【昭和の今日は何があった日?】7月22日──「憎らしいほど強い」が最上級の褒め言葉だった頃。北の湖、21歳2か月の横綱

1974年7月22日、横綱審議委員会が出した答え 昭和49年7月22日。名古屋場所が終わった直後のこの日、横綱審議委員会が大関・北の湖を横綱に推挙することを決めました。正式決定は二日後の理事会ですが、実質的にはこの日、第55代横綱の誕生が決まったことになります。 年齢は21歳2か月。あの大鵬より1か月早い、史上最年少記録でした。そしてこの記録は、五十年以上たった今も破られていません。 面白いのは、その名古屋場所の中身です。北の湖は13勝2敗という好成績を挙げながら、千秋楽の本割と優勝決定戦で、横綱・輪島に連敗しているのです。最後の最後に二度続けて負けて、それでも綱が決まった。裏を返せば、この若い大関の力量が誰の目にも疑いようがなかった、ということなのでしょう。 このとき私は5歳。幼稚園に通っていた年ですから、当然この日のことは何も知りません。 13歳の初土俵から、大関わずか3場所で 北の湖の経歴を改めて追いかけると、出世の速さに目が回ります。 北海道壮瞥町の生まれ。昭和41年12月、中学1年で三保ヶ関部屋に入門しました。当時はまだ中学生力士が許されていた時代で、翌年1月、13歳で初土俵を踏んでいます。学校は墨田区立両国中学に転校。ただし師匠の方針は学業最優先で、稽古ができたのは日曜と長期休みだけだったといいます。 それでも15歳で幕下、17歳で新十両。18歳7か月で新入幕を果たしたとき、彼ははっきりと「史上最年少横綱を目指す」と口にしていました。子供の大言壮語では終わらなかったところが、この人の恐ろしさです。 19歳7か月で小結、そして昭和49年1月場所、関脇で初優勝して大関へ。大関でいた期間は、わずか3場所でした。 私が相撲を知ったときには、もう絶対王者だった ここから先が、私の話です。 私が相撲を知ったときには、すでに北の湖は無茶苦茶強い横綱でした。イメージとしては、絶対王者の北の湖、同じ横綱だけど挑戦者的な輪島、ずっと大関の貴ノ花。そんなふうに感じていました。 三人の役割が、子供の頭の中できれいに固定されていたのです。北の湖は倒されるべき壁で、輪島と貴ノ花はそこに挑んでいく側。誰かに教わったわけでもないのに、なぜかそういう構図として相撲を見ていました。 そもそも私が相撲を見ていたのは、門限のおかげでした。 当時、私も友達も夕方5時頃には家に帰らなければならない決まりでした。外で散々遊んで帰宅すると、テレビでは相撲中継がちょうど終盤の取組にさしかかっている。それを自然と観ていたわけです。 不思議なもので、家族の誰かが特別に相撲好きだったという記憶はありません。誰が観たいと言ったわけでもないのに、どういうわけかその時間はテレビで相撲が流れていました。友達に聞いても、やはり同じように観ている。夕方5時台の茶の間とは、あの頃そういうものだったのだと思います。 そして翌日には、その相撲を自分たちで再現しました。友達同士で相撲を取るのですが、ただ取っ組み合うのではありません。「右上手を取った」「左前みつを取った」「両差しだ」と、自分で自分の相撲を解説しながら取っているのです。今思い出すと笑ってしまいますが、耳から入った中継の言葉を、そのまま口に出して確かめていたのでしょう。決まり手も四つの組み手も、教科書ではなく体で覚えました。 応援していたのは、やはり千代の富士です。私が小学4年生の頃から一気に駆け上がっていく勢いがありましたし、なんといっても格好良かった。 一方の北の湖には、いつも「負けろ」と思っていました。本当に、毎日そう思っていたのです。それなのに、ちゃんと勝ってしまう。子供の願いなど歯牙にもかけずに勝ち続けるわけで、今にして思えば、すごいことです。 子供の目は、案外正確だった 大人になってから調べてみると、あの頃の子供の直感は、記録の上でもおおむね正しかったことがわかります。 まず輪島。私は「挑戦者的」と感じていましたが、実は北の湖より5歳年上で、横綱昇進も1年早い先輩横綱です。日本大学から角界入りした史上初の学生相撲出身横綱で、「蔵前の星」と呼ばれ、「黄金の左」と称された左の下手投げを武器に優勝14回を数えました。決して脇役ではありません。 それでも私に「挑戦者」と映ったのは、時代の流れのせいでしょう。昭和52年7月場所以降は北の湖の優勝ばかりが続き、輪島は次第に力を落としていきました。私が相撲を見はじめた頃には、すでに「北の湖の壁に挑む輪島」の構図が出来上がっていたわけです。ちなみに二人の幕内対戦成績は輪島の23勝21敗で、これは今回調べて初めて知りました。強さの印象と数字は、必ずしも一致しないものです。 そして貴ノ花。「ずっと大関」というイメージは、そのまま事実でした。大関在位50場所、優勝は2回にとどまり、ついに横綱には届かなかった。身長183センチに対して体重114キロという軽量の体で、「土俵の鬼」と呼ばれた初代若乃花の弟という血筋と甘い顔立ちから「角界のプリンス」と呼ばれ、絶大な人気を誇った人です。 強くて憎まれる横綱と、勝てないけれど愛される大関。子供が覚えやすい図式が、あの頃の土俵にはきちんとあったのだと思います。 「憎らしいほど強い」という言葉の中身 北の湖につけられた「憎らしいほど強い」という評は、単なる比喩ではありませんでした。 新横綱で迎えた昭和49年9月場所、14日目に優勝を決めた瞬間、館内には座布団が舞ったといいます。普通、座布団が舞うのは横綱が下位の力士に敗れたときで、横綱が勝って座布団が飛ぶのは極めて異例のことです。それでも北の湖は動じず、千秋楽も勝って初の全勝優勝を飾りました。 懸賞の本数にも人気のなさが表れています。昭和51年7月場所の千秋楽、優勝がかかった横綱同士の輪島戦についた懸賞はわずか8本。場所中、1本もつかない日さえあったそうです。師匠の三保ヶ関親方は「かけてもどうせ勝つから面白くない。でも、いつの世でも、そういう一種の憎まれ役がいなきゃいけないんだ」と語っています。 もう一つよく言われたのが、投げ倒した相手に一切手を貸さず、さっと背を向けて勝ち名乗りを受ける姿でした。ふてぶてしい、傲慢だ、と散々に言われたものです。しかし本人の言い分はまったく逆で、「真剣勝負をした相手に手を貸すのは失礼だ」「自分だったら手を貸されるのは絶対に嫌だ」という考えからの振る舞いでした。 当時は「江川・ピーマン・北の湖」という言い回しまであったそうです。子供が嫌いなものの代名詞として、大横綱がピーマンと並べられていたわけで、今考えると気の毒な話です。 そして昭和53年、北の湖は5場所連続優勝を果たし、年間82勝という記録を打ち立てました。私は小学3年から4年になる年です。50場所連続勝ち越し、37場所連続二桁勝利、横綱在位63場所、優勝24回。数字を眺めていると、「絶対王者」という子供の実感が、大げさでも何でもなかったことがよくわかります。 「負けろ」が、ついにかなった夜 私が毎日念じていた「負けろ」がかなったのは、昭和56年1月場所の千秋楽でした。 関脇・千代の富士が初日から14連勝。千秋楽の結びで、1敗の北の湖と直接対決になります。本割では吊り出されて敗れ、全勝優勝は消えました。しかし千代の富士は、吊り出されたそのときに北の湖の足の状態が万全でないことに気づいていたといいます。続く優勝決定戦、右からの上手出し投げで北の湖を土俵に転がし、幕内初優勝を決めました。 この日の大相撲中継の視聴率は52.2パーセント。優勝が決まった瞬間は65.3パーセントに達し、今なお大相撲中継の最高記録として残っています。要するに、日本中が見ていたわけです。 もちろん私も、テレビの前で千代の富士の優勝を願って観ていました。 あの場所は後半に入ると、「昨日も千代の富士勝ったね」が友達との朝の挨拶になっていました。連日そうやって白星を確かめ合いながら千秋楽までたどり着いて、いよいよ「絶対に優勝してくれ!」と念じながらテレビの前に座ったわけです。 以前、江夏豊、9者連続奪三振──私が生まれた2年後の「見ていない伝説」の回で、江川卓がオールスターで8連続奪三振を決めたとき、近所から歓喜の声とため息が聞こえてきた話を書きました。この日はそれ以上でした。本割で千代の富士が吊り出された瞬間、近所中から「あぁ⤵」というため息が漏れ聞こえてきて、そのデカさといったらなかった。1月ですから、どの家も窓は閉め切っていたはずなのです。 そして優勝決定戦。千代の富士が北の湖を転がした瞬間に上がった歓喜の叫び声は、さっきのため息をはるかに上回っていました。やばかったです(笑)。 テレビは家の中にあるのに、町内で同じものを見ていた時代でした。 同じこの場所を最後に、貴ノ花が土俵を去りました。皮肉なもので、引退を決意させたのは前年11月場所で千代の富士に一方的に敗れた一番だったといわれています。その2か月後には輪島も引退。私が小学校を卒業する頃には、あの三人のうち二人がもういなかったことになります。 門限が私を相撲の前に座らせ、部活が遠ざけた 北の湖自身が引退したのは、昭和60年1月場所の途中でした。私は中学3年生です。 ただ正直に言えば、そのニュースの記憶がありません。中学に入ると野球に夢中になっていて、もう相撲を見ていなかったからです。部活が終わって帰る頃には夕方6時30分を回っていて、相撲中継はとっくに終わっている。門限5時が私を相撲の前に座らせていたのだとすれば、部活が私を相撲から引き離したことになります。 絶対王者が土俵を降りた日を、私は知らないまま通り過ぎました。 強い者が嫌われるという、今思えばずいぶん贅沢な時代でした。誰もが倒れることを願っていて、それでも倒れなかった人が土俵の真ん中に立ち続けていた。あの手応えのようなものは、勝ってほしい人が勝つのとは、また別の面白さだったのだと思います。 みなさんが子供の頃、「この人は絶対に負けない」と思っていた人は誰でしたか。スポーツでも、テレビの中でも構いません。よかったら教えてください。 ...

July 22, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月21日──『太陽にほえろ!』が始まった日、金曜夜八時の十四年

1972(昭和47)年7月21日、金曜日の夜八時。日本テレビで『太陽にほえろ!』の第一回が放送されました。 私はこのとき三歳三か月。もちろん記憶にございません。ですが番組が最終回を迎えた1986(昭和61)年11月14日、私は高校二年生でした。全718回、足かけ十四年四か月。要するにこの番組は、私の子供時代とほぼ同じ長さだけ、金曜の夜八時を走り続けたことになります。 いま調べてみると、この番組には放送当時の子供が知るはずもない「裏側」が山ほどありました。今日はそれを掘ってみます。 なぜ「7月21日」という半端な日に始まったのか テレビの新番組といえば四月か十月に始まるものです。なぜ夏の、しかも七月二十一日という中途半端な日だったのか。 理由はドラマではなく、プロレスにありました。 金曜夜八時は、力道山の時代から日本テレビのプロレス枠でした。三菱電機一社提供の『三菱ダイヤモンド・アワー』。ところが1972年4月、NET(現在のテレビ朝日)が両局の協定を破ってジャイアント馬場の試合を中継してしまいます。激怒した日本テレビは5月12日の放送を最後に、十八年続けてきたプロレス中継を打ち切りました。 そこから約二か月、『日本プロレス選手権特集』という名勝負集でつなぎ、その後番組として7月21日に始まったのが『太陽にほえろ!』だったのです。スポンサーも同じ三菱電機のまま。 つまりこの刑事ドラマは、プロレス界のゴタゴタが生んだ代替番組でした。七月という変則スタートはその名残です。そしてこれには思わぬ副作用がありました。俳優との年間契約も七月起点になったため、若手刑事の降板──すなわち殉職が、夏に集中することになったのです。マカロニ刑事が1973年7月13日、ジーパン刑事が1974年8月30日、テキサス刑事が1976年9月。あの夏の風物詩のような殉職ラッシュには、こんな事務的な理由がありました。 さらに面白いのは、追い出された側のプロレスの行方です。新日本プロレスの『ワールドプロレスリング』が金曜夜八時に定位置を構えたのは1973年4月から1986年9月まで、十三年六か月。つまり『太陽にほえろ!』は、ほぼ全期間にわたって猪木と視聴率を争い続けたことになります。のちにTBSの『3年B組金八先生』も加わって、石原裕次郎・アントニオ猪木・武田鉄矢の三つ巴。金曜夜八時が「戦国時代」と呼ばれた所以です。 十三話で辞めるはずだった「ボス」 藤堂係長を演じた石原裕次郎は、日活黄金期のトップスターでした。しかしテレビの普及で映画は斜陽となり、1963年に設立した石原プロモーションの経営は次第に悪化していきます。 裕次郎がテレビドラマにレギュラー出演したのは、この事務所の経済的事情から東宝と日本テレビの説得に応じた結果だったといいます。しかも当初は「十三話まで」という約束でした。 十三話になり、予定どおり降板しようとした裕次郎を引き止めたのは、まき子夫人と、ゴリさんこと竜雷太たちだったそうです。 もしここで本当に降板していたら、と考えると少し背筋が寒くなります。番組の大ヒットでテレビの力を知った裕次郎は、のちに『大都会』シリーズ、『西部警察』シリーズを世に送り出しました。あの土曜夜八時の派手な爆破シーンも、まき子夫人の引き止めがなければ存在しなかったかもしれません。 「殉職」という発明は、事故から生まれた 当初の構想では、新人のマカロニ刑事こと早見淳を主人公にした「青春アクションドラマ」として、彼の成長を描いていく予定でした。 ところが一年を迎えるころ、演じる萩原健一から降板の申し出が出ます。この作品で自分のキャラクターが固まってしまうのが嫌だった、というのが理由でした。しかも本人の希望は「劇中で死にたい」。 そこで用意された最期が、あれです。非番の日、空き地で立ち小便をしている最中に、小銭目当ての通り魔に刺される。ヒーローらしさの欠片もない、あっけない死。厳密に言えばこれは殉職ですらありません。撮影されたのは当時まだ空き地だらけだった新宿西口で、その場所には現在、新宿野村ビルが建っています。 主人公が消えても番組は終わりませんでした。後任に据えられたのが、当時まったくの新人だった松田優作。ジーパン刑事です。これが当たり、視聴率は常時二十パーセントを超え、ついに三十パーセントを突破します。撃たれてから絶命するまでのあの絶叫は、台本には存在しない松田のアドリブだったと伝わっています。 そして1976年9月、テキサス刑事の殉職回はニールセン調べで42.5パーセントという番組最高視聴率を記録しました。四割です。日本中がひとつの刑事の死を見ていた。 ちなみに記念すべき第一話のゲスト出演は、若き日の水谷豊。第二十話は沢田研二でした。 もうひとつ。この番組がやたらと走るドラマになったのは、初期の中心監督だった竹林進が「人間のもっとも美しい姿は、一生懸命走る姿である」という考えの持ち主だったからだそうです。歴代の若手刑事たちが走った距離を合計すると地球を一周する、とまで言われました。 面白さが、わからなかった 七曲署の刑事たちの生き死にを、自分の学年と並べてみます。 小学一年の秋、テキサスが殉職(1976年9月) 小学四年の夏、ボンが殉職(1979年7月) 小学五年の夏、殿下が事故死(1980年7月) 小学六年の冬、スコッチが病死(1982年1月) 中学一年の秋、ゴリさんが殉職(1982年10月) 高校一年の夏、ラガーが殉職(1985年8月) 高校二年の春、山さんが殉職(1986年4月) ただし、この全部を観ていたわけではありません。私が金曜夜八時の前に座っていたのは、このうちの真ん中あたり、ほんの数年間です。 きっかけは友達でした。小学二年生のとき、一つか二つ年上の友達から「『太陽にほえろ!』というドラマがおもしろいぞ」と聞いて観はじめたのです。生まれて初めて、刑事ドラマというものを真剣に観ようと思った作品でした。 ところが、正直に言えば、面白さがわかりませんでした。 事件が起きて、大人たちが走って、誰かが撃たれる。それの何が面白いのか、八歳の私にはさっぱり掴めなかったのです。それでも友達との会話では話を合わせて「面白かった」と言っていたのですから、我ながらいじらしい(笑)。 それが、観続けているうちに、いつのまにかはまってしまった。これが本当のところです。 再放送と記憶が混ざってしまってはっきりしないのですが、金曜夜八時にリアルタイムで追いかけた新人刑事は、ボンからだったのではないかと思います。あとから年表と照らし合わせてみると、私が小学二年生だった1977年から78年ごろ、七曲署にいた新人刑事はたしかにボンでした。辻褄は合っているようです。 そして、ラガー刑事の登場は鮮明に覚えています。小学六年生の秋のことでした。 けれども不思議なもので、私がいちばん好きだった刑事は、リアルタイムでは一度も観ていません。再放送で観たジーパン刑事──松田優作です。あの殉職シーンは、どうしようもなく悲しくなりました。 台本になかったあの絶叫が、松田優作のアドリブだったと知ったのは、ずっと後のことです。 ボスの、最後のアドリブ 裕次郎は1981年4月に入院し、しばらく画面から姿を消します。1986年5月には再入院となり、このときは代行として渡哲也が七曲署に配されました。 やがて裕次郎自身から「健康な状態での復帰は望めない」として降板の申し出があり、番組の円満終了が決まります。そして最終回、第718話「そして又、ボスと共に」にだけ、ボスは帰ってきました。 殉職の危機にある澤村刑事を救うため、犯人の妹を取り調べる。この場面のセリフは、裕次郎のアドリブだったと言われています。 五年前に心臓を切る手術をした──という、現実の自分と重なる話をし、医者に止められているはずの煙草を口にしてみせ、そしてこれまでに亡くなった刑事たちの中から、スコッチの名を挙げました。 スコッチを演じた沖雅也は、このときすでにこの世にいませんでした。数ある殉職刑事の中からあえてその名を選んだのは、偶然ではなかったのだろうと思います。 これが石原裕次郎にとって、最後のドラマ出演となりました。 金曜夜八時を、私のほうが先に降りた 最終回のころには、私はすでに『太陽にほえろ!』を卒業していました。 おそらく中学に入ったあたりから、私の金曜夜八時はアントニオ猪木に移っています。つまり十四年にわたって視聴率を奪い合った二つの番組のあいだで、私自身が乗り換えた一人だったわけです。あれほど熱心に観ていたのに、山さんが殉職したことも、ボスが最終回だけ帰ってきたことも、当時の私は知りませんでした。 ...

July 21, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月20日──銀座に現れた80円のハンバーガー。マクドナルド日本1号店がオープンした日

7月20日は「ハンバーガーの日」だそうです。 昭和46年(1971年)のこの日、東京・銀座の三越1階に、マクドナルドの日本1号店がオープンしました。いまや全国どこの駅前にもある、あの黄色いMの看板。その最初の一軒が銀座のど真ん中に現れた日です。 このとき私は2歳。当然ながら、銀座の熱狂をこの目で見たわけではありません。それでも今回この日のことを調べてみて、驚きの連続でした。ハンバーガーという食べ物が、まだ日本人のほとんどに知られていなかった時代。そこにどうやって「マック」はやってきたのか。今日はその話と、私自身とハンバーガーの思い出を書いてみたいと思います。 「流行は銀座から始まる」 意外なことに、マクドナルドの日本1号店は、当初は銀座に出店する予定ではなかったそうです。 アメリカ本社が考えていた候補地は、神奈川県の茅ヶ崎。アメリカのマクドナルドは車で乗りつけて買っていく郊外型の商売でしたから、日本でも同じように、車社会を前提とした立地を考えていたわけです。 これに真っ向から異を唱えたのが、日本マクドナルド創業者の藤田田(ふじた・でん)さんでした。「流行は銀座から始まる」。日本でハンバーガーを根付かせたいなら、まず日本一の繁華街で話題にならなければ意味がない、という考えです。本国の方針を押し切って、出店場所は銀座三越の1階に決まりました。 といっても、百貨店の一等地に広々とした店を構えられたわけではありません。1号店の店舗面積はわずか129平方メートル。銀座通りに面した間口は広いものの奥行きはほとんどなく、客席を置くスペースさえない、テイクアウト専門の店だったそうです。 たった39時間の突貫工事 もうひとつ、調べていて唸ったのがこの話です。 三越側が出した条件は「営業中に工事はしないこと」。百貨店として当然の要求ですが、これを普通に受けたら店はいつまでも完成しません。そこで考え出されたのが、日曜日の閉店(当時は午後6時)と同時に工事を始め、翌月曜日の定休日を丸ごと使い、火曜日の朝9時の開店レセプションに間に合わせるという離れ業でした。 与えられた時間は、わずか39時間。約70人の作業員が二日間不眠不休で働き、しかも事前に別の場所で同じ条件の店を「作っては壊す」予行演習を繰り返して工期を縮めていったといいます。 そして昭和46年7月20日火曜日の朝、銀座三越の1階に、日本で初めてのマクドナルドが本当に開店してしまいました。日本の外食産業の歴史が変わった瞬間が、徹夜明けの突貫工事の果てにあったというのが、なんとも昭和らしくて好きです。 ハンバーガー80円と、歩行者天国の「立ち食い」 開店当時の価格は、ハンバーガー80円、チーズバーガー100円、ビッグマック200円、マックフライポテト70円。 前年の昭和45年から、銀座では歩行者天国が始まっていました。車の消えた銀座通りを歩きながらハンバーガーを頬張る――この光景が、当時の若者にとって最先端のファッションだったそうです。一方で、歩きながらものを食べるなんて「行儀が悪い」という批判の声もあったといいますから、時代を感じます。 考えてみれば、それまでの日本に「片手で食べられる温かい食事を、店先で買ってその場で食べる」という習慣はほとんどありませんでした。お行儀の議論を巻き起こしながら、ハンバーガーは銀座から日本に広がっていきます。1号店の4日後には2号店の代々木店が開店。昭和52年にはドライブスルーが、昭和60年には朝マックが始まり、マクドナルドは着実に「日常の風景」になっていきました。 2歳の私は、記憶にございません さて、昭和46年7月20日の私はというと、2歳3ヶ月。京成高砂の線路際の家で、電車を眺めていた頃です。銀座の熱狂は、当然ながら記憶にございません。 では、私が初めてマクドナルドのハンバーガーにかじりつき、ジュースをストローですすって、ポテトをつまんで口にはこんだのはいつだったのか。時期ははっきりしないのですが、場所が上野であったことは間違いありません。 店の周りが人でごった返す中、母と妹との3人で並んで、やっと買った思い出があります。その日は休日で、上野駅から御徒町方面へ延びる中央通りは歩行者天国。相当な人出でにぎわっていて、子供心にウキウキした気分になっていました。そんな人波の中で、立ちながら食べた記憶が残っています。 いま思えば、銀座で生まれた「歩行者天国でハンバーガーを立ち食いする」という光景を、私は少し遅れて上野でなぞっていたことになります。 そして子供ながらに、マクドナルドでの買い物は安くはないと感じていました。なにしろ、母は自分の分を買っていませんでしたから。大事に味わいながら、特別なものを頂いている――そんな感覚だったのです。現在のわが子とマクドナルドの関係とは、相当にかけ離れています。 サンキューセットと、昭和62年の私 マクドナルドの歴史を調べていて、個人的にいちばん「おおっ」となったのが、昭和62年(1987年)の「サンキューセット」です。 昭和60年のプラザ合意をきっかけに、1ドル240円ほどだった為替相場は、昭和62年には120円台へと急激な円高が進みました。輸入食材の多いマクドナルドにとってこれは追い風で、その差益をお客に還元するとして売り出されたのが、ハンバーガー・ポテトSサイズ・ドリンクで390円の「サンキューセット」でした。それまで520円ほどだった組み合わせですから、思い切った値下げです。 これが社会現象になりました。「サンキューセット」はこの年の新語・流行語大賞で大衆賞を受賞。ロッテリアが380円の「サンパチトリオ」で対抗し、マクドナルドが360円の「サブロクセット」で応戦するという、のちに「ハンバーガー戦争」と呼ばれる値下げ合戦にまで発展します。 昭和62年といえば、私は高校3年生。夏に最後の野球が終わった年です。 このころになると、マクドナルドはすでに身近な存在になっていて、高校生のちょっとした小遣いでも食べられるようになっていました。上野で母と妹と並んで買った「特別なごちそう」は、十数年のあいだに「いつでも手が届く定番」へと変わっていたわけです。 思えば、その途中にはこんな思い出もあります。中学生の頃、夏になると定番メニューのほかに期間限定の味のマックシェイクが発売されて、それだけを目当てに、友達と買いに出かけて行きました。確かまだ高砂の近所にマクドナルドがなく、自転車で松戸まで走った記憶があります。もしかすると、当時すでに金町駅前の東急ストア横に店があったかもしれませんが、そのあたりの記憶はあいまいです。 期間限定のシェイクひとつのために、自転車で江戸川を越えて隣の県まで。それだけの価値が、あの頃のマクドナルドにはあったのです。 おわりに 銀座三越の一角、たった129平方メートルのテイクアウト専門店から始まったマクドナルドは、半世紀あまりで日本中に広がりました。母が自分の分を買わなかった「特別なごちそう」は、いつのまにか、家族みんなの「いつもの味」になりました。 それでも、店の前を通ればポテトの匂いがして、つい足が向いてしまうのは、あの頃も今も同じかもしれません。 あなたの「初めてのマクドナルド」の記憶は、いつ、どこの店ですか。 「流行は銀座から始まる」と本国に言い放ち、80円のハンバーガーで日本の食文化を変えた男・藤田田。その商売哲学がぎっしり詰まった伝説の一冊が、いまも新装版で読めます。ソフトバンクの孫正義さんが高校時代にこの本に感動して、藤田さんに直接会いに行った話はあまりに有名。マクドナルドの記事を書きながら、私も読み返したくなりました。 ユダヤの商法(新装版)藤田田/ベストセラーズ。日本マクドナルド創業者が明かす商売の原理原則。若き日の孫正義を動かした伝説のベストセラー Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月19日】日本がいなかったオリンピック。モスクワ五輪開幕 | 次の記事:【7月21日】『太陽にほえろ!』が始まった日、金曜夜八時の十四年 ▶

July 20, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月19日──日本がいなかったオリンピック。モスクワ五輪開幕

今日は7月19日。昭和55年(1980年)のこの日、モスクワで第22回オリンピック競技大会が開幕しました。 社会主義国では初めての開催となった、歴史に残る大会です。ただし、日本人にとってこの大会が「歴史に残る」理由は、まったく別のところにあります。 日本は、この大会に参加しませんでした。 当時、私は小学5年生。「日本はモスクワオリンピックに出ない」ということ自体は、子どもながらに知っていました。ただ、なぜ出ないのか、その裏で何が起きていたのか。詳しいことを理解したのは、ずっと後になってからです。今回この記事を書くにあたって改めて調べてみると、知らなかったことばかりでした。 「モスクワは近い!」はずだった まず驚いたのは、開幕前年の日本の盛り上がりぶりです。 昭和54年(1979年)、オリンピック協賛企業のテレビCMには「頑張れニッポン! モスクワは近い!」というフレーズが躍り、プレイベントも各地で大々的に行われていました。放送はテレビ朝日が独占放送権を獲得。局を挙げての一大プロジェクトでした。 そして、大会マスコットのこぐまのミーシャ。ソ連の絵本作家がデザインしたこの愛らしいクマは、日本でも大人気となり、なんとテレビアニメにまでなっています。『こぐまのミーシャ』、日本アニメーションと朝日放送の共同製作で、昭和54年10月から昭和55年4月まで、テレビ朝日系列で全26話が放送されました。 つまり日本は、国を挙げて「モスクワに行く気満々」だったのです。 放送時期は、私が小学4年生の秋から5年生に上がる春にかけて。年齢的にはドンピシャの世代です。 ところが正直に告白すると、このアニメのことは全く覚えていません。毎週楽しみにしていた番組はいくつもあったはずなのに、ミーシャの記憶だけがすっぽりと抜けている。日本中があれほど盛り上がっていたはずのモスクワへの道は、少なくとも高砂の小学生の頭の上を、静かに素通りしていたようです。 昭和55年5月24日、挙手の採決 ところが、昭和54年12月。ソ連が突如、アフガニスタンに軍事侵攻します。 これに抗議したアメリカのカーター大統領が、翌昭和55年1月、モスクワ五輪のボイコットを表明。西側諸国に同調を呼びかけました。日本政府もこれに追随する方針を固めていきます。 ただし、オリンピックに参加するかどうかを決める権限は、本来、政府ではなくJOC(日本オリンピック委員会)にあります。JOCの一部の委員は最後まで参加の道を模索し、選手たちもJOC本部に足を運んで出場を訴えました。柔道の山下泰裕選手、レスリングの高田裕司選手が涙ながらに参加を訴える姿は、今も映像に残っています。 しかし、当時のJOCは日本体育協会の一部門にすぎず、その体協は予算の半分を国からの補助金に頼っていました。財政的に、政府の方針に抗える構造ではなかったのです。 昭和55年5月24日、JOC臨時総会。採決は挙手で行われ、29対13で不参加が決定しました。会場には伊東正義官房長官の姿もあり、参加に手を挙げた競技団体には予算を分配しない、という圧力までかけられていたといいます。 さらに切ないのは、その後の6月11日、JOCが「モスクワ五輪日本選手団」の名簿を承認していることです。行かないことが決まった大会の、行くはずだった選手たちの名簿。「幻の選手団」と呼ばれるこの名簿には、山下選手も、マラソンの瀬古利彦選手も名を連ねていました。金メダル確実と言われた選手たちが、4年間積み上げてきたものを発揮する場所を、一度も走ることなく失ったのです。 小学5年生の夏、テレビの中に日本はいなかった さて、では当の小学5年生は、この夏をどう過ごしていたのか。 正直に言えば、モスクワオリンピックそのものの映像を見た記憶は、全くありません。テレビ朝日は独占放送権を持っていたのですから、何かしらの中継や録画放送はあったはずです。しかし11歳の私の記憶には、開会式も、競技の様子も、何ひとつ残っていません。 その代わり、鮮明に覚えている映像があります。 柔道の山下選手が、涙を流しながら無念さを訴えていたテレビニュースです。あの大きな山下選手が、テレビの中で泣いている。日本の不参加をめぐるニュースの中で、あの姿だけは、今もはっきりと目に焼き付いています。 選手たちが参加を訴えるのは、当然のことだと私は思います。本当に、残念なことでした。 山下選手も、マラソンの瀬古選手も、オリンピックとは関係なく、その存在は当然知っていました。それ以前から、様々な試合でその強さを目にしていましたから。あの二人が本番の畳の上に、コースの上に立っていたら――そう想像すると、やはりこの「不参加」は、返す返すも残念なできごとでした。 ミーシャの涙 大会は、日本のいないまま16日間の日程を終えました。 8月3日の閉会式。スタジアムのバックスタンドに、人文字で巨大なミーシャが描かれます。そしてその目から、一筋の涙がこぼれ落ちました。場内にはお別れの歌が流れ、ミーシャの人形が風船とともに夜空へ打ち上げられ、森へ帰っていく――そんな演出で、大会は幕を閉じました。 「西側諸国のボイコットを悲しんで涙を流した」と語られることもあるようですが、これは俗説で、あくまで閉会の別れを表現した演出だったそうです。それでも、あの涙の人文字は、ボイコットに揺れた大会の記憶と分かちがたく結びついて、多くの人の心に残ることになりました。 日本の選手たちに次のチャンスが巡ってくるのは、4年後の昭和59年、ロサンゼルス。山下選手はそこで悲願の金メダルを獲得します。しかし、モスクワを最後の勝負の場と定めていた選手の中には、そのまま第一線を退いた人も少なくありませんでした。 あれから半世紀近く。スポーツと政治の関係は、少しずつ形を変えてきました。 モスクワでは60を超える国と地域が大会そのものをボイコットし、4年後のロサンゼルスでは、今度はソ連など東側諸国が報復的に不参加。国が「行かない」と決めれば、選手個人の意思とは関係なく出場の道が閉ざされる――そういう時代だったのです。 現在も、政治がスポーツ大会に影を落とすこと自体はなくなっていません。ただ、国ぐるみの全面ボイコットは減りました。代わりに、特定の国の選手を国旗も国歌もなしの「中立選手」として参加させたり、政府関係者だけが式典を欠席する「外交的ボイコット」にとどめたり。ロシアやベラルーシの選手をめぐる近年の対応は、その代表例でしょう。政治への抗議は行いつつ、選手個人への影響はできるだけ小さくする。もちろん今も議論は続いていますが、世界は回り道をしながら、あの日の山下選手の涙に応える方向へ、少しずつ進んでいるのだと信じたいところです。 おわりに 調べれば調べるほど、昭和55年のあの夏、大人の世界では実に大きなことが動いていたのだと知りました。当時の私は、その大半を知らないまま、いつもどおりの夏休みを過ごしていたのだと思います。 セミの声と、ラジオ体操と、真っ黒に日焼けした野球少年の夏。それでも、山下選手の涙のニュースだけは、11歳の記憶にしっかりと刻まれていました。子どもの目にも「これはただごとではない」と映るだけのものが、あの映像にはあったのでしょう。 みなさんは、モスクワオリンピックの記憶、ありますか? 「モスクワは近い!」のCMを覚えている方、幻の選手団に胸を痛めた方、ミーシャのぬいぐるみを持っていた方。よろしければ、コメントで教えてください。 この記事で書いた「幻の選手団」のその後を、選手たち本人への取材で描き切ったノンフィクションがこの一冊です。挙手の採決の裏側、涙の記者会見、そして28年後——あの夏に行き場を失った選手たちが、それぞれの人生をどう歩んだのか。山下選手の涙の意味を知りたい方に、深くおすすめします。 五輪ボイコット──幻のモスクワ、28年目の証言松瀬学/新潮社。モスクワに行けなかった選手たち本人の証言で綴る、ボイコットの真実とその後の人生 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月18日】コマネチは、ギャグじゃなかった | 次の記事:【7月20日】銀座に現れた80円のハンバーガー。マクドナルド日本1号店がオープンした日 ▶

July 19, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月18日──コマネチは、ギャグじゃなかった

「コマネチ」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。 私の場合、答えは決まっています。ビートたけしさんの、あのポーズです。がに股で腰を落とし、両手を股間の前でV字にして、「コマネチ!」。 白状しますと、私は本物のコマネチ選手の演技を見た記憶が、まったくありません。それどころか、当時はたけしさんのあのギャグの、何が面白いのかすらよく分かっていませんでした。 今日、昭和51年(1976年)7月18日は、そのナディア・コマネチが、オリンピック体操史上初の10点満点を出した日です。ギャグの元ネタとしてしか知らなかった「本物のコマネチ」に、この記事を書きながら迫ってみようと思います。 電光掲示板が表示できなかった「10.00」 昭和51年7月18日、モントリオールオリンピックの体操女子団体規定。ルーマニアの14歳、ナディア・コマネチは段違い平行棒の演技で、近代オリンピック史上誰も出したことのない点数を叩き出しました。 10点満点。 ところが、会場の電光掲示板に表示されたのは「1.00」という数字でした。掲示板には「10.00」を表示する設定がなかったのです。満点など出るはずがない。大会の運営側すら、そう考えていたということです。 観客は一瞬ざわつき、そして意味を理解した瞬間、大歓声に変わったといいます。 コマネチの快進撃はこれで終わりませんでした。この大会で彼女が出した10点満点は、合計7回。段違い平行棒と平均台で完璧な演技を続け、個人総合、段違い平行棒、平均台の3つの金メダルを獲得しました。細い手足で宙を舞う14歳のルーマニア人少女を、日本のメディアは「白い妖精」と呼びました。 そのとき私は7歳。その年の4月に小学校に入学したばかりの小学1年生で、初めての夏休みを目前に控えた頃です。 そして正直に申し上げます。モントリオールオリンピックの記憶が、何ひとつありません。中継を観た記憶もなければ、家のテレビにオリンピックが映っていた気配すら思い出せないのです。 無理もありません。当時の私は、まさに「昭和の子ども文化」のど真ん中にいました。学校が終わればランドセルを放り投げて、野球、メンコ、鬼ごっこ、缶けり、秘密基地づくり、虫取り、ザリガニ釣り。夏休みに入れば、朝6時半のラジオ体操に始まり、セミ取り、小学校のプール、昼はそうめんとスイカ、午後はまた友達と野球。おやつはアイスやカルピスで、夜は家族でドリフやウルトラマンの再放送を見て、9時には寝る。おもちゃ箱には超合金ロボットやミクロマン。そんな毎日です。 7歳の私にとって、オリンピックはまだ「大人たちが見ているもの」でした。地球の裏側で14歳の少女が歴史を塗り替えていたことなど、知る由もなかったのです。 私にとっての「コマネチ」は、ギャグだった 私が「コマネチ」という言葉を知ったのは、本物の演技からではありません。ビートたけしさんの、あの一発ギャグからでした。 調べてみると、あのギャグが生まれたのは1980年頃。ツービートが漫才ブームで大ブレイクしていた時期です。せんだみつおさんが楽屋のテレビでコマネチ選手のレオタード姿を見て、股間の前で両手をV字にして「コマネチ!」とやったのを、たけしさんが「それ、使ってもいいですか?」と買い取った――という誕生秘話が知られています(金額や経緯には諸説あるようです)。 1980年といえば、私は小学5年生。漫才ブームでツービートがテレビを席巻し、あのギャグが大流行した時期は、ちょうど小学校高学年から中学に上がる頃にあたります。 流行の勢いは、すさまじいものでした。学校の休み時間、校庭、下校途中。男の子たちは何かあるたびに「コマネチ!」と叫びながらポーズを決めていました。先生に「やめなさい!」と注意されても、しばらくするとまた誰かが始める。そんな光景が、当時の小学校では珍しくなかったのです。 そして白状しますと、私もまさにやっていました(笑)。 ただ、やっていた本人が言うのも変な話ですが、当時の私には、あのギャグの何が面白いのか、よく分かりませんでした。がに股で「コマネチ!」と叫ぶ。それだけです。オチもなければ、意味も分からない。周りの大人たちがなぜ笑うのか、不思議でした。 今にして思えば、当然だったのです。あれはコマネチ選手のハイレグレオタードの、際どいラインを模したポーズでした。つまり、大人たちが「なんとなく思っているけど口に出せないこと」を、たけしさんが堂々とやってのけたところに面白さがあった。子どもに分かるはずがありません。あれは大人のギャグだったのです。 本物を知らないまま、ギャグだけを知っている。しかもそのギャグの意味も分かっていない。当時の私にとって「コマネチ」とは、そういう不思議な言葉でした。 調べて知った、本物のコマネチ さて、五十半ばを過ぎた今、あらためて本物のナディア・コマネチを調べてみました。そして、驚きの連続でした。 まず、彼女はモントリオールの前に、日本で10点満点を出していました。1976年、来日して出場した中日カップで、跳馬と段違い平行棒で満点を記録しているのです。オリンピック史上初の10点満点の「予告編」は、日本で上映されていたことになります。 そして映像です。段違い平行棒の演技を、今はインターネットで簡単に見ることができます。見てみました。棒から棒へ、体が吸い付くように移動し、一切のよどみなく回転し、ぴたりと着地する。素人の私が見ても、これは何かが違うと分かります。審判が満点をつけたくなる気持ちが、半世紀近く経った映像からでも伝わってきました。 彼女の人生も、演技と同じくらい波乱に満ちていました。モントリオールの4年後、モスクワオリンピックでも金メダルを獲得。しかし当時のルーマニアはチャウシェスク独裁政権下にあり、国民的英雄となった彼女の生活は、自由とはほど遠いものだったといいます。そして昭和が終わる1989年、彼女は祖国を脱出して亡命します。その直後、ルーマニアでは革命が起き、独裁政権は崩壊しました。 「白い妖精」と呼ばれた少女は、妖精どころか、激動の20世紀を生き抜いた一人の人間でした。 ギャグと本人の、後日談 ところで、ギャグと本人をめぐっては、愉快な後日談があります。 たけしさん本人が後年テレビ番組で語ったところによると、あの一発芸について、コマネチさん本人に肖像権使用料として200万円を支払ったことがあるのだそうです。最初は承諾を得ずに使っていたところ、本人に「気がつかれて」しまった。たけしさんいわく「オレは『ネチコマ』に直したんだけど」――このあたりの顛末も、いかにもたけしさんらしい話です。 子どもたちが校庭で真似するほどの国民的ギャグになったのですから、ご本人の耳に届かないはずがありません。地球の裏側の14歳の完璧な演技が、数年後に日本の校庭でがに股のポーズになり、やがて本人への使用料支払いにまで発展する。こんな国際交流は、後にも先にもないのではないでしょうか。 ギャグの向こう側にいた人 こうして調べ終えて、あらためて思います。 7歳の夏、私が虫捕りだの何だのに夢中になっていたその瞬間、地球の裏側では14歳の少女が完璧な演技をしていた。その名前は、数年後に日本のお茶の間で一発ギャグになり、演技を見たこともない小学生の耳にまで届いた。そして意味の分からないままそのギャグを眺めていた小学生が、50年後にようやく本物の演技を見て、腰を抜かしている。 「コマネチ」という五文字は、ずいぶん長い旅をして私のところに届いたわけです。 たけしさんのギャグを入り口に本物へたどり着く。順番は逆かもしれませんが、こういう昭和の知り方も、あっていいのではないでしょうか。 みなさんは「コマネチ」と聞いて、何を思い浮かべますか? 本物の演技をリアルタイムでご覧になった方がいらっしゃいましたら、ぜひその衝撃を教えてください。 50年遅れで「本物のコマネチ」に出会った私が、次に手に取ったのがこの一冊です。10点満点の少女は、その後の人生で何を学び、何を伝えたいのか。完璧の裏にあった努力と、亡命を経てなお前を向く言葉の数々。スポーツをする子や孫を持つ方への贈り物にも、じつはとても良い本です。 コマネチ 若きアスリートへの手紙(新装版)ナディア・コマネチ著/鈴木淑美訳。10点満点の「白い妖精」本人が、努力と人生について綴った一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月17日】江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」 | 次の記事:【7月19日】日本がいなかったオリンピック。モスクワ五輪開幕 ▶

July 18, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月17日──江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」

7月も半ばを過ぎると、プロ野球はオールスターの季節です。子どもの頃、この「夢の球宴」という響きに、どれだけ胸を躍らせたことでしょう。 昭和46年(1971年)7月17日。西宮球場で行われたオールスターゲーム第1戦で、阪神タイガースの江夏豊投手が、パ・リーグの強打者9人から9者連続奪三振という前人未到の記録を打ち立てました。 このとき私は2歳。当然、記憶にございません。それどころか、江夏投手が阪神のエースとして君臨した時代そのものを、私はこの目で見ていないのです。私が物心ついて野球に夢中になった頃、江夏はもう別の顔をした投手になっていました。 だから今回は、いつもと少し勝手が違います。「あの頃こうだった」と思い出を語るのではなく、野球少年だった私が後から知った伝説の正体に、記事を書きながらあらためて迫ってみたいと思うのです。 前半戦6勝9敗のエースが、なぜ伝説を作れたのか 調べてみて驚いたのは、この年の江夏が絶不調だったということです。 オールスター前の成績は6勝9敗、防御率3.12。昭和43年(1968年)にシーズン401奪三振という、今なお破られない日本記録を打ち立てた剛腕が、「何でか知らんが、今年はコントロールが悪いねん」とぼやくありさま。それでも、7月9日に発表されたファン投票では、セ・リーグ投手部門の1位。負け越しのエースを、ファンは見捨てていなかったのです。 そこにスポーツ紙の記者が挑発を仕掛けます。「ようそんな成績で出てきたな。ちょっとお客さんが喜ぶようなことをやってみな」。江夏の答えは明快でした。自分がお客さんを喜ばせるとしたら、三振しかない——。 江夏は取材に対して「9人全部、三振にとったるワ」と宣言します。ところがこの前代未聞の予告、当のスポーツ紙では冗談扱いされ、紙面の片隅にわずか一行で片付けられたそうです。無理もありません。当時はメジャーリーグでも達成されたことのない記録だったのですから。 昭和46年7月17日、西宮の夜 迎えた第1戦。マスクをかぶったのは、盟友・田淵幸一でした。この年の田淵は病気の影響でほとんど捕手として出場しておらず、シーズン中には一度も組まれていなかった「黄金バッテリー」が、この夜、球宴の舞台で復活したのです。 1回裏、先頭のロッテ・有藤通世から空振り三振。続く西鉄・基満男、阪急・長池徳二も連続で仕留めます。江夏が9人の中で最も警戒したのは、32試合連続安打を記録していた長池でした。この打席にだけ、江夏はその春に自ら編み出したばかりの「落ちる球」を1球だけ投じたと後に語っています。 2回にはロッテ・江藤慎一、近鉄・土井正博、西鉄・東田正義を三者三振。しかもこの回、江夏は打席でも阪急・米田哲也のカーブを右翼スタンドへ運び、3点本塁打まで放っているのです。投げては伝説、打ってはホームランです。 そして3回。後に江夏は、このときの球場が「不気味なほど静かだった」と振り返っています。阪急・阪本敏三が見逃し三振、岡村浩二が空振り三振で、ついに8者連続。 9人目の打者は、阪急の若き強打者・加藤秀司でした。3球目、加藤の打球がバックネット方向に高く上がります。マスクを投げ捨てて追おうとした田淵に向かって、江夏が叫びました。 「追うなっ!」 捕られてしまえば記録は「8者連続」で終わり——と語られがちな場面ですが、後年の江夏自身の弁によれば、本音は「一刻も早くこの緊迫感から逃れたかった」から、なのだそうです。伝説の裏にあった生身の述懐に、私はかえって痺れました。 次の1球。江夏はストライクゾーンのど真ん中に速球を投げ込み、加藤はフルスイングで空を切りました。9者連続奪三振、達成。西宮球場は大歓声に包まれ、江夏は両手を挙げて満面の笑みを浮かべたといいます。 ちなみにこの記念すべきウイニングボールは、現存していません。記録達成を把握していなかった田淵が、三振のコールと同時に観客席へ投げ入れてしまったからだそうです。 伝説は15でようやく止まった この夜の物語には続きがあります。江夏の後を受けた4人の投手が無安打リレーを完成させ、オールスター史上初の継投ノーヒットノーランまで達成してしまうのです。 さらに江夏自身、前年のオールスターでも5者連続奪三振を記録していたため、この時点で通算14者連続。後楽園球場での第3戦にも登板し、最初の打者から三振を奪って15連続まで記録を伸ばします。 これを止めたのが、南海の野村克也でした。バットを極端に短く持って打席に立ち、初球をたたいて二塁ゴロ。「パ・リーグで育った者として、連続だけはなんとしても止めたかった」という野村のコメントがまた、この時代のオールスターが真剣勝負だったことを物語っています。 そして昭和59年(1984年)。今度は巨人の江川卓が球宴で8者連続奪三振まで到達し、あと一人というところで大石大二郎に二塁ゴロを打たれ、大記録に届きませんでした。 この試合のことは、はっきり覚えています。私は中学3年生。最後の夏の大会は6月のうちに地区大会で敗退してしまい、野球部を引退して高校受験に向けた勉強モードに本格的に切り替えていた頃でした。それでも、この年のオールスターはリアルタイムでテレビ観戦していました。 巨人ファンの私は、江川が連続奪三振を4つ、5つ、6つと積み重ねていくたびに、テレビの前で「よし!」「しゃー!」と叫んでいました。すると、同じタイミングで、あちらこちらの家から同じような叫び声が聞こえてくるのです。当時はまだエアコンを入れず、窓を開けて扇風機、という家が多かったのですね(笑)。 そして9人目の打者・大石大二郎がセカンドゴロを打ったその瞬間。今度は「あぁ……」というため息が、方々の窓から同時に聞こえてきました。江夏の記録の偉大さを、私は町内中のため息で思い知ったのです。 「江夏の21球」——確かに観たはずの記憶 冒頭に書いたとおり、私は阪神のエース・江夏を知りません。私が野球に夢中になった昭和50年代、江夏はすでに広島や日本ハムで「優勝請負人」と呼ばれる抑えの切り札になっていました。そして、その抑え投手・江夏の頂点というべき瞬間について、私にはひとつ、鮮明な記憶が「ありました」。過去形で書く理由は、のちほど。 昭和54年(1979年)11月4日、日本シリーズ第7戦、大阪球場。広島が4対3と1点リードで迎えた9回裏。ここから始まる21球が、後に「江夏の21球」と呼ばれる伝説になります。 先頭の羽田耕一にセンター前ヒットを許すと、盗塁と捕手の悪送球で無死三塁。アーノルドに四球、さらに盗塁と平野光泰への四球で、あっという間に無死満塁です。大阪球場は大歓声。近鉄ファンは、球団初の日本一を目前と信じていたはずです。 しかし、ここからが江夏の真骨頂でした。まず代打・佐々木恭介を三振。続く石渡茂の打席で近鉄ベンチはスクイズを仕掛けますが、江夏はその気配を察知し、とっさにボールを高く外します。石渡のバットは空を切り、本塁へ突っ込んだ三塁走者は捕手・水沼四郎にタッチアウト。野球史に残る「スクイズ外し」です。そして21球目、膝元へ鋭く落ちる変化球に石渡のバットがもう一度空を切って、試合終了。広島東洋カープ、球団創設以来初の日本一が決まりました。 実は私、この最後の場面を、小学校の教室で観た——という鮮明な記憶が、長いことありました。教室に備え付けられていたテレビで、クラスのみんなと一緒に『江夏の21球』を目撃した。小学4年生。大興奮だった。個人的には近鉄を応援していたのに、終わってみたら江夏が抑えたことをめっちゃ喜んでいて、自分でもわけがわからないことになっていた——そういう記憶です。 ところが今回、記事を書くために調べてみて、驚きました。昭和54年11月4日は、日曜日なのです。学校があるはずのない日でした。 どうやら私の記憶は、別の試合か、別の日の出来事と混ざってしまっているようです。40年以上、疑いもせずに「教室で観た」と信じ込んでいたのに。記憶とは、なんとあてにならないものでしょう。それでもあの大興奮の手触りだけは、今も確かに体のどこかに残っているのです。 「勝負師」——敵なら最悪、味方なら最強 野球少年だった私にとって、江夏豊は一言でいえば「勝負師」でした。敵に回したら、これほど嫌な相手はいない。でも味方にしたら、これ以上ないほど心強い。巨人ファンの私は、ほとんどの期間、江夏を「敵」として見ていたわけですが、それでもあの背中には痺れるものがありました。 そしてもうひとつ、強く記憶に残っているのが晩年の姿です。昭和60年(1985年)、36歳の江夏は海を渡り、ミルウォーキー・ブルワーズのキャンプにマイナー契約で参加して、メジャーの舞台を目指しました。今でこそ多くの日本人投手が当たり前のようにメジャーへ挑戦していますが、当時としては前代未聞のことです。私はその挑戦を報じるニュースに、いつも注目していました。結果的にメンバー入りは叶わず、江夏はそのままユニフォームを脱ぐことになります。それでも、全盛期の江夏であれば十分に活躍できたはずだと、今なら確信を持って言えます。 見ていない伝説と、あてにならない記憶 阪神のエース・江夏を、私はついにこの目で見ることがありませんでした。抑え投手・江夏の頂点は、確かに目撃したはずなのに、その記憶は場所ごとあやふやになっていました。それでも、江夏の記録に江川が挑んだ夜の、町内中の叫び声とため息だけは、今もはっきり耳に残っています。伝説というのは、正確な記録と、あてにならない記憶と、その両方でできているのかもしれません。 半世紀以上たった今も、球宴での9者連続奪三振は破られていません。もう先発投手が3イニングを投げることすらない現代のオールスターでは、永遠に破られないのでしょう。 皆さんには、この目で見ていないのになぜか鮮明に語れる伝説や、確かに見たはずなのにつじつまの合わない記憶はありますか? この記事の後半に書いた1979年日本シリーズの9回裏を、一球ずつ、投手と打者と両ベンチの心理まで踏み込んで描き切ったのが、スポーツノンフィクションの金字塔と呼ばれるこの一篇です。「スクイズ外し」の21球が、なぜ伝説になったのか。私のあやふやな記憶を補って余りある、正確で、それでいて胸の熱くなる記録です。 江夏の21球(角川新書)山際淳司。1979年日本シリーズ第7戦9回裏を描いた不朽の名作ノンフィクション。「スローカーブを、もう一球」も収録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月16日】私が生まれた年、人類は月へ向かった | 次の記事:【7月18日】コマネチは、ギャグじゃなかった ▶

July 17, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月16日──私が生まれた年、人類は月へ向かった

昭和44年7月16日。世界初の有人月宇宙船「アポロ11号」が、アメリカ・フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられました。 昭和44年生まれの私にとって、これは「同い年」の出来事です。とはいえ、当時の私は生後3ヶ月半。首がようやく据わったかどうかという赤ん坊ですから、当然ながら記憶にございません。 それどころか、白状してしまうと、私はアポロについて詳しく知らないまま50年以上を生きてきました。「アームストロング船長が月に降りた」「人類にとっては偉大な飛躍である、という名言」。知っているのは、せいぜいその程度。物心ついたときには月面着陸はすでに「歴史」であり、教科書の中の出来事だったのです。 今回、この記事を書くにあたって初めてアポロ11号のことを腰を据えて調べました。すると、これが面白い。知らなかったことだらけでした。今日は、55歳を過ぎてようやく「月への旅」を追体験した男の話に、しばしお付き合いください。 昭和44年7月16日、夜10時32分 まず驚いたのは、打ち上げの正確な時刻です。現地フロリダでは7月16日の午前9時32分。日本時間に直すと、同じ7月16日の夜10時32分でした。 つまり、日本では多くの家庭がテレビの前でこの瞬間を見ていたのです。NHKは夜9時45分から75分間の報道特別番組「アポロ11号発射」を放送し、視聴率は43.8%を記録したといいます。夜10時半に、国民の4割以上がロケットの発射を見守っていた。今では考えられない光景です。 発射場の周辺には推定100万人もの見物客が詰めかけ、打ち上げの様子は世界33ヶ国にテレビ中継されました。全長110メートルを超える巨大なサターンVロケットが、3人の宇宙飛行士――アームストロング船長、オルドリン、コリンズ――を乗せて、轟音とともに空へ昇っていく。 その夜、東京の下町・葛飾の片隅では、生後3ヶ月の私が寝ていたはずです。当時、我が家にテレビがあったかどうかは、今となっては確かめようがありません。ただ、ひとつだけ、はっきり覚えていることがあります。 3歳くらいになって、いろいろなことが分かるようになった頃、父が私に何度もこう言ったのです。 「アポロ11号は人を乗せて月に着陸したんだぞ。すごいよな」 一度や二度ではありません。何度も、です。幼い私の記憶に刻み込まれるほど繰り返したということは、父にとってそれだけ強烈な出来事だったのでしょう。あの夜、あるいはあの昼、父もどこかでテレビの前に立っていたのかもしれません。 8年がかりの「月への競争」だった 調べてみて次に驚いたのは、アポロ11号が決して「順風満帆の一発成功」ではなかったということです。 始まりは昭和36年(1961年)。ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行を成功させ、宇宙開発競争でアメリカは完全に後れを取っていました。そこでケネディ大統領が打ち出したのが「1960年代が終わるまでに、人間を月に着陸させ、安全に地球へ帰還させる」という国家目標です。 しかし道のりは平坦ではありませんでした。昭和42年(1967年)にはアポロ1号が訓練中の火災事故で炎上し、3人の宇宙飛行士が亡くなっています。計画は一時中断。それでも8号で月の周回飛行を、10号で月面1万5000メートルまで接近する「予行演習」を積み重ね、ようやく11号で本番を迎えたのです。 ケネディ大統領の公約から8年。大統領自身はその実現を見ることなく世を去っていました。期限とされた「60年代」の残りは、あと半年もありません。まさに滑り込みの挑戦だったわけです。 日本中が見た「小さな一歩」 打ち上げから約4日後の7月21日(日本時間)、月着陸船「イーグル」が月の「静かの海」に着陸します。早朝5時18分のことでした。 そしてお昼前の11時56分、アームストロング船長が月面に第一歩を踏み下ろします。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」――あの名言が生まれた瞬間です。 日本では平日月曜日の昼前。それなのに、NHKの中継の視聴率は68%に達したといいます。その日のうちに何らかの形で映像を見た人は、実に91%。学校でも職場でも、テレビのある場所に人が集まり、38万キロ彼方から届く白黒の映像に見入っていたのでしょう。 面白いのは、この年、日本の家電メーカーが「月面着陸をカラーで観よう」というキャッチコピーでカラーテレビを売り込んでいたことです。昭和44年のカラーテレビ生産台数は約483万台と、わずか4年前の48倍に跳ね上がりました。ところが肝心の月面からの映像は、機材の重量制限のため白黒だった。なんとも皮肉な話ですが、アポロが日本の茶の間のカラー化を後押ししたのは間違いなさそうです。 3人目の男と、持ち帰られた月 もうひとつ、調べていて心に残ったことがあります。月に降り立ったのは2人ですが、アポロ11号の乗組員は3人だったということです。 アームストロングとオルドリンが月面を歩いている間、司令船操縦士のマイケル・コリンズは、たったひとりで月の周回軌道を飛び続けていました。月の裏側に回れば、地球との交信も途絶えます。人類の歓喜の輪から38万キロ離れた場所で、静かに仲間の帰りを待つ。子供の頃に「月に降りた人」の名前だけを覚えていた私は、この3人目の男の存在をほとんど意識したことがありませんでした。野球で言えば、派手なホームランの裏で黙々と走者を進めるバントのような仕事です。歳を重ねた今だからこそ、この人に一番心を惹かれるのかもしれません。 2人は月面に約21時間半滞在し、およそ21キロの「月の石」を採取しました。3人を乗せた司令船は7月25日(日本時間)、太平洋に無事着水。ケネディの公約――月に人間を着陸させ、安全に地球へ帰還させる――は、ここで完全に達成されたのです。 そして持ち帰られた月の石は、翌昭和45年の大阪万博でも大きな話題になります。アメリカ館に展示された「月の石」(こちらは続くアポロ12号が持ち帰ったものだそうです)を一目見ようと、連日長蛇の列ができたという話は、私も後年何度も耳にしました。当時1歳の私はもちろん万博には行っていませんが、日本中が月に熱狂した時代の余韻は、その後の子供時代のそこかしこに残っていたように思います。 思えば、子供時代の私にとって「月」は、今よりずっと不思議で、特別な存在でした。 夜になると必ず空に現れる、大きくて明るいもの。手を伸ばしても絶対に届かない、遠い世界。「月にはうさぎがいて、おもちをついている」と本気で信じていました。その一方で、ウルトラマンや仮面ライダー、宇宙戦艦ヤマトの影響から、「宇宙人がいる場所」「秘密基地がある場所」というイメージも重なっていました。満月はとてもきれいだけれど、夜遅くにひとりで見上げると少し怖い。「月の裏側には何かいるかもしれない」と想像したこともあります。 きれいで、不思議で、少し怖くて、でもずっと見ていたくなる特別なもの。そんな月に、本当に人が行ったのだと後にテレビや本で知ったときの驚きは、父のあの言葉と地続きだったのだと、今にして思います。 「同い年」として思うこと 先日の記事で、週刊少年チャンピオンが私と同じ昭和44年生まれだと書きました。創刊は7月15日。そしてその翌日の7月16日に、アポロ11号は月へ飛び立っています。私が生まれた年の7月は、少年漫画誌が産声を上げ、人類が月を目指した、そんな夏だったのです。 自分が赤ん坊だった頃の世界を、50年以上経ってから調べてみる。これはなかなか不思議な体験でした。両親がまだ30代だった頃の日本で、人々は夜10時半にテレビの前に集まり、ロケットの発射に固唾を呑んでいた。その熱気を、私は知りません。知らないけれど、その時代の空気の中で育てられたのだと思うと、アポロ11号が少しだけ「自分ごと」に感じられてくるのです。 最後に、余談をひとつ。地元・葛飾の北沼公園には、「月面歩行にチャレンジ!!」という掲示とともに「ムーンウォーカー」という遊具があります。バネの調節によって月面の6分の1の重力を疑似体験できるという、NASAの宇宙飛行士の月面歩行訓練機をもとに子供用に設計されたものだそうです。 アポロが月へ飛び立ってから半世紀以上。下町の公園では、今も子供たちが「月面」を歩いています。 夜、ふと月を見上げます。あそこに人類が立ったのは、私が生まれた年のことでした。 みなさんは、アポロ11号の記憶がありますか? リアルタイムで中継をご覧になった方も、私と同じように「歴史」として知った方も、よろしければ思い出をお聞かせください。 私がこの記事で追体験した「月への旅」を、絵と言葉でまるごと味わえるのがこの一冊です。打ち上げの轟音から、月面の静けさ、そして帰還まで。大人が読んでも胸が熱くなり、お孫さんに読み聞かせるにもちょうどいい。あの夏、人類が本当に月へ行ったのだと、あらためて教えてくれます。 月へ アポロ11号のはるかなる旅ブライアン・フロッカ作/日暮雅通訳(偕成社)。打ち上げから帰還までを、迫力の絵と詩のような文で描く絵本。世代を超えて読める一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた | 次の記事:【7月17日】江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」 ▶

July 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月15日──ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた

7月15日は、不思議な日です。 昭和の少年文化を代表する「二つの王様」が、14年の歳月を隔てて、同じこの日に生まれているのです。 ひとつは昭和58年(1983年)7月15日に任天堂が発売した家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ。いわゆるファミコンです。もうひとつは昭和44年(1969年)7月15日に創刊された、秋田書店の「少年チャンピオン」。 そして告白しますと、昭和44年生まれの私は、この二つに対してずいぶん対照的な付き合い方をしていました。ファミコンは、買わなかった。チャンピオンは、毎週読んでいた。 今日はその話をさせてください。 任天堂ファミリーコンピュータ(HVC-001)。昭和58年7月15日発売、14,800円。(Photo: Rama / CC BY-SA 2.0 FR) 昭和58年7月15日、14,800円の革命 昭和58年7月15日、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。価格は14,800円。当時のゲーム機としては驚くほど戦略的な価格設定で、これが後に「テレビゲームといえばファミコン」という時代を作り上げていくことになります。 面白いのは、実は同じ日にセガ・エンタープライゼスもゲーム機「SG-1000」と、ベーシックを搭載したパソコン「SC-3000」を発売していたことです。つまり昭和58年7月15日は、日本の家庭用ゲーム機戦争の火蓋が切られた日でもあったわけです。 同じ昭和58年7月15日に発売された、セガのSG-1000。家庭用ゲーム機戦争は、この日いっせいに始まった。(Photo: Evan-Amos / Public domain) ただし、当時この日を「歴史的な日」だと認識していた人は、ほとんどいなかったはずです。発売当初のファミコンは、あくまで数あるゲーム機のひとつでした。それが決定的な存在になるのは、昭和60年の「スーパーマリオブラザーズ」、そして昭和61年の「ドラゴンクエスト」という怪物ソフトの登場を待ってからのことです。 あの日が「あの日」になるまでには、少し時間が必要だったのです。 買わなかった少年の言い分 昭和58年7月、私は中学2年生でした。14歳。世間的に見れば、ファミコン第一世代のど真ん中です。 でも私は、ファミコンを買いませんでした。それどころか、ファミコンというものが発売されたということすら、気にしていませんでした。 当時の私の興味は、やはり野球だったのです。「何が欲しいか?」と問われれば、真っ先に思い浮かぶのはグローブとか、カッコいいジャージでした。放課後の時間は、画面の中のボールではなく、本物のボールのためにありました。日が暮れるまでグラウンドにいて、家に帰れば飯を食って寝るだけ。テレビの前に座ってコントローラーを握る時間は、私の生活のどこにもなかったのです。 だから、日本中の少年たちの歴史を変えたと言われるあの日も、私にとってはただの夏の一日でした。翌日に迫った練習のことだけを考えて眠った、中学2年の7月15日。歴史というのは、案外そういうふうに通り過ぎていくものなのかもしれません。 一年半遅れの衝撃 そんな私がファミコンの存在に初めて気付いたのは、発売から一年半あまりも経ってからのことでした。 中学3年生。最後の夏の大会が終わり、高校受験の合格発表も済み、中学校生活も残りひと月足らずとなったころです。野球部の友達ではなく、クラスメイトの家に遊びに行ったときに、私は「ファミコン」というものの存在を初めて知り、目にして、手に取りました。 その時の衝撃は、すごかったですね。 小学生の頃にゲームセンターでプレーしていたようなクオリティーのゲームが、家庭用のテレビで出来ちゃうわけですからね。あの日やらせてもらったのは、たしかマッピーとロードランナーだったと思います。 ちなみに、私が初めてファミコンに触れたこの時点では、まだ「スーパーマリオブラザーズ」すら世に出ていません。あれだけの衝撃を受けたのに、実はあの熱狂の序章にしか立ち会っていなかったわけです。 まぁ、それでも欲しくはならずじまいでした。 受験も終わり、時間ならいくらでもあったはずの時期です。それでも「買いたい」とはならなかったのですから、我ながら筋金入りの野球少年だったのだと思います。その後も、友達の家に行ったときにやらせてもらう程度の付き合いのまま、私のファミコン歴は終わりました。 何しろ私には、生まれた時からの相棒とも言うべき、もうひとつの「7月15日生まれ」がいたのですから。 私と同い年の雑誌 さて、もうひとつの7月15日です。 昭和44年(1969年)7月15日、秋田書店が「少年チャンピオン」を創刊しました。創刊号の表紙を飾ったのは、キックボクサーの沢村忠。真空飛び膝蹴りで一世を風靡した、あの「キックの鬼」です。漫画雑誌の創刊号の顔がキックボクサーだったというあたりに、昭和44年という時代の空気を感じます。創刊当初は隔週刊で、翌昭和45年6月から週刊化されて「週刊少年チャンピオン」となります。 昭和44年生まれ。つまりこの雑誌、私と同い年なのです。 私がこの世に生まれて3ヶ月ほど経った頃、書店の棚に創刊号が並んだことになります。もちろん当時の私は知る由もありませんが、同じ年に生まれた雑誌と少年が、やがて毎週顔を合わせる仲になるのですから、縁というのは面白いものです。 チャンピオンの快進撃は、昭和47年に始まります。この年、水島新司先生の『ドカベン』の連載が始まり、翌昭和48年には手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』がスタート。昭和50年代に入ると『がきデカ』『マカロニほうれん荘』『750ライダー』などが誌面に並び、昭和52年1月には週刊誌として史上初の発行部数200万部を突破。一時は絶対王者だった少年ジャンプを抜いて、少年誌の頂点に立ったこともあるのです。ちなみに『ブラック・ジャック』は、当時スランプにあったと言われる手塚治虫先生を復活させた作品としても知られています。私と同い年の雑誌が、あの漫画の神様を救っていたのだと思うと、なんだか誇らしい気持ちになります。 ドカベンと野球少年 私にとってのチャンピオンは、何をおいても『ドカベン』でした。 『ドカベン』がありましたから、必ず読んでいました。『ブラック・ジャック』も『750ライダー』も読みました。そして大人になってからは『グラップラー刃牙』シリーズを読んでいました。気がつけば、同い年のこの雑誌とは、少年時代から大人になるまで、ずいぶん長い付き合いになっていたわけです。 『ドカベン』の思い出は、と問われても、正直困ってしまいます。私にとっては、その存在すべてが「野球の参考書」だったからです。ですから、すみずみまで記憶しています。 その『ドカベン』の本誌連載は昭和56年にいったん完結しますが、昭和58年——奇しくもファミコン発売と同じ年——から、続編『大甲子園』が始まります。水島新司先生の野球漫画作品の主人公たちが大集合した、あの『大甲子園』です。当然、見逃すわけがありません。 『大甲子園』の連載期間は、私が白球を追いかけた中学2年から高校3年までと、ぴったり重なっている 連載は昭和58年から昭和62年まで。私が甲子園を目指して白球を追いかけていた、まさに中学2年から高校3年までの日々と、ぴったり重なっているのです。同世代の少年たちがファミコンに熱中していたあの数年間、私は毎週、明訓高校の戦いを追いかけていました。 最後はどうなるんだろうとか、明訓は負けてしまうのかとか、ワクワクとちょっぴりの心配とで、複雑な気持ちになりましたね。なんせ、それぞれの漫画では応援していた主人公たちとの対戦なんですからね。 二つの7月15日のあいだで こうして振り返ってみると、昭和58年7月15日という日は、私にとって象徴的な分かれ道だったのかもしれません。 同世代の少年たちの多くは、あの日に生まれたファミコンに夢中になっていきました。私はといえば、14年前の同じ日に生まれた雑誌のほうと付き合い続けた。画面の中で野球をするより、紙の上の山田太郎に胸を熱くして、そして本物のグラウンドで白球を追いかけるほうを選んだのです。 どちらが正しいという話ではありません。ファミコンに熱中した友人たちの目の輝きも、よく覚えています。ただ、あの頃の私には、ゲーム機に払う14,800円より大切なものが、すでに手の中にあったということなのだと思います。 週刊誌一冊と、使い込んだグローブ。中学2年の私の宝物は、それで十分でした。 そして、ひとつ付け加えておきたいことがあります。私の長男も次男も、『ドカベン』と『大甲子園』が愛読書となっていました。私と同じ年に生まれたあの雑誌が生んだ物語は、時代を超えて、息子たちの本棚にもちゃんと居場所を作っていたのです。父から子へ。これもまた、7月15日が私にくれた縁のひとつなのだと思います。 あなたは、ファミコン派でしたか? それとも……。あの夏、あなたの手の中にあったものを、よかったら聞かせてください。 『ドカベン』も『大甲子園』も、今は新品でそろえやすい形で残っています。山田太郎との出会い直しには文庫版の第1巻を。明訓の最後の夏をもう一度見届けたい方には『大甲子園』を。私と同い年のあの雑誌が生んだ物語は、令和の本棚でもちゃんと生きています。 ドカベン (1)(秋田文庫)水島新司/秋田書店。すべてはここから始まる、柔道編の山田太郎。私にとっては丸ごと野球の参考書だった一作 Amazonで見る › 大甲子園 (1)(少年チャンピオン・コミックス)水島新司/秋田書店。明訓・山田太郎と水島野球漫画のオールスターが激突。中2から高3の私が毎週追いかけた物語 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月14日──リカちゃんは、葛飾の子だった

7月14日、あの人形が生まれたとされる日 7月14日は、「リカちゃん人形」が発売された日とされています。1967年、昭和42年のことでした。ただ、正直に書いておくと、発売日には諸説あります。7月4日という説も、7月1日という説もあって、「今日は何の日」を紹介するメディアの中には、この7月14日を発売日として挙げているものがある、というのが正確なところです。ですから今日は、日付そのものよりも、この人形が生まれた昭和という時代と、私の家にあった一体のリカちゃんの話をさせてください。 そもそも私は、リカちゃんが発売された1967年には、まだこの世にいません。私が生まれたのは、その2年後の昭和44年、1969年の4月です。ですから、発売の瞬間を覚えているはずもありません。それでも私は、リカちゃんという名前を聞くと、はっきりと思い出す光景があります。我が家の畳の上に転がっていた、あの小さな人形。あれは私のものではありませんでした。妹のものでした。 タカラトミー本社(葛飾区立石)のショーウィンドウに並ぶ、いまのリカちゃんたち。ペットサロンにケーキショップ——時代は変わっても、女の子の憧れをぎゅっと詰め込む芸は健在だ バービーに負けない、日本の女の子のための人形 リカちゃんが生まれた背景には、一つの悔しさがあったといいます。昭和40年代のはじめ、着せ替え人形の売り場に並んでいたのは、アメリカ生まれのバービーをはじめとする、外国の顔をした人形たちでした。手足が長く、大人びていて、日本の子どもにとっては少し遠い存在です。 そこで玩具メーカーのタカラは、日本の女の子が本当に身近に感じられる人形を作ろうと考えました。まず、大きさ。当時すでに人気だった海外の人形に合わせてドールハウスを作ると、日本の狭い住宅には置き場所がなく、子どもが持ち運ぶこともできません。そこで人形そのものを、女の子の手のひらにすっぽり収まる身長21センチに設計しました。顔立ちは、当時の少女たちが夢中になっていた少女漫画のヒロインそのもの。大きな瞳に、星がひとつ。広告のイラストは漫画家の牧美也子さんが手がけました。 名前もよく考えられていました。「リカ」という響きは、日本人でも外国人でも通じるように選ばれたもの。少女漫画雑誌「りぼん」の誌上で名前を公募した、ということになっていますが、実際にはタカラ側が決めた名前だったといいます。本名は香山リカ。設定では小学5年生で、フランス人の音楽家のお父さんと、日本人でデザイナーのお母さんを持つ女の子でした。狭い日本の家に暮らす女の子が、人形を通して外国や華やかな世界を夢見られるように——そんな願いが、細やかな設定の一つひとつに込められていたのです。 この作戦は見事に当たりました。発売からわずか2年後の1969年、ちょうど私が生まれた年に、リカちゃんは日本国内の売り上げでバービーを追い抜きます。それ以来、リカちゃんは長く「着せ替え人形の女王」として君臨していくことになります。 面白いエピソードがあります。デビューした年、タカラに一本の電話がかかってきたそうです。「リカちゃんはいますか?」と、女の子からの電話でした。受けた女子社員が、子どもの夢を壊してはいけないと「こんにちは、私がリカよ」と応じたところ、その子は大喜び。リカちゃんとお話しできるという噂は口コミで広がり、やがて専用回線が敷かれて、翌1968年には「リカちゃん電話」が正式に開設されました。その声を長く担当したのは、のちにアニメ「アルプスの少女ハイジ」のハイジ役でおなじみになる杉山佳寿子さん。1997年まで、実に30年にわたって、リカちゃんは電話の向こうで女の子たちの話し相手をつとめたのです。人形が、ただの人形ではなく、女の子にとっての「お友だち」だった。その手の込みようには、今さらながら感心してしまいます。 「タカラ」は、葛飾の会社だった さて、ここからが、私にとって一番驚いた話です。このリカちゃんを生んだタカラという会社は、いったいどこにあったのか。調べてみて、思わず声が出ました。葛飾区です。私が生まれ育った、あの葛飾でした。 タカラの源流は、昭和30年、葛飾区の本田宝木塚町、今の宝町に生まれた小さなビニール工業所にさかのぼります。「タカラ」という社名も、この創業の地名からとられたものだそうです。その後、本社は青戸に移り、日本中の子どもを夢中にさせた数々のおもちゃを世に送り出していきました。空気でふくらむダッコちゃん、着せ替え人形のリカちゃん、家族で遊んだ人生ゲーム、手のひらでキュルッと走るチョロQ。そのどれもが、葛飾生まれだったのです。 とりわけ、リカちゃんより前の1960年に大ヒットした「ダッコちゃん」は、社会現象と呼べるほどの騒ぎを起こしました。腕にぶら下がる、あの黒くて愛らしいビニール人形です。一時は月に1000万個も作られたというのですから、当時の熱狂ぶりがしのばれます。ビニールを加工するその技術の蓄積があったからこそ、のちにリカちゃんという着せ替え人形が生まれた——そう考えると、葛飾の町工場が積み上げてきたものの厚みが見えてきます。 しかも、話はそれだけでは終わりません。のちの2006年、タカラは同じ葛飾の立石にあったトミーという会社と合併し、タカラトミーになります。トミーもまた、プラレールやトミカをつくってきた、葛飾を代表するおもちゃメーカーでした。つまり葛飾は、リカちゃんもプラレールも生み出した、まぎれもない「おもちゃのまち」だったのです。 葛飾区立石・タカラトミー本社の屋上看板。夏空に、あの青いロゴがよく映える 青戸も立石も、私の育った高砂と同じ葛飾区。京成線でつながる、ほんのご近所です。私が線路脇の家で、来る日も来る日も電車を見上げていたあの頃。同じ葛飾のどこかの工場では、たくさんのリカちゃんが生まれ、日本中の女の子のもとへと旅立っていたことになります。自分の遊んでいた街が、日本の子どもの夢をつくっていた——そう思うと、なんだか胸のあたりがくすぐったくなります。 妹のクリスマスと、ピンクの箱 我が家にリカちゃんがやってきたのは、あるクリスマスのことでした。妹が、プレゼントにリカちゃん人形と、着せ替え用のドレスを買ってもらったのです。そして妹は、それだけでは飽き足らなかったのでしょう。年が明けると、もらったばかりのお年玉を握りしめて、着せ替え用のドレスをさらに買い足していました。クリスマスにもらった人形のために、自分のお年玉をつぎ込む。今思えば、あれこそがタカラの狙いどおりの遊び方だったわけですが、当時の妹は、ただただ夢中だったのだと思います。 男の子だった私にとって、リカちゃんは完全な別世界でした。触ってみたいとも、うらやましいとも、思ったことは一度もありません。ピンク色のドレスや小さな靴は、同じ子ども部屋の中にありながら、まるで違う国の出来事のようでした。 なにしろ私には私で、夢中になっているものがあったのです。私もクリスマスプレゼントに買ってもらった記憶があります。「変身サイボーグ1号」と、確かキカイダーの着せ替えスーツでした。変身サイボーグ1号というのは、透明なボディの中に銀色のメカが透けて見える人形で、そこにウルトラマンや仮面ライダーといったテレビヒーローの「変身セット」を着せて遊ぶおもちゃです。仮面ライダーに始まる変身ブームの真っただ中、昭和47年に発売されて大ヒットしました。私はキカイダーのスーツを着せては脱がせ、着せては脱がせ、飽きることなく遊んだものです。 ——と、ここまで書いて、お気づきでしょうか。妹はリカちゃんにドレスを着せ、私はサイボーグにキカイダーのスーツを着せていた。やっていることは、まったく同じです。しかも、この変身サイボーグ1号を作っていたのは、どこの会社か。タカラです。リカちゃんと同じ、あの葛飾のタカラなのです。互いに「別世界」だと思い込んでいた兄と妹は、実は同じ葛飾生まれの着せ替え人形で、同じ遊びをしていたのでした。四十数年越しにこの事実に気づいたときは、思わず笑ってしまいました。 6000万体の、それぞれの物語 リカちゃんは、その後も時代に合わせて少しずつ顔立ちや設定を変えながら、令和の今日まで愛され続けています。これまでに世に送り出された数は、累計で6000万体を超えるといいます。6000万人の女の子が、それぞれのリカちゃんと、それぞれの物語を紡いできたということです。 そして、生みの親であるタカラトミーは、今もなお葛飾区立石に本社を構えています。おもちゃのまちの伝統は、令和になっても途切れていません。妹がクリスマスに抱きしめたあのリカちゃんも、そのうちの一体でした。名前も、フランス人のパパも、小学5年生という設定も、あの小さな体にぎゅっと詰まった夢も——すべては、私のご近所で生まれたものだったのです。 本社1階のショーウィンドウ。ベイブレードにポケモン、南葛SCのキャプテン翼まで——葛飾生まれの会社は、今も子どもたちの真ん中にいる 今になって思うことがあります。当時、私の身の回りにあったおもちゃは、意外と身近なところで生まれて、日本中へと広がっていたのですね。トミーのミニカー「トミカ」は立石。タカラのリカちゃんや変身サイボーグ、ミクロマンは青戸。そして、あのモンチッチを生んだセキグチも、西新小岩の会社です。調べてみれば、モンチッチが誕生したのは1974年、私が5歳のときのこと。線路脇で電車ばかり見上げていた葛飾の少年は、知らないうちに、日本中の子どもの宝物が生まれる場所のど真ん中で育っていたのでした。 みなさんの子ども時代、きょうだいや友だちが夢中になっていた「自分とは違う世界のおもちゃ」には、どんなものがありましたか。そして、そのおもちゃがどこで生まれたものだったか、考えてみたことはあるでしょうか。案外、みなさんのすぐ近くだったかもしれませんよ。 妹があの日抱きしめていたリカちゃんは、今も形を変えて、おもちゃ売り場の真ん中にいます。ドレスや小物のそろった定番のギフトセットは、お子さんやお孫さんへの贈り物にちょうどいい一箱。あの頃、妹や姉がリカちゃんに夢中だった——そんな方は、パッケージを眺めるだけでも、きっと何かを思い出すはずです。 リカちゃん ドール LD-01 だいすきリカちゃん ギフトセット(タカラトミー)ドレスや小物一式がそろった定番の入門セット。誕生から半世紀を超えて、いまも売り場の真ん中に Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月13日】少女Aが生まれた日、中森明菜と中学一年生の私 | 次の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた ▶

July 14, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月13日──少女Aが生まれた日、中森明菜と中学一年生の私

七月十三日。 今日は何の日だろうと昭和の暦をめくっていくと、昭和四十年(一九六五年)のこの日に、一人の女の子が東京で生まれている。中森明菜さん。私より四つ年上の、あの明菜さんだ。 名前を書いただけで、頭の中で「少女A」のイントロが鳴りはじめた方も多いのではないだろうか。私もその一人だ。今日はこの人が生まれた日を入り口に、私が中学一年生だった昭和五十七年の夏の話を、少しさせてほしい。 三百九十二点の伝説 中森明菜さんの出発点は、日本テレビの『スター誕生!』だった。昭和五十六年(一九八一年)七月、十六歳になる直前の彼女は、この番組で山口百恵さんの「夢先案内人」を歌う。そのときの得点が、三百九十二点。番組の歴史のなかで最高記録だったと伝えられている。 『スター誕生!』というのは、十二年間で二百万人もの応募があったという、とんでもない規模のオーディション番組だった。全国のお茶の間から、歌のうまい子が名乗りを上げて、審査員の前で歌う。合格すると、たくさんの芸能事務所やレコード会社がプラカードを掲げて、われ先にとスカウトする。あの光景を、私も茶の間のテレビでよく見ていた。「この子は受かるかな、落ちるかな」と、家族であれこれ言い合うのが楽しかった。 思えば『スター誕生!』は、森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さんの「花の中三トリオ」をはじめ、昭和の歌の世界に次々とスターを送り出した番組だった。その夢の回路の、いちばん新しい入口から現れたのが、中森明菜さんだったわけだ。その番組で史上最高点を叩き出した女の子が、翌年、本当にデビューしてくる。子ども心にも、これはただごとではないという予感があった。 デビュー曲「スローモーション」がレコード店に並んだのが、昭和五十七年(一九八二年)五月一日。そしてその二枚目、名前だけで時代の空気を思い出させる「少女A」が発売されたのが、同じ年の七月二十八日だった。つまり、明菜さんの誕生日である今日から、ほんの二週間ほど後のことになる。 「少女A」という事件 この「少女A」という曲には、いま振り返ると面白い裏話がある。作詞をしたのは、当時まだ駆け出しだった売野雅勇さんという方。もともとこの詞は、明菜さんのために書かれたものではなかった。売野さんが沢田研二さんのために用意していた「ロリータ」という詞——中年の男性がプールサイドから少女をそっと見つめている、という大人の視点の歌詞が、下敷きになっていたのだそうだ。 締め切りに追われた売野さんが、苦しまぎれにその設定を借りて、視点をぐるりと反対に回した。見られる側だった少女が、こちらを見返す側になった。「特別じゃない、どこにでもいる少女A」が、じゃあ好きにすればいいと開き直って世界を突き放す。あの挑発的な歌詞は、そうして生まれたと伝えられている。 面白いのは、当の明菜さん自身が、最初はこの曲に乗り気ではなかったという話だ。同じ年にデビューした仲間たち——のちに「花の八二年組」と呼ばれる、小泉今日子さんや堀ちえみさん、石川秀美さんたち——は、フリルやレースのついた、いかにもアイドルらしい可愛い衣装を着ていた。明菜さんも本当は、そういう衣装を着たかったのだという。それなのに与えられたのは、可愛さとは正反対の、尖った不良少女の歌だった。 けれど結果として、その曲が明菜さんを一気にスターへ押し上げた。みんなと同じ可愛さで勝負しなかったことが、逆に彼女だけの居場所を作った。子どもだった私はそんな事情など何も知らなかったが、テレビの向こうの明菜さんが、まわりと違う空気をまとっていたことだけは、はっきり感じ取っていた。 河合奈保子から、中森明菜へ 昭和五十七年の四月、私は中学一年生になった。 小学生のころの私にとって、アイドルといえば河合奈保子さんだった。あの、ふんわりと笑う、健康的で優しい感じの人。まぶしいけれど、どこか近所のお姉さんのような安心感があって、子どもだった私はすっかり心を許していたのだと思う。 ところが、中学の制服に袖を通したあたりから、私の中で何かが少しずつ変わっていった。優しいお姉さんよりも、少し不機嫌そうで、こちらをまっすぐ見返してくるような、そういう強さに惹かれるようになっていったのだ。そこに、ちょうど中森明菜さんが現れた。 「少女A」の、あの挑むような歌い方。子どもが背伸びをしているのとも違う、かといって完成された大人でもない、ぎりぎりのところで尖っている感じ。河合奈保子さんから中森明菜さんへ——それは私の中では、子どもから大人へと変わっていく、ひとつの通過儀礼のようなものだった。 きっかけは、友達のひと言だった。「中森明菜っていいよ」。そう言われてから、テレビの歌番組で明菜さんを見かけるたびに、少しずつ目が離せなくなっていった。ほかのきゃぴきゃぴしたアイドルとは、明らかに何かが違う。あのツンとした雰囲気が、私にとってはど真ん中のストライクだった。 一度はまってしまえば、あとは一直線だ。シングルはもちろん、アルバムまで一枚残らず買いそろえ、明菜さんの曲だけを集めた「マイベストテープ」も、何本も何本も作った。大学に入って浜田省吾さんの世界に出会うまでの七年ほど、私はずっと明菜さんに夢中だった。あの頃の自分の音楽の記憶は、そっくりそのまま明菜さんの声でできていると言ってもいいくらいだ。 木曜九時の攻防 我が家の木曜日の夜九時は、『ザ・ベストテン』の時間だった。 ランキングが一位から順に発表されていくあの緊張感。カセットデッキの前に正座して、赤い録音ボタンと白い再生ボタンを同時に押す、あの二本指の儀式。歌の途中で家族が「ごはんよ」なんて声をかけようものなら、あとで大惨事だ。次の日、友達と「昨日のベストテン、明菜は何位だった」と答え合わせをするのが、当時の私たちにとっては大事な社交だった。 その画面の真ん中に、中森明菜さんはいつもいた。同じ年ごろの、松田聖子さんや小泉今日子さんと並んで、それぞれにまったく違う魅力を放っていた。聖子さんが笑顔なら、明菜さんは眼差し。今にして思えば、あの時代の歌番組は、いくつもの「かっこよさ」が同時に成り立っていた、とても贅沢な場所だった。 とりわけ「聖子か、明菜か」というのは、あの頃の昭和の歌謡界を二つに分ける、大きな分かれ道だった。明るく、可憐で、ずっと笑っている松田聖子さん。翳りがあって、こちらを試すように見つめてくる中森明菜さん。まるで陽と陰のように、二人はきれいに対照的で、どちらが好きかを言うことが、その人がどんな人間かを少しだけ言い当ててしまうような、そんな空気があった。学校でも、聖子派と明菜派はなんとなく分かれていて、私が明菜派だと打ち明けるのは、幼いなりに小さな自己主張だったように思う。優しいだけの世界から一歩踏み出したい——そんな背伸びを、明菜さんはそっと後押ししてくれていたのかもしれない。 大晦日の、連覇 「少女A」でスターになった明菜さんは、そこから昭和の終わりに向けて、坂道を駆け上がるように名曲を積み重ねていく。三枚目の「セカンド・ラブ」はチャートの一位を取り、その後も「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」と、曲の色をどんどん変えながらヒットを飛ばし続けた。同じ人が歌っているのに、一曲ごとにまるで別の女優のように表情を変える。あれが明菜さんの凄みだった。 そして昭和六十年(一九八五年)、「ミ・アモーレ」で日本レコード大賞を初めて受賞する。さらに翌昭和六十一年(一九八六年)、「DESIRE -情熱-」で二年連続の大賞。女性歌手が二年続けて大賞を取ったのは、このときが史上初めてのことだった。着物風の衣装を肩から滑らせ、髪を刈り上げたあの「DESIRE」の姿は、もうアイドルという言葉では収まりきらない何かだった。ちなみに、数えきれないほどある明菜さんの曲のなかで、私の一番はこの「DESIRE」だ。それは今も変わらない。 昭和六十年といえば、私はちょうど高校一年生。白球ばかり追いかけて、甲子園を本気で夢見ていたころだ。野球部の練習でくたくたになって家に帰り、大晦日にテレビでレコード大賞を眺める。中学の入り口で見上げていた明菜さんが、高校生になった私の頭上を、はるか高いところで飛び続けている。同い年ではないけれど、同じ時間を走っている感覚が、確かにあった。 体育館に、明菜が現れた ここで、話をぐっと先へ——大人になってからの一夜に飛ばさせてほしい。 私は大学を出て信用金庫に就職し、その後、大手の運送会社へ移った。この会社がとにかくスポーツが盛んで、毎年ゴールデンウィークになると、滋賀県で三泊四日の社内全国大会が開かれる。各ブロックの予選を勝ち抜いた営業所だけが出場できる、たぶん日本一の規模の社内大会だった。私も野球で、その全国大会の舞台に立つことができた。 大会中はいろいろな催しがあるのだが、みんなが一番楽しみにしていたのが、二日目の夜に開かれるコンサートだ。出演者は当日その時間まで、いっさい知らされない。会場はスポーツ施設の体育館。さあ誰が出てくるのかと固唾をのんで待っていた、その舞台に——現れたのが、あの中森明菜さんだったのだ。 信じられるだろうか。テレビのブラウン管の向こうで、ずっと高いところを飛んでいたはずのあの人が、いま、目の前の体育館のステージに立っている。会場は当然、大興奮だ。懐かしい曲のオンパレードで、それは普段のコンサートとはまるで違う、手作りのような、それでいて本当に本当に、自分もその一部になれたと思える素晴らしいステージだった。中学一年生の私が茶の間から見上げていた明菜さんに、大人になった私が、同じ空気のなかでようやく会えた夜だった。 令和に、明菜を思う あれから四十年以上が経った。 私は今、路線バスのハンドルを握って毎日を過ごしている。家にはもう地上波のテレビもなく、大きなモニターでユーチューブやネットフリックスを眺める暮らしだ。それでも、ふとした拍子に「少女A」や「セカンド・ラブ」が流れてくると、一瞬で昭和五十七年の、あの中学一年生の夏に引き戻される。制服がまだ体になじんでいなくて、大人になりたいような、なりたくないような、あの落ち着かない気持ちごと。 歌というのは不思議なもので、こちらは年をとっていくのに、あの頃の自分をそっくり保存してくれている。友達のひと言から始まって、レコードを買い集め、テープを作り、そしていつかは同じ体育館の空気を吸った——中森明菜さんが今日、誕生日を迎えるたびに、私はあの一つひとつの自分に、少しだけ会いに行けるのだ。 みなさんにとって、「子どもから大人へ変わる境目」に鳴っていた歌は、何でしたか。よかったら聞かせてほしい。 「少女A」「セカンド・ラブ」「北ウイング」「DESIRE」——この記事で名前を挙げた曲が、オリジナル音源でまとめて聴けるのがこの一枚です。カバーではなく、あの頃テレビとカセットから流れていた、まさにあの声。明菜さんの誕生日の今日、あらためて針を落とすように聴き直すのに、ちょうどいいベスト盤です。 オールタイム・ベスト ‐オリジナル‐(中森明菜)デビューから代表曲までをオリジナル音源で網羅。少女A・DESIRE・北ウイングまで、あの声のまま Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 あわせて読みたい:その前年、同じ体育館のステージに立っていたのは郷ひろみさんでした▼ 【8月1日】「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月12日】球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える | 次の記事:【7月14日】リカちゃんは、葛飾の子だった ▶ ...

July 13, 2026