【昭和の今日は何があった日?】7月16日──私が生まれた年、人類は月へ向かった

昭和44年7月16日。世界初の有人月宇宙船「アポロ11号」が、アメリカ・フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられました。 昭和44年生まれの私にとって、これは「同い年」の出来事です。とはいえ、当時の私は生後3ヶ月半。首がようやく据わったかどうかという赤ん坊ですから、当然ながら記憶にございません。 それどころか、白状してしまうと、私はアポロについて詳しく知らないまま50年以上を生きてきました。「アームストロング船長が月に降りた」「人類にとっては偉大な飛躍である、という名言」。知っているのは、せいぜいその程度。物心ついたときには月面着陸はすでに「歴史」であり、教科書の中の出来事だったのです。 今回、この記事を書くにあたって初めてアポロ11号のことを腰を据えて調べました。すると、これが面白い。知らなかったことだらけでした。今日は、55歳を過ぎてようやく「月への旅」を追体験した男の話に、しばしお付き合いください。 昭和44年7月16日、夜10時32分 まず驚いたのは、打ち上げの正確な時刻です。現地フロリダでは7月16日の午前9時32分。日本時間に直すと、同じ7月16日の夜10時32分でした。 つまり、日本では多くの家庭がテレビの前でこの瞬間を見ていたのです。NHKは夜9時45分から75分間の報道特別番組「アポロ11号発射」を放送し、視聴率は43.8%を記録したといいます。夜10時半に、国民の4割以上がロケットの発射を見守っていた。今では考えられない光景です。 発射場の周辺には推定100万人もの見物客が詰めかけ、打ち上げの様子は世界33ヶ国にテレビ中継されました。全長110メートルを超える巨大なサターンVロケットが、3人の宇宙飛行士――アームストロング船長、オルドリン、コリンズ――を乗せて、轟音とともに空へ昇っていく。 その夜、東京の下町・葛飾の片隅では、生後3ヶ月の私が寝ていたはずです。当時、我が家にテレビがあったかどうかは、今となっては確かめようがありません。ただ、ひとつだけ、はっきり覚えていることがあります。 3歳くらいになって、いろいろなことが分かるようになった頃、父が私に何度もこう言ったのです。 「アポロ11号は人を乗せて月に着陸したんだぞ。すごいよな」 一度や二度ではありません。何度も、です。幼い私の記憶に刻み込まれるほど繰り返したということは、父にとってそれだけ強烈な出来事だったのでしょう。あの夜、あるいはあの昼、父もどこかでテレビの前に立っていたのかもしれません。 8年がかりの「月への競争」だった 調べてみて次に驚いたのは、アポロ11号が決して「順風満帆の一発成功」ではなかったということです。 始まりは昭和36年(1961年)。ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行を成功させ、宇宙開発競争でアメリカは完全に後れを取っていました。そこでケネディ大統領が打ち出したのが「1960年代が終わるまでに、人間を月に着陸させ、安全に地球へ帰還させる」という国家目標です。 しかし道のりは平坦ではありませんでした。昭和42年(1967年)にはアポロ1号が訓練中の火災事故で炎上し、3人の宇宙飛行士が亡くなっています。計画は一時中断。それでも8号で月の周回飛行を、10号で月面1万5000メートルまで接近する「予行演習」を積み重ね、ようやく11号で本番を迎えたのです。 ケネディ大統領の公約から8年。大統領自身はその実現を見ることなく世を去っていました。期限とされた「60年代」の残りは、あと半年もありません。まさに滑り込みの挑戦だったわけです。 日本中が見た「小さな一歩」 打ち上げから約4日後の7月21日(日本時間)、月着陸船「イーグル」が月の「静かの海」に着陸します。早朝5時18分のことでした。 そしてお昼前の11時56分、アームストロング船長が月面に第一歩を踏み下ろします。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」――あの名言が生まれた瞬間です。 日本では平日月曜日の昼前。それなのに、NHKの中継の視聴率は68%に達したといいます。その日のうちに何らかの形で映像を見た人は、実に91%。学校でも職場でも、テレビのある場所に人が集まり、38万キロ彼方から届く白黒の映像に見入っていたのでしょう。 面白いのは、この年、日本の家電メーカーが「月面着陸をカラーで観よう」というキャッチコピーでカラーテレビを売り込んでいたことです。昭和44年のカラーテレビ生産台数は約483万台と、わずか4年前の48倍に跳ね上がりました。ところが肝心の月面からの映像は、機材の重量制限のため白黒だった。なんとも皮肉な話ですが、アポロが日本の茶の間のカラー化を後押ししたのは間違いなさそうです。 3人目の男と、持ち帰られた月 もうひとつ、調べていて心に残ったことがあります。月に降り立ったのは2人ですが、アポロ11号の乗組員は3人だったということです。 アームストロングとオルドリンが月面を歩いている間、司令船操縦士のマイケル・コリンズは、たったひとりで月の周回軌道を飛び続けていました。月の裏側に回れば、地球との交信も途絶えます。人類の歓喜の輪から38万キロ離れた場所で、静かに仲間の帰りを待つ。子供の頃に「月に降りた人」の名前だけを覚えていた私は、この3人目の男の存在をほとんど意識したことがありませんでした。野球で言えば、派手なホームランの裏で黙々と走者を進めるバントのような仕事です。歳を重ねた今だからこそ、この人に一番心を惹かれるのかもしれません。 2人は月面に約21時間半滞在し、およそ21キロの「月の石」を採取しました。3人を乗せた司令船は7月25日(日本時間)、太平洋に無事着水。ケネディの公約――月に人間を着陸させ、安全に地球へ帰還させる――は、ここで完全に達成されたのです。 そして持ち帰られた月の石は、翌昭和45年の大阪万博でも大きな話題になります。アメリカ館に展示された「月の石」(こちらは続くアポロ12号が持ち帰ったものだそうです)を一目見ようと、連日長蛇の列ができたという話は、私も後年何度も耳にしました。当時1歳の私はもちろん万博には行っていませんが、日本中が月に熱狂した時代の余韻は、その後の子供時代のそこかしこに残っていたように思います。 思えば、子供時代の私にとって「月」は、今よりずっと不思議で、特別な存在でした。 夜になると必ず空に現れる、大きくて明るいもの。手を伸ばしても絶対に届かない、遠い世界。「月にはうさぎがいて、おもちをついている」と本気で信じていました。その一方で、ウルトラマンや仮面ライダー、宇宙戦艦ヤマトの影響から、「宇宙人がいる場所」「秘密基地がある場所」というイメージも重なっていました。満月はとてもきれいだけれど、夜遅くにひとりで見上げると少し怖い。「月の裏側には何かいるかもしれない」と想像したこともあります。 きれいで、不思議で、少し怖くて、でもずっと見ていたくなる特別なもの。そんな月に、本当に人が行ったのだと後にテレビや本で知ったときの驚きは、父のあの言葉と地続きだったのだと、今にして思います。 「同い年」として思うこと 先日の記事で、週刊少年チャンピオンが私と同じ昭和44年生まれだと書きました。創刊は7月15日。そしてその翌日の7月16日に、アポロ11号は月へ飛び立っています。私が生まれた年の7月は、少年漫画誌が産声を上げ、人類が月を目指した、そんな夏だったのです。 自分が赤ん坊だった頃の世界を、50年以上経ってから調べてみる。これはなかなか不思議な体験でした。両親がまだ30代だった頃の日本で、人々は夜10時半にテレビの前に集まり、ロケットの発射に固唾を呑んでいた。その熱気を、私は知りません。知らないけれど、その時代の空気の中で育てられたのだと思うと、アポロ11号が少しだけ「自分ごと」に感じられてくるのです。 最後に、余談をひとつ。地元・葛飾の北沼公園には、「月面歩行にチャレンジ!!」という掲示とともに「ムーンウォーカー」という遊具があります。バネの調節によって月面の6分の1の重力を疑似体験できるという、NASAの宇宙飛行士の月面歩行訓練機をもとに子供用に設計されたものだそうです。 アポロが月へ飛び立ってから半世紀以上。下町の公園では、今も子供たちが「月面」を歩いています。 夜、ふと月を見上げます。あそこに人類が立ったのは、私が生まれた年のことでした。 みなさんは、アポロ11号の記憶がありますか? リアルタイムで中継をご覧になった方も、私と同じように「歴史」として知った方も、よろしければ思い出をお聞かせください。 私がこの記事で追体験した「月への旅」を、絵と言葉でまるごと味わえるのがこの一冊です。打ち上げの轟音から、月面の静けさ、そして帰還まで。大人が読んでも胸が熱くなり、お孫さんに読み聞かせるにもちょうどいい。あの夏、人類が本当に月へ行ったのだと、あらためて教えてくれます。 月へ アポロ11号のはるかなる旅ブライアン・フロッカ作/日暮雅通訳(偕成社)。打ち上げから帰還までを、迫力の絵と詩のような文で描く絵本。世代を超えて読める一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた | 次の記事:【7月17日】江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」 ▶

July 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月15日──ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた

7月15日は、不思議な日です。 昭和の少年文化を代表する「二つの王様」が、14年の歳月を隔てて、同じこの日に生まれているのです。 ひとつは昭和58年(1983年)7月15日に任天堂が発売した家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ。いわゆるファミコンです。もうひとつは昭和44年(1969年)7月15日に創刊された、秋田書店の「少年チャンピオン」。 そして告白しますと、昭和44年生まれの私は、この二つに対してずいぶん対照的な付き合い方をしていました。ファミコンは、買わなかった。チャンピオンは、毎週読んでいた。 今日はその話をさせてください。 任天堂ファミリーコンピュータ(HVC-001)。昭和58年7月15日発売、14,800円。(Photo: Rama / CC BY-SA 2.0 FR) 昭和58年7月15日、14,800円の革命 昭和58年7月15日、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。価格は14,800円。当時のゲーム機としては驚くほど戦略的な価格設定で、これが後に「テレビゲームといえばファミコン」という時代を作り上げていくことになります。 面白いのは、実は同じ日にセガ・エンタープライゼスもゲーム機「SG-1000」と、ベーシックを搭載したパソコン「SC-3000」を発売していたことです。つまり昭和58年7月15日は、日本の家庭用ゲーム機戦争の火蓋が切られた日でもあったわけです。 同じ昭和58年7月15日に発売された、セガのSG-1000。家庭用ゲーム機戦争は、この日いっせいに始まった。(Photo: Evan-Amos / Public domain) ただし、当時この日を「歴史的な日」だと認識していた人は、ほとんどいなかったはずです。発売当初のファミコンは、あくまで数あるゲーム機のひとつでした。それが決定的な存在になるのは、昭和60年の「スーパーマリオブラザーズ」、そして昭和61年の「ドラゴンクエスト」という怪物ソフトの登場を待ってからのことです。 あの日が「あの日」になるまでには、少し時間が必要だったのです。 買わなかった少年の言い分 昭和58年7月、私は中学2年生でした。14歳。世間的に見れば、ファミコン第一世代のど真ん中です。 でも私は、ファミコンを買いませんでした。それどころか、ファミコンというものが発売されたということすら、気にしていませんでした。 当時の私の興味は、やはり野球だったのです。「何が欲しいか?」と問われれば、真っ先に思い浮かぶのはグローブとか、カッコいいジャージでした。放課後の時間は、画面の中のボールではなく、本物のボールのためにありました。日が暮れるまでグラウンドにいて、家に帰れば飯を食って寝るだけ。テレビの前に座ってコントローラーを握る時間は、私の生活のどこにもなかったのです。 だから、日本中の少年たちの歴史を変えたと言われるあの日も、私にとってはただの夏の一日でした。翌日に迫った練習のことだけを考えて眠った、中学2年の7月15日。歴史というのは、案外そういうふうに通り過ぎていくものなのかもしれません。 一年半遅れの衝撃 そんな私がファミコンの存在に初めて気付いたのは、発売から一年半あまりも経ってからのことでした。 中学3年生。最後の夏の大会が終わり、高校受験の合格発表も済み、中学校生活も残りひと月足らずとなったころです。野球部の友達ではなく、クラスメイトの家に遊びに行ったときに、私は「ファミコン」というものの存在を初めて知り、目にして、手に取りました。 その時の衝撃は、すごかったですね。 小学生の頃にゲームセンターでプレーしていたようなクオリティーのゲームが、家庭用のテレビで出来ちゃうわけですからね。あの日やらせてもらったのは、たしかマッピーとロードランナーだったと思います。 ちなみに、私が初めてファミコンに触れたこの時点では、まだ「スーパーマリオブラザーズ」すら世に出ていません。あれだけの衝撃を受けたのに、実はあの熱狂の序章にしか立ち会っていなかったわけです。 まぁ、それでも欲しくはならずじまいでした。 受験も終わり、時間ならいくらでもあったはずの時期です。それでも「買いたい」とはならなかったのですから、我ながら筋金入りの野球少年だったのだと思います。その後も、友達の家に行ったときにやらせてもらう程度の付き合いのまま、私のファミコン歴は終わりました。 何しろ私には、生まれた時からの相棒とも言うべき、もうひとつの「7月15日生まれ」がいたのですから。 私と同い年の雑誌 さて、もうひとつの7月15日です。 昭和44年(1969年)7月15日、秋田書店が「少年チャンピオン」を創刊しました。創刊号の表紙を飾ったのは、キックボクサーの沢村忠。真空飛び膝蹴りで一世を風靡した、あの「キックの鬼」です。漫画雑誌の創刊号の顔がキックボクサーだったというあたりに、昭和44年という時代の空気を感じます。創刊当初は隔週刊で、翌昭和45年6月から週刊化されて「週刊少年チャンピオン」となります。 昭和44年生まれ。つまりこの雑誌、私と同い年なのです。 私がこの世に生まれて3ヶ月ほど経った頃、書店の棚に創刊号が並んだことになります。もちろん当時の私は知る由もありませんが、同じ年に生まれた雑誌と少年が、やがて毎週顔を合わせる仲になるのですから、縁というのは面白いものです。 チャンピオンの快進撃は、昭和47年に始まります。この年、水島新司先生の『ドカベン』の連載が始まり、翌昭和48年には手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』がスタート。昭和50年代に入ると『がきデカ』『マカロニほうれん荘』『750ライダー』などが誌面に並び、昭和52年1月には週刊誌として史上初の発行部数200万部を突破。一時は絶対王者だった少年ジャンプを抜いて、少年誌の頂点に立ったこともあるのです。ちなみに『ブラック・ジャック』は、当時スランプにあったと言われる手塚治虫先生を復活させた作品としても知られています。私と同い年の雑誌が、あの漫画の神様を救っていたのだと思うと、なんだか誇らしい気持ちになります。 ドカベンと野球少年 私にとってのチャンピオンは、何をおいても『ドカベン』でした。 『ドカベン』がありましたから、必ず読んでいました。『ブラック・ジャック』も『750ライダー』も読みました。そして大人になってからは『グラップラー刃牙』シリーズを読んでいました。気がつけば、同い年のこの雑誌とは、少年時代から大人になるまで、ずいぶん長い付き合いになっていたわけです。 『ドカベン』の思い出は、と問われても、正直困ってしまいます。私にとっては、その存在すべてが「野球の参考書」だったからです。ですから、すみずみまで記憶しています。 その『ドカベン』の本誌連載は昭和56年にいったん完結しますが、昭和58年——奇しくもファミコン発売と同じ年——から、続編『大甲子園』が始まります。水島新司先生の野球漫画作品の主人公たちが大集合した、あの『大甲子園』です。当然、見逃すわけがありません。 『大甲子園』の連載期間は、私が白球を追いかけた中学2年から高校3年までと、ぴったり重なっている 連載は昭和58年から昭和62年まで。私が甲子園を目指して白球を追いかけていた、まさに中学2年から高校3年までの日々と、ぴったり重なっているのです。同世代の少年たちがファミコンに熱中していたあの数年間、私は毎週、明訓高校の戦いを追いかけていました。 最後はどうなるんだろうとか、明訓は負けてしまうのかとか、ワクワクとちょっぴりの心配とで、複雑な気持ちになりましたね。なんせ、それぞれの漫画では応援していた主人公たちとの対戦なんですからね。 二つの7月15日のあいだで こうして振り返ってみると、昭和58年7月15日という日は、私にとって象徴的な分かれ道だったのかもしれません。 同世代の少年たちの多くは、あの日に生まれたファミコンに夢中になっていきました。私はといえば、14年前の同じ日に生まれた雑誌のほうと付き合い続けた。画面の中で野球をするより、紙の上の山田太郎に胸を熱くして、そして本物のグラウンドで白球を追いかけるほうを選んだのです。 どちらが正しいという話ではありません。ファミコンに熱中した友人たちの目の輝きも、よく覚えています。ただ、あの頃の私には、ゲーム機に払う14,800円より大切なものが、すでに手の中にあったということなのだと思います。 週刊誌一冊と、使い込んだグローブ。中学2年の私の宝物は、それで十分でした。 そして、ひとつ付け加えておきたいことがあります。私の長男も次男も、『ドカベン』と『大甲子園』が愛読書となっていました。私と同じ年に生まれたあの雑誌が生んだ物語は、時代を超えて、息子たちの本棚にもちゃんと居場所を作っていたのです。父から子へ。これもまた、7月15日が私にくれた縁のひとつなのだと思います。 あなたは、ファミコン派でしたか? それとも……。あの夏、あなたの手の中にあったものを、よかったら聞かせてください。 『ドカベン』も『大甲子園』も、今は新品でそろえやすい形で残っています。山田太郎との出会い直しには文庫版の第1巻を。明訓の最後の夏をもう一度見届けたい方には『大甲子園』を。私と同い年のあの雑誌が生んだ物語は、令和の本棚でもちゃんと生きています。 ドカベン (1)(秋田文庫)水島新司/秋田書店。すべてはここから始まる、柔道編の山田太郎。私にとっては丸ごと野球の参考書だった一作 Amazonで見る › 大甲子園 (1)(少年チャンピオン・コミックス)水島新司/秋田書店。明訓・山田太郎と水島野球漫画のオールスターが激突。中2から高3の私が毎週追いかけた物語 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月14日──リカちゃんは、葛飾の子だった

7月14日、あの人形が生まれたとされる日 7月14日は、「リカちゃん人形」が発売された日とされています。1967年、昭和42年のことでした。ただ、正直に書いておくと、発売日には諸説あります。7月4日という説も、7月1日という説もあって、「今日は何の日」を紹介するメディアの中には、この7月14日を発売日として挙げているものがある、というのが正確なところです。ですから今日は、日付そのものよりも、この人形が生まれた昭和という時代と、私の家にあった一体のリカちゃんの話をさせてください。 そもそも私は、リカちゃんが発売された1967年には、まだこの世にいません。私が生まれたのは、その2年後の昭和44年、1969年の4月です。ですから、発売の瞬間を覚えているはずもありません。それでも私は、リカちゃんという名前を聞くと、はっきりと思い出す光景があります。我が家の畳の上に転がっていた、あの小さな人形。あれは私のものではありませんでした。妹のものでした。 タカラトミー本社(葛飾区立石)のショーウィンドウに並ぶ、いまのリカちゃんたち。ペットサロンにケーキショップ——時代は変わっても、女の子の憧れをぎゅっと詰め込む芸は健在だ バービーに負けない、日本の女の子のための人形 リカちゃんが生まれた背景には、一つの悔しさがあったといいます。昭和40年代のはじめ、着せ替え人形の売り場に並んでいたのは、アメリカ生まれのバービーをはじめとする、外国の顔をした人形たちでした。手足が長く、大人びていて、日本の子どもにとっては少し遠い存在です。 そこで玩具メーカーのタカラは、日本の女の子が本当に身近に感じられる人形を作ろうと考えました。まず、大きさ。当時すでに人気だった海外の人形に合わせてドールハウスを作ると、日本の狭い住宅には置き場所がなく、子どもが持ち運ぶこともできません。そこで人形そのものを、女の子の手のひらにすっぽり収まる身長21センチに設計しました。顔立ちは、当時の少女たちが夢中になっていた少女漫画のヒロインそのもの。大きな瞳に、星がひとつ。広告のイラストは漫画家の牧美也子さんが手がけました。 名前もよく考えられていました。「リカ」という響きは、日本人でも外国人でも通じるように選ばれたもの。少女漫画雑誌「りぼん」の誌上で名前を公募した、ということになっていますが、実際にはタカラ側が決めた名前だったといいます。本名は香山リカ。設定では小学5年生で、フランス人の音楽家のお父さんと、日本人でデザイナーのお母さんを持つ女の子でした。狭い日本の家に暮らす女の子が、人形を通して外国や華やかな世界を夢見られるように——そんな願いが、細やかな設定の一つひとつに込められていたのです。 この作戦は見事に当たりました。発売からわずか2年後の1969年、ちょうど私が生まれた年に、リカちゃんは日本国内の売り上げでバービーを追い抜きます。それ以来、リカちゃんは長く「着せ替え人形の女王」として君臨していくことになります。 面白いエピソードがあります。デビューした年、タカラに一本の電話がかかってきたそうです。「リカちゃんはいますか?」と、女の子からの電話でした。受けた女子社員が、子どもの夢を壊してはいけないと「こんにちは、私がリカよ」と応じたところ、その子は大喜び。リカちゃんとお話しできるという噂は口コミで広がり、やがて専用回線が敷かれて、翌1968年には「リカちゃん電話」が正式に開設されました。その声を長く担当したのは、のちにアニメ「アルプスの少女ハイジ」のハイジ役でおなじみになる杉山佳寿子さん。1997年まで、実に30年にわたって、リカちゃんは電話の向こうで女の子たちの話し相手をつとめたのです。人形が、ただの人形ではなく、女の子にとっての「お友だち」だった。その手の込みようには、今さらながら感心してしまいます。 「タカラ」は、葛飾の会社だった さて、ここからが、私にとって一番驚いた話です。このリカちゃんを生んだタカラという会社は、いったいどこにあったのか。調べてみて、思わず声が出ました。葛飾区です。私が生まれ育った、あの葛飾でした。 タカラの源流は、昭和30年、葛飾区の本田宝木塚町、今の宝町に生まれた小さなビニール工業所にさかのぼります。「タカラ」という社名も、この創業の地名からとられたものだそうです。その後、本社は青戸に移り、日本中の子どもを夢中にさせた数々のおもちゃを世に送り出していきました。空気でふくらむダッコちゃん、着せ替え人形のリカちゃん、家族で遊んだ人生ゲーム、手のひらでキュルッと走るチョロQ。そのどれもが、葛飾生まれだったのです。 とりわけ、リカちゃんより前の1960年に大ヒットした「ダッコちゃん」は、社会現象と呼べるほどの騒ぎを起こしました。腕にぶら下がる、あの黒くて愛らしいビニール人形です。一時は月に1000万個も作られたというのですから、当時の熱狂ぶりがしのばれます。ビニールを加工するその技術の蓄積があったからこそ、のちにリカちゃんという着せ替え人形が生まれた——そう考えると、葛飾の町工場が積み上げてきたものの厚みが見えてきます。 しかも、話はそれだけでは終わりません。のちの2006年、タカラは同じ葛飾の立石にあったトミーという会社と合併し、タカラトミーになります。トミーもまた、プラレールやトミカをつくってきた、葛飾を代表するおもちゃメーカーでした。つまり葛飾は、リカちゃんもプラレールも生み出した、まぎれもない「おもちゃのまち」だったのです。 葛飾区立石・タカラトミー本社の屋上看板。夏空に、あの青いロゴがよく映える 青戸も立石も、私の育った高砂と同じ葛飾区。京成線でつながる、ほんのご近所です。私が線路脇の家で、来る日も来る日も電車を見上げていたあの頃。同じ葛飾のどこかの工場では、たくさんのリカちゃんが生まれ、日本中の女の子のもとへと旅立っていたことになります。自分の遊んでいた街が、日本の子どもの夢をつくっていた——そう思うと、なんだか胸のあたりがくすぐったくなります。 妹のクリスマスと、ピンクの箱 我が家にリカちゃんがやってきたのは、あるクリスマスのことでした。妹が、プレゼントにリカちゃん人形と、着せ替え用のドレスを買ってもらったのです。そして妹は、それだけでは飽き足らなかったのでしょう。年が明けると、もらったばかりのお年玉を握りしめて、着せ替え用のドレスをさらに買い足していました。クリスマスにもらった人形のために、自分のお年玉をつぎ込む。今思えば、あれこそがタカラの狙いどおりの遊び方だったわけですが、当時の妹は、ただただ夢中だったのだと思います。 男の子だった私にとって、リカちゃんは完全な別世界でした。触ってみたいとも、うらやましいとも、思ったことは一度もありません。ピンク色のドレスや小さな靴は、同じ子ども部屋の中にありながら、まるで違う国の出来事のようでした。 なにしろ私には私で、夢中になっているものがあったのです。私もクリスマスプレゼントに買ってもらった記憶があります。「変身サイボーグ1号」と、確かキカイダーの着せ替えスーツでした。変身サイボーグ1号というのは、透明なボディの中に銀色のメカが透けて見える人形で、そこにウルトラマンや仮面ライダーといったテレビヒーローの「変身セット」を着せて遊ぶおもちゃです。仮面ライダーに始まる変身ブームの真っただ中、昭和47年に発売されて大ヒットしました。私はキカイダーのスーツを着せては脱がせ、着せては脱がせ、飽きることなく遊んだものです。 ——と、ここまで書いて、お気づきでしょうか。妹はリカちゃんにドレスを着せ、私はサイボーグにキカイダーのスーツを着せていた。やっていることは、まったく同じです。しかも、この変身サイボーグ1号を作っていたのは、どこの会社か。タカラです。リカちゃんと同じ、あの葛飾のタカラなのです。互いに「別世界」だと思い込んでいた兄と妹は、実は同じ葛飾生まれの着せ替え人形で、同じ遊びをしていたのでした。四十数年越しにこの事実に気づいたときは、思わず笑ってしまいました。 6000万体の、それぞれの物語 リカちゃんは、その後も時代に合わせて少しずつ顔立ちや設定を変えながら、令和の今日まで愛され続けています。これまでに世に送り出された数は、累計で6000万体を超えるといいます。6000万人の女の子が、それぞれのリカちゃんと、それぞれの物語を紡いできたということです。 そして、生みの親であるタカラトミーは、今もなお葛飾区立石に本社を構えています。おもちゃのまちの伝統は、令和になっても途切れていません。妹がクリスマスに抱きしめたあのリカちゃんも、そのうちの一体でした。名前も、フランス人のパパも、小学5年生という設定も、あの小さな体にぎゅっと詰まった夢も——すべては、私のご近所で生まれたものだったのです。 本社1階のショーウィンドウ。ベイブレードにポケモン、南葛SCのキャプテン翼まで——葛飾生まれの会社は、今も子どもたちの真ん中にいる 今になって思うことがあります。当時、私の身の回りにあったおもちゃは、意外と身近なところで生まれて、日本中へと広がっていたのですね。トミーのミニカー「トミカ」は立石。タカラのリカちゃんや変身サイボーグ、ミクロマンは青戸。そして、あのモンチッチを生んだセキグチも、西新小岩の会社です。調べてみれば、モンチッチが誕生したのは1974年、私が5歳のときのこと。線路脇で電車ばかり見上げていた葛飾の少年は、知らないうちに、日本中の子どもの宝物が生まれる場所のど真ん中で育っていたのでした。 みなさんの子ども時代、きょうだいや友だちが夢中になっていた「自分とは違う世界のおもちゃ」には、どんなものがありましたか。そして、そのおもちゃがどこで生まれたものだったか、考えてみたことはあるでしょうか。案外、みなさんのすぐ近くだったかもしれませんよ。 妹があの日抱きしめていたリカちゃんは、今も形を変えて、おもちゃ売り場の真ん中にいます。ドレスや小物のそろった定番のギフトセットは、お子さんやお孫さんへの贈り物にちょうどいい一箱。あの頃、妹や姉がリカちゃんに夢中だった——そんな方は、パッケージを眺めるだけでも、きっと何かを思い出すはずです。 リカちゃん ドール LD-01 だいすきリカちゃん ギフトセット(タカラトミー)ドレスや小物一式がそろった定番の入門セット。誕生から半世紀を超えて、いまも売り場の真ん中に Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月13日】少女Aが生まれた日、中森明菜と中学一年生の私 | 次の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた ▶

July 14, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月13日──少女Aが生まれた日、中森明菜と中学一年生の私

七月十三日。 今日は何の日だろうと昭和の暦をめくっていくと、昭和四十年(一九六五年)のこの日に、一人の女の子が東京で生まれている。中森明菜さん。私より四つ年上の、あの明菜さんだ。 名前を書いただけで、頭の中で「少女A」のイントロが鳴りはじめた方も多いのではないだろうか。私もその一人だ。今日はこの人が生まれた日を入り口に、私が中学一年生だった昭和五十七年の夏の話を、少しさせてほしい。 三百九十二点の伝説 中森明菜さんの出発点は、日本テレビの『スター誕生!』だった。昭和五十六年(一九八一年)七月、十六歳になる直前の彼女は、この番組で山口百恵さんの「夢先案内人」を歌う。そのときの得点が、三百九十二点。番組の歴史のなかで最高記録だったと伝えられている。 『スター誕生!』というのは、十二年間で二百万人もの応募があったという、とんでもない規模のオーディション番組だった。全国のお茶の間から、歌のうまい子が名乗りを上げて、審査員の前で歌う。合格すると、たくさんの芸能事務所やレコード会社がプラカードを掲げて、われ先にとスカウトする。あの光景を、私も茶の間のテレビでよく見ていた。「この子は受かるかな、落ちるかな」と、家族であれこれ言い合うのが楽しかった。 思えば『スター誕生!』は、森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さんの「花の中三トリオ」をはじめ、昭和の歌の世界に次々とスターを送り出した番組だった。その夢の回路の、いちばん新しい入口から現れたのが、中森明菜さんだったわけだ。その番組で史上最高点を叩き出した女の子が、翌年、本当にデビューしてくる。子ども心にも、これはただごとではないという予感があった。 デビュー曲「スローモーション」がレコード店に並んだのが、昭和五十七年(一九八二年)五月一日。そしてその二枚目、名前だけで時代の空気を思い出させる「少女A」が発売されたのが、同じ年の七月二十八日だった。つまり、明菜さんの誕生日である今日から、ほんの二週間ほど後のことになる。 「少女A」という事件 この「少女A」という曲には、いま振り返ると面白い裏話がある。作詞をしたのは、当時まだ駆け出しだった売野雅勇さんという方。もともとこの詞は、明菜さんのために書かれたものではなかった。売野さんが沢田研二さんのために用意していた「ロリータ」という詞——中年の男性がプールサイドから少女をそっと見つめている、という大人の視点の歌詞が、下敷きになっていたのだそうだ。 締め切りに追われた売野さんが、苦しまぎれにその設定を借りて、視点をぐるりと反対に回した。見られる側だった少女が、こちらを見返す側になった。「特別じゃない、どこにでもいる少女A」が、じゃあ好きにすればいいと開き直って世界を突き放す。あの挑発的な歌詞は、そうして生まれたと伝えられている。 面白いのは、当の明菜さん自身が、最初はこの曲に乗り気ではなかったという話だ。同じ年にデビューした仲間たち——のちに「花の八二年組」と呼ばれる、小泉今日子さんや堀ちえみさん、石川秀美さんたち——は、フリルやレースのついた、いかにもアイドルらしい可愛い衣装を着ていた。明菜さんも本当は、そういう衣装を着たかったのだという。それなのに与えられたのは、可愛さとは正反対の、尖った不良少女の歌だった。 けれど結果として、その曲が明菜さんを一気にスターへ押し上げた。みんなと同じ可愛さで勝負しなかったことが、逆に彼女だけの居場所を作った。子どもだった私はそんな事情など何も知らなかったが、テレビの向こうの明菜さんが、まわりと違う空気をまとっていたことだけは、はっきり感じ取っていた。 河合奈保子から、中森明菜へ 昭和五十七年の四月、私は中学一年生になった。 小学生のころの私にとって、アイドルといえば河合奈保子さんだった。あの、ふんわりと笑う、健康的で優しい感じの人。まぶしいけれど、どこか近所のお姉さんのような安心感があって、子どもだった私はすっかり心を許していたのだと思う。 ところが、中学の制服に袖を通したあたりから、私の中で何かが少しずつ変わっていった。優しいお姉さんよりも、少し不機嫌そうで、こちらをまっすぐ見返してくるような、そういう強さに惹かれるようになっていったのだ。そこに、ちょうど中森明菜さんが現れた。 「少女A」の、あの挑むような歌い方。子どもが背伸びをしているのとも違う、かといって完成された大人でもない、ぎりぎりのところで尖っている感じ。河合奈保子さんから中森明菜さんへ——それは私の中では、子どもから大人へと変わっていく、ひとつの通過儀礼のようなものだった。 きっかけは、友達のひと言だった。「中森明菜っていいよ」。そう言われてから、テレビの歌番組で明菜さんを見かけるたびに、少しずつ目が離せなくなっていった。ほかのきゃぴきゃぴしたアイドルとは、明らかに何かが違う。あのツンとした雰囲気が、私にとってはど真ん中のストライクだった。 一度はまってしまえば、あとは一直線だ。シングルはもちろん、アルバムまで一枚残らず買いそろえ、明菜さんの曲だけを集めた「マイベストテープ」も、何本も何本も作った。大学に入って浜田省吾さんの世界に出会うまでの七年ほど、私はずっと明菜さんに夢中だった。あの頃の自分の音楽の記憶は、そっくりそのまま明菜さんの声でできていると言ってもいいくらいだ。 木曜九時の攻防 我が家の木曜日の夜九時は、『ザ・ベストテン』の時間だった。 ランキングが一位から順に発表されていくあの緊張感。カセットデッキの前に正座して、赤い録音ボタンと白い再生ボタンを同時に押す、あの二本指の儀式。歌の途中で家族が「ごはんよ」なんて声をかけようものなら、あとで大惨事だ。次の日、友達と「昨日のベストテン、明菜は何位だった」と答え合わせをするのが、当時の私たちにとっては大事な社交だった。 その画面の真ん中に、中森明菜さんはいつもいた。同じ年ごろの、松田聖子さんや小泉今日子さんと並んで、それぞれにまったく違う魅力を放っていた。聖子さんが笑顔なら、明菜さんは眼差し。今にして思えば、あの時代の歌番組は、いくつもの「かっこよさ」が同時に成り立っていた、とても贅沢な場所だった。 とりわけ「聖子か、明菜か」というのは、あの頃の昭和の歌謡界を二つに分ける、大きな分かれ道だった。明るく、可憐で、ずっと笑っている松田聖子さん。翳りがあって、こちらを試すように見つめてくる中森明菜さん。まるで陽と陰のように、二人はきれいに対照的で、どちらが好きかを言うことが、その人がどんな人間かを少しだけ言い当ててしまうような、そんな空気があった。学校でも、聖子派と明菜派はなんとなく分かれていて、私が明菜派だと打ち明けるのは、幼いなりに小さな自己主張だったように思う。優しいだけの世界から一歩踏み出したい——そんな背伸びを、明菜さんはそっと後押ししてくれていたのかもしれない。 大晦日の、連覇 「少女A」でスターになった明菜さんは、そこから昭和の終わりに向けて、坂道を駆け上がるように名曲を積み重ねていく。三枚目の「セカンド・ラブ」はチャートの一位を取り、その後も「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」と、曲の色をどんどん変えながらヒットを飛ばし続けた。同じ人が歌っているのに、一曲ごとにまるで別の女優のように表情を変える。あれが明菜さんの凄みだった。 そして昭和六十年(一九八五年)、「ミ・アモーレ」で日本レコード大賞を初めて受賞する。さらに翌昭和六十一年(一九八六年)、「DESIRE -情熱-」で二年連続の大賞。女性歌手が二年続けて大賞を取ったのは、このときが史上初めてのことだった。着物風の衣装を肩から滑らせ、髪を刈り上げたあの「DESIRE」の姿は、もうアイドルという言葉では収まりきらない何かだった。ちなみに、数えきれないほどある明菜さんの曲のなかで、私の一番はこの「DESIRE」だ。それは今も変わらない。 昭和六十年といえば、私はちょうど高校一年生。白球ばかり追いかけて、甲子園を本気で夢見ていたころだ。野球部の練習でくたくたになって家に帰り、大晦日にテレビでレコード大賞を眺める。中学の入り口で見上げていた明菜さんが、高校生になった私の頭上を、はるか高いところで飛び続けている。同い年ではないけれど、同じ時間を走っている感覚が、確かにあった。 体育館に、明菜が現れた ここで、話をぐっと先へ——大人になってからの一夜に飛ばさせてほしい。 私は大学を出て信用金庫に就職し、その後、大手の運送会社へ移った。この会社がとにかくスポーツが盛んで、毎年ゴールデンウィークになると、滋賀県で三泊四日の社内全国大会が開かれる。各ブロックの予選を勝ち抜いた営業所だけが出場できる、たぶん日本一の規模の社内大会だった。私も野球で、その全国大会の舞台に立つことができた。 大会中はいろいろな催しがあるのだが、みんなが一番楽しみにしていたのが、二日目の夜に開かれるコンサートだ。出演者は当日その時間まで、いっさい知らされない。会場はスポーツ施設の体育館。さあ誰が出てくるのかと固唾をのんで待っていた、その舞台に——現れたのが、あの中森明菜さんだったのだ。 信じられるだろうか。テレビのブラウン管の向こうで、ずっと高いところを飛んでいたはずのあの人が、いま、目の前の体育館のステージに立っている。会場は当然、大興奮だ。懐かしい曲のオンパレードで、それは普段のコンサートとはまるで違う、手作りのような、それでいて本当に本当に、自分もその一部になれたと思える素晴らしいステージだった。中学一年生の私が茶の間から見上げていた明菜さんに、大人になった私が、同じ空気のなかでようやく会えた夜だった。 令和に、明菜を思う あれから四十年以上が経った。 私は今、路線バスのハンドルを握って毎日を過ごしている。家にはもう地上波のテレビもなく、大きなモニターでユーチューブやネットフリックスを眺める暮らしだ。それでも、ふとした拍子に「少女A」や「セカンド・ラブ」が流れてくると、一瞬で昭和五十七年の、あの中学一年生の夏に引き戻される。制服がまだ体になじんでいなくて、大人になりたいような、なりたくないような、あの落ち着かない気持ちごと。 歌というのは不思議なもので、こちらは年をとっていくのに、あの頃の自分をそっくり保存してくれている。友達のひと言から始まって、レコードを買い集め、テープを作り、そしていつかは同じ体育館の空気を吸った——中森明菜さんが今日、誕生日を迎えるたびに、私はあの一つひとつの自分に、少しだけ会いに行けるのだ。 みなさんにとって、「子どもから大人へ変わる境目」に鳴っていた歌は、何でしたか。よかったら聞かせてほしい。 「少女A」「セカンド・ラブ」「北ウイング」「DESIRE」——この記事で名前を挙げた曲が、オリジナル音源でまとめて聴けるのがこの一枚です。カバーではなく、あの頃テレビとカセットから流れていた、まさにあの声。明菜さんの誕生日の今日、あらためて針を落とすように聴き直すのに、ちょうどいいベスト盤です。 オールタイム・ベスト ‐オリジナル‐(中森明菜)デビューから代表曲までをオリジナル音源で網羅。少女A・DESIRE・北ウイングまで、あの声のまま Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 あわせて読みたい:その前年、同じ体育館のステージに立っていたのは郷ひろみさんでした▼ 【8月1日】「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月12日】球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える | 次の記事:【7月14日】リカちゃんは、葛飾の子だった ▶ ...

July 13, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月12日──球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える

七月も半ばにさしかかると、夕方になっても空気が生ぬるくて、どこからか蚊取り線香の匂いが漂ってくる。そんな季節になると、私の頭の中では決まって、あの伸びやかな歌声が鳴りはじめます。 きょう7月12日は、渡辺美里さんの誕生日です。昭和41年(1966年)のこの日、京都で生まれ、東京で育った少女は、のちに日本の音楽史に「スタジアム伝説」という言葉を刻むことになります。私より三つ年上。ほんの少しだけ先を歩く、お姉さんの世代です。 そして今日、令和8年の7月12日。渡辺美里さんは還暦、六十歳を迎えます。あの夏の球場で歌っていた人が六十歳。にわかには信じがたいのですが、考えてみれば私自身がもう五十七歳なのですから、当たり前といえば当たり前なのでした。 高校一年の冬に落ちてきた「My Revolution」 渡辺美里さんがデビューしたのは昭和60年(1985年)。その前年、応募者十八万人を超えるミス・セブンティーンコンテストで最優秀歌唱賞を受賞しての、鳴り物入りのスタートでした。ちなみにこのコンテストの同期には、のちに活躍する工藤静香さんや国生さゆりさんの名前もあります。とはいえ、デビュー曲「I’m free」はそれほど売れなかったそうです。ライブハウスを回り、先輩歌手のコーラスを務める下積みの日々もあったといいます。 運命が変わったのは、昭和61年(1986年)1月22日にリリースされた四枚目のシングル「My Revolution」でした。 作曲は、当時まだTM NETWORKでデビューして間もない、駆け出しの小室哲哉さん。曲ができたとき、小室さんは渡辺さんのもとに駆けつけてピアノでイメージを伝え、渡辺さんは「体に電流が走ったような気持ちになった」と後年語っています。ドラマ『セーラー服通り』の主題歌に起用されたこともあって、この曲は3月24日付のオリコンシングルチャートで一位を獲得。無名に近かった十九歳の歌手を、一気にスターダムへ押し上げました。渡辺さんはこの曲で『ザ・ベストテン』に初めて生出演も果たしています。 「わかりはじめたMy Revolution」——あのサビの疾走感は、四十年経ったいまでも色あせません。歌謡曲ともアイドルとも違う、まっすぐで力強い歌声。この曲は高校一年の終わりから、二年生になったばかりの私の耳にも、確かに届いていました。 最初に聴いたのは、たしか『ザ・ベストテン』だったような気がします。毎週木曜の夜九時、ランキングを楽しみに見ていた時代です。第一印象は、明るく勢いのある曲だな、というものでした。 学校へ行くと、友達がサビを口ずさんでいる。文化祭では体育館のステージに上がって歌う生徒までいる。それくらい、私たちのあいだでは流行っていました。だから、あっという間に覚えてしまいました。当時の高校生にとっては、「頑張ろう」「前に進もう」という気持ちにさせてくれる、青春ど真ん中の一曲だったと思います。 もちろん「My Revolution」は、マイベストテープにも入れていました。当時はレコードをカセットテープにダビングして、自分だけの一枚を作るのが楽しみだった時代です。私の相棒は、お小遣い事情でソニーのウォークマンではなくAIWAのカセットプレーヤーでしたが、通学の道すがら、よく聴いていた思い出があります。 テープには当時流行していた曲を並べていましたが、「My Revolution」は外せない一曲でした。友達の間でも人気があり、「いい曲だよね」と話題になることも多かった。私の高校時代を象徴する、青春ソングの一つだったと思います。 野球少年の聖地で、歌手が歌った夏 そして昭和61年の夏、事件が起きます。 8月2日の大阪スタヂアムを皮切りに、名古屋城深井丸広場、そして8月8日の西武ライオンズ球場。渡辺美里さんは「MISATO SPECIAL ‘86 KICK OFF」と題したスタジアムコンサートを敢行しました。女性ソロシンガーが球場でコンサートを開くのは、日本で初めてのことでした。 このとき渡辺美里さんは、二十歳になったばかり。デビューからわずか一年二か月です。きっかけは、ラジオ番組の放送前にマネージャーから「やってみる?」と聞かれて、球場のことがよくわからないまま「何となく」返事をしたことだったといいますから、豪快な話です。ライブの一か月前には、十代の邦人アーティストとして初となる二枚組アルバム『Lovin’ you』をリリース。8月8日の西武球場のステージには、「My Revolution」を生んだ小室哲哉さんもキーボードで参加していました。 私にとって「球場」とは、野球をする場所でした。当時の私は高校二年生。白球を追いかける毎日で、球場という言葉から連想するのは後楽園球場のジャイアンツ戦か、憧れの甲子園です。ちなみにこの昭和61年の西武球場といえば、ルーキーの清原和博選手がホームランを量産していたグラウンドでもあります。野球少年にとって、あそこはまぎれもなく「野球の聖地」のひとつでした。 その神聖なグラウンドにステージを組んで、私とたいして歳の変わらないお姉さんが、たった一人で数万人を前に歌う。 じつは当時、西武球場で毎年コンサートが開かれていることは知っていました。親友のお兄さんが渡辺美里さんの熱烈なファンで、実際に西武球場のコンサートへ行ったと聞いていたからです。 野球部だった私にとって、普段は野球をする場所で何万人もの観客を集めてコンサートが開かれるというのは、とても新鮮で、驚きでした。当時は自分が行く機会はありませんでしたが、「いつか行ってみたい」と思うほど、印象に残っていました。 ちなみにこの昭和61年の渡辺さんは、球場ライブの直後の9月から全国三十八か所を回るツアーに突入し、途中で声帯ポリープを患って中断を余儀なくされたそうです。二十歳の身体で、どれほど無我夢中で駆け抜けた一年だったことか。私たちが白球を追いかけていたあの夏、三つ年上のお姉さんも、別のグラウンドで全力疾走していたのです。 この西武球場の夏のライブは、以後、毎年恒例となります。全盛期には四万枚のチケットが即日完売。平成2年(1990年)からは、観客輸送を兼ねた臨時特急「MISATO TRAIN」が西武線を走りました。はじめは5000系レッドアロー号、平成7年(1995年)からは10000系ニューレッドアロー号。毎年デザインの変わる特製ヘッドマークを掲げて球場へ向かう列車を、渡辺美里さんのファンだけでなく鉄道ファンもカメラに収めたそうです。線路っぷちで育った私としては、この話には胸が熱くなります。歌手の名を冠した特急列車が、年に一度だけ走るのです。しかもこの列車、西武ライブの終幕後も惜しまれ、平成30年(2018年)には西武ライオンズ四十周年イベントの一環として、一日限りのヘッドマーク付き復活運転まで果たしています。 初年のタイトルが「KICK OFF」、そして20年目の平成17年(2005年)、最終章のタイトルは「NO SIDE」。試合開始と試合終了。渡辺さんが高校時代にラグビー部のマネージャーを務めていたことに由来するそうです。最後の「NO SIDE」には約三万九千人が集まり、二十年間の動員は延べ七十万人にのぼりました。ひとつの球場で、ひとりの歌手が積み上げた数字としては、もう伝説と呼ぶほかありません。 六十歳の「Birthday」 その渡辺美里さんが、今日、還暦を迎えます。 そして偶然ではないのでしょう、三日後の7月15日には、七年ぶりのオリジナルアルバムがリリースされます。タイトルは『Birthday』。さらに今年の11月8日には、あの西武球場——いまはベルーナドームと名前を変えました——で、実に二十一年ぶりのスタジアムライブが開催されることも発表されています。 六十歳になった歌手が、二十歳の夏に立った球場へ帰っていく。四十年の歳月をまたぐその姿を想像すると、私は少しだけ泣きそうになります。 私たちの世代は、渡辺美里さんの歌に「がんばれ」と言われ続けてきた世代です。十代の終わりに聴いた歌を、五十七歳のいまも聴ける。しかもご本人が、いまも現役で、あの頃と同じ場所で歌おうとしている。これほど幸せなことがあるでしょうか。 そして私には、高校二年の夏から持ち越したままの宿題があります。あのとき果たせなかった「いつか行ってみたい」。四十年越しのその機会が、今年の11月8日、目の前にぶら下がっているのです。さて、どうしたものでしょうか。 みなさんには、渡辺美里さんの思い出の一曲はありますか。夏の球場に、行ったことはありますか。よろしければ、コメントで聞かせてください。 「My Revolution」も「サマータイム ブルース」も「虹をみたかい」も、あの頃カセットに録って擦り切れるほど聴いた曲が、この一枚にまとめて入っています。マイベストテープをもう一度作らなくても、名曲がぜんぶ揃う。還暦を迎えた今日、あらためて聴き直すのに、これ以上の一枚はありません。 ...

July 12, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月11日──私より9か月早く生まれた、あの雑誌のこと

7月11日。今のカレンダーでは「セブン-イレブンの日」なのだそうです。数字の並びそのままで、なんとも分かりやすい記念日です。 でも、昭和44年生まれの私にとって、この日付にはもっと大事な「誕生日」があります。 昭和43年(1968年)7月11日、『少年ジャンプ』創刊。私が生まれる、わずか9か月ほど前のことです。 昭和43年といえば、3億円事件が起き、川端康成さんがノーベル文学賞を受賞し、メキシコ五輪に日本中が沸いた年です。そんな騒がしい一年の、夏の入り口。のちに日本一となる漫画雑誌は、世間にほとんど気づかれることもなく、ひっそりと生まれました。 のちに「黄金期」と呼ばれる時代のジャンプを、教室で、部活の行き帰りで、夢中になって読むことになる人間としては、この雑誌が自分よりほんの少しだけ先輩だという事実に、妙な親近感を覚えるのです。 最後発の、持たざる挑戦者 意外に思われるかもしれませんが、ジャンプは少年週刊誌の世界では完全な「後発組」でした。 『週刊少年マガジン』と『週刊少年サンデー』の創刊は昭和34年(1959年)。ジャンプが生まれた昭和43年には、両誌はすでに9年の歴史を持ち、少年たちの心をがっちりつかんでいる王者でした。マガジンには「巨人の星」と「あしたのジョー」が並び、まさに絶頂期。手塚治虫をはじめとする人気作家たちは先行誌との結びつきが強く、後発の集英社が有名作家の看板に頼ることはできません。 そこで編集部が選んだ道が、「新人主義」でした。 名のある作家を呼べないのなら、無名の新人を自分たちの手で見つけて、自分たちの手で育てる。せっかく育てた才能を他誌に取られないよう、作家とは専属契約を結ぶ。そして、どの作品を続けてどの作品を終わらせるかは、編集者の思い入れではなく、毎週の読者アンケートの結果で決める。 人気が出なければ、容赦なく打ち切り。新人にとっては恐ろしく厳しい仕組みですが、裏を返せば、実績のない新人にも看板作家とまったく同じ土俵が用意されているということです。誌面の中で「友情・努力・勝利」を描く雑誌が、誌面の外でも実力勝負を貫いていたわけで、持たざる者の雑誌らしい、実に思い切ったルールでした。 このアンケート至上主義は、その後も一貫してジャンプの背骨であり続けます。毎週ハガキで届く読者の声が、次の号の運命を決める。子どもだった私たちが何気なく書いて出したアンケートが、実は日本一の漫画雑誌の編集会議に直結していたのだと思うと、なかなか痛快な話です。 創刊時の発行部数は10万5000部。当時のマガジンやサンデーには遠く及ばない数字です。しかも最初は週刊ですらなく、第2・第4木曜日に発売される月2回刊でした。創刊号に並んだのは、永井豪さんの「ハレンチ学園」、梅本さちおさんの「くじら大吾」など、8本の連載。この年のうちには本宮ひろ志さんの「男一匹ガキ大将」も始まります。のちの大出世を、このときはまだ誰も知りません。 そしてもうひとつ。創刊に先立って編集部が行った読者調査で、少年たちの心に最も響く言葉として挙がったのが、「友情」「努力」「勝利」だったといいます。あの有名な三大原則は、偉い編集者が机の上で考えた理念ではなく、当時の少年たち自身の声から生まれたものだったのです。 「週刊」ジャンプは、私と同い年 創刊の翌年、昭和44年(1969年)10月、ジャンプは週刊化され、誌名も『週刊少年ジャンプ』に変わりました。 昭和44年。つまり「週刊少年ジャンプ」は、私と同い年ということになります。 同じ年に生まれて、同じ時代の空気を吸って育った。そう考えると、のちに私があれほどジャンプに夢中になったのも、当然のことだったのかもしれません。 週刊化されたジャンプは、そこから一気に駆け上がっていきます。「男一匹ガキ大将」や「ハレンチ学園」が爆発的な人気を呼び、創刊からわずか3年ほどで発行部数は100万部を突破したといいます。特に「ハレンチ学園」は、テレビドラマ化までされる社会現象になった一方で、PTAや教育関係者からは猛烈な批判を浴びました。「子どもに読ませたくない」と大人が眉をひそめる雑誌ほど、子どもは読みたくなるものです。いつの時代も、この法則だけは変わりません。 そして昭和50年代に入ると、ジャンプの誌面には私たちの世代の「顔」が次々に現れます。昭和51年(1976年)には「こちら葛飾区亀有公園前派出所」、スーパーカーブームの火付け役「サーキットの狼」もこのころ。私が小遣いを握りしめて駄菓子屋に通っていたあの時代、ジャンプは着々と、私たちを迎え撃つ準備を整えていたのでした。 教室のジャンプ、私のジャンプ 私のジャンプ時代は、小学校の終わりから高校にかけての昭和56年〜60年(1981〜85年)ごろです。 いま思い出しても、ため息が出るような顔ぶれです。「キン肉マン」「Dr.スランプ」「キャプテン翼」「キャッツ♡アイ」、昭和58年からは「北斗の拳」。テレビをつければアラレちゃんが「んちゃ!」と挨拶し、駄菓子屋の店先のガチャガチャからは、キン消し――キン肉マン消しゴムが出てくる。ジャンプの漫画が誌面を飛び出して、テレビにも、おもちゃ屋にも、文房具にもあふれていた時代でした。 そして忘れてはいけない、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。 こち亀は、私の中では不動の「サブ」でした。お目当ての看板作品ではない。でも、毎週必ず読む。読まないと一週間が締まらない。同じ葛飾区の話ということもあって、両さんの騒がしさには、どこか近所の匂いがありました。ちなみにこち亀の連載開始は創刊から8年後の昭和51年。そこから平成28年(2016年)に200巻で幕を下ろすまで、40年間一度も休載しなかったというのですから、両さんはやはり只者ではありません。 私のジャンプの買い方は、少し特別でした。 近所の駄菓子屋が雑誌も売っていて、毎週必ず買う私の分を、ちゃんと取っておいてくれていたのです。それだけではありません。本当はダメだったと思うのですが、発売日の前日の夕方に、こっそりそれを買わせてもらっていました。「誰にも言っちゃだめだよ」と口止めされて(笑)。 今の言葉でいえば「フラゲ」というやつです。日本中の誰よりも先に新しい号を開いているような気分は、子どもにとって、ちょっとした宝物でした。 読む順番は、お目当ての漫画を真っ先に読む派でした。北斗の拳、キャプテン翼、よろしくメカドック、キン肉マン。楽しみを最後に取っておくなんて器用なことは、とてもできなかったのです。 ちょうど私が中学生だった昭和59年(1984年)ごろ、ジャンプの発行部数は400万部を突破しています。10万5000部で生まれた雑誌が、16年で約40倍。発売日の教室のあちこちにジャンプが載っていたあの光景を思えば、この数字には実感しかありません。 考えてみれば、この黄金期を支えた作家たちの多くが、例の「新人主義」で発掘された人たちでした。「Dr.スランプ」の鳥山明さんも、投稿から見いだされた新人のひとりです。創刊のときに蒔かれた種が、十数年の歳月を経て、ちょうど私たちの世代の目の前で一斉に花開いた。そう考えると、なんとも幸運な巡り合わせだったと思います。 そういえば当時の私は野球部で、「友情・努力・勝利」は誌面の中だけでなく、グラウンドの上の言葉でもありました。キャプテン翼は確かに大人気でした。それでも、私のまわりではまだまだ野球が主流派で、サッカー一筋という友達はいませんでした。そもそも、わが中学校にはサッカー部がなかったのです。翼くんがどれだけ「ボールは友達」と言っても、放課後の私たちが追いかけていたのは白球のほうでした。 653万部の頂点と、その先 ジャンプの部数はその後も伸び続け、平成7年(1995年)の新年合併号では653万部という、雑誌の歴史でも空前の記録を打ち立てます。ただ、それはもう平成の話。私のジャンプはやはり、昭和50年代の、あの少しざらついた紙の手触りとともにあります。 653万部という数字を、少し考えてみてください。当時の日本の人口はおよそ1億2500万人。単純計算で、国民の20人にひとりが同じ週に同じ雑誌を手にしていたことになります。ひとつの物語を、日本中の少年(と、元少年)が同じ週に読んで、月曜日の教室や職場で語り合う。そんな時代が、確かにあったのです。 令和の今、紙のジャンプの部数はピーク時の6分の1ほどになったと聞きます。子どもたちの世代は、漫画をスマホのアプリで読みます。「少年ジャンプ+」で新作を追いかけ、単行本は電子書籍で買う。教室の机にどさっと雑誌を置いて回し読みする、あの光景はもうないのでしょう。 でも、と思うのです。 「ONE PIECE」も「鬼滅の刃」も、たどっていけば同じ一冊の雑誌です。余談ですが、あの「ONE PIECE」でさえ、連載が決まるまでに編集部の会議で3度落とされたといいます。世界的な作品になる卵であっても、例外なく同じ土俵で勝負させる。創刊のときに決めた「新人と実力勝負」の仕組みを、半世紀たっても曲げていないのだとすれば、それはそれで大した頑固さです。 読者の声に耳を澄まし、無名の新人を発掘し、友情と努力と勝利を描く。昭和43年7月11日に10万5000部で産声を上げた仕組みが、形を変えながら、58年後の今も動き続けている。そう考えると、ちょっと胸が熱くなりませんか。 私より9か月だけ早く生まれた「先輩」は、まだまだ現役のようです。 あなたは何派でしたか。ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオン。毎週、発売日が待ち遠しかった漫画は何でしたか? 私にとってのジャンプは、看板作品と並んで、いつも「こち亀」がありました。同じ葛飾区の話で、両さんの騒がしさには近所の匂いがあった。40年・全200巻、一度も休載しなかった伝説の第1巻を開くと、昭和の下町の空気がそのまま立ちのぼってきます。孫と一緒に「じいちゃんの町の漫画だぞ」と読むのも、また一興です。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(集英社文庫コミック版)秋本治/集英社。すべてはここから始まった、両さん最初の一冊。昭和の葛飾がまるごと詰まっている Amazonで見る › 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月10日】怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた | 次の記事:【7月12日】球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える ▶ ...

July 11, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月10日──怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた

今日は7月10日。私が生まれる3年前、1966年(昭和41年)のこの日、のちに何十年も子どもたちのヒーローであり続けることになる男が、ブラウン管に初めて姿を現しました。『ウルトラマン』です。 もっとも、正式な第1話が始まったのはこの日ではありません。実はこの日に放送されたのは、ちょっと変わった経緯を持つ番組でした。 「前夜祭」という名の、間に合わせの放送 話は、その前番組にさかのぼります。『ウルトラマン』が始まる前、同じ枠では『ウルトラQ』という怪獣番組が放送され、大ヒットしていました。この人気を受けて、次の作品として企画されたのが『ウルトラマン』です。ところが、ここで思わぬことが起こります。『ウルトラQ』の最終回が、内容が難解すぎるという理由で、放送を見送られることになってしまったのです。 『ウルトラマン』は本来、7月17日から始まる予定でした。しかし『ウルトラQ』の最終回が飛んだことで、その一週間、枠がぽっかり空いてしまいます。そこをどう埋めるか——制作側が用意したのが、前日に杉並公会堂で行われていたウルトラマンの宣伝イベントの映像でした。それを「ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生」として放送したのが、1966年7月10日。つまり私たちが「ウルトラマンの日」として記憶しているこの日は、本編ではなく、いわば見切り発車の穴埋め番組が生まれた日だったわけです。ヒーローの初登場が、こんなにも慌ただしい事情から生まれたというのは、なんだか人間くさくて、私は少し好きです。 そして翌週から始まった本編は、平均視聴率36.8%、最高視聴率はなんと42.8%(1967年3月放送分)という、今では考えられない数字を叩き出しました。当時のお茶の間の半分近くが、毎週日曜の夜、あの男の戦いを見つめていたことになります。テレビがまだ一家に一台、それも白黒だった時代に、これほどの人が同じヒーローに熱狂していたのです。 ブームが去っても、消えなかった男 『ウルトラマン』の熱狂は1968年頃には一段落し、子ども向け番組の主役は『巨人の星』のようなスポ根ものへと移っていきます。新しい特撮ヒーロー番組は、しばらく作られませんでした。けれど不思議なことに、ウルトラマンはそこで終わりませんでした。すでに放送された作品が繰り返し再放送され、そのたびに視聴率は18%前後という、新作顔負けの数字を叩き出し続けたのです。怪獣というマグマは、子どもたちの中でずっとくすぶり続けていました。 その間、1970年には、過去の戦闘シーンを再編集し、新たに撮影した怪獣同士の対決を加えた5分間の帯番組『ウルトラファイト』も放送されます。「出がらしだ」と揶揄する声もありましたが、子どもたちはこれにも熱中しました。そうした熱がとうとう抑えきれなくなり、1971年、ついに新作『帰ってきたウルトラマン』が登場します。いったん幕を下ろしたはずのブームが、再び燃え上がる——テレビ番組ではきわめて珍しい「ブームの再燃」でした。作り手たち自身も、驚いたといいます。ウルトラマンという存在が、それほど深く子どもの世界に根を下ろしていたことに、当人たちも気づいていなかったのです。 私が生まれたのは1969年4月。つまり初代『ウルトラマン』の本放送にも、1971年の「帰ってきた」ブームの立ち上がりにも、リアルタイムでは間に合っていません。物心つく頃には、すでにウルトラマンは「新しく始まるもの」ではなく、「気づいたらそこにあるもの」でした。 私にとっての「最初のウルトラマン」 私にとって、最初に出会ったウルトラマンは『帰ってきたウルトラマン』だと、長いあいだ思い込んでいました。MATの隊員服、マットアロー1号・2号、そして郷秀樹を演じた団次郎さん。ベムスター、ツインテール、グドン、ブラックキング、ナックル星人——こうした怪獣や宇宙人の名前が、今でも鮮明に頭に残っています。私の中では「ウルトラマン=郷秀樹」という図式が、ずっと当たり前のものでした。 ところが、あらためて調べて驚きました。『帰ってきたウルトラマン』の本放送は1971年(昭和46年)4月から1972年(昭和47年)3月まで。この時期の私は、放送開始時でわずか1歳11か月、最終回でも2歳11か月です。とても、番組をしっかり覚えていられる年齢ではありません。 では、私が夢中になって見ていたあれは、いったい何だったのか。答えはおそらく「再放送」です。昭和48年、49年、50年——私でいえば4歳から6歳、幼稚園の年長にかけて、ウルトラシリーズの再放送が全国で驚くほど頻繁に行われ、大きなブームになっていたといいます。まさにテレビにかじりつく年頃です。郷秀樹が私の「最初のウルトラマン」になったのは、そういうからくりだったのでしょう。本放送に間に合わなかったはずの私が、再放送という時間差の魔法で、いつのまにかその世界の住人になっていたわけです。 そこから先は、『ウルトラマンA』、『タロウ』と、まっすぐにつながっていきました。どれが一番かと問われても困ります。結局のところ、すべてのウルトラマンが、私のヒーローでした。 スペシウム光線と、100円のカード もちろん、ただ見ているだけでは済みません。空き地や公園に集まれば、ウルトラマンごっこの始まりです。両腕を十字に組むスペシウム光線のポーズは、何度練習したかわかりません。ついでにウルトラセブンのアイスラッガーを頭から投げる真似もしました。今思うと、よくあんな格好で大真面目になれたものです。 そしてもう一つ、あの頃の男子を熱狂させたのが、怪獣図鑑のカードでした。1袋100円で売られていて、そのカードを集めて図鑑を完成させるのです。図鑑の台紙になる本のようなものは別売りで、そちらも買いそろえる必要がありました。学校の男子は、クラス中がこれに夢中でした。誰よりも早く自分の図鑑を完成させたい——その一心で、みんな必死にカードを買い集めていたのを思い出します。 完成が近づくと、今度は同じカードのダブりが大量に出てきます。「これ持ってる」「それ欲しい」と、友達同士で交換し合ったあの時間も、いい思い出です。 ちょっと変な記憶なのですが、図鑑の1番は確か『ミクラス』で、表紙に貼り付けるようになっていた気がします。それが、貼っても貼ってもすぐに剥がれてしまうのに困っていました。セロテープで補強している友達もいて、みんな同じところで苦労していたのが、今となっては微笑ましく思えます。 伝説の余熱で育った世代 考えてみれば、私が本放送を見ることのできなかったヒーローが、再放送という形を借りて、私の子ども時代をこれほどまで彩っていたわけです。1966年に生まれたウルトラマンは、私が生まれる前にすでに伝説になっていて、その伝説の余熱だけで、私を含めた何世代もの子どもを育てていきました。 胸のカラータイマーが点滅し、地球にいられる時間は3分間だけ。M78星雲からやってきた光の巨人が、両腕を十字に組んでスペシウム光線を放つ——あのシンプルな約束事が、これほど長く子どもの心をつかんで離さないとは、いったい誰が予想したでしょうか。ウルトラシリーズは、2013年に「最も多くの派生テレビシリーズが作られたテレビ番組」としてギネス世界記録にも認定され、その後さらに記録を更新しています。始まりが「穴埋め」だったヒーローが、世界記録の持ち主になったのです。 今、当時の映像はYouTubeの公式チャンネルでいつでも見られます。前夜祭という間に合わせから始まった番組が、60年近くたった今もまだ現役だというのは、当のスタッフたちも想像していなかったのではないでしょうか。今の子どもたちもまた、最新のウルトラマンに夢中になっている。私が郷秀樹に胸を躍らせたのと、まったく同じ目の輝きで。 親から子へ、子からまたその先へ。ウルトラマンは、そうやって世代を越えてバトンをつないできました。あの光の巨人は、本当に時間を超えて生き続けているのだと、しみじみ思わされます。私が再放送で受け取った一本のバトンも、たしかにその長いリレーの一区間だったのでしょう。 みなさんは、ウルトラマンとどんなふうに出会いましたか。本放送派でしたか、それとも私のような再放送育ちでしたか。 あの頃、100円のカードを握りしめて集めた怪獣図鑑。あれを大人になった今、決定版として手に入れられるのがこの一冊です。ベムスター、ツインテール、グドン、ブラックキング——名前だけは覚えている、あの顔ぶれに一気に再会できます。孫と一緒にページをめくるにも、ちょうどいい厚みです。 ウルトラ怪獣コレクション ウルトラマン・ウルトラセブン編円谷プロダクション監修。初代からセブンまでの怪獣・宇宙人を、鮮明な写真と解説で網羅した保存版 Amazonで見る › 昭和の今日は何があった日? 明日はどんな日だったのでしょうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月9日】大井川鉄道、日本初のSL動態保存が始まった日 | 次の記事:【7月11日】私より9か月早く生まれた、あの雑誌のこと ▶

July 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月9日──蒸気が消えた年に、蒸気を走らせた鉄道があった

今日は、正直に告白するところから始めたいと思います。 1976年(昭和51年)7月9日、静岡県の大井川鉄道が、日本で初めて蒸気機関車の動態保存運転を開始しました。今回この日のことを調べるまで、私はこの出来事をまったく知りませんでした。記憶がないどころか、知識としても持っていなかったのです。 当時、私は小学1年生。京成高砂駅のすぐ近く、線路沿いの家で育った私は、毎日のように電車を眺めて暮らす鉄道少年でした。それなのに、この歴史的な出来事を知らずに57歳まで来てしまった。だから今日の記事は、いつもと少し違います。読者のみなさんと一緒に、私自身が初めて知る物語です。 昭和50年12月14日、蒸気が消えた まず、大井川鉄道の話の前に、その半年前まで時計を戻す必要があります。 1975年(昭和50年)12月14日、北海道の室蘭本線で、国鉄最後のSL定期旅客列車が走りました。室蘭発岩見沢行きの225列車。牽引したのはC57形135号機で、「さよならSL」と書かれた特製のヘッドマークが掲げられていたそうです。 この日の室蘭駅には、前日の夜から徹夜で並んだ人たちがいて、改札が始まった朝7時半には約2000人が乗車券を買い求めたといいます。ふだんは客車5両の列車がこの日は8両に増結され、満員の乗客を乗せて、定刻より1時間14分も遅れて終点の岩見沢に着きました。遅れの理由は、沿線に詰めかけた人の波だったのでしょう。1872年の新橋〜横浜間開業から103年。日本の鉄道を支え続けた蒸気機関車が、日常の風景から姿を消した瞬間でした。 構内の入換用として最後まで働いていたSLも、翌1976年3月、北海道の追分機関区で火を落とします。これで国鉄から、動くSLは一両もいなくなりました。 背景にあったのは、国鉄の「動力近代化計画」です。電化とディーゼル化を進め、燃費が悪く煙で乗客や沿線を悩ませるSLを全廃するという方針でした。高度経済成長のなか、速く大量に運ぶことが鉄道に求められた時代です。合理化としては当然の流れでした。 ただ、皮肉なことに、SLは消えると決まった瞬間から、かつてないほど愛され始めます。消えゆくSLを追いかけて全国の路線に人々が押し寄せた「SLブーム」は、ちょうど昭和40年から50年までの10年間。鉄道ファンだけでなく、老若男女が有名撮影地に集まり、最後の雄姿をフィルムに焼きつけようとしました。1972年(昭和47年)の鉄道開業100年には、京都に梅小路蒸気機関車館(現在の京都鉄道博物館)が開館し、SLを産業文化財として保存する動きも始まっています。当時の時刻表には「今やSLは、走る交通機関から、見る交通機関に変わった」という趣旨のことばが載ったそうです。 人は、なくなるとわかったときに初めて、そのものの価値に気づくのかもしれません。 その半年後、静岡の茶畑を蒸気が走った そして1976年7月9日。国鉄からSLが完全に消えて、わずか4か月後のことです。 静岡県の大井川鉄道が、大井川本線の金谷〜千頭間、約40キロでSL急行「かわね路号」の運転を始めました。日本で初めての、本線上でのSLの動態保存運転です。「動態保存」とは、博物館に静かに展示するのではなく、動く状態のまま保存すること。つまり、火を入れ、蒸気を上げ、客を乗せて走らせ続けるということです。 牽引したのはC11形227号機。1942年(昭和17年)9月製造のタンク式機関車で、戦時設計に切り替わる直前に造られた、造りの良い一両だそうです。時速85キロで走れる優れた性能を持ちながら、動力近代化の波のなかで職を失い、前年の1975年11月に北海道の標津線から大井川鉄道へやってきました。国鉄最後のSLたちが働いた北海道から、一両の機関車が静岡へ渡り、そこで再び命を吹き込まれた——調べていて、この事実に胸が熱くなりました。 もうひとつ知って驚いたのは、当時の大井川鉄道が、決して余裕のある会社ではなかったことです。昭和40年代から50年代にかけて、沿線の過疎化と人口流出で利用者は減り続け、事業の柱だった貨物輸送も落ち込み、たび重なる災害復旧に資金を注ぎ込まなければならない。経営の先行きが見通せない時期だったといいます。 そのどん底で選んだのが、「消えゆくものにこそ価値がある」という道でした。全国が捨てたものを、あえて拾い上げて走らせ、沿線の外からお客さんを呼び込む。世の中が新しさへ一直線に走っていた昭和51年に、これは相当に思い切った、常識はずれの決断だったはずです。しかし運行開始と同時に全国から乗車の申し込みが殺到し、やがて「SLといえば大井川」と呼ばれるまでになりました。捨て身の賭けは、見事に当たったのです。 跨線橋の上の私は、知らなかった さて、そのころの私です。 小学1年生の私は、京成高砂駅のそばの跨線橋の上から、飽きもせず電車を眺めていました。高砂の検車区に並ぶ車両たち、踏切を駆け抜けていくスカイライナー。私の世界は、電車でできていました。 でも、そこに蒸気機関車はいませんでした。東京の下町で生まれ育った私にとって、SLは最初から「絵本と図鑑の中のもの」だったのです。デゴイチという言葉は知っていても、それが目の前を走る姿は見たことがない。大人たちが夢中になったSLブームも、終わってから知った話です。 考えてみれば、私たちの世代は不思議な世代です。本物の蒸気機関車が走る姿を知らないのに、あのシルエットだけは、なぜか目に焼きついている。1978年(昭和53年)にテレビ放送が始まった『銀河鉄道999』のおかげでしょう。小学3年生だった私は、毎週欠かさず観ていました。『宇宙戦艦ヤマト』にも夢中でしたから、私の宇宙は、戦艦と機関車でできていたことになります。それにしても、宇宙を旅する列車が、最新型の宇宙船ではなく、あえて蒸気機関車の姿をしていたというのは、今思えば示唆的です。乗ったこともないSLの汽笛に、郷愁のようなものを感じていた——あれは、SLブームを駆け抜けた大人たちの想いが、アニメというかたちで子どもの世代に手渡された瞬間だったのかもしれません。 同じ1976年、葛飾では『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載が始まっています。宅急便が生まれたのもこの年です。私の身の回りの昭和51年は、新しいものが次々と生まれる年でした。その同じ年に、遠い静岡で「古いものを守り抜く」決断がされていたことを、跨線橋の上の少年は知る由もありませんでした。 半世紀、走り続けている 驚くべきことに、あのC11形227号機は、今も大井川鐵道の現役機関車です。 大井川鉄道が始めた動態保存は、その後、全国に広がりました。今、各地で週末や夏休みに走っているSLの観光列車は、すべてこの1976年7月9日が原点だと言っていい。そして大井川鐵道自身は、きかんしゃトーマス号の運行でお子さんたちにも愛される鉄道になり、2025年に創立100周年を迎えました。 面白いのは、この鉄道が守っているのはSLだけではないことです。ふだんの普通列車として走っているのも、南海電鉄や東急電鉄などから譲り受けた古い電車たち。よその鉄道で役目を終えた車両が、大井川のほとりで第二、第三の人生を送っているのです。駅舎も昭和のまま残されていて、戦前戦中を舞台にしたドラマや映画のロケ地にもなっているそうです。鉄道会社まるごとが、動く昭和なのですね。 55歳の夏、デゴイチの前に立った じつは私が初めて本物のデゴイチの前に立ったのは、つい一昨年、55歳の夏のことです。 2024年8月、次男の中学野球の全国大会で福井県を訪れました。宿泊したのは今庄の宿。その敷地に、黒く堂々とした蒸気機関車が展示されていたのです。D51形481号機。1940年(昭和15年)製造、主に中国地方で活躍した機関車だそうです。今庄はかつて北陸本線最大の難所「杉津越え」を控えた鉄道の町で、急勾配に挑む列車を後押しする補機のSLたちが活躍した土地。その歴史を伝えるために、このデゴイチが誘致され、保存されているのだと知りました。 図鑑の中でしか知らなかったデゴイチが、目の前にいる。動輪は私の背丈に届きそうなほど大きく、真正面から見上げると、黒い鉄のかたまりがこちらを見下ろしてくるようでした。息子の野球のために来た町で、まさか半世紀越しの対面を果たすとは。野球と鉄道——私の人生の二本柱が、思いがけない場所で交差した夏でした。 私は今、路線バスの運転士として働いています。だからでしょうか、機械を「動く状態で保ち続ける」ことの重みが、少しだけわかる気がするのです。80年以上前に造られた機関車を今日も走らせるためには、部品ひとつひとつを手の感触で調整し、経験と勘を次の世代に口伝えで引き継いでいくしかない。今庄のデゴイチのように静かに余生を送る機関車も尊いけれど、展示するより、走らせ続けるほうが、何倍も難しいのです。 半世紀前、小さな私が跨線橋から電車を見上げていたあの日も、静岡の茶畑の中を蒸気機関車が走っていた。そのことを57歳になって初めて知り、いつか金谷駅から「かわね路号」に乗ってみたいという、新しい夢がひとつ増えました。知らなかったことを知るのは、いくつになっても嬉しいものですね。 みなさんは、蒸気機関車に乗ったことがありますか。あの汽笛を、聞いたことがありますか。 黒く輝く動輪、白い蒸気、力強い汽笛——。デゴイチをはじめ、日本を走った蒸気機関車たちの雄姿を、豊富な写真で味わえる一冊です。あの頃SLブームを追いかけた方にも、『銀河鉄道999』で汽笛に憧れた世代にも、そしてお孫さんへの一冊にも。ページをめくれば、乗ったことのない汽車の郷愁が、また胸に立ちのぼります。 蒸気機関車大図鑑 SLのすべてがわかる金盛正樹ほか。デゴイチから大井川のかわね路号まで、写真で楽しむSLの世界 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月8日】たばこの箱に、小さな一文が生まれた日 | 次の記事:【7月10日】怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた ▶

July 9, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月8日──たばこの箱に、小さな一文が生まれた日

今日は7月8日。梅雨明けを待つ、じっとりと重い空気の季節です。 昭和の家には、たいてい煙が満ちていました。ちゃぶ台の上には灰皿があって、朝から晩まで、白い煙がゆらゆらと立ちのぼっている。テレビの画面も、蛍光灯の傘も、いつのまにかうっすらと黄ばんでいる。あれが、当たり前の風景でした。 そして、その煙を切らさないために走るのは、たいてい子どもの役目でした。小銭を握りしめて、近所のたばこ屋まで。「〇〇をひとつ」——そう言えば、子どもにでも売ってくれた時代です。 昭和47年(1972年)の7月8日、その手の中のたばこの箱に、ある小さな一文が初めて刷り込まれました。 「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」 今では考えられないほど控えめな、たった一行。けれど、これが日本のたばこに“警告”が載った、いちばん最初の言葉だったのです。 箱の側面の、たった一行 私たちの世代にとって、たばこの箱の側面に注意書きがあるのは、生まれたときからの当たり前でした。けれど、その一行にも、ちゃんと「始まり」があります。 1972年(昭和47年)より前、日本で売られていたたばこには、健康に関する注意文も警告も、いっさい書かれていませんでした。箱には、ただ商品の顔があるだけ。吸うことに国が注意をうながす、という発想そのものが、まだ世の中になかったのです。 その流れを最初につくったのはアメリカでした。そして日本でも、昭和47年の夏、ついにたばこの箱に文字が載ることになります。記録によれば、まず京都・名古屋・大津の三つの街で、「健康のため吸いすぎに注意しましょう」と側面に印刷したたばこの販売が始まり、その年の8月下旬から、全国へと広がっていったといいます。7月8日は、その最初の一歩がしるされた日、というわけです。 面白いのは、我が家の定番だったあの安いたばこも、ちょうどこの昭和47年の夏に、箱へ健康表示が刷られるようになった、という点です。つまり、私が物心つく前から握らされていたあの一行は、じつはこの頃に生まれたばかりの、まだ新しい言葉だったのです。 ちなみにこの文言は、その後ずっと同じだったわけではありません。1972年から1989年まで、つまり昭和のあいだはずっと「健康のため吸いすぎに注意しましょう」。平成に入った1990年からは「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」と、少し踏み込んだ言い方に変わりました。そして2005年からは、箱の大きな面をつかって、具体的な病気の名前まで書かれるようになります。あの控えめな一行は、時代とともに、どんどん強い言葉になっていったのです。 正直に言えば、私自身はこの「始まり」をまったく覚えていません。昭和47年7月といえば、私はまだ三歳。箱の文字を読むどころではありませんでした。今回この日について調べていて、はじめて「そうだったのか」と知ったくらいです。 私が本当に覚えているのは、その一行そのものではなく——その一行が刷られた箱を握って走った、お使いの記憶のほうなのです。 70円玉を握って 我が家は、両親そろって喫煙者でした。 父も母も、当たり前のようにたばこを吸っていて、家の中はいつも煙の匂い。今にして思えば、子どももその煙を一緒に吸って育ったわけですが、当時はそんなことを気にする人など、まわりに誰もいませんでした。 だから、たばこのお使いは、私の仕事でした。 小銭を渡されて、近所のたばこ屋まで走る。買ってくるのは、決まってエコーという銘柄でした。オレンジ色に茶色のストライプが入った、あの細長い箱です。値段はたしか、70円ほど。当時のたばこの中でも、いちばん安い部類のものでした。 そのたばこ屋さんは、高砂駅の北口を出て、すぐ目の前にありました。たばこを対面で売る小さな窓口には、いつもおばちゃんかおじちゃんのどちらかが座っていて、「エコー、〇個ください」と声をかけると、茶色の紙袋にたばこを入れて渡してくれます。 そして、そのたびに、小さな箱に入ったミカン味の、丸い球のガムを——たしか四粒だったと思います——毎回くれるのです。じつを言うと私、そのガムが目当てで、喜んでお使いに行っていたようなものでした。 そのたばこ屋さんは、驚くことに、今も同じ場所にちゃんとあります。 エコーというたばこは、1968年(昭和43年)に売り出された、フィルター付きでは日本でいちばん安いたばこでした。税金の区分でいう「旧三級品」というやつで、とにかく安い。だから、我が家のようなごく普通の家では、重宝されていたのだと思います。のちに俳優の松田優作さんが好んで吸っていたことでも知られる銘柄ですが、子どもの私にとっては、ただ「いつもの、うちのたばこ」でした。 なぜ我が家がエコーだったのか。父がよく、「エコーはフィルターがついている中で一番安いんだ」と言っていたのを覚えています。父も母も、そろってエコー。銘柄で迷うことなど一度もなく、私が買いに行くのは、いつも決まってあのオレンジ色の箱でした。 現金のお駄賃をもらった記憶はありません。私にとっての“ごほうび”は、あくまであのたばこ屋さんがくれるガムだけ。それでも、あの頃の私には、それで十分すぎるくらいだったのです。 校庭に、たばこの煙 たばこの煙は、家の中だけのものではありませんでした。 中学、高校と野球を続けた私にとって、たばこの匂いは、グラウンドの記憶とも結びついています。当時の野球部の監督は、校庭で、平気でたばこを吸いながら指導していました。ノックの合間に一服、選手を集めて話しながら一服。今の学校では、まず考えられない光景でしょう。 そして、その監督に「たばこを買ってこい」と使いに出されるのも、また部員の役目でした。 野球部の顧問というのは、どこの学校でも、たいていはおっかない先生と相場が決まっていました。うちの監督も、その例にもれず。今の感覚でいえば、生徒にたばこを買いに行かせるなんて大問題でしょうが、あの頃は、先生も生徒も、誰ひとり何とも思っていませんでした。 それどころか、私たち部員にとって、たばこのお使いは、ちょっとした“役得”だったのです。だって、その間だけは、あのきつい練習から堂々と抜けられる。買いに行かされる仲間を横目に、「いいなぁ〜」と、うらやましく思ったものでした。 ですから、たまに自分が頼まれたときには——これは内緒の話ですが——できるだけゆっくり、ゆっくりと、道草を食いながら帰ったものです。 考えてみれば、昭和という時代は、たばこの煙にとても寛容でした。電車の中でも、駅のホームでも、職場でも、学校の職員室でも、煙は当たり前に漂っていた。子どもがたばこを買いに行き、大人が子どもの前でふかす。その全部が、なんの疑問もない日常だったのです。 煙の中で育った、私たち これだけ濃い煙の中で育ったのに、ひとつ、不思議なことがあります。 私も、ひとつ下の妹も、大人になってから、たばこを一度も吸いませんでした。 といっても、そこに深い理由があったわけではありません。親の吸う煙が、内心いやだった——そういうことでもないのです。ただ、吸うタイミングというものがなかった。そして、吸いたいと思うこともなかった。ほんとうに、それだけのことでした。 あんなに毎日たばこを買いに走らされて、家じゅうが煙だらけで、それでも自分では吸わなかった。人が何かを選ぶ、選ばないというのは、案外、そのくらい他愛のないものなのかもしれません。 いま、たばこの箱を見ると、その変わりように驚きます。箱の半分近くを、黒々とした警告の文字が占めている。あの「健康のため吸いすぎに注意しましょう」という、どこか遠慮がちだった一行の“子孫”が、半世紀をかけて、あそこまで強い言葉になった。時代は、確かに変わったのだと感じます。 おわりに 昭和47年7月8日、たばこの箱に、初めて小さな一文が刷られました。 「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」。 その一行が生まれた頃、私はまだ三歳で、そんなことは何も知らないまま、やがてその箱を握りしめて、近所のたばこ屋まで走ることになります。手の中には70円玉。買ってくるのは、オレンジ色のエコーひとつ。家に帰れば、また煙の匂いの中へ戻っていく。 あの煙も、あのお使いも、校庭でたばこをふかしていた監督の姿も、今ではすっかり遠い風景になりました。それでも、たばこの箱の側面をふと見て、あの小さな一行に目がとまると、湿った夏の日の、たばこ屋までの道のりが、すっと目の前によみがえってくるのです。 みなさんは、家族のたばこのお使いに走った記憶はありますか。どんな銘柄を、いくらで買っていたか、覚えているでしょうか。 家じゅうの煙、駄菓子屋のガム、たばこ屋のおばちゃん——。あの頃の「当たり前」は、いまや一枚の写真の中にしか残っていません。昭和の衣・食・住の何気ない風景を、たっぷりの写真で振り返る一冊。ページをめくるたびに、あなたの「お使いの道」も、きっとよみがえってきます。 懐かしくて素敵! 心惹かれる昭和の暮らし(TJMOOK)宝島社。昭和の衣・食・住の“当たり前”を、写真とともに味わう一冊 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 8, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月7日──三角屋根の向こうのハンバーグ、すかいらーくと「外食元年」

七夕の夜、笹の葉に短冊を揺らしていたあの頃。空を見上げれば天の川——というのは、いかにも昭和の子どもらしい7月7日の過ごし方でした。けれど今日は、同じ7月7日に生まれた、もう一つの「星」の話をさせてください。 1970年(昭和45年)7月7日。東京・府中市の甲州街道沿いに、一軒のレストランが開店しました。名前を「スカイラーク」——のちの「すかいらーく」です。スカイラークとは、英語でヒバリのこと。空へまっすぐ舞い上がる、あの小さな鳥です。七夕の日に、ひばりの名を持つ店が羽ばたいた。日本で初めての、郊外型ファミリーレストランの誕生でした。 「外食元年」——食卓の外側が変わった年 いまでこそ、私たちは当たり前のように「ファミレス行こうか」と口にします。けれど、その言葉が生まれるためには、どこかに「最初の一軒」がなければならなかった。それが、すかいらーくでした。 作ったのは、長野県出身の横川4兄弟。もともと商売とは無縁の一家だったそうです。1962年(昭和37年)に、東京・ひばりが丘団地で「ことぶき食品」という小さな食料品スーパーを始めたものの、大型スーパーの進出に押されてうまくいかない。そこで兄弟は、もう一度アメリカへ渡って外食の現場を見て回りました。ビッグボーイやデニーズ。広いガラス張りの店に、家族連れが当たり前のように集っている光景。あの豊かさを日本にも、と考えたのです。 マクドナルドの導入も検討したものの、ライセンス契約に3億円かかると言われて断念。それならばと、自分たちでファミリーレストランを作る道を選びました。目をつけたのは、日本でも急速に広がりはじめていたマイカーブーム。車で移動する家族連れを迎えるなら、街なかより郊外だ——そう読んで、甲州街道という幹線道路沿いに1号店を構えたのです。 開店当時の店は、大きな三角屋根に、天井まで届くガラス窓。まるでアメリカの街道沿いから、そのまま切り取ってきたような姿でした。高度経済成長のただ中にあった当時の日本人にとって、それは「憧れ」そのものだったといいます。そしてメニューには、ハンバーグとエビフライを一枚の皿に一緒に盛る、という当時としては画期的な工夫。子どもが好きなものを、少しずつ、いっぺんに。その発想が、家族みんなの心をつかみました。 外食業界では、この1970年を「外食元年」と呼びます。同じ年、大阪万博の会場にはケンタッキーフライドチキンが出店し、翌1971年にはマクドナルドとミスタードーナツが日本1号店を出す。日本人が「食」において初めて世界を意識し、外で食べることそのものにワクワクした——そんな時代の、まさに号砲でした。すかいらーくは開店から5年で店舗数100を超え、やがて全盛期には700店を超えるまでに広がっていきます。 すかいらーくが持ち込んだのは、味やメニューだけではありませんでした。レストランとしては初めて、注文をその場で打ち込むハンディ端末やPOSの仕組みを取り入れ、少ない人数でもてきぱきと店を回せる態勢を作り上げます。安くて、速くて、清潔で、きちんと挨拶をしてくれる——当たり前のようでいて、当時の日本の食堂にはなかなか無かったものを、この店は一つひとつ形にしていったのです。 そして何より大きかったのは、すかいらーくが「新しい休日のかたち」を生み出したことでした。日曜日、家族そろって車に乗り込み、郊外のレストランへ出かけて、みんなで同じテーブルを囲む。テレビのコマーシャルには、そんな幸せそうな家族が、繰り返し映し出されました。マイカーとファミレス。それは、豊かになりゆく昭和の家庭にとって、まぶしい憧れの象徴だったのです。 ——もっとも。その絵に描いたような休日は、どんな家庭にも当てはまるものではありませんでした。 我が家にとっての「外食」 さて、そんな外食革命の号砲が鳴った1970年7月、私はまだ1歳。ヒバリが羽ばたいたことなど、当然、何も知りません。 けれど、私が物心つく頃には、ファミレスという言葉は少しずつ、子どもたちの生活の隅にも入り込んできていました。ただ——正直に打ち明けますと、我が家にとって「外食」は、そう気軽なものではありませんでした。 我が家の外食には、二つの「決まり」がありました。 一つは、月に一度の楽しみです。母がパートで働いていて、その給料日が毎月25日でした。その日の夕方、母がパートから帰ってくると、母と私、そして妹の三人で、高砂駅のそばにあったイトーヨーカドーへ買い物に出かけます。ひととおり買い物を済ませると、そのままヨーカドーの中にあった小さなレストランに入り、その日の夕食をそこでとる——いつのまにか、それが我が家の習慣になっていました。 その小さなレストランで、私と妹が頼むものは、いつも決まっていました。おまけのおもちゃが付いてくる「お子様ランチ」です。ケチャップで味つけしたごはんが、こんもりとお山の形に盛られ、そのてっぺんには、小さな旗が一本、ちょこんと刺さっている。あの旗と、おまけのおもちゃ欲しさに、私たちは毎月、迷うことなくそれを選んだものでした。そして母はというと、これもまた決まって、ラーメン。子どもの頃の私は、その組み合わせを、これっぽっちも不思議に思っていませんでした。けれど——いま振り返ると、母はきっと、自分のことよりも、私たち子どもに「外で食べる」という経験をさせてやりたかったのだと思うのです。子どもにはおもちゃの付いたお子様ランチを。自分は、一杯のラーメンを。その選択の奥にあった母の気持ちに気づいたのは、ずいぶん大人になってからのことでした。 外食は特別なもので、月に一度きり。そして、その席に、父の姿はありませんでした。 もう一つは、年に一度、家族全員がそろう外食です。毎年正月の2日、親戚の集まりに向かう途中で、決まって「元禄寿司」という回転寿司へ立ち寄りました。この日ばかりは、父も含めた家族四人がそろいます。目の前をぐるぐると回っていくお寿司を、自分の手で好きなだけ取って、お腹いっぱいになるまで食べる。子どもにとって、これほど心の躍る食事はありませんでした。店を出るとき、私はいつも心の中で、そっとつぶやいたものです。「——また来年だね」と。たった年に一度。それでも、いや、年に一度だからこそ、あの回転寿司は今も、本当に楽しい思い出として、私の中に残り続けています。 初めてのファミレス そんな私が、生まれて初めて本物のファミリーレストランに足を踏み入れたのは、中学1年生のとき。昭和57年のことでした。 しかも、親と一緒ではありません。同級生だけ、数名で行ったのです。子どもだけでファミレスに入る——それだけで、なんだか少し大人になったような、くすぐったい気分でした。場所は、国道6号線沿い、亀有警察署の向かいにあったデニーズ。何を注文したのかは、正直、もう覚えていません。たぶん、ホットケーキのセットあたりだったと思います。 でも、一つだけ、はっきりと覚えている衝撃があります。それは——コーヒーが、何杯でもおかわりできたこと。「えっ、何杯飲んでもいいの!?」「これ、めっちゃお得だー!」。中学生の私たちは、その事実に本気で興奮し、結局、コーヒーを何杯もおかわりしながら、数時間もねばっていました(笑)。 思えばファミリーレストランは、私たちの世代の青春時代に、欠くことのできない存在でした。友人に悩みを聞いてもらったとき。彼女とのデートで食事をするとき。五、六人で何かの打ち合わせをするとき。——気づけばいつも、決まってファミレスにいたのです。あのボックス席で、何杯目かのコーヒーを前に、私たちは笑い、悩み、少しずつ大人になっていきました。 ガストになった星 時は流れて、令和のいま。 あの「すかいらーく」という看板は、実はもう、街から消えています。バブル崩壊後、より手頃な価格帯の「ガスト」へと衣替えが進み、2009年には「すかいらーく」という名前のお店そのものがなくなりました。そして2024年1月、あの記念すべき1号店——長らく「ガスト国立店」として営業していた、府中の甲州街道沿いのあの場所も、半世紀を超える歴史に静かに幕を下ろしました。 けれど、星が消えたわけではありません。ガスト、ジョナサン、バーミヤン、夢庵、しゃぶ葉——いま日本中にあるこれらのお店は、みなあの日のヒバリの子孫たちです。グループ全体では、3000を超える店舗が今日も灯りをともしています。 ただ、その姿はずいぶん変わりました。注文はテーブルのタッチパネルで。料理を運んでくるのは、猫の顔をした配膳ロボット。ドリンクバーでジュースをおかわりし放題。私が子どもの頃、あれほど特別だった「外で食べる」という行為は、いつのまにか、ごく当たり前の日常になりました。 便利で、安くて、いつでも入れる。それはきっと、幸せなことなのでしょう。でも——三角屋根を見上げてドキドキしたあの気持ちを、今の子どもたちは味わえるのだろうか。ときどき、そんなことを考えてしまう私がいます。 そういえば——あの店の名前は、ヒバリでした。七夕の夜に見上げた星の光に、どこか似た響きの名前です。半世紀前のあの日、府中の甲州街道に舞い降りた一羽のヒバリは、日本の家族に、ちょっとした特別な時間を配って回りました。私にとってのそれは、月に一度のヨーカドー。年に一度の回転寿司。そして、中学生になって初めて自分の足で踏み入れた、あのデニーズの、何杯ものコーヒー——。どれも、決して豪華ではないけれど、いまも胸の奥でぽっと灯り続けている、大切な星たちです。 あなたにとっての「初めてのファミレス」は、どこの、何でしたか。あの一皿の記憶を、よかったらコメントで聞かせてください。 すかいらーくの誕生から、外食元年、そして令和の配膳ロボットまで。私たちが「外で食べる」ことに込めてきた憧れと変化を、まるごと一冊にたどった本があります。あの三角屋根にドキドキした世代には、ページの一つひとつが「あの頃」と地続きに感じられるはずです。 日本外食全史阿古真理/亜紀書房。ファミレス誕生から令和まで、日本人が“外で食べる”を追いかけた50年の記録 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月6日】「本を読むなら、バットを振る」、サラダ記念日がわからなかった高3の夏 | 次の記事:【7月8日】たばこの箱に、小さな一文が生まれた日 ▶

July 7, 2026