【昭和の今日は何があった日?】7月26日──僕はいつも別の場所にいた

「昭和の今日は何があった日?」——このシリーズを書くために、私はまず7月26日という日を調べてみました。すると、有名な出来事が三つ、目に飛び込んできます。 「ゲームは1日1時間」という、あの名言が生まれた日。「幽霊の日」という、いかにも夏らしい記念日。そして、月へ向かうロケットが打ち上がった日。 ところが、三つを並べて、私は正直に告白しなければなりません。——どれ一つとして、私の「思い出」ではないのです。ファミコンは買ったこともなかった。幽霊に震えた記憶もない。月ロケットに至っては、私はまだ2歳でした。 いつもなら、この欄には子ども時代の私の記憶が並びます。でも今日は違います。今日は、この三つの出来事を、読者のみなさんと一緒に、初めて調べていくことにします。そしてたぶん、最後に分かるはずです。世界がこの日を記憶しているあいだ、私はいったい、どこにいたのか。 ゲームは1日1時間、僕は一日中グラウンドに まず、あの名言です。「ゲームは1日1時間」。 調べてみて驚きました。生まれたのは、1985年7月26日。福岡市のダイエー香椎店で開かれた、ファミコンの全国キャラバン大会でのことでした。ハドソンの社員だった高橋名人が、集まった子どもたちに向けて、即興でこう言ったのだそうです。「ゲームが上手くなりたいなら、1時間くらい集中してやったほうがいいよ」と。それがいつしか「ゲームは1日1時間」という合言葉になり、日本中の親のお墨付きになっていきました。 任天堂がファミコンを発売して、ちょうど2年。あの『スーパーマリオブラザーズ』が世に出るのは、この年の9月です。つまり1985年の夏は、ファミコンブームがまさに夜明けを迎えようとしていた季節でした。コントローラーのボタンを1秒間に16回押す「16連射」で、高橋名人は子どもたちの憧れの的でした。『月刊コロコロコミック』の誌面をにぎわせ、全国のデパートやスーパーを回るキャラバン大会には、黒山の人だかりができたといいます。 そして「ゲームは1日1時間」。この一言は、ゲームに夢中になる子どもと、それを心配する親の、ちょうど真ん中に立つ言葉でした。ゲームをつくって売る側の人間が「やりすぎるな」と言う。そのふしぎな説得力もあって、この合言葉は日本中の家庭に広まっていったのでしょう。 ……と、ここまで書いて、私は気づきました。この夏、私は16歳。高校1年生でした。そして、ファミコンを持っていませんでした。興味も、正直なところ、まるでありませんでした。 理由ははっきりしています。野球です。 しかも、あのブームの真ん中にいたのは、小学生から中学生——つまり『コロコロ』を読む年頃の子たちでした。16歳の私は、ちょうどその世代の、一つ上のふちに立っていたことになります。 みんなが16連射を練習していたその夏、私は素振りのバットを振っていました。日本中の子どもたちがマリオを走らせていたその時間、私はグラウンドで白球を追いかけ、土にまみれていました。朝は誰よりも早くグラウンドに立ち、日が暮れるまでボールを追う。夏休みも、お盆も、その繰り返しです。ゲームに費やす1時間など、私にはありませんでした。仮にあったとしても、私はきっと、バットを振っていたと思います。 野球に夢中で、ゲームには本当に、これっぽっちも興味がありませんでした。だから、友達とゲームの話をしたという記憶さえ、私には一つもないのです。誰かの家に集まってコントローラーを奪い合う——そんな、いかにも昭和の子どもらしい光景の中に、私はとうとう一度も入っていきませんでした。ゲームというものは、私にとって、最後まで「よその世界の出来事」だったのです。 だから「ゲームは1日1時間」という名言も、当時の私の耳には一度も届いていませんでした。今の子どもたちが聞けば「そんなの当たり前」と笑うこの言葉が、実は40年も前に、しかも福岡のスーパーの店先で生まれていた——そのことを、私はこの歳になって、ようやく知ったのです。 幽霊も、僕を訪ねてはこなかった 二つめは「幽霊の日」です。 これも調べて知りました。1825年のこの日、鶴屋南北の歌舞伎『東海道四谷怪談』が、江戸の中村座で初めて上演された。それにちなんで、7月26日は「幽霊の日」とされているのだそうです。お岩さんの、あの怪談です。 そして昭和の夏といえば、怪談はごく身近なものでした。テレビをつければ夏の怪奇特番や心霊写真、遊びに行けばお化け屋敷や夜の肝試し。口裂け女のうわさに、学校の理科室や階段にまつわる怖い話。思えば昭和の子どもは、そこかしこで「怖いもの」と隣り合わせに夏を過ごしていました。背筋をひやりとさせて涼をとる——それが昭和の夏の定番だったはずです。 ところが、ここでもまた、私にはこれといった思い出がありません。怪談にも、お化け屋敷にも、心霊写真にも——どういうわけか、私は縁がありませんでした。 思い返せば、中学、高校と、私の夏の夜は早く更けていきました。翌日の練習のために、幽霊よりも早く床につく。テレビの前で夜ふかしをして震える、という夏の楽しみを味わう暇は、私にはありませんでした。体は疲れ果てていて、怖い話に付き合っている余裕など、なかったのかもしれません。四谷怪談のお岩さんも、心霊写真のあの手この手も、汗と泥にまみれた野球少年のところには、どうやら訪ねてこなかったようです。 2歳の僕は、月を見上げてもいなかった そして三つめ。1971年7月26日、アメリカの月ロケット「アポロ15号」が打ち上げられました。 これは三つの中でも、私からいちばん遠い出来事です。なにしろ当時、私は2歳。記憶があろうはずもありません。 それでも調べてみると、これがなかなか面白いミッションでした。アポロ15号は、月の上を走る車——「月面車」を初めて使った探検だったのです。船長のデビッド・スコットは、月面でちょっとした実験をしてみせます。左手に羽根、右手にハンマーを持ち、同時に手を離す。空気のない月では、重い鉄のハンマーと軽い羽根が、まったく同じ速さで、すとんと同時に地面に落ちました。「空気がなければ、物の落ちる速さは重さに関係ない」——400年ほど前にガリレオが唱えたこの法則を、人類は月の上で、その目で確かめてみせたのです。月の上を車が走り、その車から中継の映像が届く。冷静に考えれば、とんでもないことをやっていた時代でした。 ただ、月に人が降り立つという偉業も、このアポロ15号で四度目。世界の驚きは、少しずつ「見慣れたもの」へと変わりつつあった頃でもありました。 月といえば、私には一つだけ思い出があります。父が、事あるごとに「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」と口にしていたことです。あの言葉は、それこそ何度も何度も聞かされました。けれど不思議なことに、その2年後に打ち上がったこの15号の話は、父の口から一度も聞いた覚えがありません。人類が二度目、三度目と月へ通ううちに、月はいつしか、わざわざ語るまでもない、当たり前の場所になっていたのかもしれません。 2歳の私は、もちろん月を見上げてなどいませんでした。きっと、眠っていたことでしょう。 僕の7月26日は、いつも同じ場所にあった こうして三つを調べ終えて、私は妙に納得しています。 ゲームの名言も、夏の幽霊も、月のロケットも——世界はちゃんと、この7月26日を記憶している。けれど私には、そのどれもが「自分ごと」ではありませんでした。 理由は、たぶん、いつも同じだったのです。私はその日、別の場所にいた。あるときは2歳で親の腕の中にいて、あるときは翌日の練習に備えて眠っていて、そしてあるときは——炎天下のグラウンドで、ただひたすらに白球を追いかけていた。 世界を沸かせた名言も、夏を彩った怪談も、人類の偉業も、私の横をすうっと通り過ぎていきました。同じ時代の空気を吸いながら、私はまるで違うものを見ていたのです。 みんなが夢中になったものを、私は知らずにいました。それは少しさびしいことのようでいて、でも、そうではないのだと思います。ファミコンを知らなかったのは、私の両手が、別のもので塞がっていたからです。そしてその「別のもの」こそが、あの頃の私にとっては、月よりも、幽霊よりも、どんなゲームよりも大切なものでした。 みんなと同じ思い出を持たないことは、思い出がないことと同じではありません。私の7月26日は、ただ、みんなとは違うかたちをしていた。それだけのことなのだと、今は思えます。 みなさんの7月26日は、どんな一日でしたか。ファミコンに夢中だった方、怪談に震えた方、月を見上げた方——それぞれの「あの日、いた場所」を、よかったら聞かせてください。 「ゲームは1日1時間」の一言が、福岡のスーパーの店先から日本中へ広まっていった顛末。それを当の高橋名人本人が振り返ったのが、この一冊です。ファミコンに背を向けて野球ばかりしていた私のような人間が読んでも、めっぽう面白い。あの夏、コントローラーを握っていた側の"答え合わせ"として、同世代におすすめします。 高橋名人のゲーム35年史(ポプラ新書)高橋名人。16連射と「ゲームは1日1時間」の伝説を、本人がユーモアたっぷりに語る。ファミコン世代の必読書 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月25日】「これが本物か」。私が回していたキューブは、偽物だった | 次の記事:【7月27日】毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた ▶

July 26, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月25日──「これが本物か」。私が回していたキューブは、偽物だった

7月25日は「かき氷の日」なのだそうです。「な(7)つ(2)ご(5)おり」の語呂合わせに加えて、1933年のこの日、山形市で40.8度という当時の日本最高気温が記録されたことにちなむのだといいます。いかにも夏休みの真ん中らしい記念日です。 その7月25日に、昭和の子どもにとって忘れがたいものが世に出ています。1980年(昭和55年)7月25日、金曜日。ツクダオリジナルという玩具会社から、六面の色を揃える立体パズルが発売されました。ルービックキューブです。 このとき私は小学5年生。夏休みが始まってまだ数日という頃でした。 ただ、正直に書いておきます。その夏、私はルービックキューブを持っていませんでした。 昭和55年の夏休み、私が毎日していたのは、友達と連れ立って区民プールに行くことでした。さんざん泳いで、体を冷やしきって、外に出る。すると、プールのそばにおでんの屋台が来ているのです。串に刺さったウインナーや、ちくわぶを買い食いする。プールの塩素の匂いと、おでんのだしの匂い。私の昭和55年の夏は、立方体ではなく、その二つの匂いでできていました。 一億円で買ってきた立方体 ルービックキューブが日本にやってきた経緯は、調べてみるとなかなか面白いのです。 ツクダオリジナルの代表取締役だった和久井威さんが、ニューヨークのトイショーでこの立方体を見つけ、15万個分の販売権を1億円で獲得したのだそうです。日本ではまだ誰も知らない代物に、玩具会社が1億円を投じる。相当な博打だったはずです。 背景には、伊勢丹新宿店の「アダルトホビー部門」の担当者から、パズルゲームの商品がほしいと言われていたことがあったといいます。ここが大事なところです。ルービックキューブは、子ども向けのおもちゃとして日本に持ち込まれたわけではなかったのです。 値段の付け方にも、それが表れています。和久井さんは当初1,480円を想定していたそうですが、伊勢丹の担当者から「2000円ぐらいでも売れる」と言われ、1,980円にしたのだといいます。 発売に先立って、同じ年の6月1日には朝日新聞の日曜版が「究極の立体パズル」としてこのパズルを紹介しています。すると読者から「どこで売っているのか」という問い合わせが殺到し、それがまた記事になった。火は、発売前についていたのです。 私のキューブは、偽物だった 私がルービックキューブを手にしたのは、発売の夏より少し後のことでした。そして買ってもらったのは、正規品ではありませんでした。いわゆる偽物です。 弁解するようですが、当時の私の周りで「本物」を持っていた友達は、一人もいませんでした。みんな偽物です。それを学校に持って行って、休み時間に友達とカチャカチャ回していました。 1,980円という値段は、子ども心にも高いと感じていました。だから偽物になったのだろう、と長らく思っていたのです。ただ、記憶をたどると、それだけではない気もするのです。そもそもツクダオリジナルの本物が、売り場になかなか置いていなかった気がするのです。品薄だったのではないか、と。 本物は、町のおもちゃ屋に来なかった この記憶が引っかかったので、少し調べてみました。 たしかに、正規品だけで発売から8か月で400万個以上が売れています。1981年2月には海賊版が出回る事態にもなりました。ただ、どうやら「店頭から消えて買えない」というほどの極端な品不足ではなかったようなのです。 では、なぜ私の記憶では売り場になかったのか。 答えは、たぶん最初の話に戻ります。ルービックキューブは伊勢丹新宿店のアダルトホビー部門の要望から入ってきた、1,980円の商品です。つまりあれは、百貨店の売り場に置かれる大人の趣味の品だったのです。葛飾の町のおもちゃ屋や駄菓子屋の棚に、二千円近い舶来のパズルが並んでいたとは考えにくい。 品薄だったのではなく、そもそも私たちの町には流通していなかった。私の記憶は、たぶん間違っていなかったのです。 だから下町の子どもにとってのルービックキューブとは、最初から偽物のことでした。安っぽい作りでも、回して遊ぶぶんには本物と変わらない。あれは本物の代用品ではなく、私たちにとっては、それが唯一の実物だったのです。 「これが本物か」 そんな私が、いつだったか、本物のツクダオリジナル製を手に取る機会がありました。 回した瞬間のことは、今でも覚えています。軽いのです。偽物と比べて明らかに軽く、滑らかに、カチャカチャと回る。引っかからない。ねじれない。指先の力が、そのまま回転になって伝わっていく。 「これが本物か」 心の底から感心しました。値段の差とは、こういうことだったのか。あのとき私が感じたのは、たぶん、初めて触れた「工業製品の品質」というものでした。 もっとも、本物を回したところで、六面が揃うわけではありません。教室には必ず一人か二人、「オレ、六面そろえた」と言うやつがいましたが、たいていは嘘でした。よく見ればシールの角が浮いている。あるいは、いったんバラして組み直したのだと、後になって白状する。 もっとも、これは子どもが不真面目だったからではありません。配置の総数は4325京2003兆2744億8985万6000通りあるのです。京という単位を、私はこのパズルで初めて知ったような気がします。実際、翌1981年には揃え方を解説する本が出版され、数学の専門誌『数学セミナー』までが「ルービック・キューブで群論を学ぼう」という特集を組んでいます。大学で扱う数学の話が、おもちゃ売り場から立ち上がってきたわけです。 発明した本人でさえ、一か月かかった ここで、いちばん救われる話を書かせてください。 このパズルを考案したのは、ハンガリーの建築学者、ルビク・エルネー(エルノー・ルービック)さんです。ブダペスト工科大学の教授でした。1974年、立体幾何を学生に説明するための「動く模型」を求めていて、ドナウ川の流れを見てひらめいたのだといいます。最初の試作品は木でできていました。 そして彼は、完成した立方体の各面を違う色に塗り分け、動かしてみた。ところが、元に戻らなくなった。 「結果的に、出発点に戻るのに丸1か月かかった」 発明した本人が、です。 これを読んだとき、私は45年越しに肩の荷が下りたような気がしました。揃えられなくて当たり前だったのです。あれは揃えるためのおもちゃというより、揃わないことを手のひらで確かめるための装置だったのかもしれません。 帝国ホテルの四百人と、ガンダムの襲来 ブームは瞬く間に燃え上がりました。 1981年1月31日、東京の帝国ホテルで「第1回全日本キュービスト大会」が開かれています。6歳から68歳まで、約400人が集まりました。優勝したのは北島秀樹さんという当時16歳の高校生で、記録は単発46秒台、3回の合計が2分37秒。ルービックさん本人も来日し、優勝者には賞品として自動車が贈られたといいます。おもちゃの大会の賞品が、車です。 ところが、この熱はあっけなく冷めます。 ツクダオリジナルは1981年のゴールデンウィークに向けて30万個の追加発注をかけました。そこへ、まったく別の方角から津波が来ます。『機動戦士ガンダム』のプラモデル──ガンプラのブームです。 子どもたちの小遣いと関心は、立方体からモビルスーツへ移りました。売れ行きは急減し、残った大量の在庫は翌年の福袋に詰められ、それでも捌けず、結局10年かけて少しずつ処理したのだそうです。 ブームというのは、こういうふうに終わるのですね。誰かが飽きたからではなく、隣にもっと面白いものが現れるから終わる。 令和のキューブは、三秒で揃う 昭和の子どもだった私たちにとって、ルービックキューブは「揃わないもの」でした。ところが令和のいま、状況はまったく違います。 2010年、コンピュータによる解析で、どんな状態からでも最大20手あれば揃えられることが証明されました。「神の数字」と呼ばれるそうです。競技としてのスピードキュービングも確立し、3×3の単発世界記録は3.08秒(2025年2月、中国のYiheng Wang選手)まで縮んでいます。子どもたちがYouTubeで手順を覚え、小学生が十数秒で揃えてみせる時代です。 もうひとつ、調べていて驚いたことがあります。当時、日本で売られていたキューブは、世界標準とは配色が違っていたのだそうです。黄色と青の位置が入れ替わった「日本配色」。2013年のリニューアルで、ようやく世界標準に合わせられました。 本物と偽物の違いも分からなかった私たちですが、その本物のほうも、世界から見れば少しだけ違う立方体だったわけです。なんだか、それが妙に昭和らしい気がしてなりません。 昭和55年の夏、私はまだキューブを知りませんでした。区民プールで泳ぎ、屋台のウインナーとちくわぶを頬張っていました。都心の百貨店では大人たちが1,980円のパズルに列を作っていたのでしょうが、そんなことは知る由もありません。 ブームというのは、中心から周縁へ、時間差で届くものなのですね。私の手元に届いたのは一年ほど遅れて、しかも偽物でした。それでも、休み時間にカチャカチャ回していたあの音は、たしかに私の昭和の一部です。 みなさんのルービックキューブは、本物でしたか、偽物でしたか。六面は、揃いましたか。よろしければ、その顛末を教えてください。 あの日「これが本物か」と唸った、あの滑らかな回転。今はメガハウスの公式ライセンス品として、ちゃんと手に入ります。偽物しか知らなかった下町の元少年も、令和の孫も、同じ本物で遊べる時代です。夏休みの自由研究や、お孫さんへの一つに。揃わなくて当たり前——考案者すら一か月かかったのですから、どうか気楽に。 メガハウス ルービックキューブ 3×3 ver.3.0(公式ライセンス)日本正規品。回転が軽く滑らかな現行モデル。「これが本物か」の手ざわりを、令和の子どもや孫と Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月24日──注意報の放送を、私たちは聞き流していた

今日は7月24日。夏休みが始まって、まだ数日というところです。 令和の夏、子どもたちが「今日は外に出るのをやめなさい」と言われる理由は、たいてい熱中症警戒アラートです。 けれど私たちが子どもだった頃、夏の外遊びを止めた言葉は、まったく別のものでした。 「光化学スモッグ注意報が発令されました」 あの、少しだけ事務的な声。同じ世代の方なら、きっと頭より先に体が覚えているはずです。 そして1972年(昭和47年)の今日、7月24日。その「汚れた空」をめぐる、戦後日本に残る判決が、三重県の小さな法廷で言い渡されました。 校内放送は流れた。けれど、私たちは止まらなかった 私が小学校に上がったのは1976年(昭和51年)の4月です。葛飾区の高砂で育った私にとって、夏とは朝から日が暮れるまで外にいるものでした。空き地で野球、自転車で川べりを走り回る。その日課を止めにくるのが、あの放送でした。 注意報を知るのは、主に校内放送です。教室のスピーカーから声が流れてくると、中休みと昼休みの外遊びが禁止になる。放課後についても、外で遊ぶのは控えるようにと言われました。 ところが、です。 私は「目がチカチカする」「のどが痛い」という症状を、自覚した経験が一度もありません。だからなのか——注意報が出ても、私も、周りの友達も、平気で外遊びをしていました。 放送は流れる。先生は控えろと言う。でも、体はなんともない。ならば行くに決まっている。あの頃の子どもの理屈は、それだけで十分でした。 今にして思えば、ずいぶん危なっかしいことをしていたのかもしれません。同じ空の下で、実際に苦しい思いをした子どもも全国にはたくさんいたはずです。ただ、当時の私の中では、「注意報」という言葉と「自分の体」が、どうしても結びつかなかったのです。 1970年7月18日、東京の空で起きたこと 光化学スモッグという言葉が日本中に広まるきっかけは、私がまだ1歳の頃の出来事でした。 1970年(昭和45年)7月18日、東京都杉並区。環七通りのすぐそばにある東京立正中学校・高等学校で、グラウンドで体育の授業を受けていた生徒43人が、目の痛みやのどの痛みを訴えて次々に倒れました。 原因はすぐには分かりませんでした。のちの東京都の調査で、自動車などから出た窒素酸化物が強い紫外線を浴びて化学反応を起こし、光化学オキシダントという別の物質に変わっていたことが判明します。日本で初めて確認された光化学スモッグの被害でした。 この日、体の異常を訴えた人は都内だけで5200人。隣の埼玉県でも407人にのぼりました。 以後、注意報は夏の風物詩のようになっていきます。全国の発表延べ日数は1973年(昭和48年)に328日でピークを迎え、1975年までの3年間は毎年250日を超えました。夏のあいだ、日本のどこかでほぼ毎日、誰かが「外に出るな」と言われていた計算になります。 1972年7月24日、津地方裁判所四日市支部 そしてその2年後の今日、7月24日。三重県四日市市。津地方裁判所四日市支部の法廷で、日本の空気の歴史を変える判決が言い渡されました。四日市公害裁判です。 四日市市の海沿いに、磯津という地区があります。1960年代、目の前の埋立地に巨大な石油コンビナートが次々と建ちました。煙突から出る煙には、硫黄酸化物——いわゆる亜硫酸ガスが大量に含まれています。1964年の磯津地区の二酸化硫黄の年平均濃度は0.075ppm。今の環境基準のおよそ4倍近い数字でした。住民は激しい咳と呼吸困難に苦しみます。これが四日市ぜんそくです。 1967年(昭和42年)9月1日、公害病と認定された患者と遺族あわせて12人が、コンビナートの6社を相手取って裁判を起こしました。 法廷で、企業側はこう主張します。 「どの煙突から出た煙が、誰のぜんそくを引き起こしたのか。それを立証できないのなら、我々に責任を問うことはできない」 煙は混ざり合い、風に流され、そこに境目などありません。たしかに手強い主張でした。 しかし判決は、これを退けます。 裁判所は、コンビナート各社の行為を共同不法行為と認定します。個々の煙突を特定できなくても、一体となって汚染を生んだ以上、責任は共同で負う。因果関係の立証も、疫学調査の結果で足りるとしました。 さらに判決は、企業に対してこう述べています。人の生命や身体に危険が及ぶと知り得る汚染物質を排出する以上、企業は経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員して防止措置を講ずるべきである。それを怠れば、過失は免れない——。 賠償額は8800万円あまり。被告6社は控訴を断念し、判決はそのまま確定しました。 イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市、熊本水俣病。四大公害裁判の三番目にあたるこの判決は、四つのなかで唯一、大気汚染を正面から裁いたものでした。 このとき私は3歳3か月。もちろん、何ひとつ知りません。 なぜ私は、「チカチカ」を知らずに済んだのか 判決の影響は、思いのほか早く現れます。 企業は総額1000億円ともいわれる費用をかけて排煙脱硫装置を整備し、三重県は全国で初めて硫黄酸化物の総量規制に踏み切りました。1973年(昭和48年)10月には公害健康被害補償法が成立します。 ここで正直に補足しておきます。四日市の煙突から出ていた硫黄酸化物と、東京の空をかすませた光化学スモッグは、じつは原因物質が違います。後者の主犯は自動車などから出る窒素酸化物でした。 けれど、四日市の判決が動かしたのは、一つの煙突ではありませんでした。「経済性を度外視してでも」と裁判所が迫ったあの論理は、そのまま自動車にも向かっていきます。1978年(昭和53年)4月、日本は当時世界一厳しいといわれた自動車排出ガス規制を実施します。いわゆる日本版マスキー法です。 このとき私は、小学3年生です。 つまり私の小学生時代の6年間は、ちょうど「日本の空が、ゆっくりきれいになっていく途中」でした。注意報はまだ夏の日常でしたが、いちばんひどい時期はすでに過ぎ、全国の発表日数は1980年代に入ると100日前後まで減っていきます。 私が「チカチカ」を知らずに済んだのは、私が丈夫だったからではないのでしょう。私が校内放送を聞き流して校庭に飛び出す何年も前に、四日市の患者さんたちが5年近くかけて裁判を戦い、その判決を受けた大人たちが、空を洗い始めていたからです。 もっとも、当時の私がそんなことを知るはずもありません。「公害」という言葉を知ったのは、学校の社会科の授業でした。教科書の中の、遠い場所で起きた出来事として。それが自分の外遊びの日数と地続きだなどとは、思いもしませんでした。 そして、7月24日生まれのカナリー・ガール 少し重たい話が続いたので、ここで一息つかせてください。 7月24日は、河合奈保子さんの誕生日でもあります。1963年(昭和38年)、大阪市生まれ。 1980年(昭和55年)、「第1回 ヒデキの弟・妹コンテスト」でグランプリを受賞し、同年6月1日に「大きな森の小さなお家」でデビュー。キャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」。同期は4月デビューの松田聖子さん、同じ6月の柏原よしえさん、岩崎良美さん。のちに「1980年組」と呼ばれる、アイドル黄金期の幕開けを飾った顔ぶれです。 そして私は、その中の奈保子さん一択でした。 まわりは圧倒的に松田聖子ファンが多かったので、その反発心から河合奈保子ファンになったのかな? 自分でもよくわかりませんが、一番の「推し」でした。 当時、アイドルグッズを売る店がありました。プロマイドも何枚も買いましたし、生写真も買いました。今の言葉でいうなら、なかなかのガチ勢です。 曲でいえば、「スマイル・フォー・ミー」ですね。 1981年(昭和56年)6月1日発売の5枚目のシングル。作詞・竜真知子、作曲・馬飼野康二、編曲・大村雅朗。オリコン最高4位、26万枚。奈保子さんにとって初のトップ10入りで、この曲で年末の第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしました。ハート形のスマイルマークが付いた、あの特注のスタンドマイクを覚えている方も多いはずです。 この曲には、こんな逸話があります。もともとコンサートでだけ披露していた曲を、ファンの熱い要望に応えてレコード化したのだそうです。つまりあの曲は、客席にいた私たちのような子どもが、レコードにさせたことになります。 発売は1981年6月1日。私は小学6年生でした。 つまり、校内放送を聞き流して校庭へ飛び出していたあの夏と、まったく同じ夏の話なのです。 おわりに 今年の夏も、熱中症警戒アラートが何度も出ています。子どもたちは、あの頃の私たちとまったく同じように「今日は外に出るのはやめておきなさい」と言われている。 止められる理由だけが、入れ替わりました。昭和の子どもは「空気が汚いから」。令和の子どもは「暑すぎるから」。 けれど、決定的に違うことが一つあります。 私たちは、放送を聞き流して外へ飛び出すことができました。今の子どもたちには、それができません。アラートを無視して炎天下に出れば、本当に倒れてしまうからです。 そして私たちが平気でいられたのは、顔も名前も知らない誰かが、その何年も前に代わりに戦ってくれていたからでした。 1972年7月24日の判決文にあった、あの一節を思い出します。経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員せよ——。半世紀以上前の裁判所が企業に突きつけたその言葉は、この暑すぎる夏空の下で読み返すと、まだ終わっていない宿題のように響いてきます。 ...

July 24, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月23日──午後1時19分、東京の電気が消えた。私はそれを知らずに、高校野球を終えた

1987年、昭和62年7月23日。 この日、私の高校野球が終わりました。 そして同じ日の午後、首都圏の電気が消えました。280万戸。地震でも台風でもなく、ただ暑かったという理由だけで、東京の都市機能が止まった日です。 その時刻が、午後1時19分。 私たちの試合開始は、午後1時ちょうどでした。 つまり私は、プレイボールから19分後に街の電気が落ちた、そのど真ん中にいたことになります。神宮第二球場のグラウンドに、ユニフォーム姿で立っていました。 そして——何も、覚えていないのです。 五日で三試合、そして幕が下りた あの夏のことは、日付まで正確に言えます。 7月19日、二回戦。神宮球場。相手は強豪のシード校でした。雨の中の試合です。こちらは2本のホームランが飛び出し、壮絶な点の取り合いになりました。9対8、劇的なサヨナラ勝ちです。 7月22日、三回戦。同じく神宮球場。相手は私立校。この日は猛暑でした。終盤にかけて、またもホームランをきっかけに追いつき、8対7。これも劇的なサヨナラ勝ち。ベスト16に駒を進めました。 そして7月23日、四回戦。神宮第二球場。力のある私立校が相手でした。 勢いよく臨んだ試合です。この日もホームランが出ました。しかし接戦のまま、2対3。何度も追いつけそうなチャンスがあり、私にも打席が回ってきていました。それでも、この日は逆転できませんでした。 最後のアウトの瞬間、涙が自然と溢れてきて、止めることができませんでした。整列を終え、控室に戻っても止められなかった。高校野球生活の終わりを認め、ここまで仲間とともに過ごしてきたなかでの数々の思い出が次々と押し寄せてきて、どうにもならなかった。 そうです。青春です。 三試合とも、ホームランが出ていました。それでも最後は、一点足りませんでした。 足の裏が、熱かった 五日で三試合、しかも最後は連戦です。今にして思えば、よく体がもったものだと思います。 汗だくになったユニフォームで、ヘッドスライディングから立ち上がると、胸から太ももまで土がべっとりとついて、真っ黒になりました。 そして足の裏です。当時のスパイクは、靴底に天然皮革が使われていました。その革を通してグラウンドの熱が伝わってきて、足裏が熱かった。これは鮮明に記憶しています。 ただ、いちばんきつかったのは暑さそのものではありませんでした。当時の大会は日程がかなり詰まっていましたから、疲労が抜けないのです。体が回復する間がない。体力、気力の勝負で、私たちは負けていたのだと思います。 午後1時19分、首都圏が止まった さて、その同じ時間、グラウンドの外で何が起きていたか。 原因は、暑さでした。 気象庁の統計を見ると、あの三日間の変わりようがはっきり出ています。二回戦のあった19日、全国で最高気温30度以上を記録した地点は、わずか29でした。雨の中で戦っていたのですから、当然です。それが21日には210地点、三回戦の22日には356地点、そして敗れた23日には460地点にまで跳ね上がっています。35度以上の地点数にいたっては、22日がたった1、23日が79です。 私たちの三試合は、そのまま昭和62年の夏が本気を出していく過程を、なぞっていたことになります。 梅雨明け直後の、逃げ場のない暑さ。首都圏じゅうのクーラーが、一斉に回りはじめました。 ここで問題になったのが、無効電力というものでした。電気には、実際に機械を動かして働く分と、働きはしないけれど電気を送り届けるために必要な分があります。冷房のようなモーターを使う機器が増えると、この「働かない分」が急激に膨らんでいく。電力会社は変電所に置いてある電力用コンデンサを次々と投入して、これを抑え込もうとしました。 午後1時07分、コンデンサを全量投入。それでも追いつきません。基幹の変電所では、50万ボルトの母線電圧が37万から39万ボルトまで落ち込んでいたといいます。 そして午後1時19分。不足電圧リレーが働き、基幹系の変電所が停電しました。豊島、京北、北東京、多摩、上尾、池上。笹目、北相模、新秦野、新富士。名前の挙がった変電所の下にぶら下がっていた地域が、連鎖的に落ちていきます。 停電した戸数は280万。停止した電力は816.8万キロワット。範囲は東京、埼玉、神奈川、静岡、山梨、千葉の6都県に及びました。 東北・上越・東海道の各新幹線が止まり、在来線も都営地下鉄も私鉄も、運休と遅れが相次ぎました。信号機が消え、エレベーターには人が閉じ込められました。国会議事堂のある永田町も停電し、予算委員会が開けなくなっています。 東京23区内は午後1時36分に復旧しました。しかし関東全域が完全に復旧したのは、午後4時40分。三時間を超えて電気の来ない地域が、いくつも残っていたのです。 皮肉なのは、当時普及しはじめていたインバーター式エアコンが、事態を悪化させたと言われていることです。この方式は電圧が下がっても冷房能力を落とさないように働きます。すると電圧が下がった分だけ電流が増え、それがさらに電圧を下げる。省エネのための新技術が、悪循環の輪をまわしてしまったわけです。 短絡も地絡もありません。設備が壊れたわけでもない。ただ、暑かった。それだけで首都が止まりました。 なぜ、私は気づかなかったのか こうして調べてみると、自分が何も覚えていない理由が、だんだん分かってきました。 まず、私は屋外にいました。真昼です。照明はいりません。 そして神宮第二球場のスコアボードは、手書きでした。電光掲示ではなく、係の人が数字の板を掛け替える方式です。つまりあの球場は、電気が来ていようがいまいが、試合を続けられる場所だったのです。 停電した区域の記録も、資料によって書き方に幅があります。「東京都区内北部・南部」とだけ記したものもあれば、荒川区・足立区・文京区・北区といった具体名を挙げたものもある。私が生まれ育った葛飾も、球場のあった神宮外苑一帯も、実際に消えたかどうかは、私の手元の資料では断定できませんでした。 けれど、たとえあのとき球場の周りが真っ暗になっていたとしても、私は気づかなかったと思います。 18歳の私にとって、あの日の世界は、白いラインと黒い土と、相手投手の球筋だけでできていました。三年間の全部がかかった一試合です。その外側で何が起きていようと、目に入るはずがなかった。 大人たちが「首都機能が麻痺した」と大騒ぎしていた三時間と、球児が最後の夏を終えていった三時間が、同じ空の下で、まったく交わらずに流れていた。 そういう日だったのだと思います。 私が帰り着いたとき、東京はもう明るかった 神宮からは、JRと京成線を使って、普通に帰ってきたと思います。帰宅したのは18時頃でしょうか。 そして正直に言えば、テレビのニュースも含めて、大規模な停電があったという記憶が、まったくないのです。 これも、調べてみて腑に落ちました。 関東全域の完全復旧は、午後4時40分。私が高砂の家の玄関を開けたのは、その一時間以上あとです。電車も、とっくに動いていました。 つまり私が帰り着いたとき、東京はもう何事もなかったかのように電気が点いていたわけです。復旧を待つ人の列も、止まったエスカレーターも、消えた信号機も、私は一つも見ていない。都市が止まって、また動き出すまでの一部始終を、私は丸ごと通り過ぎていたのです。 あの日、私が家まで持って帰ったのは、都市の話ではありませんでした。ユニフォームにこびりついた土と、まだ収まりきらない涙の残りだけです。 消えたのは、球場のほうだった この停電のあと、東京電力は徹底的に手を打ちました。無効電力を補う装置の設置、コンデンサの増設、系統の電圧を高めに運用すること、需要をオンラインで測って先回りすること。そのおかげで、同じ原因による広域停電は、その後今日まで起きていません。 つまり、あの日消えた電気は、三時間で戻ってきて、それきり二度と消えなかったのです。 戻ってこなかったのは、球場のほうでした。 ...

July 23, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月22日──「憎らしいほど強い」が最上級の褒め言葉だった頃。北の湖、21歳2か月の横綱

1974年7月22日、横綱審議委員会が出した答え 昭和49年7月22日。名古屋場所が終わった直後のこの日、横綱審議委員会が大関・北の湖を横綱に推挙することを決めました。正式決定は二日後の理事会ですが、実質的にはこの日、第55代横綱の誕生が決まったことになります。 年齢は21歳2か月。あの大鵬より1か月早い、史上最年少記録でした。そしてこの記録は、五十年以上たった今も破られていません。 面白いのは、その名古屋場所の中身です。北の湖は13勝2敗という好成績を挙げながら、千秋楽の本割と優勝決定戦で、横綱・輪島に連敗しているのです。最後の最後に二度続けて負けて、それでも綱が決まった。裏を返せば、この若い大関の力量が誰の目にも疑いようがなかった、ということなのでしょう。 このとき私は5歳。幼稚園に通っていた年ですから、当然この日のことは何も知りません。 13歳の初土俵から、大関わずか3場所で 北の湖の経歴を改めて追いかけると、出世の速さに目が回ります。 北海道壮瞥町の生まれ。昭和41年12月、中学1年で三保ヶ関部屋に入門しました。当時はまだ中学生力士が許されていた時代で、翌年1月、13歳で初土俵を踏んでいます。学校は墨田区立両国中学に転校。ただし師匠の方針は学業最優先で、稽古ができたのは日曜と長期休みだけだったといいます。 それでも15歳で幕下、17歳で新十両。18歳7か月で新入幕を果たしたとき、彼ははっきりと「史上最年少横綱を目指す」と口にしていました。子供の大言壮語では終わらなかったところが、この人の恐ろしさです。 19歳7か月で小結、そして昭和49年1月場所、関脇で初優勝して大関へ。大関でいた期間は、わずか3場所でした。 私が相撲を知ったときには、もう絶対王者だった ここから先が、私の話です。 私が相撲を知ったときには、すでに北の湖は無茶苦茶強い横綱でした。イメージとしては、絶対王者の北の湖、同じ横綱だけど挑戦者的な輪島、ずっと大関の貴ノ花。そんなふうに感じていました。 三人の役割が、子供の頭の中できれいに固定されていたのです。北の湖は倒されるべき壁で、輪島と貴ノ花はそこに挑んでいく側。誰かに教わったわけでもないのに、なぜかそういう構図として相撲を見ていました。 そもそも私が相撲を見ていたのは、門限のおかげでした。 当時、私も友達も夕方5時頃には家に帰らなければならない決まりでした。外で散々遊んで帰宅すると、テレビでは相撲中継がちょうど終盤の取組にさしかかっている。それを自然と観ていたわけです。 不思議なもので、家族の誰かが特別に相撲好きだったという記憶はありません。誰が観たいと言ったわけでもないのに、どういうわけかその時間はテレビで相撲が流れていました。友達に聞いても、やはり同じように観ている。夕方5時台の茶の間とは、あの頃そういうものだったのだと思います。 そして翌日には、その相撲を自分たちで再現しました。友達同士で相撲を取るのですが、ただ取っ組み合うのではありません。「右上手を取った」「左前みつを取った」「両差しだ」と、自分で自分の相撲を解説しながら取っているのです。今思い出すと笑ってしまいますが、耳から入った中継の言葉を、そのまま口に出して確かめていたのでしょう。決まり手も四つの組み手も、教科書ではなく体で覚えました。 応援していたのは、やはり千代の富士です。私が小学4年生の頃から一気に駆け上がっていく勢いがありましたし、なんといっても格好良かった。 一方の北の湖には、いつも「負けろ」と思っていました。本当に、毎日そう思っていたのです。それなのに、ちゃんと勝ってしまう。子供の願いなど歯牙にもかけずに勝ち続けるわけで、今にして思えば、すごいことです。 子供の目は、案外正確だった 大人になってから調べてみると、あの頃の子供の直感は、記録の上でもおおむね正しかったことがわかります。 まず輪島。私は「挑戦者的」と感じていましたが、実は北の湖より5歳年上で、横綱昇進も1年早い先輩横綱です。日本大学から角界入りした史上初の学生相撲出身横綱で、「蔵前の星」と呼ばれ、「黄金の左」と称された左の下手投げを武器に優勝14回を数えました。決して脇役ではありません。 それでも私に「挑戦者」と映ったのは、時代の流れのせいでしょう。昭和52年7月場所以降は北の湖の優勝ばかりが続き、輪島は次第に力を落としていきました。私が相撲を見はじめた頃には、すでに「北の湖の壁に挑む輪島」の構図が出来上がっていたわけです。ちなみに二人の幕内対戦成績は輪島の23勝21敗で、これは今回調べて初めて知りました。強さの印象と数字は、必ずしも一致しないものです。 そして貴ノ花。「ずっと大関」というイメージは、そのまま事実でした。大関在位50場所、優勝は2回にとどまり、ついに横綱には届かなかった。身長183センチに対して体重114キロという軽量の体で、「土俵の鬼」と呼ばれた初代若乃花の弟という血筋と甘い顔立ちから「角界のプリンス」と呼ばれ、絶大な人気を誇った人です。 強くて憎まれる横綱と、勝てないけれど愛される大関。子供が覚えやすい図式が、あの頃の土俵にはきちんとあったのだと思います。 「憎らしいほど強い」という言葉の中身 北の湖につけられた「憎らしいほど強い」という評は、単なる比喩ではありませんでした。 新横綱で迎えた昭和49年9月場所、14日目に優勝を決めた瞬間、館内には座布団が舞ったといいます。普通、座布団が舞うのは横綱が下位の力士に敗れたときで、横綱が勝って座布団が飛ぶのは極めて異例のことです。それでも北の湖は動じず、千秋楽も勝って初の全勝優勝を飾りました。 懸賞の本数にも人気のなさが表れています。昭和51年7月場所の千秋楽、優勝がかかった横綱同士の輪島戦についた懸賞はわずか8本。場所中、1本もつかない日さえあったそうです。師匠の三保ヶ関親方は「かけてもどうせ勝つから面白くない。でも、いつの世でも、そういう一種の憎まれ役がいなきゃいけないんだ」と語っています。 もう一つよく言われたのが、投げ倒した相手に一切手を貸さず、さっと背を向けて勝ち名乗りを受ける姿でした。ふてぶてしい、傲慢だ、と散々に言われたものです。しかし本人の言い分はまったく逆で、「真剣勝負をした相手に手を貸すのは失礼だ」「自分だったら手を貸されるのは絶対に嫌だ」という考えからの振る舞いでした。 当時は「江川・ピーマン・北の湖」という言い回しまであったそうです。子供が嫌いなものの代名詞として、大横綱がピーマンと並べられていたわけで、今考えると気の毒な話です。 そして昭和53年、北の湖は5場所連続優勝を果たし、年間82勝という記録を打ち立てました。私は小学3年から4年になる年です。50場所連続勝ち越し、37場所連続二桁勝利、横綱在位63場所、優勝24回。数字を眺めていると、「絶対王者」という子供の実感が、大げさでも何でもなかったことがよくわかります。 「負けろ」が、ついにかなった夜 私が毎日念じていた「負けろ」がかなったのは、昭和56年1月場所の千秋楽でした。 関脇・千代の富士が初日から14連勝。千秋楽の結びで、1敗の北の湖と直接対決になります。本割では吊り出されて敗れ、全勝優勝は消えました。しかし千代の富士は、吊り出されたそのときに北の湖の足の状態が万全でないことに気づいていたといいます。続く優勝決定戦、右からの上手出し投げで北の湖を土俵に転がし、幕内初優勝を決めました。 この日の大相撲中継の視聴率は52.2パーセント。優勝が決まった瞬間は65.3パーセントに達し、今なお大相撲中継の最高記録として残っています。要するに、日本中が見ていたわけです。 もちろん私も、テレビの前で千代の富士の優勝を願って観ていました。 あの場所は後半に入ると、「昨日も千代の富士勝ったね」が友達との朝の挨拶になっていました。連日そうやって白星を確かめ合いながら千秋楽までたどり着いて、いよいよ「絶対に優勝してくれ!」と念じながらテレビの前に座ったわけです。 以前、江夏豊、9者連続奪三振──私が生まれた2年後の「見ていない伝説」の回で、江川卓がオールスターで8連続奪三振を決めたとき、近所から歓喜の声とため息が聞こえてきた話を書きました。この日はそれ以上でした。本割で千代の富士が吊り出された瞬間、近所中から「あぁ⤵」というため息が漏れ聞こえてきて、そのデカさといったらなかった。1月ですから、どの家も窓は閉め切っていたはずなのです。 そして優勝決定戦。千代の富士が北の湖を転がした瞬間に上がった歓喜の叫び声は、さっきのため息をはるかに上回っていました。やばかったです(笑)。 テレビは家の中にあるのに、町内で同じものを見ていた時代でした。 同じこの場所を最後に、貴ノ花が土俵を去りました。皮肉なもので、引退を決意させたのは前年11月場所で千代の富士に一方的に敗れた一番だったといわれています。その2か月後には輪島も引退。私が小学校を卒業する頃には、あの三人のうち二人がもういなかったことになります。 門限が私を相撲の前に座らせ、部活が遠ざけた 北の湖自身が引退したのは、昭和60年1月場所の途中でした。私は中学3年生です。 ただ正直に言えば、そのニュースの記憶がありません。中学に入ると野球に夢中になっていて、もう相撲を見ていなかったからです。部活が終わって帰る頃には夕方6時30分を回っていて、相撲中継はとっくに終わっている。門限5時が私を相撲の前に座らせていたのだとすれば、部活が私を相撲から引き離したことになります。 絶対王者が土俵を降りた日を、私は知らないまま通り過ぎました。 強い者が嫌われるという、今思えばずいぶん贅沢な時代でした。誰もが倒れることを願っていて、それでも倒れなかった人が土俵の真ん中に立ち続けていた。あの手応えのようなものは、勝ってほしい人が勝つのとは、また別の面白さだったのだと思います。 みなさんが子供の頃、「この人は絶対に負けない」と思っていた人は誰でしたか。スポーツでも、テレビの中でも構いません。よかったら教えてください。 ...

July 22, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月21日──『太陽にほえろ!』が始まった日、金曜夜八時の十四年

1972(昭和47)年7月21日、金曜日の夜八時。日本テレビで『太陽にほえろ!』の第一回が放送されました。 私はこのとき三歳三か月。もちろん記憶にございません。ですが番組が最終回を迎えた1986(昭和61)年11月14日、私は高校二年生でした。全718回、足かけ十四年四か月。要するにこの番組は、私の子供時代とほぼ同じ長さだけ、金曜の夜八時を走り続けたことになります。 いま調べてみると、この番組には放送当時の子供が知るはずもない「裏側」が山ほどありました。今日はそれを掘ってみます。 なぜ「7月21日」という半端な日に始まったのか テレビの新番組といえば四月か十月に始まるものです。なぜ夏の、しかも七月二十一日という中途半端な日だったのか。 理由はドラマではなく、プロレスにありました。 金曜夜八時は、力道山の時代から日本テレビのプロレス枠でした。三菱電機一社提供の『三菱ダイヤモンド・アワー』。ところが1972年4月、NET(現在のテレビ朝日)が両局の協定を破ってジャイアント馬場の試合を中継してしまいます。激怒した日本テレビは5月12日の放送を最後に、十八年続けてきたプロレス中継を打ち切りました。 そこから約二か月、『日本プロレス選手権特集』という名勝負集でつなぎ、その後番組として7月21日に始まったのが『太陽にほえろ!』だったのです。スポンサーも同じ三菱電機のまま。 つまりこの刑事ドラマは、プロレス界のゴタゴタが生んだ代替番組でした。七月という変則スタートはその名残です。そしてこれには思わぬ副作用がありました。俳優との年間契約も七月起点になったため、若手刑事の降板──すなわち殉職が、夏に集中することになったのです。マカロニ刑事が1973年7月13日、ジーパン刑事が1974年8月30日、テキサス刑事が1976年9月。あの夏の風物詩のような殉職ラッシュには、こんな事務的な理由がありました。 さらに面白いのは、追い出された側のプロレスの行方です。新日本プロレスの『ワールドプロレスリング』が金曜夜八時に定位置を構えたのは1973年4月から1986年9月まで、十三年六か月。つまり『太陽にほえろ!』は、ほぼ全期間にわたって猪木と視聴率を争い続けたことになります。のちにTBSの『3年B組金八先生』も加わって、石原裕次郎・アントニオ猪木・武田鉄矢の三つ巴。金曜夜八時が「戦国時代」と呼ばれた所以です。 十三話で辞めるはずだった「ボス」 藤堂係長を演じた石原裕次郎は、日活黄金期のトップスターでした。しかしテレビの普及で映画は斜陽となり、1963年に設立した石原プロモーションの経営は次第に悪化していきます。 裕次郎がテレビドラマにレギュラー出演したのは、この事務所の経済的事情から東宝と日本テレビの説得に応じた結果だったといいます。しかも当初は「十三話まで」という約束でした。 十三話になり、予定どおり降板しようとした裕次郎を引き止めたのは、まき子夫人と、ゴリさんこと竜雷太たちだったそうです。 もしここで本当に降板していたら、と考えると少し背筋が寒くなります。番組の大ヒットでテレビの力を知った裕次郎は、のちに『大都会』シリーズ、『西部警察』シリーズを世に送り出しました。あの土曜夜八時の派手な爆破シーンも、まき子夫人の引き止めがなければ存在しなかったかもしれません。 「殉職」という発明は、事故から生まれた 当初の構想では、新人のマカロニ刑事こと早見淳を主人公にした「青春アクションドラマ」として、彼の成長を描いていく予定でした。 ところが一年を迎えるころ、演じる萩原健一から降板の申し出が出ます。この作品で自分のキャラクターが固まってしまうのが嫌だった、というのが理由でした。しかも本人の希望は「劇中で死にたい」。 そこで用意された最期が、あれです。非番の日、空き地で立ち小便をしている最中に、小銭目当ての通り魔に刺される。ヒーローらしさの欠片もない、あっけない死。厳密に言えばこれは殉職ですらありません。撮影されたのは当時まだ空き地だらけだった新宿西口で、その場所には現在、新宿野村ビルが建っています。 主人公が消えても番組は終わりませんでした。後任に据えられたのが、当時まったくの新人だった松田優作。ジーパン刑事です。これが当たり、視聴率は常時二十パーセントを超え、ついに三十パーセントを突破します。撃たれてから絶命するまでのあの絶叫は、台本には存在しない松田のアドリブだったと伝わっています。 そして1976年9月、テキサス刑事の殉職回はニールセン調べで42.5パーセントという番組最高視聴率を記録しました。四割です。日本中がひとつの刑事の死を見ていた。 ちなみに記念すべき第一話のゲスト出演は、若き日の水谷豊。第二十話は沢田研二でした。 もうひとつ。この番組がやたらと走るドラマになったのは、初期の中心監督だった竹林進が「人間のもっとも美しい姿は、一生懸命走る姿である」という考えの持ち主だったからだそうです。歴代の若手刑事たちが走った距離を合計すると地球を一周する、とまで言われました。 面白さが、わからなかった 七曲署の刑事たちの生き死にを、自分の学年と並べてみます。 小学一年の秋、テキサスが殉職(1976年9月) 小学四年の夏、ボンが殉職(1979年7月) 小学五年の夏、殿下が事故死(1980年7月) 小学六年の冬、スコッチが病死(1982年1月) 中学一年の秋、ゴリさんが殉職(1982年10月) 高校一年の夏、ラガーが殉職(1985年8月) 高校二年の春、山さんが殉職(1986年4月) ただし、この全部を観ていたわけではありません。私が金曜夜八時の前に座っていたのは、このうちの真ん中あたり、ほんの数年間です。 きっかけは友達でした。小学二年生のとき、一つか二つ年上の友達から「『太陽にほえろ!』というドラマがおもしろいぞ」と聞いて観はじめたのです。生まれて初めて、刑事ドラマというものを真剣に観ようと思った作品でした。 ところが、正直に言えば、面白さがわかりませんでした。 事件が起きて、大人たちが走って、誰かが撃たれる。それの何が面白いのか、八歳の私にはさっぱり掴めなかったのです。それでも友達との会話では話を合わせて「面白かった」と言っていたのですから、我ながらいじらしい(笑)。 それが、観続けているうちに、いつのまにかはまってしまった。これが本当のところです。 再放送と記憶が混ざってしまってはっきりしないのですが、金曜夜八時にリアルタイムで追いかけた新人刑事は、ボンからだったのではないかと思います。あとから年表と照らし合わせてみると、私が小学二年生だった1977年から78年ごろ、七曲署にいた新人刑事はたしかにボンでした。辻褄は合っているようです。 そして、ラガー刑事の登場は鮮明に覚えています。小学六年生の秋のことでした。 けれども不思議なもので、私がいちばん好きだった刑事は、リアルタイムでは一度も観ていません。再放送で観たジーパン刑事──松田優作です。あの殉職シーンは、どうしようもなく悲しくなりました。 台本になかったあの絶叫が、松田優作のアドリブだったと知ったのは、ずっと後のことです。 ボスの、最後のアドリブ 裕次郎は1981年4月に入院し、しばらく画面から姿を消します。1986年5月には再入院となり、このときは代行として渡哲也が七曲署に配されました。 やがて裕次郎自身から「健康な状態での復帰は望めない」として降板の申し出があり、番組の円満終了が決まります。そして最終回、第718話「そして又、ボスと共に」にだけ、ボスは帰ってきました。 殉職の危機にある澤村刑事を救うため、犯人の妹を取り調べる。この場面のセリフは、裕次郎のアドリブだったと言われています。 五年前に心臓を切る手術をした──という、現実の自分と重なる話をし、医者に止められているはずの煙草を口にしてみせ、そしてこれまでに亡くなった刑事たちの中から、スコッチの名を挙げました。 スコッチを演じた沖雅也は、このときすでにこの世にいませんでした。数ある殉職刑事の中からあえてその名を選んだのは、偶然ではなかったのだろうと思います。 これが石原裕次郎にとって、最後のドラマ出演となりました。 金曜夜八時を、私のほうが先に降りた 最終回のころには、私はすでに『太陽にほえろ!』を卒業していました。 おそらく中学に入ったあたりから、私の金曜夜八時はアントニオ猪木に移っています。つまり十四年にわたって視聴率を奪い合った二つの番組のあいだで、私自身が乗り換えた一人だったわけです。あれほど熱心に観ていたのに、山さんが殉職したことも、ボスが最終回だけ帰ってきたことも、当時の私は知りませんでした。 ...

July 21, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月20日──銀座に現れた80円のハンバーガー。マクドナルド日本1号店がオープンした日

7月20日は「ハンバーガーの日」だそうです。 昭和46年(1971年)のこの日、東京・銀座の三越1階に、マクドナルドの日本1号店がオープンしました。いまや全国どこの駅前にもある、あの黄色いMの看板。その最初の一軒が銀座のど真ん中に現れた日です。 このとき私は2歳。当然ながら、銀座の熱狂をこの目で見たわけではありません。それでも今回この日のことを調べてみて、驚きの連続でした。ハンバーガーという食べ物が、まだ日本人のほとんどに知られていなかった時代。そこにどうやって「マック」はやってきたのか。今日はその話と、私自身とハンバーガーの思い出を書いてみたいと思います。 「流行は銀座から始まる」 意外なことに、マクドナルドの日本1号店は、当初は銀座に出店する予定ではなかったそうです。 アメリカ本社が考えていた候補地は、神奈川県の茅ヶ崎。アメリカのマクドナルドは車で乗りつけて買っていく郊外型の商売でしたから、日本でも同じように、車社会を前提とした立地を考えていたわけです。 これに真っ向から異を唱えたのが、日本マクドナルド創業者の藤田田(ふじた・でん)さんでした。「流行は銀座から始まる」。日本でハンバーガーを根付かせたいなら、まず日本一の繁華街で話題にならなければ意味がない、という考えです。本国の方針を押し切って、出店場所は銀座三越の1階に決まりました。 といっても、百貨店の一等地に広々とした店を構えられたわけではありません。1号店の店舗面積はわずか129平方メートル。銀座通りに面した間口は広いものの奥行きはほとんどなく、客席を置くスペースさえない、テイクアウト専門の店だったそうです。 たった39時間の突貫工事 もうひとつ、調べていて唸ったのがこの話です。 三越側が出した条件は「営業中に工事はしないこと」。百貨店として当然の要求ですが、これを普通に受けたら店はいつまでも完成しません。そこで考え出されたのが、日曜日の閉店(当時は午後6時)と同時に工事を始め、翌月曜日の定休日を丸ごと使い、火曜日の朝9時の開店レセプションに間に合わせるという離れ業でした。 与えられた時間は、わずか39時間。約70人の作業員が二日間不眠不休で働き、しかも事前に別の場所で同じ条件の店を「作っては壊す」予行演習を繰り返して工期を縮めていったといいます。 そして昭和46年7月20日火曜日の朝、銀座三越の1階に、日本で初めてのマクドナルドが本当に開店してしまいました。日本の外食産業の歴史が変わった瞬間が、徹夜明けの突貫工事の果てにあったというのが、なんとも昭和らしくて好きです。 ハンバーガー80円と、歩行者天国の「立ち食い」 開店当時の価格は、ハンバーガー80円、チーズバーガー100円、ビッグマック200円、マックフライポテト70円。 前年の昭和45年から、銀座では歩行者天国が始まっていました。車の消えた銀座通りを歩きながらハンバーガーを頬張る――この光景が、当時の若者にとって最先端のファッションだったそうです。一方で、歩きながらものを食べるなんて「行儀が悪い」という批判の声もあったといいますから、時代を感じます。 考えてみれば、それまでの日本に「片手で食べられる温かい食事を、店先で買ってその場で食べる」という習慣はほとんどありませんでした。お行儀の議論を巻き起こしながら、ハンバーガーは銀座から日本に広がっていきます。1号店の4日後には2号店の代々木店が開店。昭和52年にはドライブスルーが、昭和60年には朝マックが始まり、マクドナルドは着実に「日常の風景」になっていきました。 2歳の私は、記憶にございません さて、昭和46年7月20日の私はというと、2歳3ヶ月。京成高砂の線路際の家で、電車を眺めていた頃です。銀座の熱狂は、当然ながら記憶にございません。 では、私が初めてマクドナルドのハンバーガーにかじりつき、ジュースをストローですすって、ポテトをつまんで口にはこんだのはいつだったのか。時期ははっきりしないのですが、場所が上野であったことは間違いありません。 店の周りが人でごった返す中、母と妹との3人で並んで、やっと買った思い出があります。その日は休日で、上野駅から御徒町方面へ延びる中央通りは歩行者天国。相当な人出でにぎわっていて、子供心にウキウキした気分になっていました。そんな人波の中で、立ちながら食べた記憶が残っています。 いま思えば、銀座で生まれた「歩行者天国でハンバーガーを立ち食いする」という光景を、私は少し遅れて上野でなぞっていたことになります。 そして子供ながらに、マクドナルドでの買い物は安くはないと感じていました。なにしろ、母は自分の分を買っていませんでしたから。大事に味わいながら、特別なものを頂いている――そんな感覚だったのです。現在のわが子とマクドナルドの関係とは、相当にかけ離れています。 サンキューセットと、昭和62年の私 マクドナルドの歴史を調べていて、個人的にいちばん「おおっ」となったのが、昭和62年(1987年)の「サンキューセット」です。 昭和60年のプラザ合意をきっかけに、1ドル240円ほどだった為替相場は、昭和62年には120円台へと急激な円高が進みました。輸入食材の多いマクドナルドにとってこれは追い風で、その差益をお客に還元するとして売り出されたのが、ハンバーガー・ポテトSサイズ・ドリンクで390円の「サンキューセット」でした。それまで520円ほどだった組み合わせですから、思い切った値下げです。 これが社会現象になりました。「サンキューセット」はこの年の新語・流行語大賞で大衆賞を受賞。ロッテリアが380円の「サンパチトリオ」で対抗し、マクドナルドが360円の「サブロクセット」で応戦するという、のちに「ハンバーガー戦争」と呼ばれる値下げ合戦にまで発展します。 昭和62年といえば、私は高校3年生。夏に最後の野球が終わった年です。 このころになると、マクドナルドはすでに身近な存在になっていて、高校生のちょっとした小遣いでも食べられるようになっていました。上野で母と妹と並んで買った「特別なごちそう」は、十数年のあいだに「いつでも手が届く定番」へと変わっていたわけです。 思えば、その途中にはこんな思い出もあります。中学生の頃、夏になると定番メニューのほかに期間限定の味のマックシェイクが発売されて、それだけを目当てに、友達と買いに出かけて行きました。確かまだ高砂の近所にマクドナルドがなく、自転車で松戸まで走った記憶があります。もしかすると、当時すでに金町駅前の東急ストア横に店があったかもしれませんが、そのあたりの記憶はあいまいです。 期間限定のシェイクひとつのために、自転車で江戸川を越えて隣の県まで。それだけの価値が、あの頃のマクドナルドにはあったのです。 おわりに 銀座三越の一角、たった129平方メートルのテイクアウト専門店から始まったマクドナルドは、半世紀あまりで日本中に広がりました。母が自分の分を買わなかった「特別なごちそう」は、いつのまにか、家族みんなの「いつもの味」になりました。 それでも、店の前を通ればポテトの匂いがして、つい足が向いてしまうのは、あの頃も今も同じかもしれません。 あなたの「初めてのマクドナルド」の記憶は、いつ、どこの店ですか。 「流行は銀座から始まる」と本国に言い放ち、80円のハンバーガーで日本の食文化を変えた男・藤田田。その商売哲学がぎっしり詰まった伝説の一冊が、いまも新装版で読めます。ソフトバンクの孫正義さんが高校時代にこの本に感動して、藤田さんに直接会いに行った話はあまりに有名。マクドナルドの記事を書きながら、私も読み返したくなりました。 ユダヤの商法(新装版)藤田田/ベストセラーズ。日本マクドナルド創業者が明かす商売の原理原則。若き日の孫正義を動かした伝説のベストセラー Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月19日】日本がいなかったオリンピック。モスクワ五輪開幕 | 次の記事:【7月21日】『太陽にほえろ!』が始まった日、金曜夜八時の十四年 ▶

July 20, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月19日──日本がいなかったオリンピック。モスクワ五輪開幕

今日は7月19日。昭和55年(1980年)のこの日、モスクワで第22回オリンピック競技大会が開幕しました。 社会主義国では初めての開催となった、歴史に残る大会です。ただし、日本人にとってこの大会が「歴史に残る」理由は、まったく別のところにあります。 日本は、この大会に参加しませんでした。 当時、私は小学5年生。「日本はモスクワオリンピックに出ない」ということ自体は、子どもながらに知っていました。ただ、なぜ出ないのか、その裏で何が起きていたのか。詳しいことを理解したのは、ずっと後になってからです。今回この記事を書くにあたって改めて調べてみると、知らなかったことばかりでした。 「モスクワは近い!」はずだった まず驚いたのは、開幕前年の日本の盛り上がりぶりです。 昭和54年(1979年)、オリンピック協賛企業のテレビCMには「頑張れニッポン! モスクワは近い!」というフレーズが躍り、プレイベントも各地で大々的に行われていました。放送はテレビ朝日が独占放送権を獲得。局を挙げての一大プロジェクトでした。 そして、大会マスコットのこぐまのミーシャ。ソ連の絵本作家がデザインしたこの愛らしいクマは、日本でも大人気となり、なんとテレビアニメにまでなっています。『こぐまのミーシャ』、日本アニメーションと朝日放送の共同製作で、昭和54年10月から昭和55年4月まで、テレビ朝日系列で全26話が放送されました。 つまり日本は、国を挙げて「モスクワに行く気満々」だったのです。 放送時期は、私が小学4年生の秋から5年生に上がる春にかけて。年齢的にはドンピシャの世代です。 ところが正直に告白すると、このアニメのことは全く覚えていません。毎週楽しみにしていた番組はいくつもあったはずなのに、ミーシャの記憶だけがすっぽりと抜けている。日本中があれほど盛り上がっていたはずのモスクワへの道は、少なくとも高砂の小学生の頭の上を、静かに素通りしていたようです。 昭和55年5月24日、挙手の採決 ところが、昭和54年12月。ソ連が突如、アフガニスタンに軍事侵攻します。 これに抗議したアメリカのカーター大統領が、翌昭和55年1月、モスクワ五輪のボイコットを表明。西側諸国に同調を呼びかけました。日本政府もこれに追随する方針を固めていきます。 ただし、オリンピックに参加するかどうかを決める権限は、本来、政府ではなくJOC(日本オリンピック委員会)にあります。JOCの一部の委員は最後まで参加の道を模索し、選手たちもJOC本部に足を運んで出場を訴えました。柔道の山下泰裕選手、レスリングの高田裕司選手が涙ながらに参加を訴える姿は、今も映像に残っています。 しかし、当時のJOCは日本体育協会の一部門にすぎず、その体協は予算の半分を国からの補助金に頼っていました。財政的に、政府の方針に抗える構造ではなかったのです。 昭和55年5月24日、JOC臨時総会。採決は挙手で行われ、29対13で不参加が決定しました。会場には伊東正義官房長官の姿もあり、参加に手を挙げた競技団体には予算を分配しない、という圧力までかけられていたといいます。 さらに切ないのは、その後の6月11日、JOCが「モスクワ五輪日本選手団」の名簿を承認していることです。行かないことが決まった大会の、行くはずだった選手たちの名簿。「幻の選手団」と呼ばれるこの名簿には、山下選手も、マラソンの瀬古利彦選手も名を連ねていました。金メダル確実と言われた選手たちが、4年間積み上げてきたものを発揮する場所を、一度も走ることなく失ったのです。 小学5年生の夏、テレビの中に日本はいなかった さて、では当の小学5年生は、この夏をどう過ごしていたのか。 正直に言えば、モスクワオリンピックそのものの映像を見た記憶は、全くありません。テレビ朝日は独占放送権を持っていたのですから、何かしらの中継や録画放送はあったはずです。しかし11歳の私の記憶には、開会式も、競技の様子も、何ひとつ残っていません。 その代わり、鮮明に覚えている映像があります。 柔道の山下選手が、涙を流しながら無念さを訴えていたテレビニュースです。あの大きな山下選手が、テレビの中で泣いている。日本の不参加をめぐるニュースの中で、あの姿だけは、今もはっきりと目に焼き付いています。 選手たちが参加を訴えるのは、当然のことだと私は思います。本当に、残念なことでした。 山下選手も、マラソンの瀬古選手も、オリンピックとは関係なく、その存在は当然知っていました。それ以前から、様々な試合でその強さを目にしていましたから。あの二人が本番の畳の上に、コースの上に立っていたら――そう想像すると、やはりこの「不参加」は、返す返すも残念なできごとでした。 ミーシャの涙 大会は、日本のいないまま16日間の日程を終えました。 8月3日の閉会式。スタジアムのバックスタンドに、人文字で巨大なミーシャが描かれます。そしてその目から、一筋の涙がこぼれ落ちました。場内にはお別れの歌が流れ、ミーシャの人形が風船とともに夜空へ打ち上げられ、森へ帰っていく――そんな演出で、大会は幕を閉じました。 「西側諸国のボイコットを悲しんで涙を流した」と語られることもあるようですが、これは俗説で、あくまで閉会の別れを表現した演出だったそうです。それでも、あの涙の人文字は、ボイコットに揺れた大会の記憶と分かちがたく結びついて、多くの人の心に残ることになりました。 日本の選手たちに次のチャンスが巡ってくるのは、4年後の昭和59年、ロサンゼルス。山下選手はそこで悲願の金メダルを獲得します。しかし、モスクワを最後の勝負の場と定めていた選手の中には、そのまま第一線を退いた人も少なくありませんでした。 あれから半世紀近く。スポーツと政治の関係は、少しずつ形を変えてきました。 モスクワでは60を超える国と地域が大会そのものをボイコットし、4年後のロサンゼルスでは、今度はソ連など東側諸国が報復的に不参加。国が「行かない」と決めれば、選手個人の意思とは関係なく出場の道が閉ざされる――そういう時代だったのです。 現在も、政治がスポーツ大会に影を落とすこと自体はなくなっていません。ただ、国ぐるみの全面ボイコットは減りました。代わりに、特定の国の選手を国旗も国歌もなしの「中立選手」として参加させたり、政府関係者だけが式典を欠席する「外交的ボイコット」にとどめたり。ロシアやベラルーシの選手をめぐる近年の対応は、その代表例でしょう。政治への抗議は行いつつ、選手個人への影響はできるだけ小さくする。もちろん今も議論は続いていますが、世界は回り道をしながら、あの日の山下選手の涙に応える方向へ、少しずつ進んでいるのだと信じたいところです。 おわりに 調べれば調べるほど、昭和55年のあの夏、大人の世界では実に大きなことが動いていたのだと知りました。当時の私は、その大半を知らないまま、いつもどおりの夏休みを過ごしていたのだと思います。 セミの声と、ラジオ体操と、真っ黒に日焼けした野球少年の夏。それでも、山下選手の涙のニュースだけは、11歳の記憶にしっかりと刻まれていました。子どもの目にも「これはただごとではない」と映るだけのものが、あの映像にはあったのでしょう。 みなさんは、モスクワオリンピックの記憶、ありますか? 「モスクワは近い!」のCMを覚えている方、幻の選手団に胸を痛めた方、ミーシャのぬいぐるみを持っていた方。よろしければ、コメントで教えてください。 この記事で書いた「幻の選手団」のその後を、選手たち本人への取材で描き切ったノンフィクションがこの一冊です。挙手の採決の裏側、涙の記者会見、そして28年後——あの夏に行き場を失った選手たちが、それぞれの人生をどう歩んだのか。山下選手の涙の意味を知りたい方に、深くおすすめします。 五輪ボイコット──幻のモスクワ、28年目の証言松瀬学/新潮社。モスクワに行けなかった選手たち本人の証言で綴る、ボイコットの真実とその後の人生 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月18日】コマネチは、ギャグじゃなかった | 次の記事:【7月20日】銀座に現れた80円のハンバーガー。マクドナルド日本1号店がオープンした日 ▶

July 19, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月18日──コマネチは、ギャグじゃなかった

「コマネチ」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。 私の場合、答えは決まっています。ビートたけしさんの、あのポーズです。がに股で腰を落とし、両手を股間の前でV字にして、「コマネチ!」。 白状しますと、私は本物のコマネチ選手の演技を見た記憶が、まったくありません。それどころか、当時はたけしさんのあのギャグの、何が面白いのかすらよく分かっていませんでした。 今日、昭和51年(1976年)7月18日は、そのナディア・コマネチが、オリンピック体操史上初の10点満点を出した日です。ギャグの元ネタとしてしか知らなかった「本物のコマネチ」に、この記事を書きながら迫ってみようと思います。 電光掲示板が表示できなかった「10.00」 昭和51年7月18日、モントリオールオリンピックの体操女子団体規定。ルーマニアの14歳、ナディア・コマネチは段違い平行棒の演技で、近代オリンピック史上誰も出したことのない点数を叩き出しました。 10点満点。 ところが、会場の電光掲示板に表示されたのは「1.00」という数字でした。掲示板には「10.00」を表示する設定がなかったのです。満点など出るはずがない。大会の運営側すら、そう考えていたということです。 観客は一瞬ざわつき、そして意味を理解した瞬間、大歓声に変わったといいます。 コマネチの快進撃はこれで終わりませんでした。この大会で彼女が出した10点満点は、合計7回。段違い平行棒と平均台で完璧な演技を続け、個人総合、段違い平行棒、平均台の3つの金メダルを獲得しました。細い手足で宙を舞う14歳のルーマニア人少女を、日本のメディアは「白い妖精」と呼びました。 そのとき私は7歳。その年の4月に小学校に入学したばかりの小学1年生で、初めての夏休みを目前に控えた頃です。 そして正直に申し上げます。モントリオールオリンピックの記憶が、何ひとつありません。中継を観た記憶もなければ、家のテレビにオリンピックが映っていた気配すら思い出せないのです。 無理もありません。当時の私は、まさに「昭和の子ども文化」のど真ん中にいました。学校が終わればランドセルを放り投げて、野球、メンコ、鬼ごっこ、缶けり、秘密基地づくり、虫取り、ザリガニ釣り。夏休みに入れば、朝6時半のラジオ体操に始まり、セミ取り、小学校のプール、昼はそうめんとスイカ、午後はまた友達と野球。おやつはアイスやカルピスで、夜は家族でドリフやウルトラマンの再放送を見て、9時には寝る。おもちゃ箱には超合金ロボットやミクロマン。そんな毎日です。 7歳の私にとって、オリンピックはまだ「大人たちが見ているもの」でした。地球の裏側で14歳の少女が歴史を塗り替えていたことなど、知る由もなかったのです。 私にとっての「コマネチ」は、ギャグだった 私が「コマネチ」という言葉を知ったのは、本物の演技からではありません。ビートたけしさんの、あの一発ギャグからでした。 調べてみると、あのギャグが生まれたのは1980年頃。ツービートが漫才ブームで大ブレイクしていた時期です。せんだみつおさんが楽屋のテレビでコマネチ選手のレオタード姿を見て、股間の前で両手をV字にして「コマネチ!」とやったのを、たけしさんが「それ、使ってもいいですか?」と買い取った――という誕生秘話が知られています(金額や経緯には諸説あるようです)。 1980年といえば、私は小学5年生。漫才ブームでツービートがテレビを席巻し、あのギャグが大流行した時期は、ちょうど小学校高学年から中学に上がる頃にあたります。 流行の勢いは、すさまじいものでした。学校の休み時間、校庭、下校途中。男の子たちは何かあるたびに「コマネチ!」と叫びながらポーズを決めていました。先生に「やめなさい!」と注意されても、しばらくするとまた誰かが始める。そんな光景が、当時の小学校では珍しくなかったのです。 そして白状しますと、私もまさにやっていました(笑)。 ただ、やっていた本人が言うのも変な話ですが、当時の私には、あのギャグの何が面白いのか、よく分かりませんでした。がに股で「コマネチ!」と叫ぶ。それだけです。オチもなければ、意味も分からない。周りの大人たちがなぜ笑うのか、不思議でした。 今にして思えば、当然だったのです。あれはコマネチ選手のハイレグレオタードの、際どいラインを模したポーズでした。つまり、大人たちが「なんとなく思っているけど口に出せないこと」を、たけしさんが堂々とやってのけたところに面白さがあった。子どもに分かるはずがありません。あれは大人のギャグだったのです。 本物を知らないまま、ギャグだけを知っている。しかもそのギャグの意味も分かっていない。当時の私にとって「コマネチ」とは、そういう不思議な言葉でした。 調べて知った、本物のコマネチ さて、五十半ばを過ぎた今、あらためて本物のナディア・コマネチを調べてみました。そして、驚きの連続でした。 まず、彼女はモントリオールの前に、日本で10点満点を出していました。1976年、来日して出場した中日カップで、跳馬と段違い平行棒で満点を記録しているのです。オリンピック史上初の10点満点の「予告編」は、日本で上映されていたことになります。 そして映像です。段違い平行棒の演技を、今はインターネットで簡単に見ることができます。見てみました。棒から棒へ、体が吸い付くように移動し、一切のよどみなく回転し、ぴたりと着地する。素人の私が見ても、これは何かが違うと分かります。審判が満点をつけたくなる気持ちが、半世紀近く経った映像からでも伝わってきました。 彼女の人生も、演技と同じくらい波乱に満ちていました。モントリオールの4年後、モスクワオリンピックでも金メダルを獲得。しかし当時のルーマニアはチャウシェスク独裁政権下にあり、国民的英雄となった彼女の生活は、自由とはほど遠いものだったといいます。そして昭和が終わる1989年、彼女は祖国を脱出して亡命します。その直後、ルーマニアでは革命が起き、独裁政権は崩壊しました。 「白い妖精」と呼ばれた少女は、妖精どころか、激動の20世紀を生き抜いた一人の人間でした。 ギャグと本人の、後日談 ところで、ギャグと本人をめぐっては、愉快な後日談があります。 たけしさん本人が後年テレビ番組で語ったところによると、あの一発芸について、コマネチさん本人に肖像権使用料として200万円を支払ったことがあるのだそうです。最初は承諾を得ずに使っていたところ、本人に「気がつかれて」しまった。たけしさんいわく「オレは『ネチコマ』に直したんだけど」――このあたりの顛末も、いかにもたけしさんらしい話です。 子どもたちが校庭で真似するほどの国民的ギャグになったのですから、ご本人の耳に届かないはずがありません。地球の裏側の14歳の完璧な演技が、数年後に日本の校庭でがに股のポーズになり、やがて本人への使用料支払いにまで発展する。こんな国際交流は、後にも先にもないのではないでしょうか。 ギャグの向こう側にいた人 こうして調べ終えて、あらためて思います。 7歳の夏、私が虫捕りだの何だのに夢中になっていたその瞬間、地球の裏側では14歳の少女が完璧な演技をしていた。その名前は、数年後に日本のお茶の間で一発ギャグになり、演技を見たこともない小学生の耳にまで届いた。そして意味の分からないままそのギャグを眺めていた小学生が、50年後にようやく本物の演技を見て、腰を抜かしている。 「コマネチ」という五文字は、ずいぶん長い旅をして私のところに届いたわけです。 たけしさんのギャグを入り口に本物へたどり着く。順番は逆かもしれませんが、こういう昭和の知り方も、あっていいのではないでしょうか。 みなさんは「コマネチ」と聞いて、何を思い浮かべますか? 本物の演技をリアルタイムでご覧になった方がいらっしゃいましたら、ぜひその衝撃を教えてください。 50年遅れで「本物のコマネチ」に出会った私が、次に手に取ったのがこの一冊です。10点満点の少女は、その後の人生で何を学び、何を伝えたいのか。完璧の裏にあった努力と、亡命を経てなお前を向く言葉の数々。スポーツをする子や孫を持つ方への贈り物にも、じつはとても良い本です。 コマネチ 若きアスリートへの手紙(新装版)ナディア・コマネチ著/鈴木淑美訳。10点満点の「白い妖精」本人が、努力と人生について綴った一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月17日】江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」 | 次の記事:【7月19日】日本がいなかったオリンピック。モスクワ五輪開幕 ▶

July 18, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月17日──江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」

7月も半ばを過ぎると、プロ野球はオールスターの季節です。子どもの頃、この「夢の球宴」という響きに、どれだけ胸を躍らせたことでしょう。 昭和46年(1971年)7月17日。西宮球場で行われたオールスターゲーム第1戦で、阪神タイガースの江夏豊投手が、パ・リーグの強打者9人から9者連続奪三振という前人未到の記録を打ち立てました。 このとき私は2歳。当然、記憶にございません。それどころか、江夏投手が阪神のエースとして君臨した時代そのものを、私はこの目で見ていないのです。私が物心ついて野球に夢中になった頃、江夏はもう別の顔をした投手になっていました。 だから今回は、いつもと少し勝手が違います。「あの頃こうだった」と思い出を語るのではなく、野球少年だった私が後から知った伝説の正体に、記事を書きながらあらためて迫ってみたいと思うのです。 前半戦6勝9敗のエースが、なぜ伝説を作れたのか 調べてみて驚いたのは、この年の江夏が絶不調だったということです。 オールスター前の成績は6勝9敗、防御率3.12。昭和43年(1968年)にシーズン401奪三振という、今なお破られない日本記録を打ち立てた剛腕が、「何でか知らんが、今年はコントロールが悪いねん」とぼやくありさま。それでも、7月9日に発表されたファン投票では、セ・リーグ投手部門の1位。負け越しのエースを、ファンは見捨てていなかったのです。 そこにスポーツ紙の記者が挑発を仕掛けます。「ようそんな成績で出てきたな。ちょっとお客さんが喜ぶようなことをやってみな」。江夏の答えは明快でした。自分がお客さんを喜ばせるとしたら、三振しかない——。 江夏は取材に対して「9人全部、三振にとったるワ」と宣言します。ところがこの前代未聞の予告、当のスポーツ紙では冗談扱いされ、紙面の片隅にわずか一行で片付けられたそうです。無理もありません。当時はメジャーリーグでも達成されたことのない記録だったのですから。 昭和46年7月17日、西宮の夜 迎えた第1戦。マスクをかぶったのは、盟友・田淵幸一でした。この年の田淵は病気の影響でほとんど捕手として出場しておらず、シーズン中には一度も組まれていなかった「黄金バッテリー」が、この夜、球宴の舞台で復活したのです。 1回裏、先頭のロッテ・有藤通世から空振り三振。続く西鉄・基満男、阪急・長池徳二も連続で仕留めます。江夏が9人の中で最も警戒したのは、32試合連続安打を記録していた長池でした。この打席にだけ、江夏はその春に自ら編み出したばかりの「落ちる球」を1球だけ投じたと後に語っています。 2回にはロッテ・江藤慎一、近鉄・土井正博、西鉄・東田正義を三者三振。しかもこの回、江夏は打席でも阪急・米田哲也のカーブを右翼スタンドへ運び、3点本塁打まで放っているのです。投げては伝説、打ってはホームランです。 そして3回。後に江夏は、このときの球場が「不気味なほど静かだった」と振り返っています。阪急・阪本敏三が見逃し三振、岡村浩二が空振り三振で、ついに8者連続。 9人目の打者は、阪急の若き強打者・加藤秀司でした。3球目、加藤の打球がバックネット方向に高く上がります。マスクを投げ捨てて追おうとした田淵に向かって、江夏が叫びました。 「追うなっ!」 捕られてしまえば記録は「8者連続」で終わり——と語られがちな場面ですが、後年の江夏自身の弁によれば、本音は「一刻も早くこの緊迫感から逃れたかった」から、なのだそうです。伝説の裏にあった生身の述懐に、私はかえって痺れました。 次の1球。江夏はストライクゾーンのど真ん中に速球を投げ込み、加藤はフルスイングで空を切りました。9者連続奪三振、達成。西宮球場は大歓声に包まれ、江夏は両手を挙げて満面の笑みを浮かべたといいます。 ちなみにこの記念すべきウイニングボールは、現存していません。記録達成を把握していなかった田淵が、三振のコールと同時に観客席へ投げ入れてしまったからだそうです。 伝説は15でようやく止まった この夜の物語には続きがあります。江夏の後を受けた4人の投手が無安打リレーを完成させ、オールスター史上初の継投ノーヒットノーランまで達成してしまうのです。 さらに江夏自身、前年のオールスターでも5者連続奪三振を記録していたため、この時点で通算14者連続。後楽園球場での第3戦にも登板し、最初の打者から三振を奪って15連続まで記録を伸ばします。 これを止めたのが、南海の野村克也でした。バットを極端に短く持って打席に立ち、初球をたたいて二塁ゴロ。「パ・リーグで育った者として、連続だけはなんとしても止めたかった」という野村のコメントがまた、この時代のオールスターが真剣勝負だったことを物語っています。 そして昭和59年(1984年)。今度は巨人の江川卓が球宴で8者連続奪三振まで到達し、あと一人というところで大石大二郎に二塁ゴロを打たれ、大記録に届きませんでした。 この試合のことは、はっきり覚えています。私は中学3年生。最後の夏の大会は6月のうちに地区大会で敗退してしまい、野球部を引退して高校受験に向けた勉強モードに本格的に切り替えていた頃でした。それでも、この年のオールスターはリアルタイムでテレビ観戦していました。 巨人ファンの私は、江川が連続奪三振を4つ、5つ、6つと積み重ねていくたびに、テレビの前で「よし!」「しゃー!」と叫んでいました。すると、同じタイミングで、あちらこちらの家から同じような叫び声が聞こえてくるのです。当時はまだエアコンを入れず、窓を開けて扇風機、という家が多かったのですね(笑)。 そして9人目の打者・大石大二郎がセカンドゴロを打ったその瞬間。今度は「あぁ……」というため息が、方々の窓から同時に聞こえてきました。江夏の記録の偉大さを、私は町内中のため息で思い知ったのです。 「江夏の21球」——確かに観たはずの記憶 冒頭に書いたとおり、私は阪神のエース・江夏を知りません。私が野球に夢中になった昭和50年代、江夏はすでに広島や日本ハムで「優勝請負人」と呼ばれる抑えの切り札になっていました。そして、その抑え投手・江夏の頂点というべき瞬間について、私にはひとつ、鮮明な記憶が「ありました」。過去形で書く理由は、のちほど。 昭和54年(1979年)11月4日、日本シリーズ第7戦、大阪球場。広島が4対3と1点リードで迎えた9回裏。ここから始まる21球が、後に「江夏の21球」と呼ばれる伝説になります。 先頭の羽田耕一にセンター前ヒットを許すと、盗塁と捕手の悪送球で無死三塁。アーノルドに四球、さらに盗塁と平野光泰への四球で、あっという間に無死満塁です。大阪球場は大歓声。近鉄ファンは、球団初の日本一を目前と信じていたはずです。 しかし、ここからが江夏の真骨頂でした。まず代打・佐々木恭介を三振。続く石渡茂の打席で近鉄ベンチはスクイズを仕掛けますが、江夏はその気配を察知し、とっさにボールを高く外します。石渡のバットは空を切り、本塁へ突っ込んだ三塁走者は捕手・水沼四郎にタッチアウト。野球史に残る「スクイズ外し」です。そして21球目、膝元へ鋭く落ちる変化球に石渡のバットがもう一度空を切って、試合終了。広島東洋カープ、球団創設以来初の日本一が決まりました。 実は私、この最後の場面を、小学校の教室で観た——という鮮明な記憶が、長いことありました。教室に備え付けられていたテレビで、クラスのみんなと一緒に『江夏の21球』を目撃した。小学4年生。大興奮だった。個人的には近鉄を応援していたのに、終わってみたら江夏が抑えたことをめっちゃ喜んでいて、自分でもわけがわからないことになっていた——そういう記憶です。 ところが今回、記事を書くために調べてみて、驚きました。昭和54年11月4日は、日曜日なのです。学校があるはずのない日でした。 どうやら私の記憶は、別の試合か、別の日の出来事と混ざってしまっているようです。40年以上、疑いもせずに「教室で観た」と信じ込んでいたのに。記憶とは、なんとあてにならないものでしょう。それでもあの大興奮の手触りだけは、今も確かに体のどこかに残っているのです。 「勝負師」——敵なら最悪、味方なら最強 野球少年だった私にとって、江夏豊は一言でいえば「勝負師」でした。敵に回したら、これほど嫌な相手はいない。でも味方にしたら、これ以上ないほど心強い。巨人ファンの私は、ほとんどの期間、江夏を「敵」として見ていたわけですが、それでもあの背中には痺れるものがありました。 そしてもうひとつ、強く記憶に残っているのが晩年の姿です。昭和60年(1985年)、36歳の江夏は海を渡り、ミルウォーキー・ブルワーズのキャンプにマイナー契約で参加して、メジャーの舞台を目指しました。今でこそ多くの日本人投手が当たり前のようにメジャーへ挑戦していますが、当時としては前代未聞のことです。私はその挑戦を報じるニュースに、いつも注目していました。結果的にメンバー入りは叶わず、江夏はそのままユニフォームを脱ぐことになります。それでも、全盛期の江夏であれば十分に活躍できたはずだと、今なら確信を持って言えます。 見ていない伝説と、あてにならない記憶 阪神のエース・江夏を、私はついにこの目で見ることがありませんでした。抑え投手・江夏の頂点は、確かに目撃したはずなのに、その記憶は場所ごとあやふやになっていました。それでも、江夏の記録に江川が挑んだ夜の、町内中の叫び声とため息だけは、今もはっきり耳に残っています。伝説というのは、正確な記録と、あてにならない記憶と、その両方でできているのかもしれません。 半世紀以上たった今も、球宴での9者連続奪三振は破られていません。もう先発投手が3イニングを投げることすらない現代のオールスターでは、永遠に破られないのでしょう。 皆さんには、この目で見ていないのになぜか鮮明に語れる伝説や、確かに見たはずなのにつじつまの合わない記憶はありますか? この記事の後半に書いた1979年日本シリーズの9回裏を、一球ずつ、投手と打者と両ベンチの心理まで踏み込んで描き切ったのが、スポーツノンフィクションの金字塔と呼ばれるこの一篇です。「スクイズ外し」の21球が、なぜ伝説になったのか。私のあやふやな記憶を補って余りある、正確で、それでいて胸の熱くなる記録です。 江夏の21球(角川新書)山際淳司。1979年日本シリーズ第7戦9回裏を描いた不朽の名作ノンフィクション。「スローカーブを、もう一球」も収録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月16日】私が生まれた年、人類は月へ向かった | 次の記事:【7月18日】コマネチは、ギャグじゃなかった ▶

July 17, 2026