【昭和の今日は何があった日?】7月12日──球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える

七月も半ばにさしかかると、夕方になっても空気が生ぬるくて、どこからか蚊取り線香の匂いが漂ってくる。そんな季節になると、私の頭の中では決まって、あの伸びやかな歌声が鳴りはじめます。 きょう7月12日は、渡辺美里さんの誕生日です。昭和41年(1966年)のこの日、京都で生まれ、東京で育った少女は、のちに日本の音楽史に「スタジアム伝説」という言葉を刻むことになります。私より三つ年上。ほんの少しだけ先を歩く、お姉さんの世代です。 そして今日、令和8年の7月12日。渡辺美里さんは還暦、六十歳を迎えます。あの夏の球場で歌っていた人が六十歳。にわかには信じがたいのですが、考えてみれば私自身がもう五十七歳なのですから、当たり前といえば当たり前なのでした。 高校一年の冬に落ちてきた「My Revolution」 渡辺美里さんがデビューしたのは昭和60年(1985年)。その前年、応募者十八万人を超えるミス・セブンティーンコンテストで最優秀歌唱賞を受賞しての、鳴り物入りのスタートでした。ちなみにこのコンテストの同期には、のちに活躍する工藤静香さんや国生さゆりさんの名前もあります。とはいえ、デビュー曲「I’m free」はそれほど売れなかったそうです。ライブハウスを回り、先輩歌手のコーラスを務める下積みの日々もあったといいます。 運命が変わったのは、昭和61年(1986年)1月22日にリリースされた四枚目のシングル「My Revolution」でした。 作曲は、当時まだTM NETWORKでデビューして間もない、駆け出しの小室哲哉さん。曲ができたとき、小室さんは渡辺さんのもとに駆けつけてピアノでイメージを伝え、渡辺さんは「体に電流が走ったような気持ちになった」と後年語っています。ドラマ『セーラー服通り』の主題歌に起用されたこともあって、この曲は3月24日付のオリコンシングルチャートで一位を獲得。無名に近かった十九歳の歌手を、一気にスターダムへ押し上げました。渡辺さんはこの曲で『ザ・ベストテン』に初めて生出演も果たしています。 「わかりはじめたMy Revolution」——あのサビの疾走感は、四十年経ったいまでも色あせません。歌謡曲ともアイドルとも違う、まっすぐで力強い歌声。この曲は高校一年の終わりから、二年生になったばかりの私の耳にも、確かに届いていました。 最初に聴いたのは、たしか『ザ・ベストテン』だったような気がします。毎週木曜の夜九時、ランキングを楽しみに見ていた時代です。第一印象は、明るく勢いのある曲だな、というものでした。 学校へ行くと、友達がサビを口ずさんでいる。文化祭では体育館のステージに上がって歌う生徒までいる。それくらい、私たちのあいだでは流行っていました。だから、あっという間に覚えてしまいました。当時の高校生にとっては、「頑張ろう」「前に進もう」という気持ちにさせてくれる、青春ど真ん中の一曲だったと思います。 もちろん「My Revolution」は、マイベストテープにも入れていました。当時はレコードをカセットテープにダビングして、自分だけの一枚を作るのが楽しみだった時代です。私の相棒は、お小遣い事情でソニーのウォークマンではなくAIWAのカセットプレーヤーでしたが、通学の道すがら、よく聴いていた思い出があります。 テープには当時流行していた曲を並べていましたが、「My Revolution」は外せない一曲でした。友達の間でも人気があり、「いい曲だよね」と話題になることも多かった。私の高校時代を象徴する、青春ソングの一つだったと思います。 野球少年の聖地で、歌手が歌った夏 そして昭和61年の夏、事件が起きます。 8月2日の大阪スタヂアムを皮切りに、名古屋城深井丸広場、そして8月8日の西武ライオンズ球場。渡辺美里さんは「MISATO SPECIAL ‘86 KICK OFF」と題したスタジアムコンサートを敢行しました。女性ソロシンガーが球場でコンサートを開くのは、日本で初めてのことでした。 このとき渡辺美里さんは、二十歳になったばかり。デビューからわずか一年二か月です。きっかけは、ラジオ番組の放送前にマネージャーから「やってみる?」と聞かれて、球場のことがよくわからないまま「何となく」返事をしたことだったといいますから、豪快な話です。ライブの一か月前には、十代の邦人アーティストとして初となる二枚組アルバム『Lovin’ you』をリリース。8月8日の西武球場のステージには、「My Revolution」を生んだ小室哲哉さんもキーボードで参加していました。 私にとって「球場」とは、野球をする場所でした。当時の私は高校二年生。白球を追いかける毎日で、球場という言葉から連想するのは後楽園球場のジャイアンツ戦か、憧れの甲子園です。ちなみにこの昭和61年の西武球場といえば、ルーキーの清原和博選手がホームランを量産していたグラウンドでもあります。野球少年にとって、あそこはまぎれもなく「野球の聖地」のひとつでした。 その神聖なグラウンドにステージを組んで、私とたいして歳の変わらないお姉さんが、たった一人で数万人を前に歌う。 じつは当時、西武球場で毎年コンサートが開かれていることは知っていました。親友のお兄さんが渡辺美里さんの熱烈なファンで、実際に西武球場のコンサートへ行ったと聞いていたからです。 野球部だった私にとって、普段は野球をする場所で何万人もの観客を集めてコンサートが開かれるというのは、とても新鮮で、驚きでした。当時は自分が行く機会はありませんでしたが、「いつか行ってみたい」と思うほど、印象に残っていました。 ちなみにこの昭和61年の渡辺さんは、球場ライブの直後の9月から全国三十八か所を回るツアーに突入し、途中で声帯ポリープを患って中断を余儀なくされたそうです。二十歳の身体で、どれほど無我夢中で駆け抜けた一年だったことか。私たちが白球を追いかけていたあの夏、三つ年上のお姉さんも、別のグラウンドで全力疾走していたのです。 この西武球場の夏のライブは、以後、毎年恒例となります。全盛期には四万枚のチケットが即日完売。平成2年(1990年)からは、観客輸送を兼ねた臨時特急「MISATO TRAIN」が西武線を走りました。はじめは5000系レッドアロー号、平成7年(1995年)からは10000系ニューレッドアロー号。毎年デザインの変わる特製ヘッドマークを掲げて球場へ向かう列車を、渡辺美里さんのファンだけでなく鉄道ファンもカメラに収めたそうです。線路っぷちで育った私としては、この話には胸が熱くなります。歌手の名を冠した特急列車が、年に一度だけ走るのです。しかもこの列車、西武ライブの終幕後も惜しまれ、平成30年(2018年)には西武ライオンズ四十周年イベントの一環として、一日限りのヘッドマーク付き復活運転まで果たしています。 初年のタイトルが「KICK OFF」、そして20年目の平成17年(2005年)、最終章のタイトルは「NO SIDE」。試合開始と試合終了。渡辺さんが高校時代にラグビー部のマネージャーを務めていたことに由来するそうです。最後の「NO SIDE」には約三万九千人が集まり、二十年間の動員は延べ七十万人にのぼりました。ひとつの球場で、ひとりの歌手が積み上げた数字としては、もう伝説と呼ぶほかありません。 六十歳の「Birthday」 その渡辺美里さんが、今日、還暦を迎えます。 そして偶然ではないのでしょう、三日後の7月15日には、七年ぶりのオリジナルアルバムがリリースされます。タイトルは『Birthday』。さらに今年の11月8日には、あの西武球場——いまはベルーナドームと名前を変えました——で、実に二十一年ぶりのスタジアムライブが開催されることも発表されています。 六十歳になった歌手が、二十歳の夏に立った球場へ帰っていく。四十年の歳月をまたぐその姿を想像すると、私は少しだけ泣きそうになります。 私たちの世代は、渡辺美里さんの歌に「がんばれ」と言われ続けてきた世代です。十代の終わりに聴いた歌を、五十七歳のいまも聴ける。しかもご本人が、いまも現役で、あの頃と同じ場所で歌おうとしている。これほど幸せなことがあるでしょうか。 そして私には、高校二年の夏から持ち越したままの宿題があります。あのとき果たせなかった「いつか行ってみたい」。四十年越しのその機会が、今年の11月8日、目の前にぶら下がっているのです。さて、どうしたものでしょうか。 みなさんには、渡辺美里さんの思い出の一曲はありますか。夏の球場に、行ったことはありますか。よろしければ、コメントで聞かせてください。 「My Revolution」も「サマータイム ブルース」も「虹をみたかい」も、あの頃カセットに録って擦り切れるほど聴いた曲が、この一枚にまとめて入っています。マイベストテープをもう一度作らなくても、名曲がぜんぶ揃う。還暦を迎えた今日、あらためて聴き直すのに、これ以上の一枚はありません。 ...

July 12, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月11日──私より9か月早く生まれた、あの雑誌のこと

7月11日。今のカレンダーでは「セブン-イレブンの日」なのだそうです。数字の並びそのままで、なんとも分かりやすい記念日です。 でも、昭和44年生まれの私にとって、この日付にはもっと大事な「誕生日」があります。 昭和43年(1968年)7月11日、『少年ジャンプ』創刊。私が生まれる、わずか9か月ほど前のことです。 昭和43年といえば、3億円事件が起き、川端康成さんがノーベル文学賞を受賞し、メキシコ五輪に日本中が沸いた年です。そんな騒がしい一年の、夏の入り口。のちに日本一となる漫画雑誌は、世間にほとんど気づかれることもなく、ひっそりと生まれました。 のちに「黄金期」と呼ばれる時代のジャンプを、教室で、部活の行き帰りで、夢中になって読むことになる人間としては、この雑誌が自分よりほんの少しだけ先輩だという事実に、妙な親近感を覚えるのです。 最後発の、持たざる挑戦者 意外に思われるかもしれませんが、ジャンプは少年週刊誌の世界では完全な「後発組」でした。 『週刊少年マガジン』と『週刊少年サンデー』の創刊は昭和34年(1959年)。ジャンプが生まれた昭和43年には、両誌はすでに9年の歴史を持ち、少年たちの心をがっちりつかんでいる王者でした。マガジンには「巨人の星」と「あしたのジョー」が並び、まさに絶頂期。手塚治虫をはじめとする人気作家たちは先行誌との結びつきが強く、後発の集英社が有名作家の看板に頼ることはできません。 そこで編集部が選んだ道が、「新人主義」でした。 名のある作家を呼べないのなら、無名の新人を自分たちの手で見つけて、自分たちの手で育てる。せっかく育てた才能を他誌に取られないよう、作家とは専属契約を結ぶ。そして、どの作品を続けてどの作品を終わらせるかは、編集者の思い入れではなく、毎週の読者アンケートの結果で決める。 人気が出なければ、容赦なく打ち切り。新人にとっては恐ろしく厳しい仕組みですが、裏を返せば、実績のない新人にも看板作家とまったく同じ土俵が用意されているということです。誌面の中で「友情・努力・勝利」を描く雑誌が、誌面の外でも実力勝負を貫いていたわけで、持たざる者の雑誌らしい、実に思い切ったルールでした。 このアンケート至上主義は、その後も一貫してジャンプの背骨であり続けます。毎週ハガキで届く読者の声が、次の号の運命を決める。子どもだった私たちが何気なく書いて出したアンケートが、実は日本一の漫画雑誌の編集会議に直結していたのだと思うと、なかなか痛快な話です。 創刊時の発行部数は10万5000部。当時のマガジンやサンデーには遠く及ばない数字です。しかも最初は週刊ですらなく、第2・第4木曜日に発売される月2回刊でした。創刊号に並んだのは、永井豪さんの「ハレンチ学園」、梅本さちおさんの「くじら大吾」など、8本の連載。この年のうちには本宮ひろ志さんの「男一匹ガキ大将」も始まります。のちの大出世を、このときはまだ誰も知りません。 そしてもうひとつ。創刊に先立って編集部が行った読者調査で、少年たちの心に最も響く言葉として挙がったのが、「友情」「努力」「勝利」だったといいます。あの有名な三大原則は、偉い編集者が机の上で考えた理念ではなく、当時の少年たち自身の声から生まれたものだったのです。 「週刊」ジャンプは、私と同い年 創刊の翌年、昭和44年(1969年)10月、ジャンプは週刊化され、誌名も『週刊少年ジャンプ』に変わりました。 昭和44年。つまり「週刊少年ジャンプ」は、私と同い年ということになります。 同じ年に生まれて、同じ時代の空気を吸って育った。そう考えると、のちに私があれほどジャンプに夢中になったのも、当然のことだったのかもしれません。 週刊化されたジャンプは、そこから一気に駆け上がっていきます。「男一匹ガキ大将」や「ハレンチ学園」が爆発的な人気を呼び、創刊からわずか3年ほどで発行部数は100万部を突破したといいます。特に「ハレンチ学園」は、テレビドラマ化までされる社会現象になった一方で、PTAや教育関係者からは猛烈な批判を浴びました。「子どもに読ませたくない」と大人が眉をひそめる雑誌ほど、子どもは読みたくなるものです。いつの時代も、この法則だけは変わりません。 そして昭和50年代に入ると、ジャンプの誌面には私たちの世代の「顔」が次々に現れます。昭和51年(1976年)には「こちら葛飾区亀有公園前派出所」、スーパーカーブームの火付け役「サーキットの狼」もこのころ。私が小遣いを握りしめて駄菓子屋に通っていたあの時代、ジャンプは着々と、私たちを迎え撃つ準備を整えていたのでした。 教室のジャンプ、私のジャンプ 私のジャンプ時代は、小学校の終わりから高校にかけての昭和56年〜60年(1981〜85年)ごろです。 いま思い出しても、ため息が出るような顔ぶれです。「キン肉マン」「Dr.スランプ」「キャプテン翼」「キャッツ♡アイ」、昭和58年からは「北斗の拳」。テレビをつければアラレちゃんが「んちゃ!」と挨拶し、駄菓子屋の店先のガチャガチャからは、キン消し――キン肉マン消しゴムが出てくる。ジャンプの漫画が誌面を飛び出して、テレビにも、おもちゃ屋にも、文房具にもあふれていた時代でした。 そして忘れてはいけない、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。 こち亀は、私の中では不動の「サブ」でした。お目当ての看板作品ではない。でも、毎週必ず読む。読まないと一週間が締まらない。同じ葛飾区の話ということもあって、両さんの騒がしさには、どこか近所の匂いがありました。ちなみにこち亀の連載開始は創刊から8年後の昭和51年。そこから平成28年(2016年)に200巻で幕を下ろすまで、40年間一度も休載しなかったというのですから、両さんはやはり只者ではありません。 私のジャンプの買い方は、少し特別でした。 近所の駄菓子屋が雑誌も売っていて、毎週必ず買う私の分を、ちゃんと取っておいてくれていたのです。それだけではありません。本当はダメだったと思うのですが、発売日の前日の夕方に、こっそりそれを買わせてもらっていました。「誰にも言っちゃだめだよ」と口止めされて(笑)。 今の言葉でいえば「フラゲ」というやつです。日本中の誰よりも先に新しい号を開いているような気分は、子どもにとって、ちょっとした宝物でした。 読む順番は、お目当ての漫画を真っ先に読む派でした。北斗の拳、キャプテン翼、よろしくメカドック、キン肉マン。楽しみを最後に取っておくなんて器用なことは、とてもできなかったのです。 ちょうど私が中学生だった昭和59年(1984年)ごろ、ジャンプの発行部数は400万部を突破しています。10万5000部で生まれた雑誌が、16年で約40倍。発売日の教室のあちこちにジャンプが載っていたあの光景を思えば、この数字には実感しかありません。 考えてみれば、この黄金期を支えた作家たちの多くが、例の「新人主義」で発掘された人たちでした。「Dr.スランプ」の鳥山明さんも、投稿から見いだされた新人のひとりです。創刊のときに蒔かれた種が、十数年の歳月を経て、ちょうど私たちの世代の目の前で一斉に花開いた。そう考えると、なんとも幸運な巡り合わせだったと思います。 そういえば当時の私は野球部で、「友情・努力・勝利」は誌面の中だけでなく、グラウンドの上の言葉でもありました。キャプテン翼は確かに大人気でした。それでも、私のまわりではまだまだ野球が主流派で、サッカー一筋という友達はいませんでした。そもそも、わが中学校にはサッカー部がなかったのです。翼くんがどれだけ「ボールは友達」と言っても、放課後の私たちが追いかけていたのは白球のほうでした。 653万部の頂点と、その先 ジャンプの部数はその後も伸び続け、平成7年(1995年)の新年合併号では653万部という、雑誌の歴史でも空前の記録を打ち立てます。ただ、それはもう平成の話。私のジャンプはやはり、昭和50年代の、あの少しざらついた紙の手触りとともにあります。 653万部という数字を、少し考えてみてください。当時の日本の人口はおよそ1億2500万人。単純計算で、国民の20人にひとりが同じ週に同じ雑誌を手にしていたことになります。ひとつの物語を、日本中の少年(と、元少年)が同じ週に読んで、月曜日の教室や職場で語り合う。そんな時代が、確かにあったのです。 令和の今、紙のジャンプの部数はピーク時の6分の1ほどになったと聞きます。子どもたちの世代は、漫画をスマホのアプリで読みます。「少年ジャンプ+」で新作を追いかけ、単行本は電子書籍で買う。教室の机にどさっと雑誌を置いて回し読みする、あの光景はもうないのでしょう。 でも、と思うのです。 「ONE PIECE」も「鬼滅の刃」も、たどっていけば同じ一冊の雑誌です。余談ですが、あの「ONE PIECE」でさえ、連載が決まるまでに編集部の会議で3度落とされたといいます。世界的な作品になる卵であっても、例外なく同じ土俵で勝負させる。創刊のときに決めた「新人と実力勝負」の仕組みを、半世紀たっても曲げていないのだとすれば、それはそれで大した頑固さです。 読者の声に耳を澄まし、無名の新人を発掘し、友情と努力と勝利を描く。昭和43年7月11日に10万5000部で産声を上げた仕組みが、形を変えながら、58年後の今も動き続けている。そう考えると、ちょっと胸が熱くなりませんか。 私より9か月だけ早く生まれた「先輩」は、まだまだ現役のようです。 あなたは何派でしたか。ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオン。毎週、発売日が待ち遠しかった漫画は何でしたか? 私にとってのジャンプは、看板作品と並んで、いつも「こち亀」がありました。同じ葛飾区の話で、両さんの騒がしさには近所の匂いがあった。40年・全200巻、一度も休載しなかった伝説の第1巻を開くと、昭和の下町の空気がそのまま立ちのぼってきます。孫と一緒に「じいちゃんの町の漫画だぞ」と読むのも、また一興です。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(集英社文庫コミック版)秋本治/集英社。すべてはここから始まった、両さん最初の一冊。昭和の葛飾がまるごと詰まっている Amazonで見る › 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月10日】怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた | 次の記事:【7月12日】球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える ▶ ...

July 11, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月10日──怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた

今日は7月10日。私が生まれる3年前、1966年(昭和41年)のこの日、のちに何十年も子どもたちのヒーローであり続けることになる男が、ブラウン管に初めて姿を現しました。『ウルトラマン』です。 もっとも、正式な第1話が始まったのはこの日ではありません。実はこの日に放送されたのは、ちょっと変わった経緯を持つ番組でした。 「前夜祭」という名の、間に合わせの放送 話は、その前番組にさかのぼります。『ウルトラマン』が始まる前、同じ枠では『ウルトラQ』という怪獣番組が放送され、大ヒットしていました。この人気を受けて、次の作品として企画されたのが『ウルトラマン』です。ところが、ここで思わぬことが起こります。『ウルトラQ』の最終回が、内容が難解すぎるという理由で、放送を見送られることになってしまったのです。 『ウルトラマン』は本来、7月17日から始まる予定でした。しかし『ウルトラQ』の最終回が飛んだことで、その一週間、枠がぽっかり空いてしまいます。そこをどう埋めるか——制作側が用意したのが、前日に杉並公会堂で行われていたウルトラマンの宣伝イベントの映像でした。それを「ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生」として放送したのが、1966年7月10日。つまり私たちが「ウルトラマンの日」として記憶しているこの日は、本編ではなく、いわば見切り発車の穴埋め番組が生まれた日だったわけです。ヒーローの初登場が、こんなにも慌ただしい事情から生まれたというのは、なんだか人間くさくて、私は少し好きです。 そして翌週から始まった本編は、平均視聴率36.8%、最高視聴率はなんと42.8%(1967年3月放送分)という、今では考えられない数字を叩き出しました。当時のお茶の間の半分近くが、毎週日曜の夜、あの男の戦いを見つめていたことになります。テレビがまだ一家に一台、それも白黒だった時代に、これほどの人が同じヒーローに熱狂していたのです。 ブームが去っても、消えなかった男 『ウルトラマン』の熱狂は1968年頃には一段落し、子ども向け番組の主役は『巨人の星』のようなスポ根ものへと移っていきます。新しい特撮ヒーロー番組は、しばらく作られませんでした。けれど不思議なことに、ウルトラマンはそこで終わりませんでした。すでに放送された作品が繰り返し再放送され、そのたびに視聴率は18%前後という、新作顔負けの数字を叩き出し続けたのです。怪獣というマグマは、子どもたちの中でずっとくすぶり続けていました。 その間、1970年には、過去の戦闘シーンを再編集し、新たに撮影した怪獣同士の対決を加えた5分間の帯番組『ウルトラファイト』も放送されます。「出がらしだ」と揶揄する声もありましたが、子どもたちはこれにも熱中しました。そうした熱がとうとう抑えきれなくなり、1971年、ついに新作『帰ってきたウルトラマン』が登場します。いったん幕を下ろしたはずのブームが、再び燃え上がる——テレビ番組ではきわめて珍しい「ブームの再燃」でした。作り手たち自身も、驚いたといいます。ウルトラマンという存在が、それほど深く子どもの世界に根を下ろしていたことに、当人たちも気づいていなかったのです。 私が生まれたのは1969年4月。つまり初代『ウルトラマン』の本放送にも、1971年の「帰ってきた」ブームの立ち上がりにも、リアルタイムでは間に合っていません。物心つく頃には、すでにウルトラマンは「新しく始まるもの」ではなく、「気づいたらそこにあるもの」でした。 私にとっての「最初のウルトラマン」 私にとって、最初に出会ったウルトラマンは『帰ってきたウルトラマン』だと、長いあいだ思い込んでいました。MATの隊員服、マットアロー1号・2号、そして郷秀樹を演じた団次郎さん。ベムスター、ツインテール、グドン、ブラックキング、ナックル星人——こうした怪獣や宇宙人の名前が、今でも鮮明に頭に残っています。私の中では「ウルトラマン=郷秀樹」という図式が、ずっと当たり前のものでした。 ところが、あらためて調べて驚きました。『帰ってきたウルトラマン』の本放送は1971年(昭和46年)4月から1972年(昭和47年)3月まで。この時期の私は、放送開始時でわずか1歳11か月、最終回でも2歳11か月です。とても、番組をしっかり覚えていられる年齢ではありません。 では、私が夢中になって見ていたあれは、いったい何だったのか。答えはおそらく「再放送」です。昭和48年、49年、50年——私でいえば4歳から6歳、幼稚園の年長にかけて、ウルトラシリーズの再放送が全国で驚くほど頻繁に行われ、大きなブームになっていたといいます。まさにテレビにかじりつく年頃です。郷秀樹が私の「最初のウルトラマン」になったのは、そういうからくりだったのでしょう。本放送に間に合わなかったはずの私が、再放送という時間差の魔法で、いつのまにかその世界の住人になっていたわけです。 そこから先は、『ウルトラマンA』、『タロウ』と、まっすぐにつながっていきました。どれが一番かと問われても困ります。結局のところ、すべてのウルトラマンが、私のヒーローでした。 スペシウム光線と、100円のカード もちろん、ただ見ているだけでは済みません。空き地や公園に集まれば、ウルトラマンごっこの始まりです。両腕を十字に組むスペシウム光線のポーズは、何度練習したかわかりません。ついでにウルトラセブンのアイスラッガーを頭から投げる真似もしました。今思うと、よくあんな格好で大真面目になれたものです。 そしてもう一つ、あの頃の男子を熱狂させたのが、怪獣図鑑のカードでした。1袋100円で売られていて、そのカードを集めて図鑑を完成させるのです。図鑑の台紙になる本のようなものは別売りで、そちらも買いそろえる必要がありました。学校の男子は、クラス中がこれに夢中でした。誰よりも早く自分の図鑑を完成させたい——その一心で、みんな必死にカードを買い集めていたのを思い出します。 完成が近づくと、今度は同じカードのダブりが大量に出てきます。「これ持ってる」「それ欲しい」と、友達同士で交換し合ったあの時間も、いい思い出です。 ちょっと変な記憶なのですが、図鑑の1番は確か『ミクラス』で、表紙に貼り付けるようになっていた気がします。それが、貼っても貼ってもすぐに剥がれてしまうのに困っていました。セロテープで補強している友達もいて、みんな同じところで苦労していたのが、今となっては微笑ましく思えます。 伝説の余熱で育った世代 考えてみれば、私が本放送を見ることのできなかったヒーローが、再放送という形を借りて、私の子ども時代をこれほどまで彩っていたわけです。1966年に生まれたウルトラマンは、私が生まれる前にすでに伝説になっていて、その伝説の余熱だけで、私を含めた何世代もの子どもを育てていきました。 胸のカラータイマーが点滅し、地球にいられる時間は3分間だけ。M78星雲からやってきた光の巨人が、両腕を十字に組んでスペシウム光線を放つ——あのシンプルな約束事が、これほど長く子どもの心をつかんで離さないとは、いったい誰が予想したでしょうか。ウルトラシリーズは、2013年に「最も多くの派生テレビシリーズが作られたテレビ番組」としてギネス世界記録にも認定され、その後さらに記録を更新しています。始まりが「穴埋め」だったヒーローが、世界記録の持ち主になったのです。 今、当時の映像はYouTubeの公式チャンネルでいつでも見られます。前夜祭という間に合わせから始まった番組が、60年近くたった今もまだ現役だというのは、当のスタッフたちも想像していなかったのではないでしょうか。今の子どもたちもまた、最新のウルトラマンに夢中になっている。私が郷秀樹に胸を躍らせたのと、まったく同じ目の輝きで。 親から子へ、子からまたその先へ。ウルトラマンは、そうやって世代を越えてバトンをつないできました。あの光の巨人は、本当に時間を超えて生き続けているのだと、しみじみ思わされます。私が再放送で受け取った一本のバトンも、たしかにその長いリレーの一区間だったのでしょう。 みなさんは、ウルトラマンとどんなふうに出会いましたか。本放送派でしたか、それとも私のような再放送育ちでしたか。 あの頃、100円のカードを握りしめて集めた怪獣図鑑。あれを大人になった今、決定版として手に入れられるのがこの一冊です。ベムスター、ツインテール、グドン、ブラックキング——名前だけは覚えている、あの顔ぶれに一気に再会できます。孫と一緒にページをめくるにも、ちょうどいい厚みです。 ウルトラ怪獣コレクション ウルトラマン・ウルトラセブン編円谷プロダクション監修。初代からセブンまでの怪獣・宇宙人を、鮮明な写真と解説で網羅した保存版 Amazonで見る › 昭和の今日は何があった日? 明日はどんな日だったのでしょうか。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月9日】大井川鉄道、日本初のSL動態保存が始まった日 | 次の記事:【7月11日】私より9か月早く生まれた、あの雑誌のこと ▶

July 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月9日──蒸気が消えた年に、蒸気を走らせた鉄道があった

今日は、正直に告白するところから始めたいと思います。 1976年(昭和51年)7月9日、静岡県の大井川鉄道が、日本で初めて蒸気機関車の動態保存運転を開始しました。今回この日のことを調べるまで、私はこの出来事をまったく知りませんでした。記憶がないどころか、知識としても持っていなかったのです。 当時、私は小学1年生。京成高砂駅のすぐ近く、線路沿いの家で育った私は、毎日のように電車を眺めて暮らす鉄道少年でした。それなのに、この歴史的な出来事を知らずに57歳まで来てしまった。だから今日の記事は、いつもと少し違います。読者のみなさんと一緒に、私自身が初めて知る物語です。 昭和50年12月14日、蒸気が消えた まず、大井川鉄道の話の前に、その半年前まで時計を戻す必要があります。 1975年(昭和50年)12月14日、北海道の室蘭本線で、国鉄最後のSL定期旅客列車が走りました。室蘭発岩見沢行きの225列車。牽引したのはC57形135号機で、「さよならSL」と書かれた特製のヘッドマークが掲げられていたそうです。 この日の室蘭駅には、前日の夜から徹夜で並んだ人たちがいて、改札が始まった朝7時半には約2000人が乗車券を買い求めたといいます。ふだんは客車5両の列車がこの日は8両に増結され、満員の乗客を乗せて、定刻より1時間14分も遅れて終点の岩見沢に着きました。遅れの理由は、沿線に詰めかけた人の波だったのでしょう。1872年の新橋〜横浜間開業から103年。日本の鉄道を支え続けた蒸気機関車が、日常の風景から姿を消した瞬間でした。 構内の入換用として最後まで働いていたSLも、翌1976年3月、北海道の追分機関区で火を落とします。これで国鉄から、動くSLは一両もいなくなりました。 背景にあったのは、国鉄の「動力近代化計画」です。電化とディーゼル化を進め、燃費が悪く煙で乗客や沿線を悩ませるSLを全廃するという方針でした。高度経済成長のなか、速く大量に運ぶことが鉄道に求められた時代です。合理化としては当然の流れでした。 ただ、皮肉なことに、SLは消えると決まった瞬間から、かつてないほど愛され始めます。消えゆくSLを追いかけて全国の路線に人々が押し寄せた「SLブーム」は、ちょうど昭和40年から50年までの10年間。鉄道ファンだけでなく、老若男女が有名撮影地に集まり、最後の雄姿をフィルムに焼きつけようとしました。1972年(昭和47年)の鉄道開業100年には、京都に梅小路蒸気機関車館(現在の京都鉄道博物館)が開館し、SLを産業文化財として保存する動きも始まっています。当時の時刻表には「今やSLは、走る交通機関から、見る交通機関に変わった」という趣旨のことばが載ったそうです。 人は、なくなるとわかったときに初めて、そのものの価値に気づくのかもしれません。 その半年後、静岡の茶畑を蒸気が走った そして1976年7月9日。国鉄からSLが完全に消えて、わずか4か月後のことです。 静岡県の大井川鉄道が、大井川本線の金谷〜千頭間、約40キロでSL急行「かわね路号」の運転を始めました。日本で初めての、本線上でのSLの動態保存運転です。「動態保存」とは、博物館に静かに展示するのではなく、動く状態のまま保存すること。つまり、火を入れ、蒸気を上げ、客を乗せて走らせ続けるということです。 牽引したのはC11形227号機。1942年(昭和17年)9月製造のタンク式機関車で、戦時設計に切り替わる直前に造られた、造りの良い一両だそうです。時速85キロで走れる優れた性能を持ちながら、動力近代化の波のなかで職を失い、前年の1975年11月に北海道の標津線から大井川鉄道へやってきました。国鉄最後のSLたちが働いた北海道から、一両の機関車が静岡へ渡り、そこで再び命を吹き込まれた——調べていて、この事実に胸が熱くなりました。 もうひとつ知って驚いたのは、当時の大井川鉄道が、決して余裕のある会社ではなかったことです。昭和40年代から50年代にかけて、沿線の過疎化と人口流出で利用者は減り続け、事業の柱だった貨物輸送も落ち込み、たび重なる災害復旧に資金を注ぎ込まなければならない。経営の先行きが見通せない時期だったといいます。 そのどん底で選んだのが、「消えゆくものにこそ価値がある」という道でした。全国が捨てたものを、あえて拾い上げて走らせ、沿線の外からお客さんを呼び込む。世の中が新しさへ一直線に走っていた昭和51年に、これは相当に思い切った、常識はずれの決断だったはずです。しかし運行開始と同時に全国から乗車の申し込みが殺到し、やがて「SLといえば大井川」と呼ばれるまでになりました。捨て身の賭けは、見事に当たったのです。 跨線橋の上の私は、知らなかった さて、そのころの私です。 小学1年生の私は、京成高砂駅のそばの跨線橋の上から、飽きもせず電車を眺めていました。高砂の検車区に並ぶ車両たち、踏切を駆け抜けていくスカイライナー。私の世界は、電車でできていました。 でも、そこに蒸気機関車はいませんでした。東京の下町で生まれ育った私にとって、SLは最初から「絵本と図鑑の中のもの」だったのです。デゴイチという言葉は知っていても、それが目の前を走る姿は見たことがない。大人たちが夢中になったSLブームも、終わってから知った話です。 考えてみれば、私たちの世代は不思議な世代です。本物の蒸気機関車が走る姿を知らないのに、あのシルエットだけは、なぜか目に焼きついている。1978年(昭和53年)にテレビ放送が始まった『銀河鉄道999』のおかげでしょう。小学3年生だった私は、毎週欠かさず観ていました。『宇宙戦艦ヤマト』にも夢中でしたから、私の宇宙は、戦艦と機関車でできていたことになります。それにしても、宇宙を旅する列車が、最新型の宇宙船ではなく、あえて蒸気機関車の姿をしていたというのは、今思えば示唆的です。乗ったこともないSLの汽笛に、郷愁のようなものを感じていた——あれは、SLブームを駆け抜けた大人たちの想いが、アニメというかたちで子どもの世代に手渡された瞬間だったのかもしれません。 同じ1976年、葛飾では『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載が始まっています。宅急便が生まれたのもこの年です。私の身の回りの昭和51年は、新しいものが次々と生まれる年でした。その同じ年に、遠い静岡で「古いものを守り抜く」決断がされていたことを、跨線橋の上の少年は知る由もありませんでした。 半世紀、走り続けている 驚くべきことに、あのC11形227号機は、今も大井川鐵道の現役機関車です。 大井川鉄道が始めた動態保存は、その後、全国に広がりました。今、各地で週末や夏休みに走っているSLの観光列車は、すべてこの1976年7月9日が原点だと言っていい。そして大井川鐵道自身は、きかんしゃトーマス号の運行でお子さんたちにも愛される鉄道になり、2025年に創立100周年を迎えました。 面白いのは、この鉄道が守っているのはSLだけではないことです。ふだんの普通列車として走っているのも、南海電鉄や東急電鉄などから譲り受けた古い電車たち。よその鉄道で役目を終えた車両が、大井川のほとりで第二、第三の人生を送っているのです。駅舎も昭和のまま残されていて、戦前戦中を舞台にしたドラマや映画のロケ地にもなっているそうです。鉄道会社まるごとが、動く昭和なのですね。 55歳の夏、デゴイチの前に立った じつは私が初めて本物のデゴイチの前に立ったのは、つい一昨年、55歳の夏のことです。 2024年8月、次男の中学野球の全国大会で福井県を訪れました。宿泊したのは今庄の宿。その敷地に、黒く堂々とした蒸気機関車が展示されていたのです。D51形481号機。1940年(昭和15年)製造、主に中国地方で活躍した機関車だそうです。今庄はかつて北陸本線最大の難所「杉津越え」を控えた鉄道の町で、急勾配に挑む列車を後押しする補機のSLたちが活躍した土地。その歴史を伝えるために、このデゴイチが誘致され、保存されているのだと知りました。 図鑑の中でしか知らなかったデゴイチが、目の前にいる。動輪は私の背丈に届きそうなほど大きく、真正面から見上げると、黒い鉄のかたまりがこちらを見下ろしてくるようでした。息子の野球のために来た町で、まさか半世紀越しの対面を果たすとは。野球と鉄道——私の人生の二本柱が、思いがけない場所で交差した夏でした。 私は今、路線バスの運転士として働いています。だからでしょうか、機械を「動く状態で保ち続ける」ことの重みが、少しだけわかる気がするのです。80年以上前に造られた機関車を今日も走らせるためには、部品ひとつひとつを手の感触で調整し、経験と勘を次の世代に口伝えで引き継いでいくしかない。今庄のデゴイチのように静かに余生を送る機関車も尊いけれど、展示するより、走らせ続けるほうが、何倍も難しいのです。 半世紀前、小さな私が跨線橋から電車を見上げていたあの日も、静岡の茶畑の中を蒸気機関車が走っていた。そのことを57歳になって初めて知り、いつか金谷駅から「かわね路号」に乗ってみたいという、新しい夢がひとつ増えました。知らなかったことを知るのは、いくつになっても嬉しいものですね。 みなさんは、蒸気機関車に乗ったことがありますか。あの汽笛を、聞いたことがありますか。 黒く輝く動輪、白い蒸気、力強い汽笛——。デゴイチをはじめ、日本を走った蒸気機関車たちの雄姿を、豊富な写真で味わえる一冊です。あの頃SLブームを追いかけた方にも、『銀河鉄道999』で汽笛に憧れた世代にも、そしてお孫さんへの一冊にも。ページをめくれば、乗ったことのない汽車の郷愁が、また胸に立ちのぼります。 蒸気機関車大図鑑 SLのすべてがわかる金盛正樹ほか。デゴイチから大井川のかわね路号まで、写真で楽しむSLの世界 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月8日】たばこの箱に、小さな一文が生まれた日 | 次の記事:【7月10日】怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた ▶

July 9, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月8日──たばこの箱に、小さな一文が生まれた日

今日は7月8日。梅雨明けを待つ、じっとりと重い空気の季節です。 昭和の家には、たいてい煙が満ちていました。ちゃぶ台の上には灰皿があって、朝から晩まで、白い煙がゆらゆらと立ちのぼっている。テレビの画面も、蛍光灯の傘も、いつのまにかうっすらと黄ばんでいる。あれが、当たり前の風景でした。 そして、その煙を切らさないために走るのは、たいてい子どもの役目でした。小銭を握りしめて、近所のたばこ屋まで。「〇〇をひとつ」——そう言えば、子どもにでも売ってくれた時代です。 昭和47年(1972年)の7月8日、その手の中のたばこの箱に、ある小さな一文が初めて刷り込まれました。 「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」 今では考えられないほど控えめな、たった一行。けれど、これが日本のたばこに“警告”が載った、いちばん最初の言葉だったのです。 箱の側面の、たった一行 私たちの世代にとって、たばこの箱の側面に注意書きがあるのは、生まれたときからの当たり前でした。けれど、その一行にも、ちゃんと「始まり」があります。 1972年(昭和47年)より前、日本で売られていたたばこには、健康に関する注意文も警告も、いっさい書かれていませんでした。箱には、ただ商品の顔があるだけ。吸うことに国が注意をうながす、という発想そのものが、まだ世の中になかったのです。 その流れを最初につくったのはアメリカでした。そして日本でも、昭和47年の夏、ついにたばこの箱に文字が載ることになります。記録によれば、まず京都・名古屋・大津の三つの街で、「健康のため吸いすぎに注意しましょう」と側面に印刷したたばこの販売が始まり、その年の8月下旬から、全国へと広がっていったといいます。7月8日は、その最初の一歩がしるされた日、というわけです。 面白いのは、我が家の定番だったあの安いたばこも、ちょうどこの昭和47年の夏に、箱へ健康表示が刷られるようになった、という点です。つまり、私が物心つく前から握らされていたあの一行は、じつはこの頃に生まれたばかりの、まだ新しい言葉だったのです。 ちなみにこの文言は、その後ずっと同じだったわけではありません。1972年から1989年まで、つまり昭和のあいだはずっと「健康のため吸いすぎに注意しましょう」。平成に入った1990年からは「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」と、少し踏み込んだ言い方に変わりました。そして2005年からは、箱の大きな面をつかって、具体的な病気の名前まで書かれるようになります。あの控えめな一行は、時代とともに、どんどん強い言葉になっていったのです。 正直に言えば、私自身はこの「始まり」をまったく覚えていません。昭和47年7月といえば、私はまだ三歳。箱の文字を読むどころではありませんでした。今回この日について調べていて、はじめて「そうだったのか」と知ったくらいです。 私が本当に覚えているのは、その一行そのものではなく——その一行が刷られた箱を握って走った、お使いの記憶のほうなのです。 70円玉を握って 我が家は、両親そろって喫煙者でした。 父も母も、当たり前のようにたばこを吸っていて、家の中はいつも煙の匂い。今にして思えば、子どももその煙を一緒に吸って育ったわけですが、当時はそんなことを気にする人など、まわりに誰もいませんでした。 だから、たばこのお使いは、私の仕事でした。 小銭を渡されて、近所のたばこ屋まで走る。買ってくるのは、決まってエコーという銘柄でした。オレンジ色に茶色のストライプが入った、あの細長い箱です。値段はたしか、70円ほど。当時のたばこの中でも、いちばん安い部類のものでした。 そのたばこ屋さんは、高砂駅の北口を出て、すぐ目の前にありました。たばこを対面で売る小さな窓口には、いつもおばちゃんかおじちゃんのどちらかが座っていて、「エコー、〇個ください」と声をかけると、茶色の紙袋にたばこを入れて渡してくれます。 そして、そのたびに、小さな箱に入ったミカン味の、丸い球のガムを——たしか四粒だったと思います——毎回くれるのです。じつを言うと私、そのガムが目当てで、喜んでお使いに行っていたようなものでした。 そのたばこ屋さんは、驚くことに、今も同じ場所にちゃんとあります。 エコーというたばこは、1968年(昭和43年)に売り出された、フィルター付きでは日本でいちばん安いたばこでした。税金の区分でいう「旧三級品」というやつで、とにかく安い。だから、我が家のようなごく普通の家では、重宝されていたのだと思います。のちに俳優の松田優作さんが好んで吸っていたことでも知られる銘柄ですが、子どもの私にとっては、ただ「いつもの、うちのたばこ」でした。 なぜ我が家がエコーだったのか。父がよく、「エコーはフィルターがついている中で一番安いんだ」と言っていたのを覚えています。父も母も、そろってエコー。銘柄で迷うことなど一度もなく、私が買いに行くのは、いつも決まってあのオレンジ色の箱でした。 現金のお駄賃をもらった記憶はありません。私にとっての“ごほうび”は、あくまであのたばこ屋さんがくれるガムだけ。それでも、あの頃の私には、それで十分すぎるくらいだったのです。 校庭に、たばこの煙 たばこの煙は、家の中だけのものではありませんでした。 中学、高校と野球を続けた私にとって、たばこの匂いは、グラウンドの記憶とも結びついています。当時の野球部の監督は、校庭で、平気でたばこを吸いながら指導していました。ノックの合間に一服、選手を集めて話しながら一服。今の学校では、まず考えられない光景でしょう。 そして、その監督に「たばこを買ってこい」と使いに出されるのも、また部員の役目でした。 野球部の顧問というのは、どこの学校でも、たいていはおっかない先生と相場が決まっていました。うちの監督も、その例にもれず。今の感覚でいえば、生徒にたばこを買いに行かせるなんて大問題でしょうが、あの頃は、先生も生徒も、誰ひとり何とも思っていませんでした。 それどころか、私たち部員にとって、たばこのお使いは、ちょっとした“役得”だったのです。だって、その間だけは、あのきつい練習から堂々と抜けられる。買いに行かされる仲間を横目に、「いいなぁ〜」と、うらやましく思ったものでした。 ですから、たまに自分が頼まれたときには——これは内緒の話ですが——できるだけゆっくり、ゆっくりと、道草を食いながら帰ったものです。 考えてみれば、昭和という時代は、たばこの煙にとても寛容でした。電車の中でも、駅のホームでも、職場でも、学校の職員室でも、煙は当たり前に漂っていた。子どもがたばこを買いに行き、大人が子どもの前でふかす。その全部が、なんの疑問もない日常だったのです。 煙の中で育った、私たち これだけ濃い煙の中で育ったのに、ひとつ、不思議なことがあります。 私も、ひとつ下の妹も、大人になってから、たばこを一度も吸いませんでした。 といっても、そこに深い理由があったわけではありません。親の吸う煙が、内心いやだった——そういうことでもないのです。ただ、吸うタイミングというものがなかった。そして、吸いたいと思うこともなかった。ほんとうに、それだけのことでした。 あんなに毎日たばこを買いに走らされて、家じゅうが煙だらけで、それでも自分では吸わなかった。人が何かを選ぶ、選ばないというのは、案外、そのくらい他愛のないものなのかもしれません。 いま、たばこの箱を見ると、その変わりように驚きます。箱の半分近くを、黒々とした警告の文字が占めている。あの「健康のため吸いすぎに注意しましょう」という、どこか遠慮がちだった一行の“子孫”が、半世紀をかけて、あそこまで強い言葉になった。時代は、確かに変わったのだと感じます。 おわりに 昭和47年7月8日、たばこの箱に、初めて小さな一文が刷られました。 「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」。 その一行が生まれた頃、私はまだ三歳で、そんなことは何も知らないまま、やがてその箱を握りしめて、近所のたばこ屋まで走ることになります。手の中には70円玉。買ってくるのは、オレンジ色のエコーひとつ。家に帰れば、また煙の匂いの中へ戻っていく。 あの煙も、あのお使いも、校庭でたばこをふかしていた監督の姿も、今ではすっかり遠い風景になりました。それでも、たばこの箱の側面をふと見て、あの小さな一行に目がとまると、湿った夏の日の、たばこ屋までの道のりが、すっと目の前によみがえってくるのです。 みなさんは、家族のたばこのお使いに走った記憶はありますか。どんな銘柄を、いくらで買っていたか、覚えているでしょうか。 家じゅうの煙、駄菓子屋のガム、たばこ屋のおばちゃん——。あの頃の「当たり前」は、いまや一枚の写真の中にしか残っていません。昭和の衣・食・住の何気ない風景を、たっぷりの写真で振り返る一冊。ページをめくるたびに、あなたの「お使いの道」も、きっとよみがえってきます。 懐かしくて素敵! 心惹かれる昭和の暮らし(TJMOOK)宝島社。昭和の衣・食・住の“当たり前”を、写真とともに味わう一冊 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 8, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月7日──三角屋根の向こうのハンバーグ、すかいらーくと「外食元年」

七夕の夜、笹の葉に短冊を揺らしていたあの頃。空を見上げれば天の川——というのは、いかにも昭和の子どもらしい7月7日の過ごし方でした。けれど今日は、同じ7月7日に生まれた、もう一つの「星」の話をさせてください。 1970年(昭和45年)7月7日。東京・府中市の甲州街道沿いに、一軒のレストランが開店しました。名前を「スカイラーク」——のちの「すかいらーく」です。スカイラークとは、英語でヒバリのこと。空へまっすぐ舞い上がる、あの小さな鳥です。七夕の日に、ひばりの名を持つ店が羽ばたいた。日本で初めての、郊外型ファミリーレストランの誕生でした。 「外食元年」——食卓の外側が変わった年 いまでこそ、私たちは当たり前のように「ファミレス行こうか」と口にします。けれど、その言葉が生まれるためには、どこかに「最初の一軒」がなければならなかった。それが、すかいらーくでした。 作ったのは、長野県出身の横川4兄弟。もともと商売とは無縁の一家だったそうです。1962年(昭和37年)に、東京・ひばりが丘団地で「ことぶき食品」という小さな食料品スーパーを始めたものの、大型スーパーの進出に押されてうまくいかない。そこで兄弟は、もう一度アメリカへ渡って外食の現場を見て回りました。ビッグボーイやデニーズ。広いガラス張りの店に、家族連れが当たり前のように集っている光景。あの豊かさを日本にも、と考えたのです。 マクドナルドの導入も検討したものの、ライセンス契約に3億円かかると言われて断念。それならばと、自分たちでファミリーレストランを作る道を選びました。目をつけたのは、日本でも急速に広がりはじめていたマイカーブーム。車で移動する家族連れを迎えるなら、街なかより郊外だ——そう読んで、甲州街道という幹線道路沿いに1号店を構えたのです。 開店当時の店は、大きな三角屋根に、天井まで届くガラス窓。まるでアメリカの街道沿いから、そのまま切り取ってきたような姿でした。高度経済成長のただ中にあった当時の日本人にとって、それは「憧れ」そのものだったといいます。そしてメニューには、ハンバーグとエビフライを一枚の皿に一緒に盛る、という当時としては画期的な工夫。子どもが好きなものを、少しずつ、いっぺんに。その発想が、家族みんなの心をつかみました。 外食業界では、この1970年を「外食元年」と呼びます。同じ年、大阪万博の会場にはケンタッキーフライドチキンが出店し、翌1971年にはマクドナルドとミスタードーナツが日本1号店を出す。日本人が「食」において初めて世界を意識し、外で食べることそのものにワクワクした——そんな時代の、まさに号砲でした。すかいらーくは開店から5年で店舗数100を超え、やがて全盛期には700店を超えるまでに広がっていきます。 すかいらーくが持ち込んだのは、味やメニューだけではありませんでした。レストランとしては初めて、注文をその場で打ち込むハンディ端末やPOSの仕組みを取り入れ、少ない人数でもてきぱきと店を回せる態勢を作り上げます。安くて、速くて、清潔で、きちんと挨拶をしてくれる——当たり前のようでいて、当時の日本の食堂にはなかなか無かったものを、この店は一つひとつ形にしていったのです。 そして何より大きかったのは、すかいらーくが「新しい休日のかたち」を生み出したことでした。日曜日、家族そろって車に乗り込み、郊外のレストランへ出かけて、みんなで同じテーブルを囲む。テレビのコマーシャルには、そんな幸せそうな家族が、繰り返し映し出されました。マイカーとファミレス。それは、豊かになりゆく昭和の家庭にとって、まぶしい憧れの象徴だったのです。 ——もっとも。その絵に描いたような休日は、どんな家庭にも当てはまるものではありませんでした。 我が家にとっての「外食」 さて、そんな外食革命の号砲が鳴った1970年7月、私はまだ1歳。ヒバリが羽ばたいたことなど、当然、何も知りません。 けれど、私が物心つく頃には、ファミレスという言葉は少しずつ、子どもたちの生活の隅にも入り込んできていました。ただ——正直に打ち明けますと、我が家にとって「外食」は、そう気軽なものではありませんでした。 我が家の外食には、二つの「決まり」がありました。 一つは、月に一度の楽しみです。母がパートで働いていて、その給料日が毎月25日でした。その日の夕方、母がパートから帰ってくると、母と私、そして妹の三人で、高砂駅のそばにあったイトーヨーカドーへ買い物に出かけます。ひととおり買い物を済ませると、そのままヨーカドーの中にあった小さなレストランに入り、その日の夕食をそこでとる——いつのまにか、それが我が家の習慣になっていました。 その小さなレストランで、私と妹が頼むものは、いつも決まっていました。おまけのおもちゃが付いてくる「お子様ランチ」です。ケチャップで味つけしたごはんが、こんもりとお山の形に盛られ、そのてっぺんには、小さな旗が一本、ちょこんと刺さっている。あの旗と、おまけのおもちゃ欲しさに、私たちは毎月、迷うことなくそれを選んだものでした。そして母はというと、これもまた決まって、ラーメン。子どもの頃の私は、その組み合わせを、これっぽっちも不思議に思っていませんでした。けれど——いま振り返ると、母はきっと、自分のことよりも、私たち子どもに「外で食べる」という経験をさせてやりたかったのだと思うのです。子どもにはおもちゃの付いたお子様ランチを。自分は、一杯のラーメンを。その選択の奥にあった母の気持ちに気づいたのは、ずいぶん大人になってからのことでした。 外食は特別なもので、月に一度きり。そして、その席に、父の姿はありませんでした。 もう一つは、年に一度、家族全員がそろう外食です。毎年正月の2日、親戚の集まりに向かう途中で、決まって「元禄寿司」という回転寿司へ立ち寄りました。この日ばかりは、父も含めた家族四人がそろいます。目の前をぐるぐると回っていくお寿司を、自分の手で好きなだけ取って、お腹いっぱいになるまで食べる。子どもにとって、これほど心の躍る食事はありませんでした。店を出るとき、私はいつも心の中で、そっとつぶやいたものです。「——また来年だね」と。たった年に一度。それでも、いや、年に一度だからこそ、あの回転寿司は今も、本当に楽しい思い出として、私の中に残り続けています。 初めてのファミレス そんな私が、生まれて初めて本物のファミリーレストランに足を踏み入れたのは、中学1年生のとき。昭和57年のことでした。 しかも、親と一緒ではありません。同級生だけ、数名で行ったのです。子どもだけでファミレスに入る——それだけで、なんだか少し大人になったような、くすぐったい気分でした。場所は、国道6号線沿い、亀有警察署の向かいにあったデニーズ。何を注文したのかは、正直、もう覚えていません。たぶん、ホットケーキのセットあたりだったと思います。 でも、一つだけ、はっきりと覚えている衝撃があります。それは——コーヒーが、何杯でもおかわりできたこと。「えっ、何杯飲んでもいいの!?」「これ、めっちゃお得だー!」。中学生の私たちは、その事実に本気で興奮し、結局、コーヒーを何杯もおかわりしながら、数時間もねばっていました(笑)。 思えばファミリーレストランは、私たちの世代の青春時代に、欠くことのできない存在でした。友人に悩みを聞いてもらったとき。彼女とのデートで食事をするとき。五、六人で何かの打ち合わせをするとき。——気づけばいつも、決まってファミレスにいたのです。あのボックス席で、何杯目かのコーヒーを前に、私たちは笑い、悩み、少しずつ大人になっていきました。 ガストになった星 時は流れて、令和のいま。 あの「すかいらーく」という看板は、実はもう、街から消えています。バブル崩壊後、より手頃な価格帯の「ガスト」へと衣替えが進み、2009年には「すかいらーく」という名前のお店そのものがなくなりました。そして2024年1月、あの記念すべき1号店——長らく「ガスト国立店」として営業していた、府中の甲州街道沿いのあの場所も、半世紀を超える歴史に静かに幕を下ろしました。 けれど、星が消えたわけではありません。ガスト、ジョナサン、バーミヤン、夢庵、しゃぶ葉——いま日本中にあるこれらのお店は、みなあの日のヒバリの子孫たちです。グループ全体では、3000を超える店舗が今日も灯りをともしています。 ただ、その姿はずいぶん変わりました。注文はテーブルのタッチパネルで。料理を運んでくるのは、猫の顔をした配膳ロボット。ドリンクバーでジュースをおかわりし放題。私が子どもの頃、あれほど特別だった「外で食べる」という行為は、いつのまにか、ごく当たり前の日常になりました。 便利で、安くて、いつでも入れる。それはきっと、幸せなことなのでしょう。でも——三角屋根を見上げてドキドキしたあの気持ちを、今の子どもたちは味わえるのだろうか。ときどき、そんなことを考えてしまう私がいます。 そういえば——あの店の名前は、ヒバリでした。七夕の夜に見上げた星の光に、どこか似た響きの名前です。半世紀前のあの日、府中の甲州街道に舞い降りた一羽のヒバリは、日本の家族に、ちょっとした特別な時間を配って回りました。私にとってのそれは、月に一度のヨーカドー。年に一度の回転寿司。そして、中学生になって初めて自分の足で踏み入れた、あのデニーズの、何杯ものコーヒー——。どれも、決して豪華ではないけれど、いまも胸の奥でぽっと灯り続けている、大切な星たちです。 あなたにとっての「初めてのファミレス」は、どこの、何でしたか。あの一皿の記憶を、よかったらコメントで聞かせてください。 すかいらーくの誕生から、外食元年、そして令和の配膳ロボットまで。私たちが「外で食べる」ことに込めてきた憧れと変化を、まるごと一冊にたどった本があります。あの三角屋根にドキドキした世代には、ページの一つひとつが「あの頃」と地続きに感じられるはずです。 日本外食全史阿古真理/亜紀書房。ファミレス誕生から令和まで、日本人が“外で食べる”を追いかけた50年の記録 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月6日】「本を読むなら、バットを振る」、サラダ記念日がわからなかった高3の夏 | 次の記事:【7月8日】たばこの箱に、小さな一文が生まれた日 ▶

July 7, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月6日──「本を読むなら、バットを振る」、サラダ記念日がわからなかった高3の夏

7月6日は「サラダ記念日」です。歌人・俵万智さんの第一歌集『サラダ記念日』の表題歌にちなんだ、いまではすっかりおなじみの記念日ですね。 けれど、白状します。この歌集が世に出た1987年(昭和62年)の夏、当時18歳・高校3年生だった私は、「サラダ記念日」という言葉の意味が、まったくわかっていませんでした。今日はその「わからなかった私」の話から、始めさせてください。 一冊で短歌を変えた歌集 『サラダ記念日』は、俵万智さんの第一歌集です。河出書房新社から1987年5月8日に刊行されました。作者の俵さんは1962年生まれ。当時は神奈川県立橋本高校で国語を教える先生で、まだ24歳の新人歌人でした。 俵さんは大阪府の生まれ。早稲田大学で歌人・佐佐木幸綱さんと出会って短歌を始め、卒業後は高校の先生をしながら作品を発表していました。1985年には「野球ゲーム」という一連で角川短歌賞の次席に選ばれるなど、口語短歌の期待の新星として、すでに名を知られはじめていた人です。 じつは、この歌集にはちょっとした裏話があります。もともとは角川書店から出す話もあったのですが、当時の社長・角川春樹さんが「短い詩の本は売れない」と反対したというのです。結局よそから出た一冊がミリオンセラーになり、角川さんはのちに「人生最大の失敗だった」と振り返ったと伝わっています。それほど、誰にも売れると予想できなかった一冊でした。 歌集の初版は、わずか8,000部。短歌の本など、数百部も刷れば十分という世界です。それがこの一冊は爆発的に売れ、最終的に280万部を超え、1987年度のベストセラーランキングで、あらゆる本を抑えて堂々の第1位に輝きました。歌集が売上のてっぺんに立つなど、前にも後にも例のない出来事です。 何がそんなに新しかったのか。俵さんは、それまで「難しくて格調高いもの」と思われていた短歌を、私たちが普段しゃべる言葉──口語で詠んでみせたのです。恋人が手料理をほめてくれた。ただそれだけの日常のひとこまを、五・七・五・七・七の三十一文字にすくい取る。「与謝野晶子以来の天才歌人」とまで言われました。 『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 刊行から2ヶ月後、本のなかで名づけられた「7月6日」を、現実のカレンダーで初めて迎えた日。朝日新聞の「天声人語」がこの歌を取り上げると、出版社には1日で約1,500本もの電話注文が殺到したそうです。その年の新語・流行語大賞では「新語部門・表現賞」に選ばれ、「記念日」という言葉そのものを世間に広めました。まさに、社会現象です。 「本を読むなら、バットを振る」 さて、その社会現象のまっただ中にいたはずの、18歳の私です。 1987年の夏、私は高校3年生。最後の夏の大会を目前に控えた、野球部の球児でした。来る日も来る日も、白球を追って土にまみれていました。 恥ずかしながら、当時の私には本を読む習慣がまるでなく、「本を読むなら、バットを振る」と、それはもう大まじめに思っていました(笑)。歌集どころか、活字そのものが、遠い世界の話でした。 それでも、『サラダ記念日』という本の名前や、俵万智さんというお名前は、なんとなく知ってはいました。テレビだったか、新聞だったか──どこで知ったのかは、いま思い出そうとしても、まるで思い出せません。ただ、はっきりしているのは、短歌そのものには、まったくの無関心だったということです。あの頃の私は、たぶん野球以外のことには、何ひとつ興味がわかなかったのだと思います。 よく覚えているのは、同級生の部員に一人、勉強のよくできる奴がいて、そいつが会話のなかで「〇〇だから〇月〇日は〇〇記念日な」なんて言い回しを、さらりと使っていたことです。仲間うちで流行っていたわけではありません。ただ、その頭のいい一人だけが、なぜか口にしていた。今になって、ふと思い出します。 正直に言うと、それを聞いても私は「はぁ?何、それ!」という感じで、何のことやらよくわかっていませんでした。私のまわりの仲間も、たぶん似たような温度感だったと思います。汗と土埃のグラウンドに、短歌なんてものが入り込んでくる隙間は、これっぽっちもなかったのです。 いま振り返ると、あの夏の自分について、一つだけ言い直しておきたいことがあります。さきほど、私は「野球のことしか考えていなかった」と書きました。けれど、正確には──「野球のことしか考えたくはなかった」。そう書くほうが、たぶん正しいのです。 当たり前のことですが、高校野球は、残りひと月ほどで終わりを迎える。それは自分でもわかっていました。終われば、卒業後の進路を考えなければならない。うちの家の経済状況で、大学進学なんて可能なのか。そもそも、今の自分の学力では、進学などお話にならないのではないか。──そんな思いは、頭の奥で、もくもくと湧いては来ていたのだと思います。 でも私は、そのどれ一つにも正面から向き合うことなく、ただ「野球」に逃げ込んでいました。白球を追いかけている間だけは、面倒なことを何も考えずにいられたからです。いまこの年になって振り返ると、あの夏のグラウンドには、そうやって逃げ込んでいた一人の自分が、確かにいたのだと思います。 いま、あの夏の「はぁ?」がわかる あれから39年。57歳になった私は、ようやく、あの夏の「はぁ?」の正体がわかるようになりました。せっかくなので、当時の私にも通じるように、かみ砕いて書いてみます。 なぜ、たった一冊の歌集が280万部も売れたのか。答えは、俵さんが短歌を「自分たちの言葉」に取り戻してくれたからです。かしこまった言葉づかいではなく、友だちと話すみたいなことばで、恋やごはんや、なんでもない一日を歌にしていい。そう教えてくれたのです。 それまで短歌といえば、年配の人の趣味か、教科書の中の古めかしいもの、というイメージでした。それを俵さんは、同じ時代を生きる若者のことばで歌ってみせた。だからこそ、ふだん短歌に縁のなかった若い世代、とりわけ同世代の女性たちの心を、一気につかんだのです。 そしてもう一つ、大きな発明がありました。それは「記念日」という考え方です。特別な日というのは、誰かに決めてもらうものではなく、自分の気持ちひとつで名づけていいものなんだ──。じつは「7月6日」という日付も、その日に何かが起きたわけではなく、恋のイメージが強い七夕(7日)のあえて前日を選び、「なんでもない日こそ記念日にしたい」という思いから決められたものだそうです。 だから、たくさんの人が「それなら私も」と動きました。出版社が募った投稿短歌は、なんと20万首にも上ったといいます。みんなが自分の言葉で、自分の記念日を詠みはじめたのです。 熱は、本の外へもあふれ出しました。「〇〇記念日」という言い回しは巷にあふれ、スポーツ新聞の見出しにまで躍り、パロディ本や英語の対訳版、テレビドラマまで生まれたといいます。──そう考えると、あの頭のいい同級生が「〇〇記念日な」と口にしていたのも、けっして気取った特別なことではなかったのですね。彼はただ、その夏の世の中の空気を、そのまましゃべっていただけだったのです。 そして──ここが私にとっての、いちばんの発見でした。あの表題歌が生まれたきっかけは、じつはサラダではなく、お弁当に入れたカレー味の唐揚げだったこと。しかもその一首は、お弁当を持って“野球を見に行った日”に思いついたものだというのです。俵さんが歌人として注目されるきっかけになった作品の題名も、「野球ゲーム」でした。 世間が短歌に沸いていたあの夏、グラウンドにいた私はまったく知らなかったけれど。「サラダ記念日」は、私が大好きな野球場の空気のなかから生まれた歌でもあったのです。なんだ、ちゃんと地続きだったんじゃないか──39年越しに、そう思いました。 それぞれの「記念日」 こうして背景を知ってみると、短歌にまるで興味のなかったあの頃の私にも、確かに"記念日"はあったのだと気づきます。 そう、最後の夏の大会です。勝っても負けても、あの一日は、間違いなく私の人生の記念日でした。記念日は自分で名づけていいものだと俵さんが言うのなら、私にとっての「サラダ記念日」は、あの土のグラウンドの上に、ちゃんとあったのです。バットを振っていた私は、私なりのやり方で、ひと夏の記念日を刻んでいたのだと思います。 それは、進路の不安から逃げ込んだ先だったのかもしれません。それでも、あれほど夢中で逃げ込める場所があったこと自体、いま思えば、とても幸せなことでした。あの夏の自分を、責める気にはなりません。むしろ「よく最後まで白球を追いかけたな」と、そっと声をかけてやりたいくらいです。 令和のいま、私たちは毎日のようにスマホで「いいね」を押しています。「この味がいいね」の"いいね"が、時代を越えて別の意味を持つようになったのも、なんだか面白いものです。俵さんご自身、後年になって「いいねの元祖ですね」と言われる、と語っていました。たった一つの「いいね」で幸せになれる──そんな歌だったと知ると、あの頃「はぁ?」と首をかしげていた自分が、少しかわいく思えてきます。 「はぁ?何、それ!」だったあの一首の背景を、こうして39年越しに知って、静かに腑に落ちる。これもまた、遅れてやってきた、私だけの小さな記念日なのかもしれません。 あなたには、誰かに決められたのではなく、自分で「これは記念日だ」と思えた一日がありますか。そして1987年の夏、あなたは「サラダ記念日」を、どんなふうに聞いていましたか。よかったら、コメントで聞かせてください。 あの夏、私が「はぁ?」と首をかしげた一冊。39年越しにページを開いてみると、かしこまらない言葉で日常のきらめきをすくい取る、その心地よさに驚かされます。若い日に読み逃した方も、あの頃むさぼり読んだ方も。この機会に、あなたの「サラダ記念日」を探しに。 サラダ記念日(河出文庫)俵万智。短歌を“自分たちの言葉”に取り戻した、280万部の不朽の第一歌集 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月5日】センターコートに立った日本人、沢松和子のウィンブルドン制覇 | 次の記事:【7月7日】三角屋根の向こうのハンバーグ、すかいらーくと「外食元年」 ▶

July 6, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月5日──センターコートに立った日本人、沢松和子のウィンブルドン制覇

七月に入ると、テレビの向こうから芝生の緑がまぶしく見える季節がやってきます。ウィンブルドン。白いウェアの選手たちが、手入れの行き届いた芝のコートで球を追う——今ではすっかり夏の風物詩ですが、この大会で日本中が沸きに沸いた一日が、昭和にありました。 昭和五十年七月五日。この日、沢松和子さんとアン清村さんのペアが、ウィンブルドン選手権の女子ダブルスで優勝しました。日本人女子テニス選手として、史上初めての四大大会タイトル。ウィンブルドンのセンターコートに、日本人女性が初めて立った日でもありました。 私はこのとき六歳。まだ保育園に通っていた年で、正直に言えば、この歴史的な快挙をリアルタイムで見た記憶はありません。それでも「テニス」という言葉には、少年時代のいろいろな風景がくっついています。今日はその糸をたぐりながら、あの日のことを書いてみようと思います。 センターコートの大接戦 決勝の相手は、フランソワーズ・デュール(フランス)とベティ・ストーブ(オランダ)という強豪ペアでした。試合は 7-5、1-6、7-5 という大接戦。第一セットを取り、第二セットを落とし、最終セットも競り合いの末にもぎ取る——スコアだけ見ても、手に汗握る展開だったことが伝わってきます。 大会最終日、男子シングルスの決勝が終わったあと、沢松さんは日本人女子選手として初めてウィンブルドンのセンターコートに足を踏み入れました。テニスの聖地の、いちばん格式の高い舞台。そこに立った日本人がいる、というだけで、当時の熱狂は想像がつきます。 沢松和子さんは兵庫県西宮市の生まれ。祖父の代からのテニスの名門一家に育ち、国内では一九六七年から一九七五年までの足かけ八年間で百九十二連勝という、とてつもない記録を打ち立てた人でした。この連勝記録は、今なお破られていないといいます。若いころには全仏オープンとウィンブルドンのジュニア部門で優勝し、日本人テニス選手として史上初のプロ選手にもなった、まさに草分けの存在でした。 パートナーのアン清村さんは、アメリカ・カリフォルニア生まれの日系三世。父はテニスコーチ、母は日本で二番目に強かったという選手で、この優勝は「アジア系アメリカ人」の女性として初めてのウィンブルドン制覇でもありました。日本とアメリカ、二つの国にルーツを持つ二人が、テニスの本場イギリスの芝生の上で頂点に立った——今の言葉で言えば、なんとも国境を越えた快挙だったわけです。そして沢松さんは、この偉業を最後に、その年限りで現役を退いています。まさに有終の美でした。 「録画」で全国が沸いた 今の私たちからすると不思議に思えるのですが、この試合が日本で大反響を呼んだ背景には、「衛星中継が始まって間もない時期だった」という事情がありました。試合の模様は録画でテレビ放映されたそうです。生中継ではなく、録画。それでも日本人女性初の快挙は全国に伝わり、空前のテニスブームを巻き起こしました。 先日この欄で、NHKの二十四時間衛星放送が世界で初めて始まった日のことを書きました。地球の裏側の映像が、時間差なくお茶の間に届く——その当たり前が、まだ当たり前ではなかった時代です。昭和五十年のこの日は、そのもっと前。海の向こうの芝生のコートで起きたことが、フィルムに焼き付けられ、時間をかけて日本に届き、それでも人々を熱狂させた。情報の伝わり方そのものが、今とはまるで違っていたわけです。 生中継ではなく録画なのに、日本中がテニスに沸いた。むしろ、すぐには見られないからこそ、届いた映像に人々は食い入ったのかもしれません。海の向こうの快挙を、時間差でみんなが分かち合った——そんな時代の空気が、この記録の背景にはありました。 もともと昭和五十年前後は、日本のテニスが元気だった時期でもありました。この沢松さんたちの優勝が決定打となって、いわゆる「第二次テニスブーム」が巻き起こったといわれています。そしてこのブームは、一時のものでは終わりませんでした。十年あまりにわたって続き、全国のあちこちにコートが整備され、会社の福利厚生施設や自治体の運動場、別荘地のペンションにまで、こぞってテニスコートが作られていったのです。白いウェアでラケットを振る——それが、あの時代の「おしゃれなスポーツ」の代名詞になっていきました。 野球少年の目に映ったテニス さて、六歳の私に話を戻します。この優勝の記憶はなくても、そのあと日本に広がっていったテニスブームは、子ども時代の風景の一部として、たしかに体に残っています。 昭和五十年代、テニスは本当に身近なスポーツでした。もとをたどれば、この沢松さんたちの活躍が第二次テニスブームの大きなきっかけのひとつだったといいます。土地の有効利用としてあちこちにテニスコートが作られ、街にはテニススクールが増えていきました。 じつは、これを書きながら一つ、腑に落ちたことがあります。私が通っていた保育園の隣の土地に、あるとき突然、テニスコートとテニススクールができたのです。当時は「なんだか新しいものができたな」くらいにしか思っていませんでしたが、いま振り返ってみると、まさにこの時期でした。全国にコートが次々と生まれていったあの流れの、ほんの一区画。京成高砂の、線路と保育園と、私の暮らしのすぐそばにも、テニスブームの波はちゃんと届いていたわけです。半世紀近くたって、その突然のコートが、遠いウィンブルドンのセンターコートと一本の糸でつながった——そう気づいたときは、少し不思議な気持ちになりました。 そのテニス人気を象徴していたのが、アニメ『エースをねらえ!』でした。もとは昭和四十八年に放送された作品で、私が夕方のテレビで楽しみに見ていたのは、その再放送だったはずです。名門・西高テニス部に入った岡ひろみが、鬼コーチ宗方仁にしごかれながら成長していく——いわゆるスポ根の名作ですが、私はこれを毎夕方、かなり楽しみにして見ていました。 面白かったのは、途中で作品の色が変わっていったことです。最初のころは、ひろみが男子部の藤堂先輩に憧れていて、「お蝶夫人と藤堂の関係はどうなの?」なんて、ちょっとした恋愛物語かな?と思いながら見ていました。それがだんだん、ガチの「スポ根」テニス版になっていったんですね。一球一球に泣いて、汗をかいて、それでもラケットを握る。少女マンガの入り口から入って、気づけばスポーツに夢中になる少年の胸まで熱くしてしまう——今思えば、あれもテニスブームの熱の一部だったのでしょう。 私自身はといえば、心はすっかり野球に向かっていました。ポータブルラジオで巨人戦を聴き、空き地でボールを追いかける毎日。ラケットよりバットのほうがずっと手に馴染む子どもでした。それでも、同じ「スポーツに夢中になる」という気持ちの入り口は、きっとテニス少女たちも野球少年も同じだったのだろうと、今になって思います。 令和のウィンブルドンと、あの夏 正直に打ち明けますと、私はテニスそのものを熱心に追いかける子どもではありませんでした。それでも、小学生のころにテレビで名前を覚えた選手が何人かいます。男子ならマッケンロー、ボルグ。女子ならナブラチロワ。週末のニュース番組のスポーツコーナーで、ウィンブルドンあたりの映像がちょいちょい流れていて、なんとなく耳と目に残ったのです。みんな海外の選手でした。テニスの一番てっぺんの舞台は、日本人がどうこうできる場所ではない——子ども心に、そう思い込んでいた気がします。 だからこそ、時が流れて、錦織圭さんや大坂なおみさんが、あのウィンブルドンや世界の大舞台で活躍しているのを見たときは、本当に驚きました。あそこは日本選手が活躍できる場所ではない、と思っていた自分の思い込みが、気持ちよく裏切られたのです。いや、テニスだけではありません。野球の大谷翔平さんをはじめ、今はさまざまな競技で、たくさんの日本人選手がとんでもないことをやってのけている。同じ日本人として、とても誇らしい気持ちになります。 そして、その誇らしさの、いちばん最初の一歩を記した人たちがいたことを、忘れてはいけないと思うのです。まだ「日本人がテニスの世界で勝つ」ことが夢のまた夢だった時代に、録画された試合に時間差で日本中が沸いた昭和五十年の夏。センターコートに初めて立った日本人がいた、あの七月五日。半世紀近く前のその一球が、今の日本選手たちが立つ芝生に、たしかに根を張っているのだと思うと、少し胸が熱くなります。 みなさんには、テニスにまつわるどんな思い出がありますか? 夢中になったアニメ、通ったスクール、あるいはテレビにかじりついて応援した試合——よかったら、コメントで聞かせてください。 あの夕方、私の胸まで熱くした『エースをねらえ!』。岡ひろみが涙とともに一球ずつ強くなっていくあの物語は、半世紀たった今読んでも、まったく色あせません。テニスに青春を重ねた世代にも、スポ根の原点にふれてみたい方にも。この夏、あの熱をもう一度いかがでしょう。 エースをねらえ! 文庫版 全10巻セット(ホーム社漫画文庫)山本鈴美香。第二次テニスブームを象徴した不朽のスポ根名作。あの夕方の熱が、そのまま一冊に Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月4日】テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送 | 次の記事:【7月6日】「本を読むなら、バットを振る」、サラダ記念日がわからなかった高3の夏 ▶

July 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月4日──テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送

7月4日。昭和62年(1987年)のこの日、NHK衛星第1テレビジョン──いわゆるBS1が、世界で初めてテレビの24時間放送を開始しました。 「テレビが一日中やっている」。今では当たり前すぎて、何がすごいのか分からないかもしれません。でも当時、テレビには「終わり」があったのです。深夜になると番組が終わり、君が代が流れ、そして画面には砂嵐──。あの「ザーッ」という音とともに、テレビは毎晩眠りについていました。 その「テレビの眠り」を、初めてなくしたのが、この日の衛星放送だったのです。 深夜の砂嵐と「放送終了」の記憶 私が子どもの頃、テレビ放送には明確な「閉店時間」がありました。深夜、番組がすべて終わると、日の丸の映像とともに君が代が流れ、「JOAK-TV」などとコールサインが読み上げられて、放送終了。その後は例の砂嵐です。局によっては、静かな音楽とともに翌日の番組案内が流れたり、時報のような画面が映ったりと、それぞれに「店じまい」の作法がありました。そして早朝、また何事もなかったかのように「開店」する。テレビには、人間と同じような一日のリズムがあったのです。 私にも、はっきりと覚えている記憶があります。国旗の映像や「君が代」が流れたり、静かな音楽が流れたりしたあと、画面が急に白黒のザーッという砂嵐になる。あれを見たときは、「テレビも寝るんだ」と本気で思っていました。そして「今日はもう何もやっていないんだ」と、少し寂しい気持ちになったのです。 夜の家はとても静かで、時計の音だけが聞こえてきて、「もう本当に夜中なんだな」と子どもながらに感じたのを覚えています。 普段なら絶対に見られない時間まで起きていたという、ちょっと大人になったような特別な気分。そして、「もう寝なさい」というテレビからの合図のような放送終了。あれは今でも、私の昭和の思い出の一つです。 テレビは「いつでも見られるもの」ではなく、「放送している時間だけ見られるもの」でした。だからこそ、一つひとつの番組が貴重だったのかもしれません。 「ゆり2号」が運んだ未来 そもそも衛星放送とは何だったのか。少しだけ、その道のりを振り返ってみます。 「衛星」とテレビの関わりは、実は衛星「放送」より前、衛星「中継」から始まっています。昭和38年(1963年)11月、日本とアメリカを結ぶ初のテレビ衛星中継実験が成功しました。ところが、この歴史的な中継が最初に伝えたのは、なんとケネディ大統領暗殺という衝撃的なニュースだったのです。翌年の東京オリンピックでは、五輪史上初の衛星中継が実現。宇宙を経由して、海の向こうの出来事が「その日のうちに」茶の間へ届く時代が始まりました。 そして日本の衛星「放送」の歴史は、昭和53年(1978年)に打ち上げられた実験用放送衛星「ゆり」に始まります。昭和59年(1984年)には後継機「ゆり2号a」によって、NHK衛星第1テレビジョンの試験放送がスタート。これは世界初の直接受信方式の衛星放送でした。 もともとの大きな目的は「難視聴地域の解消」でした。山間部や離島など、地上の電波が届きにくい地域が、当時は全国で42万世帯もあったといわれます。しかし赤道上空3万6千キロの衛星からなら、日本全国あまねく電波を届けられる。実際、それまで難視聴地域だった小笠原諸島で本土と同じテレビが見られるようになったときには、祝賀行事まで行われたそうです。 「テレビが映る」。ただそれだけのことが、お祝いになる。今からは想像もつきませんが、それだけテレビが、暮らしの真ん中にあった時代だったのだと思います。 そして昭和62年7月4日、「ゆり2号b」を使ったBS1が、独自編成による24時間放送を開始しました。海外のニュースやスポーツ中継、高音質を活かした音楽番組など、地上波とはひと味違うラインナップ。深夜だろうが早朝だろうが、チャンネルを合わせれば必ず何かが映っている。「テレビは深夜に眠るもの」という常識が、この日、静かに書き換えられたのです。 視聴者の反響も大きく、問い合わせが殺到したといいます。地球の裏側のニュースが、リアルタイムで、しかも真夜中でも見られる。今の感覚では当たり前でも、当時としてはまさに「未来」そのものだったのでしょう。 18歳の夏、パラボラアンテナは遠い存在だった 昭和62年7月。私は高校3年生、18歳の夏でした。 思えば昭和62年という年は、時代が大きく動いた年でもありました。4月には国鉄が分割民営化されてJRが誕生。世の中はバブル景気へと向かい、街全体がどこか浮き足立っていた──そんな時代です。テレビの世界で「世界初の24時間放送」が始まったのも、日本中が「もっと便利に、もっと豊かに」と前のめりになっていた、あの時代の空気と無縁ではなかったのかもしれません。 そんな中、私はといえば、テレビどころではありませんでした。まさに夏の甲子園大会を目指して、高校野球部最後の夏を迎えていたのです。7月といえば、地方大会の真っ只中。頭の中はテレビの中の世界ではなく、目の前の白球のことでいっぱいでした。 では、「衛星放送が世界初の24時間放送を開始した」というニュースを、当時の私はどう受け止めていたのか。正直に言えば、認識はしていたものの、「そうなんだー」といった程度でした。最後の夏に打ち込む高校球児にとって、宇宙から降ってくる電波の話は、あまりにも遠い世界の出来事だったのです。 無理もありません。衛星放送は「見ようと思えば見られるもの」ではなく、「見られる家が限られているもの」だったからです。 というのも、衛星放送を見るには専用のパラボラアンテナとチューナーが必要で、決して安い買い物ではなかったからです。 そして我が家には、とうとうパラボラアンテナが付くことはありませんでした。そのため、屋根やベランダに大きなパラボラアンテナが取り付けられている友達や近所の家を見るたびに、「いいなあ、衛星放送が見られるんだ」と、少し羨ましい気持ちになったものです。 当時のパラボラアンテナは、どこか最先端の象徴のようにも見えました。あの白いお椀型のアンテナが空を向いている姿を見上げては、「あの家では特別な番組が映るんだろうな」と、子ども心に想像を膨らませていたのです。 その後、衛星放送は平成元年(1989年)に本放送へ移行し、平成3年(1991年)には民間初の有料放送WOWOWも開局。大リーグ中継や海外サッカーなど、「BSでしか見られないもの」が増えるにつれて、パラボラアンテナは徐々に、憧れの対象から当たり前の風景へと変わっていきました。あの日、昭和62年7月4日に始まった24時間放送は、その長い普及の道のりの、記念すべき一歩だったのです。 テレビが眠らなくなって、失ったもの あれから約40年。実は現在、我が家には地上波デジタル放送を視聴できるテレビがありません。その代わりに大画面の液晶モニターがあり、YouTubeやNetflixなどの動画配信サービスを楽しんでいます。 子どもたちにとっての「テレビ」は、放送を待って見るものではなく、見たいものを見たい時に、いつでも気軽に楽しめる存在です。私が子どもの頃とは、本当に隔世の感があります。 当時は、見たい番組があれば放送時間までにブラウン管テレビの前に座っていなければ、見ることができませんでした。「見逃したら終わり」が当たり前の時代だったのです。 だからこそ、毎週決まった時間を楽しみに待つワクワク感や、家族みんなで同じ番組を見て笑ったり驚いたりした時間は、とても貴重な思い出として心に残っています。 そして、ときどき思うのです。「放送終了」があった時代のテレビには、一日の「区切り」があったなあ、と。君が代が流れて砂嵐になれば、「ああ、もう寝なきゃ」と観念する。テレビが眠るから、人間も眠る。そんな、のんびりした夜の秩序が、確かにあったのです。 昭和62年7月4日にテレビが眠らなくなり、平成にはインターネットが眠らなくなり、令和の今、私たちのポケットの中では、世界中の映像が休みなく流れ続けています。あの日パラボラアンテナを羨ましく見上げていた少年は、まさか40年後、アンテナすらない家で、指先ひとつで世界中の映像を呼び出す暮らしをしているとは、想像もしていませんでした。 テレビが眠らなくなった日──それは、私たちの夜が少しずつ長くなっていく、その始まりの日だったのかもしれません。 みなさんは、深夜の「砂嵐」を覚えていますか? 夜更かしの果てに、君が代と放送終了に立ち会ってしまった夜はありましたか? テレビに「終わり」があった時代のことを、よかったらコメントで教えてください。 砂嵐、君が代、テスト画面、そして「あの番組はどうやって生まれたのか」──。テレビが暮らしの真ん中にあった昭和のテレビ史を、制作の裏話とともに掘り起こした一冊があります。あの頃ブラウン管の前に座っていた世代には、ページをめくるたびに「あった、あった」と声が出るはずです。 発掘テレビ秘話 昭和編加藤義彦/彩流社。昭和のテレビ番組の舞台裏を掘り起こす、同世代にはたまらない一冊 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月3日】元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏 | 次の記事:【7月5日】センターコートに立った日本人、沢松和子のウィンブルドン制覇 ▶

July 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月3日──元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏

オロナミンCの日、その語呂合わせ 7月3日は「オロナミンCの日」なのだそうです。「オロナ(7)ミ(3)ンC」という、なんとも昭和らしい語呂合わせから、製造元の大塚製薬株式会社が制定した記念日とのこと。累計販売本数が300億本を突破したことを記念して定められたと聞けば、あの独特な甘さと炭酸の刺激が、いかに多くの日本人の記憶に染みついているかがわかります。 私が子供の頃には、すでに「あって当たり前」の飲み物でした。しかし調べてみると、オロナミンCの誕生は1965年(昭和40年)2月。私が生まれる4年前のことです。ちょうど高度経済成長のまっただ中、東京オリンピックの興奮も冷めやらぬ頃に、大正製薬の「リポビタンD」に対抗する形で世に送り出された商品だったそうです。 首都高速道路や東海道新幹線が開通し、日本中が「もっと速く、もっと元気に」と前のめりになっていた時代。そんな空気の中で「元気ハツラツ」を掲げる栄養ドリンクが生まれたのは、ある意味で必然だったのかもしれません。私が物心つく頃には、そうした高度成長の熱気はすでに一段落していましたが、オロナミンCという商品だけは、変わらぬ姿で駄菓子屋の片隅に鎮座していました。 「オロナ」+「ミンC」、名前の由来 オロナミンCという名前、実は大塚製薬の看板商品だった皮膚薬「オロナイン軟膏」の「オロナ」と、「ビタミンC」の「ミンC」を組み合わせたものだと知って、思わず膝を打ちました。子供の頃はそんなことを考えたこともなく、ただ「元気の出る飲み物」として棚に並んでいたわけですが、企業としては薬品のブランド力をうまく橋渡ししていたのですね。 発売当初、炭酸を含んでいることを理由に医薬品としては認められなかったそうです。当時の感覚では少々残念な判断にも思えますが、これが結果的に薬局以外の場所――駄菓子屋や商店、自動販売機――でも自由に売られる清涼飲料水としての普及を後押ししたというのですから、世の中は分からないものです。ライバルであった大正製薬の「リポビタンD」が医薬品として薬局を中心に売られていたのとは対照的に、オロナミンCは子供の生活圏である駄菓子屋にまで入り込んでくることができた。この違いが、私たち昭和の子供世代の記憶に、オロナミンCがより身近な存在として刻まれた理由のひとつかもしれません。 大村崑さんと、ホーロー看板の記憶 オロナミンCといえば、まず思い浮かぶのが大村崑さんの顔です。「うれしいとねぇ、めがねが落ちるんですよ!」という白黒テレビCMから始まり、やがて「元気ハツラツ!」の掛け声とともに、昭和40年代の茶の間にすっかり定着していきました。大村さんは発売当初からおよそ10年もの間CMに出演し続け、1970年の大阪万博の際には、気球に乗って「オロナミンCを飲んで万国博へ行こう!」と呼びかけるCMまで作られたというから驚きです。それだけ長く同じ顔が茶の間に映り続けたということは、それだけ多くの子供たちの記憶に、あの笑顔が刻み込まれたということでもあるのでしょう。 そういえば、家族それぞれが自分好みにオロナミンCをアレンジして飲む、という趣向のCMもあったように記憶しています。ミルクを入れて「オロナミンセーキ」にしたり、大人はウイスキーやジンを垂らしたり。中には、ほぐした卵黄を溶き入れて飲むという飲み方まであったような気がします。私自身は試したことがないのですが、本当だとしたら、今の感覚ではちょっと驚きの組み合わせです。当時の栄養ドリンクには、こうして「混ぜて自分流にする」という遊び心の文化があったのかもしれません。 そして忘れてはならないのが、街角のあちこちに掲げられていたホーロー看板です。大村崑さんの笑顔と一緒に、当時大塚製薬がスポンサーだった『黄金バット』『巨人の星』『天才バカボン』、あるいは『アタックNo.1』といった人気番組のキャラクターが隅に描かれた看板が、全国津々浦々の商店の壁に貼られていたそうです。 私の記憶でも、看板は本当にあちこちにありました。駄菓子屋やたばこ屋の軒先はもちろん、当時はまだ木製の電柱もあちこちに残っていて、そこにも貼られていたのを覚えています。学校への行き帰り、あるいは近所を自転車で走り回っているときに、ふと視界の端に大村崑さんの笑顔が飛び込んでくる。特に意識して見ていたわけではないのに、気がつけばあの独特な看板のデザインは、しっかりと記憶に焼き付いていました。 看板の中には『巨人の星』の星飛雄馬が隅に描かれたバージョンもあったそうで、後から知って「あの頃見ていたのは、もしかしたらそれだったのかもしれない」と、記憶を重ね合わせています。ただ、小学校低学年の頃はテレビCMや看板で目にするばかりで、実際に飲むことはありませんでした。オロナミンCはどこか「大人の飲み物」のような感じがしましたし、瓶もコーラよりひと回り小さかったので、駄菓子屋で選ぶ時にはつい大きいほうのコーラに手が伸びてしまう。子供心にも、量で選んでいたのかもしれません。今思えば、あの小さな瓶には大人の世界への憧れのようなものが詰まっていたのかもしれませんが、当時の私にはただ「ちょっと背伸びした飲み物」に見えていただけでした。 「小さな巨人」と、我が家の応援歌 私にとって特に感慨深いのは、1976年(昭和51年)からおよそ四半世紀にわたって、オロナミンCが読売ジャイアンツとタイアップしていたという事実です。CMの最後には「オロナミンCは小さな巨人です!」というフレーズが使われ、昭和58年頃までは大村崑さんが、それ以降は中畑清選手をはじめとする巨人軍の選手たちがこの台詞を口にしていたといいます。「Cパワーが、Gパワーになる」というキャッチコピーも使われていたそうで、ビタミンCの力が読売ジャイアンツ(G)の力になる、というダジャレのような発想も、なんとも昭和らしい大らかさを感じます。 私が物心つく頃には、すでにジャイアンツファンとしてラジオにかじりついていた身です(先日この欄でも書きましたが、夜のナイター中継を追いかける少年でした)。テレビでもラジオでも、巨人戦の合間に流れてくるオロナミンCのCMは、応援と一体になった風景の一部でした。看板やCMで繰り返し目にしていたあの飲み物が、まさか自分にとって「特別な一本」になるとは、当時は思ってもみませんでした。 小学5年生の夏、初めての一本 初めてオロナミンCを飲んだのは、小学5年生の夏休みのことでした。パートに出ていた母が、職場で6本入りパックをいただいてきたのです。長らく看板とCMの中だけの存在だったオロナミンCが、ついに我が家の食卓に並んだ瞬間、何とも言えぬ喜びがこみ上げてきました。それまで幾度となく看板やテレビの向こうに見ていた、あの小さな瓶が、今まさに自分の手の中にある――そう思うと、栓を抜く前から胸が高鳴っていたのを覚えています。「これがジャイアンツの選手たちが飲んでたやつかー」――そう思いながら王冠の栓を抜いて口に運んだ、あの瞬間は今でも鮮明に覚えています。 味は想像していたよりもずっと不思議なものでした。すっぱくて、シュワシュワしていて、どこか薬っぽい感じもする。そして何より驚いたのは、飲んだ後のオシッコが真っ黄色になっていたことです(笑)。ビタミンB2の色だと知ったのはずっと後のことで、当時は「これはとんでもない飲み物なんだ」と、変な意味で衝撃を受けたのを覚えています。 後になって知ったのですが、これは私だけの体験ではなく、当時オロナミンCやリポビタンDといったビタミン飲料を飲んだ子供たちの多くが同じように驚いていたのだそうです。今なら「ああ、ビタミンB2ね」と笑って済ませられますが、あの頃は誰も教えてくれない、ちょっとした発見でした。テレビの向こうの大村崑さんも巨人軍の選手たちも、まさか子供たちがこんなところで盛り上がっているとは思ってもいなかったでしょう。 今も変わらぬ「元気ハツラツ」 あれから半世紀近くが経ち、オロナミンCは今も店頭に並び続けています。CMキャラクターは時代とともに移り変わり、令和の今では仮面ライダーとタイアップするなど、姿を変えながらも生き続けている。あの木製の電柱も、駄菓子屋の軒先も、今の街並みからはほとんど姿を消してしまいましたが、瓶のデザインや「元気ハツラツ」という言葉だけは、驚くほど当時のまま残っています。 私も令和の今、たまにオロナミンCを手に取ることがありますが、そのたびに、あの小学5年生の夏休みの記憶がよみがえってきます。母が職場からもらってきた6本入りパック、初めて栓を抜いた時の高鳴り、そして誰にも教わらなかった「発見」の驚き。変わらないのは、あの甘酸っぱい味と炭酸の刺激、そして子供の頃の胸の高鳴りなのかもしれません。 皆さんは、オロナミンCにまつわる思い出はありますか。あの看板を、あのCMを、あの味を、今も覚えていらっしゃいますか。 暑さが本番を迎えるこの季節。あの「元気ハツラツ」を、久しぶりに一本いかがでしょう。半世紀変わらないあの味は、飲んだ瞬間、あなたを子どもの頃のあの夏へ連れ戻してくれるはずです。箱で冷やしておけば、夏バテ気味の毎日の、ささやかな相棒になります。 大塚製薬 オロナミンC ドリンク 120ml×50本1965年から変わらない「元気ハツラツ」。冷蔵庫にストックしておきたい、夏の定番の一本 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月2日】手作りの翼が、琵琶湖に落ちていった夏 | 次の記事:【7月4日】テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送 ▶

July 3, 2026