9月22日 ── 「なぜだ!」と叫んだ大人と、何も知らなかった野球少年|昭和の今日は何があった日?

9月22日という日付を調べていて、少し不思議な気持ちになった。 昭和57年のこの日と、昭和60年のこの日。3年をはさんだ二つの9月22日に、大人の世界ではそれぞれ大きな出来事が起きている。ひとつは東京・日本橋のデパートの会議室で、もうひとつはニューヨークのホテルで。 昭和57年の私は中学1年生、昭和60年の私は高校1年生。どちらの秋も、頭の中は野球のことだけだった。 今回は、その二つの9月22日の話を書いてみたい。 昭和57年9月22日、日本橋の会議室で 昭和57年(1982年)9月22日、東京・日本橋の三越本店で、定例の取締役会が開かれた。 議題がひととおり終わり、最後の「その他」に入ったところで、社長の腹心として知られていた専務が立ち上がり、社長の解任を提案した。社長以外の取締役が次々と起立し、16対0で可決。10年にわたって三越を率いてきた岡田茂社長は、その場で代表権を失った。 岡田社長は「流通界の革命児」と呼ばれる一方、社内では異論を許さない独裁的な経営で「岡田天皇」とまで呼ばれていた人である。この年の夏には、日本橋本店で開いた「古代ペルシア秘宝展」の展示品の多くが偽物だったことが新聞で報じられ、さらに親しい女性の会社への不当な利益供与も問題になっていた。老舗デパートの名門ぶりとは裏腹に、内側はかなり揺れていたのである。 解任を告げられたとき、岡田社長が口にしたとされるのが「なぜだ!」のひと言だった。この言葉はテレビや新聞で繰り返し取り上げられ、その年の流行語になった。岡田氏はその翌月、特別背任の容疑で逮捕された。その後、裁判で実刑判決を受け、上告して争っている最中の平成7年に80歳で亡くなっている。「革命児」と呼ばれた経営者の、あまりに苦い幕切れだった。 昭和57年の9月といえば、私は中学に入学して半年。伝統的に強い野球部で、毎日きつい練習に明け暮れていた頃である。 では、中学1年生の私はこの騒ぎをどう見ていたのか。 正直に書くと、まったく覚えていない。 流行語さえ、届いていなかった 大人の世界の事件というのは、子どもにとってはたいてい中身がよく分からない。取締役会とは何か、代表権とは何か、特別背任とは何か。中学1年生がそれを理解していたとは思えない。 それでも「なぜだ!」という言葉くらいは、子どもの耳にも入りやすかったはずである。短くて、感情がむき出しで、どんな場面にも使える。昭和の流行語には、大人の事件が言葉ひとつに縮んで子どもの世界に流れ込んでくるものが多かった。 ところが私の記憶には、その言葉すら残っていない。テレビのニュースで見た覚えも、教室や部室で誰かが真似していた覚えもない。世間で流行語になるほどの騒ぎでも、野球漬けの中学1年生のところまでは届かなかったらしい。 もうひとつ理由があるとすれば、三越というデパートそのものに、私はほとんど馴染みがなかった。 葛飾で育った私にとって、デパートといえば上野の松坂屋だった。屋上には遊園地があり、食堂があった。その光景は今でも覚えている。上野は、国立博物館にも何度も連れて行ってもらった町で、子どもの私が知っている「都会」はだいたいそのあたりまでだった。 日本橋の三越は、同じデパートでも、私の暮らしの外側にあったのだと思う。だからその社長が解任されようが「なぜだ!」と言おうが、自分とつながる話として受け取る手がかりがなかったのだろう。 三越も松坂屋も、江戸時代の呉服屋から始まっています。屋上に遊園地があった頃から、いまの苦しい時代まで。デパートという商売の四百年を一冊でたどれる新書です。 百貨店・デパート興亡史(イースト新書)梅咲恵司/イースト・プレス。三越、伊勢丹、高島屋、松坂屋、大丸、西武……日本の百貨店がどう栄え、どう揺らいできたかをたどる。星4.1(31件) Amazonで見る › 昭和60年9月22日、ニューヨークのホテルで それから3年後の昭和60年(1985年)9月22日。今度の舞台は、ニューヨークのプラザホテルである。 この日、日本・アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツの5か国の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まり、行き過ぎたドル高を是正するために協調して為替市場に介入することで合意した。会議が開かれたホテルの名前をとって「プラザ合意」と呼ばれている。日本からは、のちに首相となる竹下登大蔵大臣が出席していた。 会議そのものは20分ほどで終わる形式的なものだったというが、その効き目はすさまじかった。1ドル235円前後だった為替相場は、合意の翌日までに約20円も円高に動き、1年後には150円台で取引されるようになった。昭和62年の暮れには、1ドル120円台にまで達している。わずか2年ほどで、ドルの値打ちがほぼ半分になった計算である。 円高は、輸出で稼いできた日本の製造業を苦しめた。一方で、輸入品が安くなり、海外旅行ブームが起きた。そして円高不況を心配した日本銀行が低金利を続けたことで、お金が土地や株に流れ込み、やがてバブル景気へとつながっていく。昭和の終わりから平成のはじめにかけての、あの浮かれた時代の出発点のひとつが、この9月22日だったと言われている。 昭和60年の9月、私は高校1年生だった。 このニュースも、私はまったく憶えていない。たぶん関心もなかったし、仮に聞いていたとしても理解はできなかっただろう。ドルだの為替だのという言葉は、耳に入ったとしても、そのまま通り抜けていったのだと思う。 当時の私にとって、関心ごとは野球だけだった。 8年後、信用金庫で 高校1年生の私が何も知らないうちに始まった円高とバブルは、その後、思いがけない形で私の人生にも届いてきた。 私が大学を卒業して信用金庫に入ったのは、平成5年(1993年)のこと。プラザ合意からちょうど8年後である。そのころにはバブルはすでにはじけ、世の中の金融機関は膨らんだ土地や株の後始末に追われていた。 もっとも、入って間もない私にとって、バブル崩壊後の空気はこれといって印象に残っていない。入社当時は、何も分からずに働いていた。ここでもまた、大きな時代のうねりは、私の頭の上を通り過ぎていったことになる。 それでも、信用金庫で過ごした7年間は、その後の生活に相当役に立っている。金利、簿記、借入、預金。窓口と帳簿の中で身につけた知識と経験は、いま自分が行っている「投資」へとつながっていった。お金の話に尻込みすることなく、積極的に取り組める基礎になったのは、間違いなくあの7年間である。 ニューヨークのホテルで20分ほどで決まったことは、16歳の私には何ひとつ届かなかった。24歳の私にも、その余波ははっきりとは見えていなかった。けれど、その余波の中で働いた日々が、何十年もたった今の私を支えている。時代というのは、見えないところで、ちゃんと人の人生に流れ込んでくるものらしい。 プラザ合意による円高と、その後の低金利。そこから土地と株の狂乱までを、経済記者として四十年見続けた人が書いた一冊です。高校1年生の私が素通りした出来事の、その先で何が起きていたのかが分かります。 バブル―日本迷走の原点―(新潮文庫)永野健二/新潮社。プラザ合意から金融自由化、地価と株価の狂乱、そして崩壊まで。日本経済新聞の記者として現場を見続けた著者によるノンフィクション。星4.2(398件) Amazonで見る › おわりに 昭和57年の三越事件、そして昭和60年のプラザ合意。 ...

September 22, 2026

9月21日 ── 私の町の名前が、少年ジャンプの表紙に載った日|昭和の今日は何があった日?

今日は9月21日。 昭和51年(1976年)のこの日、『週刊少年ジャンプ』42号が発売された。その号から連載が始まったのが、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』である。 葛飾区。私が生まれ育ち、今も住んでいる区の名前だ。 自分の町の名前が、少年漫画のタイトルにそのまま入っている。しかも40年続く。こんな経験をした区民は、そう多くないはずである。 なぜ、あんなに長いタイトルなのか 作者の秋本治は、葛飾区亀有の生まれである。のちに葛飾区の名誉区民にもなった、正真正銘の地元の人だ。 『こち亀』はいきなり連載で始まったわけではない。昭和51年6月発売の『週刊少年ジャンプ』29号に、月例ヤングジャンプ賞の入選作として読み切りが載ったのが最初だった。その反響が1か月以上続いたことから連載会議にかけられ、42号からの連載が決まる。 このとき使われていたペンネームが「山止たつひこ」。当時『がきデカ』で人気だった山上たつひこをもじったものである。のちに本人からクレームが来て、連載100回を区切りに本名の「秋本治」に変わった。なかなか大胆な新人である。 そして、あの長いタイトル。 秋本治は、映画監督の山田洋次との対談でこう語っている。『男はつらいよ』のおかげで葛飾区は全国的に知られていた。だから亀有を知らない人でも、葛飾区ならみんな知っているだろうと思った、と。 つまり『こち亀』というタイトルは、寅さんの肩に乗って生まれている。 柴又の帝釈天は、高砂のすぐ隣である。渥美清の寅さんが全国に広めた「葛飾」という地名を借りて、今度は両津勘吉が亀有を全国区にしていった。昭和という時代に、この小さな区は二度も日本中に名前を売ったことになる。 私にとっては、『サーキットの狼』のついでだった ただし、当時7歳・小学1年生だった私が、この歴史的な42号をありがたがって読んでいたかというと、まったくそんなことはない。 正直に書くと、いつから『こち亀』を読み始めたのか、はっきりとは覚えていない。当時の私にとってのお目当ては別にあった。『サーキットの狼』である。 池沢さとしの『サーキットの狼』は、昭和50年1月に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まり、スーパーカーブームの火付け役になった漫画だ。ロータス・ヨーロッパ、ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ512BB。小学生がそらで車の名前を言えるようになったのは、あの漫画のせいである。スーパーカー消しゴムを筆箱に溜め込んだ世代だ。 つまり、私はまず『サーキットの狼』を読み、そのついでに『こち亀』も読む。そういうサブ的な存在だったと思う。 いま思えば、ずいぶん贅沢な誌面である。同じ一冊の中に、スーパーカーが走る漫画と、自分の住む区の名前が付いた漫画が並んで載っていた。後者が40年続く大記録になるとは、当時の誰も——たぶん編集部も——思っていなかっただろう。 その『サーキットの狼』の第1巻です。読み返すと、四十年前に筆箱の中で転がっていた消しゴムの車が、そのまま走り出してきます。 サーキットの狼 愛蔵版1 ウワサの男の巻(Kindle版)池沢さとし/ゴマブックス。スーパーカーブームの火付け役になったレーシング漫画。ロータス・ヨーロッパを駆る風吹裕矢の物語の第1巻。星4.2(10件) Amazonで見る › 野球用品を買いに行く町 葛飾区に住んでいる人間からすると、亀有と高砂は「同じ区」ではあるが、日常的に行き来する町ではない。 高砂は京成線、亀有はJR常磐線。路線が違うと、子どもの生活圏はきれいに分かれる。それでも自転車に乗るようになった頃には、亀有はそれほど遠い場所ではなくなった。 もっとも、漫画に出てくる亀有公園や派出所が本当に実在するのかどうか、気になって確かめに行く——というほどの存在感ではなかった。私が亀有駅の近くまで行っていたのは、野球用品を買うためである。グラブやバットやスパイクを買いに行く町。それが子どもの頃の私にとっての亀有だった。 ちなみに、いまバスの運転士として亀有方面を走ることはない。ただ、路線バス運転士に転職したばかりの頃には亀有駅始発の路線があり、ときどきその担当に入ることがあった。かつて野球用品を買いに自転車で通った駅前に、何十年かあとにハンドルを握って立ち寄っていたわけである。 「寅さんの柴又」と「こち亀の亀有」 自分の住む町が全国的に有名になっていくことについては、誇らしく感じていた。 子どもの頃、学校でも親戚の集まりでも、『こち亀』や寅さんの話は当然のように出た。そして今に至るまで、私が自分の住んでいる場所を人に説明するとき、必ずと言っていいほど使う言い回しがある。 「寅さんの柴又の近く」「こち亀の亀有の近く」 高砂と言って通じる相手は、正直なところそう多くない。けれど柴又と亀有なら、たいていの人に伝わる。寅さんと両さんは、半世紀近くにわたって、私の自己紹介を手伝い続けてくれている。いまも現役で、である。 40年、一度も休まなかった 『こち亀』の記録を並べると、少し現実離れしている。 昭和51年42号から平成28年(2016年)42号まで、ちょうど40年。連載回数1960回。その間、一度の休載もない。単行本は全200巻に達した。始まったのも42号、終わったのも42号である。 40年というのは、私が7歳から47歳になるまでの時間だ。小学1年生だった子どもが、就職して、転職して、子どもを育てるまでのあいだ、両さんはずっと亀有公園前の派出所にいたことになる。しかも両さんは年をとらない。こちらだけが勝手に年をとって、追い越していった。 連載終了のとき、私にはもう漫画を読む習慣はなくなっていた。それでも「こち亀終了」を知らせるニュースは、どこからともなく耳に入ってきた。やはり、ちょっとさびしい気持ちになったのを覚えている。 亀有駅の北口と南口には、両さんの銅像が立っている。区内には『こち亀』のマンホールも埋まっている。銅像もマンホールも、私は見に行った。漫画のキャラクターが、実在の町の風景の一部になってしまった珍しい例だと思う。 連載第1巻です。絵柄はいまの『こち亀』とだいぶ違って、劇画に近い両さんが出てきます。この記事を書いている時点では、9月30日まで無料で読めるようになっていました。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(ジャンプコミックスDIGITAL)秋本治/集英社。昭和51年に始まった連載の第1巻。全200巻の一冊目。星4.1(720件) Amazonで見る › 同じ9月21日、ホンダが世界の頂点に立った ここからは話が変わる。時代も場所も、まったく別の9月21日である。 昭和61年(1986年)のこの日、ポルトガルGPの舞台エストリル・サーキットで、ホンダエンジンを積んだウィリアムズがF1のコンストラクターズ・チャンピオンを決めた。日本の自動車メーカーがF1のタイトルを獲ったのは、これが初めてのことである。 この年のウィリアムズ・ホンダは、ネルソン・ピケとナイジェル・マンセルという二人の速いドライバーを擁し、16戦9勝という成績を残した。ただしチーム内で勝ち星を食い合った結果、ドライバーズタイトルのほうはマクラーレンのアラン・プロストにさらわれている。速さはあったのに王座はひとつだけ、という少し皮肉な年だった。ここからホンダは1991年まで6年連続でチャンピオンエンジンとなり、やがてマクラーレン・ホンダとアイルトン・セナの時代へつながっていく。 さて、ここで話が最初に戻る。 『サーキットの狼』の主人公・風吹裕矢は、街の走り屋から始まって、やがてサーキットへ、そして最後はF1へ向かっていく。小学生の私が夢中で追いかけていたのは、そういう物語だったはずである。 ところが、である。 昭和61年当時の私は、F1などのモータースポーツにまったく興味を持っていなかった。セナやプロストの名前を知ったのは、日本にF1ブームがやって来てから。1年の浪人を経て大学に入ったあとのことである。ホンダが世界の頂点に立ったその日、高校2年生の私は、秋の野球部の練習の中にいた。 子どもの頃に好きだったものが、そのまま大人の関心につながるとは限らない。むしろ、ほとんどの場合つながらない。ジャンプで並んで載っていた二本のうち、私の人生に最後まで残ったのは、スーパーカーのほうではなく、町の名前のほうだった。 おわりに 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載が始まった昭和51年、私はまだ子どもだった。 ...

September 21, 2026

9月20日 ── 夕やけが終わった日と、「バスの日」が生まれた年|昭和の今日は何があった日?

今日は9月20日。 昭和62年(1987年)のこの日、日曜日の国立代々木競技場第一体育館で、ひとつのグループが解散した。おニャン子クラブである。結成からわずか2年半の幕切れだった。 そして同じ昭和62年、9月20日という日付は「バスの日」に定められた。おニャン子が解散した、その翌月のことである。 終わったものと、生まれたもの。たまたま同じ年に、同じ日付をめぐって起きた二つの話を書いてみたい。 私の高校生活と、ほぼぴったり重なっていた 『夕やけニャンニャン』がフジテレビで始まったのは、昭和60年(1985年)4月1日。平日の月曜から金曜、夕方5時からの1時間番組だった。 この日付を目にしたとき、少し驚いた。昭和60年の4月というのは、私が高校に入学した月そのものだからだ。 番組のコンセプトは「放課後」。出演していたのは、芸能界に染まっていない現役の女子高生たちだった。番組内のオーディション「ザ・スカウト アイドルを探せ!」で合格すれば、翌週にはもうレギュラーとしてテレビに映っている。結成時は11人、解散時には19人が在籍していた。 デビューシングル「セーラー服を脱がさないで」が出たのが、同じ昭和60年の7月5日。これが大ヒットして、「おニャン子旋風」と呼ばれる社会現象になっていく。 つまりおニャン子クラブの活動期間は、私の高校生活とほぼぴったり重なっている。入学した月に始まり、卒業を控えた秋に終わった。 ところが、である。 私は『夕やけニャンニャン』を、ほとんど見ていない。夕方5時といえば、野球部の練習の真っ最中だったからだ。日本中の中高生がテレビの前に座っていたその時間、私はグラウンドにいた。 もちろん、その存在は知っていた。教室では話題になっていたからだ。番組を見ていなくても、おニャン子クラブというものが世の中を席巻していることだけは、しっかり伝わってきていた。 「会員番号○○番の○○ちゃん」 いま振り返ると、おニャン子クラブは、それまでのアイドルとは仕組みからして違っていた。 松田聖子や中森明菜のような、遠くで輝いているスターではない。隣のクラスにいそうな女子高生が、オーディションに受かった次の週にはブラウン管の中にいる。メンバーには会員番号がつき、卒業という形で出ていく。のちのAKB48まで続いていく「手の届くアイドル」の、いちばん最初がここにあったと言われることが多い。 その「会員番号」という仕組みがいかによくできていたかを、私は野球部の部室で知ることになる。 私自身は、特に好きなメンバーがいたわけではなかった。ところが同級生の部員の中には、「会員番号○○番の○○ちゃんがかわいい」と話している者がいた。番号で呼ぶのである。いま思えば、あれは単なる番号ではなく、追いかけている側の熱量を測る物差しだったのだろう。 番組を見ていない私にも、その会話だけはやけに記憶に残っている。 番組を見ていなかった私でも、頭のひと節を聞けば「ああ、これか」となります。あの頃の教室で鳴っていた音が、一枚にまとまっています。 プラチナムベスト おニャン子クラブ(UHQCD)ポニーキャニオン。「セーラー服を脱がさないで」をはじめ、おニャン子クラブ名義の曲を集めたベスト盤。収録1時間8分。星4.3(25件) Amazonで見る › 抜け殻だった秋 昭和62年の夏は、私にとって特別な夏だった。 7月23日、神宮第二球場。東東京大会。2対3で負けて、私の高校野球は終わった。 その、ちょうどひと月あと。8月31日に『夕やけニャンニャン』が最終回を迎え、番組の終了とともにおニャン子クラブも解散することが決まっていた。そして9月19日と20日、代々木第一体育館でファイナルコンサート。20日が、最後の一日だった。 私の夏が終わり、テレビの中の夏も終わった。けれど正直に書いておくと、当時の私はそのことをまったく知らなかった。 高校野球が終わってしまって、私は抜け殻のようになっていた。あれだけ毎日を埋めていたものが、ある日を境にごっそり無くなる。頭を切り替えて受験に向かわなければならないと分かってはいても、体も心も追いつかない。そんな秋だった。 だから、おニャン子解散のニュースは、私の耳には入ってきていない。日本中がひとつの時代の終わりを見届けていたその日に、私は自分の時代の終わりに呆然としていた。 同じ9月20日を生きていながら、私にはまったく別の景色しか見えていなかったのである。 その翌月、「バスの日」が生まれた さて、ここからは話が大きく変わる。 同じ昭和62年の10月。全国バス事業者大会で、日本バス協会が9月20日を「バスの日」と定めた。テーマは「いつでも、どこでも、みんなのバス」。 なぜ9月20日なのか。由来は昭和でも大正でもなく、明治までさかのぼる。 明治36年(1903年)9月20日、京都で二井商会という会社が、堀川中立売から七条を経て祇園までの区間で乗合自動車の運行を始めた。これが日本初の営業バスとされている。 その車がどんなものだったかというと、蒸気自動車を改造したもので、定員は6人。運転手と助手を除けば、乗せられる客はたった4人である。しかも幌がない。風も雨も砂ぼこりも、そのまま浴びる乗り物だった。乗合馬車屋からの妨害や車両の故障も相次ぎ、この事業は翌明治37年の1月には行き詰まって営業を終えている。 ちなみに同じ明治36年の1月には広島でも乗合自動車が走り出していて、そちらが実質的な日本初ではないかとも言われている。京都の9月20日が記念日に選ばれたのは、営業免許証が交付された日付がはっきり分かっているからだそうだ。 定員4人の、屋根もないバス。そこから始まった商売のハンドルを、私はいま握っている。 車掌さんが消えていった昭和 明治の話はさておき、私たちの記憶にある昭和のバスは、どんな乗り物だっただろうか。 東京のバスには、かつて車掌さんが乗っていた。大正13年に東京市営のバスが始まって間もなく、赤襟の制服を着た女性車掌が乗るようになり、「バスガール」と呼ばれて昭和の初めには花形の職業になった。 その車掌さんが、昭和のうちに消えていく。都営バスがワンマンカーの運行を始めたのが昭和40年2月。全系統のワンマン化が完了したのは、昭和53年度のことだった。 ...

September 20, 2026

9月19日 ── 錆の下から現れた百十五文字と、昭和が終わりはじめた夜|昭和の今日は何があった日?

九月十九日という日付には、ちょうど十年をへだてて、ふたつの出来事が並んでいる。 ひとつは、千五百年前の歴史が新しく読み直された日。 もうひとつは、自分が生きている時代そのものが、終わりへ向かって動きはじめた日。 九歳の私と、十九歳の私。どちらも、その日付の上に確かに立っていた。 そして先に白状しておくと、私はそのどちらも覚えていない。 昭和五十三年九月十九日 錆の下の百十五文字 埼玉県行田市に、埼玉(さきたま)古墳群と呼ばれる一帯がある。その中の稲荷山古墳という前方後円墳から、昭和四十三年の発掘調査で一本の鉄剣が出土した。長さは七十三センチあまり。ただし全体が分厚い錆に覆われていて、そこに文字があるとは誰も気づかなかった。 そのまま十年が過ぎた。昭和五十三年、保存処理のために鉄剣は奈良へ送られる。錆の進行を止めるための、いわば修理の作業である。その過程でX線撮影が行われ、錆の下に金色の線が走っていることがわかった。金象嵌——鉄の表面に溝を彫り、そこに金を埋め込む技法である。 読み取られた文字は、百十五字あった。しかも、そのすべてが判読できた。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては、文字数において群を抜いている。九月十九日、その解読の成功が明らかにされた。 中身がまた尋常ではなかった。ヲワケという人物が、自分の祖先をオホヒコから八代にわたって書き連ね、代々「杖刀人(じょうとうじん)の長」——大王の宮を警護する武官の長であったと記す。そして自分が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の統治を助けた功績を記念して、辛亥の年にこの剣を作らせた、と結んでいる。辛亥の年は西暦四七一年とみられている。 ワカタケル大王は、雄略天皇にあたると考えられている。 そして重要なのはここからで、熊本県の江田船山古墳から出ていた銀象嵌の大刀にも、欠けた文字の並びから同じ大王の名が刻まれていたらしいことになった。九州と、関東。千キロ以上離れた二つの土地の墓に、同じ大王の名を刻んだ刀が眠っていた。 五世紀後半には、すでに大王の力が九州から東国まで届いていた——古代史の姿が、この日を境に書き換わったのである。 九歳の私には、届いていなかった 昭和五十三年の秋、私は小学三年生だった。 この発見を伝えるニュースも新聞も、まったく覚えていない。「百年に一度の発見」と言われたほどの騒ぎだったのに、九歳の私の耳にはひとかけらも残らなかった。 古墳そのものは習った記憶がある。前方後円墳の形とか、仁徳天皇陵の大きさとか、その程度のことは頭に入っている。だがワカタケル大王という名前については、まるで記憶がない。習ったのに忘れたのか、そもそも教わらなかったのか、今となっては確かめようがない。正直に言って、小学校から中学校にかけての私は、歴史に特別な興味を持っていなかった。 ただ、博物館にはよく行っていた。上野の国立博物館には、小さい頃から何度も連れて行かれている。行った記憶はあるのに、そこで何を見たのかはほとんど残っていない。子どもの目には、ガラスケースの中の土器も刀もただの古い物にしか映らなかったのだろう。 面白いもので、その同じ上野へ、今は自分の子どもを連れて行く立場になった。そして子どもの頃とは比べものにならないほど強い興味を持って、展示の一つひとつを見て回っている。説明の札を最後まで読む。順路を戻ってもう一度見る。子どもの方が先に飽きて、早く行こうと袖を引っ張ってくる。 かつて自分が引っ張っていた袖を、今は引っ張られている。 錆の下に千五百年間、誰にも読まれずに眠っていた文字がある日突然読めるようになる。歴史というのは固まったものではなく、あとから書き足されたり書き直されたりするものらしい。そして人間の興味というものも、どうやら何十年か遅れて読み出せるようになるものらしい。 九歳の私が読み逃した百十五文字の話を、発掘から解読まで一冊にまとめた本があります。九十六ページの薄い本なので、子どもと博物館へ出かける前の予習にもちょうどいい大きさです。 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群(シリーズ「遺跡を学ぶ」16)高橋一夫/新泉社。稲荷山古墳の発掘から、X線で浮かび上がった115文字の銘文、ワカタケル大王の時代までをたどる。星4.4(10件) Amazonで見る › 昭和六十三年九月十九日 その夜のこと それから十年。 昭和六十三年九月十九日の深夜、昭和天皇の容態が急変し、大量の吐血があった。 前の年の秋に開腹手術を受けられており、この九月に入ってからは発熱が続いていた。そして十九日の夜、事態は一段深いところへ落ちた。以後、日本中が「ご容態」という言葉とともに冬を迎えることになる。 テレビは定時のニュースのたびに、血圧、脈拍、体温、そして輸血量を読み上げるようになった。数字が報じられ、そのたびに国全体が息を詰めてそれを聞く。 そして「自粛」という言葉が、日本を覆った。 秋祭りが中止になり、運動会が取りやめになった。テレビCMから明るい調子のものが消え、催しが次々と見合わせになった。皇居前には記帳のための長い列ができた。誰が命じたわけでもないのに、日本中がそろって声を落とした。 あの秋を経験した人間にとって、「自粛」は単なる二文字ではない。空気そのものの名前である。 十九歳の一日 ——と、そこまで書いておいて申し訳ないのだが、その空気を私はほとんど覚えていない。 ...

September 19, 2026

9月18日 ── 世界初のカップ麺が生まれた日。カップヌードルと、腕に残った丸い跡|昭和の今日は何があった日?

昭和46年9月18日。この日、日清食品が「カップヌードル」を発売した。世界で初めての、カップに入った即席麺である。 私はそのとき二歳五か月だった。当然、発売のニュースなど知るはずもない。ただ、この日に生まれた食べものは、そのあと五十年以上にわたって私の人生のあちこちに顔を出すことになる。小学校の帰り道にも、部活で疲れ切った夜にも、浪人中の深夜のコンビニにも、そして今の仕事の合間にも。 九月十八日は、私にとって「気づいたときにはもうそこにあったもの」が始まった日だ。 百円のカップと、割られた袋麺 カップヌードルを生んだのは、日清食品の創業者・安藤百福である。昭和33年に「チキンラーメン」で即席麺というものを世に出した人物だ。 日清が語り継いでいる有名な逸話がある。安藤がアメリカに渡って袋麺の売り込みをしたとき、現地の担当者が袋を開けて麺を割り、紙コップに入れ、湯を注いでフォークで食べはじめた。日本のようにどんぶりと箸があるとは限らない。ならば器ごと売ってしまえばいい ― そこからカップ入りの即席麺という発想が生まれた、という話である。 しかし、実際に商品にするまでの道のりは長かった。麺をカップの中でどう支えるか。上から落とし込んでも麺は底まで沈んでしまい、湯の回りが悪くなる。日清が編み出したのは、麺を容器の中ほどで止めるという構造だった。麺の下に空間ができ、注がれた湯が上下から均等に回る。カップを逆さにして麺をかぶせる、という発想の転換だったといわれる。 容器は発泡スチロール。当時としてはまだ高級な素材で、熱い湯を注いでも手で持てて、そのまま器になる。ふたを開ければフォークが付いている。エビ、肉、卵 ― 具が最初から入っている。 価格は百円だった。当時の袋入り即席麺が三十円前後だったことを思えば、三倍以上である。「ラーメン一杯に百円も出すのか」という値段だった。 発売直後の売れ行きは、決してよくなかったという。転機になったのは同じ年の11月21日、銀座の歩行者天国での試食販売である。屋外で、湯さえあれば立ったまま食べられる。この売り方が当たり、若い客が長い列をつくった。 そして翌昭和47年2月、あの映像が茶の間に流れる。 三分間という長さ 子どもにとって、湯を注いでから三分というのは妙に長い時間だった。ふたを押さえていないと開いてしまうので、私は何かで重しをした記憶がある。時計の秒針を見ていたわけではない。ただ「そろそろかな」と思ったところで開ける。早すぎれば麺が固く、遅すぎれば伸びている。 今にして思えば、あれは子どもが自分ひとりで完結させられる、数少ない「調理」だった。火を使わない。包丁もいらない。湯さえあれば、自分の食べるものを自分で作れる。大人の手を借りずに腹を満たせるという小さな自立が、あの発泡スチロールのカップには入っていた。 大人の世界と、湯気の立つカップ 昭和47年2月、長野県の山荘に人質をとって立てこもった事件を、国じゅうがテレビで見ていた。極寒の現場で、機動隊員が湯気の立つカップを手にしている姿が映し出される。あれがカップヌードルだった。 この映像が全国に流れたことで、カップ麺は一気に知られる存在になったといわれている。売れ行きは跳ね上がった。 私が物心ついたころには、カップヌードルはもう「昔からあるもの」の顔をしていた。テレビの中の非常事態と結びついていたことなど、知る由もない。食べものというのは、そうやって世代ごとに違う記憶をまとっていくのだろう。私にとってのカップヌードルは、事件の記憶ではなく、日常の記憶である。 カップヌードルを生んだ安藤百福本人が、チキンラーメンからカップヌードルまでの道のりを書いた自伝です。事業に失敗して無一文になったあと、四十八歳でチキンラーメンを生んだ人の話なので、五十代で読むと身にしみます。 魔法のラーメン発明物語 私の履歴書(Kindle版)安藤百福/日本経済新聞出版。日経「私の履歴書」をもとにした自伝。裏庭の小屋でのチキンラーメン開発から、カップヌードル誕生まで。星4.0(99件) Amazonで見る › 深夜のレジの向こう側 昭和63年、私は浪人していた。予備校には通わず、セブン-イレブンの夜勤を週に四日入れながら、自分で受験勉強を進めていた。 コンビニの夜勤をしたことがある人なら分かると思うが、深夜の店内でいちばん存在感があるのはカップ麺の棚である。壁一面に積み上がって、客が来ない時間はただ静かにそこにある。 昭和46年に百円で売り出された「ぜいたくなラーメン」は、私が浪人をしていたころにはもう、深夜に誰でも買える当たり前の食べものになっていた。十七年で、ぜいたくは日常に変わる。 昭和51年9月18日、注射がひとつ消えた 同じ九月十八日に、もうひとつ書いておきたいことがある。 昭和51年9月18日、厚生省は全国の市町村に対し、種痘 ― 天然痘の予防接種 ― の定期接種を取りやめるよう通達した。日本では長く、法律に基づいて子どもに種痘を受けさせることになっていたが、接種による健康被害を訴える声が続き、国内で天然痘の患者が出なくなって久しかったこともあって、この日を境に「全員が受けるもの」ではなくなった。 天然痘そのものは、その後の昭和55年にWHOが根絶を宣言している。人類が根絶させた唯一の感染症である。 私の世代 ― 昭和44年生まれ ― は、種痘を受けた最後のあたりの世代にあたる。少しあとに生まれた者の腕には、もうあの跡がない。 ...

September 18, 2026

9月17日 ── 三振を「取らずに」投げた日。江夏豊が王貞治から奪った354個目|昭和の今日は何があった日?

九月十七日。昭和四十三年、一九六八年のこの日、甲子園球場で一人の投手が、三振を「取らない」ために投げ続けた。 阪神タイガースの江夏豊である。プロ二年目、まだ二十歳だった。 私が生まれるのは翌年の四月だから、この試合を私は知らない。それでも、中学で野球をしてマウンドに立った人間として、この日の江夏の話は、どうにも他人事とは思えないのである。 「354個目は王さんから取る」 当時のシーズン奪三振の日本記録は、西鉄の稲尾和久が持つ353個だった。江夏はこの年、その記録にあと少しというところまで迫っていた。 そして巨人戦を前に、江夏は「新記録の354個目は王さんから取る」と公言していた。 試合の途中、江夏は王貞治から三振を奪う。本人はこれで新記録だと思い込んだ。ところがベンチに戻ると、捕手の辻恭彦から、まだタイ記録だと指摘される。数え間違えていたのである。 普通なら、次の打者から三振を取れば済む話だ。だが江夏はそうしなかった。公言したとおり王さんから取るために、王の次の打席が回ってくるまで、ほかの打者から一つも三振を取らないと決めたのだ。 打者が一巡する間、ヒットは一本打たれたが、あとはすべて凡打に打ち取った。江夏が後年いちばん困ったと振り返っているのは、打つほうが本職ではない投手の高橋一三を、二球で追い込んでしまった場面だったという。三振を取りにいくより、三振させないほうが難しかったのである。 そして再び王が打席に入り、江夏は宣言どおり354個目の三振を奪った。しかもこの試合、延長十二回に江夏自身がサヨナラ打を放って決着をつけている。この年、江夏は最終的に401個の三振を積み上げた。 避けられていた王さん、向かっていった江夏 王さんの現役時代の姿は、私もはっきりと見ている。昭和五十二年、あの756号のホームランが飛び出したのは、ちょうど私が野球に夢中になり始めた頃だった。 ただ、江夏が王さんを「狙っていた」と聞いても、正直なところ、ぴんと来ない。私の記憶の中の王さんは、投手から狙われるどころか、むしろ避けられていた打者だったからだ。 そんな打者に、真正面から向かっていった投手がいた。それだけ江夏という投手が、傑出した存在だったのだろう。 江夏が節目の三振を王から取ることにこだわったのには、先輩の存在もあったらしい。阪神のエース村山実は、記録の節目の三振を長嶋茂雄から奪うことにこだわっていた。江夏もそれにならい、王を自分の相手と決めていたという。 江夏は生涯で王から57個の三振を奪っている。一方で、王に打たれたホームランも20本ある。避けずに勝負を挑み続けたからこそ、どちらの数字も残ったのだ。 もっとも、私の中の江夏豊は、阪神の縦縞ではない。広島カープの赤いユニフォームを着て、マウンドに立っている姿から始まっている。 その江夏豊さんが、自分の野球人生を語り残した一冊が今年出ました。王貞治とのライバル関係も、シーズン最多奪三振も、本人の言葉で読めます。 江夏の遺言江夏豊・松永多佳倫/小学館(2026年5月刊)。「日本プロ野球史上最高の左腕」が、王貞治との勝負や記録の裏側、球界での衝突まで語り尽くす。星4.3(39件) Amazonで見る › 全部の打者から三振を取るつもりだった 中学の野球部で、私はピッチャーをしていた。 当時の私は、全部の打者を三振に取ろうという思いで投げていた。もちろん、そううまく三振が取れるものではない。それでも、投手とはそういうものだと思い込んでいたところがあった。 そんな私からすると、江夏がやってのけたことは、ちょっと信じがたい。三振を取るつもりで投げても取れないのに、取らないように投げて、狙いどおりに打ち取っていく。それも中学生相手ではなく、プロの打者を相手に、である。 江夏の354個目が伝説として語られるのは、記録の数字そのものより、狙ったとおりに投げきったことにあるのだと思う。 江夏豊といえば、もうひとつの伝説があります。昭和54年の日本シリーズ第7戦、九回裏の「江夏の21球」。一球一球に何を狙っていたのかを描き切った短編が、この本に入っています。 スローカーブを、もう一球(角川文庫)山際淳司/KADOKAWA。「江夏の21球」を収めたスポーツ・ノンフィクションの金字塔。一瞬の勝負を切り取った8篇。星4.2(295件) Amazonで見る › 二十年後の同じ日、ソウルで 江夏の三振からちょうど二十年後、昭和六十三年の九月十七日。ソウルオリンピックが開幕した。 野球はまだ公開競技で、出場できるのはアマチュアだけだった。日本代表には、新日鉄堺の野茂英雄、トヨタ自動車の古田敦也、駒澤大学の野村謙二郎がいた。のちに三人とも名球会に入る選手である。日本は準決勝で開催国の韓国を破ったが、決勝ではアメリカの隻腕投手ジム・アボットに完投を許し、銀メダルに終わった。 この秋、私は十九歳の浪人生だった。 浪人中ではあったが、野球も、陸上の男子100メートルも、鈴木大地のバサロキックも、すべてテレビにかじりついて見ていた。100メートルで世界記録を出したベン・ジョンソンが、ドーピングで金メダルを取り消されたのも、この大会である。 開幕から二日後の九月十九日、昭和天皇が吐血し、日本は長い自粛の空気に包まれていく。今思えば、昭和という時代の最後の秋に、あのオリンピックはあった。 ソウルでアマチュアとして投げていた野茂英雄は、翌年近鉄に入り、のちに海を渡った。そして平成八年の九月十七日、ドジャースのユニフォームを着て、ロッキーズ相手にノーヒット・ノーランを達成している。九月十七日という日付には、なぜか投手の話が重なっている。 ...

September 17, 2026

9月16日 ── 物差しに「尺」が戻ってきた日。職人と永六輔が守った目盛り|昭和の今日は何があった日?

九月十六日。昭和五十二年、一九七七年のこの日、日本の物差しに「尺」が戻ってきた。 こう書いても、若い人にはぴんと来ないかもしれない。尺の目盛りが入った物差しを作ったり売ったりすることが、それまで法律で禁じられていた、という話である。私自身、このことを知ったのはずっと大人になってからだ。 昭和五十二年の私は八歳、小学二年生。物差しといえば、ランドセルに刺さっていたあの一本だった。 ランドセルに刺さった竹の物差し 私の物差しは竹製だった。筆箱には入らないから、ランドセルの横に刺して通っていた。 友だちの中には、見事に反った物差しを持っているやつもいた。まっすぐな線を引くための道具が弓なりになっているのだから、あれで何を測っていたのだろうと今でも可笑しくなる。 不思議なのは、その竹の物差しが、私が二十歳を過ぎても家に残っていたことだ。どういうわけか、捨てなかったのである。特別に大事にしていた覚えもない。ただ、なんとなく捨てられないまま、引き出しのどこかに居続けた。 あとから知って面白いと思ったのは、学校で使っていた三十センチという長さが、昔の一尺とほとんど同じだということだ。曲尺の一尺はおよそ三十・三センチ。私たちは知らないうちに、ほぼ一尺の物差しを毎日持ち歩いていたことになる。 犬小屋を五回作った父 学校の物差しはセンチだったが、家の中には尺の世界があった。持ち込んでいたのは父である。 中川の土手のそばの家に住んでいた頃、父は日曜大工に精を出していた。まあ、人に頼むとお金がかかる、というのがいちばんの理由だったのだろう。 私の記憶にある限り、一匹の犬のために犬小屋を五回は作った。作りかえるたびに出来がどんどん良くなっていくので、犬のほうも戸惑っていたかもしれない。 学校から帰ってくると、朝にはあったはずの部屋の壁がぶち抜かれて、なくなっていたこともある。極めつけは風呂だ。父は風呂まで自分で作ってしまった。たしか三か月くらいかかったのではないかと思う。 そんな父の口からは、「尺」や「寸」という言葉がしょっちゅう出てきた。子どもの私は意味もよくわからないまま、それを家の中の言葉として聞いていた。 法律に「待った」をかけた職人たち 日本では戦後、メートル法への統一が進められ、昭和三十四年からは尺目盛りの物差しの製造も、商取引での使用も禁じられた。 困ったのは、尺で仕事をしてきた人たちである。木造の家は尺を基準に建てられているし、着物の仕立ては「鯨尺」という別の物差しで測る。鯨尺の一尺は曲尺の一尺二寸五分、およそ三十八センチ。センチに置き換えればいいという話では済まない。現場では、闇で作られた粗悪な物差しが出回って混乱したり、職人が書類送検されたりすることまで起きた。 大工さんの組合である全建総連は「日本の建物は尺が基本だ」と訴え続けた。そこに呼応したのが、タレントで作家の永六輔さんである。使いたい人、ないと困る人がいるのに法律で禁じるのは無茶だ、とラジオやテレビで繰り返し訴えた。 そして昭和五十二年九月十六日の午後。通産大臣の諮問機関である計量行政審議会が九回目の専門部会を開き、曲尺と鯨尺の物差しの製造を認めるという最終結論をまとめた。正確には「尺に相当する目盛りが付いた、メートル法の物差し」という扱いである。いかにもお役所らしい言い回しだが、要するに職人の道具箱に、十八年ぶりに堂々と尺が戻ってきたわけだ。 正直に書くと、この尺貫法の一件を、子どもの私はまったく知らなかった。永六輔さんのことはテレビで見て知っていた。「せき・こえ・のどに浅田飴」のコマーシャルの人である。あの人が「上を向いて歩こう」の作詞家だということも、実は今回調べて初めて知った。浅田飴のおじさんが、職人の物差しのために国に物申していた。八歳の私が見ていたテレビの向こうには、そういう大人の世界があったのだ。 その永六輔さんが、全国の職人たちの言葉を集めた一冊があります。「尺」を守った人たちが、どんな気持ちで道具を握っていたのか。短い言葉の中に、それがそのまま入っています。 職人(岩波新書)永六輔/岩波書店。全国の職人たちの語録と、手仕事をめぐるエッセイ。『大往生』に続く永六輔の岩波新書。星4.3(93件) Amazonで見る › いまも現場では「尺」が生きている 五十代になったいま、私は路線バスの運転士をしながら、中古の戸建てを貸す仕事もしている。 入居者が退去したあとには、壁のクロスを張り替える。そのとき職人さんと話をすると、「尺」や「間」といった言葉がごく普通に出てくる。図面にはミリで数字が書いてあっても、現場の会話は昔ながらの単位で進んでいく。木造の家はおおむね三尺、約九十一センチを一つの単位として組み立てられているから、そのほうが話が早いのだ。 職人さんの口から「尺」という言葉を聞くと、ふと父の声を思い出す。壁をぶち抜き、風呂を作っていた父も、きっと同じ言葉で家を測っていた。 もし昭和五十二年に審議会が結論を出していなければ、職人さんたちはいまも、道具箱の奥にこっそり尺の物差しを隠していたのかもしれない。 昭和五十二年の結論でいう「尺相当目盛」の曲尺は、いまも普通に買えます。表も裏も尺の目盛り。手に持つと、父が日曜日に使っていた道具の重さを思い出します。 シンワ測定 曲尺 平ぴた シルバー 1尺 表裏尺相当目盛(10620)シンワ測定。ステンレス製の曲尺(さしがね)。表裏ともに尺相当目盛。DIYや大工仕事の定番。星4.4(766件) Amazonで見る › 昭和の終わり、今度は世界が物差しをそろえた ちなみに、それからちょうど十年後の昭和六十二年、一九八七年の九月十六日。カナダのモントリオールで、オゾン層を壊すフロンガスなどを規制する国際的な取り決め、モントリオール議定書が採択された。日本を含む二十四か国が調印し、フロンの消費量を段階的に減らしていくことが決まっている。 十年前には、日本の職人が「国の物差しを押しつけるな」と声を上げた。十年後には、世界中の国が同じ物差しで決めごとをする時代になった。どちらも九月十六日の出来事というのが、なんとも面白い。 この年の私は高校三年生。七月二十三日、神宮第二球場での最後の試合に負けて、野球が終わった秋である。 議定書が採択されたこと自体は、当時の私は知らなかったと思う。ただ、その後しばらくして、フロンガスを使ったスプレー缶が店から消えていくという話や、「代替フロン」という言葉を、よく耳にするようになった記憶がある。あれが、この日の決めごとの先にあった出来事だったのだろう。 自分の中の物差し 「物差し」という言葉を考えていると、それは長さを測る道具だけではなく、人が物事を判断するときの基準そのものなのだと思う。 ...

September 16, 2026

9月15日は、必ず休みだった ― 敬老の日とシルバーシートの話|昭和の今日は何があった日?

九月のカレンダーをめくったとき、十五日のところに赤い数字が並んでいる。あの光景を当たり前だと思っていた時期が、私には確かにあった。 いまの敬老の日は九月の第三月曜日だ。年によって十五日だったり、二十日だったりする。ハッピーマンデーというやつで、平成十五年から動くようになった。だから若い人にとって「九月十五日は敬老の日」という感覚はもう無いだろう。 けれど昭和に子ども時代を過ごした人間にとって、九月十五日は動かない日だった。そして今日は、その動かない日が生まれた日であり、さらにその日に合わせて、日本の電車にある座席が初めて設けられた日でもある。 「としよりの日」から「敬老の日」へ 敬老の日のはじまりは、意外なほど小さな場所にある。 昭和二十二年、兵庫県多可郡野間谷村という村で、村長が「としよりの日」という行事を始めた。お年寄りを大切にし、その知恵を借りて村づくりをしよう、という趣旨だったという。これが昭和二十五年に兵庫県全体に広がり、昭和二十六年からは全国で行われるようになった。 ただ「としより」という呼び方はどうにも響きがよくない、という声が出た。それで昭和三十八年から「老人の日」と改められる。そして昭和四十一年、つまり一九六六年の九月十五日から、これが国民の祝日「敬老の日」になった。 一つの村の行事が、二十年かけて日本中の休日になったわけである。 この昭和四十一年の祝日法改正では、敬老の日と同時に「体育の日」と「建国記念の日」も加わっている。高度経済成長のまっただ中で、働く方ばかりを見ていた国が、休む日を三つ増やした年である。 私が生まれたのは昭和四十四年の四月だから、物心ついたときには、九月十五日はもう動かない祝日になっていた。 正直に書くと、小学校に上がってからは「敬老の日」という意識はあまりなかったように思う。休み、ラッキー、くらいの感じである。九月は二学期が始まってすぐの、いちばん気持ちが切り替わらない月だ。その中盤にぽつんと置かれた一日の休みは、それだけでありがたかった。 ただ、保育園のときは違った。おじいちゃん、おばあちゃんの顔を描いて壁に貼るようなことをしていて、敬老の日というものをちゃんと意識させてくれていた。小学校で抜け落ちたぶん、保育園の先生たちの仕事はきちんとしていたことになる。 九月十五日に、親に一冊贈るならこの本です。九十歳を過ぎた作家が、世の中の「めでたい」に真正面から文句をつけている。読むと、年を取ることが少しだけ怖くなくなります。 増補版 九十歳。何がめでたい(小学館文庫)佐藤愛子/小学館。90歳を超えた作家の痛快エッセイ。ミリオンセラーの増補文庫版。星4.2(668件) Amazonで見る › 敬老の日に生まれた「シルバーシート」 そして昭和四十八年、一九七三年の九月十五日。 この日、国鉄の中央線快速と特別快速の電車に、高齢者のための優先的な座席が初めて設けられた。あわせて伊豆箱根鉄道の駿豆線と大雄山線にも導入されている。日本の鉄道における優先席の出発点である。 わざわざこの日を選んだのは、もちろん敬老の日だったからだ。祝日にぶつけて新しい試みを始める。いかにも昭和の役所らしい段取りである。 名前は「シルバーシート」といった。 この名前の由来が、私は昔から好きだ。高齢者を敬ってシルバーと名づけた——のではない。単に、そのとき新幹線用の座席生地が余っていて、それがシルバーグレーだったから、その布を張った。だから「シルバーシート」。それだけの話なのである。 つまり順序が逆で、「シルバー=高齢者」という日本語の使い方は、この座席の名前から広がっていった。シルバー人材センターも、シルバー割引も、もとをたどれば余り布の色にたどり着く。役所や鉄道会社の都合から生まれた言葉が、五十年かけて日常語になった。昭和というのは、そういうことが平気で起きる時代だった。 シルバーシートはその後、国鉄にならって私鉄にも広がっていく。そして平成九年、対象が高齢者だけでなく、けが人や妊婦、乳幼児連れ、体調の悪い人にも広がるのに合わせて、名称は「優先席」に改められた。 私はといえば、子どもながらに、あそこは「座ってはいけない場所」だと認識していた。誰かにそう教わったのか、空気で覚えたのかは思い出せない。ただ、はっきりと線が引かれている場所だという感覚は最初からあった。 そして五十七歳になった今でも、それは変わっていない。空いていても、反射的に「座ってはいけない場所」だと思ってしまう。もはや、私自身がそろそろ座る側に回ってもおかしくない年齢だというのに、である。 シルバーシートが生まれた中央線をはじめ、東京の鉄道がどう延び、どうつながってきたのかを、古い地図で追っていく一冊です。自分が毎日乗っていた線路の、生まれた順番がわかります。 地図で解明! 東京の鉄道発達史今尾恵介/JTBパブリッシング。明治から現代まで、新旧の地形図で東京の鉄道網の成り立ちをたどる。星4.5(31件) Amazonで見る › 譲れない、という正直な話 ついでにもう一つ白状しておく。 私は、席を譲るという行為が何となく照れくさくて、どうにもやりにくいと思っている人間だ。だから、そういう場面が来ないように、基本的には最初から座席に座らない。 情けない話だが、同じ人はそれなりにいるはずだ。譲れないのは親切心がないからではない。声をかけるタイミングがわからない。相手を「お年寄り」と決めつけていいのか迷う。断られたらどうしよう、と思う。そうやってもたついているうちに、駅に着いてしまう。 昭和四十八年に国鉄がやったのは、その面倒を先回りして片づけてしまうことだった。「この席は最初からそういう席です」と決めてしまえば、座る前に話がついている。日本人らしい解決の仕方だと思う。 いま、運転席から見えるもの 私はいま、路線バスの運転士をしている。ハンドルを握っていると、優先席というものを、昔とは少し違った目で見るようになった。 優先席は、単に「ここは高齢者が座る場所ですよ」という表示ではない。身体の不自由な方、妊娠している方、けがをしている方、小さな子どもを連れた方など、立っていることが大変な人に、少しでも安心して乗ってもらうための場所だ。 ...

September 15, 2026

9月14日 ── 緑のインクで、さよならを書く|昭和の今日は何があった日?

今日は9月14日。 バレンタインといえば2月14日である。ところがこの国には、もうひとつのバレンタインがあるのだという。 セプテンバーバレンタイン。 9月14日。2月14日のちょうど半年後にあたるこの日は、女性のほうから別れを切り出してもよい日、ということになっているらしい。 告白の日の半年後に、別れの日を置く。ずいぶん皮肉の効いた発想である。 正直に書いておくと、私はこの言葉を、今回はじめて知った。昭和44年に生まれて、昭和を丸ごと子どもとして過ごしてきたつもりでいたが、こういう抜け落ちがある。当時、学校で話されていたのだろうか。私のまわりでは一度も聞かなかった。 発祥は、深夜ラジオだった セプテンバーバレンタインの由来として広く語られているのが、TBSラジオで1967年(昭和42年)から1982年(昭和57年)まで放送されていた深夜番組『パック・イン・ミュージック』である。 愛川欽也さんや林美雄アナウンサーらがパーソナリティを務め、1970年代の若者から絶大な支持を集めた番組だった。12月25日のクリスマスに対して8月25日を「サマークリスマス」と呼ぶ習慣も、この番組から生まれたとされる。半年ずらして遊ぶのが、この番組の癖だったのかもしれない。 ただし、面白いのはここからだ。番組内でセプテンバーバレンタインについていつ、どんな文脈で言及されたのかは、はっきりしていないのである。発祥と言われているのに、その瞬間の記録がない。誰かが放送で言ったことが、聴いていた人たちの口を通って広まり、気がついたら「そういう日」として定着していた。 出所不明のまま残ってしまった習慣、というのが、いかにも深夜放送らしい。テレビと違って、ラジオは記録に残らないものだった。録音しなければ消えてしまう。それでも聴いていた人の中には、確かに残った。 関連して、シンガーソングライターの佐々木幸男さんが**1978年(昭和53年)**に『セプテンバー・バレンタイン』というシングルを発表している。別れをうたった曲である。記念日が先か歌が先か、それすらもよく分からないというのが、この日の正体だ。 「サマークリスマス」を生んだ林美雄さんと、『パック・イン・ミュージック』の時代を丸ごと描いたノンフィクションがあります。深夜のラジオが、なぜあれほど若者の居場所になっていたのか。聴いていなかった私にも、その空気が伝わってきました。 1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代(集英社文庫)柳澤健/集英社。TBSラジオの深夜放送と、そこに集まった若者たちの記録。「サマークリスマス」の誕生まで。星4.5(99件) Amazonで見る › 紫、白、緑 セプテンバーバレンタインには、細かい作法があるとされている。 別れたい女性は、紫色のものを身につけ、白いマニキュアを塗り、緑色のインクで書いた別れの手紙を、相手に直接手渡す。 いま読むと、ずいぶん芝居がかっている。けれど、ここに昭和が詰まっているとも思う。 まず、手紙であること。そして、直接手渡すこと。 昭和の別れは、逃げられなかった。電話をするか、手紙を書くか、会って言うか。そのどれもが、相手の顔なり声なりを引き受けることを意味していた。既読をつけずに放置する、という選択肢がない時代である。 手紙といえば、小学校から高校まで、何回かは女子から手紙をもらったことがある。下駄箱に入っていた、という経験もある。中身がどうだったかはさておき、思い返すと、手紙というのはなんかいいものだ。誰かが自分のために字を書いて、それを人に見つからないように運んだ、という事実だけが残る。 緑のインクで別れの手紙を書いた人が、実際にどれだけいたのかは分からない。たぶん、ほとんどいなかっただろう。それでも「そういう作法がある」という話だけがラジオを通じて全国の若者に共有されていた。そこが、この記念日のいちばん面白いところだと思う。 深夜ラジオとの、微妙な距離 では私自身が深夜ラジオの人間だったかというと、これがそうでもない。 クラスの友達が聴いていて、じゃあ自分も、と試しに聴いてみた。その程度である。番組名は、たぶん『オールナイトニッポン』だったと思う。そこからのめり込んだ記憶はない。かといって、まったく聴かなかったわけでもない。そういう微妙な距離感のまま、深夜放送の時代を通り過ぎた。 ちなみに恋愛の話のほうは、日常的にしていた。野球部だからそういう話をしない、ということはまったくなかった。誰が誰を気にしているという話は、いつでも教室にあった。もっとも、私個人の恋が実ったことは一度もなかったのだが。 深夜の放送と本当に長く付き合ったのは、むしろ大人になりかけの頃だ。浪人中、予備校には通わず、セブン-イレブンの夜勤を週4日やりながら自分で受験勉強をしていた。あの店内には有線放送が流れていた。お客さんが途切れたとき、本来店に流すべき曲とはまったく違うジャンルにチャンネルを変えて、ひとりで楽しんでいた。 いま思えば、あれが私なりの深夜放送だったのかもしれない。誰も聴いていない時間に、自分の好きな音だけが流れている。深夜ラジオを布団の中で聴いていた同級生たちと、やっていたことはそう変わらない。 布団の中で、こっそりイヤホンを耳に入れる。あの聴き方は、いまのポケットラジオでもそのままできます。単3電池で動いて、イヤホンも付いています。停電のときの備えにもなります。 パナソニック FM/AM 2バンドラジオ RF-P155(イヤホン付き・単3電池式)Panasonic。手のひらサイズのポケットラジオ。モノラルイヤホン・ハンドストラップ付き。星4.1(50件) Amazonで見る › 同じ日、広島市民球場では さて、9月14日にはもうひとつ、私の心に引っかかる出来事がある。 1968年(昭和43年)9月14日。広島市民球場、対大洋ホエールズ戦。 広島の外木場義郎投手が、完全試合を達成した。プロ野球史上10人目。一人の走者も出さず、27人を27人のまま帰した試合である。 しかも、この試合の外木場は尋常ではなかった。16奪三振。当時のセ・リーグタイ記録であり、2022年にロッテの佐々木朗希投手が19奪三振を記録するまで、完全試合における最多奪三振記録として残り続けた数字だ。9回は3人とも三振で締めている。 外木場という投手には、もうひとつ有名な逸話がある。1965年(昭和40年)、プロ初勝利をいきなりノーヒットノーランで飾った。そのとき将来性を危ぶむようなことを言った記者に対して、「なんなら、もう一回やりましょうか」と言い放ったという。そして3年後、その言葉どおりに2度目を——それも完全試合という形で——やってのけた。生涯3度のノーヒットノーラン、うち1度が完全試合。この記録を持つ投手は、いまだに外木場義郎ただ一人である。 正直に書くと、私は名前を知っていただけだった。カープの昔の投手、完全試合をやった人。それ以上のことは、今回調べるまで知らなかった。こんなにすごい投手だったのかというのが、まずの感想である。 ...

September 14, 2026

九月十三日が三度あった ― ちばあきお、スーパーマリオ、南海ホークス|昭和の今日は何があった日?

9月13日という日付を、昭和40年から64年までの範囲で洗っていたら、妙なことに気づいた。 三つの出来事が、私の15歳、16歳、19歳に、きれいに並んで刺さっていたのだ。中学3年、高校1年、そして浪人。要するに、子どもが子どもでなくなっていく数年間である。 しかも三つとも、どこかで「終わり」の匂いがする。今日はこの三つを、順番に並べてみたい。 昭和59年9月13日 ― 墨谷二中を描いた人 昭和59年、1984年9月13日。漫画家のちばあきおが亡くなった。41歳だった。晩年は病を抱えていたと伝えられ、最期は自らの手によるものだった。そのことについては、これ以上は書かない。 代表作は『キャプテン』と『プレイボール』。説明はいらないだろう。墨谷二中という、どこにでもありそうな公立中学の野球部の話だ。谷口、丸井、イガラシ、近藤と、四代のキャプテンが順に主人公になっていく。その高校編が『プレイボール』である。二作合わせて昭和51年度の小学館漫画賞を受けている。兄は『あしたのジョー』のちばてつやだ。 あの漫画の変わっているところは、天才がひとりも出てこないことだった。 谷口タカオは、うまくない。名門・青葉学院から転校してきたという経歴だけで「すごいやつが来た」と勘違いされ、その誤解に押しつぶされそうになりながら、誰も見ていないところで走り込む。血を吐くような特訓の場面があるわけでもない。ただ、黙って練習している。そういう漫画だった。 絶筆になった『チャンプ』は連載の途中で止まり、最終回はチーフアシスタントが下絵をもとに仕上げて掲載された。 私はそのとき中学3年。墨谷二中の彼らと、ちょうど同じ学年だった。 野球部で、ピッチャーとショートをやっていた。公立中学だが、練習はかなりハードで、伝統的にわりと強い学校だったと思う。上下関係ははっきりしていて、先輩からの理不尽な行為も受けた。先生も日常的にケツバットやビンタをしていた。いまなら完全にアウトだが、そういう時代だった。 『キャプテン』は中学1年から単行本で真剣に読んでいた。テレビアニメも見た。そして、思いっきり重ねていた。 葛飾には修徳という強豪の私立中学がある。私の中では、自分の学校が墨谷二中で、修徳が青葉学院だった。あの漫画の構図が、そのまま自分の住んでいる区の地図の上に乗っていたわけである。公立が私立に挑む話として読んでいたのだから、当然といえば当然だ。 だから訃報も知っていた。覚えているのは、悲しさよりも先に「本当に?」という気持ちが来たことだ。谷口たちを描いている人が、この世からいなくなるという実感が、15歳の頭では追いつかなかったのだと思う。 中学1年の私が真剣に読んでいた、あの一巻目です。青葉学院から来た谷口が、誤解のまま墨谷二中の野球部に入るところから始まります。いま読み返しても、派手な場面はほとんどありません。だから読み返せるのだと思います。 キャプテン 1(集英社文庫 コミック版)ちばあきお/集英社。墨谷二中野球部、四代のキャプテンの物語。昭和51年度 小学館漫画賞。文庫版全15巻。星4.4(320件) Amazonで見る › 昭和60年9月13日 ― ブームの外にいた高校1年生 その一年後、昭和60年、1985年9月13日。任天堂がファミリーコンピュータ用ソフト『スーパーマリオブラザーズ』を発売した。 国内だけで約681万本。ファミコンソフトの売上記録は、いまだにこれが1位だという。世界では4000万本を超えた。 それまでの家庭用ゲームは、一画面の中で完結するものが多かった。この作品は違った。右へ、右へと画面が流れていく。ジャンプして敵を踏み、ブロックを叩き、土管にもぐる。操作は十字キーと二つのボタンだけ。誰でもすぐ動かせるのに、どこまでも先がある。 ファミコン本体が店頭から消え、入荷の噂が立てば行列ができた。攻略本はその年のベストセラーになった。 私は16歳、高校1年だった。 そして、何の記憶もない。 家にファミコンはなかった。野球に夢中で、そもそもファミコンに興味がわかなかったのである。日本中の子どもが土管にもぐっていたその秋、私はグラウンドにいた。ブームというのは、外にいる人間からは案外よく見えないものだ。 いま思えば、あれは子どもの遊び方が変わる分かれ目だったのだろう。中川の土手や線路沿いを走り回って日が暮れるまで遊ぶ、という時代が終わりかけていた。ただ、その分かれ目を私は知らずに通り過ぎた。理由は単純で、ボールを追いかけるほうが面白かったからだ。 昭和63年9月13日 ― ホークスが大阪を出ていく さらに三年後、昭和63年、1988年9月13日。ダイエーの中内㓛社長が、南海からホークスを買収する意向を明らかにした。 この年、南海ホークスは球団創設50周年を迎えていた。4月23日、「おれの目の黒いうちはホークスは売らん」と公言していた川勝傳オーナーが亡くなる。それから半年も経たないうちに、身売りが表に出た。本拠地は大阪球場から福岡へ移ることになる。 結果として、この昭和63年が南海ホークスとしての最後のシーズンになった。皮肉なことに、この年の南海には見るべきものがあった。門田博光が40歳で44本塁打、125打点。本塁打王と打点王の二冠に加えてMVPまで獲っている。チームは5位に終わったが、あの打球の音だけは最後まで鳴っていた。 南海としての本拠地最終戦、杉浦忠監督は「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、行ってまいります」とあいさつした。門田はその後、九州行きを拒んでオリックスへ移籍している。 この同じ秋、10月には阪急ブレーブスもオリエントリースへ売却された。パ・リーグの老舗が二つ、ひと月のあいだに看板を下ろしたことになる。 私は19歳。浪人中だった。 予備校には通っていない。セブン-イレブンの夜勤を週に4日入れながら、自分で受験勉強を進めていた。情報源はテレビと、店で売っているスポーツ新聞である。深夜のレジで、売り物の一面をちらりと見る。そういう形でこのニュースを知った。 ...

September 13, 2026