9月19日 ── 錆の下から現れた百十五文字と、昭和が終わりはじめた夜|昭和の今日は何があった日?
九月十九日という日付には、ちょうど十年をへだてて、ふたつの出来事が並んでいる。 ひとつは、千五百年前の歴史が新しく読み直された日。 もうひとつは、自分が生きている時代そのものが、終わりへ向かって動きはじめた日。 九歳の私と、十九歳の私。どちらも、その日付の上に確かに立っていた。 そして先に白状しておくと、私はそのどちらも覚えていない。 昭和五十三年九月十九日 錆の下の百十五文字 埼玉県行田市に、埼玉(さきたま)古墳群と呼ばれる一帯がある。その中の稲荷山古墳という前方後円墳から、昭和四十三年の発掘調査で一本の鉄剣が出土した。長さは七十三センチあまり。ただし全体が分厚い錆に覆われていて、そこに文字があるとは誰も気づかなかった。 そのまま十年が過ぎた。昭和五十三年、保存処理のために鉄剣は奈良へ送られる。錆の進行を止めるための、いわば修理の作業である。その過程でX線撮影が行われ、錆の下に金色の線が走っていることがわかった。金象嵌——鉄の表面に溝を彫り、そこに金を埋め込む技法である。 読み取られた文字は、百十五字あった。しかも、そのすべてが判読できた。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては、文字数において群を抜いている。九月十九日、その解読の成功が明らかにされた。 中身がまた尋常ではなかった。ヲワケという人物が、自分の祖先をオホヒコから八代にわたって書き連ね、代々「杖刀人(じょうとうじん)の長」——大王の宮を警護する武官の長であったと記す。そして自分が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の統治を助けた功績を記念して、辛亥の年にこの剣を作らせた、と結んでいる。辛亥の年は西暦四七一年とみられている。 ワカタケル大王は、雄略天皇にあたると考えられている。 そして重要なのはここからで、熊本県の江田船山古墳から出ていた銀象嵌の大刀にも、欠けた文字の並びから同じ大王の名が刻まれていたらしいことになった。九州と、関東。千キロ以上離れた二つの土地の墓に、同じ大王の名を刻んだ刀が眠っていた。 五世紀後半には、すでに大王の力が九州から東国まで届いていた——古代史の姿が、この日を境に書き換わったのである。 九歳の私には、届いていなかった 昭和五十三年の秋、私は小学三年生だった。 この発見を伝えるニュースも新聞も、まったく覚えていない。「百年に一度の発見」と言われたほどの騒ぎだったのに、九歳の私の耳にはひとかけらも残らなかった。 古墳そのものは習った記憶がある。前方後円墳の形とか、仁徳天皇陵の大きさとか、その程度のことは頭に入っている。だがワカタケル大王という名前については、まるで記憶がない。習ったのに忘れたのか、そもそも教わらなかったのか、今となっては確かめようがない。正直に言って、小学校から中学校にかけての私は、歴史に特別な興味を持っていなかった。 ただ、博物館にはよく行っていた。上野の国立博物館には、小さい頃から何度も連れて行かれている。行った記憶はあるのに、そこで何を見たのかはほとんど残っていない。子どもの目には、ガラスケースの中の土器も刀もただの古い物にしか映らなかったのだろう。 面白いもので、その同じ上野へ、今は自分の子どもを連れて行く立場になった。そして子どもの頃とは比べものにならないほど強い興味を持って、展示の一つひとつを見て回っている。説明の札を最後まで読む。順路を戻ってもう一度見る。子どもの方が先に飽きて、早く行こうと袖を引っ張ってくる。 かつて自分が引っ張っていた袖を、今は引っ張られている。 錆の下に千五百年間、誰にも読まれずに眠っていた文字がある日突然読めるようになる。歴史というのは固まったものではなく、あとから書き足されたり書き直されたりするものらしい。そして人間の興味というものも、どうやら何十年か遅れて読み出せるようになるものらしい。 九歳の私が読み逃した百十五文字の話を、発掘から解読まで一冊にまとめた本があります。九十六ページの薄い本なので、子どもと博物館へ出かける前の予習にもちょうどいい大きさです。 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群(シリーズ「遺跡を学ぶ」16)高橋一夫/新泉社。稲荷山古墳の発掘から、X線で浮かび上がった115文字の銘文、ワカタケル大王の時代までをたどる。星4.4(10件) Amazonで見る › 昭和六十三年九月十九日 その夜のこと それから十年。 昭和六十三年九月十九日の深夜、昭和天皇の容態が急変し、大量の吐血があった。 前の年の秋に開腹手術を受けられており、この九月に入ってからは発熱が続いていた。そして十九日の夜、事態は一段深いところへ落ちた。以後、日本中が「ご容態」という言葉とともに冬を迎えることになる。 テレビは定時のニュースのたびに、血圧、脈拍、体温、そして輸血量を読み上げるようになった。数字が報じられ、そのたびに国全体が息を詰めてそれを聞く。 そして「自粛」という言葉が、日本を覆った。 秋祭りが中止になり、運動会が取りやめになった。テレビCMから明るい調子のものが消え、催しが次々と見合わせになった。皇居前には記帳のための長い列ができた。誰が命じたわけでもないのに、日本中がそろって声を落とした。 あの秋を経験した人間にとって、「自粛」は単なる二文字ではない。空気そのものの名前である。 十九歳の一日 ——と、そこまで書いておいて申し訳ないのだが、その空気を私はほとんど覚えていない。 ...