9月19日 ── 錆の下から現れた百十五文字と、昭和が終わりはじめた夜|昭和の今日は何があった日?

九月十九日という日付には、ちょうど十年をへだてて、ふたつの出来事が並んでいる。 ひとつは、千五百年前の歴史が新しく読み直された日。 もうひとつは、自分が生きている時代そのものが、終わりへ向かって動きはじめた日。 九歳の私と、十九歳の私。どちらも、その日付の上に確かに立っていた。 そして先に白状しておくと、私はそのどちらも覚えていない。 昭和五十三年九月十九日 錆の下の百十五文字 埼玉県行田市に、埼玉(さきたま)古墳群と呼ばれる一帯がある。その中の稲荷山古墳という前方後円墳から、昭和四十三年の発掘調査で一本の鉄剣が出土した。長さは七十三センチあまり。ただし全体が分厚い錆に覆われていて、そこに文字があるとは誰も気づかなかった。 そのまま十年が過ぎた。昭和五十三年、保存処理のために鉄剣は奈良へ送られる。錆の進行を止めるための、いわば修理の作業である。その過程でX線撮影が行われ、錆の下に金色の線が走っていることがわかった。金象嵌——鉄の表面に溝を彫り、そこに金を埋め込む技法である。 読み取られた文字は、百十五字あった。しかも、そのすべてが判読できた。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては、文字数において群を抜いている。九月十九日、その解読の成功が明らかにされた。 中身がまた尋常ではなかった。ヲワケという人物が、自分の祖先をオホヒコから八代にわたって書き連ね、代々「杖刀人(じょうとうじん)の長」——大王の宮を警護する武官の長であったと記す。そして自分が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の統治を助けた功績を記念して、辛亥の年にこの剣を作らせた、と結んでいる。辛亥の年は西暦四七一年とみられている。 ワカタケル大王は、雄略天皇にあたると考えられている。 そして重要なのはここからで、熊本県の江田船山古墳から出ていた銀象嵌の大刀にも、欠けた文字の並びから同じ大王の名が刻まれていたらしいことになった。九州と、関東。千キロ以上離れた二つの土地の墓に、同じ大王の名を刻んだ刀が眠っていた。 五世紀後半には、すでに大王の力が九州から東国まで届いていた——古代史の姿が、この日を境に書き換わったのである。 九歳の私には、届いていなかった 昭和五十三年の秋、私は小学三年生だった。 この発見を伝えるニュースも新聞も、まったく覚えていない。「百年に一度の発見」と言われたほどの騒ぎだったのに、九歳の私の耳にはひとかけらも残らなかった。 古墳そのものは習った記憶がある。前方後円墳の形とか、仁徳天皇陵の大きさとか、その程度のことは頭に入っている。だがワカタケル大王という名前については、まるで記憶がない。習ったのに忘れたのか、そもそも教わらなかったのか、今となっては確かめようがない。正直に言って、小学校から中学校にかけての私は、歴史に特別な興味を持っていなかった。 ただ、博物館にはよく行っていた。上野の国立博物館には、小さい頃から何度も連れて行かれている。行った記憶はあるのに、そこで何を見たのかはほとんど残っていない。子どもの目には、ガラスケースの中の土器も刀もただの古い物にしか映らなかったのだろう。 面白いもので、その同じ上野へ、今は自分の子どもを連れて行く立場になった。そして子どもの頃とは比べものにならないほど強い興味を持って、展示の一つひとつを見て回っている。説明の札を最後まで読む。順路を戻ってもう一度見る。子どもの方が先に飽きて、早く行こうと袖を引っ張ってくる。 かつて自分が引っ張っていた袖を、今は引っ張られている。 錆の下に千五百年間、誰にも読まれずに眠っていた文字がある日突然読めるようになる。歴史というのは固まったものではなく、あとから書き足されたり書き直されたりするものらしい。そして人間の興味というものも、どうやら何十年か遅れて読み出せるようになるものらしい。 九歳の私が読み逃した百十五文字の話を、発掘から解読まで一冊にまとめた本があります。九十六ページの薄い本なので、子どもと博物館へ出かける前の予習にもちょうどいい大きさです。 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群(シリーズ「遺跡を学ぶ」16)高橋一夫/新泉社。稲荷山古墳の発掘から、X線で浮かび上がった115文字の銘文、ワカタケル大王の時代までをたどる。星4.4(10件) Amazonで見る › 昭和六十三年九月十九日 その夜のこと それから十年。 昭和六十三年九月十九日の深夜、昭和天皇の容態が急変し、大量の吐血があった。 前の年の秋に開腹手術を受けられており、この九月に入ってからは発熱が続いていた。そして十九日の夜、事態は一段深いところへ落ちた。以後、日本中が「ご容態」という言葉とともに冬を迎えることになる。 テレビは定時のニュースのたびに、血圧、脈拍、体温、そして輸血量を読み上げるようになった。数字が報じられ、そのたびに国全体が息を詰めてそれを聞く。 そして「自粛」という言葉が、日本を覆った。 秋祭りが中止になり、運動会が取りやめになった。テレビCMから明るい調子のものが消え、催しが次々と見合わせになった。皇居前には記帳のための長い列ができた。誰が命じたわけでもないのに、日本中がそろって声を落とした。 あの秋を経験した人間にとって、「自粛」は単なる二文字ではない。空気そのものの名前である。 十九歳の一日 ——と、そこまで書いておいて申し訳ないのだが、その空気を私はほとんど覚えていない。 ...

September 19, 2026

9月18日 ── 世界初のカップ麺が生まれた日。カップヌードルと、腕に残った丸い跡|昭和の今日は何があった日?

昭和46年9月18日。この日、日清食品が「カップヌードル」を発売した。世界で初めての、カップに入った即席麺である。 私はそのとき二歳五か月だった。当然、発売のニュースなど知るはずもない。ただ、この日に生まれた食べものは、そのあと五十年以上にわたって私の人生のあちこちに顔を出すことになる。小学校の帰り道にも、部活で疲れ切った夜にも、浪人中の深夜のコンビニにも、そして今の仕事の合間にも。 九月十八日は、私にとって「気づいたときにはもうそこにあったもの」が始まった日だ。 百円のカップと、割られた袋麺 カップヌードルを生んだのは、日清食品の創業者・安藤百福である。昭和33年に「チキンラーメン」で即席麺というものを世に出した人物だ。 日清が語り継いでいる有名な逸話がある。安藤がアメリカに渡って袋麺の売り込みをしたとき、現地の担当者が袋を開けて麺を割り、紙コップに入れ、湯を注いでフォークで食べはじめた。日本のようにどんぶりと箸があるとは限らない。ならば器ごと売ってしまえばいい ― そこからカップ入りの即席麺という発想が生まれた、という話である。 しかし、実際に商品にするまでの道のりは長かった。麺をカップの中でどう支えるか。上から落とし込んでも麺は底まで沈んでしまい、湯の回りが悪くなる。日清が編み出したのは、麺を容器の中ほどで止めるという構造だった。麺の下に空間ができ、注がれた湯が上下から均等に回る。カップを逆さにして麺をかぶせる、という発想の転換だったといわれる。 容器は発泡スチロール。当時としてはまだ高級な素材で、熱い湯を注いでも手で持てて、そのまま器になる。ふたを開ければフォークが付いている。エビ、肉、卵 ― 具が最初から入っている。 価格は百円だった。当時の袋入り即席麺が三十円前後だったことを思えば、三倍以上である。「ラーメン一杯に百円も出すのか」という値段だった。 発売直後の売れ行きは、決してよくなかったという。転機になったのは同じ年の11月21日、銀座の歩行者天国での試食販売である。屋外で、湯さえあれば立ったまま食べられる。この売り方が当たり、若い客が長い列をつくった。 そして翌昭和47年2月、あの映像が茶の間に流れる。 三分間という長さ 子どもにとって、湯を注いでから三分というのは妙に長い時間だった。ふたを押さえていないと開いてしまうので、私は何かで重しをした記憶がある。時計の秒針を見ていたわけではない。ただ「そろそろかな」と思ったところで開ける。早すぎれば麺が固く、遅すぎれば伸びている。 今にして思えば、あれは子どもが自分ひとりで完結させられる、数少ない「調理」だった。火を使わない。包丁もいらない。湯さえあれば、自分の食べるものを自分で作れる。大人の手を借りずに腹を満たせるという小さな自立が、あの発泡スチロールのカップには入っていた。 大人の世界と、湯気の立つカップ 昭和47年2月、長野県の山荘に人質をとって立てこもった事件を、国じゅうがテレビで見ていた。極寒の現場で、機動隊員が湯気の立つカップを手にしている姿が映し出される。あれがカップヌードルだった。 この映像が全国に流れたことで、カップ麺は一気に知られる存在になったといわれている。売れ行きは跳ね上がった。 私が物心ついたころには、カップヌードルはもう「昔からあるもの」の顔をしていた。テレビの中の非常事態と結びついていたことなど、知る由もない。食べものというのは、そうやって世代ごとに違う記憶をまとっていくのだろう。私にとってのカップヌードルは、事件の記憶ではなく、日常の記憶である。 カップヌードルを生んだ安藤百福本人が、チキンラーメンからカップヌードルまでの道のりを書いた自伝です。事業に失敗して無一文になったあと、四十八歳でチキンラーメンを生んだ人の話なので、五十代で読むと身にしみます。 魔法のラーメン発明物語 私の履歴書(Kindle版)安藤百福/日本経済新聞出版。日経「私の履歴書」をもとにした自伝。裏庭の小屋でのチキンラーメン開発から、カップヌードル誕生まで。星4.0(99件) Amazonで見る › 深夜のレジの向こう側 昭和63年、私は浪人していた。予備校には通わず、セブン-イレブンの夜勤を週に四日入れながら、自分で受験勉強を進めていた。 コンビニの夜勤をしたことがある人なら分かると思うが、深夜の店内でいちばん存在感があるのはカップ麺の棚である。壁一面に積み上がって、客が来ない時間はただ静かにそこにある。 昭和46年に百円で売り出された「ぜいたくなラーメン」は、私が浪人をしていたころにはもう、深夜に誰でも買える当たり前の食べものになっていた。十七年で、ぜいたくは日常に変わる。 昭和51年9月18日、注射がひとつ消えた 同じ九月十八日に、もうひとつ書いておきたいことがある。 昭和51年9月18日、厚生省は全国の市町村に対し、種痘 ― 天然痘の予防接種 ― の定期接種を取りやめるよう通達した。日本では長く、法律に基づいて子どもに種痘を受けさせることになっていたが、接種による健康被害を訴える声が続き、国内で天然痘の患者が出なくなって久しかったこともあって、この日を境に「全員が受けるもの」ではなくなった。 天然痘そのものは、その後の昭和55年にWHOが根絶を宣言している。人類が根絶させた唯一の感染症である。 私の世代 ― 昭和44年生まれ ― は、種痘を受けた最後のあたりの世代にあたる。少しあとに生まれた者の腕には、もうあの跡がない。 ...

September 18, 2026

9月17日 ── 三振を「取らずに」投げた日。江夏豊が王貞治から奪った354個目|昭和の今日は何があった日?

九月十七日。昭和四十三年、一九六八年のこの日、甲子園球場で一人の投手が、三振を「取らない」ために投げ続けた。 阪神タイガースの江夏豊である。プロ二年目、まだ二十歳だった。 私が生まれるのは翌年の四月だから、この試合を私は知らない。それでも、中学で野球をしてマウンドに立った人間として、この日の江夏の話は、どうにも他人事とは思えないのである。 「354個目は王さんから取る」 当時のシーズン奪三振の日本記録は、西鉄の稲尾和久が持つ353個だった。江夏はこの年、その記録にあと少しというところまで迫っていた。 そして巨人戦を前に、江夏は「新記録の354個目は王さんから取る」と公言していた。 試合の途中、江夏は王貞治から三振を奪う。本人はこれで新記録だと思い込んだ。ところがベンチに戻ると、捕手の辻恭彦から、まだタイ記録だと指摘される。数え間違えていたのである。 普通なら、次の打者から三振を取れば済む話だ。だが江夏はそうしなかった。公言したとおり王さんから取るために、王の次の打席が回ってくるまで、ほかの打者から一つも三振を取らないと決めたのだ。 打者が一巡する間、ヒットは一本打たれたが、あとはすべて凡打に打ち取った。江夏が後年いちばん困ったと振り返っているのは、打つほうが本職ではない投手の高橋一三を、二球で追い込んでしまった場面だったという。三振を取りにいくより、三振させないほうが難しかったのである。 そして再び王が打席に入り、江夏は宣言どおり354個目の三振を奪った。しかもこの試合、延長十二回に江夏自身がサヨナラ打を放って決着をつけている。この年、江夏は最終的に401個の三振を積み上げた。 避けられていた王さん、向かっていった江夏 王さんの現役時代の姿は、私もはっきりと見ている。昭和五十二年、あの756号のホームランが飛び出したのは、ちょうど私が野球に夢中になり始めた頃だった。 ただ、江夏が王さんを「狙っていた」と聞いても、正直なところ、ぴんと来ない。私の記憶の中の王さんは、投手から狙われるどころか、むしろ避けられていた打者だったからだ。 そんな打者に、真正面から向かっていった投手がいた。それだけ江夏という投手が、傑出した存在だったのだろう。 江夏が節目の三振を王から取ることにこだわったのには、先輩の存在もあったらしい。阪神のエース村山実は、記録の節目の三振を長嶋茂雄から奪うことにこだわっていた。江夏もそれにならい、王を自分の相手と決めていたという。 江夏は生涯で王から57個の三振を奪っている。一方で、王に打たれたホームランも20本ある。避けずに勝負を挑み続けたからこそ、どちらの数字も残ったのだ。 もっとも、私の中の江夏豊は、阪神の縦縞ではない。広島カープの赤いユニフォームを着て、マウンドに立っている姿から始まっている。 その江夏豊さんが、自分の野球人生を語り残した一冊が今年出ました。王貞治とのライバル関係も、シーズン最多奪三振も、本人の言葉で読めます。 江夏の遺言江夏豊・松永多佳倫/小学館(2026年5月刊)。「日本プロ野球史上最高の左腕」が、王貞治との勝負や記録の裏側、球界での衝突まで語り尽くす。星4.3(39件) Amazonで見る › 全部の打者から三振を取るつもりだった 中学の野球部で、私はピッチャーをしていた。 当時の私は、全部の打者を三振に取ろうという思いで投げていた。もちろん、そううまく三振が取れるものではない。それでも、投手とはそういうものだと思い込んでいたところがあった。 そんな私からすると、江夏がやってのけたことは、ちょっと信じがたい。三振を取るつもりで投げても取れないのに、取らないように投げて、狙いどおりに打ち取っていく。それも中学生相手ではなく、プロの打者を相手に、である。 江夏の354個目が伝説として語られるのは、記録の数字そのものより、狙ったとおりに投げきったことにあるのだと思う。 江夏豊といえば、もうひとつの伝説があります。昭和54年の日本シリーズ第7戦、九回裏の「江夏の21球」。一球一球に何を狙っていたのかを描き切った短編が、この本に入っています。 スローカーブを、もう一球(角川文庫)山際淳司/KADOKAWA。「江夏の21球」を収めたスポーツ・ノンフィクションの金字塔。一瞬の勝負を切り取った8篇。星4.2(295件) Amazonで見る › 二十年後の同じ日、ソウルで 江夏の三振からちょうど二十年後、昭和六十三年の九月十七日。ソウルオリンピックが開幕した。 野球はまだ公開競技で、出場できるのはアマチュアだけだった。日本代表には、新日鉄堺の野茂英雄、トヨタ自動車の古田敦也、駒澤大学の野村謙二郎がいた。のちに三人とも名球会に入る選手である。日本は準決勝で開催国の韓国を破ったが、決勝ではアメリカの隻腕投手ジム・アボットに完投を許し、銀メダルに終わった。 この秋、私は十九歳の浪人生だった。 浪人中ではあったが、野球も、陸上の男子100メートルも、鈴木大地のバサロキックも、すべてテレビにかじりついて見ていた。100メートルで世界記録を出したベン・ジョンソンが、ドーピングで金メダルを取り消されたのも、この大会である。 開幕から二日後の九月十九日、昭和天皇が吐血し、日本は長い自粛の空気に包まれていく。今思えば、昭和という時代の最後の秋に、あのオリンピックはあった。 ソウルでアマチュアとして投げていた野茂英雄は、翌年近鉄に入り、のちに海を渡った。そして平成八年の九月十七日、ドジャースのユニフォームを着て、ロッキーズ相手にノーヒット・ノーランを達成している。九月十七日という日付には、なぜか投手の話が重なっている。 ...

September 17, 2026

9月16日 ── 物差しに「尺」が戻ってきた日。職人と永六輔が守った目盛り|昭和の今日は何があった日?

九月十六日。昭和五十二年、一九七七年のこの日、日本の物差しに「尺」が戻ってきた。 こう書いても、若い人にはぴんと来ないかもしれない。尺の目盛りが入った物差しを作ったり売ったりすることが、それまで法律で禁じられていた、という話である。私自身、このことを知ったのはずっと大人になってからだ。 昭和五十二年の私は八歳、小学二年生。物差しといえば、ランドセルに刺さっていたあの一本だった。 ランドセルに刺さった竹の物差し 私の物差しは竹製だった。筆箱には入らないから、ランドセルの横に刺して通っていた。 友だちの中には、見事に反った物差しを持っているやつもいた。まっすぐな線を引くための道具が弓なりになっているのだから、あれで何を測っていたのだろうと今でも可笑しくなる。 不思議なのは、その竹の物差しが、私が二十歳を過ぎても家に残っていたことだ。どういうわけか、捨てなかったのである。特別に大事にしていた覚えもない。ただ、なんとなく捨てられないまま、引き出しのどこかに居続けた。 あとから知って面白いと思ったのは、学校で使っていた三十センチという長さが、昔の一尺とほとんど同じだということだ。曲尺の一尺はおよそ三十・三センチ。私たちは知らないうちに、ほぼ一尺の物差しを毎日持ち歩いていたことになる。 犬小屋を五回作った父 学校の物差しはセンチだったが、家の中には尺の世界があった。持ち込んでいたのは父である。 中川の土手のそばの家に住んでいた頃、父は日曜大工に精を出していた。まあ、人に頼むとお金がかかる、というのがいちばんの理由だったのだろう。 私の記憶にある限り、一匹の犬のために犬小屋を五回は作った。作りかえるたびに出来がどんどん良くなっていくので、犬のほうも戸惑っていたかもしれない。 学校から帰ってくると、朝にはあったはずの部屋の壁がぶち抜かれて、なくなっていたこともある。極めつけは風呂だ。父は風呂まで自分で作ってしまった。たしか三か月くらいかかったのではないかと思う。 そんな父の口からは、「尺」や「寸」という言葉がしょっちゅう出てきた。子どもの私は意味もよくわからないまま、それを家の中の言葉として聞いていた。 法律に「待った」をかけた職人たち 日本では戦後、メートル法への統一が進められ、昭和三十四年からは尺目盛りの物差しの製造も、商取引での使用も禁じられた。 困ったのは、尺で仕事をしてきた人たちである。木造の家は尺を基準に建てられているし、着物の仕立ては「鯨尺」という別の物差しで測る。鯨尺の一尺は曲尺の一尺二寸五分、およそ三十八センチ。センチに置き換えればいいという話では済まない。現場では、闇で作られた粗悪な物差しが出回って混乱したり、職人が書類送検されたりすることまで起きた。 大工さんの組合である全建総連は「日本の建物は尺が基本だ」と訴え続けた。そこに呼応したのが、タレントで作家の永六輔さんである。使いたい人、ないと困る人がいるのに法律で禁じるのは無茶だ、とラジオやテレビで繰り返し訴えた。 そして昭和五十二年九月十六日の午後。通産大臣の諮問機関である計量行政審議会が九回目の専門部会を開き、曲尺と鯨尺の物差しの製造を認めるという最終結論をまとめた。正確には「尺に相当する目盛りが付いた、メートル法の物差し」という扱いである。いかにもお役所らしい言い回しだが、要するに職人の道具箱に、十八年ぶりに堂々と尺が戻ってきたわけだ。 正直に書くと、この尺貫法の一件を、子どもの私はまったく知らなかった。永六輔さんのことはテレビで見て知っていた。「せき・こえ・のどに浅田飴」のコマーシャルの人である。あの人が「上を向いて歩こう」の作詞家だということも、実は今回調べて初めて知った。浅田飴のおじさんが、職人の物差しのために国に物申していた。八歳の私が見ていたテレビの向こうには、そういう大人の世界があったのだ。 その永六輔さんが、全国の職人たちの言葉を集めた一冊があります。「尺」を守った人たちが、どんな気持ちで道具を握っていたのか。短い言葉の中に、それがそのまま入っています。 職人(岩波新書)永六輔/岩波書店。全国の職人たちの語録と、手仕事をめぐるエッセイ。『大往生』に続く永六輔の岩波新書。星4.3(93件) Amazonで見る › いまも現場では「尺」が生きている 五十代になったいま、私は路線バスの運転士をしながら、中古の戸建てを貸す仕事もしている。 入居者が退去したあとには、壁のクロスを張り替える。そのとき職人さんと話をすると、「尺」や「間」といった言葉がごく普通に出てくる。図面にはミリで数字が書いてあっても、現場の会話は昔ながらの単位で進んでいく。木造の家はおおむね三尺、約九十一センチを一つの単位として組み立てられているから、そのほうが話が早いのだ。 職人さんの口から「尺」という言葉を聞くと、ふと父の声を思い出す。壁をぶち抜き、風呂を作っていた父も、きっと同じ言葉で家を測っていた。 もし昭和五十二年に審議会が結論を出していなければ、職人さんたちはいまも、道具箱の奥にこっそり尺の物差しを隠していたのかもしれない。 昭和五十二年の結論でいう「尺相当目盛」の曲尺は、いまも普通に買えます。表も裏も尺の目盛り。手に持つと、父が日曜日に使っていた道具の重さを思い出します。 シンワ測定 曲尺 平ぴた シルバー 1尺 表裏尺相当目盛(10620)シンワ測定。ステンレス製の曲尺(さしがね)。表裏ともに尺相当目盛。DIYや大工仕事の定番。星4.4(766件) Amazonで見る › 昭和の終わり、今度は世界が物差しをそろえた ちなみに、それからちょうど十年後の昭和六十二年、一九八七年の九月十六日。カナダのモントリオールで、オゾン層を壊すフロンガスなどを規制する国際的な取り決め、モントリオール議定書が採択された。日本を含む二十四か国が調印し、フロンの消費量を段階的に減らしていくことが決まっている。 十年前には、日本の職人が「国の物差しを押しつけるな」と声を上げた。十年後には、世界中の国が同じ物差しで決めごとをする時代になった。どちらも九月十六日の出来事というのが、なんとも面白い。 この年の私は高校三年生。七月二十三日、神宮第二球場での最後の試合に負けて、野球が終わった秋である。 議定書が採択されたこと自体は、当時の私は知らなかったと思う。ただ、その後しばらくして、フロンガスを使ったスプレー缶が店から消えていくという話や、「代替フロン」という言葉を、よく耳にするようになった記憶がある。あれが、この日の決めごとの先にあった出来事だったのだろう。 自分の中の物差し 「物差し」という言葉を考えていると、それは長さを測る道具だけではなく、人が物事を判断するときの基準そのものなのだと思う。 ...

September 16, 2026

9月15日は、必ず休みだった ― 敬老の日とシルバーシートの話|昭和の今日は何があった日?

九月のカレンダーをめくったとき、十五日のところに赤い数字が並んでいる。あの光景を当たり前だと思っていた時期が、私には確かにあった。 いまの敬老の日は九月の第三月曜日だ。年によって十五日だったり、二十日だったりする。ハッピーマンデーというやつで、平成十五年から動くようになった。だから若い人にとって「九月十五日は敬老の日」という感覚はもう無いだろう。 けれど昭和に子ども時代を過ごした人間にとって、九月十五日は動かない日だった。そして今日は、その動かない日が生まれた日であり、さらにその日に合わせて、日本の電車にある座席が初めて設けられた日でもある。 「としよりの日」から「敬老の日」へ 敬老の日のはじまりは、意外なほど小さな場所にある。 昭和二十二年、兵庫県多可郡野間谷村という村で、村長が「としよりの日」という行事を始めた。お年寄りを大切にし、その知恵を借りて村づくりをしよう、という趣旨だったという。これが昭和二十五年に兵庫県全体に広がり、昭和二十六年からは全国で行われるようになった。 ただ「としより」という呼び方はどうにも響きがよくない、という声が出た。それで昭和三十八年から「老人の日」と改められる。そして昭和四十一年、つまり一九六六年の九月十五日から、これが国民の祝日「敬老の日」になった。 一つの村の行事が、二十年かけて日本中の休日になったわけである。 この昭和四十一年の祝日法改正では、敬老の日と同時に「体育の日」と「建国記念の日」も加わっている。高度経済成長のまっただ中で、働く方ばかりを見ていた国が、休む日を三つ増やした年である。 私が生まれたのは昭和四十四年の四月だから、物心ついたときには、九月十五日はもう動かない祝日になっていた。 正直に書くと、小学校に上がってからは「敬老の日」という意識はあまりなかったように思う。休み、ラッキー、くらいの感じである。九月は二学期が始まってすぐの、いちばん気持ちが切り替わらない月だ。その中盤にぽつんと置かれた一日の休みは、それだけでありがたかった。 ただ、保育園のときは違った。おじいちゃん、おばあちゃんの顔を描いて壁に貼るようなことをしていて、敬老の日というものをちゃんと意識させてくれていた。小学校で抜け落ちたぶん、保育園の先生たちの仕事はきちんとしていたことになる。 九月十五日に、親に一冊贈るならこの本です。九十歳を過ぎた作家が、世の中の「めでたい」に真正面から文句をつけている。読むと、年を取ることが少しだけ怖くなくなります。 増補版 九十歳。何がめでたい(小学館文庫)佐藤愛子/小学館。90歳を超えた作家の痛快エッセイ。ミリオンセラーの増補文庫版。星4.2(668件) Amazonで見る › 敬老の日に生まれた「シルバーシート」 そして昭和四十八年、一九七三年の九月十五日。 この日、国鉄の中央線快速と特別快速の電車に、高齢者のための優先的な座席が初めて設けられた。あわせて伊豆箱根鉄道の駿豆線と大雄山線にも導入されている。日本の鉄道における優先席の出発点である。 わざわざこの日を選んだのは、もちろん敬老の日だったからだ。祝日にぶつけて新しい試みを始める。いかにも昭和の役所らしい段取りである。 名前は「シルバーシート」といった。 この名前の由来が、私は昔から好きだ。高齢者を敬ってシルバーと名づけた——のではない。単に、そのとき新幹線用の座席生地が余っていて、それがシルバーグレーだったから、その布を張った。だから「シルバーシート」。それだけの話なのである。 つまり順序が逆で、「シルバー=高齢者」という日本語の使い方は、この座席の名前から広がっていった。シルバー人材センターも、シルバー割引も、もとをたどれば余り布の色にたどり着く。役所や鉄道会社の都合から生まれた言葉が、五十年かけて日常語になった。昭和というのは、そういうことが平気で起きる時代だった。 シルバーシートはその後、国鉄にならって私鉄にも広がっていく。そして平成九年、対象が高齢者だけでなく、けが人や妊婦、乳幼児連れ、体調の悪い人にも広がるのに合わせて、名称は「優先席」に改められた。 私はといえば、子どもながらに、あそこは「座ってはいけない場所」だと認識していた。誰かにそう教わったのか、空気で覚えたのかは思い出せない。ただ、はっきりと線が引かれている場所だという感覚は最初からあった。 そして五十七歳になった今でも、それは変わっていない。空いていても、反射的に「座ってはいけない場所」だと思ってしまう。もはや、私自身がそろそろ座る側に回ってもおかしくない年齢だというのに、である。 シルバーシートが生まれた中央線をはじめ、東京の鉄道がどう延び、どうつながってきたのかを、古い地図で追っていく一冊です。自分が毎日乗っていた線路の、生まれた順番がわかります。 地図で解明! 東京の鉄道発達史今尾恵介/JTBパブリッシング。明治から現代まで、新旧の地形図で東京の鉄道網の成り立ちをたどる。星4.5(31件) Amazonで見る › 譲れない、という正直な話 ついでにもう一つ白状しておく。 私は、席を譲るという行為が何となく照れくさくて、どうにもやりにくいと思っている人間だ。だから、そういう場面が来ないように、基本的には最初から座席に座らない。 情けない話だが、同じ人はそれなりにいるはずだ。譲れないのは親切心がないからではない。声をかけるタイミングがわからない。相手を「お年寄り」と決めつけていいのか迷う。断られたらどうしよう、と思う。そうやってもたついているうちに、駅に着いてしまう。 昭和四十八年に国鉄がやったのは、その面倒を先回りして片づけてしまうことだった。「この席は最初からそういう席です」と決めてしまえば、座る前に話がついている。日本人らしい解決の仕方だと思う。 いま、運転席から見えるもの 私はいま、路線バスの運転士をしている。ハンドルを握っていると、優先席というものを、昔とは少し違った目で見るようになった。 優先席は、単に「ここは高齢者が座る場所ですよ」という表示ではない。身体の不自由な方、妊娠している方、けがをしている方、小さな子どもを連れた方など、立っていることが大変な人に、少しでも安心して乗ってもらうための場所だ。 ...

September 15, 2026

9月14日 ── 緑のインクで、さよならを書く|昭和の今日は何があった日?

今日は9月14日。 バレンタインといえば2月14日である。ところがこの国には、もうひとつのバレンタインがあるのだという。 セプテンバーバレンタイン。 9月14日。2月14日のちょうど半年後にあたるこの日は、女性のほうから別れを切り出してもよい日、ということになっているらしい。 告白の日の半年後に、別れの日を置く。ずいぶん皮肉の効いた発想である。 正直に書いておくと、私はこの言葉を、今回はじめて知った。昭和44年に生まれて、昭和を丸ごと子どもとして過ごしてきたつもりでいたが、こういう抜け落ちがある。当時、学校で話されていたのだろうか。私のまわりでは一度も聞かなかった。 発祥は、深夜ラジオだった セプテンバーバレンタインの由来として広く語られているのが、TBSラジオで1967年(昭和42年)から1982年(昭和57年)まで放送されていた深夜番組『パック・イン・ミュージック』である。 愛川欽也さんや林美雄アナウンサーらがパーソナリティを務め、1970年代の若者から絶大な支持を集めた番組だった。12月25日のクリスマスに対して8月25日を「サマークリスマス」と呼ぶ習慣も、この番組から生まれたとされる。半年ずらして遊ぶのが、この番組の癖だったのかもしれない。 ただし、面白いのはここからだ。番組内でセプテンバーバレンタインについていつ、どんな文脈で言及されたのかは、はっきりしていないのである。発祥と言われているのに、その瞬間の記録がない。誰かが放送で言ったことが、聴いていた人たちの口を通って広まり、気がついたら「そういう日」として定着していた。 出所不明のまま残ってしまった習慣、というのが、いかにも深夜放送らしい。テレビと違って、ラジオは記録に残らないものだった。録音しなければ消えてしまう。それでも聴いていた人の中には、確かに残った。 関連して、シンガーソングライターの佐々木幸男さんが**1978年(昭和53年)**に『セプテンバー・バレンタイン』というシングルを発表している。別れをうたった曲である。記念日が先か歌が先か、それすらもよく分からないというのが、この日の正体だ。 「サマークリスマス」を生んだ林美雄さんと、『パック・イン・ミュージック』の時代を丸ごと描いたノンフィクションがあります。深夜のラジオが、なぜあれほど若者の居場所になっていたのか。聴いていなかった私にも、その空気が伝わってきました。 1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代(集英社文庫)柳澤健/集英社。TBSラジオの深夜放送と、そこに集まった若者たちの記録。「サマークリスマス」の誕生まで。星4.5(99件) Amazonで見る › 紫、白、緑 セプテンバーバレンタインには、細かい作法があるとされている。 別れたい女性は、紫色のものを身につけ、白いマニキュアを塗り、緑色のインクで書いた別れの手紙を、相手に直接手渡す。 いま読むと、ずいぶん芝居がかっている。けれど、ここに昭和が詰まっているとも思う。 まず、手紙であること。そして、直接手渡すこと。 昭和の別れは、逃げられなかった。電話をするか、手紙を書くか、会って言うか。そのどれもが、相手の顔なり声なりを引き受けることを意味していた。既読をつけずに放置する、という選択肢がない時代である。 手紙といえば、小学校から高校まで、何回かは女子から手紙をもらったことがある。下駄箱に入っていた、という経験もある。中身がどうだったかはさておき、思い返すと、手紙というのはなんかいいものだ。誰かが自分のために字を書いて、それを人に見つからないように運んだ、という事実だけが残る。 緑のインクで別れの手紙を書いた人が、実際にどれだけいたのかは分からない。たぶん、ほとんどいなかっただろう。それでも「そういう作法がある」という話だけがラジオを通じて全国の若者に共有されていた。そこが、この記念日のいちばん面白いところだと思う。 深夜ラジオとの、微妙な距離 では私自身が深夜ラジオの人間だったかというと、これがそうでもない。 クラスの友達が聴いていて、じゃあ自分も、と試しに聴いてみた。その程度である。番組名は、たぶん『オールナイトニッポン』だったと思う。そこからのめり込んだ記憶はない。かといって、まったく聴かなかったわけでもない。そういう微妙な距離感のまま、深夜放送の時代を通り過ぎた。 ちなみに恋愛の話のほうは、日常的にしていた。野球部だからそういう話をしない、ということはまったくなかった。誰が誰を気にしているという話は、いつでも教室にあった。もっとも、私個人の恋が実ったことは一度もなかったのだが。 深夜の放送と本当に長く付き合ったのは、むしろ大人になりかけの頃だ。浪人中、予備校には通わず、セブン-イレブンの夜勤を週4日やりながら自分で受験勉強をしていた。あの店内には有線放送が流れていた。お客さんが途切れたとき、本来店に流すべき曲とはまったく違うジャンルにチャンネルを変えて、ひとりで楽しんでいた。 いま思えば、あれが私なりの深夜放送だったのかもしれない。誰も聴いていない時間に、自分の好きな音だけが流れている。深夜ラジオを布団の中で聴いていた同級生たちと、やっていたことはそう変わらない。 布団の中で、こっそりイヤホンを耳に入れる。あの聴き方は、いまのポケットラジオでもそのままできます。単3電池で動いて、イヤホンも付いています。停電のときの備えにもなります。 パナソニック FM/AM 2バンドラジオ RF-P155(イヤホン付き・単3電池式)Panasonic。手のひらサイズのポケットラジオ。モノラルイヤホン・ハンドストラップ付き。星4.1(50件) Amazonで見る › 同じ日、広島市民球場では さて、9月14日にはもうひとつ、私の心に引っかかる出来事がある。 1968年(昭和43年)9月14日。広島市民球場、対大洋ホエールズ戦。 広島の外木場義郎投手が、完全試合を達成した。プロ野球史上10人目。一人の走者も出さず、27人を27人のまま帰した試合である。 しかも、この試合の外木場は尋常ではなかった。16奪三振。当時のセ・リーグタイ記録であり、2022年にロッテの佐々木朗希投手が19奪三振を記録するまで、完全試合における最多奪三振記録として残り続けた数字だ。9回は3人とも三振で締めている。 外木場という投手には、もうひとつ有名な逸話がある。1965年(昭和40年)、プロ初勝利をいきなりノーヒットノーランで飾った。そのとき将来性を危ぶむようなことを言った記者に対して、「なんなら、もう一回やりましょうか」と言い放ったという。そして3年後、その言葉どおりに2度目を——それも完全試合という形で——やってのけた。生涯3度のノーヒットノーラン、うち1度が完全試合。この記録を持つ投手は、いまだに外木場義郎ただ一人である。 正直に書くと、私は名前を知っていただけだった。カープの昔の投手、完全試合をやった人。それ以上のことは、今回調べるまで知らなかった。こんなにすごい投手だったのかというのが、まずの感想である。 ...

September 14, 2026

九月十三日が三度あった ― ちばあきお、スーパーマリオ、南海ホークス|昭和の今日は何があった日?

9月13日という日付を、昭和40年から64年までの範囲で洗っていたら、妙なことに気づいた。 三つの出来事が、私の15歳、16歳、19歳に、きれいに並んで刺さっていたのだ。中学3年、高校1年、そして浪人。要するに、子どもが子どもでなくなっていく数年間である。 しかも三つとも、どこかで「終わり」の匂いがする。今日はこの三つを、順番に並べてみたい。 昭和59年9月13日 ― 墨谷二中を描いた人 昭和59年、1984年9月13日。漫画家のちばあきおが亡くなった。41歳だった。晩年は病を抱えていたと伝えられ、最期は自らの手によるものだった。そのことについては、これ以上は書かない。 代表作は『キャプテン』と『プレイボール』。説明はいらないだろう。墨谷二中という、どこにでもありそうな公立中学の野球部の話だ。谷口、丸井、イガラシ、近藤と、四代のキャプテンが順に主人公になっていく。その高校編が『プレイボール』である。二作合わせて昭和51年度の小学館漫画賞を受けている。兄は『あしたのジョー』のちばてつやだ。 あの漫画の変わっているところは、天才がひとりも出てこないことだった。 谷口タカオは、うまくない。名門・青葉学院から転校してきたという経歴だけで「すごいやつが来た」と勘違いされ、その誤解に押しつぶされそうになりながら、誰も見ていないところで走り込む。血を吐くような特訓の場面があるわけでもない。ただ、黙って練習している。そういう漫画だった。 絶筆になった『チャンプ』は連載の途中で止まり、最終回はチーフアシスタントが下絵をもとに仕上げて掲載された。 私はそのとき中学3年。墨谷二中の彼らと、ちょうど同じ学年だった。 野球部で、ピッチャーとショートをやっていた。公立中学だが、練習はかなりハードで、伝統的にわりと強い学校だったと思う。上下関係ははっきりしていて、先輩からの理不尽な行為も受けた。先生も日常的にケツバットやビンタをしていた。いまなら完全にアウトだが、そういう時代だった。 『キャプテン』は中学1年から単行本で真剣に読んでいた。テレビアニメも見た。そして、思いっきり重ねていた。 葛飾には修徳という強豪の私立中学がある。私の中では、自分の学校が墨谷二中で、修徳が青葉学院だった。あの漫画の構図が、そのまま自分の住んでいる区の地図の上に乗っていたわけである。公立が私立に挑む話として読んでいたのだから、当然といえば当然だ。 だから訃報も知っていた。覚えているのは、悲しさよりも先に「本当に?」という気持ちが来たことだ。谷口たちを描いている人が、この世からいなくなるという実感が、15歳の頭では追いつかなかったのだと思う。 中学1年の私が真剣に読んでいた、あの一巻目です。青葉学院から来た谷口が、誤解のまま墨谷二中の野球部に入るところから始まります。いま読み返しても、派手な場面はほとんどありません。だから読み返せるのだと思います。 キャプテン 1(集英社文庫 コミック版)ちばあきお/集英社。墨谷二中野球部、四代のキャプテンの物語。昭和51年度 小学館漫画賞。文庫版全15巻。星4.4(320件) Amazonで見る › 昭和60年9月13日 ― ブームの外にいた高校1年生 その一年後、昭和60年、1985年9月13日。任天堂がファミリーコンピュータ用ソフト『スーパーマリオブラザーズ』を発売した。 国内だけで約681万本。ファミコンソフトの売上記録は、いまだにこれが1位だという。世界では4000万本を超えた。 それまでの家庭用ゲームは、一画面の中で完結するものが多かった。この作品は違った。右へ、右へと画面が流れていく。ジャンプして敵を踏み、ブロックを叩き、土管にもぐる。操作は十字キーと二つのボタンだけ。誰でもすぐ動かせるのに、どこまでも先がある。 ファミコン本体が店頭から消え、入荷の噂が立てば行列ができた。攻略本はその年のベストセラーになった。 私は16歳、高校1年だった。 そして、何の記憶もない。 家にファミコンはなかった。野球に夢中で、そもそもファミコンに興味がわかなかったのである。日本中の子どもが土管にもぐっていたその秋、私はグラウンドにいた。ブームというのは、外にいる人間からは案外よく見えないものだ。 いま思えば、あれは子どもの遊び方が変わる分かれ目だったのだろう。中川の土手や線路沿いを走り回って日が暮れるまで遊ぶ、という時代が終わりかけていた。ただ、その分かれ目を私は知らずに通り過ぎた。理由は単純で、ボールを追いかけるほうが面白かったからだ。 昭和63年9月13日 ― ホークスが大阪を出ていく さらに三年後、昭和63年、1988年9月13日。ダイエーの中内㓛社長が、南海からホークスを買収する意向を明らかにした。 この年、南海ホークスは球団創設50周年を迎えていた。4月23日、「おれの目の黒いうちはホークスは売らん」と公言していた川勝傳オーナーが亡くなる。それから半年も経たないうちに、身売りが表に出た。本拠地は大阪球場から福岡へ移ることになる。 結果として、この昭和63年が南海ホークスとしての最後のシーズンになった。皮肉なことに、この年の南海には見るべきものがあった。門田博光が40歳で44本塁打、125打点。本塁打王と打点王の二冠に加えてMVPまで獲っている。チームは5位に終わったが、あの打球の音だけは最後まで鳴っていた。 南海としての本拠地最終戦、杉浦忠監督は「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、行ってまいります」とあいさつした。門田はその後、九州行きを拒んでオリックスへ移籍している。 この同じ秋、10月には阪急ブレーブスもオリエントリースへ売却された。パ・リーグの老舗が二つ、ひと月のあいだに看板を下ろしたことになる。 私は19歳。浪人中だった。 予備校には通っていない。セブン-イレブンの夜勤を週に4日入れながら、自分で受験勉強を進めていた。情報源はテレビと、店で売っているスポーツ新聞である。深夜のレジで、売り物の一面をちらりと見る。そういう形でこのニュースを知った。 ...

September 13, 2026

菓子が、こわいものになった日 ― 昭和59年9月12日、森永製菓に脅迫状が届いた|昭和の今日は何があった日?

大阪に届いた、一通の封筒 昭和59年、1984年9月12日の朝。大阪にあった森永製菓の関西販売本部に、一通の脅迫状が届いた。 差出人は「かい人21面相」。文面はこうだった。グリコと同じ目にあいたくなければ、1億円を出せ。要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて店頭に置く。 そして封筒には、実際に青酸入りの菓子が同封されていた。 この年の3月、江崎グリコの社長が兵庫県西宮市の自宅から連れ去られた。犯人は身代金10億円と金塊100キロを要求し、社長は三日後に自力で脱出した。4月には本社が放火され、5月には新聞各社に「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」という挑戦状が届いた。それが報じられた途端、全国の店頭からグリコの商品が消えた。工場も止まった。 その矛先が、9月12日、森永に向いた。 菓子メーカーが狙われている。しかも、菓子そのものが凶器として使われる。子どもが最も近づきやすい場所に、毒が置かれるかもしれない。そういう事件だった。 中学三年生の秋だった 私はそのとき、中学三年生だった。 昭和44年4月生まれだから、15歳。受験という言葉が、そろそろ現実の重さを持ちはじめる頃だ。 事件のことは、テレビのニュースやワイドショー番組で知った。 「かい人21面相」という名前を初めて聞いたとき、私が感じたのは恐怖ではなかった。おふざけなのか、と思った。犯人が自分で名乗る名前としては、あまりにも軽い。江戸川乱歩の少年探偵団に出てくる怪盗をもじった、遊びのような響きだった。 そして正直に言えば、どこか他人事だった。 昭和59年という年を並べてみると、妙な取り合わせになる。この年の11月には新しい紙幣が発行され、一万円札の顔が福沢諭吉になった。テレビではコアラやエリマキトカゲが騒がれていた。その同じ年の裏側で、菓子メーカーが次々に脅されていたのだ。 事件が起きているのは関西で、私が住んでいるのは東京の東の端だ。テレビの中で起きていることとして眺めていた。あとから考えれば、それは幸運なことだったのかもしれない。 いま振り返ると、この事件は昭和の犯罪史の中でも特異な形をしている。犯人は一度も人前に姿を現さなかった。身代金の受け渡し現場にも現れなかった。そのかわり、新聞社やテレビ局に百四十通を超える手紙を送りつけ、警察を挑発し、世間を観客にした。のちに「劇場型犯罪」と呼ばれるようになる手口の、はしりだった。 観客席に座らされていたのは、私たちだ。菓子を買う側の、ごく普通の人間たちだった。 棚から消えた記憶は、ない 正直に書いておきたいことがある。 私には、葛飾の店から森永の菓子が消えたという記憶がない。 森永の商品で、当時これをよく食べていた、と言えるものも特にない。翌年には高校生になって、買い物の場所は主にコンビニエンスストアに変わっていった。そのどちらの時期を思い返しても、売り場から森永製品が減ったとか、姿が見えなくなったとか、そういう光景は残っていないのだ。 企業にとっては数十億円という単位の損害だったという。だが数字は、あとから知ったことだ。当時の私が見ていたのは、テレビの画面の中の大阪であって、自分が立っている売り場ではなかった。 記憶がないということ自体が、ひとつの事実だと思う。関西で起きた事件が、東京の中学生の日常の棚までは届いていなかった。少なくとも、私の目には映っていなかった。 その距離が縮まるのは、翌月のことだ。 「どくいり きけん たべたら しぬで」 10月7日から13日にかけて、大阪、京都、兵庫、愛知のスーパーやコンビニで、不審な森永製品が次々に見つかった。四府県で13個。そこには紙が貼られていた。 どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相 ひらがなで書かれていた。子どもでも読める字だった。そして実際に、中には青酸ソーダが入っていた。 10月8日には百貨店にも脅迫状が届く。森永製品を置くな、という要求だった。そこには「わしらに さからいおったから 森永つぶしたる」と書かれていた。 私はテレビでこの文言を見たのだと思う。関西弁で、ひらがなで、まるで子どもに話しかけるような書き方で、人が死ぬかもしれないことが書いてある。その落差が気味悪い。 そして、本当に毒が入っていたという報道が流れたとき、空気が変わった。 それまで他人事だったものが、私たちの周りでも話題になった。日々の会話の中に、この事件が入り込んできていた。学校で、家で、誰かが口にする。名前が軽いことも、関西の事件であることも、もう関係がなくなっていた。 「おふざけなの?」と思っていた名前が、人を殺しかねない名前になった。私にとってこの事件が本当に始まったのは、9月12日ではなく、その一ヶ月後だったのだと思う。 誰も捕まらないまま終わった この事件は、終わらないまま終わった。 翌昭和60年の夏、犯人グループはマスコミ宛の文書で事件の終息を告げ、それきり沈黙した。一年半近く続いた騒ぎは、解決ではなく、相手が勝手にやめるという形で終わった。捕まえて終わらせたのではない。終わったと言われたから、終わったのだ。 ...

September 12, 2026

十円玉を握って、走った──9月11日、公衆電話の日|昭和の今日は何があった日?

今の子どもに「公衆電話でかけてみて」と言ったら、たぶん固まる。受話器を上げるのが先か、お金を入れるのが先か。それ以前に、受話器という言葉が通じるかどうか。 私たちの世代には、考えるまでもない動作だった。受話器を上げて、十円玉を落として、番号を押す。あの一連の流れを、体のほうが覚えている。 9月11日は「公衆電話の日」。今日は、街角からだんだん姿を消していった、あの箱の話をしたい。 明治三十三年、上野と新橋に置かれた「自働電話」 1900年(明治33年)9月11日、東京の上野駅と新橋駅の構内に、日本で初めての街頭公衆電話が設置された。上野駅は駅長室の前、新橋駅は中等待合室の前。それまで公衆電話は電信局や電話局の建物の中にしかなかったから、この日は「電話が街へ出た日」ということになる。 当時の呼び名は「自働電話」。アメリカの街頭電話に掲げられていた「オートマティック・テレホン」をそのまま直訳したものだといわれている。ところが名前に反して、中身はまったく自動ではなかった。受話器を上げると交換手が出る。つないでほしい相手を口で伝える。そのうえで硬貨を入れる。ダイヤルもボタンも、そもそも付いていない。 面白いのは料金の確認方法だ。5銭と10銭で投入口が二つあって、硬貨が落ちていく途中で音が鳴る仕掛けになっていた。5銭はゴングで「チーン」、10銭はらせん状の鐘で「ボーン」。交換手はその音を電話越しに聞いて、いくら入ったかを判断していたという。耳でお金を数えていたわけだ。しかもこの方式、戦後までおよそ五十年にわたって使われ続けた。 料金は市内一通話五分で15銭。当時の米一升とだいたい同じ値段だったというから、気軽にかけられるものではない。翌10月には、京橋のたもとに六角錐の形をした最初の屋外用電話ボックスが立つ。「公衆電話」という名前に変わるのは1925年(大正14年)、交換手を介さない自動式が入ってからのことだ。 赤、青、黄、そして緑 私が子どもだった昭和40年代から50年代、公衆電話は色で覚えるものだった。 いちばん身近だったのは赤電話だ。昭和26年に委託公衆電話という仕組みが始まり、28年から赤に統一された。店先にちょこんと置かれている、あの丸っこいやつ。その形と色から「赤ダルマ」と呼ばれていたそうだ。高砂でも、たばこ屋の店先には赤電話があったと思う。 ボックス用には青電話があった。昭和47年には100円玉が使える黄電話が登場する。それまでは通話の途中で十円玉を追加で放り込まなければならなかったから、百円が使えるというのは当時としてかなりの進歩だった。 同じ昭和47年には、喫茶店や食堂の帳場に置かれる大型のピンク電話も出てくる。昭和50年にはプッシュ式。十年ほどのあいだに、公衆電話はずいぶんカラフルになっていった。 そして駅前だ。高砂の駅前には電話ボックスがあって、中にあったのは緑色の電話だった。駅前だけではない。街のあらゆる場所にボックスが立っていて、あるのが当たり前の景色だった。 ここで記録と突き合わせておくと、ボックス用として最初に置かれたのは青電話で、緑色が主流になるのは昭和57年のカード式公衆電話が出てからのことになる。つまり、私が子どもの頃に「あそこにボックスがある」と覚えた風景と、自分で扉を開けて中に入るようになった高校時代とのあいだに、電話機のほうも一度入れ替わっていたわけだ。 景色は変わっていないつもりでいて、中身は静かに更新されている。街というのは、だいたいそういうふうにできている。 駅前のボックスに、列ができていた 私が公衆電話を本格的に使うようになったのは、高校生になってからだ。 駅前の電話ボックスに列ができている様子は、はっきり記憶に残っている。一人が入ると、外で二人、三人が待っている。中の人の様子はガラス越しに丸見えで、長引くと自然に視線が刺さる。今思えばあれは、通話のマナーを街ぜんぶで見張っているような光景だった。 ポケットに十円玉が何枚あるか、話しながら頭のどこかで数えている。表示が減っていく。あと一枚しかない。用件を先に言え、と自分に言い聞かせる。そして一番言いたいことを言い残したまま、ぷつりと切れる。 忘れられないのは、友達数名で、気になっている女子の家に順々に電話をかけたことだ。家の電話だから、出るのが本人とはかぎらない。お母さんが出たらどうする。名乗るのか、名乗らないのか。受話器を握る手が汗ばんで、次の一人に代わる。あのハラハラドキドキは、電話が一軒に一台しかなかった時代にしか成立しないものだったと思う。 相手の家族を経由しないと、好きな子の声にたどり着けない。今の子どもたちには、たぶん一生わからない緊張だ。 カードが、通話を持ち歩かせた 昭和57年(1982年)12月23日、東京・銀座の数寄屋橋公園に、日本で初めて磁気式のテレホンカードが使えるカード式公衆電話が設置された。翌昭和58年にはカードの自動販売機が登場し、昭和60年には電電公社が民営化されてNTTが発足する。 テレホンカードは500円から5000円まで四種類。十円単位で引き落とされるから硬貨のような無駄が出ないし、何より、一枚持っていれば十円玉を探さなくてよくなった。今にして思えば、あれは「通話を個人が持ち歩く」という発想の、いちばん最初の形だったのかもしれない。 高校生になってからは、私も常にテレホンカードを持つようになった。買うだけでなく、いろいろな場面でいただくことも多かった。企業が販促に使い、アイドルや風景の写真が刷られ、集める人が現れる。電話をかけるための道具が、かけずに取っておくものになっていった。 ひとつ、今でも引っかかっている光景がある。上野で、イラン人と思われる人たちがテレホンカードを盛んに売っていた。私は買ったことがないが、あれはいったい何だったのか。 調べてみると、あれは昭和ではなく平成に入ってからの風景で、出回っていたのは「変造テレホンカード」と呼ばれるものだったらしい。使い終わったカードの磁気データを書き換えて度数を戻し、額面より安い値段で売る。NTT側の被害は相当な額にのぼり、後の電話機がカード対策を厚くしていく直接の理由になった。 便利なものが広まると、その裏側を突く商売も必ず生まれる。テレホンカードの十数年は、そのことを一枚の薄いカードで見せてくれた気もする。 その公衆電話が、手のひらサイズの模型になっている。緑の機械も、ピンクのダイヤル式も。あの形をもう一度近くで見ると、思い出すことが山ほどあります。 NTT東日本 NTT西日本 公衆電話ガチャコレクション 番外編 全6種セットタカラトミーアーツ(再販)。ダイヤル式ピンク電話を含む全6種のフルコンプセット。手のひらサイズの精巧なミニチュア。星4.0 Amazonで見る › 「なくなってから気づく」もの 公衆電話は今、ずいぶん減った。携帯電話が一人一台になった以上、それは当たり前のことだ。 ...

September 11, 2026

色は先に来て、水はあとから来た──9月10日、カラーテレビと下水道の日|昭和の今日は何があった日?

9月10日には、まったく毛色の違う二つの記念日が重なっています。 ひとつは「カラーテレビ放送記念日」。もうひとつは「下水道の日」。 片方は華やかで、もう片方は地味です。片方は茶の間の真ん中にあり、もう片方は地面の下にあります。子どもの頃の私が覚えているのは、当然のように前者だけでした。 ところがこの二つを並べてみると、昭和の家がどう変わっていったのかが、驚くほどはっきり見えてきます。 昭和35年9月10日、茶の間に色がついた 1960年(昭和35年)9月10日、NHK、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(現在のTBS)、読売テレビ、朝日放送の5局が、東京と大阪でカラーテレビの本放送を始めました。アメリカ、キューバに次いで世界で3番目のことです。 ただ、この日を境にみんなの家が一斉に色づいたわけではありません。 当時のカラー受像機は21型で50万円ほど。白黒テレビの10倍近い値段でした。しかもカラー番組は、一日に一時間あるかないかという時期が続きます。 数字を見ると、その遅さがよくわかります。カラーテレビの世帯普及率は、統計に現れる最初の年である1966年(昭和41年)でわずか0.3%。そこから急な坂を登り始め、1971年に42.3%、1972年に61.1%、そして1975年(昭和50年)に90.3%。放送開始から15年かかって、ようやく十軒に九軒までたどり着いたことになります。 私が生まれたのは昭和44年。この坂のちょうど途中に生まれ落ちたことになります。 そして実際、私には白黒テレビを見た記憶があります。 『仮面ライダー』の2号。『ウルトラマンA』。『ウルトラマンタロウ』。このあたりは、白黒で観ていた記憶があるのです。 ここで少しややこしいのは、これらの番組はどれもカラーで放送されていたということです。色がなかったのは番組のほうではなく、我が家の受像機のほうでした。テレビ局はとっくに色を送っていたのに、それを受け取る箱がまだ白黒だったのです。 我が家に色がやって来たのは、高砂駅のそばから中川の土手のそばへ引っ越した後のことだったと思います。観音扉のついたテレビ台に載った、18型のカラーテレビ。チャンネルはもちろん、ガチャガチャと回す式でした。 タロウとゴレンジャーのあいだ 面白いのは、テレビが色を手に入れたことで、番組のつくり方まで変わっていったことです。 1966年(昭和41年)の『ウルトラマン』では、胸のカラータイマーが点滅して残り時間を知らせます。白黒テレビで見ている人にもわかるよう、明滅という「動き」で伝える工夫でした。まだ多くの家が白黒だった時代の設計です。 ところが1975年(昭和50年)、『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まります。赤、青、黄、桃、緑。もう色そのものが登場人物の名前になっている。白黒テレビでは成立しない番組です。 そして私は、ゴレンジャーははっきりとカラーで観ていました。 自分の記憶を並べ直すと、我が家のテレビが色を手に入れた時期が、かなり狭く絞り込めます。 『ウルトラマンタロウ』が終わったのが昭和49年(1974年)の春。『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まったのが昭和50年(1975年)の春。前者は白黒で、後者はカラーで観ている。つまり我が家に18型が来たのは、そのあいだの一年ということになります。 全国の普及率が90%を超えたのが、まさに昭和50年です。我が家は、坂を登りきる集団の、少し後ろのほうを歩いていたことになります。 その『秘密戦隊ゴレンジャー』だけを一冊にまとめたムックがあります。五人の設定も、放送リストも、当時の写真も。あの春に何が始まったのかが、まるごと入っています。 スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー(Kindle版)講談社シリーズMOOK。昭和50年春に始まった第1作を一冊で総覧。キャラクター設定から全話リストまで。星4.5(54件) Amazonで見る › もうひとつの9月10日 さて、同じ9月10日は「下水道の日」でもあります。 始まりは1961年(昭和36年)。当時の建設省と厚生省、そして今の日本下水道協会の前身が協議して、「全国下水道促進デー」として定めました。2001年(平成13年)に、より親しみやすい名前へと改称されて今に至ります。 制定の理由は切実でした。当時の日本の下水道普及率は、わずか6%。諸外国に比べて著しく遅れており、全国に訴えかける必要があったのです。 なぜ9月10日なのか。この日がちょうど、立春から数えて220日目の「二百二十日」にあたるからです。昔から大きな台風が来る日とされてきました。下水道の大事な仕事のひとつは、汚水を流すことではなく雨水を流すこと。街を水浸しにしないことです。台風の日に下水道を思い出してほしい、というわけです。 葛飾は、ずっとあとだった ここからが、私にとっての本題です。 葛飾区の下水道整備がどう進んだのか、区史に記録が残っています。 葛飾区の下水道事業が動き出したのは、昭和48年(1973年)6月のことです。小菅処理場の一部が動き始め、小菅・堀切地区で下水道管の設置工事に着手しました。この年度の区の普及率は、1%です。 同じ年度、東京都区部全体の普及率は58%でした。 つまり葛飾は、都心が半分以上終わっている時点で、ようやくスタートラインに立ったのです。昭和59年(1984年)度にやっと50%を超え、100%にほぼ達したのは平成7年(1995年)度。事業開始から23年目のことでした。 昭和48年に私は4歳。昭和59年には15歳、中学三年生です。私が高砂で子ども時代を過ごしたあいだ、葛飾のほとんどの土地には、まだ下水道が通っていなかったことになります。 ...

September 10, 2026