【昭和の今日は何があった日?】8月5日──「はんぶんこ」は、しなかった。パピコが生まれた昭和49年と、溶ける前に飲み干した夏

8月5日は「パピコの日」 8月5日と書いて、「パピ(8)コ(5)」と読む。 グリコが定めた「パピコの日」です。語呂合わせだけではありません。パピコ1本の形が数字の「8」に似ていること、2本をパキッと分けたときの姿が漢数字の「八」に見えること。そして何より、2本1組のパピコを二人で「はんぶんこ(5)」してほしい——という願いが、この日付には込められています。 大切な人と分け合う日。 そういう趣旨だそうです。とても良い記念日だと思います。思うのですが、私はこの記念日の趣旨を、子どもの頃に一度も実践したことがありません。 一度もです。それどころか、実践する気すらなかった。今日はその話を書きます。 「2本で1つ」は、分け合うために生まれた パピコが世に出たのは、1974年(昭和49年)のことでした。私は5歳。まだ小学校にも上がっていません。 当時発売されたのは「パピコ<乳酸ミルク>」。いまの<ホワイトサワー>の原型にあたる白いアイスです。子どもが好きな乳酸飲料を氷菓にできないか、という発想から生まれたもので、パッケージは縦型。水玉模様と女の子の絵が描かれた、いかにも昭和らしい爽やかな意匠でした。 面白いのは、あの「2本で1つ」という形が、最初から狙って作られたわけではなかったということです。 グリコには当時、「グリコWソーダアイス」という2つに分けられるバーアイスがありました。仲の良い友達同士で分け合う、いわばコミュニケーションの道具として買われることを想定した商品です。パピコも企画当初は1本で検討していたそうですが、どうにも「らしさ」が出ない。そこでWソーダにならって2本1組にしてみたところ、急に楽しさが加わり、支持を得て発売にこぎつけた——そういう経緯だったといいます。 つまりパピコのあの形は、はじめから「誰かと分け合うこと」を前提に設計されているのです。50年以上たった今も、その形はほとんど変わっていません。 幼児向けのはずが、買っていたのは中学生だった 片手で持って、手軽に吸える。その形状から、パピコは当初、幼児向けの商品として売り出されました。 ところが蓋を開けてみると、意外にも中学生がたくさん買っていることが分かった。そこでグリコは1977年(昭和52年)、姉妹品として<チョココーヒー>を発売します。コーヒーにチョコレートを加えた、当時ほかにない味。これが大ヒットしました。 1977年、私は小学2年生です。 そして「中学生がやたらとパピコを買っている」と言われていた時期に中学生になったのが、まさに私の世代でした。企業が想定した客層と、実際に手を伸ばした子どもたちが、少しずれていた。そのズレがあったからこそチョココーヒーが生まれたわけで、なんだか他人事とは思えない話です。 私が食べていたのも、コーヒー系でした。 商店の冷凍ケースと、家の冷凍庫 私にとって、パピコは「商店の冷凍ケースで買うもの」でした。 家に買い置きがあったことはありません。うちの冷凍庫に常備されていたのは、自宅で凍らせる、俗に言うチュウチュウアイスのほうです。安い。とにかく安い。夏のあいだ、母はあれをまとめて買ってきては凍らせていました。 だから我が家では、アイスに二種類ありました。 いつでも冷凍庫にある、ケ(日常)のアイス。そして商店まで出かけていって、冷凍ケースの重い蓋を開けて選ぶ、ハレのアイス。パピコは、間違いなく後者です。同じ「氷菓」であっても、家の冷凍庫から取り出すものと、お金を出して買うものとでは、口に入れたときの意味がまるで違いました。 家のアイスは、いつでもある。だから、ありがたくない。買ったアイスは、そこにしかない。だから急いで食べる。 いま考えると、あの二種類の使い分けは、そのまま昭和の家計の話でもあったのだと思います。たくさん買って安く凍らせておくものと、たまに一つだけ買うもの。子どもだった私はそんなことを考えもせず、ただ「今日はいいほうが食べられる」と喜んでいただけでしたが。 パッケージが横を向いた年 パピコの歴史をたどっていて、ひとつ手が止まった年があります。 1987年(昭和62年)。この年、パピコのパッケージは縦型から横型に変わりました。1970年代から80年代にかけてコンビニが急成長し、コンビニの店頭に並ぶことを想定した変更だったといいます。同時に、発売以来ずっと描かれていた女の子の絵柄がなくなり、「papico」のロゴが大きく表示されるようになりました。 1987年。私は高校3年生です。 つまり私が最後の夏の大会に向けてグラウンドにいたころ、パピコは商店の冷凍ケースから、コンビニの棚のほうを向きはじめていた。あの女の子の絵は、私が高校を出るのとほとんど同じころに、静かに消えていたことになります。 もちろん当時の私は、そんなことにはまるで気づいていません。気づくはずもない。子どもの世界が終わっていくのと歩調を合わせるように、駄菓子屋や商店の冷凍ケースを前提にしていた商品が、次の時代の売り場に合わせて姿を変えていた——それを知ったのは、57歳になった今日でした。 「はんぶんこ」は、しなかった さて、記念日の趣旨に戻ります。 私はパピコを、誰かとはんぶんこした記憶がありません。妹とも、友達とも。買ったら2本とも自分のものでした。 そうなると、あの形は「楽しさ」ではなく「試練」に変わります。 2本あるということは、1本目を吸っているあいだ、2本目はずっと手の中で温まり続けているということです。溶けてしまう前に食べきらなければならない。だからパピコを食べるときは、スピードが大切でした。 とくに問題になるのが、2本目の吸い口です。溶けてやわらかくなってしまうと、これが実に切り取りづらい。しっかり凍っているうちならスパッといくものが、ぐにゃりとして言うことを聞かなくなる。分け合う相手がいれば、2本は同時に開封されて、それぞれの手の中で最短時間のうちに消えていったはずです。一人で持ってしまうと、2本目は必ず「待たされる」。 分け合うために生まれた形が、分け合わない子どもの手の中では、制限時間つきの競技になっていたわけです。 噛みちぎり派 もうひとつ、告白しておくことがあります。 私は「噛みちぎり派」でした。 いまのパピコには、先端に引っ張るためのリングがついています。「リング式イージーオープン」という正式名称まであるそうですが、あれが登場したのは2004年のこと。発売当初のパピコに、リングはありませんでした。 つまり昭和のパピコは、自力で開けるしかなかったのです。手でちぎるか、噛みちぎるか。私は迷わず後者でした。歯で先端をくわえて、ぐいっとやる。行儀が良いとは言えませんが、あれが一番速い。溶ける前に食べきらなければならない子どもにとって、開封は一秒でも短いほうが良かったのです。 ついでに言えば、当時のパピコは今よりずっと硬いものでした。パピコが「なめらか食感」になったのは1998年(平成10年)のリニューアルからで、それ以前は押し出すのにも力が要りました。噛みちぎった先から、硬い氷の塊をぐいぐい押し上げる。あの手ごたえこそが、私の記憶にあるパピコです。 いまのパピコを食べると、正直なところ「やわらかいな」と思います。おいしいのです。おいしいのですが、あの、下から親指で押し上げてもなかなか出てこない、じれったいような硬さが、どこにも残っていない。 硬かったから急いだのか、急いでいたから硬く感じたのか。いまとなっては、もう確かめようがありません。 令和の8月5日に 「パピコの日」が正式に制定されたのは、2019年のことでした。昭和どころか、平成もほとんど終わったころの話です。 パピコの累計販売個数は、40億個を超えているといいます。ただしこの集計は1982年からのものだそうです。1982年——私が中学に上がった年です。 ということは、私が小学生のころに商店の冷凍ケースの前でかがみ込み、噛みちぎって飲み干したパピコは、あの40億個には入っていないことになります。数えられていない。誰の記録にも残っていない。 けれど、私は覚えています。統計に入っていないアイスの味を、50年近くたっても覚えている。記念日というのは、たぶんそういうもののためにあるのだと思います。 そして今日という日は、「大切な人と分け合う日」ということになっている。 半世紀近く遅れて、私はようやくこの記念日の趣旨を実践できる立場にいます。今日あたり2本買ってきて、1本を誰かに渡してみるのも悪くありません。もっとも、渡した瞬間に「そっちのほうが多い」と言われる可能性は、大いにあるのですが。 みなさんは、パピコを「はんぶんこ」する側でしたか。それとも、私と同じく2本とも自分で抱え込む側でしたか。 記念日なので、久しぶりに買ってきました。私にとってのパピコは、やはり<チョココーヒー>です。昭和52年に「中学生がよく買っている」という発見から生まれた味が、半世紀近くたった今も定番として棚に並んでいる——それだけで、なんだか嬉しくなります。冷凍庫に何本かストックしておけば、この夏はいつでも「はんぶんこ」ができます。 江崎グリコ パピコ チョココーヒー 160ml×6袋1977年(昭和52年)発売のロングセラー。コーヒーにチョコを合わせた、あの味。2本1組だから、誰かと分け合うのも、ひとりで2本抱えるのも自由です Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【8月4日】同い年の黄門さまとは、夕方に出会った | 次の記事:(近日公開) ...

August 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月4日──同い年の黄門さまとは、夕方に出会った

今日は8月4日。夏休みも折り返しにさしかかる、暑さのいちばん厚い時期です。 今から57年前、1969年(昭和44年)のこの日、TBS系の月曜夜8時、『ナショナル劇場』という枠でひとつの時代劇が始まりました。 『水戸黄門』です。 私が生まれたのは、その年の4月。つまりこの番組がスタートしたとき、私は生後4か月の赤ん坊でした。まったくの同い年です。 ──と書くと思い入れたっぷりに聞こえますが、正直に申し上げます。私は月曜夜8時の『水戸黄門』を、ほとんど見ていません。 私の『水戸黄門』は、夕方の再放送で始まりました。 定着しない枠に、京都から時代劇を まずは、その始まりのほうから。 『水戸黄門』は、松下電器(現・パナソニック)の一社提供による『ナショナル劇場』という枠で放送が始まりました。この枠、それまではハナ肇とクレージーキャッツのコメディや布施明主演の青春ドラマなど、現代劇が多かったといいます。ところがどれもシリーズとして定着しない。ならば京都発の時代劇でいこう、と方針が決まって生まれたのが『水戸黄門』でした。企画の中心にいたのは、松下電器宣伝部の逸見稔さんと、制作会社C.A.Lの西村俊一さんです。 初代の黄門さまを演じたのは、俳優座の東野英治郎さん。それまで映画やドラマでは悪役を演じることが多かった人で、62歳にして水戸黄門役が初主演だったそうです。助さんは杉良太郎さん、格さんは横内正さん、元義賊で伊賀忍者という設定の風車の弥七は中谷一郎さん。うっかり八兵衛の高橋元太郎さんは第2部からの登場なので、この時点ではまだ一行にいません。 第1部は1969年8月4日から翌1970年3月9日まで、全32話。記念すべき第1話のタイトルは「俺は助さんおまえは格さん」でした。 こうして日本中の茶の間に、黄門さまが歩き出しました。その同じ年、私は生まれたばかりで、まだ何も見ていません。 私の『水戸黄門』は、外が明るいうちに始まった 小学生になったころ、私は夕方の再放送で『水戸黄門』を見るようになりました。 毎日欠かさず、というほどではありません。平日の、ときどき。学校から帰ってきて、そのままテレビの前に座る日がある、という程度です。そしてたいていの場合、私は一人で見ていました。 いま思うと、これは少し不思議な体験でした。 月曜の夜8時には、最新シリーズの黄門さまが日本中の茶の間を歩いている。その同じ番組を、私は何年も前に作られた回で、平日の夕方に見ていた。同い年のはずなのに、リアルタイムではずっとすれ違い続けていたわけです。 しかも第何部の第何話かなど、子どもの私には知りようがありません。話は毎回きれいに完結するので、順番を気にする必要もない。私にとって『水戸黄門』は、時系列というものが最初から存在しない番組でした。どこから見ても始まりで、どこで終わっても終わりだった。 それでいて、何も困らなかった。むしろそれが、あの番組のいちばんの発明だったのかもしれません。 そして、相撲へ 夕方の再放送には、決まった続きがありました。 黄門さまの旅が終わると、私はそのまま大相撲の中継に移ります。ちょうど上位の取り組みが始まるころ合いでした。江戸時代の旅から、いきなり土俵の上へ。いま並べると妙な取り合わせですが、当時の私にはひと続きの夕方でした。 相撲を見ていた理由については、以前この連載でも書きました。夕方5時の門限です。外で遊べる時間には終わりがあって、それを過ぎたら家にいるしかない。家にいるということは、テレビの前にいるということでした。 つまり私の『水戸黄門』は、「見たくて見た番組」というより、「家にいる時間にそこで流れていたもの」に近い。夜8時に家族そろって見る番組ではなく、一人で、外の明るさを背中に感じながら見る番組だった。同じ番組でも、見る時間帯が違えば、まるっきり別の記憶になるのだと思います。 「お決まり」は、最初からあったわけではない いまや誰でも知っている、あの終盤の場面。格さんが印籠を掲げ、悪代官たちが一斉に平伏す。 ところが、あの様式は最初から完成していたわけではないようです。ひと暴れした後に印籠を見せて正体を明かす──あのお馴染みのパターンに近い形が使われるようになったのは第2部からで、第1部で使われていた印籠とはデザインも違っていたといいます。 主題歌の「あゝ人生に涙あり」も、番組とともに歩いた一曲でした。作詞は山上路夫さん、作曲は木下忠司さん。初代の歌い手は、助さんと格さん──つまり杉良太郎さんと横内正さんです。その後、第4部からは里見浩太朗さんと横内正さん、第9部からは里見浩太朗さんと大和田伸也さん、と、歌い手も助さん格さんの交代とともに移り変わっていきました。 再放送でバラバラに見ていた私は、当然そんな変遷を知りません。黄門さまが印籠を出すのは、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前のことでした。生まれたときからそこにあったものを、人は「最初からそうだった」と思い込む。あの番組は、私にとってその典型だったのだと思います。 いま振り返ると、私があの番組を見ていた理由も、そこにあった気がします。物語の流れが、おおむね決まっている。誰が悪いのか、最後にどうなるのか、見る前からわかっている。ふつうならそれは退屈の理由になるはずですが、子どもの私にとっては逆でした。あの安心感、あの安定感が、心地よかったのだと思います。 先が読めないものを追いかけるのは、それなりに体力が要ります。夕方の一時間に私が求めていたのは、そういうものではありませんでした。今日も黄門さまは旅をしていて、今日も悪いやつは負ける。それがそのとおりに起きるのを確かめるために、私は座っていたのかもしれません。 私は、助さん派だった 子どもが時代劇を見るとき、たいてい黄門さま本人には感情移入しません。おじいさんですから。目がいくのは、暴れるほうです。 私は、助さん派でした。それも、里見浩太朗さんの助さんが一番のお気に入りでした。 里見さんが佐々木助三郎を演じたのは、第3部から第17部まで。年数にして16年半にわたります。つまり私が小学生で夕方の再放送を見ていたころ、画面の中の助さんは、まず間違いなく里見浩太朗さんでした。「助さんといえばこの人」と刷り込まれたのは、当然といえば当然だったわけです。 格さんには、印籠を掲げて「この紋所が目に入らぬか」と言う、あの一番おいしい役目があります。それでも私は助さんのほうがよかった。子どもが誰を好きになるかは、だいたい理屈ではないものです。 42年の旅の、終わり 『水戸黄門』は、その後ずっと続きました。 黄門さまは東野英治郎さんから西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さんへと引き継がれていきます。そして2002年、第31部。ついに里見浩太朗さんが、黄門役に座りました。 あの助さんが、黄門さまになったのです。 夕方の再放送で、私が一番かっこいいと思っていた男。その人が三十年かけて、旅の主役の側へ回った。子どものころに刷り込まれた序列というのは、四十を過ぎても案外そのまま残っているものです。 そして2011年。第43部をもって、TBS系のレギュラー放送としての『水戸黄門』は終わりました。最終回スペシャルの放送は、同年12月19日。42年の歴史に幕、と報じられました。終了が明らかになった際、里見浩太朗さんはTBS本社での会見で、後ろから斬られたようだ、残念というより痛い、という趣旨のことを語っています。この年はほかにも『3年B組金八先生』や『渡る世間は鬼ばかり』が区切りを迎え、TBSの長寿ドラマがまとめて姿を消しました。 私はそのとき42歳。生後4か月だった赤ん坊は、番組が終わるときに42歳になっていた。つまり私は、『水戸黄門』とほとんど同じ年月を生きてきたことになります。 これほど正確に自分と並走した番組を、ほかに思いつきません。しかも私は、その42年のうちの何割かを、夕方の再放送という裏口から覗いていただけでした。 令和の茶の間から いま私の家には、地上波のテレビがありません。大きな液晶モニターで、YouTubeやNetflixを見ています。見たいものを、見たいときに、見たいだけ。便利です。文句のつけようがありません。 ただ、いまの配信の見方は、あのころの夕方の再放送によく似ています。順番など気にせず、途中から入って、話が終わればそれでいい。私は昭和の夕方に、すでに配信のような見方をしていたのかもしれません。 違うのは、選んでいなかったということです。テレビをつけたら黄門さまが歩いていて、終わったら相撲が始まった。選んでいないからこそ、体に残っている。いま自分で選んで見ているものが、40年後に同じように残っている自信は、正直あまりありません。 おわりに 1969年8月4日。私が生後4か月だったその夜、テレビの中でひとりの老人が旅に出ました。 その旅は42年続き、私が42歳になった年に終わりました。同い年でありながら、私はその始まりも終わりも、きちんとは見ていません。見ていたのは、小学生のころの、外がまだ明るい夕方の一時間だけです。 それでも「黄門さまがずっとそこにいた」という感覚だけは、いまも体に残っています。たぶん、選ばずに浴びたものというのは、そういうふうに残るのでしょう。 そして、あの旅の最後にいたのは、私が一番好きだった助さんでした。夕方の茶の間で刀を振っていた男が、四十年かけて黄門さまになり、そのまま番組を送り出した。私が見届けなかった終わりを、あの人が引き受けてくれていた。そう思うと、見ていなかったことが、少しだけ許される気がします。 あなたにとっての『水戸黄門』は、夜の番組でしたか。それとも私と同じ、夕方の番組でしたか。何代目の黄門さまがいちばんしっくりきますか。よろしければ、あなたの茶の間の話も聞かせてください。 ...

August 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月3日──トラと基板とひまわりと。少年に届かなかった三つのニュース

三つ並んで、三つとも空白だった 8月3日という日付を調べていて、少し困ったことになりました。 昭和の出来事が、きれいに三つ出てきたのです。昭和51年のTK-80発売、昭和54年の神野寺トラ脱走事件、昭和59年のひまわり3号打ち上げ。しかも自分の年齢を当てはめてみると、順に小学1年生、小学4年生、中学3年生。少年時代がちょうど三段に切り取られている。 これはいい記事が書けそうだ、と思いました。 思ったのですが、正直に申し上げます。私は、この三つをどれ一つとして覚えていません。 「あの夏か」という手応えが、まったく立ち上がってこない。三つ並んで、三つとも空白でした。 ただ、書きながら気づいたことがあります。同じ「覚えていない」でも、覚えていない理由がそれぞれ違うのです。早すぎて届かなかったもの。近いのに届かなかったもの。近すぎて、届いていることにさえ気づかなかったもの。 その三つの距離の話を、今日は書いてみます。 昭和54年、隣の県でトラが逃げた まずは真ん中の、いちばん派手な話から。 昭和54年8月2日の夜、千葉県君津市の鹿野山にある神野寺という寺で、飼われていたベンガルトラ3頭が檻から逃げ出しました。関東最古とも伝えられる古刹の境内に、当時は観光用の動物園が併設されていて、十二支にちなんだ動物たちが飼われていたのだそうです。 3頭のうち1頭はすぐに戻ってきましたが、生後1年ほどのオスとメスの2頭が行方不明になりました。体長はおよそ1.5メートル、体重は100キロ前後。まだ子どもとはいえ、山に放たれたトラです。 寺からの通報を受けた千葉県警が現地対策本部を設置したのが、翌3日の未明でした。警察官、消防団、猟友会。総勢およそ500人が山に入り、周辺の住民には外出禁止令が出されます。夏休みの真っ最中で、寺の周辺には観光客や合宿中の学生も滞在していました。近くのマザー牧場で予定されていた野外コンサートも中止になっています。 メスは4日の朝に射殺されました。ここで話が複雑になります。全国から「射殺するな」「かわいそうだ」という抗議が殺到し、寺の住職までが射殺という判断を疑問視する発言をした。これに猟友会が激怒して、捜索は一時中断してしまいます。 残るオスは、そこから山中を逃げ続けました。決着がついたのは28日。近隣の民家の飼い犬がトラに襲われて死んでいるのが見つかり、その日のうちに射殺されて、27日間の騒動はようやく終わりました。 日本中がひと夏、山に潜む1頭のトラを追いかけていたわけです。連日ニュースになったはずですし、テレビの前で息を呑んだ子どもも大勢いたはずです。 なのに、私にはその記憶がない。 なぜだろうと考えて、地図を見て、腑に落ちました。君津は、たしかに隣の県です。距離でいえば東京の西のはずれより近いくらいかもしれません。でも当時のわが家に車はなく、父は休みらしい休みがない人で、家族で泊まりがけの旅行に出た記憶も一度もない。房総というのは、私にとって「行ったことのない土地」でした。 行ったことのない土地は、地図の上でどれだけ近くても、遠いのです。10歳の私にとって、鹿野山は月の裏側と大差なかったのだと思います。 昭和51年、8万8500円の基板 次は、いちばん古い話。 昭和51年8月3日、日本電気――今のNECが、TK-80という製品を発売しました。「Training Kit」の頭文字を取った名前のとおり、これは完成品ではありません。ビニール袋に入った部品と、組み立て説明書と、回路図。買った人が自分でハンダごてを握って、一枚の基板の上に組み上げる。そういう代物でした。 価格は8万8500円。中途半端な数字に見えますが、これには理由があって、当時の企業で係長や課長が自分の判断で決裁できる金額の上限が10万円だったからだ、と伝えられています。技術者が上司に相談せずに買える値段。それが8万8500円でした。 そもそも売る側も、これが売れるとは思っていませんでした。マイクロプロセッサという新しい部品を売り込もうにも、客先を回って説明しても理解してもらえない。ならば技術者に触って覚えてもらおう、という販売促進のための教材だったのです。月に200台も出れば上出来、という見込みでした。 ふたを開けたら、月に2000台売れました。 しかも買ったのは想定していた企業の技術者だけではなく、学生や、経営者や、ただの物好きたちでした。秋葉原のラジオ会館に開設されたサポート窓口には人が集まり、そこからパソコンという文化が立ち上がっていく。日本のマイコンブームは、この一枚の基板から始まったといわれています。 このとき、私は7歳。小学1年生の夏休みです。 覚えていないのは当然だ、と胸を張って言えます。だってこれは、大人ですら誰も知らなかった出来事なのですから。売っている本人たちが月200台と踏んでいたものが、どうして下町の小学1年生に届くでしょうか。 ニュースが子どもに届かなかったのではなく、ニュースそのものがまだ存在していなかった。トラの話とは、まるで種類の違う「遠さ」です。 昭和59年、天気予報の裏側が打ち上がった 三つめ。昭和59年8月3日、種子島宇宙センターからN-IIロケット6号機が飛び立ちました。積んでいたのは静止気象衛星「ひまわり3号」です。 ここで少しおかしな話があります。この打ち上げ、本来の予定より2日遅れました。理由は、台風7号の接近です。 台風を見張るために飛ばす衛星が、台風に足止めされていた。昭和の夏らしいというか、なんとも人間くさい話だと思います。 ひまわり3号は、この年の秋から本格的な運用に入りました。地球の雲の画像を1日に何度も送ってきて、それがそのまま夕方のテレビの天気予報に流れる。私たちが「明日は雨か」と口にするとき、その根拠は宇宙から届いていたわけです。 このとき、私は15歳。中学3年生でした。 そして三つのなかで、この打ち上げを覚えていないことが、いちばん自分でも意外でした。トラや基板と違って、ひまわりの成果は毎日目に入っていたはずだからです。テレビをつければ、白い渦がぐるぐると回っている。あの映像を見ていない日のほうが少なかったでしょう。 ひまわりの初号機が上がったのは昭和52年です。私が小学2年生のときですから、物心ついてからこちら、雲の写真が映る天気予報しか知らずに育ったことになります。3号はその三代目。世代交代が起きていたことにも、当然ながらまるで気づいていませんでした。 つまり私は、恩恵だけを受け取って、その出どころに一度も関心を向けなかったということになります。近すぎて、意識の対象にすらならなかった。空気を覚えていないのと同じことです。 遠すぎて届かないものと、近すぎて見えないもの。人間が取りこぼすものには、どうやら両側があるらしいと、この歳になって思います。 同じ日付、同じ会社 ここまで書いてきて、ひとつ気づいたことがあります。 TK-80をつくったのは日本電気です。そしてひまわり3号を開発・製造したのも、日本電気でした。 8年の隔たりを挟んで、同じ8月3日に、同じ会社が、一方では8万8500円の裸の基板を、一方では宇宙に浮かべる気象衛星を世に出している。片方は日本のパソコン文化の出発点になり、片方は毎日の天気予報を支えた。 昭和という時代の底力みたいなものが、この符合には少しだけ透けて見える気がします。 そして今、私はその基板の子孫にあたる機械でこの文章を書き、朝はその衛星の子孫が撮った雲を見て一日の見通しを立てている。覚えていなかった二つの出来事が、いつのまにか私の生活そのものになっていた。 ...

August 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月2日──道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場

車道の真ん中を、堂々と歩く 道路の真ん中を歩く。あれは何度やっても、少しだけ悪いことをしているような、妙にわくわくする感覚があります。いつもは白い線の内側にいなければいけない場所に、堂々と立っている。あの高揚は、大人になっても変わりません。 その感覚が東京で初めて公式に許されたのが、1970年(昭和45年)8月2日でした。銀座、新宿、池袋、浅草。この4か所で、東京都内初の歩行者天国が実施されたのです。このとき私は1歳4か月。当然ながら記憶はありませんが、今回調べていて、なぜ道路を人間に返さなければならなかったのかを知り、少し息を呑みました。 「道路が笑顔で埋まった」 その日の人出は、4か所あわせておよそ80万人。 翌8月3日の東京新聞は、朝刊の1面トップでこの日を伝えました。見出しは「道路が笑顔で埋まった」。当時の写真を見ると、銀座通りは本当に人・人・人で埋め尽くされています。日傘、半袖のワイシャツ、子どもの手を引く母親。そのすべてが、いつもは車が占領しているはずのアスファルトの上に立っている。 言い出したのは、当時の東京都知事・美濃部亮吉さんでした。「車から人間へ」。この一言に、あの時代の東京が抱えていたものが全部詰まっています。 なぜ、道路を人間に返す必要があったのか 1970年は、日本の交通事故死者数が過去最悪を記録した年でした。その数、1万6,765人。1年で、です。あまりの多さに、当時これは「交通戦争」と呼ばれました。日清戦争の戦死者数を上回る勢いで人が死んでいく、という意味です。しかもそのうち15歳以下の子どもが12.5パーセント。8人に1人が子どもでした。 そしてもうひとつ、歩行者天国のわずか2週間前の出来事があります。 1970年7月18日、東京都杉並区の東京立正高校で、体育の授業を受けていた生徒43人が次々と目やのどの痛みを訴え、病院に運ばれました。日本で初めて確認された、光化学スモッグの被害です。この日、同じ症状を訴えた人は都内だけで5,208人。原因は、自動車や工場から出る排気ガスが強い紫外線を浴びて化学反応を起こしたことでした。 体育の授業中に、高校生が空気で倒れる。そんな夏の直後に、東京は道路から車を追い出したのです。歩行者天国というのんびりした響きの裏に、これだけ切実な事情がありました。 道路は、もともと遊び場だった もっとも、道路を人に開放する試みはこれが最初ではありません。1958年(昭和33年)には神田の東紺屋町で、日曜と祝日に道路を柵で仕切って子どもたちの遊び場として提供する「遊戯道路」が設けられ、後に都内へ広がっていきました。 「遊戯道路」という言葉が、私はとても好きです。道路は遊ぶところだ、と大人が認めていた。子どもが道路で遊ぶのは当たり前で、だから車のほうに遠慮してもらう。そういう順番だったのです。 そして、その順番が生きていた場所を、私はよく知っています。 高砂の「路地球場」 高砂で過ごした子ども時代を思い返すと、いちばん印象に残っているのは、やはり「路地野球」です。私たちにとって道路は、単なる通り道ではなく、毎日のように集まる遊び場であり、野球場そのものでした。 もちろん幹線道路ではありません。遊んでいたのは幅4メートルほどの細い路地で、車が頻繁に通るような場所ではなく、近所の人が行き来する程度の静かな道でした。そこに数人、多い日には十数人もの子どもたちが集まり、二つのチームに分かれて試合をしていました。使うのは柔らかいビニール製のボールとプラスチックのバット。みんな思い思いに好きなプロ野球チームの帽子をかぶり、本物のプロ野球選手になったような気分でプレーしていたものです。 グラウンドづくりも子どもたちの仕事でした。どこから拾ってきたのか、ブロック塀の破片で道路にホームベースや塁の位置を書き、毎日試合をしていたので、その路地にはいつもベースの跡が残っていました。誰に教わるでもなく、みんなで自然に「球場」を作り上げていたのです。 路地で野球をする以上、本物の球場のようにはいきません。道の両側には民家が並び、打球は塀や壁に当たって思わぬ方向へ跳ね返ります。だからこそ独自のルールが次々と生まれました。塀に当たって跳ね返ったボールをノーバウンドで捕ればアウト。前方の家の庭まで打ち込めばホームラン。路地の形そのものが、球場のフェンスやスタンドの役割を果たしていたような感覚でした。 さらに面白かったのは、路地ごとにルールが違っていたことです。近所のあちこちに「路地球場」があり、別の町内の友達に誘われて遊びに行くと、その場所ならではのルールがある。まるで違う球場へ遠征するような気分になったものです。 中でも忘れられないのが、「かみなりおやじ」と呼ばれていた家です。その家にボールを打ち込むと、もしご主人に気づかれたら大目玉。だからその家に打ち込んだ瞬間、「即チェンジ!」という特別ルールがありました。ホームランでもアウトでもなく、とにかく攻守交代です。子どもたちは笑いながらも、その家だけは本気で避けようとしていました。今思えば、近所の大人たちとの距離が近かった時代ならではの、微笑ましいルールだったように思います。 もちろん道路ですから、人や車が通れば試合は一時中断です。「車!」「人来た!」と誰かが声を上げると、みんな一斉にプレーを止め、通り過ぎるのを待ってから何事もなかったように再開しました。当時は今ほど交通量も多くなく、子どもたちも自然と周囲に気を配りながら遊んでいました。 今では道路で野球をする光景を見ることはほとんどありません。しかし昭和のあの頃、私たちにとって路地は最高の野球場であり、毎日が公式戦のような真剣勝負の舞台でした。道幅わずか数メートルの小さな「球場」に、子どもたちの工夫と笑い声、そして野球への夢がぎっしり詰まっていたのです。 銀座は憧れの都会、上野は普段着の都会 歩行者天国そのものの記憶も、ひとつあります。 子どもの頃、歩行者天国といえば、何度か銀座へ連れて行ってもらった記憶があります。父は仕事で休日も家を空けることが多かったので、一緒に出かけるのは母と妹、そして私の三人でした。 当時の銀座は、私にとってまさに「特別な都会」でした。テレビや雑誌で見るような華やかな街で、大人がおしゃれをして歩く場所。実際に歩行者天国を歩いてみても、どこか自分が場違いなところへ来てしまったような感覚がありました。人の多さや洗練された街並みに圧倒され、わくわくする反面、なぜか落ち着かず、少し疲れてしまったことを覚えています。 そして帰り道、上野に立ち寄ると、不思議なくらい気持ちがほっとしました。「やっぱり上野くらいがちょうどいいな」「ここが自分にとって落ち着く都会なんだ」と感じた、その時の感覚は今でも印象に残っています。 私にとって本当に身近だった歩行者天国は、銀座ではなく上野中央通りでした。高砂から京成線一本、乗り換えもなく行けて、家族で買い物や食事に出かけるにはちょうどいい距離です。百貨店やアメ横があり、公園や動物園、美術館もある。見るものがたくさんあって、それでいて下町らしい親しみやすさも残っている。背伸びをしなくても楽しめる街だったのです。 銀座が「憧れの都会」だとすれば、上野は「普段着の都会」。そんな違いを、子どもながらに感じていたように思います。だからこそ上野では、歩行者天国を歩いていても緊張することはなく、人混みの中にいてもどこか安心感がありました。 高砂で育った私にとって、銀座は「東京を代表する特別な街」、上野は「自分たち下町の延長線上にある、一番身近な都会」でした。 実は、一本の道だった ところが今回、調べていて驚いたことがあります。 1973年(昭和48年)6月10日、上野から銀座まで5.5キロにわたる、当時「世界一長い」と言われた歩行者天国が実現していたのです。上野広小路にこれだけの人出があったのは、関東大震災のとき、昭和5年の海と空の博覧会に次いで三度目のことだったといいます。 つまり、私が場違いだと感じた銀座と、ほっとした上野は、同じ中央通りの南の端と北の端だったわけです。車を締め出されたアスファルトは、ずっと一本につながっていた。あの居心地の悪さと安心感の差は、道が違ったからではなく、同じ道のどちら側に立っているかの違いだったと思うと、少し可笑しくなります。 80万人と、十数人 こうして並べてみると、面白いことに気づきます。 銀座には80万人が車道にあふれ、高砂の路地には十数人が集まってブロック塀の破片でベースを描いていた。片方は都知事が号令をかけた一大イベントで、もう片方は誰の許可も得ていない勝手な占領です。けれど、やっていることは同じでした。アスファルトの上に、車ではなく人が立つ。銀座の80万人は日曜の数時間だけそれをやり、私たちは毎日やっていたわけです。 「車!」の一声でみんなが道の端に寄る。あれは、道路を借りている側の作法でした。歩行者天国が標識と警察官の力で実現していたものを、路地の子どもたちは声と目配りだけで成立させていたのかもしれません。 令和のいま 銀座の歩行者天国は、いまも続いています。土曜・日曜と祝日、中央通りから車が消えて、人が真ん中を歩く。あの日から56年、あの光景はまだ生きています。一方、5.5キロの「世界一長い歩行者天国」のほうは、神田のあたりで途切れ、上野までつながることはなくなりました。 交通事故の死者数は、2021年には2,636人まで減りました。1970年の1万6,765人の、およそ6分の1です。ガードレール、歩道橋、横断歩道。あの年に必死で整備が始まったものが、半世紀かけてこれだけの差を生みました。 その代わりに、路地から子どもの声が消えました。安全と引き換えに何かを手放した、と言うつもりはありません。1万6,765人という数字を知ってしまうと、あの時代がよかったとは、とても言えないからです。ただ、ブロック塀の破片で描いたベースの跡が、雨で消えるまで路地に残っていたこと。あれだけは覚えておきたいと思っています。 みなさんは、子どものころ道路で何をして遊んでいましたか。あるいは、歩行者天国の思い出はありますか。よかったら教えてください。 いまの子どもは、さすがに路地では野球ができません。でも公園や庭先でなら、あの頃と同じことができます。柔らかいカラーバットとボール、それにグローブがひとそろいになったセットです。当たっても痛くない素材なので、小さなお子さんやお孫さんの「はじめての野球」にちょうどいい。ブロック塀のかわりに、おじいちゃんがピッチャーをやってあげてください。 野球3種セット(カラーバット/やわらかボール/子供用グローブ)当たっても痛くないやわらか素材の入門セット。バット・ボール・グローブが揃うので、公園や庭先ですぐに遊べる。孫との初めてのキャッチボールにも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

August 2, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月1日──「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ

夏休みのど真ん中に、ひとりのスターが生まれた 8月1日。子どものころ、この日は「夏休みがまだたっぷり残っている」という、いちばん贅沢な時期でした。カレンダーの残りが分厚くて、8月31日という言葉がまだ他人事だったころです。 その8月1日に、16歳の少年がレコード店の棚に並びました。1972年(昭和47年)、郷ひろみさんが「男の子女の子」でデビューします。 このとき、私は3歳です。当然ながら、この日のことは何ひとつ覚えていません。ただ、この日から始まったものが、そのあと十数年にわたって、私の家の夜の「音」をつくり続けることになります。 「フォーリーブスの弟」から始まった デビュー曲のキャッチフレーズは「フォーリーブスの弟」。4人組の先輩より多く伸びるようにと、4より大きい5(ゴー)から「郷」の字が当てられました。芸名の由来からして、いま聞くとずいぶん大らかな、昭和らしい話です。 郷さんはこの年の1月2日にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優デビューしており、歌手はその後でした。9月25日にはデビュー曲がオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、11月には第14回日本レコード大賞の新人賞を受賞します。 三人が揃った 「新御三家」。郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の三人です。 いちばん早かったのは野口五郎さんでした。1971年5月1日に「博多みれん」でデビュー。これが演歌調で、2作目の「青いリンゴ」でポップス路線に転じて成功します。次が西城秀樹さんで、1972年3月25日の「恋する季節」。そして同じ年の8月1日に郷ひろみさん。 三人のなかでデビューはいちばん遅かったのに、オリコンのベストテン入りは郷さんが最初でした。野口さんの「オレンジの雨」、西城さんの「情熱の嵐」がベストテンに入るのは翌1973年になってから。そしてその1973年、郷さんはブロマイドの年間売上で1位となり、三人は「新御三家」と呼ばれるようになります。 こうして1年3か月ほどの間に三人が出そろい、ここから昭和50年代いっぱい、茶の間のテレビは、この三人抜きには回らなくなります。 相撲から歌番組へ ——我が家の、いつもの夜 当時は本当に毎日のように、どこかの局で歌番組が放送されていた印象があります。今のように音楽を好きなときに聴ける時代ではなかったので、新しい曲や人気歌手を見ることができる歌番組は、家族みんなの楽しみでした。 我が家でも夕食時になると自然とテレビがつき、ニュースや野球中継がない日は歌番組が流れていました。とくに1978年に始まった『ザ・ベストテン』は家族みんなが楽しみにしていた番組で、「今日は誰が1位かな」「あの歌手は何位まで上がるかな」と順位を見ながら話をするのも毎週の楽しみでした。ベストテン入りした曲は学校でも話題になり、翌日には友達同士で口ずさんでいた記憶があります。 チャンネル権というものは、我が家には特にありませんでした。父が家にいる時間帯は父の希望が優先でしたが、歌番組は家族全員で楽しめる内容だったため、大きくチャンネル争いになることはあまりなかったのです。相撲中継の時期には夕方5時の門限に間に合うように帰宅し、そのまま相撲を見て、夕食後はその流れで歌番組を見る。相撲から歌番組へと続くこの流れが、我が家のいつもの夜の過ごし方でした。 テレビは一家に一台という家庭もまだ珍しくなく、家族が同じ番組を一緒に見るのが当たり前の時代です。だからこそ流行歌は家族全員が自然と覚えてしまい、歌手の名前や新曲が共通の話題になっていました。今振り返ると、家族みんなで同じ音楽を楽しんだ、とても温かい時間だったと思います。 男の子だって、夢中でした ここで、はっきり書いておきたいことがあります。男子から見た新御三家は、決して「女の子だけのアイドル」ではありませんでした。私自身、かなり夢中になって見ていました。歌番組が始まると自然とテレビの前に座り、誰が出るのか楽しみにしていたものです。 郷ひろみさんといえば、「お嫁サンバ」はもちろん、「哀愁のカサブランカ」、そして樹木希林さんとのデュエット曲「林檎殺人事件」。あの曲は『ザ・ベストテン』で4週連続の1位になりました。ほかにも「よろしく哀愁」「ハリウッド・スキャンダル」と、挙げ始めたらきりがありません。テレビに郷さんが登場すると、華やかな衣装とキレのあるダンス、そして抜群のスター性に、子どもながら「やっぱりスターは違うな」と感じていました。 西城秀樹さんは、やはり何といっても「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。1979年のこの曲はオリコンで5週連続1位、80.8万枚を売り上げ、『ザ・ベストテン』では番組初の満点9999点を記録しました。あの曲が流れ始めると、日本中が熱狂していたと言っても大げさではないと思います。サビになると、みんなが自然と腕で「Y」「M」「C」「A」の文字を作りながら歌っていました。学校でも友達同士でまねをしたり、運動会やレクリエーションで振り付けを踊ったりして、「YMCA」のポーズを知らない子はいないくらいの大ブーム。今でもイントロを聴くだけで、当時の熱気がよみがえってきます。 野口五郎さんも歌唱力が抜群で、「私鉄沿線」や「甘い生活」など、しっとりとした名曲を数多く歌っていました。郷さんや西城さんとはまた違う魅力があり、新御三家はそれぞれ個性がはっきりしていて、そこが歌番組を見る楽しみの一つでもありました。 数字にも占有ぶりが出ています。1970年代後半から1980年代前半にかけて、三人のうち誰か1人が毎週『夜のヒットスタジオ』に出演していました。出演回数は西城さん188回、郷さん175回、野口さん123回です。 新曲は歌番組で初めて耳にし、翌日には学校で「あの歌よかったね」「昨日見た?」という会話が自然に始まる。男子も女子も関係なく新御三家の曲を口ずさんでいましたし、誰が好きかを話題にすることも珍しくありませんでした。彼らはまさに、時代を象徴するスターだったと思います。 「上の世代の大スター」になっていく 中学、高校へと進むにつれて、子どものころのように毎週欠かさず歌番組を見ることは少なくなっていきました。部活動や受験勉強で忙しくなり、テレビそのものを見る時間が減っていったこともあります。私自身が夢中になったのはプロレスと野球で、アイドルといえば松田聖子ではなく河合奈保子、そして中森明菜でした。 それでも、新曲が出れば気になりますし、新御三家の存在が自分の中から消えることはありませんでした。子どものころに夢中になって見ていたスターですから、歌番組で見かければ自然と足を止めてしまう、そんな存在だったように思います。 高校生になるころには、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんは、もはや「憧れのお兄さん」というよりも、日本を代表する大スターという印象でした。自分たちよりずっと上の世代のスターという感覚になっていましたが、それでも新曲や活躍はしっかりチェックしていました。 二十数年後、体育館のステージに そして、その思いが何十年か後に、思いがけない形でよみがえる出来事がありました。 以前、中森明菜さんについて書いた記事で、社会人になって勤務していた会社の全国大会で、突然、体育館のステージに明菜さんが現れた感動を書きました。実はその前年の全国大会にも、私は野球で出場していたのです。そして、その年のシークレットゲストこそが、郷ひろみさんでした。 大会二日目の夜、会場となった体育館には大勢の社員が集まり、「今年は誰が来るんだろう」と期待に胸を膨らませていました。そして照明が落ち、ステージに現れたのが郷ひろみさん。あの瞬間の歓声は、今でも忘れることができません。 披露してくれたのは、当時大ヒットしていた「GOLDFINGER ‘99」。イントロが流れた瞬間、会場のボルテージは一気に最高潮に達しました。体育館中の誰もがリズムに乗り、手拍子をしながらサビを大合唱。「ア・チ・チ・ア・チ!」というフレーズは、会場全体が一つになって響き渡り、まるで本物のコンサート会場にいるような熱気でした。 子どものころ、茶の間のテレビ越しに「お嫁サンバ」や「林檎殺人事件」を夢中で見ていたあの郷ひろみさんが、いまは目の前のステージで歌っている——その不思議な感覚は、言葉では表せません。テレビの向こう側の遠いスターだった人と、同じ空間で歌い、同じ時間を共有している。その事実だけで胸がいっぱいになりました。 翌年には、中森明菜さんが同じ体育館のステージに立ちました。子どものころに歌番組で憧れていたスターたちと、大人になって同じ空間を共有できたあの二年間は、私にとって忘れることのできない特別な思い出です。少年時代にブラウン管の向こうで輝いていたスターたちが、時を経て目の前で歌ってくれた。昭和という時代を生きた私だからこそ味わえた、何ものにも代えがたい幸せな時間だったように思います。 令和のいま 2018年5月、西城秀樹さんが亡くなりました。63歳でした。三人揃って毎週テレビに映っていたころを知っている身には、いまだにうまく飲み込めない出来事です。 一方で郷ひろみさんは、70歳になったいまも現役です。1972年8月1日に棚に並んだ16歳が、54年間ずっと第一線にいる。ちょっと考えられないことです。 そして「YOUNG MAN」は、いまも運動会や応援席で鳴っています。歌った人が誰かを知らない子どもたちが、あの「Y・M・C・A」のポーズをとっている。それを見るたびに、あの人たちが作ったものは、名前が消えてもまだ残っているんだな、と思います。 みなさんは、新御三家のうち誰派でしたか。あるいは、ご家庭の茶の間ではどの歌番組が流れていましたか。よかったら教えてください。 あの夜9時、家族みんなでテレビの前に集まった『ザ・ベストテン』。その舞台裏を、番組を作った総合演出者みずからが書いた一冊です。ランキングはどう決まっていたのか、あの中継はどうやって実現したのか——歌手を追いかけて全国を飛び回ったスタッフたちの奮闘が、昭和の歌謡曲の熱気とともによみがえります。あの頃テレビの前にいた方には、たまらない読み物です。 ザ・ベストテン(新潮文庫)山田修爾。番組の総合演出者が明かす『ザ・ベストテン』の舞台裏。ランキングの仕組みから中継の裏側まで、昭和歌謡が最も輝いた時代の記録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月31日】欠けていく太陽と、黒い下敷き | 次の記事:【8月2日】道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場 ▶ ...

August 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月31日──欠けていく太陽と、黒い下敷き

今日は7月31日。7月の最終日です。 夏休みが始まって十日ほど。宿題帳の白いページと、朝顔の観察日記と、朝から降りそそぐ蝉の声。八月の本番はまだこれからで、子どもにとっては一年でいちばん長くて濃い季節の、入り口のあたりでしょうか。 そんな夏の一日ですが、昭和56年(1981年)の7月31日、日本の空ではちょっと不思議なことが起きていました。 お昼どき、太陽が欠けたのです。 昭和56年、夏の真昼に太陽が欠けた 昭和56年7月31日、日本各地で部分日食が観測されました。 日食というのは、太陽と地球のあいだに月が割り込んで、太陽を隠してしまう現象です。月が太陽をすっぽり覆えば皆既日食、真ん中だけを隠してリングのように見えれば金環日食、そして一部分だけをかじり取るように隠すのが部分日食です。 この日、月の影が地球にいちばん濃く落ちた場所——つまり皆既日食が見られたのは、当時のソ連の南部でした。黒海のあたりからシベリアへと、影の帯が大陸を横切っていったのです。日本はその帯からは外れていましたが、太陽の一部が欠ける部分日食のほうは、昼前から午後にかけての空で、しっかりと見ることができました。 では、どのくらい欠けたのか。記録によれば、名古屋で食分がおよそ0.55。食分というのは太陽の直径がどれだけ隠されたかを表す数字で、0.55なら太陽の半分以上が月に隠されたことになります。関東でもだいたい半分前後、そして北へ行くほど深く欠けました。北日本では、月が太陽をもっとぐいと食べ込んでいったのです。 太陽の半分が消える。しかも夏休みの真っ昼間に。これは子どもにとって、ちょっとした事件だったはずです。 半分も欠けると、あたりの様子も少しだけ変わります。真っ暗になるわけではありませんが、真昼の光がなんとなく薄くなり、影の輪郭がいつもより硬くなる。じりじりと照りつけていた日差しが、ほんの少しだけやわらぐ。空を見上げなくても、「あれ、なんだか変だぞ」と肌で感じる——そういう不思議な明るさになるのです。 太陽が欠けるという出来事を、昔の人はとても恐れていました。平安時代の975年、京の都で皆既日食が起きたときには、太陽が墨のように光を失い、鳥が飛び乱れ、昼なのに空に星が見えたと記録されています。人々は不吉なことの前触れだとおびえ、朝廷は「大赦」——罪人を赦す特別なはからい——まで出したほどでした。 それが、昭和の子どもにとっては、恐怖でもなんでもありませんでした。ただただ「面白いもの」だったのです。学校の理科で、なぜ日食が起きるのかを習っている。だから怖くない。怖くないから、思いきりわくわくできる。太陽と月と地球の位置関係が、自分の頭の真上で実演されている——それは、教科書が本物になる瞬間でした。 ちなみに昭和56年という年は、赤城乳業の「ガリガリ君」や、ロッテの「雪見だいふく」が世に出た年でもありました。黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』が大ブームになったのもこの年です。冷凍庫の中身も、テレビの中も、少しずつ新しくなっていく——そんな時代の夏でした。 下敷きと、煤ガラスと さて、昭和の子どもは、この欠けた太陽を、いったいどうやって見ていたのでしょう。 太陽をそのまま肉眼で見てはいけない。それは今も昔も同じです。でも、昭和の観察方法はなかなか大胆でした。 いちばん多かったのは、黒い下敷きです。筆箱の横にいつも差してある、あの黒いプラスチックの下敷き。あれを目に当てて、みんなで空を見上げたものです。ほかにも、ロウソクの炎でガラス板を炙って煤をつけた「煤ガラス」、真っ黒なサングラス、使い終わって真っ黒に感光したフィルム。とにかく「黒くて、向こうが透けて見えにくいもの」を、片っ端から太陽にかざしていました。 ただ、ここは正直に書いておかなければなりません。これらの方法は、今では「やってはいけない」とされています。黒い下敷きや煤ガラスは、目に見える光は減らしてくれても、目に見えない赤外線や紫外線までは防げません。気づかないうちに目の奥、網膜を傷めてしまう危険があるのです。当時はそこまで知られていませんでした。「みんながやっていたから」で済んでいた時代でした。 そんな中に、道具がいらなくて、しかも安全な方法もひとつありました。木漏れ日です。木の葉と葉のあいだの小さな隙間が、ちょうどピンホールカメラのように働いて、地面に映る木漏れ日のひとつひとつが、欠けた太陽と同じ三日月の形になる。空を見上げなくても、足元に日食が映っていたのです。あれに気づいた子は、ちょっと得意げだったものです。 夏休みという時期も、日食にはうってつけでした。学校は休みでも、こういう日は「自由研究にちょうどいい」と、太陽の欠け具合を時間ごとにスケッチした子もいたはずです。何時何分にどれだけ欠けて、いつ元に戻ったか。画用紙に並んだいくつもの丸い太陽は、それだけで立派な夏の研究になりました。宿題に追われる夏に、空のほうから宿題の題材が降ってきたようなものです。 私の記憶 昭和56年の夏、私は小学6年生、12歳でした。 正直に言うと、太陽が欠けたことそのものは、はっきりとは覚えていません。ただ、7月31日という日づけには、日食とはまったく別の、とても濃い記憶が残っています。 夏休みの朝といえば、まずラジオ体操でした。首から下げた出席カードに、毎朝ひとつずつ判子を押してもらう。そして、その最終日がちょうど7月31日だったのです。最終日には、ためた判子のカードと引き換えに、花火やお菓子、ノートといった景品と交換してもらえました。ひと夏かけて集めた判子が、最後にごほうびに変わる日。子どもにとっては、これがちょっとした晴れ舞台でした。 ラジオ体操が終わると、午前中は学校のプールです。ふた学年ごとに分かれて泳ぎに行く日があって、それがない日には、自転車で5分ほどの区民プールへ友達数人と繰り出して、2時間くらいずっと泳いでいました。プールがなければ虫取り。とにかく、朝から日が暮れるまで、外にいた夏でした。 そう考えると、あの日——太陽が昼前から午後にかけて半分近くも欠けていったころ、私はたぶん、もらったばかりの景品を握りしめていたか、区民プールの水の中で友達とふざけ合っていたかの、どちらかだったのだと思います。頭の真上の空で月が太陽を食べていることよりも、手にした花火のほうが、そのときの私にとっては、よほどの大事件だったのでしょう。 当時はインターネットもスマートフォンもありません。珍しい自然現象があっても、情報源はテレビと新聞、そして近所の口コミくらいでした。だからこそ、ひとつの出来事を、家族や友達と同じ時間に分け合うことに、特別な意味がありました。日食そのものを覚えていない私でも、「太陽を直接見ちゃだめだよ」と大人に言われたような——そんな声の記憶だけは、どこか夏の底に沈んでいる気がします。 そしてうれしいことに、あのラジオ体操は今も同じように続いていて、今度は私の子どもが、あの出席カードに判子を押してもらっています(笑)。 じつは、これは今朝の風景です。夏祭りの提灯がまだ揺れている朝の広場に、子どもたちが集まってくる。そして最終日の今日は、あの頃とまったく同じように、景品の引き換えがありました。 私の子どもがもらってきたのは、手持ち花火のセットと、のり塩のポテトチップスでした。 ——45年前に私がもらった、花火と、お菓子。並べてみれば、ほとんど同じです。カードと景品と、夏の朝のあの眠たさだけは、何ひとつ変わっていません。太陽が半分も欠けたあの夏から45年が過ぎても、子どもの夏の入り口は、ちゃんと同じ場所にありました。 令和の空を見上げる 時代は流れて、令和になりました。 平成に入ってからも、日本では大きな日食が何度かありました。平成21年(2009年)7月22日には、鹿児島のトカラ列島で皆既日食が見られ、日本中が朝から空を見上げました。平成24年(2012年)5月21日には、東京でも金環日食が見られました。朝の通勤・通学の時間帯、駅のホームでも、歩道でも、多くの人が立ち止まって同じ空を見ていた——あの朝を覚えている方も多いでしょう。 このときの主役は、もう黒い下敷きではありませんでした。「日食グラス」です。専用の遮光板が入った観察メガネが、コンビニでも本屋でも売られ、直前には売り切れが続出しました。そしてもうひとつ、昭和にはなかったもの——スマートフォン。欠けていく太陽を写真に撮って、その場でSNSに上げる。日本中が同じ瞬間に、同じ空を、画面越しにも分かち合ったのです。 道具は下敷きから日食グラスへ。ひとりで見上げた空から、みんなで見上げる空へ。ずいぶん変わりました。でも、太陽がだんだん欠けていくのを見上げるときの、あの「うわぁ」という声にならない気持ちだけは、昭和の子どもも令和の子どもも、たぶん同じなのだと思います。 おわりに 次に東京のすぐ近くで大きな日食が起きるのは、そう遠い先ではありません。2035年9月2日、北陸から北関東にかけて、皆既日食の帯が通る予定です。東京でも、太陽がほとんど欠ける大きな部分日食になります。そのとき私は66歳。孫がいれば、一緒に空を見上げているかもしれません。もちろん今度は、ちゃんとした日食グラスで。 昭和56年の、あの夏の真昼。太陽が欠けていったあの日を、あなたは覚えていますか。 そして、何で空を見上げましたか。黒い下敷きでしたか、それとも——。 昭和の子どもは黒い下敷きで見上げましたが、今はもう、それをやってはいけません。太陽観察には、専用の遮光板を使ってください。これは日本製の「たいようめがね」。JIS規格の遮光板で、日食はもちろん、太陽黒点の観察にも使えます。夏休みの自由研究にもぴったりですし、何より安全です。2035年の皆既日食まで、大切に取っておくのもいいかもしれません。 太陽観察の必需品 たいようめがね(遮光板)日食・太陽観察用の遮光板。黒い下敷きや煤ガラスと違い、赤外線・紫外線もしっかりカットして目を守る。自由研究にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 31, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月30日──沖縄の車が右から左へ、一夜で入れ替わった日

今日は7月30日。夏の日差しが、いよいよ本気になってくる頃です。 正直に告白します。私はこの日にあった出来事を、まったく覚えていません。 1978年(昭和53年)のこの日、私は小学3年生。9歳です。9歳といえば、記憶にしっかり残っていておかしくない年齢です。運動会のこと、夏休みのこと、あの頃見ていたテレビ番組のことなら、いくらでも思い出せます。それなのに、この日のことだけは、頭の中が真っ白なのです。 でもそれは、私が忘れっぽいからではなかったのかもしれません。調べていくうちに、そう思うようになりました。この日、東京から遠く離れた沖縄で、世界にも例のない大事業が行われていたのです。 覚えていない、という不思議 1978年7月30日、午前6時。沖縄県じゅうの車が、一夜にして右側通行から左側通行へと切り替わりました。 実施された日付にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれるこの出来事は、いま振り返れば、日本の交通史に残る大事件です。それなのに、当時9歳だった私の記憶には、かけらも残っていません。 なぜだろう、と考えてみました。 私が育ったのは、東京・葛飾の高砂。京成高砂駅のすぐそばの、下町でした。我が家に車はありませんでした。父は週に6日働いていて、家族で遠くへ出かけることもほとんどない暮らしです。「車が右から左になる」というニュースは、車を運転しない子どもにとって、あまりにも遠い世界の話だったのだと思います。 そもそも「沖縄」という場所自体が、当時の私にはずいぶん遠かった。飛行機に乗ったこともなければ、家族旅行の記憶もない少年にとって、沖縄は地図の上の、南のほうにある名前でしかありませんでした。 実際、この記事を書くにあたって記憶をたどってみても、「沖縄」にまつわる思い出は、私の中から何ひとつ出てきませんでした。よほど縁がなかったのでしょう。あの夏、私は確かにどこかで9歳の毎日を過ごしていたはずなのに、沖縄で起きていた歴史的な一夜とは、まるで別の世界に生きていたようです。 だから、この記事は少し特別です。いつもは自分の記憶をたどって書いていますが、今日は違います。私自身が、この出来事を今あらためて知りながら、みなさんと一緒に驚いていく——そんな記事になります。 一夜で、島がひっくり返った そもそも、なぜ沖縄だけが右側通行だったのでしょうか。 沖縄は戦後の27年近く、アメリカの統治下にありました。車はアメリカと同じ右側通行。日本に復帰したのは1972年(昭和47年)5月15日ですが、そのあとも右側通行は続きました。一つの国では通行方法を一つに統一する——そう定めた国際条約があるにもかかわらず、道路も、標識も、人々の運転の習慣も、一気にひっくり返すことなど簡単にはできません。結局、日本に戻ってからも約6年間、沖縄は「日本なのに車は右」という状態が続いたのです。 その積年の宿題を、たった一晩で片づけたのが「730」でした。 7月29日の午後10時。緊急車両をのぞくすべての車の通行が禁止され、県内一斉にサイレンが鳴り響きました。それを合図に、変更作業が始まります。翌30日の午前6時まで、わずか8時間の勝負でした。 動員された作業員は約800人、車両は約300台。かかった費用は約19億円。標識を付け替え、信号を切り替え、道路に描かれた白線を引き直し、ガードレールの向きまで直していく。気の遠くなるような作業を、真夜中の8時間に詰め込んだのです。 この短時間を可能にしたのが、世界で初めて採用された「カバーアンドテープ方式」でした。あらかじめ左側通行用の標識や信号を設置しておき、それをカバーで覆って隠しておく。当日はそのカバーを外すだけ。道路の白線も、左側通行用のものを先に描いてから黒いテープで覆っておき、当日バーナーでテープを焼き剥がす。考案した久高弘さんの名を取って「久高方式」とも呼ばれています。 さらにこの数日前には台風8号が沖縄に接近していて、信号機や大型標識のカバーが先に吹き飛ばされてしまうという一幕もありました。まさに、天気とも時間とも戦った一夜だったのです。 もっとも、夜が明けてからが本当の勝負でした。長年しみついた右側通行の癖は、ある朝を境にそう簡単には抜けません。切り替え直後は各地で接触事故が相次ぎ、那覇などの市街地では、しばらく交通マヒが続いたといいます。頭ではわかっていても、体が覚えているものはすぐには変えられない。島じゅうの人が、その戸惑いを一緒にくぐり抜けたのです。 沖縄の言葉で、アメリカ統治の時代を「アメリカ世(ゆー)」、日本復帰後を「大和世(やまとゆー)」と言うそうです。「730」は、目に見える形での復帰の総仕上げでした。人々にとっては、単なる交通ルールの変更ではなかったのです。 そのとき、バスはどうなったのか ここからが、私がいちばん驚いた話です。 車が右側通行から左側通行に変わると、いちばん困るのは、実はバスなのです。 考えてみてください。右側通行の国のバスは、乗り降りするドアが車体の右側についています。運転席は左。ところが左側通行になると、お客さんは道路の左側の歩道から乗り降りするので、ドアは左になければいけない。運転席も右に移さなければならない。つまり、それまで走っていたバスは、一台残らず使えなくなってしまうのです。 当時、沖縄島にあった左ハンドル・右ドアのバスは、およそ1,200台。「729車(ナナニイキュウしゃ)」と呼ばれるこれらの車両を、たった一晩で右ハンドル・左ドアに置き換えなければなりませんでした。 全部を改造している時間はありません。そこで、右ハンドルの新車を900台あまり一気に投入し、さらに160台あまりを改造して間に合わせました。このとき導入されたバスを、いまでも「730車(ナナサンマルしゃ)」と呼びます。あまりに大量だったので、メーカーも各社で分担が決められました。琉球バスは日産ディーゼルと日野、那覇交通はいすゞ、東陽バスは日野、沖縄バスは三菱ふそう、というように。 作業当日の段取りも、聞けば聞くほど鮮やかです。 新しい730車は、事前に旧米軍基地の跡地に集結させておく。7月29日、それまでのバス(729車)が最後の運行を終えると同時に、運賃箱や両替用の小銭を抜き取って、そのまま基地跡地に格納。入れ替わりに、パトカーの先導で730車が各営業所へと回送されていきます。車庫では、路線別・ダイヤ別にバスがきれいに並べられ、両替金が積み込まれていく——。 一晩のあいだに、島じゅうのバスが、そっくり別の車両に入れ替わったのです。 私は今、路線バスの運転士として毎日ハンドルを握っています。だから、この話は他人事とは思えません。 バスというのは、一台走らせるだけでも、始業点検をして、運賃箱を確認し、忘れ物がないかを見て、ダイヤどおりに出庫させるまでに、たくさんの人の手がかかっています。営業所では何十台ものバスが、それぞれ決められた順番で動いています。 それなのに、沖縄では、そのすべてを一晩で入れ替えたというのです。車両だけではありません。運賃箱も、小銭も、行先表示も、担当する路線も、翌朝には何事もなかったかのように走り始めなければならない。現場を知る者としては、「本当にそんなことができたのか」と思ってしまうほどの大仕事です。 もし自分がその現場にいたら、一睡もできなかったでしょう。どこか一つでも段取りを間違えれば、翌朝の路線はたちまち混乱してしまいます。それをほとんど混乱なくやり遂げた先人たちの準備力とチームワークには、ただ驚くばかりです。私にとって730は、交通ルールが変わった日というだけではなく、日本のバス業界が成し遂げた、まさに奇跡の一夜だったのだと感じています。 令和に残った、二台のバス あれから、47年が経ちました。 大量に投入された730車も、時とともに古くなり、新しいバスに置き換えられて、一台また一台と姿を消していきました。そして今、当時の姿のまま沖縄に残っている730バスは、沖縄バスと東陽バスが持つ、たった2台だけになりました。記念すべき日には、この2台が右側通行時代を再現して走ることもあるそうです。 私たちが当たり前だと思っている「車は左」という光景。それは、日本のどこでも最初から当たり前だったわけではありませんでした。少なくとも沖縄では、47年前のあの一夜に、800人の手と19億円と、900台を超える新しいバスによって、人の手で作られたものだったのです。 私が毎日握っているハンドル。何百回と曲がってきた左側の車線。乗り降りするお客さんが、当たり前のように左のドアから乗ってくること。そのすべてが、誰かの膨大な準備と苦労の上に成り立っている。そう思うと、いつもの見慣れた景色が、少し違って見えてきます。 おわりに 7月30日。私にとっては、記憶が真っ白な一日でした。 でも、覚えていないということは、知らなくていいということではありませんでした。9歳の私には遠すぎた沖縄の一夜を、50年近く経って、バスのハンドルを握る立場になってから、ようやく知ることができた。そう思うと、この「記憶にない一日」も、私にとって意味のある一日になった気がします。 みなさんは、「730」を覚えていますか。沖縄で暮らしていた方なら、あの日の混乱や興奮を、はっきりと覚えているかもしれません。私のように本土にいた方は、そもそもニュースになっていたかどうかも、記憶にないのではないでしょうか。同じ夏の同じ一日でも、立っている場所によって、こんなにも見え方が違う。それもまた、昭和という時代の面白さなのだと思います。 730を成し遂げた沖縄のバスは、今も個性豊かに島を走っています。現存する730車をはじめ、路線バスで巡る沖縄の魅力を一冊にまとめたガイドブックがこちら。バス好きにはもちろん、「レンタカー以外の沖縄旅」を考えている方にもおすすめです。いつか私も、あの2台の730車に会いに行きたいと思っています。 沖縄の路線バス おでかけガイドブック[第4版]室井昌也・谷田貝哲。路線バスで巡る沖縄の観光ガイド決定版。バス会社各社の紹介から名所へのアクセスまで、バス旅の魅力が詰まった一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月29日──17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた

今日は7月29日。七月もいよいよ終わりに近づき、夏の暑さがいちばん濃くなる頃です。 昭和の夏を思い出すとき、まっさきに浮かぶもののひとつが、花火です。夕暮れの空がだんだんと藍色に沈んでいって、遠くのほうで「ドン」と腹に響く音がする。少し遅れて、夜空に大きな光の花が咲く。あの音と光は、下町に育った者にとって、夏そのものと分かちがたく結びついています。 昭和53年(1978年)の7月29日、その花火をめぐる大きなできごとがありました。長いあいだ途絶えていた両国の花火が、「隅田川花火大会」と名前を変えて、17年ぶりに夜空へ帰ってきたのです。 17年ぶりの、復活だった 隅田川の花火の歴史は、驚くほど古いものです。 さかのぼること江戸時代、享保18年(1733年)。前の年に大飢饉と疫病が江戸を襲い、多くの人が命を落としました。その死者を供養し、悪い病を追い払うことを願って、八代将軍・徳川吉宗が両国橋のたもとで水神祭を営み、川開きの日に花火を打ち上げた——これが、両国の川開き花火の始まりだと伝えられています。じつに300年近くも昔のことです。 そもそも「川開き」とは、その年の夏、隅田川での舟遊びや納涼が許される初日のこと。江戸の人々にとっては、待ちに待った夏の幕開けの合図でした。両国橋のあたりには涼み舟がびっしりと浮かび、川岸には屋台や見世物が立ち並ぶ。その夜空を彩る花火こそが、夏の到来を告げるいちばんの主役だったのです。 やがて花火職人のあいだに、「鍵屋」と、そこから分かれた「玉屋」という二つの名門が生まれました。見物人が夜空を見上げて「たまや〜」「かぎや〜」と声をかける、あの掛け声も、このころに生まれたものです。とりわけ人気を集めたのは玉屋のほうで、見事な花火が上がると、江戸っ子たちは惜しみなく「たまや〜」と声を張り上げたといいます。こうして両国の川開きは、多少の中断をはさみながらも、江戸から東京へと、夏の一大行事として受け継がれていきました。 ところが、その伝統がぷつりと途切れます。昭和36年(1961年)を最後に、両国の花火は打ち上げられなくなってしまったのです。理由のひとつは、川べりにあふれる車と、ふくれあがる見物客をさばききれなくなった交通事情。そしてもうひとつが、隅田川そのものの汚れでした。高度経済成長のただ中、工場排水や生活排水が流れ込み、川の水はどす黒く濁って、悪臭を放つほどになっていたのです。花火を映すはずの川面は、とても「涼」を感じられる状態ではありませんでした。 こうして、両国の夏から花火が消えました。以来17年ものあいだ、隅田川の夜空は静かなままでした。その間に生まれた子どもたち——昭和44年生まれの私も、その一人です——は、両国の花火というものを一度も見ないまま育っていったのです。 再び夜空を取り戻すまでには、17年という歳月がかかりました。下水道の整備が進み、汚れきっていた川の水も少しずつ息を吹き返して、ようやく機が熟したのが昭和53年です。かつての両国橋周辺は交通量が増えすぎていたため、会場を少し上流へと移し、名前も「隅田川花火大会」と改めました。桜橋から言問橋のあいだ(第一会場)と、駒形橋から厩橋のあいだ(第二会場)、二つの会場で花火を競い合う——今に続くあの形が、このとき生まれたのです。 昭和53年7月29日。17年ぶりに、隅田川の夜空に光の花が咲いたのです。 実に250年近い歴史を持つ夏の風物詩が、長い空白を経て帰ってきた。その復活は新聞やテレビでも大きく取り上げられ、東京の下町に暮らす人々にとっては、待ちに待った知らせだったにちがいありません。 正直に言えば、私の「花火」は、隅田川ではない ここまで書いておいて、正直に打ち明けます。 「花火」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、じつは、あの華やかな隅田川花火大会ではありません。 もちろん、小学3、4年生の頃だったでしょうか、母と妹と私の3人で浅草へ出かけた記憶はあります。でも残っているのは、夜空いっぱいに咲く大輪の花ではなく、押し寄せる人の波に揉まれながら、ただひたすら歩き続けたという記憶です(笑)。どこかに腰を下ろして、ゆっくり花火を見上げたという思い出ではないのが、少しだけ残念でもあります。 今にして思えば、あの日の人混みこそが、復活してまもない隅田川花火大会そのものだったのかもしれません。何十万もの人が、同じ夜空を目指して押し寄せる。その大きな渦のなかに、幼い私も、母と妹とともに確かにいたのです。花火の記憶はほとんど残っていないのに、あの熱気とざわめきだけは、今も体のどこかが覚えています。 私にとって本当の「花火大会」は、高砂の隣町・柴又で毎年開かれていた、江戸川の花火大会でした。物心ついた頃から、家族や近所の人たちと河川敷の土手まで歩いて向かうのが、夏の恒例行事だったのです。 間近で打ち上がる花火は、それまで見たことのないほど大きく、お腹の底まで響く轟音に、子どもの私は少し怖さを感じていました。それでも、夜空いっぱいに広がる光の美しさに見とれ、「夏が来た」という実感を味わっていたように思います。 あの頃は、今よりもずっとあちこちで盆踊りが開かれていました。母はにぎやかな場所が大好きな人で、夏になると毎晩のように近所の盆踊りへ出かけていました。私もその後をついて歩き、太鼓の音や提灯の灯り、屋台の賑わいに胸を躍らせたことを覚えています。あの夏の空気は、今でも忘れられません。 「花火大会をやってくる!」 そして小学生になると、夏の楽しみがもう一つ増えました。 昼間、近所の友達と駄菓子屋へ行き、バラ売りの花火を一人300円分くらい買うのです。ロケット花火やねずみ花火ではなく、手持ち花火や線香花火を思い思いに選び、夜になると「花火大会をやってくる!」と言って家を出る。子どもだけの、ささやかな夜遊びでした。 今思えば、本当にささやかな冒険です。でも、少しだけ悪いことをしているような気分が、その時間を何倍も特別なものにしてくれました。友達と囲んだ線香花火の、ぽとりと落ちる火の玉。その一瞬の明るさと、すぐに訪れる暗闇。あれもまた、まぎれもない私の「花火大会」でした。 どの夏にも、父はいなかった こうして思い返してみると、どの夏の思い出にも、父の姿がありません。 父はいつも仕事で忙しく、家族で出かけることはほとんどありませんでした。でもそれは、決して我が家だけのことではなく、近所にも同じような家庭がたくさんありました。父親たちは、みんな懸命に働いていたのです。 その代わり、私たちは地域の大人たちに見守られながら育ちました。子どもたちだけで夜道を歩き、花火をしていても、近所のおじさんやおばさんが、自然と目を配ってくれていた。そんな時代だったのです。 子どもの頃には気づきませんでしたが、大人になった今、あの温かな見守りが、どれほどありがたいものだったのかを実感します。そして今度は、自分が地域の子どもたちを見守る側の世代になったのだ、ということにも気づかされます。 夏の花火は、美しかった夜空だけではなく、人と人とのつながりまで思い出させてくれる。私にとって、そういう特別な風景なのです。 おわりに 昭和53年7月29日、隅田川に17年ぶりの花火が咲きました。街じゅうの人が、その復活を心待ちにしていたといいます。 いま、隅田川花火大会は毎年当たり前のように開かれ、両岸には100万人近い人が押し寄せます。誰もがスマートフォンを夜空にかざし、光の花を写真におさめる。いっぽうで、私の夏を彩ってくれた近所の盆踊りは、櫓を見かけることさえ少なくなりました。子どもだけで夜道を歩き、線香花火に火をつけるようなことも、今では難しい時代です。 それでも——江戸の川開きも、大きな隅田川の花火も、柴又の小さな花火も、根っこにあるものは同じなのだと思います。人が集まり、同じ夜空を見上げ、「夏が来た」と感じ合う。300年ちかく前の江戸っ子が「たまや〜」と声を張り上げた気持ちと、土手で花火に見とれていた子どもの私の気持ちは、案外、地続きなのかもしれません。花火とは、光そのものよりも、その下に集う人と人とのつながりを照らすものなのでしょう。 17年ぶりの復活を待ちわびた大人たちの気持ちが、今なら少しだけ分かる気がします。当たり前に思える夏の風物詩も、途切れてみて初めて、どれほど大切だったかに気づく。だからこそ、毎年ちゃんと花火が上がるということは、それだけで、ありがたいことなのでしょう。 あなたにとって、いちばん心に残っている夏の花火は、どんな花火でしょうか。夜空いっぱいの大輪でしょうか。それとも、誰かと囲んだ、線香花火の小さな火でしょうか。 大きな花火大会に出かけるのもいいけれど、庭先や玄関先で、孫と一緒に線香花火をぽとりと落とす——そんな夏も、また格別です。これは、職人が一本ずつ手で作る純国産の線香花火。パチパチと火花を散らし、最後にほろりと玉が落ちるまで、驚くほど長く、美しく燃えます。中国産の安価なものとは、火のもちも風情もまるで別物。あの頃の夏を、今度は見守る側として、子や孫と分かち合ってみませんか。 純国産線香花火 巧(たくみ)国内の職人が手作業で仕上げる本物の線香花火。パチパチと繊細な火花が長く続き、最後に火の玉がほろりと落ちる風情は国産ならでは。桐箱風の化粧箱入りで贈り物にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月28日──ロサンゼルスの朝、空を人が飛んだ

今日は7月28日。夏休みの、うだるように暑い盛りです。 今から40年余り前、1984年(昭和59年)のこの日、アメリカ・ロサンゼルスで第23回夏季オリンピックが開幕しました。日本とロサンゼルスの時差の関係で、開会式が日本のお茶の間に届いたのは、翌29日の朝でした。 その画面の中で、ひとりの人間が背中に噴射装置を背負い、スタジアムの空をふわりと飛んだのです。 当時、私は15歳。中学3年生でした。その夏、区大会で敗退して野球部はすでに引退し、高校入試に向けて気持ちを受験勉強に切り替えていた、そんな時期でした。 空を、人が飛んだ 日本時間で29日の朝に届いたロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの開会式は、それまでの五輪の常識をひっくり返すものでした。 レーガン大統領の開会宣言。ジョン・ウィリアムズが書き下ろした、あの勇壮なトランペットのファンファーレ。84台ものグランドピアノが並び、ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』を一斉に奏でる。そして極めつけが、ジェットパックを背負って会場上空を飛ぶ「ロケットマン」でした。SF映画のような光景に、世界中が度肝を抜かれ、NHKの中継の視聴率は47.9%に達したといいます。 派手な演出の裏には、したたかな計算がありました。実はこのころ、オリンピックそのものが存亡の危機にあったのです。1976年のモントリオール大会は莫大な赤字を出し、1980年のモスクワ大会は西側諸国のボイコットで深く傷ついていた。「オリンピックは金がかかるだけのお荷物だ」――そんな空気さえ漂っていました。 その流れを変えたのが、大会組織委員長を務めた実業家、ピーター・ユベロスでした。彼はテレビの放映権を史上最高額でアメリカのABCに売り、スポンサーを「1業種1社」に絞って協賛金を吊り上げた。批判も浴びましたが、終わってみればロス五輪は2億ドルを超える黒字を叩き出したのです。今に続く「商業五輪」は、この夏に始まりました。空を飛ぶロケットマンは、オリンピックが新しい時代へ突入する号砲でもあったのです。 夏休みで、朝は少しゆっくり起きられる日もありました。時差の関係で、私はロサンゼルス五輪を、朝からテレビをつけて見ていた記憶があります。 なかでも一番印象に残ったのは、やはりロケットマンでした。本当に空を飛んでいる人を見たような気がして、「アメリカはすごいな」と純粋に驚いたのです。まるで映画の世界のようで、日本では絶対に見られない演出だと思いました。「商業五輪」という言葉もニュースで耳にはしていましたが、中学生の自分に難しい意味まではわかりません。スポンサーだ放映権だということよりも、「派手で面白い開会式だな」という印象のほうが、ずっと強かった。厳かだったそれまでの開会式とは違い、まるで大きなショーのようで、競技が始まる前から「日本は何個メダルを取れるだろう」と、家族と話しながら画面に見入っていました。 ボイコットの応酬と、四年越しの金メダル 華やかな開会式の一方で、この大会にはぽっかりと空いた「穴」がありました。ソ連や東ドイツをはじめとする東側諸国が、そろって不参加を決めていたのです。 理由は、報復でした。4年前の1980年、西側諸国はソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してモスクワ大会をボイコットした。今度はその意趣返しとして、東側がロサンゼルスをボイコットする。スポーツが、またしても政治の道具にされたのです。ボイコットが二度続けば、傷つくのはいつも、その舞台を目指してきた選手たちでした。 このモスクワ・ボイコットのことは、7月19日の記事で書きました。あのとき、参加を信じて過酷な稽古を積み、それでも舞台を奪われた選手のひとりが、柔道の山下泰裕でした。 その山下が、4年の雌伏を経て、ようやくロサンゼルスの畳に立ちます。無差別級。公式戦で負け続けたことのない彼に、死角はないと言われていました。ところが2回戦、右のふくらはぎに肉離れを起こしてしまう。決勝の相手はエジプトの巨漢、モハメド・ラシュワン。山下は右足を引きずりながら畳に上がりました。 ここで、五輪史に残る場面が生まれます。ラシュワンは、山下の痛めた右足を、最後まで攻めなかったのです。試合開始からわずか1分5秒、山下は払い腰をすかしてラシュワンを崩し、横四方固めで一本勝ち。奪われ続けた金メダルを、ついに首にかけました。日本のお家芸の悲願が、結実した瞬間でした。フェアプレーに徹したラシュワンには、後に国際フェアプレー賞が贈られています。この決勝が行われたのは、開幕から2週間後の8月11日のことでした。この大会の柔道で、日本は山下を含む4階級で金メダルを獲得し、その底力を世界に見せつけました。 あの決勝を、私はテレビの前で固唾をのんで見ていました。右足を痛めていることはニュースで知っていたので、「本当に大丈夫なのかな」と心配しながらの応援でした。足を引きずる姿は見ていて苦しそうで、それでも最後まで諦めずに金メダルをつかんだ瞬間は、本当に感動しました。「これが日本の柔道なんだ」と、誇らしい気持ちになったのを覚えています。 4年前のモスクワでは、日本は参加すらできませんでした。それだけに、山下選手の金メダルは、あのときの悔しさを少し晴らしてくれたような気がしたのです。相手のラシュワン選手が、痛めた右足を狙わずに正々堂々と戦ったと後から知ったときのことも、忘れられません。勝つことが第一だと思っていた中学生の私は、この一戦に「勝ち負けだけではない感動があるんだな」と教わった気がします。 野球が、初めて五輪の金メダルを獲った日 そしてこの大会には、野球少年だった私の胸を最も熱くした競技があります。野球です。 ロサンゼルス五輪では、野球が初めて、国と国とが代表チームで争う「公開競技」として行われました。正式種目ではないものの、世界一を決める五輪の野球――それだけで胸が高鳴りました。しかも日本代表は、プロではなく、大学生7人と社会人12人で編成されたアマチュアの混成チームだったのです。 急ごしらえのチームには温度差もあり、まとまりを欠いたまま本番を迎えたと、後に選手たちは振り返っています。それでも日本は予選を1位で通過し、準決勝では台湾を延長戦の末に振り切り、決勝で野球の本場・開催国アメリカと対戦しました。そして4番を務めた大学生、広沢克己(後の広澤克実)の本塁打などで6対3。開催国を破って、日本は五輪野球の初代王者に輝いたのです。 この代表チームからは、大会後に16人がプロ野球の世界へ進みました。「オリンピックからプロへ」という道を、彼らが切りひらいたのです。指揮を執ったのは、のちに社会人野球の名将として知られる松永怜一監督。ばらばらになりかけた若いチームをまとめ上げ、世界一へと導いたのです。 野球は、私が一番好きなスポーツでした。ですから、日本代表の金メダルは、本当にうれしかった。ただ、ちょうど自分も中学最後の夏を区大会敗退で終え、野球部を引退したばかり。試合を見ながら、少し複雑な気持ちもありました。 「自分の野球はいったん終わったけれど、高校ではまた続けよう」。そう思っていた時期でしたから、日本代表のプレーは憧れそのものでした。受験勉強の合間にテレビを見ては、「来年は自分も高校球児なんだ」と、自然に前を向けたのを覚えています。4番を打った広沢克己選手の力強い打撃には、「大学生でもこんなにすごい選手がいるんだ」と驚いたものです。引退直後の寂しさよりも、「高校に入ったら、またやれる」という思いのほうが強かった。あの夏のロサンゼルス五輪の野球は、私にとって、新しい野球人生への背中を押してくれた大会でもあったのです。 令和の五輪から振り返ると あの夏、日本は金10・銀8・銅14のメダルを持ち帰りました。体操の具志堅幸司が個人総合で金、射撃では48歳の蒲池猛夫が日本の五輪史上最年長の金メダリストに。陸上では地元アメリカのカール・ルイスが4種目を制し、「ジェシー・オーエンスの再来」と讃えられました。もっとも、東側の強豪が不在だったぶん、日本のメダルが実力以上に増えた面は否めません。それでも、四年前の悔しさを晴らすように躍動した選手たちの姿は、多くの人の胸に刻まれました。 令和のいま、オリンピックはスマートフォンやタブレットで、時差を気にせず好きな競技をいつでも配信で追える時代になりました。それは便利で、ありがたいことです。けれど、あの朝の感覚――家族みんなでテレビの前に集まり、時差の向こうの一回きりの中継に一喜一憂した、あの熱を、私はときどき無性に懐かしく思い出します。 ユベロスが仕掛けた商業五輪の手法は、その後あらゆる巨大スポーツイベントの手本になりました。オリンピックはそこからどんどん巨大になり、光と影の両方を抱えていきます。空を飛ぶロケットマンが象徴した「きらびやかな未来」は、良くも悪くも本当にやってきたのだと、令和の五輪を見るたびに思うのです。 おわりに 1984年の夏、ロサンゼルスの空を、ひとりの人間が飛びました。噴射装置の煙をたなびかせ、まるで未来から舞い降りてきたかのように。 同じ大会で、右足を引きずりながら畳に立ち、それでも金メダルをつかんだ男がいた。アマチュアの野球チームが、本場アメリカを倒して世界一になった。きらびやかなショーと、泥くさい人間のドラマが、同じ2週間の中に同居していた――それが、私にとってのロサンゼルス五輪です。 あなたには、1984年のロサンゼルス五輪の、どんな場面が心に残っていますか。開会式のロケットマンでしょうか。山下泰裕の金メダルでしょうか。それとも、まったく別の誰かの、別の一瞬でしょうか。よろしければ、あなたの記憶も聞かせてください。 あの夏、ロケットマンの裏で静かに始まっていた「商業五輪」。その光と影を、ロス五輪を起点にたどった一冊です。ユベロスが何を変え、オリンピックがどこへ向かったのか――あの派手な開会式の「意味」を、大人になった今、あらためて確かめてみたい方におすすめです。 オリンピックと商業主義(集英社新書)小川勝。1984年ロサンゼルス大会から始まった五輪の商業化を検証。放映権とスポンサーが五輪をどう変えたのかを追ったノンフィクション Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月27日】毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた | 次の記事:【7月29日】17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた ▶

July 28, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月27日──毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた

夏の朝、ニュースはいつも同じ事件を伝えていた 1976年、昭和51年の夏。私は7歳、小学1年生になったばかりでした。 我が家の朝は、いつも決まった風景でした。母は台所で朝食の支度をしていて、父と私と妹の三人は、正座の姿勢で箸を動かす。そのかたわらで、テレビはNHKのニュースを流している——それが、あの頃の我が家の朝でした。 正座した子どもの耳に、大人の世界の言葉が、意味もわからないまま流れ込んできます。「為替相場は、1ドル297円」。「丸紅ルートが……」。父も母も、それらについて何か話すわけではありません。ニュースはただ、朝の食卓の空気の一部として、そこに流れているだけでした。 そんな数々の言葉のなかで、なぜか私の耳に、くっきりと残ったものがあります。「ロッキード事件」。カタカナのその名前を、当時の私は、毎朝のように聞いていました。アナウンサーが繰り返し、繰り返し、その言葉を口にしていたのです。 7歳の子どもに、事件の中身などわかるはずもありません。それでも、ひとつだけ、はっきりとわかっていたことがあります。これは、政治家がお金をもらって悪いことをした事件なのだ、ということです。 「政治家が、お金で」——それだけはわかった 不思議なもので、あの言葉の“中身”を、私はその後もずっと、ちゃんとは知らないまま大人になりました。 ロッキードとは何なのか。誰が、誰から、いくらもらったのか。なぜあれほど大きな騒ぎになったのか。断片的な言葉——「田中角栄」「5億円」「記憶にございません」——は覚えているのに、それらがどうつながるのかは、ぼんやりしたままだったのです。 だから今日は、あの夏の朝に毎日聞いていた言葉の中身を、大人になった自分の目で、ひとつずつ確かめてみようと思います。 事件の正体は、一機の旅客機だった ロッキード事件とは、アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、自社の飛行機を各国に売り込むため、政財界の要人に賄賂をばらまいた、国際的な汚職事件です。日本にわたった工作資金は、総額30億円を超えたといわれます。 そもそもロッキード社は、戦闘機など軍用機を得意とするメーカーでした。ところが旅客機の分野では、ボーイングなどの強豪に押されて苦戦を強いられていた。なんとしても自社機を売りたい——その焦りが、世界各国での大がかりな贈賄工作につながっていったのです。賄賂を受け取ったとされる要人の名は、オランダやイタリアなど、日本以外の国々でも取り沙汰されました。まさに世界を揺るがすスキャンダルであり、日本はその最大の“市場”のひとつだったのです。 事の発端は、日本ではなくアメリカでした。1976年2月、アメリカ議会の委員会が開いた公聴会で、ロッキード社の副会長が「日本の政界に金を渡した」と証言したのです。海の向こうでのたった一言が、やがて日本列島を揺るがすことになりました。 当時の首相・三木武夫は、この疑惑の徹底究明を国民に約束します。東京地検特捜部は、警視庁や国税庁とも手を組んだ異例の合同捜査に乗り出しました。同じ自民党の、しかも最大の実力者であるはずの田中角栄に、身内の政権の側から捜査のメスが入っていく——そんな張り詰めた空気のなかで、事件は動いていったのです。 日本での舞台になったのは、全日空——ANAの旅客機選びでした。当時、全日空は新しい大型旅客機の選定を進めており、最終的にロッキード社製の「トライスター」の導入を決めます。この機種選びこそが、のちに“便宜”として問題視されることになりました。その選定の裏で、ロッキード社は商社の丸紅を窓口に、さらに「政商」と呼ばれた小佐野賢治や、右翼の大物・児玉誉士夫といった人物を通じて、日本の中枢へと金を流していきました。その金の流れの先に名前が挙がったのが——時の前首相、田中角栄だったのです。 ここで問われたのが、「受託収賄」という罪でした。政治家がその立場を使って特定の企業に有利なように取り計らい、その見返りに金を受け取る——それがこの罪の中身です。全日空が、どの会社の旅客機を選ぶのか。ただそれだけのことに、これほどの金額と、これほどの権力が動いていた。子どもだった私が「政治家がお金で悪いことをした」と受け取っていたのは、つきつめれば、こういうことだったのです。 「今太閤」の逮捕 田中角栄という政治家を、少し紹介しておきます。 新潟の農村に生まれ、学歴は高等小学校まで。それでも一代でのし上がり、54歳の若さで総理大臣にのぼりつめた人物です。「日本列島改造論」を掲げて全国に道路や鉄道を通し、庶民の出であることから「今太閤」と呼ばれました。まさに立志伝中の宰相です。1972年に首相となって日中国交正常化を成し遂げますが、金脈問題への批判を受け、1974年に退陣していました。 その田中が、ロッキード社から丸紅を通じて5億円を受け取り、全日空にトライスター導入の便宜を図った——という容疑で、1976年7月27日、東京地検特捜部に逮捕されます。罪状は受託収賄と、外国為替管理法違反。総理大臣を務めた大物政治家が、しかも現職の国会議員のまま逮捕される。それは日本じゅうを震え上がらせる、衝撃的なできごとでした。東京・目白の田中邸の前にはカメラマンが群がり、その様子はテレビで生中継されました。逮捕を受けて田中は自民党を離党しますが、それでも日本じゅうが、連日この事件にくぎづけになりました。私が毎朝聞いていた「ロッキード事件」とは、まさにこの一連の騒動のことだったのです。 「記憶にございません」と「ピーナッツ」 この事件は、いくつもの流行語を残しました。 ひとつは「記憶にございません」。逮捕に先立つ2月の証人喚問で、事件の鍵を握るとされた小佐野賢治が、質問のたびにこの言葉を繰り返したのです。嘘をつけば偽証罪に問われる。かといって本当のことは言いたくない。その狭間で編み出された絶妙な逃げ口上は、たちまちその年の流行語になりました。そして半世紀近くたった今も、追い詰められた政治家が国会でしばしば口にする——おなじみの言葉として、生き続けています。 もっとも、事件のいちばんの核心にいたとされた児玉誉士夫は、証人喚問が決まったとたんに「病気」を理由に、公の場に姿を見せませんでした。テレビ中継された喚問の場を国民が固唾をのんで見守るなか、肝心の口ほど、重く閉ざされていたのです。 もうひとつは「ピーナッツ」。賄賂の領収書に、金額を隠すための隠語として書かれていた言葉で、「1ピーナッツ」が100万円を意味しました。抗議のデモ隊が、関係者の事務所にピーナッツの粒を投げつけた、という逸話まで残っています。 裁判は、答えの出ないまま終わった 驚くべきことに、田中角栄は逮捕されても失脚しませんでした。その年の12月の総選挙では、地元・新潟でトップ当選を果たします。逮捕されたばかりの政治家に、有権者が誰よりも多くの票を入れたのです。雪深い新潟の人々にとって、田中は、自分たちの郷里に道路や鉄道を引いてくれた恩人でした。中央の政界で何を言われようと、暮らしをよくしてくれた「おらが先生」を、地元は見捨てなかったのです。田中はその後も「闇将軍」と呼ばれ、政界に絶大な影響力を持ち続けました。 裁判は、長い長い年月に及びました。その途中の1981年には、田中の秘書だった榎本敏夫の元妻が、法廷で検察側の証人に立ち、5億円の授受を裏づける証言を行っています。身内からの決定的なひと言に世間はどよめき、彼女が会見で口にした「ハチの一刺し」という言葉もまた、この事件が生んだ流行語のひとつになりました。そして1983年、一審の東京地裁は、田中に懲役4年・追徴金5億円の有罪判決を言い渡します。しかし田中はただちに控訴。争いが最高裁まで続くなか、1993年、田中は判決の確定を見ないまま、75歳でこの世を去りました。「総理大臣の犯罪」は、はっきりと白黒がつくことのないまま、歴史の中に沈んでいったのです。 半世紀後、あの言葉はまだ国会にある こうして事件の全体像を追いかけてみて、私は少し不思議な気持ちになりました。 あの夏の朝、7歳の私がテレビの前で聞いていた言葉。その中身は、これほどまでに込み入っていて、これほどまでに大きなものだったのか、と。そして、子どもの私が「政治家がお金で悪いことをした」と受け取っていたことは、乱暴なようでいて、案外、事件の芯を突いていたのかもしれません。 そういえば、あの食卓で耳にしていた「丸紅ルート」も、「為替」も——実はこの事件のまん中にあった言葉でした。丸紅は、5億円を田中のもとへ運んだ商社の名前。そして「外国為替管理法違反」は、田中にかけられた罪状そのものです。事件の核心にある言葉を、7歳の私は、意味も知らないまま毎朝口にできるほど聞いていたことになります。正座して箸を動かしていたあの食卓は、思っていたよりずっと、時代のまん中につながっていたのでした。 令和の今も、政治とお金をめぐるニュースは、形を変えて流れ続けています。政治資金や裏金をめぐる問題が報じられ、「記憶にございません」という言葉が国会で聞こえてくるたび、私はあの夏の朝を思い出すのです。半世紀たっても、人は同じ言葉で、同じように逃げる。あのカタカナの事件名を、幼い私が意味もわからず覚えてしまったのは、それが来る日も来る日も、朝のニュースを埋め尽くしていたからでした。そして今も、テレビは少しだけ姿を変えて、同じような事件を伝え続けているのかもしれません。 みなさんにとって「ロッキード」という言葉は、どんな記憶と結びついているでしょうか。リアルタイムで固唾をのんで見守った方も、私のように言葉の響きだけを覚えている方も、よかったらその頃のことを聞かせてください。 「政治家がお金で」という子どもの直感の、その先にある本当の複雑さ。ロッキード事件を一冊で骨太に味わうなら、経済小説の名手・真山仁が事件の深層に迫ったこの一作がおすすめです。田中角栄はなぜ裁かれ、なぜ今なお語られるのか。あの朝のニュースの“中身”が、大人の読み物として立ち上がってきます。 ロッキード(文春文庫)真山仁。『ハゲタカ』の著者が、半世紀の時を経てロッキード事件の深層に挑んだ渾身のノンフィクション Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月26日】僕はいつも別の場所にいた | 次の記事:【7月28日】ロサンゼルスの朝、空を人が飛んだ ▶ ...

July 27, 2026