菓子が、こわいものになった日 ― 昭和59年9月12日、森永製菓に脅迫状が届いた|昭和の今日は何があった日?

大阪に届いた、一通の封筒 昭和59年、1984年9月12日の朝。大阪にあった森永製菓の関西販売本部に、一通の脅迫状が届いた。 差出人は「かい人21面相」。文面はこうだった。グリコと同じ目にあいたくなければ、1億円を出せ。要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて店頭に置く。 そして封筒には、実際に青酸入りの菓子が同封されていた。 この年の3月、江崎グリコの社長が兵庫県西宮市の自宅から連れ去られた。犯人は身代金10億円と金塊100キロを要求し、社長は三日後に自力で脱出した。4月には本社が放火され、5月には新聞各社に「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」という挑戦状が届いた。それが報じられた途端、全国の店頭からグリコの商品が消えた。工場も止まった。 その矛先が、9月12日、森永に向いた。 菓子メーカーが狙われている。しかも、菓子そのものが凶器として使われる。子どもが最も近づきやすい場所に、毒が置かれるかもしれない。そういう事件だった。 中学三年生の秋だった 私はそのとき、中学三年生だった。 昭和44年4月生まれだから、15歳。受験という言葉が、そろそろ現実の重さを持ちはじめる頃だ。 事件のことは、テレビのニュースやワイドショー番組で知った。 「かい人21面相」という名前を初めて聞いたとき、私が感じたのは恐怖ではなかった。おふざけなのか、と思った。犯人が自分で名乗る名前としては、あまりにも軽い。江戸川乱歩の少年探偵団に出てくる怪盗をもじった、遊びのような響きだった。 そして正直に言えば、どこか他人事だった。 昭和59年という年を並べてみると、妙な取り合わせになる。この年の11月には新しい紙幣が発行され、一万円札の顔が福沢諭吉になった。テレビではコアラやエリマキトカゲが騒がれていた。その同じ年の裏側で、菓子メーカーが次々に脅されていたのだ。 事件が起きているのは関西で、私が住んでいるのは東京の東の端だ。テレビの中で起きていることとして眺めていた。あとから考えれば、それは幸運なことだったのかもしれない。 いま振り返ると、この事件は昭和の犯罪史の中でも特異な形をしている。犯人は一度も人前に姿を現さなかった。身代金の受け渡し現場にも現れなかった。そのかわり、新聞社やテレビ局に百四十通を超える手紙を送りつけ、警察を挑発し、世間を観客にした。のちに「劇場型犯罪」と呼ばれるようになる手口の、はしりだった。 観客席に座らされていたのは、私たちだ。菓子を買う側の、ごく普通の人間たちだった。 棚から消えた記憶は、ない 正直に書いておきたいことがある。 私には、葛飾の店から森永の菓子が消えたという記憶がない。 森永の商品で、当時これをよく食べていた、と言えるものも特にない。翌年には高校生になって、買い物の場所は主にコンビニエンスストアに変わっていった。そのどちらの時期を思い返しても、売り場から森永製品が減ったとか、姿が見えなくなったとか、そういう光景は残っていないのだ。 企業にとっては数十億円という単位の損害だったという。だが数字は、あとから知ったことだ。当時の私が見ていたのは、テレビの画面の中の大阪であって、自分が立っている売り場ではなかった。 記憶がないということ自体が、ひとつの事実だと思う。関西で起きた事件が、東京の中学生の日常の棚までは届いていなかった。少なくとも、私の目には映っていなかった。 その距離が縮まるのは、翌月のことだ。 「どくいり きけん たべたら しぬで」 10月7日から13日にかけて、大阪、京都、兵庫、愛知のスーパーやコンビニで、不審な森永製品が次々に見つかった。四府県で13個。そこには紙が貼られていた。 どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相 ひらがなで書かれていた。子どもでも読める字だった。そして実際に、中には青酸ソーダが入っていた。 10月8日には百貨店にも脅迫状が届く。森永製品を置くな、という要求だった。そこには「わしらに さからいおったから 森永つぶしたる」と書かれていた。 私はテレビでこの文言を見たのだと思う。関西弁で、ひらがなで、まるで子どもに話しかけるような書き方で、人が死ぬかもしれないことが書いてある。その落差が気味悪い。 そして、本当に毒が入っていたという報道が流れたとき、空気が変わった。 それまで他人事だったものが、私たちの周りでも話題になった。日々の会話の中に、この事件が入り込んできていた。学校で、家で、誰かが口にする。名前が軽いことも、関西の事件であることも、もう関係がなくなっていた。 「おふざけなの?」と思っていた名前が、人を殺しかねない名前になった。私にとってこの事件が本当に始まったのは、9月12日ではなく、その一ヶ月後だったのだと思う。 誰も捕まらないまま終わった この事件は、終わらないまま終わった。 翌昭和60年の夏、犯人グループはマスコミ宛の文書で事件の終息を告げ、それきり沈黙した。一年半近く続いた騒ぎは、解決ではなく、相手が勝手にやめるという形で終わった。捕まえて終わらせたのではない。終わったと言われたから、終わったのだ。 ...

September 12, 2026

十円玉を握って、走った──9月11日、公衆電話の日|昭和の今日は何があった日?

今の子どもに「公衆電話でかけてみて」と言ったら、たぶん固まる。受話器を上げるのが先か、お金を入れるのが先か。それ以前に、受話器という言葉が通じるかどうか。 私たちの世代には、考えるまでもない動作だった。受話器を上げて、十円玉を落として、番号を押す。あの一連の流れを、体のほうが覚えている。 9月11日は「公衆電話の日」。今日は、街角からだんだん姿を消していった、あの箱の話をしたい。 明治三十三年、上野と新橋に置かれた「自働電話」 1900年(明治33年)9月11日、東京の上野駅と新橋駅の構内に、日本で初めての街頭公衆電話が設置された。上野駅は駅長室の前、新橋駅は中等待合室の前。それまで公衆電話は電信局や電話局の建物の中にしかなかったから、この日は「電話が街へ出た日」ということになる。 当時の呼び名は「自働電話」。アメリカの街頭電話に掲げられていた「オートマティック・テレホン」をそのまま直訳したものだといわれている。ところが名前に反して、中身はまったく自動ではなかった。受話器を上げると交換手が出る。つないでほしい相手を口で伝える。そのうえで硬貨を入れる。ダイヤルもボタンも、そもそも付いていない。 面白いのは料金の確認方法だ。5銭と10銭で投入口が二つあって、硬貨が落ちていく途中で音が鳴る仕掛けになっていた。5銭はゴングで「チーン」、10銭はらせん状の鐘で「ボーン」。交換手はその音を電話越しに聞いて、いくら入ったかを判断していたという。耳でお金を数えていたわけだ。しかもこの方式、戦後までおよそ五十年にわたって使われ続けた。 料金は市内一通話五分で15銭。当時の米一升とだいたい同じ値段だったというから、気軽にかけられるものではない。翌10月には、京橋のたもとに六角錐の形をした最初の屋外用電話ボックスが立つ。「公衆電話」という名前に変わるのは1925年(大正14年)、交換手を介さない自動式が入ってからのことだ。 赤、青、黄、そして緑 私が子どもだった昭和40年代から50年代、公衆電話は色で覚えるものだった。 いちばん身近だったのは赤電話だ。昭和26年に委託公衆電話という仕組みが始まり、28年から赤に統一された。店先にちょこんと置かれている、あの丸っこいやつ。その形と色から「赤ダルマ」と呼ばれていたそうだ。高砂でも、たばこ屋の店先には赤電話があったと思う。 ボックス用には青電話があった。昭和47年には100円玉が使える黄電話が登場する。それまでは通話の途中で十円玉を追加で放り込まなければならなかったから、百円が使えるというのは当時としてかなりの進歩だった。 同じ昭和47年には、喫茶店や食堂の帳場に置かれる大型のピンク電話も出てくる。昭和50年にはプッシュ式。十年ほどのあいだに、公衆電話はずいぶんカラフルになっていった。 そして駅前だ。高砂の駅前には電話ボックスがあって、中にあったのは緑色の電話だった。駅前だけではない。街のあらゆる場所にボックスが立っていて、あるのが当たり前の景色だった。 ここで記録と突き合わせておくと、ボックス用として最初に置かれたのは青電話で、緑色が主流になるのは昭和57年のカード式公衆電話が出てからのことになる。つまり、私が子どもの頃に「あそこにボックスがある」と覚えた風景と、自分で扉を開けて中に入るようになった高校時代とのあいだに、電話機のほうも一度入れ替わっていたわけだ。 景色は変わっていないつもりでいて、中身は静かに更新されている。街というのは、だいたいそういうふうにできている。 駅前のボックスに、列ができていた 私が公衆電話を本格的に使うようになったのは、高校生になってからだ。 駅前の電話ボックスに列ができている様子は、はっきり記憶に残っている。一人が入ると、外で二人、三人が待っている。中の人の様子はガラス越しに丸見えで、長引くと自然に視線が刺さる。今思えばあれは、通話のマナーを街ぜんぶで見張っているような光景だった。 ポケットに十円玉が何枚あるか、話しながら頭のどこかで数えている。表示が減っていく。あと一枚しかない。用件を先に言え、と自分に言い聞かせる。そして一番言いたいことを言い残したまま、ぷつりと切れる。 忘れられないのは、友達数名で、気になっている女子の家に順々に電話をかけたことだ。家の電話だから、出るのが本人とはかぎらない。お母さんが出たらどうする。名乗るのか、名乗らないのか。受話器を握る手が汗ばんで、次の一人に代わる。あのハラハラドキドキは、電話が一軒に一台しかなかった時代にしか成立しないものだったと思う。 相手の家族を経由しないと、好きな子の声にたどり着けない。今の子どもたちには、たぶん一生わからない緊張だ。 カードが、通話を持ち歩かせた 昭和57年(1982年)12月23日、東京・銀座の数寄屋橋公園に、日本で初めて磁気式のテレホンカードが使えるカード式公衆電話が設置された。翌昭和58年にはカードの自動販売機が登場し、昭和60年には電電公社が民営化されてNTTが発足する。 テレホンカードは500円から5000円まで四種類。十円単位で引き落とされるから硬貨のような無駄が出ないし、何より、一枚持っていれば十円玉を探さなくてよくなった。今にして思えば、あれは「通話を個人が持ち歩く」という発想の、いちばん最初の形だったのかもしれない。 高校生になってからは、私も常にテレホンカードを持つようになった。買うだけでなく、いろいろな場面でいただくことも多かった。企業が販促に使い、アイドルや風景の写真が刷られ、集める人が現れる。電話をかけるための道具が、かけずに取っておくものになっていった。 ひとつ、今でも引っかかっている光景がある。上野で、イラン人と思われる人たちがテレホンカードを盛んに売っていた。私は買ったことがないが、あれはいったい何だったのか。 調べてみると、あれは昭和ではなく平成に入ってからの風景で、出回っていたのは「変造テレホンカード」と呼ばれるものだったらしい。使い終わったカードの磁気データを書き換えて度数を戻し、額面より安い値段で売る。NTT側の被害は相当な額にのぼり、後の電話機がカード対策を厚くしていく直接の理由になった。 便利なものが広まると、その裏側を突く商売も必ず生まれる。テレホンカードの十数年は、そのことを一枚の薄いカードで見せてくれた気もする。 その公衆電話が、手のひらサイズの模型になっている。緑の機械も、ピンクのダイヤル式も。あの形をもう一度近くで見ると、思い出すことが山ほどあります。 NTT東日本 NTT西日本 公衆電話ガチャコレクション 番外編 全6種セットタカラトミーアーツ(再販)。ダイヤル式ピンク電話を含む全6種のフルコンプセット。手のひらサイズの精巧なミニチュア。星4.0 Amazonで見る › 「なくなってから気づく」もの 公衆電話は今、ずいぶん減った。携帯電話が一人一台になった以上、それは当たり前のことだ。 ...

September 11, 2026

色は先に来て、水はあとから来た──9月10日、カラーテレビと下水道の日|昭和の今日は何があった日?

9月10日には、まったく毛色の違う二つの記念日が重なっています。 ひとつは「カラーテレビ放送記念日」。もうひとつは「下水道の日」。 片方は華やかで、もう片方は地味です。片方は茶の間の真ん中にあり、もう片方は地面の下にあります。子どもの頃の私が覚えているのは、当然のように前者だけでした。 ところがこの二つを並べてみると、昭和の家がどう変わっていったのかが、驚くほどはっきり見えてきます。 昭和35年9月10日、茶の間に色がついた 1960年(昭和35年)9月10日、NHK、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(現在のTBS)、読売テレビ、朝日放送の5局が、東京と大阪でカラーテレビの本放送を始めました。アメリカ、キューバに次いで世界で3番目のことです。 ただ、この日を境にみんなの家が一斉に色づいたわけではありません。 当時のカラー受像機は21型で50万円ほど。白黒テレビの10倍近い値段でした。しかもカラー番組は、一日に一時間あるかないかという時期が続きます。 数字を見ると、その遅さがよくわかります。カラーテレビの世帯普及率は、統計に現れる最初の年である1966年(昭和41年)でわずか0.3%。そこから急な坂を登り始め、1971年に42.3%、1972年に61.1%、そして1975年(昭和50年)に90.3%。放送開始から15年かかって、ようやく十軒に九軒までたどり着いたことになります。 私が生まれたのは昭和44年。この坂のちょうど途中に生まれ落ちたことになります。 そして実際、私には白黒テレビを見た記憶があります。 『仮面ライダー』の2号。『ウルトラマンA』。『ウルトラマンタロウ』。このあたりは、白黒で観ていた記憶があるのです。 ここで少しややこしいのは、これらの番組はどれもカラーで放送されていたということです。色がなかったのは番組のほうではなく、我が家の受像機のほうでした。テレビ局はとっくに色を送っていたのに、それを受け取る箱がまだ白黒だったのです。 我が家に色がやって来たのは、高砂駅のそばから中川の土手のそばへ引っ越した後のことだったと思います。観音扉のついたテレビ台に載った、18型のカラーテレビ。チャンネルはもちろん、ガチャガチャと回す式でした。 タロウとゴレンジャーのあいだ 面白いのは、テレビが色を手に入れたことで、番組のつくり方まで変わっていったことです。 1966年(昭和41年)の『ウルトラマン』では、胸のカラータイマーが点滅して残り時間を知らせます。白黒テレビで見ている人にもわかるよう、明滅という「動き」で伝える工夫でした。まだ多くの家が白黒だった時代の設計です。 ところが1975年(昭和50年)、『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まります。赤、青、黄、桃、緑。もう色そのものが登場人物の名前になっている。白黒テレビでは成立しない番組です。 そして私は、ゴレンジャーははっきりとカラーで観ていました。 自分の記憶を並べ直すと、我が家のテレビが色を手に入れた時期が、かなり狭く絞り込めます。 『ウルトラマンタロウ』が終わったのが昭和49年(1974年)の春。『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まったのが昭和50年(1975年)の春。前者は白黒で、後者はカラーで観ている。つまり我が家に18型が来たのは、そのあいだの一年ということになります。 全国の普及率が90%を超えたのが、まさに昭和50年です。我が家は、坂を登りきる集団の、少し後ろのほうを歩いていたことになります。 その『秘密戦隊ゴレンジャー』だけを一冊にまとめたムックがあります。五人の設定も、放送リストも、当時の写真も。あの春に何が始まったのかが、まるごと入っています。 スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー(Kindle版)講談社シリーズMOOK。昭和50年春に始まった第1作を一冊で総覧。キャラクター設定から全話リストまで。星4.5(54件) Amazonで見る › もうひとつの9月10日 さて、同じ9月10日は「下水道の日」でもあります。 始まりは1961年(昭和36年)。当時の建設省と厚生省、そして今の日本下水道協会の前身が協議して、「全国下水道促進デー」として定めました。2001年(平成13年)に、より親しみやすい名前へと改称されて今に至ります。 制定の理由は切実でした。当時の日本の下水道普及率は、わずか6%。諸外国に比べて著しく遅れており、全国に訴えかける必要があったのです。 なぜ9月10日なのか。この日がちょうど、立春から数えて220日目の「二百二十日」にあたるからです。昔から大きな台風が来る日とされてきました。下水道の大事な仕事のひとつは、汚水を流すことではなく雨水を流すこと。街を水浸しにしないことです。台風の日に下水道を思い出してほしい、というわけです。 葛飾は、ずっとあとだった ここからが、私にとっての本題です。 葛飾区の下水道整備がどう進んだのか、区史に記録が残っています。 葛飾区の下水道事業が動き出したのは、昭和48年(1973年)6月のことです。小菅処理場の一部が動き始め、小菅・堀切地区で下水道管の設置工事に着手しました。この年度の区の普及率は、1%です。 同じ年度、東京都区部全体の普及率は58%でした。 つまり葛飾は、都心が半分以上終わっている時点で、ようやくスタートラインに立ったのです。昭和59年(1984年)度にやっと50%を超え、100%にほぼ達したのは平成7年(1995年)度。事業開始から23年目のことでした。 昭和48年に私は4歳。昭和59年には15歳、中学三年生です。私が高砂で子ども時代を過ごしたあいだ、葛飾のほとんどの土地には、まだ下水道が通っていなかったことになります。 ...

September 10, 2026

9月9日 ── 最後の四・八キロがつながった日、私は完全に凍りついていた|昭和の今日は何があった日?

九月九日。昭和六十二年(一九八七年)のこの日、日本の地図の上で、一本の線がようやくつながりました。 埼玉県の川口ジャンクションと浦和インターチェンジのあいだ、わずか四・八キロ。この短い区間の開通で、東北自動車道は全線開通しました。同じ日、首都高速川口線も開通して、首都高と東北道がひと続きになります。 結果、青森インターチェンジから熊本の八代インターチェンジまで、約二千キロが高速道路一本でつながりました。北の端から南の端まで、一度も一般道に降りずに走り切れる。日本列島に、初めて縦の背骨が通った日でした。 曜日でいえば、水曜日。その日、私は十八歳の高校三年生でした。 十五年かかった、一本の道 東北道が最初に開通したのは、昭和四十七年(一九七二年)十一月十三日。岩槻インターから宇都宮インターまでの九十二・五キロです。私はまだ三歳、葛飾の高砂で、線路のそばの家に暮らしていました。 そこから東北道は、少しずつ北へ伸びていきました。矢板、白河、郡山、白石、仙台、一関、盛岡。年に一区間、二区間というペースで、東北の背骨が一節ずつつながっていきます。そして昭和五十四年(一九七九年)九月、私が小学四年生の秋に、ついに青森インターまで到達しました。 はるか北の青森までは、昭和五十年代のうちにもう届いていたのです。 ところが、です。東京にいちばん近いところが、最後まで残りました。浦和から川口までの四・八キロ。開通は、青森到達から八年も後のことでした。 事業費は三百五十億円。一キロあたり七十億円を超えます。人家の密集した都市部に高速道路を通すのは、山を貫くのとはまるで違う難しさがあったのでしょう。いちばん短い区間が、いちばん最後まで残った。地図の上のほんの数ミリを埋めるために、十五年が必要だったわけです。 「葛飾川口線」という名前 同じ日に開通した首都高速川口線のほうにも、葛飾に住む者として見逃せない話があります。 首都高川口線は、足立区の江北ジャンクションから、埼玉県川口市の川口ジャンクションまでを結ぶ路線です。地図をなぞればわかるとおり、葛飾区は通っていません。 ところが、この道路の道路法上の正式な路線名は、「東京都道・埼玉県道242号 高速葛飾川口線」。葛飾、なのです。 なぜかというと、この路線名の指定区間には、川口線そのものに加えて、中央環状線の小菅ジャンクションから江北ジャンクションまでが含まれているからです。小菅は、葛飾区。つまり法律の上では、この道は葛飾から始まって川口に至る道、ということになっている。 青森から八代までをつないだ最後のピース。その出発点に、こっそり「葛飾」の名前が入っていた。地元の名が、日本列島の背骨の付け根に刻まれていたわけです。 十八歳の秋、私は完全に凍りついていた その歴史的な水曜日、私は何をしていたか。正直に書きます。完全にフリーズ状態でした。 七月二十三日、神宮第二球場での試合を最後に、私の高校野球は終わりました。二対三。あれほど毎日を埋め尽くしていたものが、ある日ぱたりとなくなった。そのあとに残ったのが、九月の私でした。 進路について、やりたいこと、やれること、やらねばならないこと。そのすべてを棚上げしてきた当然の結果です。棚上げ、と書きましたが、正確に言えば違います。考えたくなかったから、逃避していた。それが正しい。 だから、この日のニュースについては、まったく覚えがありません。青森から八代までが一本になった、と新聞もテレビも伝えていたはずですが、十八歳の私には何ひとつ届いていませんでした。 日本の道が縦につながったその日、私はどこへも進めずに止まっていた。並べて書いてみると、ずいぶん皮肉な取り合わせです。 車のない家に育って、二十歳で運転席に座った そもそも子どものころ、うちには車がありませんでした。だから「高速道路」が、生活の中にまったくなかったのです。 高速道路は、テレビの中や地図の上にあるものでした。走ったこともなければ、乗せてもらったこともない。 私が自分で高速道路を運転するようになったのは、一年浪人して大学に入り、運転免許を取って、ローンで車を買ってからです。 当時は、車がなければ彼女もできないような時代の雰囲気がありました。思い込みだったのかもしれませんが、少なくとも私はそう感じていました。 そして、自分の車を持てたときは、本当に嬉しかった。ただ運転しているだけでも、喜びがこみ上げてきました。どこへ行くというわけでもなく、ハンドルを握っているだけで楽しい。あの感覚は、たぶん一生に一度しか味わえないものです。 その道を、私は当たり前のように走っていた 大学時代、私はスキーによく出かけました。宮城県の蔵王、岩手県の安比高原。東北道を使って、いろいろなところへ行きました。 ──ここで、話がつながります。 葛飾から東北のスキー場へ向かうということは、首都高から川口ジャンクションへ入り、東北道に乗るということです。つまり私は、あの四・八キロを通っていたのです。 十五年かかったあの最後の区間。三百五十億円かけて埋められた地図の空白。それを私は、開通からたった二年後に、何も知らないまま、当たり前の顔をして通過していた。「せっかくつながった道だ」などとは、これっぽっちも思っていません。スキー場のことしか頭になかったはずです。 道というのは、そういうものなのでしょう。できあがってしまえば、最初からそこにあった顔をする。誰が苦労してつないだかなど、走っている人間はいちいち考えません。 荷物を運ぶ側から見えた道 大学を出て信用金庫に入り、その後、佐川急便へ移りました。新木場のデポです。 意外に思われるかもしれませんが、佐川急便時代に仕事で東北道を走ったことはありません。担当エリアを回って荷物を集め、届けるのが私の仕事でした。 けれど──と、いまになって思うのです。 私が集荷した荷物は、高速道路のおかげで全国各地へと迅速に届けられていました。反対に、全国各地から、私の担当エリアのお客さまあての荷物が到着していました。当たり前のように毎日を過ごしていましたが、それってとんでもないことですよね。 葛飾で受け取った小さな段ボールが、翌日には青森にある。青森で出された荷物が、翌日には私の手元にある。それを支えていたのが、昭和六十二年九月九日に一本になった、あの背骨でした。 いま私は路線バスの運転士ですから、仕事で高速道路を使うことはありません。けれど、無関係でもないのです。 高速道路が通行止めになると、本来そこを走るはずだった車が下の道へ流れてきて、思わぬ渋滞が発生します。地上の道と高架の道は、そうやってつながっています。 その高速道路そのものを、まるごと一冊で扱った新書があります。なぜサービスエリアはあの間隔なのか、料金はどう決まっているのか。毎日ハンドルを握る人ほど、たぶん面白く読めます。 ...

September 9, 2026

9月8日 ── 毒霧を吹いた日本人と、中間子を予言した日本人|昭和の今日は何があった日?

九月八日には、まるで似ていない二人の日本人が並んでいます。 一人は、顔を白と赤に塗り分け、口から緑色の霧を吹いた男。もう一人は、原子核の中に誰も見たことのない粒子があると言い当て、日本人で初めてノーベル賞を受けた学者。 ザ・グレート・カブキは昭和二十三年(一九四八年)九月八日に生まれ、湯川秀樹は昭和五十六年(一九八一年)九月八日に亡くなりました。片方は誕生日、片方は命日。共通点は日付だけ。 それでも今日はこの二人を並べてみます。子どもだった私にとって「世界で通用した日本人」は、どういう顔をしていたのか。そう考えると、どうしてもこの二人が同じ線の上に乗ってくるのです。 延岡の自転車屋の三男坊 ザ・グレート・カブキ、本名を米良明久(めら・あきひさ)といいます。宮崎県延岡市に三人兄弟の末っ子として生まれました。お父さんは戦艦大和の元乗組員で、戦後は自転車店を営んでいたそうです。中学二年で愛知県知立市へ移り、学生時代は水泳の選手として活躍、柔道にも打ち込んでいました。 昭和三十九年(一九六四年)一月、日本プロレスに入門。同じ年の十月三十一日、宮城・石巻大会の山本小鉄戦でデビュー。翌年、リングネームを高千穂明久に改めます。 ここまでは、正直に言って、地味です。派手な必殺技があるわけでもない、堅実に試合を組み立てる中堅どころ。日本プロレスが崩壊すると全日本プロレスへ移り、そこでも中堅のまま、やがてアメリカへ渡ります。 昭和五十六年(一九八一年)一月、そのアメリカで、彼は「ザ・グレート・カブキ」になりました。 歌舞伎の隈取りのようなペイント。般若の面をつけた連獅子姿、鎖帷子をまとった忍者スタイル、日本刀を携えた鎧武者姿。両手のヌンチャクを唸らせ、口から霧を吹く。「東洋の神秘」という異名がつきました。 面白いのは、アメリカでの彼の「出身地」が、日本ではなくシンガポールとされていたことです。当時のアメリカには、すでに日本製の自動車も電化製品も行き渡っていた。日本はもう「神秘の国」ではなかったのです。だから、もっと遠い、もっと得体の知れない場所から来たことにする必要があった。日本人が日本人であることを隠して「東洋の神秘」を演じる。あの時代の日本と世界の距離が、そのまま写り込んでいるように思います。 そしてこのギミックが、爆発しました。 昭和五十八年二月、カブキが帰ってきた 昭和五十八年(一九八三年)二月、カブキは凱旋帰国します。全日本プロレスのリングに、カブキのまま登場。馬場や鶴田と並ぶほどの人気を得た、と記録されています。世に言う「カブキブーム」です。 180センチ、110キロ。数字だけなら、当時のプロレス界で飛び抜けて大きいわけではありません。それでも画面の中で、あの顔は明らかに異物でした。 私は全日本も見ていました。土曜日の夕方ではなかったでしょうか。新年恒例の、たくさんのレスラーがリングに上がって生き残りをかけるバトルロイヤルは、毎年の楽しみでした。 毒霧も、もちろん見ました。ただ、かっこいいと言うよりは、あの「異様」さのほうに興味を持ちました。緑色の霧が口から噴き出す。あれには驚かされたものです。 私はタイガーマスクが好きな少年でしたが、怪奇派の悪役が嫌いだったかというと、まったく逆です。タイガーマスクだけでは盛り上がりませんよね。やはり実力と人気もある悪役レスラーが存在してこそ、引き立つヒーローでしょう。カブキは、その役割そのものでした。 そして学校でどうしたか──当然、やりました(笑)。水を口に含んで、思いきり吹く。あれをやらなかった中学生が、あのころどれだけいたでしょうか。 日本を出るときは中堅だった男が、アメリカで別人になって帰ってきた。しかもその別人は、外国人が思い描く「日本」を思いきり誇張した姿をしていた。逆輸入では足りない、奇妙なねじれがそこにはあります。このスタイルは、のちのグレート・ムタに受け継がれていきました。 中学時代まで、プロレスの見方は小学生のころと変わりませんでした。全日本も新日本も、どちらも興味を持って観ていた。ただ感覚的には、周りで話題になっていたのはアントニオ猪木の新日のほうだったように思います。カブキは、その外側から現れました。 その二年前、同じ日に カブキがアメリカで生まれ変わったのが昭和五十六年一月。その同じ年の九月八日、京都で一人の学者が亡くなりました。 湯川秀樹。生まれは東京の麻布、育ちは京都でした。 昭和十年(一九三五年)、二十代の若さで、原子核の中で陽子や中性子を結びつける「中間子」という粒子の存在を、理論的に予言しました。実物は誰も見ていない。計算と理屈だけで、そこに何かがあるはずだと言い切ったのです。 十二年後の一九四七年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが、宇宙線の中からパイ中間子を発見します。紙の上で言い当てたものが、本当にあった。そして昭和二十四年(一九四九年)、湯川秀樹は日本人として初めてノーベル賞を受賞しました。 戦争に負けて四年目です。焼け跡がまだ残る国で、日本人がノーベル賞を受けた。国じゅうが沸いたと伝わっているのも、無理はないと思います。 昭和四十五年(一九七〇年)に京都大学を定年退官。その後は前立腺癌を患い、自宅で療養しながら学術活動を続けました。米ソの緊張が激しくなるなか、亡くなる年の六月には十五年ぶりに第四回科学者京都会議を実現させ、相当に悪い体で車椅子のまま出席して、核兵器の廃絶を訴えています。 その三か月後、急性肺炎から心不全を併発し、京都市左京区の自宅で亡くなります。七十四歳。 昭和五十六年九月八日。私は小学六年生でした。 そして正直に書きますが、私はこの日を覚えていません。 湯川秀樹という名前は、いつの間にか聞き覚えがあるな、という感じで頭の中にありました。学校で習ったのか、テレビで見たのか、伝記で読んだのか、はっきりしません。ノーベル賞という言葉も、詳しくは分かっていませんでした。理科や科学に興味があったかというと、これも正直、特にありませんでした。あのころの私は「あばれはっちゃく」タイプの小学六年生です。日本人初のノーベル賞学者が亡くなった日、私はたぶん、外で走り回っていました。 その湯川秀樹が、自分の子ども時代から物理学の道に入るまでを書いた回想録があります。文庫で七七〇円。難しい数式は出てきません。あの写真の人が、どんな子どもだったのか。 旅人 ある物理学者の回想(角川ソフィア文庫)湯川秀樹/KADOKAWA。日本初のノーベル賞学者が、幼少期から青年期までを自ら綴った回想録。星4.3(190件) Amazonで見る › 「世界で通用した日本人」の顔 この二人を並べたいと思ったのは、子どもの私にとって「世界で通用した日本人」という言葉が、まるで違う二つの顔をしていたからです。 湯川秀樹は、教科書と伝記の中にいる人でした。偉い。すごい。でも、遠い。中間子と言われても、何のことだかわかりません。名前と「日本人初のノーベル賞」という肩書きだけが、記号のように頭に入っている。実感は、ありませんでした。 一方、カブキはテレビの中で動いていました。アメリカで大成功して帰ってきた日本人が、目の前で霧を吹いている。何がどうすごいのか理屈はわからなくても、「向こうで通用した」ということだけは、体でわかった気がしました。 いま並べてみると、この二人は正反対のことをやっています。 湯川秀樹は、誰も見たことのないものを「ある」と言い当てた人です。日本人であることを隠す必要も、誇張する必要もない。数式の前では、国籍は関係がありません。 カブキは逆です。日本人であることを外国人の期待に合わせて思いきり作り込み、しかも出身地はシンガポールということにされた。中身ではなく、見え方で勝負した。 ...

September 8, 2026

9月7日 ── どんぶりを持って、道に出た|昭和の今日は何があった日?

今日は9月7日。 この日には、二つの記念日が重なっています。ひとつは「明星チャルメラ」が発売された日。もうひとつは「CMソングの日」。 一見、何のつながりもない二つです。片方はインスタントラーメンで、片方はラジオの広告の話。並べる理由なんてなさそうに見えます。 でも、私はこの二つを並べてみて、あ、と思いました。どちらも音の話なんです。 チャルメラという商品名は、屋台のラーメン屋が吹いていたあの楽器の名前です。テレビから流れてきたCMソングも、耳から入ってきて勝手に居座った音でした。 昭和の子供は、商品を音で覚えていた。そんな気がしてきたのです。 1966年9月7日、チャルメラが発売された 「明星チャルメラ」の発売日は、1966年(昭和41年)9月7日。今日でちょうど発売60周年になります。還暦です。 明星食品には、この4年前に大きな発明がありました。1962年に開発したスープ別添方式です。それまでの即席麺は麺そのものに味を付けて油で揚げていたため、どれを食べても似たような味にしかならない。ところがスープを粉末にして小袋に分けたことで、味の種類が一気に作れるようになった。この方式は各社に模倣されて即席麺の標準型になり、焼そばや和風麺まで生まれます。今スーパーの棚に袋麺が何十種類も並んでいるのは、もとをたどればここに行き着くわけです。 その技術の上に立って作られたのがチャルメラでした。開発はラーメン屋の食べ歩きから始まったといいます。目指したのは「街のラーメンの味」「飽きない味」。ホタテのエキスをスープに加え、仕上げ用に別添の「木の実のスパイス」を付けた。「木の実」と「好み」をかけた名前だそうです。現在は「秘伝のスパイス」と名前を変えていますが、中身は発売当初からほとんど変わっていないとのこと。 そして、あの袋です。夜の町角、明かりの灯る屋台、庇付きの帽子をかぶってチャルメラを高く吹き鳴らすおじさん。あの絵は200点以上の候補から選ばれたもので、描いたのはイラストレーターの木村修二さん。おじさんも、猫も、屋台も、夜景も、すべて同じ人の手によるものでした。 商品名を音から取り、パッケージにその音を吹いている人を描く。考えてみると、ずいぶん大胆なことをしています。袋の中から音は出ないのに、見た人の頭の中では鳴っている。 わが家の袋麺は、サッポロ一番だった 正直に言うと、わが家の定番はチャルメラではありませんでした。 サッポロ一番のしょうゆ味。これが基本です。母が作ってくれて、必ず卵を落としてくれました。あの、白身が半分固まりかけたところをスープごとすする感じ。袋麺の味というより、あれはもう母の作るラーメンの味として記憶に残っています。 ただ、チャルメラもちゃんと食べています。ときどき、しばらくチャルメラが続く時期があった。子供心には理由がわかりませんでしたが、たぶん安売りしていたんでしょうね。母がスーパーで、いつもの棚を見て、こっちが安いからと手を伸ばした。それだけの話だったはずです。 その「それだけの話」が、六十年続いた商品の売り上げの一つになっている。当たり前ですが、ロングセラーというのは、そういう小さな判断の積み重ねでできているのだと思います。 どんぶりを持って、道に出た そして、屋台のほうのチャルメラです。 これははっきり覚えています。昭和五十年ごろ、わが家の前の道を、夜になると屋台が通っていました。チャルメラを鳴らしながら、ゆっくりと引いて歩いてくる。 どんぶりを持って買いに出た記憶があります。家の器を持って、外に出て、道の上でラーメンを受け取る。今の感覚だと、なかなかすごいことをやっています。店に行くのでもなく、出前を待つのでもなく、店のほうが家の前まで来る。 思えばあの頃、うちの前の道はいろいろな商売が通っていく道でした。豆腐屋のラッパ。竿竹屋。石焼き芋屋。チリ紙交換。みんな、それぞれの音を持っていました。 そして私は、石焼き芋屋の後ろをくっついて歩いて、一緒に「いーしやーきいもーおいもー」と叫んでいたことがあります(笑)。今考えると、商売の邪魔以外の何物でもない。よく怒られなかったものです。 引き売りというのは、音で自分の存在を知らせる商売です。看板も出せない、チラシも配れない。だから音を出す。豆腐屋はラッパ、ラーメン屋はチャルメラ、焼き芋屋は自分の声。 ちなみに、こうして売り歩く商売はずいぶん昔からあります。下の絵は室町時代の『七十一番職人歌合』に描かれた豆腐売り(右)と素麺売り(左)。五百年前から、人は物を担いで町を歩いていました。 そのぜんぶが、いつのまにか街から消えました。 9月7日はCMソングの日 もうひとつの記念日にいきます。 1951年(昭和26年)9月1日、日本で民間ラジオ放送が始まりました。この日開局したのは、名古屋の中部日本放送と大阪の新日本放送の二局。それまでNHKだけだった電波に、初めて広告が乗ることになったわけです。 この機会を逃さなかったのが、小西六写真工業——のちのコニカ、現在のコニカミノルタでした。民放の第一声で新番組を始めたいと考え、30分の番組枠を買い、曲づくりを人気の作詞・作曲家、三木鶏郎に委嘱します。 三木が考えたのは、「NHKではできないものは何か」ということでした。そこで出てきた答えがコマーシャルソング。こうして生まれたのが「ボクはアマチュアカメラマン」です。歌ったのは灰田勝彦。 この曲がすごいのは、社名も商品名もいっさい出てこないことです。「さくらフイルム」のCMでありながら、歌の中にその名前が出てこない。代わりに歌われているのは、ピンボケだの露出過度だのブレだのという、アマチュアカメラマンの失敗談ばかり。CMだと気づかれにくく、だからこそ多くの人に抵抗なく受け入れられて、大流行したといいます。 ちなみに、この曲の初オンエアは開局日の9月1日でした。それでも9月7日が記念日になっているのは、この曲が9月7日から始まった三木の担当番組『冗談ウエスタン』のために作られ、その番組で毎週流されていたからだそうです。 三木鶏郎はこの後、誰もが口ずさめるCMソングを次々と世に送り出していきます。「明るいナショナル」も「キリンレモンのうた」も、この人の仕事でした。 「明るいナショナル」——ここまで読んで、頭の中で勝手に鳴り出した方がいるのではないでしょうか。私はそうでした。 その三木鶏郎という人については、まるごと一冊の評伝が出ていました。日本最初のCMソングから、政治家を怒らせた諷刺コントまで。この記事を書きながら、いちばん読みたくなった本です。 冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史(新潮選書)泉麻人/新潮社。戦後最大のラジオスターにして、日本最初のCMソングの作り手。永六輔や野坂昭如を輩出した傑物トリロー、初の評伝。星4.1 Amazonで見る › 三丁目の電柱 私がいまだに全部歌えるCMソングがあります。 ...

September 7, 2026

9月6日 ── 銀のエンゼルと、言えなかった「欲しい」|昭和の今日は何があった日?

今日は9月6日。 数字の語呂合わせでできた記念日が、この日はやたらと多い日です。「く(9)ろ(6)」で黒の日、黒豆の日、黒酢の日。「ク(9)リーム(6)」で生クリームの日。そんな中に、昭和の子どもにとって一番なじみ深い一つがあります。 「キ(9)ョロ(6)ちゃんの日」。森永製菓が制定した、チョコボールの日です。 そしてもう一つ。この9月6日は、昭和の子どもたちの頭の中に巨大ロボットを住みつかせた、あの漫画家の誕生日でもあります。 永井豪。1945年(昭和20年)9月6日生まれ。 駄菓子屋の棚と、テレビの中のロボット。まったく別の場所にあった二つが、9月6日という一日でつながっている。今日はその話をします。 選ぶのは、必ずピーナッツだった チョコボールが世に出たのは1967年(昭和42年)。私が生まれる2年前のことです。 当時、チョコレートといえば板チョコが主流で、子どもが気軽に買えるお菓子ではありませんでした。森永製菓は1964年に大人向けの高級チョコレート「ハイクラウン」を大ヒットさせており、その次に「子どもたちも楽しめるチョコレートを」という発想で生まれたのがチョコボールでした。粒状で、手が汚れない。この「手につかない」というのが、実は大きな発明だったのだと思います。 パッケージにあの鳥のキャラクターが登場したのも1967年。ちょっとドジで憎めないあの顔は、子どもたちのほうが先に受け入れてしまいました。 そして仕掛けが、エンゼルマークです。箱のくちばしの部分を開くと、内側に金か銀のエンゼルが印刷されていることがある。金なら1枚、銀なら5枚で「おもちゃのカンヅメ」がもらえる。景品の歴史は1967年2月の「まんがのカンヅメ」に始まり、1969年4月に「おもちゃのカンヅメ」として本格的にスタートしました。第1弾の缶に描かれていたのは、タツノコプロのアニメ『ドカチン』。1973年にはウルトラマンや『科学忍者隊ガッチャマン』が缶を飾るようになります。テレビっ子の視線を、お菓子メーカーがきっちり読んでいたわけです。 私にとってチョコボールは、頻繁に買えるお菓子ではありませんでした。買ってもらえるのは、母の高砂のイトーヨーカドーへの買い物についていったときです。売り場で「何か買っていいよ」と声がかかる。あの一言のための買い物同行だったと言ってもいい。 選ぶのは、必ずピーナッツでした。他の味に浮気した記憶がありません。今思えば、母のほうも「まあこれを選ぶんだろうな」と分かったうえで声をかけていたのでしょう。 エンゼルは、銀しか当たったことがありません。そして5枚集まるまでくちばしを保管できたことも、ついに一度もありませんでした。集めているつもりでいるうちに、どこかへいってしまう。あれは全国の子どもに共通の結末だったんじゃないでしょうか。 その、必ず選んでいたピーナッツです。20個入りで届きます。くちばしを開ける瞬間だけは、いまも変わりません。 森永製菓 チョコボール〈ピーナッツ〉 28g×20個1967年発売のロングセラー。箱のくちばしを開けると、金か銀のエンゼルが出ることがあります。星4.0(72件) Amazonで見る › テーブルの上の、100円玉が2枚 小学生の頃、私のお小遣いは1日100円でした。 母はパートタイマーの仕事に出ていて、学校から帰ると家には誰もいません。テーブルの上に置き手紙があって、「お帰りなさい」と書かれている。その脇に100円玉が2枚。私の分と、妹の分です。 決して少ない額ではなかったと思います。友だちと比べて劣等感を覚えたことは一度もありませんでした。その100円は、もっぱら遊びの途中の買い食いに消えていきます。駄菓子屋で使い切って帰る、その繰り返しでした。 「これは買っちゃだめ」と言われた記憶がないのは、そもそも言われるほどの金額を持っていなかったからかもしれません。100円という枠が、最初から線を引いてくれていた。 同じ9月6日に生まれた男 さて、もう一人の主役です。 永井豪さんは1945年9月6日、石川県輪島市に生まれました。7歳だった1952年から東京・豊島区で育ち、都立板橋高校を卒業。幼い頃に手塚治虫の『ロストワールド』を読んだことが、漫画家を志すきっかけだったといいます。 石ノ森章太郎のアシスタントを務めたのち、デビューは1967年。『ぼくら』(講談社)に載った『目明しポリ吉』でした。 1967年。チョコボールが世に出て、キョロちゃんが生まれたのと、同じ年です。 翌1968年には『週刊少年ジャンプ』で『ハレンチ学園』の連載が始まり、たちまち大ブームになる一方、PTAをはじめとする大人たちから猛烈な批判を浴びます。1969年4月にはダイナミックプロダクションを設立。奇しくも、おもちゃのカンヅメが始まったのと同じ月でした。 そして1972年(昭和47年)、『デビルマン』と『マジンガーZ』が漫画とテレビで同時に走り出します。 このとき永井豪さんがやったことは、いま振り返ると異様に大きい。それまでの巨大ロボットは、リモコンで外から操縦するものでした。それを「人が乗り込んで、自分の体のように動かす」ものに変えた。ロボットが道具から乗り物になり、子どもは自分がその中に座っている想像ができるようになったのです。 『マジンガーZ』を、私は途中からですが確かに見ています。1974年9月の最終回で、ぼろぼろになったマジンガーZの前にグレートマジンガーが現れる、あの回もリアルタイムで見ました。5歳のときです。続く『UFOロボ グレンダイザー』は、6歳の秋から。こちらは最初からリアルタイムでした。 『デビルマン』は、おそらく再放送だったのだと思います。意識して待っていたわけではなく、夕方にテレビをつけたらデビルマンがやっていたから見る、という温度感でした。 その『デビルマン』の原作は、いまも手に入ります。夕方に何気なく見ていたあの話が、紙の上ではどこへ向かっていたのか。読み返すと、たぶん驚きます。 デビルマン(画業50周年愛蔵版)全5巻永井豪とダイナミックプロ/小学館。1972年連載の原作を全5巻にまとめた愛蔵版。星4.7(30件) Amazonで見る › 60センチの、言えなかった「欲しい」 永井豪さんの発明は、テレビの中だけでは終わりませんでした。玩具メーカーのポピーが、そのロボットを子どもの手の中に持ってきます。1974年末に登場した超合金の第1号がマジンガーZ。ずしりと重い金属の手ざわりで、ロケットパンチが飛ぶ。 ...

September 6, 2026

9月5日 ── 土曜の夕方は嬉しくて、日曜の夜は憂鬱だった|昭和の今日は何があった日?

新聞が届いて、まずテレビ欄 昭和52年(1977年)9月5日は、月曜日でした。 私は8歳。小学2年生です。夏休みが終わって、二学期が始まったばかり。 当時、新聞は毎朝当たり前のように届いていました。今はもう取っていませんが、あの頃、朝刊が来て私が必ずチェックしていたのが、テレビ欄です。一面でも社会面でもなく、いちばん後ろのページ。 考えてみれば、あれは子どもにとっての一日の予定表でした。今日の夜は何があるのか。それを確かめてから、学校に行く。 その9月5日の月曜、テレビ欄には何が並んでいたのか。当時の番組編成をたどってみると、なかなかすごいことになっていました。 昭和52年9月5日・月曜のテレビ欄 夜七時台を並べると、こうなります。 19:00 日本テレビ『元祖天才バカボン』 19:00 フジテレビ『あしたへアタック!』(最終回) 19:30 テレビ朝日『一休さん』 三十分の中に、バカボンのパパと、女子バレー部と、とんち小僧が同時に存在していた。今のテレビ欄では絶対に見られない光景です。 そしてこの日、フジテレビの『あしたへアタック!』は、最終回でした。 記憶にない半年間 正直に書きます。私は『あしたへアタック!』を、まったく憶えていません。 『あしたへアタック!』は、昭和52年4月4日から9月5日まで、フジテレビ系列で毎週月曜19時から放送されていたアニメです。全23話。制作は日本アニメーション。 企画のきっかけは、フジテレビが独占放送していたバレーボールワールドカップが、この年に日本で初めて開催されることでした。原案は『サインはV』の原作者・神保史郎。『アタックNo.1』の演出や脚本を手がけた人たちも参加しています。オープニングを歌っていたのは、アニメソングの女王・堀江美都子さんです。 内容は「全日本の選手として世界に挑む」という話ではなく、高校バレーを舞台にした青春もの。しかも出だしがなかなか重い。橘高校の女子バレー部は、過酷なしごきで部員が亡くなる事故を起こし、事実上の廃部状態になっている。3年生の聖美々が、そこから部を立て直そうと奔走する——という始まり方です。 これだけの布陣で作られた半年間が、私の中には一秒も残っていない。 一方で、同じ月曜の夜に放送されていた『一休さん』は、リアルタイムで観ていた記憶がはっきりあります。『アタックNo.1』は再放送で観ました。『サインはV』は名前だけ知っている。そして昭和54年に始まった『燃えろアタック』——荒木由美子さん主演の、金曜7時半のあれ——は、毎週しっかり観ていました。 バレーものが嫌いだったわけではないのです。ただ、月曜の夜七時、私はおそらく日本テレビにチャンネルを合わせていた。 バカボンから、一休さんへ 『元祖天才バカボン』は、昭和50年10月6日から昭和52年9月26日まで、毎週月曜19時。全103回、204話。赤塚不二夫さんの『天才バカボン』の二度目のアニメ化で、「元祖」と名乗ったのは、一作目が原作から離れすぎたという反省があったからだそうです。ウナギイヌが初めて登場したのも、このシリーズでした。 そして19時30分からは、テレビ朝日の『一休さん』。 こちらは昭和50年10月に始まって、昭和57年6月まで続いた長寿番組です。当初は水曜でしたが、昭和51年4月から月曜19時30分に移ってきました。初期は日本船舶振興会の一社提供で、あの「火の用心のうた」のCMが間に流れていた。作曲は山本直純さんです。 おそらく私は、七時に日本テレビでバカボンを観て、七時半にテレビ朝日へチャンネルを回して一休さんを観ていた。そういう月曜の夜だったはずです。 つまり、私が『あしたへアタック!』を憶えていないのは、遠い番組だったからではありません。同じ時間に、別のものを選んでいたからです。テレビ欄というのは、番組表であると同時に、選ばなかったもののリストでもあったのだと、今になって気がつきました。 その二度目のアニメ化のもとになった原作は、いまも文庫で手に入ります。ウナギイヌもレレレのおじさんも、もとはこの中にいました。 天才バカボン 1(竹書房文庫)赤塚不二夫/竹書房。日本ギャグマンガ界不滅の金字塔。実験期のハチャメチャさもそのまま。星4.1(21件) Amazonで見る › 曜日を、番組で覚えていた 9月5日は月曜でしたから、あの有名どころは別の曜日に並んでいます。当時のテレビ欄を一週間ぶん広げると、こうなります。 水曜19:00 フジテレビ『ドカベン』 土曜18:30 フジテレビ『ヤッターマン』 日曜19:30 フジテレビ『あらいぐまラスカル』 この三本は、全部欠かさず観ていました。 『ドカベン』は当然です。野球少年でしたから。ただ、なかなか場面が進んでいかないことにイライラしていた記憶があります。一球投げるのに何分かかるんだ、と。原作の連載に追いつかないよう引き延ばしていたのでしょうが、子どもにそんな事情はわかりません。 そして今でもはっきり憶えているのは、番組そのものより、番組と結びついた気持ちのほうです。 『ヤッターマン』は土曜の夕方六時半。観ながら「まだ明日は休みだー」と思っていました。 『あらいぐまラスカル』は日曜の七時半。観ながら「明日は学校だー」という気持ちになっていました(笑)。 同じフジテレビの、同じような時間の、同じアニメなのに、片方は嬉しくて、片方は憂鬱だった。曜日を覚えるより先に、番組で曜日を覚えていたのだと思います。 日曜の夜の、あの気持ちのほうです。いま観たら、たぶん憂鬱ではなくなっているはずですが。 世界名作劇場・完結版 あらいぐまラスカル [DVD]バンダイビジュアル。全52話を1枚にまとめた完結版。日曜7時半のあの主題歌から。星4.1(30件) Amazonで見る › 同じ日、大人の世界では ところで、この9月5日は、大人のニュースのほうでも大きな日でした。 ...

September 5, 2026

9月4日 ── ランランが死んだ日、いつでも見られると思っていた|昭和の今日は何があった日?

午前1時24分 昭和54年(1979年)9月4日の未明、上野動物園のパンダ舎で、ランランが息を引き取りました。午前1時24分のことでした。 前の日の夕刊は、こう伝えています。「こん睡状態続くランラン いちるの望み託して 一時は注射に反応」。日本中が、まだ望みを捨てていませんでした。 ランランは、日本で最初のジャイアントパンダでした。昭和47年(1972年)に中国からやってきて、7年足らず。推定10歳でした。 行列2キロ、観覧時間30秒 パンダが日本に来たのは、昭和47年9月の日中国交正常化を記念してのことでした。北京動物園で飼われていた個体のなかから、容姿も性格も最も優れた2頭が選ばれたといいます。中国名はシンシンとアルシン。来日にあたって、カンカンとランランと名づけ直されました。 2頭が上野動物園に到着したのは、同年10月28日。当時の内閣官房長官・二階堂進が、わざわざ羽田空港まで専用機を出迎えに行ったというのですから、国を挙げての一大事だったことがわかります。 一般公開は11月5日。この日から、日本中が文字どおり熱に浮かされました。公開初日の見物客は約6万人。最盛期には毎日平均1万5千人が訪れ、行列は長さ2キロメートル、待ち時間は2時間。それでいて、実際にパンダを見られる時間はわずか30秒だったといいます。 2時間並んで、30秒。 私はこのとき3歳ですから、この熱狂そのものの記憶はありません。物心ついたときには、パンダはもう「上野にいて当たり前の動物」でした。 京成線で一本、上野動物園 私にとって、上野動物園はかなり身近な場所でした。 京成高砂から京成上野まで、京成線で一本。乗り換えなしで着いてしまう。家族でも行きましたし、保育園の遠足でも行きました。行こうと思えば行ける場所に、それはありました。 だからでしょうか。パンダに対しては、グッズを持つほどの興味はありませんでした。ぬいぐるみも、文房具も、私の身のまわりにはなかったと思います。「見ようと思えばいつでも見られる」という思いが、どこかにあったのかもしれません。 「パンダを見に行った」という友だちの話は、もちろん聞きました。でも、そこで胸が騒ぐということもなかった。当時の私の興味は、もっぱらウルトラマンや仮面ライダーのほうに向いていましたから。 日本中が2時間並んでいたものを、私は電車で一本のところに置いたまま、特に見に行こうともしなかった。今思うと、ぜいたくな話です。 お腹のなかに、いた ランランが倒れたのは、昭和54年8月のことでした。自然妊娠のあとに妊娠中毒症や尿毒症などの合併症を起こし、腎不全に陥ったのです。腹膜透析まで行う懸命な看護が続けられましたが、9月4日、力尽きました。 そして、亡くなったランランのお腹のなかには、10センチほどに育った胎児がいました。 カンカンとランランの間に赤ちゃんが生まれることは、当時の日本人にとって長年の悲願でした。その年の5月には3年連続の交尾成功が報じられ、期待は最高潮に達していたのです。あと少しでした。 翌年の昭和55年6月30日には、残されたカンカンも心不全で亡くなりました。日本の「最初のパンダ」の時代は、こうして2年足らずのうちに終わりました。 憶えていない、ということ さて、ここで正直に書いておかなければなりません。 昭和54年9月4日、私は小学4年生でした。10歳です。ニュースを見た記憶があってもおかしくない年齢ですが、憶えていないのです。 テレビで見たのか、新聞で読んだのか、朝の食卓で親が話していたのか。学校で話題になったのか、先生が何か言ったのか。悲しかったのか、「ふーん」で終わったのか。お腹に赤ちゃんがいたことを当時知っていたのかどうかも。 ひとつも憶えていません。 これを書きながら思うのは、遠かったから憶えていないのではない、ということです。むしろ逆かもしれません。上野は電車で一本で、パンダはいつでもそこにいて、いつでも見られるはずのものでした。あまりに日常の風景の一部になっていたものが欠けたとき、10歳の私はその欠けたことに気づかなかった。 いつでも見られると思っていたものが、その日、見られなくなっていた。そのことに気づかないまま、私は次の日も学校へ行ったのだと思います。 「さよならランラン」というレコード ランランの死から1か月後の昭和54年10月5日、日本クラウンから1枚のシングルレコードが発売されました。タイトルは「さよならランラン」。 収録されていたのは、歌ではありません。A面が「さよならランラン(元気なときのランランの声)」、B面が「がんばってカンカン(かなしいカンカンの声)」。ふたつとも、パンダの鳴き声そのものでした。 追悼盤としてパンダの鳴き声のレコードが売り出され、それが商品として成立してしまう。昭和という時代の熱量を、これほどよく表しているものもない気がします。今なら、まず企画会議を通らないでしょう。 けれども、笑ってしまうと同時に、少しわかる気もするのです。日本中が、あの2頭を本気で自分たちの家族のように思っていた。だから声が聴きたかった。それだけの話なのだと思います。 五人の子の父親になって ランランのことを、こうして今になってあらためて知ると、不思議な気持ちになります。 昭和54年の9月4日、ランランが亡くなったとき、私はまだ10歳でした。この出来事そのものは、ほとんど記憶に残っていません。 でも、いま五人の子どもの父親になった自分が、ランランの最期についての記事を読むと、当時とはまったく違うところに目が行きます。 ランランのお腹の中には、10センチほどの胎児がいた。 この事実です。 当時の私は、そんなことを知ったとしても、たぶん「パンダの赤ちゃんがいたんだ」くらいにしか思わなかったでしょう。でも今は、子どもを五人育ててきたからこそ、その10センチの命を想像してしまいます。 まだ生まれてもいない、小さな命。母親のお腹の中で育っていて、これから生まれてくるはずだった命。ランラン自身も、もう少しで母親になれたのかもしれません。 そう考えると、「ランランが死んでしまった」というニュースだけではなく、そのお腹の中にいた小さな命まで一緒に失われたのだと思えてきます。 子どもを持つ前だったら、ここまで感じなかったでしょうね。自分が親になって、子どもの成長を一人ひとり見てきたからこそ、命というものの重さが少しずつ分かってきたのだと思います。 動物園という場所が、いま何をしているのかを知る本があります。生まれてから死ぬまで、一頭の動物の一生をどう支えるか。あの日のランランに、いまの動物園なら何ができたのだろうかと、つい考えてしまいました。 いのちをつなぐ動物園 生まれてから死ぬまで、動物の暮らしをサポートする京都市動物園 生き物・学び・研究センター編。動物福祉、環境エンリッチメント、繁殖と研究。飼育下で一生を過ごす動物の幸せをどう考えるかを、スタッフ自身が書いた一冊。星4.3 Amazonで見る › 動物園という場所 パンダという存在についても、今は少し違った見方をします。 ...

September 4, 2026

9月3日 ── あいつは、私と同い年だった|昭和の今日は何があった日?

今日は9月3日。 この日が誕生日だという有名人は、たぶん何人もいます。けれど、日本でいちばん有名な「9月3日生まれ」は、人間ではありません。 2112年9月3日生まれ。ドラえもん。 まだ生まれていないのです。あと86年、待たなければならない。それなのに私たちは、毎年この日を誕生日として祝ってきました。考えてみると、ずいぶん不思議な記念日です。 あいつは、私と同い年だった このシリーズを書いていると、たまに驚くことがあります。今日もそうでした。 『ドラえもん』の連載が始まったのは、1969年(昭和44年)12月。小学館の学年誌6誌——『よいこ』『幼稚園』『小学一年生』から『小学四年生』まで——の1970年1月号に、いっせいに載りました。 1969年。私が生まれた年です。私は4月生まれですから、ドラえもんが世に出たとき、私は生後8か月ということになります。 つまり、あいつは私と同い年でした。このブログの名前が「昭和44年男」であることを思うと、なんだか可笑しい。 もっとも、最初からうまくいったわけではありません。6誌に同時連載されたにもかかわらず、当初はさして注目されなかったといいます。1973年(昭和48年)に日本テレビでアニメ化されたものの、制作会社の解散により半年で終了。人気も一段落したとみなされ、連載終了さえ検討されました。 そして1974年(昭和49年)3月、『小学四年生』に「さようなら、ドラえもん」が掲載されます。ドラえもんが未来へ帰る、あの回です。当時4歳の私はまだ何も知りませんが、あれは本当に最終回として描かれたのでした。 けれど作者は思い直し、翌月「帰ってきたドラえもん」を描きます。あの一回の翻意がなければ、今日という記念日そのものが存在しなかったことになります。 ちなみに誕生日が「2112年9月3日」と決められたのも、連載開始からしばらく経ってからでした。1975年(昭和50年)4月号の『小学四年生』に載った「ドラえもん大事典」で、はじめてドラえもんの誕生から出発までが描かれたのです。身長129.3センチ、体重129.3キロという数字も有名ですが、これは連載当時の小学4年生の平均身長にちなんだものだといわれています。のび太を見下ろさない、同じ高さの目線。学年誌に載る漫画は、その学年の子どものために描かれるのだと、あらためて思います。 私の出会いは、のろいのカメラだった 私がドラえもんとはっきり出会った場面を、いまでも覚えています。 小学3年生。イトーヨーカドー高砂店の3階にあった本屋さんでした。棚から手に取ったのが、てんとう虫コミックスの『ドラえもん』第4巻です。 そのとき私は、まだコロコロコミックを知りませんでした。テレビでの放映も、まだ始まっていません。学年誌でもなく、友達の家でもなく、本屋の棚。あの一冊が、私とドラえもんの最初の一歩でした。 そして第4巻の巻頭に載っているのが、「のろいのカメラ」です。 つまり私がドラえもんという漫画で最初に読んだ話は、これでした。 シャッターを切ると、写した相手そっくりの人形が出てくるカメラ。その人形を叩けば、本人にも痛みが伝わる。バラバラにすれば、本当にバラバラになる。ドラえもん自身が、出すのをためらった道具です。 いま思えば、ずいぶんなご挨拶でした。空を飛ぶでも、どこかへ行けるでもない。人を呪うための道具です。それが、私にとってのひみつ道具の第一号だった。 もっとも、9歳の私はそんなことは考えていません。ただ、面白いものを見つけた、と思っただけです。 本はその本屋さんで買っていました。そしてもうひとつ、読める場所がありました。児童館です。あそこにはドラえもんがかなり揃っていて、私はよく読んでいました。買うのと、借りて読むのと。あの頃の子どもにとって、漫画に手が届く道は、そう多くはありません。その両方が、私の場合は高砂にありました。 その第4巻は、いまも同じ形で売られています。目次を確かめてみたら、やはり第1話が「のろいのカメラ」でした。四十数年前に本屋の棚で開いた、あのページです。 ドラえもん(4)(てんとう虫コミックス)藤子・F・不二雄/小学館。第1話「のろいのカメラ」から「ソノウソホント」「アベコンベ」「石ころぼうし」まで収録。星4.7(273件) Amazonで見る › 放送が始まるまでの、あのワクワク いま私たちが「ドラえもん」と聞いて思い浮かべるアニメが始まったのは、1979年(昭和54年)4月2日。テレビ朝日系です。 当初は今のような形ではありませんでした。月曜から土曜までの帯番組で、1回10分。夕方に毎日ちょっとずつ流れる、そういう番組だったのです。あの金曜夜7時の30分枠に移ったのは、1981年(昭和56年)10月2日から。私が小学6年生の秋でした。 私にとって強く残っているのは、圧倒的に前者——夕方の帯番組のほうです。 正確に言えば、番組そのものよりも、始まると知ってから、実際に放送されるまでの間の記憶です。あのワクワク感は凄かった。クラスの友達との話題も、その事についてが大半を占めていたと思います。 考えてみれば当然でした。私はもう第4巻を読んでいる。あいつがどんな顔で、どんな道具を出すのかを知っている。その知っているものが、動いて、喋る。しかも毎日夕方にやってくる。始まる前から面白いに決まっていたのです。 一方で、映画のほうは記憶がありません。翌1980年(昭和55年)3月15日に第1作『のび太の恐竜』が公開され、以後、春休みに映画館へ行くという習慣が日本中の子どもに生まれるわけですが、私はそこに加わっていない。 理由ははっきりしています。すでに私は野球少年でした。興味は、完全にそちらへ向かっていたのです。 なお、この夕方という時間帯には、私はもう一度べつの作品と出会うことになります。そちらは再放送でしたが。 「どこでもドアがあったら」 ひみつ道具の話は、よくしました。 私が欲しいと言っていたのは、どこでもドアだったと思います。 下校途中でした。友達と歩いて帰りながら、「どこでもドアがあったら、一瞬で家に着くのにな〜」なんて話していた。 いま思えば、笑ってしまうような望みです。歩いて帰るのが面倒だ、ただそれだけの理由でした。けれど子どもの願いというのは、たいていそういうものです。壮大な夢ではなく、目の前のちょっと面倒なことを、なんとかしてほしい。 そしてこの願いだけは、いまだに叶っていません。 連載開始のあの1970年1月号は、6誌それぞれで違う第1話が載っていました。その6種類を全部まとめた一冊が出ています。私が生まれた年に、6つの学年に向けて別々に描かれたものが、いま一冊で読めるわけです。 ドラえもん 0巻(てんとう虫コミックス)藤子・F・不二雄/小学館。6種類の「幻の第1話」を初出バージョン&完全カラーで収録。伝説の予告や、創作秘話まんが「ドラえもん誕生」も。星4.4(1,435件) Amazonで見る › 五人の子どもと、ドラえもん 今、私は五人の子どもを持つ父親になりました。 ...

September 3, 2026