28日、三つの層 縄文杉の発見、張本の3000本安打、戦場のメリークリスマスの公開。 一つは人間の時間を超えた木の話。一つは人間が血と汗で刻んだ数字の話。もう一つは、時代のアイコンたちが一つのスクリーンに集った話。 昭和という時代は、こんなふうに何層にも重なっている。あなたの5月28日の記憶には、どんなものがありますか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった | 次の記事:5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄 ▶

May 27, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった

5月27日。 この日付を聞いて、ピンと来る人はきっと「あの音楽」が頭の中で鳴り出す。 ダダダン、ダダダダダン――。 あの壮大な序曲とともに、画面に浮かぶ「ドラゴンクエスト」の文字。昭和61年(1986年)5月27日、この日はのちに「ドラゴンクエストの日」と呼ばれることになる記念日だった。 私は当時、高校2年生だった。 グラウンドにいた。泥まみれで、ボールを追いかけていた。 球児には関係のない話、だったはずが 昭和61年5月27日。私は17歳の高校球児として、日々の練習に明け暮れていた。5月といえば夏の地方大会を前に、チームがいちばん張り詰めてくる時期だ。朝練に始まり、放課後も日が暮れるまでグラウンドに残る。帰り道は足が棒のようで、家に着いたら飯を食って風呂に入ってすぐ眠る。そんな生活の中で、ファミコンが入り込む余地はどこにもなかった。 明治神宮球場で行われる高校野球。あの頃の私も、こんな眩しい夏の空の下でボールを追いかけていた。(Photo: DX Broadrec / CC BY-SA 3.0) だから「ドラゴンクエスト」が発売されたこの日のことを、私はリアルタイムでは知らない。同級生の中にも野球部以外の友人はいて、後から「あのゲームすごいよ」と聞かされた記憶があるような、ないような。それくらい遠い世界の話だった。 でも今、あの日のことを調べてみると、同じ5月27日という日に、まったく別の青春が交差していたのだと気づく。 「今、新しい伝説が生まれようとしている」 キャッチコピーは、そう謳っていた。 発売したのはエニックス(現・スクウェア・エニックス)。プラットフォームは任天堂のファミリーコンピュータ。プレイヤー自身が勇者となり、広大な世界を歩き回りながら魔王を倒す――いわゆるロールプレイングゲームというジャンルを、日本の子どもたちに初めて届けた作品だった。 任天堂ファミリーコンピュータ(HVC-001)。昭和58年(1983年)に発売され、日本中の子ども部屋を変えた。(Photo: Rama / CC BY-SA 2.0 FR) シナリオを書いたのは堀井雄二。「週刊少年ジャンプ」でゲームコーナー「ファミコン神拳」を担当していたライターあがりの男だ。キャラクターデザインには『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』で一世を風靡していた鳥山明。音楽はすぎやまこういち。後に堀井自身が「奇跡のメンバーだった」と述懐する顔ぶれが、一本のカセットに詰まっていた。 発売当初、売り上げは芳しくなかったという。それが口コミでじわじわと広がり、最終的に約150万本にまで膨らんでいく。テレビゲームソフトが「社会現象」という言葉で語られた、初めての瞬間に近いものだったかもしれない。 あの頃、甲子園が消えた年 高校野球の話を少しさせてほしい。 昭和61年というのは、甲子園を知る人間には特別な意味を持つ年だ。前の年、昭和60年の夏、PL学園の桑田真澄と清原和博――KKコンビと呼ばれた二人が、涙をのんで甲子園を去った。1年生の夏から3年連続で甲子園の土を踏んだ二人が卒業し、あの二人がいなくなった甲子園は、なんとなく空洞になったように感じた。 私たちのような高校球児にとって、桑田と清原は神様みたいな存在だった。テレビの中で見る甲子園は遠くて眩しくて、ああいう選手になりたいという気持ちと、自分とは違う世界の話だという諦めが、いつも胸の中で混ざっていた。 昭和61年の夏の甲子園は天理(奈良)が優勝した。しかしその夏を目指して、全国3800校以上の球児たちが地方の土を踏んでいた。私もその中の一人だった。グラウンドに転がるボールを、まるで命がけで追いかけていた。 二つの「伝説」が生まれた年 ドラゴンクエストが生まれた日、私はバットを振っていた。 それは単なるすれ違いではなく、あの頃の昭和という時代が持っていた、ある種の豊かさだったのかもしれない。画面の中で勇者が剣を抜く子どもたちがいた。グラウンドで泥に塗れながらノックを受ける子どもたちがいた。誰かの青春は誰かの知らないところで静かに燃えていた。 「ふっかつのじゅもん」を紙に書き留めて、書き間違えて、また最初からやり直した子どもたちの話を今になって聞くと、妙に懐かしい気持ちになる。私はやり直すたびに素振りをしていた。同じ時代に、同じように何度も何度も繰り返した者同士として、どこかで通じるものがある気がして。 あの音楽がある限り すぎやまこういちは2021年に90歳で亡くなった。鳥山明も2024年に逝ってしまった。堀井雄二だけが今も筆をとり続けている。 三人がともに作り上げたあの「序曲」は、いまも世界中の耳に残っている。コンサートホールでオーケストラが演奏し、お客さんがスタンディングオベーションを送る。昭和61年の5月27日に生まれた音楽が、令和の今も鳴り続けている。 あの日、グラウンドにいた私には聞こえなかった音楽が、こうして何十年も経ってから耳の中で鳴っている。不思議な話だと思う。 あなたは、初めてドラゴンクエストを遊んだのはいつ頃でしたか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ―5月26日― | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月28日~ ▶

May 26, 2026

昭和の今日は何があった日? ―5月26日―

5月26日 ― 高速の夢と、海辺の悲劇 昭和の5月26日という日付には、まるで表と裏のように、ふたつのまったく違う出来事が刻まれている。 ひとつは、日本中が前向きな興奮に沸いた日。もうひとつは、晴れた海辺で突然に悲劇が訪れた日。どちらも昭和という時代の、正直な顔だと思う。 「東名」が全部つながった ― 昭和44年5月26日 1969年(昭和44年)のこの日、東名高速道路が全線開通した。 東京インターチェンジから愛知県の小牧インターチェンジまで、約346キロ。それまで国道1号線を使えば東京から名古屋まで9時間半かかっていたのが、一気に5時間を切るようになったという。足柄サービスエリアで記念式典が行われ、建設を支えた外国人技術顧問たちも出席して全線を走り抜けたと記録されている。 私が生まれたのは、この年の4月だ。つまり東名が全線つながったのは、私の誕生からわずか1ヶ月後のことになる。生まれた直後の日本で、こんな一大事が起きていたとは、調べてみるまで知らなかった。 もちろん、生後1ヶ月の私にその意味がわかるはずもない。 そして正直に言えば、「東名高速でドライブ」というのは、私の子ども時代には縁遠い話だった。父の休みといえば、まとまって休めるのは正月の1日と2日だけ。あとは週に一度、平日に休みがあるだけだった。家族がそろう日曜日に父がいる、ということ自体がなかった。だから家族みんなで出かけるという機会は、ほとんどなかった。自家用車を持てるほどの余裕もまだなかった。 宿泊旅行など、したことがなかった。 でもそれは、私の家だけの話ではなかったと思う。周りの友達の家も、似たようなものだった。父が必死で働いてくれているのは、子どもながらにわかっていた。だから「どうして旅行に行かないの」とか「なんで車がないの」なんて、口に出したことは一度もない。それは「高嶺の花」であって、羨むものでもなかった。そういう時代だった。 東名高速道路・厚木インターチェンジ付近。背景に大山を望む。昭和44年のこの日、この道がつながった。(Photo: Σ64 / CC BY-SA 3.0) ただ、テレビのニュースに映る東名高速の映像は、なんとなく覚えている。ずらりと並ぶクルマ、広いサービスエリア、富士山を背景にした高速の風景。画面の向こうの話ではあったけれど、「いつかはああなりたい」という気持ちを、国民みんなが抱いていたのかもしれない。豊かになっていくことへの期待と意欲を、あの時代のテレビはうまく掻き立てていたように思う。 昨年の夏、大阪まで それから半世紀以上が経った。 昨年の夏、私は子どもたちを車に乗せて、3泊4日の大阪旅行に出かけた。自宅近くの首都高の入口から乗って、一度も高速を降りることなく大阪まで着いてしまった。一昨年の夏は5泊6日で福井まで行ったが、やはりすべて高速道路でつながっていた。 ハンドルを握りながら、何度か不思議な気持ちになった。 これだけの距離を、これだけ快適につないだ道を、誰かが作ったのだ。山を削り、川に橋をかけ、トンネルを掘り、何年もかけて。あの昭和44年の式典に出席した技術者たちが、その最初の大仕事をやり遂げた。そう思うと、先人たちの仕事への畏怖と感謝が、運転しながら自然と湧いてきた。 そしてもうひとつ、胸の奥にあたたかいものが来た。 私が子ども時代にできなかった「家族旅行」を、今、自分の子どもたちとしている。それは私だけが特別になったわけではない。あの時代から少しずつ、多くの家族が同じことをできるようになった。問題がないわけではないけれど、それでも私たちは「豊かになっている」と実感できる。その豊かさは、必死で産み育ててくれた父と母の上に積み重なっているものだ、と思ったら、感謝の気持ちが溢れてきた。 そしてふと思った。数十年後、私の子どもたちはどんな時代に、どんなことを思い返すのだろう。その想像が、なんだかとても楽しかった。 遠足の海辺で ― 昭和58年5月26日 ところでこの5月26日には、もうひとつ忘れてはならない出来事がある。 1983年(昭和58年)の午前11時59分。秋田県の沖合を震源とするマグニチュード7.7の大地震が起きた。「日本海中部地震」だ。 揺れ自体は震度5。しかし地震の数分後、日本海沿岸に最大6メートルを超える津波が押し寄せた。死者104人のうち、100人が津波で命を落とした。 その中に、遠足中の小学生たちがいた。 秋田県の合川南小学校の4年生と5年生が、2台のバスで男鹿半島の加茂青砂海岸を訪れていた。バスの中で揺れが収まるのを待ったあと、海岸に降りてお弁当を広げようとした瞬間、津波がきた。13人の子どもたちが波にのまれた。 昭和58年、私は14歳だった。同じ5月の晴れた日、遠足でお弁当を広げようとしていた子どもたち。その光景を想像するだけで、言葉が出ない。 1983年(昭和58年)5月26日・日本海中部地震の震度分布図。津波で104人が犠牲になった。(出典:気象庁 / CC BY 4.0) 日本海側では津波の経験が少なく、地震のあとに海へ近づいてはいけないという意識が広まっていなかった。それが被害を大きくした。この地震を機に、日本では津波防災教育が大きく変わっていった。 それでも、2011年の東日本大震災では、日本海中部地震とは比較にならないほどの津波が三陸沿岸を飲み込み、二万人近い命が失われた。教訓を積み重ねてきたはずの私たちが、また大自然の前に立ち尽くした。 人間の生み出す力は偉大だと思う。東名高速道路のように、山を削り、川に橋をかけ、何年もかけて道をつなぐ。そういう力を、私たちは確かに持っている。しかし大自然の前では、その力が幾度となく無力になる瞬間がある。絶望を知り、それでも立ち上がり、また前へ進む。日本という国は、そうやってここまで来た。 これからも、きっとそうやって進んでいくのだと思う。 同じ日付に、ふたつの昭和 高速道路の開通に沸いた昭和44年と、遠足の子どもたちが津波に飲み込まれた昭和58年。 同じ5月26日に、まるで違う昭和がある。前に進む喜びと、自然の前での人間の無力さ。どちらも昭和という時代が正直に刻んだ記録だ。 あなたにとって、昭和の5月はどんな思い出が残っているだろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった ▶

May 25, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日

今日、5月25日は、私がずっと「夏の映画」だと思い込んでいた出来事の、本当の誕生日だ。 昭和52年(1977年)5月25日。アメリカで一本の映画が公開された。タイトルは『スター・ウォーズ』。わずか32の劇場からスタートしたその映画は、瞬く間に全米を席巻し、ジョーズが打ち立てた興行収入の記録を塗り替え、やがてアカデミー賞7部門を獲得した。しかし私は、この日付を長い間知らなかった。 そりゃそうだ。私にとってスター・ウォーズは「昭和53年の夏」の記憶だからだ。 一年間、日本の子どもたちは待たされた 全米公開から約一年が経った昭和53年(1978年)6月、ようやく『スター・ウォーズ』は日本の劇場にやってきた。今でこそ日米ほぼ同時公開が当たり前だが、当時は半年や一年のタイムラグは珍しくなかった。 それでも、その一年間が長かったことは確かだ。「スター・ウォーズ」という映画の噂は、日本にいる子どもたちの耳にもじわじわと届いていた。アメリカで信じられない映像が作られた、光の剣で戦うシーンがある、ロボットが出てくる……。「宇宙戦艦ヤマト」でSFアニメの洗礼を受け、「仮面ライダー」で変身ヒーローに慣れ親しんだ当時の日本の子どもたちにとって、その情報は十分すぎるほど想像を掻き立てるものだった。 待ちきれないファンの中には、大枚をはたいてアメリカまで観に行った人もいたという。今の感覚では信じられないような話だが、海外旅行がまだ贅沢だった時代に、映画一本のためにそこまでした人がいたというのだから、いかに熱狂的だったかがわかる。 映画の舞台「タトゥイーン惑星」のロケ地となったチュニジア・ネフタ周辺の砂丘。あの幻の惑星は、北アフリカの実在する大地に宿っていた。(Photo: DamienSlattery / CC BY-SA 3.0) 王冠の裏に、銀河がいた 私の記憶の中でスター・ウォーズは、映画館よりも先に「コカ・コーラの王冠」で登場した。 日本公開に合わせて、コカ・コーラとファンタのびん入り飲料に、スター・ウォーズのタイアップ王冠が登場した。1本50円の190ミリリットル入り。王冠の内側のビニールをペりとめくると、そこにダース・ベイダーやR2-D2、C-3POといったキャラクターが印刷されていた。コンプリートしたくても、毎日毎日コーラを買い続ける小遣いなどあるはずがない。 だから子どもたちはどうしたか。自販機に備え付けられた栓抜きを使って、大人たちが飲み干してそのまま置いていった王冠を拾ったのだ。栓抜きの溝に引っかかったまま残っている王冠に指を突っ込んで取り出す。地面に落ちているものも当然見逃さない。 私はさらに大胆な手に出た。小学校の正門前にある駄菓子屋——学校指定の用品も売っているような、あの馴染みの店だ——に置いてあった栓抜きの下の王冠受け容器ごと外して、ひっくり返して中身をぶちまけたのだ。今思えば相当なことをしていたが、当時はそれを「工夫」だと信じて疑わなかった。 しかし王冠を手に入れても、それで終わりではない。本当の目的はここからだった。 集めた王冠をアスファルトの地面に置き、靴底で踏みながら足を引きずる。ゴリゴリと摩擦をかけ続けると、王冠のギザギザの縁と、内側のビニール面が少しずつ分離してくる。それをTシャツの布地を外側と内側からはさみ込んで、ギザギザの縁を布に食い込ませる——完成。手製のスター・ウォーズバッジである。 ダース・ベイダーのバッジを胸に貼り付けた瞬間の、あの満足感。100円も使わずに、靴底と地面だけで作り上げた銀河系グッズ。今思えばなんとも必死な話だが、当時はそれが当たり前の「創意工夫」だった。 チュニジア・アジムの「モス・アイズリー・カンティーナ」のロケ地。映画の中でルークとハン・ソロが出会った宇宙酒場は、ここで撮影された。(Photo: Stefan Krasowski / CC BY 2.0) お菓子屋さんでも同じような熱気があった。明治の「マーブルチョコレート」には、スター・ウォーズのキャラクター入りマスコットが同梱された小さな筒入り商品が登場し、1個70円で売られた。みんなが欲しがったのはダース・ベイダーだったが、なぜかチューバッカばかり出てきた──そんな「恨み節」が後になっても語り継がれているのだから、あのブームはリアルだった。森永は「スター・ウォーズ・キャラメル」を発売し、マクドナルドではドリンクを頼むとルーク・スカイウォーカー、C-3PO&R2-D2、ダース・ベイダーの絵柄が入ったカップが出てきた。 映画を観る前から、銀河はすでに子どもたちの手のひらに降りてきていたのだ。 光の剣でチャンバラをした夏 昭和53年の夏休み。映画館の前に子どもたちが列を作った。 宇宙船が音を轟かせてスクリーンを横切る冒頭のシーン。ルーク・スカイウォーカーがライトセーバーを手にする場面。ダース・ベイダーが黒いマントとともに登場した瞬間の、あの重低音。CGなど存在しない時代に、あれほどの映像をどうやって作ったのか今でも不思議だ。 映画館を出た子どもたちは、棒切れや傘を手にしてライトセーバーのチャンバラを始めた。「シュウゥゥ」という効果音を口で言いながら。「フォース」という言葉の意味はよくわからなくても、なんとなく重要なものだということはわかった。ダース・ベイダーに憧れた子も、少なくなかったと思う。あの声、あの存在感、あのマスク——悪役なのに、主人公よりもかっこよかった。 ジョージ・ルーカス監督は、日本の時代劇、特に黒澤明監督の作品から大きなインスピレーションを得ていたとされている。ライトセーバーは刀を、ダース・ベイダーのヘルメットは鎧兜を模したものだと言われていた。遠い銀河の物語が、実は私たちの文化の血を受け継いでいたという事実は、後になって知ると不思議な誇らしさがあった。 チュニジア・アジムに残る「オビ=ワン・ケノービの家」のロケ地。荒野に立つ白い石造りの家——ルークが初めてオビ=ワンと出会う、あの場所だ。(Photo: Stefan Krasowski / CC BY 2.0) 昭和52年5月25日——知らなかった、私の時代の誕生日 話を戻そう。 昭和52年の今日、5月25日。私は12歳だった。その日もおそらく、公園で野球をしていたか、駄菓子屋でホームランバーを買っていたか、テレビのアニメに夢中になっていたか——そんな普通の一日を過ごしていたはずだ。 遠い国の映画館で、歴史が変わっていることを知る由もなく。 それが一年後、コカ・コーラの王冠になり、マーブルチョコのマスコットになり、映画館の行列になって、私の目の前にやってきた。昭和の子ども時代の記憶は、案外そういう形で届くものだったのかもしれない——誰かが5月25日に作ったものが、一年かけて、夏の思い出になって。 あなたも、あの夏の行列を覚えているだろうか。王冠を拾って歩いた、あの日のことを。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月24日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ―5月26日― ▶

May 24, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 5月24日

黒澤明、世界を黙らせた日の翌朝 昭和55年(1980年)5月24日の朝刊を、私は覚えていない。 当時の私はまだ小学校に上がったばかりで、新聞を読む習慣などなかったし、カンヌという南フランスの街の名前も知らなかった。でも大人たちは知っていた。おそらくテレビのニュースでも伝えられていた。黒澤明監督の映画『影武者』が、カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールを受賞した、という知らせを。 前日の5月23日(日本時間)、フランスで開かれた第33回カンヌ国際映画祭の授賞式で、『影武者』がグランプリに輝いた。日本映画がこの賞をとったのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督『地獄門』以来、実に26年ぶりのことだった。 この映画には、公開前から話題が絶えなかった。 武田信玄の影武者として生きる小泥棒の物語を、黒澤はおよそ23億円という当時の日本映画では破格の製作費をかけて作り上げた。しかもその資金集めに協力したのが、ほかならぬハリウッドの二大巨匠、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスだった。あの「ゴッドファーザー」のコッポラと、「スター・ウォーズ」のルーカスが、それぞれ外国版プロデューサーとして名を連ね、世界配給のために動いた。 子どもの私が「スター・ウォーズ」の名前を聞いて目を輝かせていた頃、そのルーカスが、海の向こうで黒澤明のために奔走していたわけだ。あとになってその事実を知ったとき、なにか不思議な縁のようなものを感じた。黒澤の「隠し砦の三悪人」が、ルーカスの「スター・ウォーズ」に影響を与えていたとも言われているから、返礼のようなものだったのかもしれない。 主演の仲代達矢が二役を演じ、山崎努、萩原健一、根津甚八といった芸達者が揃う。北海道から姫路城、熊本城へとロケ地を縦断し、富士山麓には巨大な武田屋形のオープンセットまで建てられた。その配給収入は27億円を超え、その年の邦画のトップに輝いた。 カンヌ映画祭の赤いカーペット。昭和55年5月23日、ここで『影武者』がパルム・ドールを受賞した。(Photo: Rita Molnár / CC BY-SA 3.0) パルム・ドールの報が届いた翌朝の5月24日、大人たちの間でこの映画の話が弾んでいたことは想像に難くない。職場でも、居酒屋でも、「黒澤はやっぱりすごい」「コッポラやルーカスも認めたんだから」という声が聞こえてきただろう。 私はそのとき何をしていたのだろうか。たぶん、ホームランバーを舐めながら公園で遊んでいたか、友達の家でゲームに興じていたか。世界が黒澤明に喝采を送っていたその5月の昼下がりに、昭和の子どもたちはいつも通りの日常を生きていた。 赤線が消えていく、その少し前の話 ずっと以前のこと、昭和31年(1956年)5月24日に、ひとつの法律が公布された。 売春防止法、という。 売春を助長する行為を処罰し、その防止を図ることを目的としたこの法律は、翌昭和32年4月に施行され、罰則の完全施行は昭和33年4月とされた。そして昭和33年に、「赤線」と呼ばれた地域が廃止されていった。 「赤線」とは何か。それは地図に赤い線で囲われた、公娼制度のもとで黙認されていた地区のことだ。戦後の混乱期に各地で形成されたそうした場所は、昭和20年代から30年代にかけて、街の地理の一部として存在していた。 私が育った葛飾でも、立石という町にその痕跡が残っていた。 京成立石駅の北口あたり、商店街の喧騒からほんの少し路地に入ったところに、子どもの目にも「ここはなんか違う」と感じさせる一角があった。建物の造り、看板の雰囲気、ひっそりとした佇まい。大人が子どもに説明するような場所ではなかったから、私はただ漠然と「近づいてはいけない」という空気だけを感じていた。昭和の時分、立石には旧赤線の名残りを留めた一角や特殊浴場と呼ばれる施設が残っており、それは人々の日常のすぐそばに、当然のように溶け込んでいた。 今になって調べてみると、戦後の東京には赤線と呼ばれる地域が十数か所も存在していたという。立石もそのひとつだった。「東京中が赤線だった」と当時の新聞記者が嘆いたという記録すら残っている。昭和33年の赤線廃止以降も、そうした場所の「残り香」は街のあちこちにしみついていて、私が小学生だった昭和50年代にも、その気配はまだ消えてはいなかった。 葛飾区立石の航空写真(2006年撮影)。昭和の面影を残す路地が、今も密集している。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報」CC BY 4.0 売春防止法の公布から、私が生まれるまでに10年以上ある。だから「赤線」そのものを見た記憶はない。しかし、その名残のような場所が日常のすぐ隣に当たり前に存在していたあの頃と、今の時代とでは、街の風景も、人々の感覚も、まるで別の世界のように変わってしまった。 法律ひとつで街の風景が変わる。昭和という時代は、そういう変化が幾重にも積み重なってできた時代だったのだと、今になって思う。 5月24日という日は、大人の世界では二つの大きな出来事に挟まれた日だ。世界に誇る映画監督の受賞という晴れやかな知らせと、街の闇を法律で塗り替えようとした戦後の苦しみと。 どちらも昭和という同じ時代の、同じ5月24日に刻まれている。 あなたは、この日の昭和をどう覚えていますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 ▶

May 23, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月23日~

五月の風が少し強くなる頃、世界のどこかで、昭和の日本を揺さぶるニュースが届くことがある。 この日付には、四年という時間を隔てて、まったく別の舞台で生まれたふたつの「快挙」が眠っている。どちらも、当時の新聞のスポーツ欄や社会面を飾り、茶の間の話題をさらった出来事だ。 世界のクロサワ、カンヌで勝つ——昭和55年(1980年)5月23日 フランスのカンヌから、日本中が沸くようなニュースが飛び込んできた。 黒澤明監督の映画「影武者」が、第33回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞したのだ。日本映画がカンヌの頂点に立つのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督「地獄門」以来、実に26年ぶりの快挙だった。 「影武者」は、戦国武将・武田信玄の影武者に仕立てられた小泥棒の物語だ。信玄の死後、その秘密を守るために「信玄」を演じ続けることを強いられた男が、やがて武田家の滅亡とともに無名のまま消えていく。主演は仲代達矢さん。もともと主演に決まっていた勝新太郎さんが撮影途中で降板するという大騒動もあり、公開前から世間の注目を集めていた。 私は当時小学生で、「カンヌ映画祭」が何なのかわかるはずもなかった。ただ「日本の映画がフランスで一番になった」というニュースが夕方のテレビで繰り返し流れ、父か母が「えらいことになったな」とつぶやいていた記憶だけがある。 それが何の意味を持つのか、大人になってから少しずつわかってきた。 当時の黒澤明は、日本の映画会社から資金を出してもらえない状況が続いていた。そこに手を差し伸べたのが、「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラと「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスだった。世界の頂点にいたハリウッドの鬼才ふたりは、「マスター・クロサワが資金難で映画を撮れないなどあってはならない」と20世紀FOXへの出資交渉に動いた。黒澤が描いた数百枚にも及ぶ絵コンテを目にした彼らは、驚愕して言葉を失ったという。 私たちが公園で野球をしたり、駄菓子屋でアイスを舐めていたあの頃、世界はそれほどの目で、日本の一人の老監督を見つめていた。 上野公園に残る黒澤明の手形。世界が認めた「マスター・クロサワ」の足跡。(Photo: Daderot / CC0) 後年「影武者」を改めて観たとき、私はその映像美に言葉を失った。信玄の影武者として「本物」になろうと足掻きながら、最後まで「偽者」のままで死んでいく男の孤独。土煙の戦場に身一つで踏み込み、矢に射られて倒れていくラストシーン。あれだけの絵を、あの時代に一人の人間がつくり上げたという事実に、今も静かに圧倒される。 三兄弟、同時に関取へ——昭和59年(1984年)5月23日 舞台はがらりと変わって、大相撲の世界へ。 この日、一つの番付発表が相撲ファンを沸かせた。井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決まり、すでに関取だった長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾と合わせて、史上初の三兄弟同時関取が実現したのだ。 「井筒三兄弟」——。父は、「もろ差しの名人」と呼ばれた元関脇・鶴ヶ嶺昭男。自らが師匠を務める井筒部屋に、三人の息子を全員入門させた。長男・鶴嶺山、次男・逆鉾、そして末っ子の寺尾。鹿児島の血を引く父子四人が、同じ土俵で汗を流していた。 私がちょうど千代の富士の昇進を追いかけながら相撲中継に熱中していた頃の話だ。千代の富士が横綱へと駆け上がっていったあの時代、テレビには引き締まった筋肉の「ウルフ」と並んで、細身の体で激しい突っ張りを繰り出す寺尾の姿があった。あの甘いマスクと、信じられないほど速い突っ張りのコントラストが妙に記憶に残っている。 三兄弟の母・節子さんは、当時「蔵前小町」と呼ばれるほどの美人だったという。三兄弟から深く慕われていた節子さんが亡くなったとき、すでに力士だった長男と次男に、父・鶴ヶ嶺はこう言ったそうだ。「おまえらお客さんいるんだから帰れ」と。そうして三男・寺尾の四股名は、亡き母の旧姓から一字をとって付けられた。 相撲の家族とは、こういうものなのだ、と思った。土俵の上の激しさとは裏腹に、その根っこに流れているものは、ひどく人間的なあたたかさだ。 寺尾こと現・錣山親方。細身の体から繰り出す突っ張りで長く土俵を沸かせた。(Photo: FourTildes / CC BY-SA 3.0) 昭和59年のあの番付発表の日、父親の鶴ヶ嶺はどんな顔をしていたのだろう。三人の息子が同時に「関取」として土俵に立つ——親として、師匠として、どんな言葉もきっとうまく出てこなかったのではないか、と想像する。 二つの「父と子」の話として 並べてみると、昭和55年と59年のこの日の出来事には、どこか共鳴するものがある。 カンヌでパルム・ドールを受けた黒澤明も、自分の映画を撮るために敬愛する弟子たちの力を借りた。三兄弟も、父親が切り拓いた土俵の上を、それぞれの足で歩いた。受け継ぐもの、超えようとするもの、守り続けるもの。「影武者」の問いかけと、三人の力士の姿が、同じ五月二十三日という日付の中でひそかに重なって見える。 そしてこの話を書きながら、ふと自分のことを思った。 私には妻との間に4男1女、5人の子どもがいる。歳の差はあるが、みな丈夫で元気に育ってくれた。そして5人全員が、小学生時代に同じ学童野球チームに所属した(末っ子は現在も所属中だ)。そのチームは、今から45、6年前——私自身が小学生だった頃に所属していたチームでもある。 同じグラウンド、同じユニフォーム、世代をまたいで続く縁というものが、確かにある。 いつの日か、私も含めた6人全員で同じグラウンドに立って、野球の試合をしたい。それが今の私の、ひそかな楽しみであり目標だ。そのためにも毎日のランニングと懸垂を続けている。笑われるかもしれないが、本気でそう思っている。 鶴ヶ嶺親方が三人の息子と同じ土俵に立った気持ちが、少しだけわかる気がする。 あなたには、子どもや孫と「同じ場所に立つ」夢があるだろうか? 【昭和55年(1980年)5月23日】第33回カンヌ国際映画祭にて、黒澤明監督「影武者」がパルム・ドール受賞。日本映画26年ぶりの栄冠。 【昭和59年(1984年)5月23日】大相撲・井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決定。長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾とともに史上初の三兄弟同時関取が実現。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月24日 ▶

May 22, 2026