【昭和の今日は何があった日?】6月28日──世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった

今日は6月28日。梅雨の晴れ間に、夏の重たい空気が少しずつ混じりはじめる頃です。 カレンダーの上では何でもない一日に見えますが、この6月28日という日付は、戦後の日本が「世界の中の自分」をどう見つめてきたかを、不思議なほど映し出しています。 1979年(昭和54年)のこの日、東京で初めての先進国首脳会議――「東京サミット」が開かれました。そしてそのちょうど十年前、1969年(昭和44年)の同じ6月28日。私が生まれた年の新宿で、夜ごと若者たちが歌い、ついに機動隊と衝突した日でもありました。 赤坂に世界の宰相が集った日。新宿に名もなき若者が集った日。同じ日付の十年違いに、昭和という時代の二つの顔が見えてきます。 赤坂に集った、七人の宰相 1979年6月28日から二日間、東京・赤坂の迎賓館に、世界の主要国の首脳が集まりました。第五回先進国首脳会議、通称「東京サミット」。サミットが日本で開かれるのは、これが初めてでした。 そもそもサミットとは、先進国の首脳が一堂に会し、世界経済や国際政治の難題を膝詰めで話し合う場です。第一回は1975年、フランスのランブイエに集まったのが始まりでした。敗戦からわずか三十数年、その「先進国クラブ」の主催国に日本がなったということは、この国が名実ともに世界経済の一角を担う大国へと駆け上がった証でもありました。焼け野原から立ち上がった国が、世界の宰相をもてなす側に回る――東京サミットは、戦後日本の一つの到達点だったのです。 議長を務めたのは、日本の大平正芳首相。「アーウー宰相」とも呼ばれた、あの独特の語り口の人です。そのテーブルには、アメリカのカーター大統領、フランスのジスカール・デスタン大統領、西ドイツのシュミット首相、イタリアのアンドレオッティ首相、カナダのクラーク首相、そしてイギリスのサッチャー首相が顔をそろえました。 議題の中心は、石油でした。前年に起きたイラン革命の余波で原油の供給が激減し、世界は「第二次石油危機」のただ中にあったのです。各国は日本に石油輸入の数値目標を示すよう迫り、大平首相は「数値を出せば内閣がつぶれる」との危機感から抵抗を重ねたと、後の外交文書には残っています。最後には押し切られる形で、日本は目標値を受け入れました。 二度目の石油危機は、六年前の第一次石油危機ほどの大混乱こそ招きませんでしたが、それでも「省エネルギー」という言葉が日常に浸透し、節電や節約が盛んに呼びかけられた時代でした。 会議の前には、物騒な事件もありました。開催前の6月8日未明、迎賓館の正門めがけて無人の小型トラックが突っ込み、街路樹に衝突して炎上したのです。過激派による犯行声明が出され、東京は厳戒態勢に包まれました。 そんな大ニュースの渦中、小学四年生の私は何を見ていたのか――。 正直に申し上げます。このサミットのことを、私は今もってまるで覚えていないのです。少し前に流行った国会答弁の言葉を借りるなら、「記憶にございません」。世界の宰相が赤坂に集まろうと、大平首相が石油に頭を悩ませていようと、十歳の私の関心は、まったく別のところにありました。 「記憶にございません」──十歳の私の1979年 では、小学四年生だった私の1979年は、いったい何でできていたのか。サミットの記憶は空っぽなのに、こちらは驚くほど鮮明によみがえってきます。 まず、この年に『ドラえもん』のテレビアニメが始まりました。「どこでもドア」さえあれば、行きたい場所へひとっ跳び。「もしもボックス」があれば、どんな世界だって作り出せる。あの未来の道具たちに、私はどれほど憧れたことでしょう。 木曜の夜は、家族そろって『ザ・ベストテン』の前に陣取るのが我が家の決まりでした。1979年は本当に名曲ぞろいで、「魅せられて」「関白宣言」「ガンダーラ」「銀河鉄道999」「YOUNG MAN」「夢追い酒」……毎週のランキング発表に、家族で一喜一憂したものです。土曜の夜には『8時だョ!全員集合』、ほかにも『クイズダービー』や『欽ちゃんのどこまでやるの!』。茶の間は、いつも笑い声で満ちていました。 マンガといえば、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『ドカベン』『がきデカ』、そしてこの年に連載が始まった『キン肉マン』。少し前から続くインベーダーゲームの熱もまだ冷めず、ポケットにはスーパーカー消しゴム、店先にはガチャガチャ、友達はラジコンやBB弾の鉄砲に夢中でした。 サミットも石油危機も、まるで別世界の話。十歳の私の世界は、テレビとマンガと駄菓子屋とで、ぴかぴかに輝いていたのです。 サッチャーから高市へ──四十七年越しの縦糸 ふたたび、赤坂のテーブルに目を戻します。あの東京サミットのテーブルにいたサッチャー首相は、実はこのとき、首相になってまだ二か月足らずでした。1979年5月に就任したばかりの、イギリス史上初の女性首相。その初めての大きな国際舞台が、この東京だったのです。女性が一国の宰相を務めること自体がまだ世界的にも珍しかった時代、男性ばかりが居並ぶ首脳の中で、サッチャーの姿はひときわ目を引いたことでしょう。 それから四十七年。2026年6月、フランス東部の保養地エビアンで開かれたG7サミットに、日本の高市早苗首相が出席しました。2025年10月に就任した、日本で初めての女性総理大臣。彼女にとっても、これが初めてのG7でした。 不思議な縁を感じたのは、高市首相がサミットに先立って訪れた英国で、サッチャー元首相がかつて使っていた執務室を訪ねていたことです。報道によれば、高市首相はその仕事ぶりに思いを馳せ、自らも強い意志をもって必要な変革を成し遂げる、と語ったといいます。 1979年の東京で世界デビューを飾った女性宰相サッチャー。2026年のエビアンで、その背中に思いを重ねた日本初の女性宰相。同じ六月のサミットという舞台で、四十七年の時を越えて二人の女性指導者が結ばれている――そう思うと、少し胸が熱くなります。 そして、もう一つ繰り返されていたものがあります。石油です。1979年がイラン革命による石油危機なら、2026年はホルムズ海峡をめぐる中東情勢の緊迫。エネルギーの安定供給が、またもサミットの主要議題になりました。資源を持たないこの国は、半世紀近くたっても、同じ不安の前に立たされ続けているのです。 十年前の同じ日──昭和44年、私が生まれた年の新宿 ここで時計を、東京サミットのちょうど十年前に戻します。 1969年(昭和44年)。私が四月に、この世に生まれた年です。 当時の日本は、高度経済成長のただ中にありながら、足元では学生運動が燃え盛っていました。この年の1月には、東大の安田講堂に立てこもった学生たちが機動隊によって排除され(東大安田講堂事件)、全国の大学が紛争に揺れ、翌1970年の日米安保条約改定を見すえて、街には不穏な熱気が満ちていました。 その熱気が歌になって噴き出した場所が、新宿駅の西口でした。 1969年の春ごろから、毎週土曜の夕方になると、西口の地下広場に若者たちが集まり、ギターを手に反戦歌を歌うようになります。「ベトナムに平和を!」を掲げるベ平連の青年たちが中心でした。岡林信康の「友よ」、高田渡の「自衛隊に入ろう」をもじった「機動隊に入ろう」――歌は人を呼び、議論を呼び、最大で約七千人が地下広場を埋めたといいます。人々はそこを「反戦広場」と呼びました。 彼らが訴えたのは、ベトナム戦争への反対でした。アメリカの戦争に、日本も加担しているのではないか――そんな問いが、若者たちの口から歌になって響いたのです。決まった指導者がいるわけでも、整然とした組織があるわけでもありません。仕事帰りの勤め人や通りすがりの学生までが足を止め、見知らぬ者同士が肩を並べて声を合わせる。地下広場は、誰もが主役になれる不思議な熱気に包まれていました。 しかし、膨れあがった集会を当局は見過ごしませんでした。そして6月28日の夜、ついに機動隊と若者が衝突します。地下に催涙弾が撃ち込まれ、六十名以上が逮捕され、通りがかりの女性まで巻き添えで負傷する騒ぎとなりました。 翌日、警察は地下広場に道路交通法を適用し、案内表示はひと晩のうちに「西口広場」から「西口通路」へと書き換えられました。「広場」であれば人は立ち止まり、歌い、語り合える。けれど「通路」では、立ち止まることすら許されない。名前を変えるだけで、空間の意味が一変したのです。歌声は、七月を最後に姿を消しました。 このとき、私は生後二か月あまりの赤ん坊でした。当然、何ひとつ覚えてなどいません。けれど、私が産声をあげたその年、私の生まれた東京の街で、これほどの熱と衝突があったのだと思うと、妙に感慨深いものがあります。 思えば昭和44年という年は、高度経済成長の繁栄と、それに異を唱える若者たちの叫びとが、激しくぶつかり合った年でした。豊かさへ向かって突き進む大人たちと、その足元で「本当にこのままでいいのか」と問いを突きつける若者たち。私は、そんな時代の只中に生まれ落ちたことになります。 おわりに 世界を変えようと新宿の路上で歌った若者たちの熱は、わずか十年のうちに鎮められ、「広場」は「通路」へと姿を変えました。その同じ十年で、日本は世界の首脳を迎える経済大国へと駆け上がります。私はちょうどその十年を、赤ん坊から十歳の少年へと育ちながら生きていたわけですが、当の本人ときたら、『ドラえもん』と『ザ・ベストテン』に夢中の毎日でした。 東京サミットの議長を務めた大平正芳首相は、その約一年後、1980年(昭和55年)6月12日、首相在任のまま急逝します。日本で初めてのサミットをやり遂げた人が、一年も経たぬうちにこの世を去ったのです。 1969年、私が生まれた年の新宿では、若者が「世界を変えたい」と歌い、1979年、十歳の私の頭の中は「どこでもドア」でいっぱいで、その傍らで世界の宰相たちが石油に頭を悩ませていました。そして2026年、日本初の女性首相が、フランスでまた同じ石油の心配をしている。 6月28日という一日を手がかりにたどってみると、世界の中の日本の姿が、半世紀分つながって見えてきます。あなたが生まれた年、あなたの街では、どんなことが起きていたでしょうか。少し調べてみると、思いがけない時代の顔に出会えるかもしれません。 あの夏、新宿の地下広場で本当は何が起きていたのか。当時その場に立っていた一人の女性が、半世紀の時を経て、写真と言葉で「広場」の記憶をたどった一冊があります。歴史の教科書には数行で終わってしまう出来事の、その熱と息づかいにふれてみたい方に。 1969 新宿西口地下広場大木晴子・鈴木一誌/新宿書房。あの「反戦広場」に立っていた当事者が綴る、写真と記憶の記録 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 28, 2026

「もう一本の柱」iDeCo ― 節税と引き換えに、60歳まで縛るという選択

お金と僕の12年戦争・第11話 ――「節税」と引き換えに、お金を60歳まで縛るという選択 前回まで、私はNISA、そして子どもたちのジュニアNISAという「非課税の器」に資産を積み上げてきた話をしてきた。今回はその隣に、私たち夫婦がもう一本立てた柱――iDeCo(個人型確定拠出年金)の話をしたい。拠出を始めたのは 2021年8月。同じ月に、夫婦そろってのスタートだった。あれから何度かの制度改正をくぐり抜けて、今に至っている。 正直に言えば、iDeCoは「いいことずくめの制度」ではない。節税という強烈な入口の裏に、60歳まで引き出せないという縛りがある。だからこそ今回は、メリットを5つ、デメリットを5つ、できるだけフラットに並べたうえで、私が一番悩んでいる「出口」の話まで踏み込んでみる。 そもそも、いまのiDeCoはどんな制度か(2026年時点) iDeCoは、自分で掛金を出し、自分で運用し、原則60歳以降に受け取る私的年金だ。国が用意した公的年金(国民年金・厚生年金)の上に、自分で積み増す3階部分、と言うとイメージしやすい。 3階:iDeCo・企業年金など(私的年金) ← iDeCoはここ 2階:厚生年金(会社員・公務員=第2号) 1階:国民年金(基礎年金)(20歳以上のほぼ全員) 1階・2階は国が用意する公的年金、3階は自分で積み増す私的年金。厚生年金(2階)を持たない自営業(第1号)ほどiDeCoの枠が大きいのは、「足りない階を自分で補う」という制度の発想からだ。掛金の上限は、自分がどの被保険者にあたるかで決まっている。 区分 月額の上限 第1号(自営業など) 68,000円(国民年金基金・付加保険料と合算) 第2号・企業年金なし(会社員) 23,000円 第2号・企業型DCに加入 20,000円 第2号・DB等に加入/公務員 20,000円 第3号(専業主婦・主夫) 23,000円 加入できる年齢 原則 65歳未満(国民年金の被保険者であること) 受け取りを始める時期 60〜75歳 の間で自分で選ぶ そして大事な「これから」。2026年12月(2027年1月の拠出分)から大きな改正が控えている。第1号は月75,000円、第2号は企業年金と合算で月62,000円まで引き上げられ、iDeCo単体の上限という考え方は他制度との合算上限に一本化される。加入できる年齢も70歳未満まで広がる。私たちが積立を始めてからの数年で、受給開始年齢の拡大(2022年)など制度はじわじわ使いやすくなってきた。その流れの、今のところの到達点がこれだ。 「とりあえず始めて、改正のたびに少しずつ得をしてきた」――結果論だが、早く動いた者だけが受け取れたボーナスだったと思う。 iDeCoのメリット 5つ 掛金が全額、所得控除になる これが最大の入口。払った掛金はまるごと「小規模企業共済等掛金控除」の対象になり、その年の所得税と翌年の住民税が軽くなる。運用の上手・下手に関係なく、拠出した時点で確定するリターンだ。 運用で増えた分に税金がかからない 通常の投資なら利益に約20.315%課税されるところ、iDeCoの中では非課税。増えた分がそのまま再投資にまわり、複利がより効く。 受け取るときにも控除がある 一時金で受け取れば「退職所得控除」、年金で受け取れば「公的年金等控除」の対象。入口・運用中・出口の3か所で税優遇が用意されている。 いやでも貯まる仕組み 原則60歳まで引き出せない。一見デメリットだが、裏を返せば老後資金を“手をつけられない場所”に確保できるということ。意志の弱さを制度で補える。 低コストで長く積み立てられる 運営管理手数料が無料の金融機関を選び、低コストのインデックスファンドを積み立てれば、NISAと並ぶ非課税運用のもう一本の柱になる。 iDeCoのデメリット 5つ 原則60歳まで引き出せない 最大の弱点。教育費や住宅費など、人生の途中で必ず訪れる大きな出費とは“取り合い”になる。生活防衛資金やNISAとの配分を間違えると、家計が苦しくなる。 手数料がかかる 加入時に2,829円、さらに毎月最低でも171円(国民年金基金連合会105円+信託銀行66円)。運営管理機関の手数料は無料のところもあるが、ゼロにはできない固定費だ。 元本割れの可能性がある 自己責任で運用する制度なので、選んだ商品次第では資産が掛金を下回ることもある。NISAと同じく、ここは引き受けるべきリスク。 所得が少ないと節税の旨みが薄い 最大のメリットである所得控除は、そもそも納める税金があってこそ効く。専業主婦・主夫など所得がない人は、入口の節税効果がほとんど得られない。 出口(受け取り方)の設計が複雑 退職所得控除や公的年金等控除の組み合わせ、勤務先の退職金との関係――ここを詰めずに60歳を迎えると、せっかくの非課税が出口で目減りしかねない。次の章で掘り下げる。 出口での注意点 ―― 「もらい方」で手取りが変わる iDeCoは「貯める・増やす」ところまでは情報が多いのに、「どう受け取るか」になると急に静かになる。だが手取りを左右するのは、むしろ出口だ。受け取り方は大きく3つある。 ...

June 27, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月27日──「○○さんちの工事、止まったんだってよ」──昭和の町と「日照権」

今日は6月27日。梅雨の晴れ間に、久しぶりのお日さまが差すと、なんだかほっとする季節です。 「日当たりのいい家」「南向きの部屋」。私たちは、あたりまえのようにそう口にします。ところが、その「日当たり」が、法律で守られるべき大切なものなのだと裁判所がはじめてはっきり認めたのは、じつは、それほど昔のことではありません。 昭和47年(1972年)6月27日。最高裁判所が、「日照(にっしょう)」と「通風(つうふう)」は法律で守られるに値する生活の利益だ、という判断をくだしました。これが、6月27日が「日照権の日」と呼ばれるようになったきっかけです。 法律の話、と聞くと身がまえてしまいますが、その底にあるのは、子どもの頃に空き地で遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、ごく素朴な気持ちでした。きょうは、その「陽だまり」をめぐる昭和の話を、私の育った町の風景とともに、少し書いてみたいと思います。 「日なた」が、裁判になった ことのおこりは、東京・世田谷の、ある住宅街でした。 南隣の家が、二階部分を増築しました。ところが、その増築のせいで、北側にあったお宅には、日中の陽がほとんど差さなくなってしまったのです。風の通りも悪くなりました。しかも、その増築は建築基準法に違反したもので、東京都知事から「工事をやめなさい」「違反した部分を取りこわしなさい」という命令まで出ていたのに、それを無視して建ててしまったものでした。 陽の当たらなくなった家の人は、とうとう引っ越しを余儀なくされます。そうして、争いは裁判になりました。 最高裁判所は、こう述べました。日照や通風は、快適で健康な生活に欠かせない「生活上の利益」である、と。お日さまの光や、家を抜けていく風は、ただの気分の問題ではなく、人が健やかに暮らすために守られるべきものなのだ、とはっきり言いきったのです。 もちろん、「少しでも陰ったら、すぐにいけない」という話ではありません。世の中、おたがいさまで、ある程度は我慢しあって暮らしている。けれど、その「我慢の限度」を超えてしまったときには、相手に責任を問える――。そういう考え方が、このときに定まりました。 判決がくだったのは、昭和47年。私はまだ三歳で、もちろん、この裁判のことなど知るよしもありません。 それにしても、と思うのです。お日さまが当たるかどうかなど、それまでは、わざわざ裁判で争うようなことではなかったはずです。陽は、空から、ただで、みんなに降りそそぐもの。誰のものでもないからこそ、誰のものでもあった。その当たり前が、当たり前でいられなくなってきた。だからこそ、こんな裁判が必要になったのでしょう。なぜこの時代に、こんな争いがわざわざ起きたのか。それを考えると、あの頃の町の景色が、すうっとよみがえってくるのです。 空き地が、どんどん消えていった 私が生まれ育ったのは、葛飾区の高砂です。京成電車の線路際で、来る日も来る日も電車を眺めて育ちました。 昭和40年代から50年代にかけての日本は、とにかく「建てる」時代でした。高度経済成長のまっただなか。人が都市にどっと集まり、住む家が足りず、土地が足りず、建物は空に向かってぐんぐん伸びていきます。木造の平屋がならんでいた町に、鉄筋の団地やマンションが、にょきにょきと姿をあらわしていきました。 子どもにとって、それは「権利」だの「法律」だのという、難しい話ではありませんでした。もっと単純で、もっと切実な変化でした。 きのうまで草野球をしていた空き地に、ある日、ぐるりと囲いができる。気がつけば基礎が打たれ、足場が組まれ、シートがかけられ、見上げるほどの建物が建っていく。遊び場がひとつ、またひとつと消えていく。そして、当たり前のように広がっていた空が、少しずつ、少しずつ狭くなっていく――。 昭和50年代、私が小学生だった頃は、近所にもまだ、空き地が点々と残っていました。なかには、硬いボールを使って野球ができるほど広い場所も、何ヶ所かはあったのです。私たちにとっては、またとないグラウンドでした。 それが、一つ、また一つと消えていきました。ある場所は建売住宅に、ある場所はマンションに。気がつけば、きのうまでボールを追いかけていたその土地に、知らない誰かの新しい暮らしが建っている。そんなふうにして、私たちの野球場は、静かに数を減らしていったのです。 そして、そんな時代でしたから、大人たちの会話のなかにも、ときどき、こんな話がまじるようになりました。 「○○さんのところ、二階の増築工事が止まっちゃったんだってよ」 「なんか、誰かにさされたみたいだよ」 「○○さんの建て替え、ストップさせられたらしい」 子どもだった私には、その意味の半分もわかっていませんでした。けれど、いまになって思うのです。これはまさに、あの世田谷の裁判で争われたのと、そっくり同じ出来事だったのだ、と。二階の増築。工事の差し止め。判決の舞台になったのと同じことが、私のすぐ近所でも、現実に起きていたのです。 当時の町の工務店だって、「日照権」のことも、守らなければいけない決まりも、本当はちゃんとわかっていたはずです。それでも、お客さんからの頼みだし、これくらいならバレやしないだろう――。そんな空気も、どこかにあったのかもしれません(笑)。 ただ、それを頭から責める気には、なれないのです。あの判決をきっかけに、ようやく法律の整備が進みはじめた、ちょうどその過渡期。新しいルールが、まだ世の中のすみずみまでは行きわたっていなかった。あの時代だからこそ生まれた、すきま風のようなトラブルだったのだろうと思います。 そういえば、ああいう「工事が止まった」「さされた」という話、いまではめっきり、耳にしなくなりました。 みんなの夢は、「土地付きの一戸建て」だった 正直に言うと、子どもだった私には、団地やマンションへの特別なあこがれは、ありませんでした。 むしろ、あの頃の大人たちが胸に抱いていた夢は、もっとはっきりとした、別のかたちをしていたように思います。自分の土地を持ち、そこに一戸建ての我が家を構える――いわゆる「マイホーム」です。私の親も、まさにそうでした。家を「持つ」というのは、土地ごと自分のものにすることであり、それが一国一城のあるじになる、ということだったのです。分譲マンションを買う、という選択肢は、まだあまり一般的ではありませんでした。 そう考えると、少しだけ、切ない気持ちにもなります。私が硬球を追いかけていた、あの空き地に建っていった建売住宅は、見方を変えれば、どこかの家族の「マイホームの夢」が、ひとつかなった姿でもあったのですから。私の遊び場が消えていくことと、よその誰かの夢がかなうことは、じつは同じひとつのできごとの、表と裏だったのです。 そうやって、限られた土地に、それぞれの「我が家」が、肩を寄せ合うようにして建っていきました。みんなが自分の城を求めれば、当然、隣の家との間で「日当たり」はぶつかります。日照権をめぐる争いというのは、思えば、誰もがマイホームを夢見た、その熱気の裏側で生まれてきたものだったのかもしれません。 「お日さま」を分けあう、ものさし 世田谷の判決のあと、日本のあちこちで、同じような「日照権」をめぐる争いが起きるようになりました。あとから建った高い建物のせいで、もとからあった家に陽が差さなくなる。そういうトラブルが、都市のいたるところで噴き出していたのです。 そこで、国も動きます。昭和51年(1976年)には建築基準法が改正され、「日影規制(にちえいきせい)」というものが設けられました。建物が、周りの家にどれだけの時間、影を落としてよいか。それを地域ごとに線引きする決まりです。いわば、限りあるお日さまを、ご近所みんなで分けあうための「ものさし」でした。 思えば、「日照権」という言葉が新聞やテレビをにぎわせたあの頃は、ひたすら前へ前へと進んできた日本が、ふと立ち止まって「このままでいいんだろうか」と考えはじめた時代でもありました。工場の煙、川の汚れ――「公害」という言葉が世の中に広まったのも、ちょうど同じ頃のことです。豊かになるのは、うれしい。背の高いビルも、新しい団地も、まぶしい。けれど、その豊かさが、誰かの陽だまりや、子どもの遊び場や、きれいな空気を、知らないうちに奪ってはいないか。そんな問い直しが、日本のあちこちで芽を出しはじめていた時代だったのだと思います。 いまの住宅街を歩いてみると、家と家のあいだに、それなりの空が残されています。冬の昼間でも、路地のどこかには、ちゃんと陽だまりができている。それは、あの時代に「陽の当たる暮らし」を守ろうとした人たちの、争いと、工夫と、知恵の積み重ねの上にあるのだ――。そう思うと、足もとに落ちている何でもない日なたが、少しだけ、ありがたく見えてくるのです。 令和の空を見上げて 時は流れ、令和になりました。 街を見渡せば、昭和の頃には考えられなかったような高さの、タワーマンションが立ちならんでいます。日照をめぐる話は、いまも消えてはいません。新しいビルが一棟建つたびに、その足もとの町では、同じような相談やもめごとが、いまも静かに続いているようです。 私はいま、路線バスの運転席から、毎日この町の空を眺めています。長年、同じ道を走っていても、年々、沿道のビルの背が高くなり、フロントガラスの先に見える空が、また少し狭くなったな、と感じることがあります。 それでも、信号待ちでふと窓の外に目をやると、住宅街の小さな庭先で、洗濯物が陽を浴びてゆれている。その何気ない光景を見るたびに、ああ、この陽だまりは、ちゃんと守られてきたものなんだな、と思うのです。 昭和47年6月27日。あの日、最高裁が「お日さまの光は、守るに値する」と認めたこと。難しい法律の判決に見えて、その底にあったのは、空き地で日が暮れるまで遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、あの感覚――「陽の当たる場所は、気持ちがいい」という、ただそれだけの、あたりまえの願いだったのかもしれません。 あなたの育った町にも、いつのまにか消えてしまった空き地や、知らないうちに狭くなっていった空は、ありませんでしたか。 同じ場所に立って、昭和の町と令和の町を重ねてみる――そんな一冊があります。写真家・善本喜一郎さんが、1984年に撮ったまさにその場所に、何十年もたって同じアングルで立ち、いまの東京を撮り直した写真集です。消えた空き地、高くなったビル、狭くなった空。ページをめくるたびに、この記事に書いたような「町の移り変わり」が、目の前にくっきりと立ちあらわれます。 東京タイムスリップ1984⇔2021善本喜一郎/河出書房新社。同じ場所・同じアングルで撮り比べた、昭和と令和の東京。シリーズ累計のヒット作 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ...

June 27, 2026

「廃止決定」の制度に、僕は子どもたちの未来を託した ― ジュニアNISA編

お金と僕の12年戦争・第10話 積立NISAをコツコツ続けながら、その頃の僕の「投資の先生」は、もっぱらYouTubeでした。通勤は相変わらず自転車。仕事でバスのハンドルを握る、その合間の休憩時間に、両学長のリベ大動画を眺めるのが、すっかり習慣になっていました。 そんなある日、一本のサムネイルが目に飛び込んできます。 【YouTube/リベ大】 【廃止決定】それなのに、ジュニアNISAをおすすめする理由 ――廃止が決まった制度を、わざわざおすすめする? 矛盾しているようなこのタイトルに、僕はつい再生ボタンを押していました。 「弱点」が消えた制度 動画によれば、かつてのジュニアNISAには、二つの大きな弱点がありました。 原則18歳まで引き出せない 途中で解約すると、非課税のメリットを失う 子どものお金とはいえ、18歳まで一切手をつけられないのは、正直しんどい。だからこの制度は、ずっと人気がありませんでした。 ところが、廃止が決まったことで、皮肉にもルールが改正されます。 いつでも払い出しOK 払い出しても、非課税メリットはそのまま維持 つまり、いちばんの弱点だった「引き出せない」が消えたのです。動画は「これで一気に使いやすくなった」と説明していました。 どんな制度だったのか 改めて整理すると、ジュニアNISAはこういう制度でした。 子ども1人につき、年間80万円まで投資できる 運用益・配当金は非課税 子ども名義の資産になる 長い時間をかけて運用できる たとえば0歳の子に毎年80万円を積み立てれば、18歳前後まで15年以上の運用期間が確保でき、複利の効果を最大限に活かせる――動画はそう語っていました。 そして、すすめられていた商品が、S&P500連動や全世界株式といった、低コストのインデックスファンド。これは、僕がいままさに自分でやっているインデックス投資の考え方と、ほとんど同じでした。気づけばリベ大の「おすすめ」に、自分の現在地のほうから追いついていた。そんな妙な手応えがありました。 ひとつだけ、注意点 ただし、見落とせない注意点もありました。子どもが18歳になると、資産は「継続管理勘定」へ移ります。ここでは―― 継続管理勘定でできなくなること 新規の買い付けはできない 商品の変更もできない つまり、最初に良い商品を選んで、あとはじっと長く持ち続けることが何より大事、というわけです。裏を返せば、最初の商品選びさえ間違えなければ、あとは時間が働いてくれる。インデックスファンドとは、相性が良さそうでした。 「利用しない理由が、見当たらない」 動画の結論は、シンプルでした。 小さな子どもがいて、10年以上運用できて、教育資金を準備したい。 そんな家庭なら、利用しない理由が見当たらないほど有利。 我が家は、まさにそのど真ん中。子どもは複数人、運用できる時間もたっぷりある。 ――そうと決まれば、動きが早いのが僕です。 楽天証券へ、まっすぐ 高配当株投資から撤退して、手元には450万円ほどの資金が残っていました。この行き場を探していたお金に、ようやく「正解」が見つかった気がしました。 上の長子はすでに成人して独立していたので、ジュニアNISAの対象は下の4人。すぐに楽天証券で、それぞれの子ども名義の証券口座とジュニアNISA口座を開設し、まずは4人分、年上限の80万円ずつ、迷わず eMAXIS Slim 米国株式(S&P500) を買い付けました。その後も2年目・3年目と、子どもごとに配分を調整しながら買い増し。最終的には、4人合わせて500万円をジュニアNISAに投じることになりました。 2番目 3番目 4番目 5番目 年合計 1年目 80 80 80 80 320 2年目 20 20 20 80 140 3年目 ― ― ― 40 40 累計 100 100 100 200 500 全額 eMAXIS Slim 米国株式(S&P500)/単位:万円。長子はすでに独立していたため、対象は2番目〜5番目の4人、元本は合計500万円。 ...

June 26, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月26日──「猪木なら勝ってくれる」と信じていた、七歳の夜

今日は六月二十六日。梅雨の晴れ間に、夏の気配がじわりと混じりはじめるころです。 昭和の家庭の夜といえば、茶の間のブラウン管テレビでした。チャンネル権は家族の誰かが握り、子どもはその後ろで寝転がって画面を見上げる。そんな数えきれない夜のなかに、日本中が、いや世界中が、固唾をのんで見つめた一戦がありました。 昭和五十一年(一九七六年)六月二十六日。東京・日本武道館で、「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた一戦が行われました。プロレスラー・アントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン・モハメド・アリ。畑のまったく違う格闘技の頂点に立つ二人が、同じリングの上で向かい合ったのです。 アリの「挑発」から始まった、世紀の一戦 ことの発端は、その前年にさかのぼります。 昭和五十年(一九七五年)、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と謳われた世界の英雄モハメド・アリが、こう言い放ちました。「東洋人で、俺と闘う勇気のある者はいないか」。世界中のメディアに向けられた、いかにもアリらしいビッグマウスでした。 多くの人がリップサービスと聞き流すなかで、その言葉を本気で受け止めた男がいました。アントニオ猪木です。猪木は自らアメリカへ飛び、粘り強く交渉を重ね、ついにこの「夢の対決」を現実のものにしてしまいます。当時、猪木は三十三歳、アリは三十四歳。アリは紛れもない世界のスーパースターで、いっぽうの猪木は、まだアメリカではほとんど無名のレスラーでした。 試合に先立つ六月十八日、東京で行われた記者会見も語り草になっています。アリは猪木に「松葉杖」をプレゼントするという挑発的なパフォーマンスを見せ、会場をどよめかせました。猪木も通訳を介して冷静に切り返し、二人は上半身裸になってファイティングポーズで威嚇し合いました。世界の注目は、否が応にも高まっていきます。 この一戦は、新日本プロレスが企画した「格闘技世界一決定戦」シリーズの第二戦にあたります。同じ年の二月、猪木は柔道のミュンヘン五輪金メダリスト、ウィレム・ルスカと闘い、プロレスの強さを世に示したばかりでした。その勢いのまま、相手は現役のボクシング世界王者。世界三十四カ国に同時中継され、視聴者数は推定十五億人とも言われる、文字どおり前代未聞のスポーツイベントとなったのです。 茶の間も、世界も──中継がつないだお祭り騒ぎ この一戦がすごかったのは、リングの中だけではありません。世界中の人々が、まったく同じ瞬間を見ようとしていたことです。 当時、衛星生中継は今ほど身近ではありませんでした。そこでこの試合は、各地の映画館に有料で中継を流す「クローズドサーキット」という方式で、世界へ届けられました。その数、全米だけで百七十か所。カナダやイギリスなど、海を越えた劇場のスクリーンにも、猪木とアリの姿が映し出されたのです。一人二十ドルの入場料を払ってでも、人々はこの一戦をその目で見届けようとしました。 もちろん、日本中も大騒ぎでした。試合の三日前、六月二十三日の夜には、テレビで前夜祭の生中継まで組まれ、当時の人気タレントたちが顔をそろえて、期待をあおりにあおりました。リングを直接見られない茶の間の子どもにも、「なにか、とんでもないことが起きるらしい」という空気だけは、ひしひしと伝わっていたはずです。大人も子どもも、世界中が、たった一つのリングに視線を集めていた――それが、あの六月二十六日でした。 蹴りも寝技も封じられて──十五ラウンドの真実 子どもだった私が「なんで立って戦わないんだろう」と首をかしげた、あの寝転がる闘魂。じつはあの戦法には、切実な理由がありました。 アリ陣営は、当初この試合をショー的なエキシビションだと考えていたふしがありました。しかし、猪木の本気の公開練習を目の当たりにして警戒を強め、試合直前になってルールが大きく書き換えられます。パンチもキックも、そして寝技も――プロレスの得意技の多くが、封じられてしまったのです。 がんじがらめのルールのなかで、猪木が選んだのは、リングに寝転がったまま、アリの脚を執拗に蹴り続けるという戦法でした。のちに「アリキック」「スライディングキック」と呼ばれるあの蹴りです。立つアリと、寝た猪木。片方が立ち、片方が寝たままにらみ合うこの異様な攻防は、後年、総合格闘技の世界で「猪木アリ状態」と呼ばれる定番の形になりました。 立てば強烈なパンチが待っている。かといって寝たままでは攻めきれない。アリは「立て」「臆病者」と挑発しますが、猪木は乗りません。観客もセコンドもいらだち、会場には重い空気が流れます。それでも回が進むにつれ、猪木のローキックは確実にアリの左脚へ突き刺さっていきました。 勝負は十五ラウンドをフルに闘い抜き、三者三様の判定の末、引き分け。派手なKOシーンを期待していたマスコミは、この地味な展開に困惑し、翌日には「世紀の凡戦」「世紀の茶番」という酷評の言葉が紙面に躍りました。 しかし――蹴られ続けたアリの左脚は、赤く腫れ上がっていました。試合後、アリは左脚の血栓症で入院することになります。あの「蝶のように舞う」軽快なフットワークを、彼はこの一戦を境に失っていったとも言われています。茶番どころか、それは紛れもない真剣勝負でした。 「猪木なら勝ってくれる」と信じていた、七歳の私 ここからは、当時小学一年生だった、私自身の記憶です。 あの頃、世の中には「人類最強は誰だ?」という空気が、たしかにありました。試合の一週間前くらいになると、テレビのワイドショーやニュースは、毎日のようにこの話題で持ちきりです。「世界チャンピオンのアリ来日!」「猪木は本当に勝てるのか?」――あくまで私の主観ですが、そんな見出しばかりが、頭に残っています。 学校でも同じでした。休み時間になると、「猪木が勝つ!」「いや、アリは世界チャンピオンだから無理だ」と、子どもたちの予想がぶつかり合います。今でいうなら、ワールドカップの日本代表戦と、大谷翔平のワールドシリーズと、オリンピックの決勝。あれが全部いっぺんに来たくらいの注目度だったと言っても、大げさではありません。 今のように録画も配信もない時代です。見逃したら、それで終わり。だから誰もが、リアルタイムでテレビにかじりつきました。私も、そのうちの一人です。 テレビで見るアリは、外国からやってきた本物のヒーローでした。「アリって、世界一強い人なんだ」。子ども心にそう思いながら、それでも私は信じていました。日本には、猪木がいる。「猪木なら、勝ってくれる!」と。友達とも、「猪木がバックドロップするんだ!」「コブラツイストでギブアップさせるんだ!」なんて、得意技の話で盛り上がっていた気がします。 試合の日は、夕方からもうソワソワしていました。「早く始まらないかな」。家族みんなで、テレビの前に集まります。 ところが、試合が始まると――「あれ?」。 猪木が、寝転がっているのです。立たない。ひたすら、蹴るばかり。子どもにルールなど分かりません。「なんで立って戦わないんだろう?」。正直、途中から少し退屈にもなりました。それでも、「最後にはきっと、猪木が必殺技を出すはずだ」と、最後まで信じて画面を見つめていたのです。 けれど、十五ラウンド終了。引き分け。 テレビが終わっても、胸に残ったのは「結局、どっちが強かったんだろう」という、もやもやした気持ちだけでした。 それでも――翌日の学校は、朝から晩までこの話題で持ちきりです。「昨日、見た?」「猪木のキック、すごかったな!」「でも、アリも本当に強かったよな!」。あのモヤモヤすら、友達と分かち合えば、立派なお祭りの続きでした。 「凡戦」と笑われた一戦が、「伝説」になるまで おもしろいのは、この試合の評価が、時とともにまったく逆転していったことです。 当時は嘲笑された一戦が、年月を経るにつれて「実はあれは本物の真剣勝負だったのだ」と再評価されていきました。派手な技の応酬を勝手に想像していたマスコミが、想像と違う展開に取り上げ方を見失った――そんな見方もされるようになります。一ラウンド開始直後に猪木がスライディングキックを放った瞬間、「ああ、こういう闘い方があったか!」と武道館の観客がどよめいた、という証言も残っています。 この一戦で、猪木の名は一気に世界へ知れ渡りました。直後にはパキスタンやドイツへ遠征し、新日本プロレスはヨーロッパ各国でテレビ放送されるまでになります。「アリと闘った男」という肩書きが、猪木を別のステージへと押し上げたのです。 その代償も小さくはありませんでした。猪木はこの興行で十億円近いとも言われる多額の借金を背負い、その返済のために、人気のあった異種格闘技路線を走り続けることになります。皮肉にも、その苦肉の選択が、のちの数々の名勝負を生んでいきました。 そして、闘い合った二人のあいだには、不思議な友情が芽生えていきます。アリは、自身の伝記映画で使われた曲「アリ・ボンバイエ」を猪木に贈りました。この曲こそ、のちに猪木の入場テーマ「イノキ・ボンバイエ(炎のファイター)」となる、あの旋律です。リングの上で本気でぶつかり合った者同士にしかわからない何かが、国境を越えて通い合ったのでしょう。 あの「凡戦」と笑われた十五ラウンドは、いまでは映像できちんと見ることができます。先入観なしに見返すと、子どものころには分からなかった、猪木の執念とアリの戦慄が、はっきりと伝わってきます。 格闘技世界一 モハメッド・アリ vs アントニオ猪木 [DVD]昭和51年6月26日、日本武道館。あの15ラウンドを、いま自分の目で確かめてみる Amazonで見る › おわりに──「世界格闘技の日」になった、あの夜 異なる競技の頂点同士が真剣に闘う。今でこそ、総合格闘技(MMA)という言葉とともに、私たちはそれを当たり前のように受け止めています。「猪木アリ状態」という専門用語が今も使われていることが、あの一戦がどれほど時代を先取りしていたかを物語っています。 平成二十八年(二〇一六年)、あの試合からちょうど四十年を機に、六月二十六日は「世界格闘技の日」と制定されました。そしてその制定が報じられた矢先、まるで運命のように、モハメド・アリはこの世を去りました。同年六月三日、享年七十四。さらに令和四年(二〇二二年)には、アントニオ猪木も七十九歳でその生涯を閉じています。リングの上で向かい合った二人は、もう二人ともいません。 ...

June 26, 2026

「短期トレード」の果てにたどり着いた答え ──インデックス投資という、長期戦のはじまり

お金と僕の12年戦争・第9話 前回、私はこう締めくくりました。20万円の利益は出た。それでも、あれは紛れもなく「失敗」だった――と。けれど不思議なもので、その失敗こそが、私の進むべき方向をくっきりと照らし出してくれたのです。 結局のところ、私がやっていたのは「高配当株投資」ではなく、ただの「短期トレード」でしかなかったわけですね(笑)。せめてもの幸いは、20万円ほどの利益が出たこと――だったでしょうか。いやでも、これはやっぱり「失敗」です。 ――前回のおわりに 失敗が指し示した、進むべき方向 毎日の値動きに一喜一憂し、気づけばスマホばかり眺めている。本業でハンドルを握っているあいだも、頭の片隅では株価がちらつく。――そんな投資は、もう続けられない。そう腹をくくったとき、次に向かうべき道は、むしろハッキリと見えていました。インデックス投資です。 ただ、前回の手痛い反省があります。だから今回こそは、「インデックス投資とはどういう投資なのか。その強みと弱みをきちんと理解したうえで、相場が荒れても長期で持ち続けられるだけの"握力"を手に入れたい」――そう考えました。 私はどうにも「思い立ったらすぐ動く」性分で、それが過去の失敗の引き金にもなってきました。でも今回ばかりは、その性分がいい方向に転がります。**とにかく小さく始めて、走りながら学ぶ。**そう決めたのです。 月1万円から、走りながら学ぶ まず手をつけたのは、リベ大の両学長が紹介していた投資信託のひとつ、eMAXIS Slim 米国株式(S&P500)。これをNISAで毎月1万円、さっさと設定してしまいました。 金額は小さい。でも、「もう始めてしまった」という事実が何より大事でした。あとは走りながら学ぶだけ。YouTubeでインデックス投資の動画を、それこそ浴びるように見続けました。 「握力」を鍛えた5冊 動画のなかで繰り返し名前の挙がる本を、まずは5冊買って読みました。 サイコロジー・オブ・マネー — お金にまつわる「人の心理」と向き合う一冊 敗者のゲーム — なぜ個人投資家はインデックスに行き着くのか JUST KEEP BUYING — とにかく買い続けることの力 ウォール街のランダム・ウォーカー — インデックス投資の"古典" となりの億万長者 — “普通の人"がどう資産を築くのか 正直、読みにくい本もありました。それでも、**わからないなりに最後まで読み切った。**この積み重ねが、あとからじわじわ効いてきます。 いきなり5冊はハードルが高い、という方へ。もし「まず1冊だけ」なら、私はこれをおすすめします。投資のテクニックではなく、お金と向き合う「心の持ちよう」を教えてくれる一冊で、いちばん読みやすく、いちばん効きました。 サイコロジー・オブ・マネー 一生お金に困らない「富」のマインドセットモーガン・ハウセル/ダイヤモンド社。まず1冊なら、これ。握力の土台になる名著 Amazonで見る › 気づけば、月1万円が月3万円に そんなふうに知識を積み上げているうちに、ある変化が起きていました。当初は月1万円だった掛金。それを3万円に増やしても、不安をまったく感じなくなっていたのです。 月1万円 → 月3万円。増額しても、心はむしろ静かになっていった。 高配当株のときとは、まるで逆でした。あのころは金額が小さくても値動きが気になって仕方なかったのに、今は金額を増やしても、何も感じない。**理解が、握力を生む。**そのことを、身をもって実感した瞬間でした。 高配当株(前回) インデックス投資(今回) 実態 事実上の短期トレード 長期の積み立て 毎日の値動き 気になって仕方ない ほとんど見なくなった 本業への影響 集中力を削られた 意識から消えた 増額したとき 不安が増す むしろ落ち着く この回の学び ...

June 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月25日──「何だ、この騒がしいバンドは!?」

今日は六月二十五日。梅雨空がつづき、夏のにおいが少しずつ近づいてくる頃です。 昭和の子どもにとって、木曜日の夜には特別な意味がありました。夜九時、テレビの前に座る。『ザ・ベストテン』が始まる。その週のヒット曲が一位から十位まで、順番に流れていく。司会は久米宏さんと黒柳徹子さん。ランキングに入った歌手は、たとえ地方にいようと、駅のホームにいようと、その場から中継でつないで歌わされる——そんな大胆な番組でした。ときに視聴率は四割を超え、日本中の家族が、同じ時間に同じ歌を聴いていた時代です。歌のうまい歌手、きれいな歌手、かっこいい歌手。お茶の間は、その時間だけ小さな音楽ホールになりました。 昭和五十三年(一九七八年)の六月二十五日。一枚のシングルレコードが世に出ました。 サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」。 のちに「国民的バンド」と呼ばれることになる彼らの、これがデビューでした。でも、当時小学三年生だった私にとって、サザンとの出会いは「感動」でも「あこがれ」でもありませんでした。最初の感想は、こうです。 「何だ、この騒がしいバンドは!?」 木曜九時、「今週のスポットライト」の衝撃 『ザ・ベストテン』には、「今週のスポットライト」という名物コーナーがありました。まだベストテン入りはしていないけれど、もうすぐランクインしそうな注目の曲を、新人歌手などに歌わせる枠です。これから世に出ようとする歌手にとって、晴れの舞台でした。 その夏、画面が突然、どこかのライブハウスからの中継に切り替わりました。映し出されたのは、大勢の若者がひしめく熱気の中で、今まさに演奏している新人バンド。それがサザンオールスターズでした。いつもは華やかなスタジオから流れてくるはずの音楽番組に、汗と熱気でむんむんした地下のライブハウスが、そのまま映し出される。その時点で、もう何かがふつうではありませんでした。 正直に言います。歌詞が、まったく入ってこないのです。早口で、英語みたいで、何を歌っているのかさっぱりわからない。「勝手にシンドバッド」という曲名すら、聞き取れたかどうかあやしいくらいでした。子ども心に浮かんだのは、ただひと言、「何だ、この騒がしいバンドは!?」でした。 それでも——「ラララ~♪」のところだけは、なぜか耳に残りました。あのフレーズが流れたときのインパクトは、それまでテレビで見ていたピンク・レディーや沢田研二とは、また違うものでした。きれいでもなく、かっこいいでもなく、ただ、まったく新しい何か。意味はわからないのに、体のどこかがざわつく。そういう種類の「新しさ」だったのです。 (あとから知ったのですが、このスポットライト登場は、実はデビューから二か月ほど経った八月三十一日のことでした。新宿のライブハウス「ロフト」からの生中継だったそうです。六月二十五日のデビューを、私たち子どもがテレビで「目撃」したのは、夏の終わりだったというわけです。) ピンク・レディーの夏に、現れた異物 昭和五十三年の夏といえば、何といってもピンク・レディーでした。「UFO」「サウスポー」と、社会現象のようなヒットを次々に飛ばし、ピンク・レディーの振り付けは、子どもたちみんなのものでした。沢田研二さん——ジュリーも、かっこよさの頂点にいました。喫茶店ではインベーダーゲームが流行りはじめ、街にはピコピコという電子音が鳴り出した、そんな夏です。 テレビの中の「スター」とは、ああいうきらびやかな人たちのことだ。子どもの私は、そう思い込んでいました。 そこへ、短パン姿で、上半身裸で、何を言っているのかわからない歌を早口でまくしたてる男たちが現れたのです。きれいでもなければ、決めの振り付けもない。スターのお手本からは、まるで外れている。だから私は、「何だ、この騒がしいバンドは!?」と思ったわけです。今になって思えば、その「外れている感じ」「異物感」こそが、サザンの正体だったのですが。 「勝手にシンドバッド」という、ふざけた名前 あとから知ったことですが、サザンと『ザ・ベストテン』は、同じ昭和五十三年生まれの「同期」でした。番組が始まったのが一月十九日、サザンのデビューが六月二十五日。新しい時代の音楽と、それを映す新しい番組が、同じ年に並んで走り出していたのです。 そして、あの「ふざけた感じ」には、ちゃんと理由がありました。 「勝手にシンドバッド」という曲名。これは前の年に大ヒットした、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」と、ピンク・レディーの「渚のシンドバッド」を、くっつけたような名前なのです。当時の大人も子どもも、「なんだそのタイトルは」「コミックバンドか?」と思いました。私がピンク・レディーや沢田研二と比べて「違う」と感じたのは、ある意味あたりまえだったのかもしれません。彼らはその二つの大ヒット曲を、わざとごちゃ混ぜにしたような名前で登場してきたのですから。 桑田佳祐さんの、あの早口で巻き舌の歌い方も、当時は賛否両論でした。日本語をわざと英語っぽく崩して、転がすように歌う。だから歌詞が聞き取れない。——のちに別の歌番組では、あまりに歌詞が聞き取れないため、画面に歌詞のテロップを出したと言われています。今ではどんな歌番組でも当たり前になった「歌詞テロップ」は、このあたりが始まりだったとも言われているのです。つまり、「歌詞が入ってこない」と思っていたのは、私だけではありませんでした。日本中が、そう思っていたのです。 今でこそ信じられませんが、昭和五十年代の半ばごろまで、日本では「日本語はロックに乗らない」と、本気で考えられていた時代がありました。英語ならまだしも、日本語であの強いビートに歌詞を乗せるのは無理だ、と。ところが桑田さんは、日本語を英語のように崩し、まくしたてることで、その「常識」をあっさり壊してしまいました。私が「何を歌っているのかわからない」と感じたあの歌い方こそ、実は日本の歌の歴史を変えてしまった発明だったのです。もちろん、子どもの私にそんなことが分かるはずもありません。ただ、「騒がしいな」と思っていただけでした。 「目立ちたがり屋の芸人です」 スポットライトに登場したサザンは、見た目からして強烈でした。メンバーはジョギング用の短パン姿。桑田さんにいたっては上半身裸。司会の黒柳徹子さんが「アーティストになりたいの?」とたずねると、桑田さんはこう答えたといいます。 「いいえ、目立ちたがり屋の芸人で~す!」 (のちに桑田さん自身が「あれは台本だった」と明かしていますが、その照れ隠しのような感じまで含めて、いかにもサザンらしいエピソードだと思います。) ちなみに、あの中継で大盛り上がりに見えた観客は、実は桑田さんたちが知り合いをかき集めた、いわば「サクラ」だったと、のちに本人が打ち明けています。今ではすっかり伝説になっているあの熱狂も、そんな手づくりの舞台裏から始まっていたのです。背伸びと勢いだけで世間にぶつかっていく——そのなりふりかまわなさが、かえって時代の空気を変えてしまったのですから、おもしろいものです。 この「事件」のような登場で、サザンの名前は一気に広まりました。九月二十一日には『ザ・ベストテン』に九位で初ランクイン。最高四位、オリコンでは三位まで上がり、新人とは思えない好スタートを切ります。「何だ、この騒がしいバンドは」とぽかんとしていた私の知らないうちに、彼らはどんどん駆け上がっていったのです。 そして翌昭和五十四年、「いとしのエリー」が世に出ます。あの早口でふざけたバンドが、こんなにせつなく、こんなにまっすぐなバラードを歌うのか——世間の見る目は、ここで一変しました。コミックバンドだ、キワモノだと言っていた人たちが、一斉に黙り込んだのです。「一発屋」どころではない。サザンは、本物でした。その年の暮れには、さっそくNHK紅白歌合戦に初出場。あの「騒がしいバンド」は、わずか一年あまりで、日本を代表する歌い手の仲間入りを果たしていました。 それでも、虜になるのに時間はかからなかった あれだけ「何だこれは」と思っておきながら、私がサザンの虜になるのに、そう時間はかかりませんでした。気がつけば友だちと、あの「いま何時?」「そうね、だいたいね」の掛け合いを、意味もなく日常会話にはさんでは、ふざけ合っていたのです。あんなに「騒がしい」と感じていた曲の言葉が、いつのまにか自分たちの口ぐせになっていました。子どもというのは、現金なものです。 そこからのサザンは、ご存じのとおりです。昭和から平成へ、出る曲、出る曲が、そのまま時代の景色になっていきました。「チャコの海岸物語」「ミス・ブランニュー・デイ」「希望の轍」「エロティカ・セブン」「愛の言霊」——私は、全部聴きました。 そしてとくに心に残っているのが、平成十二年(二〇〇〇年)の「TSUNAMI」です。サザン自身の最大のヒットとなり、その年のレコード大賞にも輝いたこの曲は、本当に良かった。あの「騒がしいバンド」が、こんなに深く、こんなに大きな歌を届けるようになるとは——木曜の夜、テレビの前で首をかしげていたあの小学生には、想像もできないことでした。 「勝手にシンドバッド」から「いとしのエリー」まで、あの夏に始まった物語のはじまりは、一枚のベスト盤でまとめて聴くことができます。アルバムの一曲目は、もちろん、あの「騒がしい」デビュー曲です。 サザンオールスターズ ベストアルバム「海のYeah!!」一曲目は「勝手にシンドバッド」。デビューから20年の代表曲を網羅した決定盤(2枚組) Amazonで見る › おわりに──「違和感」は、新しさのサイン 令和のいま、サザンオールスターズは押しも押されもせぬ国民的バンドです。夏が来るたび、どこかで桑田さんの声が流れている。「勝手にシンドバッド」は、もう「騒がしい新人の曲」ではなく、日本の夏の定番のひとつになりました。あの夏、テレビの前で首をかしげていた小学生は、まさかこのバンドの歌を、その後何十年も聴き続けることになるとは、思ってもいませんでした。 振り返ってみると、あの夜の私の「何だ、この騒がしいバンドは!?」という違和感こそ、新しい時代の入り口だったのだと思います。子どもの耳が「変だ」「わからない」と感じるものの中にこそ、本物の新しさが隠れている。きれいに整ったものよりも、意味のわからない「ラララ~♪」のほうが、何十年も残っていく。音楽というのは、本当に不思議なものです。 今でも、ときどきテレビでお姿を拝見し、歌声を聴くことがあります。あの頃と比べても、声はまったく色褪せていない。それどころか、とても素敵に年を重ねてこられたなあ、と画面の前でしみじみ思うのです。木曜の夜に「何だこれは」と思った相手と、こうして何十年も同じ時間を生きてきた。そう考えると、ちょっと誇らしいような、くすぐったいような気持ちになります。 皆さんが初めてサザンオールスターズを知ったのは、どの曲、どの場面でしたか。そして——最初は「何だこれは」と思ったのに、いつのまにか大好きになっていた歌は、ありませんか。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月24日──父と観た「空飛ぶ円盤」、家で描き続けた円盤の絵

六月二十四日は「UFOの日」。昭和二十二年(1947年)にアメリカで「空飛ぶ円盤」が目撃された日にちなみます。父に連れられて通った東映まんがまつり、映画館を出たあとしばらく描き続けたUFOの絵、そして昭和六十年にゲームセンターへやってきた「UFOキャッチャー」。空のかなたにあこがれた、昭和の子どもの記憶の話です。 今日は六月二十四日。梅雨の真っただ中で、どんよりとした雲が空をおおう日が続きます。窓の外を見上げても、見えるのは灰色の雲ばかり。けれど昭和の子どもにとって、その雲の向こうにはいつも、もう一つの世界が広がっていました。 六月二十四日は「UFOの日」、別名「空飛ぶ円盤記念日」です。なんとも昭和の子ども心をくすぐる、わくわくする記念日ではありませんか。今日はこの日にちなんで、私たちの世代が夢中になった「空飛ぶ円盤」と、それにまつわる思い出を振り返ってみたいと思います。 「空飛ぶ円盤」が生まれた日 そもそも、なぜ六月二十四日が「UFOの日」なのでしょうか。 話は昭和二十二年(1947年)にさかのぼります。この日、アメリカの実業家ケネス・アーノルドさんが自家用機を操縦して飛んでいたところ、ワシントン州のレーニア山付近の上空で、ものすごい速さで飛ぶ九つの奇妙な物体を目撃しました。物体は鎖のように一直線につながり、平たい形をしていて、ジェットエンジンのような音もしなかったといいます。 アーノルドさんが、その飛び方を「水面を切って跳ねる円盤のようだった」と語ったことから、「空飛ぶ円盤(フライング・ソーサー)」という言葉が生まれました。これが近代UFO史の幕開けとなった、有名な「アーノルド事件」です。以来、世界中で「円盤を見た」という証言が相次ぎ、日本でも「空飛ぶ円盤」という言葉が、新聞や雑誌をにぎわせるようになっていきました。世界はこの記念すべき日を「UFOの日」と名付けたのです。 つまり六月二十四日は、人類が「空の向こうに、私たち以外の何かがいるのかもしれない」と、本気で空想しはじめた日なのです。 父と通った、東映まんがまつり UFOと聞いて、私の胸にまっさきによみがえってくるのは、暗い映画館の中の記憶です。 保育園の年長から小学校の低学年にかけての頃、夏休みや冬休みになると、「東映まんが祭り」という、アニメや特撮の映画を何本かまとめて上映するプログラムが映画館にかかりました。一本の入場料で、人気のキャラクターが何本も観られる。子どもにとっては、まさに夢のような時間でした。 そのたびに、父が私を映画館へ連れて行ってくれたのです。 東映まんが祭りには、入場のときに必ずもらえる紙の帽子がありました。あれをかぶるのが、子ども心にうれしくてうれしくて。映画が終わって外に出ても脱がず、帰り道、家に着くまでずっとかぶっていたものです。 ただ、紙の帽子よりも、さらに強烈に記憶に残っているものがあります。それは——映画館の入口の、左右の壁に貼られたポスターでした。 片側は、たいていお目あての『東映まんが祭り』のポスター。ところが決まって、もう片方の壁には、普段その映画館で上映しているものなのでしょうか、なんとも悩ましいポーズでこちらを見つめる、裸のお姉さんが映ったポスターの数々が貼られていたのです。 「見たいけど、見ちゃいけないよね。でも、ちょっと見たい」 入場の列に並びながら、毎回そのポスターを横目に、胸をドキドキさせていたものでした(笑)。まんが祭りへのわくわくと、見てはいけないものへのこっそりした好奇心。あの入口の数分間は、幼い私にとって、ある意味で本編の映画に負けないくらい、忘れがたいひとときだったのかもしれません。 さて、その東映まんが祭りには「UFO」ものが、けっこうあったのです。 巨大なロボットが空飛ぶ円盤と一体になって、宇宙からの敵と戦う。スクリーンいっぱいに広がる宇宙と、銀色に光る円盤。子どもだった私は、もう夢中になって見入っていました。 そして、ここが自分でも不思議なのですが——映画を観たあと、家に帰ってからしばらくの間、私はずっとUFOの絵を描いていたのです。何枚も何枚も、飽きずに描いていた記憶があります。それだけ、あの映画館で観た「空飛ぶ円盤」が、幼い私の心に強く焼きついていたのでしょう。 「UFOロボ」が飛んでいた時代 ところで、なぜあの頃の映画やテレビには、あれほどUFOものが多かったのでしょうか。 実はこれには、はっきりとした理由があります。昭和五十年代の初め、日本中に空前の「空飛ぶ円盤(UFO)ブーム」が巻き起こっていたのです。 その象徴ともいえるのが、昭和五十年(1975年)に登場したテレビアニメ『UFOロボ グレンダイザー』でした。実はこの作品、もともとは別の企画が立ち消えになったところへ、「当時のUFOブームに乗ろう」という思惑から生まれたものだったといいます。だからこそ「UFOロボ」という名前がつき、敵もはじめて本格的に「宇宙人」が据えられました。その前身となった映画『宇宙円盤大戦争』が東映まんが祭りで公開されたのも、まさに昭和五十年の夏のことです。 私が父と映画館でUFOものに夢中になっていたのは、ちょうどこの時期と、ぴったり重なっています。あの頃、銀色の円盤は、日本中の子どものノートの上を飛び回っていたのです。 ブームを支えたのは、映画やアニメだけではありませんでした。テレビでは、日本テレビの「木曜スペシャル」で、矢追純一さんが手がけたUFO特番が大人気を博していました。あの独特の効果音とともに映し出される、ぼんやりとした円盤の写真と、世界中の不思議な事件の数々。半分は嘘かもしれないと薄々感じながらも、画面に釘づけになってしまう。あの引き込まれる感覚を、同世代の方ならきっと覚えているはずです。昭和五十二年(1977年)の暮れには、ピンク・レディーが「UFO」を歌い、両手を空へ広げるあの振り付けを、誰もが真似していました。 ゴールデン☆ベスト ピンク・レディー(「UFO」収録・全シングル集)あの「UFO」も「サウスポー」も。両手を空へ広げた、昭和の歌がここに Amazonで見る › 学校へ行けば、誰それがUFOを見たという噂が、まことしやかに飛び交いました。夏の夜、夕涼みをしながら空をよぎる光を見つけては、「あれ、UFOじゃないか」と本気で胸を高鳴らせたものです。今思えば他愛のないことばかりですが、空の向こうに何かがいると信じられた、あの感覚こそ、昭和の子どもにとっての何よりのごちそうだったのかもしれません。 空の向こうへのあこがれが、テレビからも映画からも歌からも、洪水のようにあふれ出していた時代。それが、私たちの子ども時代だったのです。 ゲームセンターに着陸した「UFO」 時は流れ、昭和六十年(1985年)。「UFO」の名を持つ、もう一つの忘れがたいものが登場します。 セガが発売した、クレーンゲームの「UFOキャッチャー」です。 それまでのクレーンゲームといえば、上からのぞき込んでお菓子をすくうような、小さな機械が主流でした。ところがこの新しい機械は、二本の爪のアームを操作して、ガラスケースの中に並んだ景品をつかみ取る。そのアームの動きが空飛ぶ円盤のように見えたことから、「UFOキャッチャー」と名づけられたといいます。やがてこの名前は、クレーンゲームそのものの代名詞になっていきました。 この昭和六十年、私はもう高校生になっていました。映画館でUFOの絵を描いていたあの小さな子どもが、いつのまにかゲームセンターに出入りする年頃になっていたわけです。 正直に打ち明けると、あれほど「UFO」に夢中だった私も、この「UFOキャッチャー」そのものには、これといって強い思い出があるわけではありません。同じ「UFO」の名を持ちながら、幼い頃に映画館で円盤に胸をときめかせていたあの熱とは、もう少し冷めた距離で眺めていたように思います。それでも、子ども時代から青春時代まで、形を変えて「UFO」という三文字が私のそばにあり続けたのだと思うと、なんだか不思議な縁を感じます。 ちなみに、この「UFOキャッチャー」が誕生から三十五年を迎えたのを記念して、後の世になって、六月二十四日の「UFOの日」が「UFOキャッチャーの日」にも定められました。空飛ぶ円盤の記念日が、ゲームセンターの記念日にもなった。これもまた、なんとも昭和生まれにはくすぐったい話です。 おわりに 令和のいま、「空の向こう」は、ずいぶん身近なものになりました。 スマートフォンを開けば、宇宙ステーションから見た地球の映像も、遠い惑星の写真も、いつでも手のひらの中で眺めることができます。民間のロケットが次々と打ち上げられ、UFOは「UAP(未確認航空現象)」などと呼ばれて、各国の政府が大真面目に調査する時代にもなりました。あの頃あれほど謎めいていた「空飛ぶ円盤」も、すっかり日常の話題の一つです。 それでも——です。 ...

June 24, 2026

6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった

六月二三日。梅雨の晴れ間に、少しだけ夏の匂いが混じりはじめる頃です。 カレンダーをめくると、この日にはいろいろな記念日が並んでいます。けれど私がきょう書きたいのは、四十年以上前のある朝、北へ向かって走り出した一本の列車の話です。 昭和五十七年(一九八二年)六月二三日。東北新幹線が、大宮〜盛岡間で開業しました。 そのとき私は中学一年生。高砂の電車に囲まれて育った私にとって、新幹線というのは、いつもの京成電車とはまったく別の、ちょっと手の届かない「夢の乗り物」でした。 毎日のように京成電車を眺め、すぐ近くの高砂検車区には、ずらりと電車が並んでいる。電車という乗り物なら、誰よりも身近に感じていたはずの私です。それでも、図鑑やテレビのニュースの中を走る新幹線だけは、なぜか同じ「電車」だとは思えませんでした。同じレールの上を走るのに、住んでいる世界が違う。そんなふうに感じていたのです。実をいうとこの頃の私は、まだ一度も新幹線に乗ったことがありませんでした。 夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった 東北新幹線の計画そのものは、ずいぶん前から進んでいました。東京〜盛岡を結ぶこの路線は、昭和四十六年(一九七一年)に着工され、十年以上の歳月をかけて、ようやく完成にこぎつけます。 ところが、いざ開業というとき、ひとつの大きな「ねじれ」がありました。 始発駅が、東京でも上野でもなく、埼玉の大宮だったのです。 東海道新幹線が当たり前のように東京駅から走り出したのに比べると、これはずいぶん変則的な船出でした。理由は、上野〜大宮の沿線にあります。この区間はすでに住宅が密集していて、新幹線の騒音をめぐる反対運動が起きていました。そのため都心への乗り入れはいったん見送られ、「とりあえず大宮から」というかたちで走り始めることになったのです。 東京〜盛岡が、それまでの在来線特急で六時間二三分。それが新幹線の開業で、三時間五八分にまで縮まりました。四割近い時間短縮です。けれど、その恩恵にあずかるには、まず大宮まで行かなければならない。そこに、もうひとりの主役が登場します。 「新幹線リレー号」という名脇役 大宮始発という事情を埋めるために用意されたのが、上野〜大宮を結ぶ専用列車、その名も「新幹線リレー号」でした。 新しく造られたばかりの185系という車両が、上野と大宮のあいだをノンストップ、わずか二十五分ほどで走りました。新幹線の特急券を持っている人だけが乗れる、文字どおりの「連絡列車」です。乗り換えで迷わないように、ホームには「リレーガール」と呼ばれる案内係の女性たちが立っていたといいます。 開業の日、大宮駅のホームでは朝七時一五分に「やまびこ一一号」の出発式が行われ、一日じゅう鉄道ファンでにぎわったそうです。白地に緑のラインをまとった200系が、最高時速210キロで北へ走り出しました。 もっとも、走り出した当初の本数は、ずいぶん控えめなものでした。速達タイプの「やまびこ」が一日に四往復、各駅停車の「あおば」が六往復ほど。これだけ大きな路線にしては、まるでローカル線のようなダイヤです。それでも、夏の帰省シーズンには大宮駅が人であふれかえったといいますから、みんながどれほどこの一本を待ちわびていたかが伝わってきます。 この「リレー号」は、三年後の昭和六十年(一九八五年)に新幹線が上野まで延びると、その役目を終えて姿を消しました。たった三年足らずの命でしたが、開業したばかりの夢の超特急を都心とつないでいたのは、この名脇役だったのです。 そして、この「上野まで延びた」という出来事が、私の家のすぐそばにも、小さな波紋を広げることになります。 私が初めて乗った新幹線は、修学旅行だった 私が通っていた中学校では、三年生の修学旅行で東海道新幹線に乗り、京都・奈良へ行くのが決まりでした。 私にとって、生まれて初めての新幹線は、このときの東海道新幹線です。当時は「生まれて初めて乗る新幹線は修学旅行のとき」という子も少なくありませんでした。家族旅行で気軽に乗るようなものではなく、新幹線は子どもにとって、人生の特別な日にだけ顔を出す乗り物だったのです。 みんなでホームに並んで、あの長い銀色の車体がすうっと滑り込んできたときの高揚。窓の外をものすごい速さで景色が流れていく、あの初めての感覚。修学旅行そのものの思い出と、初めての新幹線の興奮とが、私の中ではひとつに溶け合っています。 だからでしょうか。「初めての新幹線が修学旅行だった」という人は、新幹線そのものの記憶と、あの旅の記憶とを、生涯ひとそろいで持っているように思うのです。どの新幹線で、どこへ向かったか。それは、その人がどんな時代に子どもだったかを、そっと映す鏡でもあります。 妹の代から、行き先が「東北」になった ところが、です。 昭和六十年に東北新幹線が上野まで延びたことで、思いがけないことが起きました。一つ年下の妹の修学旅行先が、なんと東北になったのです。 どこを回ったのか、詳しいことは私も聞きそびれてしまいました。ただ、妹がお土産に「赤べこ」──赤い牛の形をした張り子の人形──を買って帰ってきたのを、はっきり覚えています。赤べこといえば、福島・会津の郷土玩具。きっと会津地方を訪れたのでしょうね。 もともと上野駅は、東北や北国へ向かう人々の「玄関口」でした。集団就職の若者たちも、帰省の家族連れも、北を目指す列車はみな上野から出ていった。その上野に新幹線が乗り入れたことで、下町の中学生にとっても、東北がぐっと手の届く行き先になったのです。その証拠のように、私の中学校では、その後しばらく「京都・奈良」と「東北」の修学旅行を、一年交代で実施するようになりました。 いつまで続いたのかは分かりません。けれど、私の世代までは「初めての新幹線=東海道新幹線」だったのが、妹の代からは「初めての新幹線=東北新幹線」という子どもたちが、どんどん増えていったわけです。 一本の新幹線が都心に少し近づいた。ただそれだけのことで、子どもたちが人生で最初に降り立つ「遠い町」が、京都から会津へと変わっていく。あらためて考えると、これはなかなか、すごいことだと思うのです。 修学旅行の行き先というのは、その時代に「子どもに見せておきたい日本」がどこだったか、という選択でもあります。長いあいだ、それは京都や奈良の古い都でした。そこに東北という新しい選択肢が加わったのは、新幹線が北を一気に近づけてくれたから。線路が一本延びるたびに、子どもたちが見る日本の地図も、少しずつ書き換えられていったのだと思います。 バスのハンドルを握る私が思うこと 私は今、路線バスの運転士をしています。 毎日、決まった道を走りながら、人を乗せて、目的地と目的地をつないでいます。華やかさはありません。けれど、誰かの「行きたい場所」と「今いる場所」のあいだを、確実につなぐ仕事です。 だからでしょうか。あの「新幹線リレー号」の話を知ると、妙に胸が熱くなるのです。 主役の超特急ではなく、その手前で、都心と大宮をつないでいた185系。脚光を浴びるのは新幹線のほうでも、リレー号がなければ、あの三年間、人は北へ向かえませんでした。つなぐ、という仕事に、上も下もありません。そんなことを、ハンドルを握りながら、時々思います。 それでも、北はぐっと近くなった 妹たちを東北へ運んだ上野延伸から六年後、平成三年(一九九一年)には、東北新幹線はついに東京駅まで乗り入れます。 ...

June 23, 2026

6月22日 ── 両さんの亀有は、私の育った葛飾のすぐ隣だった

六月二十二日。梅雨空の下、紫陽花が雨を含んで重たそうに揺れています。一年でいちばん日が長いころ。けれど私がこの日に思い出すのは、季節の風景よりも、自分の育った町の名前です。 昭和五十一年(一九七六年)のこの日、一冊の少年漫画雑誌に、ある読み切り漫画が載りました。タイトルは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。──そう、私の生まれ育った葛飾区が、まるごと題名になった漫画です。 もっとも、この読み切りが世に出たとき、私はまだ七歳。小学一年生になったばかりで、正直に言えば、この漫画をリアルタイムで読んではいませんでした。私と両さんが本当に出会うのは、もう少しあと――私が『週刊少年ジャンプ』を、毎週夢中でめくるようになってからの話です。 葛飾の派出所から、世界一の漫画が始まった 昭和五十一年六月二十二日に発売された『週刊少年ジャンプ』二十九号。そこに、「山止たつひこ」という名前の新人が描いた読み切り漫画が掲載されました。その年の四月期、月例の「ヤングジャンプ賞」に入選した一作です。これが、のちに四十年も続く国民的漫画『こち亀』の、世に出た最初の一歩でした。 作者は、当時二十三歳の秋本治さん。実は、ペンネームの「山止たつひこ」は、当時『がきデカ』で大人気だった漫画家・山上たつひこさんの名前をもじったものでした。「長い題名と、ちょっと変わった名前にすれば、審査員の目に留まるだろう」。そんな新人らしい工夫だったといいます(のちに山上さんご本人から「紛らわしい」と苦情が来て、連載百回目を区切りに本名へと改めることになります)。 そして秋本さんご自身が、東京都葛飾区の亀有で生まれ育った人でした。だからこの漫画の舞台は、絵空事ではありません。主人公の破天荒な巡査・両津勘吉――通称「両さん」が駆け回る亀有公園前の派出所は、作者が実際に過ごした下町そのものだったのです。読み切りの段階で、すでに両さんの相棒・中川圭一も顔を出していました。 読み切りの評判は上々で、同じ年の九月二十一日発売の四十二号から、いよいよ本格的な連載が始まります。当初は劇画に近いリアルな絵柄で、拳銃をぶっ放す両さんと中川の暴走ぶりが描かれ、いま読むと驚くほど過激です。けれど、その荒っぽさの底にいつも下町の人情があったことが、この漫画が長く愛された理由なのだと思います。秋本さんは「短期で終わるとばかり思っていた」とのちに語っていますが、両さんは誰の予想もはるかに超えて走り続けることになります。 その「世に出た最初の一歩」は、いまも一巻として手に取ることができます。リアルな絵柄の、過激で若々しい両さん。四十年の長い旅の出発点を、ぜひ一度のぞいてみてください。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(ジャンプコミックス)秋本治/集英社。すべてはこの一巻から始まった Amazonで見る › 私がジャンプを開いたのは、黄金時代だった 私が『週刊少年ジャンプ』を毎週読むようになったのは、昭和五十六年から六十年(一九八一〜一九八五年)ごろ。中学から高校へと向かう、いちばん多感な時期でした。そしてそれは、ジャンプがまさに「黄金時代」へと駆け上がっていく時期と、そっくり重なっていたのです。 思い出してみてください。表紙は『キン肉マン』か『北斗の拳』、巻頭カラーは『キャプテン翼』、ギャグのページには『Dr.スランプ』や『奇面組』、そして『キャッツ♥アイ』。そんな号が、ちっとも珍しくなかった。「ウォーズマン対ラーメンマン」も、「翼くんの全国大会」も、「アラレちゃんブーム」も、ケンシロウの「お前はもう死んでいる」も、ぜんぶリアルタイムで浴びるように読んでいました。いま思えば、なんと贅沢な少年時代だったでしょう。 正直に白状すると、私のジャンプの楽しみ方には、はっきりとした主役がいました。熱血バトルの『キン肉マン』、ハードな格闘の『北斗の拳』、スポーツものの『キャプテン翼』、そして笑いの『Dr.スランプ』。この四本が、私の「メイン」でした。 では『こち亀』はどうだったか。──正直なところ、私にとってこち亀は、一番のお目当てではありませんでした。けれど、こう言えます。「こち亀は、毎週必ず読む」。派手な主役たちの陰で、両さんのページだけは、どんなに忙しい号でも、必ず開いていたのです。爆発もしない、必殺技も出ない。ただ下町の派出所で、両さんがいつものように騒いでいる。その「いつもどおり」が、なぜか妙に落ち着くのでした。 そしてあの長いタイトルを目にするたび、心のどこかで思っていました。「これ、うちの葛飾の話なんだよな」と。 寅さんと両さんと、葛飾という町 ここで少し、私自身の地元の話をさせてください。 葛飾区には、もう一人、全国に知られた看板役者がいます。映画『男はつらいよ』の車寅次郎――「寅さん」です。寅さんの故郷・柴又は、私の暮らした京成高砂のすぐ隣。金町線でひと駅、帝釈天の参道はもう目と鼻の先でした。 実は秋本さんも、あの長いタイトルをつけた理由を、こんなふうに語っています。「『男はつらいよ』のおかげで、葛飾区は全国に知られていた。亀有は知らなくても、葛飾区はみんな知っているだろうと思った」と。つまり『こち亀』のあの長い題名は、先輩格の寅さんへの目配せでもあったわけです。 柴又の寅さん、亀有の両さん。下町の人情と、破天荒な可笑しさ。葛飾という小さな区が、二人もの国民的キャラクターを生んだ町だということを、私はいまでも少し誇らしく思っています。事実、平成二十四年(二〇一二年)、秋本さんは葛飾区の名誉区民となりました。そして同じ日に並んで表彰されたのが、ほかでもない『男はつらいよ』の山田洋次監督。寅さんと両さんが、肩を並べて顕彰されたのです。 四十年、一度も休まなかった 『こち亀』のすごさは、その「続いた長さ」にもあります。 昭和五十一年に始まった連載は、平成二十八年(二〇一六年)まで、実に四十年間。その間、『週刊少年ジャンプ』で一度も休載しませんでした。毎週毎週、両さんは派出所で騒ぎを起こし続けたのです。最終回は平成二十八年九月十七日発売号。単行本は、ちょうど二百巻できれいに完結しました。 この二百巻という数字は、「もっとも発行巻数が多い単一漫画シリーズ」として、ギネス世界記録に認定されました(令和のいまは『ゴルゴ13』に記録を譲りましたが、その後の二〇二一年に、新たに二百一巻が刊行されています)。累計の発行部数は、一億五千万部を超えるといいます。 漫画だけではありません。連載開始のわずか翌年、昭和五十二年には早くも実写映画になり、平成八年(一九九六年)から平成十六年(二〇〇四年)まではフジテレビでテレビアニメが放送されました。日曜の朝、ラサール石井さんの声で「両さん」が動き回るのを覚えている方も多いでしょう。葛飾の派出所から始まった物語は、紙の上を飛び出して、お茶の間にもしっかり住み着いていたのです。 ここで、ふと思うのです。少年時代の私が夢中になった「メイン」――キン肉マンも、北斗の拳も、キャプテン翼も、Dr.スランプも、それぞれの名場面を残して、いつしか連載を終えていきました。ところが、私が「サブ」だと思って、けれど毎週必ず読んでいた両さんだけは、平成の終わりまで走り続けた。いちばん派手だった主役たちより、いちばん「いつもどおり」だった脇役のほうが、ずっと長く生き残ったのです。あのころ、私はそんな未来を、まったく想像していませんでした。 私が小学一年生だった年に始まった漫画が、私が四十七歳になるまで、ずっと同じ雑誌で続いていた。あらためて考えると、これはとんでもないことです。両さんは、昭和と平成を、まるごと走り抜けていったのでした。 令和のいま、亀有の駅前で いま、亀有の駅前に立つと、あちこちに両さんの銅像が立っています。元気よく右手を挙げた両さん、ベンチに腰かけた両さん……全国からファンが訪ねてくる、すっかり「聖地」になりました。漫画の中の派出所が、現実の町の誇りになったのです。 その銅像を見るたびに、私は不思議な気持ちになります。 子どものころ、毎週少年ジャンプを開けば、当たり前のようにそこにいた両さん。テレビをつければ、アニメでも活躍していました。その両さんが、いま自分の目の前に、銅像となって立っている。もちろん漫画の主人公なのですが、亀有ではまるで、本当にこの町で暮らしていた人のような存在です。 私は葛飾という町に縁があります。だからこそ、全国の人が「亀有」と聞いて真っ先に思い浮かべるのが『こち亀』であり、両さんであることが、少し誇らしいのです。 考えてみれば、漫画やドラマの舞台になる町は数多くあります。けれど、何十年も連載が続き、世代を超えて親しまれ、その主人公の銅像が町のシンボルになっている例は、そう多くありません。 両さんの銅像の前に立つと、昭和のころの記憶もよみがえります。商店街のにぎわい。駄菓子屋。自転車で走り回る子どもたち。ジャンプを買って、夢中で読んだ放課後。そんな時代の空気が、両さんの後ろに見えるような気がするのです。 地元が漫画やドラマで取り上げられるというのは、ただ有名になるということではないのだと思います。その作品を通じて、その町で暮らした人々の思い出や風景が、多くの人の記憶の中に残るということ。 亀有と聞けば、両さんを思い出す人がいる。柴又と聞けば、寅さんを思い出す人がいる。それは葛飾という町が、日本中の人々の心の中に生き続けている、ということでもあります。 両さんの銅像を見上げながら、私はそんなことを考えます。少年時代に読んだ漫画の主人公が、いまも変わらず地元の駅前で笑っている。それは何とも言えない懐かしさと、少しの誇らしさを感じさせてくれる風景なのです。 おわりに あなたの町にも、漫画やドラマ、歌の舞台になった場所はありますか。そして、その作品と初めて出会ったときのことを、覚えているでしょうか。 両さんのように、何十年も変わらずそこにいてくれる「町の顔」は、私たちの記憶のいちばん柔らかいところに、そっと住み着いているのかもしれません。 ※この「昭和の今日は何があった日?」シリーズは、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、その時代に子ども時代を過ごした私の目線でつづっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月21日 ── 京成・都営・京急がつながった日、私はまだ生まれていなかった | 次の記事:6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった ▶

June 22, 2026