6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった

六月十三日。カレンダーの記念日欄には「FMの日」とあります。アルファベットでFが六番目、Mが十三番目だから、という語呂合わせです。そして昭和五十七年(一九八二年)のこの日、スペインでサッカーのワールドカップが開幕しました。 ちなみにこの日は、昭和六十二年(一九八七年)に広島の衣笠祥雄選手がルー・ゲーリッグの連続試合出場世界記録を塗り替えた日でもあります。ただ、鉄人の話は六月七日の記事でたっぷり書いたばかりなので、きょうは別の話を。 実は今回の二つ──FMもスペイン大会も、正直に白状すると、当時の私の記憶にはほとんど残っていません。けれど「覚えていない」ことにも、それなりの理由がありました。きょうは、その理由のほうの話です。 世界が沸き始めた日、野球少年は素振りをしていた 昭和五十七年六月十三日、スペイン・バルセロナのカンプノウ・スタジアム。九万人を超える大観衆の前で、前回王者アルゼンチンとベルギーの開幕戦が行われました。アルゼンチンの十番をつけていたのが、当時二十一歳のディエゴ・マラドーナ。これが彼のワールドカップ・デビュー戦でした(試合はベルギーが一対〇で勝っています)。大会はその後、パオロ・ロッシを擁するイタリアが優勝。いまもサッカー史に残る名大会として語り継がれています。 で、そのとき十三歳、中学一年生だった私はといえば──何も覚えていません。本当に、何ひとつ。 もっとも、これは私だけのことではなかったと思います。昭和五十七年の日本にとって、ワールドカップはまだ遠い遠い大会でした。日本代表は一度も本大会に出場したことがなく、Jリーグもまだ影も形もない時代。テレビでサッカーといえば、正月の高校サッカーくらいのもので、海の向こうの大会を生中継で追いかけるという習慣そのものが、お茶の間にはほとんどなかったのです。 そして当時の私は野球部に入ったばかりの、根っからの野球小僧でした。『キャプテン翼』の連載が少年ジャンプで始まったのは前年の昭和五十六年。けれど翼くんが私の心に飛び込んでくるのは、もう少し先の話です。つまりこの開幕の日の私は、まだ「キャプテン翼以前」。マラドーナという名前すら、知らなかったはずです。世界中がスペインの熱狂に沸いていたその夜も、私はたぶん、いつもどおり素振りをして、巨人戦を見て、眠っていたのだと思います。サッカーのワールドカップは、昭和五十七年の野球少年の暮らしの、ずっと外側にありました。 四年後の早朝、マラドーナに釘付けになった ところが、です。四年後の昭和六十一年(一九八六年)、メキシコ大会。十七歳の高校二年生になっていた私は、早朝のテレビ放映を夢中で見ていました。 メキシコと日本の時差は十五時間。向こうの昼の試合は、日本ではちょうど夜明け前から早朝の時間帯にあたります。つまりワールドカップを見るということは、いつもよりずっと早く起きるということでした。野球少年だった私を、早起きしてまでテレビの前に座らせる「サッカーの大会」。四年前には考えられなかったことです。 きっかけは、もちろん翼くんです。中学時代にこっそりはまった『キャプテン翼』が、野球少年の中に「サッカーを見る目」を作ってくれていた。そして画面の中には、漫画よりも漫画みたいな選手が、本当にいたのです。 マラドーナ。決して大きくはない体で、次々とドリブルで相手選手を抜き去っていく、あの力強いプレー。ボールが足に吸い付いたまま、屈強なディフェンダーが何人がかりで止めにきても、倒れない、止まらない。準々決勝のイングランド戦では、のちに「神の手」と呼ばれるあの一撃と、五人抜きの「世紀のゴール」を、わずか数分のあいだに両方やってのけました。手で押し込んだゴールですら「ゴール」と言わせてしまう。理屈ではありません。あの小さな背中には、それを許させてしまうだけの、圧倒的な存在感があったのです。 スペイン大会を素通りした少年は、四年かけて、ようやくワールドカップに追いついた──いや、翼くんとマラドーナに、追いつかされたのでした。 FMは「お兄さんのもの」、私の相棒は携帯ラジオ さて、もうひとつの「FMの日」。これも白状すると、当時の私はFM放送をあまり聞いた記憶がありません。FMといえば音楽番組。本屋には「FMレコパル」や「週刊FM」といったFM情報誌が並び、二週間分の番組表を蛍光ペンでチェックして、お目当ての曲が流れる時間にカセットテープの録音ボタンに指をかけて待つ──そんな「エアチェック」に励むのは、もう少し年上の、ちょっとお兄さんたちの世界。レコードを買うお金のない時代に、FMとカセットは音楽好きの強い味方だったわけですが、小学生の私には、まだずいぶんと背伸びの領域に感じられていました。 そのかわり、ラジオそのものとは、ずっと早くから深い付き合いがありました。 小学三年生のころ。すでに立派な野球小僧だった私は、プロ野球の巨人戦をテレビで欠かさず見ていました。ところが、テレビ中継には終わりがあります。たいてい二十一時前ごろ、試合の決着がつこうがつくまいが、中継はぷつりと終わってしまう。九回裏、一打逆転の場面でも、お構いなしに、です。あの「続きが見られない」悔しさは、昭和の野球少年なら誰もが知っていると思います。 でも、ラジオなら最後まで聞ける。テレビが「ここまで」と打ち切ったその先を、ラジオの実況はちゃんと最後のアウトまで届けてくれるのです。当時のAMラジオは夜の看板がナイター中継で、各局が看板アナウンサーと解説者をそろえて、延長になろうが何だろうが、試合が終わるまで付き合ってくれました。テレビに置いていかれた野球少年にとって、これほど頼もしい存在はありません。 それを知った私は、誕生日のプレゼントに携帯ラジオを選び、買ってもらいました。年に一度の誕生日プレゼントです。おもちゃでも、野球の道具でもなく、ラジオ。小学三年生の選択としてはずいぶん渋い気もしますが、当時の私にとっては「巨人戦の続きが聞ける魔法の箱」だったのですから、迷いはなかったのだと思います。 それからの習慣は決まっています。テレビ中継が終わると、携帯ラジオのチャンネルを野球中継に合わせ、枕元に置いて、布団に入る。画面はないけれど、アナウンサーの声と球場のざわめきだけで、場面はいくらでも目に浮かびました。実況が早口になれば走者が走り、歓声がわっと膨らめば白球が外野の頭上を越えていく。むしろ目をつぶっているぶん、想像のグラウンドはテレビより広かったかもしれません。 スペイン大会が開幕した昭和五十七年の夜も、きっと私の枕元では、ナイター中継が小さく流れていたはずです。世界の熱狂は、まだ私の布団までは届いていなかったけれど、私には私の、夜の続きがあったのです。 手のひらサイズのラジオは、令和のいまも現役です。あの頃の相棒のような一台は、枕元のナイター中継はもちろん、いざというときの防災ラジオとしても、ひとつ持っておくと心強いものです。 ソニー ポケットラジオ ICF-P27(FM/AM/ワイドFM)手のひらサイズの定番。枕元のナイターにも、防災の備えにも Amazonで見る › 令和の今、枕元にはスマホがあるけれど あれから四十四年。いままさに、北中米でワールドカップが開幕したばかりです。スペイン大会を素通りしたあの野球少年が、いまは開幕戦の日程を指折り数えて待つようになったのですから、人生はわからないものです。つい先日は、地元の四つ木・立石に点在する『キャプテン翼』の銅像九体を、ランニングで巡ってきた話も書きました。十三歳の私に教えてあげたら、きっと信じないでしょう。 観る環境も、すっかり変わりました。スマホひとつで試合が見られて、見逃した試合は翌朝に配信で追いかけられる。ラジオもradikoで、全国の放送局が手のひらに収まる時代になりました。野球中継が「二十一時前に終わってしまう」悔しさを、いまの子どもたちは知らないでしょう。続きが気になるなら、指先ひとつで続きが手に入るのですから。 それでも、ふと思うのです。枕元の小さなラジオに耳を澄ませて、音だけで満員の球場を思い描いた、あの夜の豊かさのことを。見えないからこそ見えたものが、確かにあった気がします。情報がいくらでも手に入る時代になったからこそ、あの「音だけの夜」が、妙に贅沢なものだったように思えてくるのです。 みなさんには、「枕元のラジオ」の思い出はありますか。そして、初めて夢中になったワールドカップは、どの大会でしたか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日 | 次の記事:6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入 ▶

June 13, 2026

昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報

六月六日になりました。 この日には、昔から少し変わった言い伝えがあります。「芸事は、六歳の六月六日に始めると上達する」というもの。日本舞踊やお琴、三味線といった習い事の世界で、よく語られてきた験かつぎです。指を一本ずつ折って数えていくと、ちょうど六本目で小指が立って「六」の形になる――だから六歳の六月六日がいい、なんて説もあるそうですね。 この縁起にちなんで、六月六日は「楽器の日」「邦楽の日」とも定められています。歌舞伎の名作『寺子屋』に出てくる手習いの場面も、ちょうどこの季節。昔の子どもたちは、梅雨入り前のしっとりとした六月のはじめに、筆を持ち、三味線を抱え、新しい何かを始めたのですね。 なんとも風流な話です。けれど、正直に言えば、私自身の「六月」の記憶をたぐり寄せると、芸事よりも先に、もっと無粋な言葉が浮かんできてしまうのです。それも、習い事のような上品なものとは正反対の、当時の東京の空にべったりと貼りついていた、あの言葉が。 それが――「光化学スモッグ注意報」。 今日は少し、あの白くかすんだ夏空の話を、のんびり振り返ってみたいと思います。 テレビと校内放送から流れてきた、あの決まり文句 小学生のころ、夏が近づくと、テレビのニュースからこんな声が流れてきました。 「本日、東京都内に光化学スモッグ注意報が発令されました。屋外での激しい運動は避けてください」 子ども心にも、なんだか物々しい響きでした。そして決まって、その日は学校でも校内放送が入るのです。 「ただいま、光化学スモッグ注意報が発令されました。外で遊ばないでください」 スピーカーから流れるあの放送が入ると、先生からもひと言。「今日は昼休みの外遊びは禁止です」。せっかくの晴れた昼休みに、教室や廊下でおとなしくしていなさい、というわけです。ドッジボールもおにごっこもお預け。窓の外には、なんだかいつもより白っぽい空が広がっている。あれはちょっと、納得のいかない時間でした。 晴れているのに外に出られない、というのは、子どもにとってなかなか不条理なものです。雨で中止になるなら、まだあきらめもつく。けれどもピカピカに晴れた空を窓越しに眺めながら、教室で席に着いているのは、どうにも落ち着かない。教室に取り残された男の子たちは、黒板の前で相撲を取ったり、消しゴムを指ではじいて机の上で「消しゴム相撲」をやったり。先生の目を盗んでは、廊下の隅で小さな騒ぎを起こしていたものです。今思えば、外が危ないからと閉じ込められていたはずの教室の中のほうが、よほど騒がしかったかもしれません。 「これが光化学スモッグかぁ」――わかった気になっていた私 ただ、ここで正直に白状しておかなければなりません。 私自身は、光化学スモッグが原因で目がチカチカしたとか、喉が痛くなったとか、そういう体の不調を自覚したことが、ただの一度もなかったのです。まわりの友達にも、「やられた」という子はいませんでした。 ですから、注意報が出ているといっても、私たちにとってはどこか他人事。学校では神妙な顔で放送を聞いていても、いざ下校してしまえば、へっちゃらなものです。ランドセルを玄関に放り込んで、いつも通り、夕方まで外遊びに明け暮れていました。注意報も何も、あったものではありません。 それでも、空を見上げると――たしかに、白いモヤがかかっているように見えるのですね。 抜けるような青空ではなく、どこか牛乳を一滴落としたような、ぼんやりと濁った白。「ああ、これが光化学スモッグかぁ」。そうつぶやきながら、本当のところは何ひとつわかっていないくせに、なんだか自分は世の中の仕組みを一つ知ったような、わかった気になっていた。子どもというのは、そういうところがありますね。今思い出すと、少し可笑しくなります。 むしろ、注意報の出た日は、どこか胸が躍るような気持ちさえあったかもしれません。いつもと違う校内放送が入り、先生が少しあわてた様子を見せる。それだけで、退屈な学校の一日に、ちょっとした事件の気配が混じる。危ないものの正体を知らない子どもにとっては、災害も警報も、半分は冒険のようなものだったのです。下校のチャイムが鳴れば、そんな白い空の下へ、われ先にと飛び出していくのですから、世話はありません。 あの白い空の、ほんとうの正体 では、あの「光化学スモッグ」とは、いったい何だったのか。 ごく簡単に言えば、自動車の排気ガスなどに含まれる物質が、夏の強い日差しを浴びて化学反応を起こし、目やのどを刺激する有害な成分に変わってしまう――それが空にたまった状態のことです。風の弱い、よく晴れた蒸し暑い日に起こりやすい。だから夏に多かったわけですね。 おもしろいもので、朝のうちは何ともなかった空が、日が高くのぼる昼すぎになると、じわじわと白く濁ってくる。注意報が出るのも、たいてい午後でした。今思えば、太陽が真上から照りつけて、空の上で見えない化学の実験がいちばん盛んに進む時間帯だったわけです。あの「昼休み禁止」は、理屈の上では、ちゃんと筋が通っていたのですね。当時の私には、知るよしもありませんでしたが。 日本でこの被害が初めて大きく知られたのは、昭和四十五年(一九七〇年)七月十八日のこと。東京・杉並の東京立正中学・高校で、体育の授業中だった生徒四十三名が、いっせいに目やのどの痛みを訴えて倒れ、大騒ぎになりました。当時は原因がすぐにはわからず、人びとを不安にさせたといいます。 そして、ちょうど今日――六月六日も、忘れられない日でした。昭和四十七年(一九七二年)の六月六日、関東一帯を大規模な光化学スモッグが襲い、埼玉県では学校の生徒を中心に約千八百人、東京都内でも九百人を超える人たちが、目やのどの痛みを訴えたのです。 注意報が出される延べ日数は、昭和四十八年(一九七三年)にピークを迎え、その年だけで全国で三百日を超えました。昭和五十年ごろまでの数年間は、毎年のように二百五十日以上。――そう、私がランドセルを背負って葛飾の町を駆け回っていた、まさにあの時期が、日本の空がいちばん白く濁っていた季節だったのです。 当時の東京には、注意報が出ているかどうかを知らせる電光の表示灯が、町なかや学校に設けられていたといいます。今の若い人に話しても、なかなか信じてもらえないでしょう。空の状態を、信号機のように灯りで知らせなければならなかった時代があった――そう書いてみると、あらためて、ずいぶん遠くまで来たのだなという気がします。 高度経済成長のまっただ中。車が増え、工場が煙を上げ、町はどんどん便利で豊かになっていきました。その豊かさの裏側で、空はあんなふうに白くかすんでいた。子どもだった私は、便利さの代償なんて言葉も知らないまま、その白い空の下で、ただ無邪気に遊んでいたのですね。 令和の子どもたちには、別の言葉が ところで――最近、「光化学スモッグ注意報」という言葉を、めっきり聞かなくなったと思いませんか。 車の排ガスがきれいになる仕組みが進んだおかげで、あの白い空は、いつの間にか青さを取り戻していきました。今の子どもたちは、校内放送で「外で遊ぶな」と言われた経験など、ほとんどないのではないでしょうか。 その代わりに、今の夏に響いているのは「熱中症アラート」です。「危険な暑さです。屋外での運動は控えてください」――言われてみれば、私たちの「光化学スモッグ注意報」と、ずいぶんよく似ています。空から降ってくる危険の中身は変わっても、晴れた日に子どもを外から呼び戻す、大人たちの心配そうな声だけは、半世紀を越えて変わらないのですね。 もっとも、中身をよく見ると、ずいぶん違うようにも思います。光化学スモッグは、私たちが車や工場で自ら作り出してしまった汚れでした。だからこそ、技術の力で、いったんはきれいに片づけることができた。けれど今の暑さは、もっと大きく、もっと根の深いところから来ているように見えます。教室に閉じ込められてふくれっ面をしていればよかった私たちの時代より、令和の子どもたちが向き合っている空のほうが、ひょっとすると手ごわいのかもしれません。 あのころ、白いモヤの正体もよくわからないまま、注意報なんてどこ吹く風で遊び回っていた私。令和の今、外で遊ぶ子に「暑いから無理しちゃだめだよ」と声をかける側になってみると、なんとも不思議な気持ちになります。あれほど大人の心配を素通りしていた子どもが、いつの間にか、同じ言葉を口にする番になっている。時というのは、そうやって静かに、役回りを入れ替えていくものなのですね。 みなさんの夏空は、青かったでしょうか。それとも、あの白いモヤを覚えているでしょうか。よろしければ、あなたの「注意報」の思い出も、聞かせてください。 また明日、別の「今日」でお会いしましょう。 この連載「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に | 次の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと ▶

June 6, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気

5月31日「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 昭和64年(1989年)の5月31日、世界保健機関(WHO)が「世界禁煙デー」を制定した。 この日付を調べていて、私はふと手が止まった。昭和64年——それは昭和という時代が幕を下ろした年だ。元号としての昭和は1月7日で終わっているけれど、暦の上では5月31日もまだ「昭和64年」と呼べる。煙にまみれた昭和という時代の、いちばん最後の年の5月の終わりに、世界が「もう、煙のない時代へ行こう」と号令をかけた。そう思うと、なんだか出来すぎた偶然のように感じられて、しばらく考え込んでしまった。 私は昭和44年生まれで、子ども時代をすっぽり昭和の中で過ごした世代だ。そして改めて思うのは、あの頃の空気には、文字どおりたばこの煙が溶け込んでいた、ということなのだ。 家じゅうが、煙でできていた 我が家は、父も母も、二人そろって喫煙者だった。 今になって思い返すと、私はずいぶんと濃い煙の中で育ったものだなと、つい苦笑いしてしまう。茶の間にも灰皿があり、台所にも灰皿があり、家のあちこちで細い煙が立ちのぼっていた。両親がそれぞれ火をつければ、狭い家の中は、ちょっとした煙幕のようになる。今なら「子どもがいる部屋でそんなに……」と眉をひそめられるところだろうが、あの頃はそれが我が家の、ごく普通の風景だった。 そして子どもの私は、それを「煙い」とすら思っていなかった。世の中のすべてがそういう匂いだったから、煙を煙と感じる感覚そのものが、まだ育っていなかったのだ。たばこの匂いは、私にとっては父の匂いであり、母の匂いであり、つまりは「家の匂い」だった。 「echo」を買いに走った夕暮れ そんな家で育ったから、たばこのお使いには、たびたび行かされた。 我が家の銘柄は「echo(エコー)」だった。子ども心にも、たぶん安いやつなんだろうな、と何となく察していた。たしか一箱70円くらいだったと記憶している。親から小銭を握らされて、近所のたばこ屋まで「エコー一つ」と買いに走る。あの頃は年齢確認なんて言葉もなかったから、子どもがたばこを買うのに、誰も何も言わなかった。 たばこ屋というのは、どこも判で押したように同じ店構えをしていた。ガラスのショーケースの中に、色とりどりの箱が定規で測ったように整然と並んでいる。これは専売制のもとで陳列の仕方が細かく決められていたからで、だから日本中のたばこ屋が、似たような顔をしていた。背伸びをして小銭を差し出し、慣れた手つきで箱を渡してもらう、あの短いやりとり。それも昭和の子どもの、ありふれた日課のひとつだった。 昭和を代表する国産たばこ銘柄。左からわかば・しんせい・エコー・ゴールデンバット。どれも庶民に親しまれた安価な銘柄だ。(Photo: Haha169 / CC BY-SA 3.0) そして、お使いを頼んできたのは親だけではない。 中学に上がると、今度は部活の顧問の先生に、たびたびたばこを頼まれるようになった。先生の銘柄は「Peace(ピース)」。練習の合間に「おい、ピース買ってきてくれ」と小遣いを渡され、走って買いに行く。今ならまず間違いなく問題になる話だが、当時はそれが当たり前だった。 そもそも、その先生は野球部の指導をしながら、校庭で平然と一服していたのだ。ノックバットを片手に、口の端にたばこをくわえて、「もっと声出せ!」と檄を飛ばす。煙をくゆらせながらグラウンドに立つ先生の姿に、誰一人として違和感を覚えなかった。思い返すと笑ってしまうけれど、あれもまた、まぎれもない昭和の風景だった。 「ピース」のパッケージ。戦後すぐから続く高級銘柄で、贈り物にも使われた。野球部の顧問が「ピース買ってきてくれ」と言っていたあの箱だ。(Photo: Alf van Beem / CC0 パブリックドメイン) 鼻が覚えている、外の世界の煙 家の外に一歩出ても、世界はやっぱり煙かった。 駅のホームには大きな丸い灰皿が点々と置かれ、白い煙がいくつも立ちのぼっていた。けれど煙かったのはホームだけではない。電車の中でも、バスの車内でも、人々は当たり前のようにたばこを吸っていた。走る車内に煙がたなびき、座席の肘掛けには小さな灰皿がついている。 極めつけは、病院の待合室だ。体の具合が悪くて来ているはずの場所で、患者さんがゆったりとたばこをふかしている。診察を待ちながら、煙の中で順番を待つ。今思えば何とも倒錯した光景だが、当時はそれを誰もおかしいと言わなかった。それくらい、たばこは生活のすみずみにまで、空気のように溶け込んでいたのである。 長い電車やバスの旅から帰って服を脱ぐと、生地に独特の匂いが染みついていた。今思えばそれはまぎれもなく受動喫煙だったのだけれど、あの頃の子どもは「これが電車の匂い」くらいにしか思っていなかった。 ちなみに当時のたばこの値段はこうだった。 時代 一箱の価格(目安) 代表銘柄 昭和40年代 約60〜70円 エコー・わかば・ゴールデンバット 昭和50年代 約120円前後 しんせい・ハイライト 昭和60年代 200円台 マイルドセブン・セブンスター 今の感覚からすると気が遠くなるほど安かった。 「けむりが苦手です」という小さな声 そんな煙だらけの世の中に、少しずつ別の声が混じりはじめたのも昭和のことだった。 昭和51年(1976年)、新幹線「こだま」のたった一両に、こっそり禁煙車が設けられた。十六両編成のうち、わずか一両。けれどこれが子ども連れの旅行者や女性客に思いのほか喜ばれて、「もっと増やしてほしい」という署名運動にまで広がっていった。 昭和53年(1978年)には「嫌煙権」という、当時としては耳新しい言葉が登場する。「たばこのけむりが苦手です」——そう書かれたバッジを胸につける人が現れた。たばこをやめてくれと迫るのではなく、ただ、きれいな空気を吸わせてほしい、という静かな願いだった。 たった一両の禁煙車と、胸の小さなバッジ。そんなささやかなものから始まった変化が、長い時間をかけて世の中の空気そのものを入れ替えていった。その流れの行き着いた先のひとつが、昭和の最後の年の5月31日、あの「世界禁煙デー」だったのだと思う。 煙の向こうにあったもの 今の子どもたちは、路上でたばこを吸う大人を見ることのほうが珍しくなった。駅のホームから、あの銀色の大きな灰皿はすっかり姿を消した。電車の中はもちろん、病院の待合室でたばこを吸う人など、もうどこにもいない。野球の指導中に校庭で一服する先生など、今では考えられないだろう。 変わってよかったと、心から思う。健康のためにも、子どもたちのためにも。 それでも、と思う。鼻の奥に残るあの煙の匂いは、私にとっては、父と母の匂いそのものだ。二人がそれぞれ火をつけて、狭い茶の間に煙が満ちていく——あの頃はそれが、ごく当たり前の家族の風景だった。「エコー一つ」と握らされた小銭の感触も、「ピース買ってきてくれ」と笑っていた先生の声も、今でもふっと胸の奥でよみがえる。煙そのものを懐かしむわけではないけれど、その煙の向こうにあった昭和という時代は、たしかに、私の子ども時代そのものだった。 ひとつだけ、自分でも不思議に思うことがある。あれだけ濃い煙の中で育ったというのに、私も妹も、大人になってからついにたばこを吸うことはなかった。理由はよくわからない。たばこ屋まで走った日々が、あんなにも当たり前だったのに。あるいは、当たり前すぎたからこそ、自分で火をつけてみようとは思わなかったのかもしれない。煙の中で育った子どもが、煙を選ばなかった——それもまた、昭和から平成へと移りゆく、時代の変わり目に立っていたということなのだろうか。 あなたの家では、たばこはどんな存在だったでしょうか。誰かのお使いで、たばこ屋まで走った夕暮れを、覚えていますか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月30日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代 ▶ ...

May 31, 2026

昭和の今日は何があった日? ―5月26日―

5月26日 ― 高速の夢と、海辺の悲劇 昭和の5月26日という日付には、まるで表と裏のように、ふたつのまったく違う出来事が刻まれている。 ひとつは、日本中が前向きな興奮に沸いた日。もうひとつは、晴れた海辺で突然に悲劇が訪れた日。どちらも昭和という時代の、正直な顔だと思う。 「東名」が全部つながった ― 昭和44年5月26日 1969年(昭和44年)のこの日、東名高速道路が全線開通した。 東京インターチェンジから愛知県の小牧インターチェンジまで、約346キロ。それまで国道1号線を使えば東京から名古屋まで9時間半かかっていたのが、一気に5時間を切るようになったという。足柄サービスエリアで記念式典が行われ、建設を支えた外国人技術顧問たちも出席して全線を走り抜けたと記録されている。 私が生まれたのは、この年の4月だ。つまり東名が全線つながったのは、私の誕生からわずか1ヶ月後のことになる。生まれた直後の日本で、こんな一大事が起きていたとは、調べてみるまで知らなかった。 もちろん、生後1ヶ月の私にその意味がわかるはずもない。 そして正直に言えば、「東名高速でドライブ」というのは、私の子ども時代には縁遠い話だった。父の休みといえば、まとまって休めるのは正月の1日と2日だけ。あとは週に一度、平日に休みがあるだけだった。家族がそろう日曜日に父がいる、ということ自体がなかった。だから家族みんなで出かけるという機会は、ほとんどなかった。自家用車を持てるほどの余裕もまだなかった。 宿泊旅行など、したことがなかった。 でもそれは、私の家だけの話ではなかったと思う。周りの友達の家も、似たようなものだった。父が必死で働いてくれているのは、子どもながらにわかっていた。だから「どうして旅行に行かないの」とか「なんで車がないの」なんて、口に出したことは一度もない。それは「高嶺の花」であって、羨むものでもなかった。そういう時代だった。 東名高速道路・厚木インターチェンジ付近。背景に大山を望む。昭和44年のこの日、この道がつながった。(Photo: Σ64 / CC BY-SA 3.0) ただ、テレビのニュースに映る東名高速の映像は、なんとなく覚えている。ずらりと並ぶクルマ、広いサービスエリア、富士山を背景にした高速の風景。画面の向こうの話ではあったけれど、「いつかはああなりたい」という気持ちを、国民みんなが抱いていたのかもしれない。豊かになっていくことへの期待と意欲を、あの時代のテレビはうまく掻き立てていたように思う。 昨年の夏、大阪まで それから半世紀以上が経った。 昨年の夏、私は子どもたちを車に乗せて、3泊4日の大阪旅行に出かけた。自宅近くの首都高の入口から乗って、一度も高速を降りることなく大阪まで着いてしまった。一昨年の夏は5泊6日で福井まで行ったが、やはりすべて高速道路でつながっていた。 ハンドルを握りながら、何度か不思議な気持ちになった。 これだけの距離を、これだけ快適につないだ道を、誰かが作ったのだ。山を削り、川に橋をかけ、トンネルを掘り、何年もかけて。あの昭和44年の式典に出席した技術者たちが、その最初の大仕事をやり遂げた。そう思うと、先人たちの仕事への畏怖と感謝が、運転しながら自然と湧いてきた。 そしてもうひとつ、胸の奥にあたたかいものが来た。 私が子ども時代にできなかった「家族旅行」を、今、自分の子どもたちとしている。それは私だけが特別になったわけではない。あの時代から少しずつ、多くの家族が同じことをできるようになった。問題がないわけではないけれど、それでも私たちは「豊かになっている」と実感できる。その豊かさは、必死で産み育ててくれた父と母の上に積み重なっているものだ、と思ったら、感謝の気持ちが溢れてきた。 そしてふと思った。数十年後、私の子どもたちはどんな時代に、どんなことを思い返すのだろう。その想像が、なんだかとても楽しかった。 遠足の海辺で ― 昭和58年5月26日 ところでこの5月26日には、もうひとつ忘れてはならない出来事がある。 1983年(昭和58年)の午前11時59分。秋田県の沖合を震源とするマグニチュード7.7の大地震が起きた。「日本海中部地震」だ。 揺れ自体は震度5。しかし地震の数分後、日本海沿岸に最大6メートルを超える津波が押し寄せた。死者104人のうち、100人が津波で命を落とした。 その中に、遠足中の小学生たちがいた。 秋田県の合川南小学校の4年生と5年生が、2台のバスで男鹿半島の加茂青砂海岸を訪れていた。バスの中で揺れが収まるのを待ったあと、海岸に降りてお弁当を広げようとした瞬間、津波がきた。13人の子どもたちが波にのまれた。 昭和58年、私は14歳だった。同じ5月の晴れた日、遠足でお弁当を広げようとしていた子どもたち。その光景を想像するだけで、言葉が出ない。 1983年(昭和58年)5月26日・日本海中部地震の震度分布図。津波で104人が犠牲になった。(出典:気象庁 / CC BY 4.0) 日本海側では津波の経験が少なく、地震のあとに海へ近づいてはいけないという意識が広まっていなかった。それが被害を大きくした。この地震を機に、日本では津波防災教育が大きく変わっていった。 それでも、2011年の東日本大震災では、日本海中部地震とは比較にならないほどの津波が三陸沿岸を飲み込み、二万人近い命が失われた。教訓を積み重ねてきたはずの私たちが、また大自然の前に立ち尽くした。 人間の生み出す力は偉大だと思う。東名高速道路のように、山を削り、川に橋をかけ、何年もかけて道をつなぐ。そういう力を、私たちは確かに持っている。しかし大自然の前では、その力が幾度となく無力になる瞬間がある。絶望を知り、それでも立ち上がり、また前へ進む。日本という国は、そうやってここまで来た。 これからも、きっとそうやって進んでいくのだと思う。 同じ日付に、ふたつの昭和 高速道路の開通に沸いた昭和44年と、遠足の子どもたちが津波に飲み込まれた昭和58年。 同じ5月26日に、まるで違う昭和がある。前に進む喜びと、自然の前での人間の無力さ。どちらも昭和という時代が正直に刻んだ記録だ。 あなたにとって、昭和の5月はどんな思い出が残っているだろうか。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった ▶

May 26, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代

今日は5月17日。 昭和60年(1985年)のこの日、男女雇用機会均等法が成立した。職場における男女の差別を禁止し、募集、採用、昇給、昇進など多くの面で男女を平等に扱うことを定めた法律だ。 法律の名前だけ聞くと、難しい話のように感じるかもしれない。でも私にとってこの法律は、あの頃の母親の背中と深くつながっている。 「男は仕事、女は家庭」という時代 昭和の日本には、当たり前とされていた空気があった。 「男は仕事、女は家庭」。 女性は学校を卒業して就職しても、結婚したら退職するのが当然という慣例が多くの職場に存在した。当時、女性は就職しても数年で辞めていくのが慣例で、男女は平等には扱われていなかった。多くの企業は男女を分けて賃金管理や労務管理をしており、女性は補助労働者として扱われていたのだ。 「寿退社」という言葉があった。結婚を機に会社を辞めることを、まるでおめでたい卒業のように呼んでいた。女性が働き続けることへの社会の目は、今とはまったく違っていた。 それでも昭和の母親たちは働いていた。家庭を守りながら、子どもを育てながら、パートとして、内職として、様々な形で家計を支えていた。 テーブルの上の100円玉と、母の仕事 少し前の記事に書いた話を、もう一度思い出している。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はなかった。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃の母は、何をしていたのだろう。どんな仕事場で、どんな気持ちで働いていたのだろう。子どもだった私には、考えも及ばなかった。 でも今になって思う。昭和の母親がパートとして働くということは、今よりずっと「肩身の狭い」ことだったかもしれない。「母親なのに家を空けて」という目が、社会のどこかにあった時代だ。それでも働いたのは、家族のためだけではなく、自分自身の何かのためでもあったはずだと思う。 スチュワーデス、保母、看護婦──あの呼び名が変わった日 男女雇用機会均等法の成立は、目に見える形でも昭和の風景を変えた。 施行されると、「保母」が「保育士」に、「看護婦」が「看護師」に、「スチュワーデス」が「客室乗務員」などと呼称も変更された。 子どもの頃、テレビのCMに「スチュワーデス」という言葉が出てくると、華やかな憧れの職業として映っていた。「保母さん」という言葉も、幼稚園や保育園の優しい先生の代名詞だった。 その言葉が変わるということは、仕事に対する社会の見方そのものが変わっていくということだった。女性だけの仕事、男性だけの仕事、という区分けが少しずつ溶けていく。昭和という時代の終わりごろに、その変化は静かに始まっていた。 「均等」への道は、遠かった ただ正直に言えば、法律が成立しても、最初は採用や昇進について「禁止」ではなく「努力義務」にとどまっていた。多くの経営者が法制化に強く反対したという背景もあった。 昭和60年の法成立から、実質的な禁止規定へと強化されるまで、さらに月日が必要だった。法律が変わることと、社会が変わることには、タイムラグがある。 それでもあの法律は、確かに何かを変えた。昭和の働く母親たちが、今日という日の積み重ねの上に社会を押し広げていったことを、私はあの100円玉2枚とともに覚えている。 娘たちが生きる時代へ 今、私には子どもが5人いる。そのうちの娘たちが大人になって働く時代は、昭和の母親が生きた時代とはずいぶん違う。 今年の1月、大学受験を控えた娘の合格祈願で湯島天満宮に参拝した話を以前書いた。娘が夢を持って大学に進み、自分のキャリアを考えられる時代。それは昭和60年5月17日に成立した法律が、その後の何十年もかけて少しずつ作ってきた時代でもある。 男女雇用機会均等法という言葉を、娘に説明したことがある。「昔はそんな法律がなかったの?」と娘は少し驚いた顔をした。 その顔を見て、時代が変わったのだと実感した。 おわりに 昭和60年5月17日、一本の法律が成立した。 完璧ではなかった。すぐに世の中が変わったわけでもなかった。でもテーブルの上に100円玉を置いて子どもたちのために働いていた昭和の母親たちの背中が、この法律を少しずつ前に押し進めていったと思う。 あなたのお母さんも、あの時代に何かを背負いながら働いていたのではないだろうか。 今日、そのことを少し思い出してもらえたら嬉しい。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 ▶

May 17, 2026

青カップのグローブ ― 昭和の空き地と、母のパート代と

高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。紐が切れたのだという。その紐を手にしながら、ふと遠い記憶の蓋が開いた。 昭和の子供の放課後は、今とはまるで違う世界だった。 ランドセルを家に放り込んで外に出ると、近所の空き地には学年もクラスも関係なく子供たちが集まっていた。誰かが仕切るわけでもなく、気がつけばチームに分かれて野球が始まっている。そういう時代だった。 野球のルールを教えてくれたのも、プレーを褒めてくれたのも、みんな上級生だった。今でいう「地域の子育て」が、あの空き地では自然に成立していた。 ある日、先輩のひとりが使っているグローブが目に入った。 一目見た瞬間に、全身が反応した。あれが欲しい。 青地に白糸。カップ型に刺繍されたマーク。後から知ることになるが、それが「美津濃(ミズノ)青カップ」だった。軟式用が青、硬式用が赤。昭和の野球少年なら誰もが憧れた、あのグローブだ。 まず向かったのは、イトーヨーカドーに入っていたスポーツ店だった。しかし置いていない。 今のように大型スポーツ専門店があちこちにある時代ではなかった。どこに行けば買えるのか、小学4年生の自分には見当もつかなかった。 そこへ転機が訪れた。同じグローブをすでに買ってもらったクラスメイトが現れたのだ。うらやましさで胸がいっぱいになりながら、とにかく聞き出した。メーカーはどこか。どこで売っているのか。 教えてもらった店は、自転車で20分ほどのところにあった。ドキドキしながら扉を開けると、店内にはミズノのグローブがずらりと並んでいた。あの青カップもあった。手に取った瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。 メーカー 美津濃(ミズノ) マーク 青カップ(軟式用) ウェブ タータンウェブ 種別・価格 オールラウンド用・7,800円 帰宅して母に話した。「あのグローブが欲しい」と。 当然、即答はなかった。しかし母はこう言ってくれた。「パートのお給料日まで待っていてね。」 7,800円。昭和の専業主婦がパートで稼ぐ金額の重さが、大人になった今にはわかる。それを出してくれるということが、どれだけのことだったか。 それからの毎日が、我ながら笑える。 放課後になると例の店へ自転車を走らせ、グローブを手に取っては棚の奥深くに押し込んで帰る。他の誰かに買われてしまわないように。それを給料日当日の夕方まで、毎日続けた。 そしてついに、その日が来た。 母のパート先の前で、仕事が終わるのを待ち構えた。そのまま二人で自転車を走らせ、店へ向かった。 店主のおじさんは僕の顔を見るなり、すぐに覚えていてくれた。毎日確認に来ていたのだから当たり前といえば当たり前だが、おじさんも一緒になって喜んでくれた。昭和の商店街には、そういう温かさがあった。 美津濃。青カップ。タータンウェブ。オールラウンド用。7,800円。 あの日グローブを手にしたときの感触は、半世紀近く経った今も手のひらに残っている。 あの頃から今まで、いくつものグローブと出会ってきた。どれも、それぞれに大切な記憶として胸の奥にしまってある。 先日、高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。その紐を手にしながら、ふとあの空き地のことを思い出した。上級生たちのこと、クラスメイトのこと、そして母のパートのお給料日のことを。 今、グローブを通じて息子と関わっていること。それが、また新しい宝物になっていく気がする。 あわせて読みたい▼ 千羽鶴に込められた思い──甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと 野球少年の帽子、どう洗ってる?キャップウォッシャーで型崩れなし

May 11, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話

今日は母の日だ。 5月の第2日曜日。店先にカーネーションが並び、テレビのCMが「お母さんへの感謝を」と呼びかける、毎年やってくるこの日。 今年の母の日は、少し違う気持ちで迎えている。 母が入院しているからだ。 今年88歳になる母は、今、病院のベッドの上にいる。容態は楽観できない。だからこそ今日という日が、いつもより少しだけ重く、そしてあたたかく感じられる。 一人の少女の「ありがとう」から始まった 母の日の始まりは、20世紀初頭のアメリカだ。 1905年5月9日、アメリカのフィラデルフィアに住むアンナ・ジャービスという女性の母が亡くなった。母は生前、南北戦争で傷ついた兵士たちの看護に人生を捧げた人だった。アンナはその母をしのんで教会に白いカーネーションを飾り、「生きているうちに母に感謝を伝える日を作るべきだ」と訴え続けた。 その想いがアメリカ中に広がり、1914年、ウィルソン大統領が5月の第2日曜日を「母の日」として国民の祝日に定めた。 日本には大正時代にキリスト教を通じて伝わり、昭和12年(1937年)に森永製菓が「森永母の日大会」を大々的に開催したことで全国に広まった。そして戦後の昭和24年(1949年)ごろから、5月の第2日曜日が定着した。 一人の少女が亡き母に手向けた白いカーネーションが、海を越えて昭和の子どもたちの手にも届いた。 昭和の子どもと、カーネーション問題 昭和の母の日に、子どもたちを悩ませたことがあった。 カーネーションをどうやって渡すか問題だ。 学校ではこの時期、図工の時間に赤いカーネーションを折り紙や画用紙で作ることが多かった。または近所の花屋で本物を買う。問題はその先だ。 「はい、これ」と無造作に渡せれば苦労はない。でも昭和の子どもにとって、母親に面と向かって「いつもありがとう」と言うのは、気恥ずかしくてたまらないことだった。 テーブルの上にそっと置いておく。気づかれないうちに花瓶に差しておく。そういう作戦を取った子どもは多かったはずだ。母親はそれをわかっていて、わざと気づかないふりをして後で「あら、かわいい」と言ってくれる。その距離感が、昭和の親子の間にはあった。 思えば、照れくさくて言えないことを花が代わりに言ってくれる──それがカーネーションという花の役割だったのかもしれない。 テーブルの上の100円玉と、母の背中 昨日の記事で、こんな話を書いた。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はない。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃、母がどんな思いでその100円玉を置いていたか、子どもの私には考えも及ばなかった。ただ嬉しくて、握りしめて飛び出していた。 でも母の日になると、ふと気になった。お母さんは今日も仕事に行くのだろうか。疲れていないだろうか。毎日毎日、子どもたちのために働いて、帰ってきてご飯を作って、洗濯をして。それが当たり前の風景すぎて、当たり前すぎることに気づかなかった。 カーネーションを買いに行ったのは、母の日の朝だった。近所の花屋で赤いカーネーションを1本選んだ。帰ってきた母に、うまく渡せたかどうか、正直あまり覚えていない。たぶん「はい」と差し出して、母が「ありがとう」と言って、それで終わりだったと思う。 でも母は、そのカーネーションをちゃんと花瓶に差して、しばらく飾っていた。 88歳の母へ あれから何十年が経った。 母は妹の最初の出産を機に、妹夫婦と同居するようになった。3人の孫に囲まれた暮らしの中で、妹の子どもたちだけでなく、私の子どもたちも合わせて8人の孫を可愛がってくれた。 昭和の時代に私たち兄妹を育て、平成を生き、令和になっても孫たちの笑顔の中心にいた。そんな母が今年、88歳になる。 今、母は入院している。病室のベッドの上で、今日の母の日を迎えている。容態は、楽観できるものではない。 それでも──いや、だからこそ、今日ははっきりと言いたい。 私たち兄妹を育ててくれて、8人の孫を可愛がってくれて、本当にありがとう。 私はあなたの子どもで、本当に良かった。 照れくさくて昭和の子どもの頃には言えなかった言葉を、57歳になった今、この場所に書いておく。 おわりに 母の日に母親が健在であれば赤いカーネーションを贈る、という習慣がある。アンナ・ジャービスが白いカーネーションから始めた母の日が、日本では赤と白という形に引き継がれた。 今日、赤いカーネーションを贈れる人は、ぜひ贈ってほしい。 照れくさくてもいい。うまく言葉にならなくてもいい。昭和の子どもたちがそうだったように、花がきっと代わりに言ってくれる。 あなたのお母さんの、あの頃の背中を、今日だけ少し思い出してもらえたら嬉しい。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間 ▶

May 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳

今日は5月5日、こどもの日だ。 ゴールデンウィーク最後の祝日。子どもにとっては「もうすぐ学校が始まる」という一抹の切なさと、それでも「今日はまだ特別な日だ」という気持ちが混在する、不思議な一日だった。 昭和の5月5日には、今では見かけなくなったある光景があった。 空を泳ぐ、大きな鯉のぼりだ。 空が、鯉で埋まっていた 昭和40年代から50年代にかけて、こどもの日が近づくと、日本中の住宅街の空に鯉のぼりが上がった。 大きな真鯉(黒)、その下に緋鯉(赤)、そして小さな子鯉(青)。一家に男の子がいれば、屋根の上に竿を立て、高々と鯉のぼりを掲げるのが当たり前だった。風が吹くたびに鯉のぼりがはためいて、丸く開いた口から風を飲み込んでいく。あの姿は、昭和の5月の空の定番だった。 「♪屋根より高い鯉のぼり」という歌の通り、本当に屋根より高いところに掲げた家が多かった。父親が梯子をかけて竿を立てる姿を、子どもは下から見上げていた。 鯉のぼりの由来は江戸時代に遡る。中国の伝説に「滝を登り切った鯉は竜になれる」というものがあり、それにちなんで「この子も鯉のように、どんな困難も乗り越えて育ってほしい」という親の願いが込められた。でも子どもだった私には、そんな由来はどうでもよかった。あの大きな黒い鯉が空に泳いでいるのを見るだけで、なんとなく特別な気分になれた。それだけで十分だった。 兜と、柏餅と、そして銭湯へ 昭和のこどもの日には、家の中にも決まった景色があった。 床の間や棚の上には兜飾りや五月人形が鎮座していた。黒塗りの台の上に飾られた金色の兜は、子どもの目には圧倒的な存在感があった。触ってはいけないと言われながら、こっそり手を伸ばした記憶がある。 食べ物といえば柏餅。柏の葉で包まれた白いお餅の中に、あんこが入っている。柏の葉は「新しい芽が出るまで古い葉が落ちない」という特徴があり、「子孫繁栄」の縁起を担ぐとされていた。昭和の子どもには縁起よりも、あの独特の葉の香りとモチモチした食感の方が大切だったけれど。 そして夜になると、父か母に手を引かれて、銭湯へ向かった。 あの頃、まだ家にお風呂がない家庭は珍しくなかった。昭和40年代の日本では、内風呂の普及率はまだ6割にも満たなかったという。近所の銭湯が、毎日の生活に当たり前のように溶け込んでいた時代だ。 こどもの日の銭湯には、菖蒲湯が用意されていた。大きな湯船に、細長い菖蒲の葉が何本も浮かんでいる。独特の青くさい香りが、湯気と混じって浴室に漂っていた。菖蒲の強い香りが邪気を払うと言われていたし、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武」「勝負」と同じ読みであることから、男の子の健やかな成長を願う意味もあった。 銭湯のおじさんかおばさんが、湯船に菖蒲をどっさりと入れてくれていた。あの光景は、こどもの日だけの、特別な銭湯の顔だった。 湯上りの、コーヒー牛乳 銭湯から上がった後の記憶が、今も鮮やかに残っている。 体を拭いて着替えて、番台の横の冷蔵ケースの前に立つ。そこに並んでいた瓶入りの飲み物の中から、母が「今日はこどもの日だから」と言って、コーヒー牛乳を買ってくれた。 瓶のふたを開けると、甘い香りがふわっと立ちのぼる。冷たくて、甘くて、ほんのりビターで。あの味は、コーヒー牛乳というよりも「ご褒美」そのものだった。普段はなかなか買ってもらえなかったから、特別感がひとしおだった。 当時の銭湯の定番飲み物といえば、白い牛乳、フルーツ牛乳、そしてコーヒー牛乳の三種類が並んでいた。腰に手を当ててグビグビと飲む、あのスタイルも含めて、銭湯帰りの儀式のようなものだった。 コーヒー牛乳1本、ちょっぴり嬉しかった。そのくらいの小さな幸せが、昭和のこどもの日には確かにあった。 鯉のぼりが空から消えていった それから時代が変わった。 昭和50年代後半になると、住宅街の空を泳ぐ大きな鯉のぼりが、少しずつ減っていった。都市部でマンションや集合住宅が増え、大きな竿を立てられる家が少なくなった。内風呂が普及し、銭湯が一軒また一軒と姿を消していった。瓶入りのコーヒー牛乳も、紙パックやペットボトルに取って代わられた。 鯉のぼりが似合っていたのは、あの時代の暮らしの形そのものだったのかもしれない。庭付きの一軒家、縁側、床の間。毎日歩いて通う近所の銭湯。そういう暮らしが当たり前だったからこそ、鯉のぼりもコーヒー牛乳も、あれほど輝いて見えた。 町の空が変わり、家の形が変わり、暮らしが変わる中で、昭和のこどもの日の風景は、少しずつ遠ざかっていった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には大きな鯉のぼり。夜には銭湯の菖蒲湯。そして湯上りに、冷たい瓶のコーヒー牛乳。 あれだけのことが、あんなにも嬉しかった。 昭和を生きた私たちにとって、こどもの日はそういう日だったのだと思う。あなたの記憶の中の5月5日には、どんな味や香りが残っているだろうか。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月4日──ラムネと予言と、休日になった日 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々 ▶

May 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々

今日は5月5日、こどもの日だ。 空には鯉のぼりが泳ぎ、家には柏餅があって、夜は銭湯の菖蒲湯に入る。昭和のこどもの日にはそういう、穏やかで決まった景色があった。 でも、テレビをつければ、そこには違う景色が映っていた。 難しい顔をしたアナウンサーが、子どもには意味のわからない言葉を繰り返していた。「あさまさんそう」「ロッキード」「りんちょう」。何かが起きているとは感じた。でも何が起きているのかは、わからなかった。 あれから五十年近くが経った。今ならば、あの言葉の意味がわかる。 鉄球が、山荘に打ち込まれた──浅間山荘事件(昭和47年) 1972年の冬、日本中がテレビの前に釘づけになった。 2月19日、長野県軽井沢の山荘に武装した若者たちが立て籠もった。「連合赤軍」という名の学生運動グループが、管理人の妻を人質に取り、山荘に閉じこもったのだ。警察との対峙は10日間に及んだ。 子どもだった私には、「立て籠もり」という言葉の意味もよくわからなかった。でも、テレビに映し出された光景は目に焼き付いている。雪の中に機動隊員が並んでいて、クレーン車の先に大きな鉄球がぶら下がっていた。 2月28日の強行突入、あの鉄球が山荘の壁に打ち込まれる瞬間、視聴率は89.7%を記録した。ほぼ日本中の家のテレビが、同じ画面を映していたことになる。 事件が終わった後、もっと恐ろしい事実が明らかになっていった。 連合赤軍のメンバーたちは、山荘に立て籠もる前に、山の中で仲間どうしを「総括」という名目で殺し合っていた。14人が粛清された。革命を叫んでいた若者たちの末路は、自分たちの手で仲間を殺すことだったのだ。 大人たちが深刻な顔でそのことを話していた。子どもには意味がわからなかった。でも、何か取り返しのつかないことが起きたのだということは、なんとなく伝わってきた。 あの事件が、日本の学生運動の「終わりの始まり」だったと、今はわかる。 総理大臣が、捕まった──ロッキード事件(昭和51年) 「ロッキード」という言葉を、初めて聞いたのはいつだっただろうか。 1976年、私はまだ小学生だった。ニュースでは毎日のように「ロッキード」という聞き慣れないカタカナが飛び交っていた。父が「大変なことになった」と言いながらテレビを見ていた。 アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、日本の政治家や官僚に巨額の賄賂を渡していた。そのことが、2月のアメリカ上院の公聴会で暴露された。日本中が震えた。 そして7月、信じられないことが起きた。 元総理大臣の田中角栄が、逮捕されたのだ。 子どもながら、これは普通のことではないと感じた。総理大臣というのは日本で一番偉い人のはずだ。その人が手錠をかけられて連行される——そんなことがありえるのか、と。 「5億円」という金額がニュースで繰り返された。子どもには5億円がどれくらいの金額なのか想像もできなかったけれど、大変な数字だということはわかった。父が「やっぱりそういうことか」とつぶやいていた。 田中角栄という人は不思議な人だった。 逮捕されて裁判にかけられても、なお選挙では大量得票で当選し続けた。地元の新潟では英雄扱いだった。「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれた政治手腕を惜しむ声は根強かった。有罪判決が確定した後も、「闇将軍」として政界に影響力を持ち続けた。 この事件は「政治とカネ」という言葉を日本語に定着させた。それから五十年、同じ言葉が何度も何度も繰り返されている。 あの夏に見たニュースの衝撃は、大人になった今も消えない。 国鉄が、なくなった──臨調と行政改革(昭和56年) 「国鉄がなくなる」と聞いたとき、子どもの私には意味がわからなかった。 国鉄とは「国有鉄道」のことで、日本全国の鉄道を国が直接運営していた組織だ。昭和の子どもにとって、国鉄は空気のような存在だった。旅行に行けば国鉄、通学に使えば国鉄。あって当たり前で、なくなるはずのないものだと思っていた。 1981年3月、鈴木善幸内閣は「第二次臨時行政調査会」、通称「臨調」を発足させた。会長は土光敏夫という財界の大物で、「増税なき財政再建」というスローガンを掲げた。国鉄・電電公社・専売公社という三つの巨大な国営事業を民間に移すという、大改革の議論が始まった。 5月5日の頃、その審議は本格的に動き出していた。 でも子どもには、臨調が何なのかわからなかった。なぜ国鉄をなくす必要があるのかもわからなかった。ニュースの映像に出てくる難しい顔のおじさんたちが、難しい言葉で何かを言い合っている。それだけだった。 あれから時が流れ、1987年、国鉄は本当になくなった。 JR東日本、JR西日本、JR東海——今私たちが毎日使っている鉄道会社は、あの議論の果てに生まれたものだ。電電公社はNTTになり、専売公社はJTになった。「官から民へ」という言葉が日本政治のキーワードになり、その流れは二十年後の小泉構造改革まで続いた。 国鉄の赤字は、廃止の時点で37兆円にのぼっていたという。その借金は国民全体で分担することになった。平成になっても、令和になっても、まだ返し続けているものがある。財政の問題というのは、一度積み重なると、そう簡単には消えない。 「国鉄がなくなる」という言葉の本当の意味を、子どもの私はわかっていなかった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には鯉のぼりが泳いでいた。でも、テレビの中では何かが揺れていた。 浅間山荘の鉄球。田中角栄の逮捕。国鉄をなくすという議論。 子どもだった私には意味がわからなかった。でも、あの出来事のひとつひとつが、今の日本を作ってきた。警察の特殊部隊が生まれ、「政治とカネ」という言葉が定着し、JRとNTTが誕生した。 大人たちがあの頃に格闘していた問題が、形を変えて今も続いている。 こどもの日に、昭和の大人たちが背負っていたものを振り返る。それが、あの時代を生きた私たちにできることのひとつかもしれない。 あなたの記憶の中の5月5日には、テレビの向こうにどんな景色が映っていただろうか。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月6日──「ワープロ」という言葉が生まれた日、そして今 ▶

May 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】4月30日──カードを集めたくて、スナックを買い続けた

今日は4月30日。ゴールデンウィークのど真ん中だ。 昭和の子どもにとって、この時期は「連休の中日」という感覚よりも、「外で遊びまくる日々の一つ」という感じだった。近所の空き地、駄菓子屋、公園──あの頃の春休みやGWの記憶が、なんとなく頭の中によみがえってくる。 そんな4月30日に、昭和40年代から64年のあいだ、何があったのか。今回は3つの出来事を振り返ってみた。 昭和46年(1971年)──「仮面ライダースナック」という、社会問題 4月30日ぴったりの話ではないが、昭和46年(1971年)の4月に起きた出来事として欠かせないものがある。 仮面ライダースナックだ。 4月3日に仮面ライダーの放送が始まると、カルビーは「仮面ライダースナック」を発売した。1袋20円のスナック菓子に、仮面ライダーカードが1枚封入されていた。カードの裏には怪人の能力や弱点、ストーリーの解説が書いてあって、集めれば集めるほど仮面ライダーの世界が広がっていく。 子どもたちは夢中になった。 問題は、カードを手に入れた後のスナックだ。 当時の子どもたちは、カードだけ抜いてスナックを捨てていた。ゴミ箱に、道ばたに、スナックだけが山積みになっていく光景が全国で続出した。「食べ物を粗末にしている」と大人たちは怒った。これが社会問題として報じられ、カルビーはスナックの量を増やしたり、「残さず食べましょう」と呼びかけたりと、いろいろな対応を迫られた。 でも子どもにとっては、スナックよりカードのほうが大切だったのだ。当たり前だ。 この「カード付き菓子」の仕組みは、後のビックリマンチョコや現代の食玩・トレーディングカードゲームへと受け継がれていく。仮面ライダースナックは、日本のおまけ文化の原点の一つと言えるかもしれない。 昭和50年(1975年)4月30日──テレビの前で、大人が固まっていた日 これは子ども目線ではなく、大人の話だ。 昭和50年のこの日、ベトナム戦争が終結した。 北ベトナム軍の戦車が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)の大統領官邸に突入し、南ベトナム政府が崩壊した。アメリカ大使館の屋上からヘリコプターで逃げ出す人たちの映像は、世界中に衝撃を与えた。 日本では、NHKがこの日の正午前に速報を流し、夜には特別番組を編成した。 ベトナム戦争は1965年ごろから日本でも反戦運動と結びついて語られ続けてきた戦争だ。昭和40年代の子どもたちにとっても、学校でも家でも「ベトナム」という言葉は時々耳に入っていたはずだ。何かが起きているらしい、遠い国で戦争をしているらしい──そんな漠然とした感覚。 この日、テレビの前で大人たちが真剣な顔をしていたのを、当時の子どもたちは覚えているだろうか。私にとっても、大人がニュースを見て黙り込んでいるのを横目で眺めていた記憶がある。 戦争が終わったのに、なぜ大人たちはあんな顔をしていたのだろう。長い時間が経った今なら、少しわかる気がする。 昭和46年(1971年)──変身ブームと、あの春の空気 仮面ライダーが放送を始めたこの春、昭和46年の4月は子どもたちにとって特別な季節だった。 仮面ライダーが始まる少し前、同じく昭和46年の4月には『帰ってきたウルトラマン』も放送開始していた。怪獣ブームが再びやってきて、「変身」というキーワードが街中に溢れていた時代だ。 「変身!」と叫んで両腕を広げるポーズは、翌年以降に登場する仮面ライダー2号・一文字隼人から生まれた。だが昭和46年の春、まだそのポーズも生まれる前から、子どもたちは自転車にまたがって風を切り、どこかのバッタの怪人を倒しに行くつもりでいた。 カードを集め、スナックを捨て、変身ポーズの真似をして、ちょっと怖いけど目が離せなかったあのヒーロー。 昭和46年の4月30日は、そんなブームの真っ只中にあった。 おわりに 4月30日という日に、私が知らなかった昭和の断片がここにある。 カードのためにスナックを買い続けた子どもたち。テレビの前で黙り込んでいた大人たち。変身ブームの熱気の中にいたあの春。 どれも、昭和という時代のリアルな一コマだ。 あなたの記憶の4月30日と、どこかで交差してくれたら嬉しい。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】4月29日──天皇誕生日のこの日、あの黒と白のゲームが生まれた | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月1日──ゴールデンウィークのど真ん中、あの昭和50年の春 ▶

April 30, 2026