【昭和の今日は何があった日?】8月3日──トラと基板とひまわりと。少年に届かなかった三つのニュース

三つ並んで、三つとも空白だった 8月3日という日付を調べていて、少し困ったことになりました。 昭和の出来事が、きれいに三つ出てきたのです。昭和51年のTK-80発売、昭和54年の神野寺トラ脱走事件、昭和59年のひまわり3号打ち上げ。しかも自分の年齢を当てはめてみると、順に小学1年生、小学4年生、中学3年生。少年時代がちょうど三段に切り取られている。 これはいい記事が書けそうだ、と思いました。 思ったのですが、正直に申し上げます。私は、この三つをどれ一つとして覚えていません。 「あの夏か」という手応えが、まったく立ち上がってこない。三つ並んで、三つとも空白でした。 ただ、書きながら気づいたことがあります。同じ「覚えていない」でも、覚えていない理由がそれぞれ違うのです。早すぎて届かなかったもの。近いのに届かなかったもの。近すぎて、届いていることにさえ気づかなかったもの。 その三つの距離の話を、今日は書いてみます。 昭和54年、隣の県でトラが逃げた まずは真ん中の、いちばん派手な話から。 昭和54年8月2日の夜、千葉県君津市の鹿野山にある神野寺という寺で、飼われていたベンガルトラ3頭が檻から逃げ出しました。関東最古とも伝えられる古刹の境内に、当時は観光用の動物園が併設されていて、十二支にちなんだ動物たちが飼われていたのだそうです。 3頭のうち1頭はすぐに戻ってきましたが、生後1年ほどのオスとメスの2頭が行方不明になりました。体長はおよそ1.5メートル、体重は100キロ前後。まだ子どもとはいえ、山に放たれたトラです。 寺からの通報を受けた千葉県警が現地対策本部を設置したのが、翌3日の未明でした。警察官、消防団、猟友会。総勢およそ500人が山に入り、周辺の住民には外出禁止令が出されます。夏休みの真っ最中で、寺の周辺には観光客や合宿中の学生も滞在していました。近くのマザー牧場で予定されていた野外コンサートも中止になっています。 メスは4日の朝に射殺されました。ここで話が複雑になります。全国から「射殺するな」「かわいそうだ」という抗議が殺到し、寺の住職までが射殺という判断を疑問視する発言をした。これに猟友会が激怒して、捜索は一時中断してしまいます。 残るオスは、そこから山中を逃げ続けました。決着がついたのは28日。近隣の民家の飼い犬がトラに襲われて死んでいるのが見つかり、その日のうちに射殺されて、27日間の騒動はようやく終わりました。 日本中がひと夏、山に潜む1頭のトラを追いかけていたわけです。連日ニュースになったはずですし、テレビの前で息を呑んだ子どもも大勢いたはずです。 なのに、私にはその記憶がない。 なぜだろうと考えて、地図を見て、腑に落ちました。君津は、たしかに隣の県です。距離でいえば東京の西のはずれより近いくらいかもしれません。でも当時のわが家に車はなく、父は休みらしい休みがない人で、家族で泊まりがけの旅行に出た記憶も一度もない。房総というのは、私にとって「行ったことのない土地」でした。 行ったことのない土地は、地図の上でどれだけ近くても、遠いのです。10歳の私にとって、鹿野山は月の裏側と大差なかったのだと思います。 昭和51年、8万8500円の基板 次は、いちばん古い話。 昭和51年8月3日、日本電気――今のNECが、TK-80という製品を発売しました。「Training Kit」の頭文字を取った名前のとおり、これは完成品ではありません。ビニール袋に入った部品と、組み立て説明書と、回路図。買った人が自分でハンダごてを握って、一枚の基板の上に組み上げる。そういう代物でした。 価格は8万8500円。中途半端な数字に見えますが、これには理由があって、当時の企業で係長や課長が自分の判断で決裁できる金額の上限が10万円だったからだ、と伝えられています。技術者が上司に相談せずに買える値段。それが8万8500円でした。 そもそも売る側も、これが売れるとは思っていませんでした。マイクロプロセッサという新しい部品を売り込もうにも、客先を回って説明しても理解してもらえない。ならば技術者に触って覚えてもらおう、という販売促進のための教材だったのです。月に200台も出れば上出来、という見込みでした。 ふたを開けたら、月に2000台売れました。 しかも買ったのは想定していた企業の技術者だけではなく、学生や、経営者や、ただの物好きたちでした。秋葉原のラジオ会館に開設されたサポート窓口には人が集まり、そこからパソコンという文化が立ち上がっていく。日本のマイコンブームは、この一枚の基板から始まったといわれています。 このとき、私は7歳。小学1年生の夏休みです。 覚えていないのは当然だ、と胸を張って言えます。だってこれは、大人ですら誰も知らなかった出来事なのですから。売っている本人たちが月200台と踏んでいたものが、どうして下町の小学1年生に届くでしょうか。 ニュースが子どもに届かなかったのではなく、ニュースそのものがまだ存在していなかった。トラの話とは、まるで種類の違う「遠さ」です。 昭和59年、天気予報の裏側が打ち上がった 三つめ。昭和59年8月3日、種子島宇宙センターからN-IIロケット6号機が飛び立ちました。積んでいたのは静止気象衛星「ひまわり3号」です。 ここで少しおかしな話があります。この打ち上げ、本来の予定より2日遅れました。理由は、台風7号の接近です。 台風を見張るために飛ばす衛星が、台風に足止めされていた。昭和の夏らしいというか、なんとも人間くさい話だと思います。 ひまわり3号は、この年の秋から本格的な運用に入りました。地球の雲の画像を1日に何度も送ってきて、それがそのまま夕方のテレビの天気予報に流れる。私たちが「明日は雨か」と口にするとき、その根拠は宇宙から届いていたわけです。 このとき、私は15歳。中学3年生でした。 そして三つのなかで、この打ち上げを覚えていないことが、いちばん自分でも意外でした。トラや基板と違って、ひまわりの成果は毎日目に入っていたはずだからです。テレビをつければ、白い渦がぐるぐると回っている。あの映像を見ていない日のほうが少なかったでしょう。 ひまわりの初号機が上がったのは昭和52年です。私が小学2年生のときですから、物心ついてからこちら、雲の写真が映る天気予報しか知らずに育ったことになります。3号はその三代目。世代交代が起きていたことにも、当然ながらまるで気づいていませんでした。 つまり私は、恩恵だけを受け取って、その出どころに一度も関心を向けなかったということになります。近すぎて、意識の対象にすらならなかった。空気を覚えていないのと同じことです。 遠すぎて届かないものと、近すぎて見えないもの。人間が取りこぼすものには、どうやら両側があるらしいと、この歳になって思います。 同じ日付、同じ会社 ここまで書いてきて、ひとつ気づいたことがあります。 TK-80をつくったのは日本電気です。そしてひまわり3号を開発・製造したのも、日本電気でした。 8年の隔たりを挟んで、同じ8月3日に、同じ会社が、一方では8万8500円の裸の基板を、一方では宇宙に浮かべる気象衛星を世に出している。片方は日本のパソコン文化の出発点になり、片方は毎日の天気予報を支えた。 昭和という時代の底力みたいなものが、この符合には少しだけ透けて見える気がします。 そして今、私はその基板の子孫にあたる機械でこの文章を書き、朝はその衛星の子孫が撮った雲を見て一日の見通しを立てている。覚えていなかった二つの出来事が、いつのまにか私の生活そのものになっていた。 ...

August 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月2日──道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場

車道の真ん中を、堂々と歩く 道路の真ん中を歩く。あれは何度やっても、少しだけ悪いことをしているような、妙にわくわくする感覚があります。いつもは白い線の内側にいなければいけない場所に、堂々と立っている。あの高揚は、大人になっても変わりません。 その感覚が東京で初めて公式に許されたのが、1970年(昭和45年)8月2日でした。銀座、新宿、池袋、浅草。この4か所で、東京都内初の歩行者天国が実施されたのです。このとき私は1歳4か月。当然ながら記憶はありませんが、今回調べていて、なぜ道路を人間に返さなければならなかったのかを知り、少し息を呑みました。 「道路が笑顔で埋まった」 その日の人出は、4か所あわせておよそ80万人。 翌8月3日の東京新聞は、朝刊の1面トップでこの日を伝えました。見出しは「道路が笑顔で埋まった」。当時の写真を見ると、銀座通りは本当に人・人・人で埋め尽くされています。日傘、半袖のワイシャツ、子どもの手を引く母親。そのすべてが、いつもは車が占領しているはずのアスファルトの上に立っている。 言い出したのは、当時の東京都知事・美濃部亮吉さんでした。「車から人間へ」。この一言に、あの時代の東京が抱えていたものが全部詰まっています。 なぜ、道路を人間に返す必要があったのか 1970年は、日本の交通事故死者数が過去最悪を記録した年でした。その数、1万6,765人。1年で、です。あまりの多さに、当時これは「交通戦争」と呼ばれました。日清戦争の戦死者数を上回る勢いで人が死んでいく、という意味です。しかもそのうち15歳以下の子どもが12.5パーセント。8人に1人が子どもでした。 そしてもうひとつ、歩行者天国のわずか2週間前の出来事があります。 1970年7月18日、東京都杉並区の東京立正高校で、体育の授業を受けていた生徒43人が次々と目やのどの痛みを訴え、病院に運ばれました。日本で初めて確認された、光化学スモッグの被害です。この日、同じ症状を訴えた人は都内だけで5,208人。原因は、自動車や工場から出る排気ガスが強い紫外線を浴びて化学反応を起こしたことでした。 体育の授業中に、高校生が空気で倒れる。そんな夏の直後に、東京は道路から車を追い出したのです。歩行者天国というのんびりした響きの裏に、これだけ切実な事情がありました。 道路は、もともと遊び場だった もっとも、道路を人に開放する試みはこれが最初ではありません。1958年(昭和33年)には神田の東紺屋町で、日曜と祝日に道路を柵で仕切って子どもたちの遊び場として提供する「遊戯道路」が設けられ、後に都内へ広がっていきました。 「遊戯道路」という言葉が、私はとても好きです。道路は遊ぶところだ、と大人が認めていた。子どもが道路で遊ぶのは当たり前で、だから車のほうに遠慮してもらう。そういう順番だったのです。 そして、その順番が生きていた場所を、私はよく知っています。 高砂の「路地球場」 高砂で過ごした子ども時代を思い返すと、いちばん印象に残っているのは、やはり「路地野球」です。私たちにとって道路は、単なる通り道ではなく、毎日のように集まる遊び場であり、野球場そのものでした。 もちろん幹線道路ではありません。遊んでいたのは幅4メートルほどの細い路地で、車が頻繁に通るような場所ではなく、近所の人が行き来する程度の静かな道でした。そこに数人、多い日には十数人もの子どもたちが集まり、二つのチームに分かれて試合をしていました。使うのは柔らかいビニール製のボールとプラスチックのバット。みんな思い思いに好きなプロ野球チームの帽子をかぶり、本物のプロ野球選手になったような気分でプレーしていたものです。 グラウンドづくりも子どもたちの仕事でした。どこから拾ってきたのか、ブロック塀の破片で道路にホームベースや塁の位置を書き、毎日試合をしていたので、その路地にはいつもベースの跡が残っていました。誰に教わるでもなく、みんなで自然に「球場」を作り上げていたのです。 路地で野球をする以上、本物の球場のようにはいきません。道の両側には民家が並び、打球は塀や壁に当たって思わぬ方向へ跳ね返ります。だからこそ独自のルールが次々と生まれました。塀に当たって跳ね返ったボールをノーバウンドで捕ればアウト。前方の家の庭まで打ち込めばホームラン。路地の形そのものが、球場のフェンスやスタンドの役割を果たしていたような感覚でした。 さらに面白かったのは、路地ごとにルールが違っていたことです。近所のあちこちに「路地球場」があり、別の町内の友達に誘われて遊びに行くと、その場所ならではのルールがある。まるで違う球場へ遠征するような気分になったものです。 中でも忘れられないのが、「かみなりおやじ」と呼ばれていた家です。その家にボールを打ち込むと、もしご主人に気づかれたら大目玉。だからその家に打ち込んだ瞬間、「即チェンジ!」という特別ルールがありました。ホームランでもアウトでもなく、とにかく攻守交代です。子どもたちは笑いながらも、その家だけは本気で避けようとしていました。今思えば、近所の大人たちとの距離が近かった時代ならではの、微笑ましいルールだったように思います。 もちろん道路ですから、人や車が通れば試合は一時中断です。「車!」「人来た!」と誰かが声を上げると、みんな一斉にプレーを止め、通り過ぎるのを待ってから何事もなかったように再開しました。当時は今ほど交通量も多くなく、子どもたちも自然と周囲に気を配りながら遊んでいました。 今では道路で野球をする光景を見ることはほとんどありません。しかし昭和のあの頃、私たちにとって路地は最高の野球場であり、毎日が公式戦のような真剣勝負の舞台でした。道幅わずか数メートルの小さな「球場」に、子どもたちの工夫と笑い声、そして野球への夢がぎっしり詰まっていたのです。 銀座は憧れの都会、上野は普段着の都会 歩行者天国そのものの記憶も、ひとつあります。 子どもの頃、歩行者天国といえば、何度か銀座へ連れて行ってもらった記憶があります。父は仕事で休日も家を空けることが多かったので、一緒に出かけるのは母と妹、そして私の三人でした。 当時の銀座は、私にとってまさに「特別な都会」でした。テレビや雑誌で見るような華やかな街で、大人がおしゃれをして歩く場所。実際に歩行者天国を歩いてみても、どこか自分が場違いなところへ来てしまったような感覚がありました。人の多さや洗練された街並みに圧倒され、わくわくする反面、なぜか落ち着かず、少し疲れてしまったことを覚えています。 そして帰り道、上野に立ち寄ると、不思議なくらい気持ちがほっとしました。「やっぱり上野くらいがちょうどいいな」「ここが自分にとって落ち着く都会なんだ」と感じた、その時の感覚は今でも印象に残っています。 私にとって本当に身近だった歩行者天国は、銀座ではなく上野中央通りでした。高砂から京成線一本、乗り換えもなく行けて、家族で買い物や食事に出かけるにはちょうどいい距離です。百貨店やアメ横があり、公園や動物園、美術館もある。見るものがたくさんあって、それでいて下町らしい親しみやすさも残っている。背伸びをしなくても楽しめる街だったのです。 銀座が「憧れの都会」だとすれば、上野は「普段着の都会」。そんな違いを、子どもながらに感じていたように思います。だからこそ上野では、歩行者天国を歩いていても緊張することはなく、人混みの中にいてもどこか安心感がありました。 高砂で育った私にとって、銀座は「東京を代表する特別な街」、上野は「自分たち下町の延長線上にある、一番身近な都会」でした。 実は、一本の道だった ところが今回、調べていて驚いたことがあります。 1973年(昭和48年)6月10日、上野から銀座まで5.5キロにわたる、当時「世界一長い」と言われた歩行者天国が実現していたのです。上野広小路にこれだけの人出があったのは、関東大震災のとき、昭和5年の海と空の博覧会に次いで三度目のことだったといいます。 つまり、私が場違いだと感じた銀座と、ほっとした上野は、同じ中央通りの南の端と北の端だったわけです。車を締め出されたアスファルトは、ずっと一本につながっていた。あの居心地の悪さと安心感の差は、道が違ったからではなく、同じ道のどちら側に立っているかの違いだったと思うと、少し可笑しくなります。 80万人と、十数人 こうして並べてみると、面白いことに気づきます。 銀座には80万人が車道にあふれ、高砂の路地には十数人が集まってブロック塀の破片でベースを描いていた。片方は都知事が号令をかけた一大イベントで、もう片方は誰の許可も得ていない勝手な占領です。けれど、やっていることは同じでした。アスファルトの上に、車ではなく人が立つ。銀座の80万人は日曜の数時間だけそれをやり、私たちは毎日やっていたわけです。 「車!」の一声でみんなが道の端に寄る。あれは、道路を借りている側の作法でした。歩行者天国が標識と警察官の力で実現していたものを、路地の子どもたちは声と目配りだけで成立させていたのかもしれません。 令和のいま 銀座の歩行者天国は、いまも続いています。土曜・日曜と祝日、中央通りから車が消えて、人が真ん中を歩く。あの日から56年、あの光景はまだ生きています。一方、5.5キロの「世界一長い歩行者天国」のほうは、神田のあたりで途切れ、上野までつながることはなくなりました。 交通事故の死者数は、2021年には2,636人まで減りました。1970年の1万6,765人の、およそ6分の1です。ガードレール、歩道橋、横断歩道。あの年に必死で整備が始まったものが、半世紀かけてこれだけの差を生みました。 その代わりに、路地から子どもの声が消えました。安全と引き換えに何かを手放した、と言うつもりはありません。1万6,765人という数字を知ってしまうと、あの時代がよかったとは、とても言えないからです。ただ、ブロック塀の破片で描いたベースの跡が、雨で消えるまで路地に残っていたこと。あれだけは覚えておきたいと思っています。 みなさんは、子どものころ道路で何をして遊んでいましたか。あるいは、歩行者天国の思い出はありますか。よかったら教えてください。 いまの子どもは、さすがに路地では野球ができません。でも公園や庭先でなら、あの頃と同じことができます。柔らかいカラーバットとボール、それにグローブがひとそろいになったセットです。当たっても痛くない素材なので、小さなお子さんやお孫さんの「はじめての野球」にちょうどいい。ブロック塀のかわりに、おじいちゃんがピッチャーをやってあげてください。 野球3種セット(カラーバット/やわらかボール/子供用グローブ)当たっても痛くないやわらか素材の入門セット。バット・ボール・グローブが揃うので、公園や庭先ですぐに遊べる。孫との初めてのキャッチボールにも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

August 2, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月30日──沖縄の車が右から左へ、一夜で入れ替わった日

今日は7月30日。夏の日差しが、いよいよ本気になってくる頃です。 正直に告白します。私はこの日にあった出来事を、まったく覚えていません。 1978年(昭和53年)のこの日、私は小学3年生。9歳です。9歳といえば、記憶にしっかり残っていておかしくない年齢です。運動会のこと、夏休みのこと、あの頃見ていたテレビ番組のことなら、いくらでも思い出せます。それなのに、この日のことだけは、頭の中が真っ白なのです。 でもそれは、私が忘れっぽいからではなかったのかもしれません。調べていくうちに、そう思うようになりました。この日、東京から遠く離れた沖縄で、世界にも例のない大事業が行われていたのです。 覚えていない、という不思議 1978年7月30日、午前6時。沖縄県じゅうの車が、一夜にして右側通行から左側通行へと切り替わりました。 実施された日付にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれるこの出来事は、いま振り返れば、日本の交通史に残る大事件です。それなのに、当時9歳だった私の記憶には、かけらも残っていません。 なぜだろう、と考えてみました。 私が育ったのは、東京・葛飾の高砂。京成高砂駅のすぐそばの、下町でした。我が家に車はありませんでした。父は週に6日働いていて、家族で遠くへ出かけることもほとんどない暮らしです。「車が右から左になる」というニュースは、車を運転しない子どもにとって、あまりにも遠い世界の話だったのだと思います。 そもそも「沖縄」という場所自体が、当時の私にはずいぶん遠かった。飛行機に乗ったこともなければ、家族旅行の記憶もない少年にとって、沖縄は地図の上の、南のほうにある名前でしかありませんでした。 実際、この記事を書くにあたって記憶をたどってみても、「沖縄」にまつわる思い出は、私の中から何ひとつ出てきませんでした。よほど縁がなかったのでしょう。あの夏、私は確かにどこかで9歳の毎日を過ごしていたはずなのに、沖縄で起きていた歴史的な一夜とは、まるで別の世界に生きていたようです。 だから、この記事は少し特別です。いつもは自分の記憶をたどって書いていますが、今日は違います。私自身が、この出来事を今あらためて知りながら、みなさんと一緒に驚いていく——そんな記事になります。 一夜で、島がひっくり返った そもそも、なぜ沖縄だけが右側通行だったのでしょうか。 沖縄は戦後の27年近く、アメリカの統治下にありました。車はアメリカと同じ右側通行。日本に復帰したのは1972年(昭和47年)5月15日ですが、そのあとも右側通行は続きました。一つの国では通行方法を一つに統一する——そう定めた国際条約があるにもかかわらず、道路も、標識も、人々の運転の習慣も、一気にひっくり返すことなど簡単にはできません。結局、日本に戻ってからも約6年間、沖縄は「日本なのに車は右」という状態が続いたのです。 その積年の宿題を、たった一晩で片づけたのが「730」でした。 7月29日の午後10時。緊急車両をのぞくすべての車の通行が禁止され、県内一斉にサイレンが鳴り響きました。それを合図に、変更作業が始まります。翌30日の午前6時まで、わずか8時間の勝負でした。 動員された作業員は約800人、車両は約300台。かかった費用は約19億円。標識を付け替え、信号を切り替え、道路に描かれた白線を引き直し、ガードレールの向きまで直していく。気の遠くなるような作業を、真夜中の8時間に詰め込んだのです。 この短時間を可能にしたのが、世界で初めて採用された「カバーアンドテープ方式」でした。あらかじめ左側通行用の標識や信号を設置しておき、それをカバーで覆って隠しておく。当日はそのカバーを外すだけ。道路の白線も、左側通行用のものを先に描いてから黒いテープで覆っておき、当日バーナーでテープを焼き剥がす。考案した久高弘さんの名を取って「久高方式」とも呼ばれています。 さらにこの数日前には台風8号が沖縄に接近していて、信号機や大型標識のカバーが先に吹き飛ばされてしまうという一幕もありました。まさに、天気とも時間とも戦った一夜だったのです。 もっとも、夜が明けてからが本当の勝負でした。長年しみついた右側通行の癖は、ある朝を境にそう簡単には抜けません。切り替え直後は各地で接触事故が相次ぎ、那覇などの市街地では、しばらく交通マヒが続いたといいます。頭ではわかっていても、体が覚えているものはすぐには変えられない。島じゅうの人が、その戸惑いを一緒にくぐり抜けたのです。 沖縄の言葉で、アメリカ統治の時代を「アメリカ世(ゆー)」、日本復帰後を「大和世(やまとゆー)」と言うそうです。「730」は、目に見える形での復帰の総仕上げでした。人々にとっては、単なる交通ルールの変更ではなかったのです。 そのとき、バスはどうなったのか ここからが、私がいちばん驚いた話です。 車が右側通行から左側通行に変わると、いちばん困るのは、実はバスなのです。 考えてみてください。右側通行の国のバスは、乗り降りするドアが車体の右側についています。運転席は左。ところが左側通行になると、お客さんは道路の左側の歩道から乗り降りするので、ドアは左になければいけない。運転席も右に移さなければならない。つまり、それまで走っていたバスは、一台残らず使えなくなってしまうのです。 当時、沖縄島にあった左ハンドル・右ドアのバスは、およそ1,200台。「729車(ナナニイキュウしゃ)」と呼ばれるこれらの車両を、たった一晩で右ハンドル・左ドアに置き換えなければなりませんでした。 全部を改造している時間はありません。そこで、右ハンドルの新車を900台あまり一気に投入し、さらに160台あまりを改造して間に合わせました。このとき導入されたバスを、いまでも「730車(ナナサンマルしゃ)」と呼びます。あまりに大量だったので、メーカーも各社で分担が決められました。琉球バスは日産ディーゼルと日野、那覇交通はいすゞ、東陽バスは日野、沖縄バスは三菱ふそう、というように。 作業当日の段取りも、聞けば聞くほど鮮やかです。 新しい730車は、事前に旧米軍基地の跡地に集結させておく。7月29日、それまでのバス(729車)が最後の運行を終えると同時に、運賃箱や両替用の小銭を抜き取って、そのまま基地跡地に格納。入れ替わりに、パトカーの先導で730車が各営業所へと回送されていきます。車庫では、路線別・ダイヤ別にバスがきれいに並べられ、両替金が積み込まれていく——。 一晩のあいだに、島じゅうのバスが、そっくり別の車両に入れ替わったのです。 私は今、路線バスの運転士として毎日ハンドルを握っています。だから、この話は他人事とは思えません。 バスというのは、一台走らせるだけでも、始業点検をして、運賃箱を確認し、忘れ物がないかを見て、ダイヤどおりに出庫させるまでに、たくさんの人の手がかかっています。営業所では何十台ものバスが、それぞれ決められた順番で動いています。 それなのに、沖縄では、そのすべてを一晩で入れ替えたというのです。車両だけではありません。運賃箱も、小銭も、行先表示も、担当する路線も、翌朝には何事もなかったかのように走り始めなければならない。現場を知る者としては、「本当にそんなことができたのか」と思ってしまうほどの大仕事です。 もし自分がその現場にいたら、一睡もできなかったでしょう。どこか一つでも段取りを間違えれば、翌朝の路線はたちまち混乱してしまいます。それをほとんど混乱なくやり遂げた先人たちの準備力とチームワークには、ただ驚くばかりです。私にとって730は、交通ルールが変わった日というだけではなく、日本のバス業界が成し遂げた、まさに奇跡の一夜だったのだと感じています。 令和に残った、二台のバス あれから、47年が経ちました。 大量に投入された730車も、時とともに古くなり、新しいバスに置き換えられて、一台また一台と姿を消していきました。そして今、当時の姿のまま沖縄に残っている730バスは、沖縄バスと東陽バスが持つ、たった2台だけになりました。記念すべき日には、この2台が右側通行時代を再現して走ることもあるそうです。 私たちが当たり前だと思っている「車は左」という光景。それは、日本のどこでも最初から当たり前だったわけではありませんでした。少なくとも沖縄では、47年前のあの一夜に、800人の手と19億円と、900台を超える新しいバスによって、人の手で作られたものだったのです。 私が毎日握っているハンドル。何百回と曲がってきた左側の車線。乗り降りするお客さんが、当たり前のように左のドアから乗ってくること。そのすべてが、誰かの膨大な準備と苦労の上に成り立っている。そう思うと、いつもの見慣れた景色が、少し違って見えてきます。 おわりに 7月30日。私にとっては、記憶が真っ白な一日でした。 でも、覚えていないということは、知らなくていいということではありませんでした。9歳の私には遠すぎた沖縄の一夜を、50年近く経って、バスのハンドルを握る立場になってから、ようやく知ることができた。そう思うと、この「記憶にない一日」も、私にとって意味のある一日になった気がします。 みなさんは、「730」を覚えていますか。沖縄で暮らしていた方なら、あの日の混乱や興奮を、はっきりと覚えているかもしれません。私のように本土にいた方は、そもそもニュースになっていたかどうかも、記憶にないのではないでしょうか。同じ夏の同じ一日でも、立っている場所によって、こんなにも見え方が違う。それもまた、昭和という時代の面白さなのだと思います。 730を成し遂げた沖縄のバスは、今も個性豊かに島を走っています。現存する730車をはじめ、路線バスで巡る沖縄の魅力を一冊にまとめたガイドブックがこちら。バス好きにはもちろん、「レンタカー以外の沖縄旅」を考えている方にもおすすめです。いつか私も、あの2台の730車に会いに行きたいと思っています。 沖縄の路線バス おでかけガイドブック[第4版]室井昌也・谷田貝哲。路線バスで巡る沖縄の観光ガイド決定版。バス会社各社の紹介から名所へのアクセスまで、バス旅の魅力が詰まった一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月29日──17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた

今日は7月29日。七月もいよいよ終わりに近づき、夏の暑さがいちばん濃くなる頃です。 昭和の夏を思い出すとき、まっさきに浮かぶもののひとつが、花火です。夕暮れの空がだんだんと藍色に沈んでいって、遠くのほうで「ドン」と腹に響く音がする。少し遅れて、夜空に大きな光の花が咲く。あの音と光は、下町に育った者にとって、夏そのものと分かちがたく結びついています。 昭和53年(1978年)の7月29日、その花火をめぐる大きなできごとがありました。長いあいだ途絶えていた両国の花火が、「隅田川花火大会」と名前を変えて、17年ぶりに夜空へ帰ってきたのです。 17年ぶりの、復活だった 隅田川の花火の歴史は、驚くほど古いものです。 さかのぼること江戸時代、享保18年(1733年)。前の年に大飢饉と疫病が江戸を襲い、多くの人が命を落としました。その死者を供養し、悪い病を追い払うことを願って、八代将軍・徳川吉宗が両国橋のたもとで水神祭を営み、川開きの日に花火を打ち上げた——これが、両国の川開き花火の始まりだと伝えられています。じつに300年近くも昔のことです。 そもそも「川開き」とは、その年の夏、隅田川での舟遊びや納涼が許される初日のこと。江戸の人々にとっては、待ちに待った夏の幕開けの合図でした。両国橋のあたりには涼み舟がびっしりと浮かび、川岸には屋台や見世物が立ち並ぶ。その夜空を彩る花火こそが、夏の到来を告げるいちばんの主役だったのです。 やがて花火職人のあいだに、「鍵屋」と、そこから分かれた「玉屋」という二つの名門が生まれました。見物人が夜空を見上げて「たまや〜」「かぎや〜」と声をかける、あの掛け声も、このころに生まれたものです。とりわけ人気を集めたのは玉屋のほうで、見事な花火が上がると、江戸っ子たちは惜しみなく「たまや〜」と声を張り上げたといいます。こうして両国の川開きは、多少の中断をはさみながらも、江戸から東京へと、夏の一大行事として受け継がれていきました。 ところが、その伝統がぷつりと途切れます。昭和36年(1961年)を最後に、両国の花火は打ち上げられなくなってしまったのです。理由のひとつは、川べりにあふれる車と、ふくれあがる見物客をさばききれなくなった交通事情。そしてもうひとつが、隅田川そのものの汚れでした。高度経済成長のただ中、工場排水や生活排水が流れ込み、川の水はどす黒く濁って、悪臭を放つほどになっていたのです。花火を映すはずの川面は、とても「涼」を感じられる状態ではありませんでした。 こうして、両国の夏から花火が消えました。以来17年ものあいだ、隅田川の夜空は静かなままでした。その間に生まれた子どもたち——昭和44年生まれの私も、その一人です——は、両国の花火というものを一度も見ないまま育っていったのです。 再び夜空を取り戻すまでには、17年という歳月がかかりました。下水道の整備が進み、汚れきっていた川の水も少しずつ息を吹き返して、ようやく機が熟したのが昭和53年です。かつての両国橋周辺は交通量が増えすぎていたため、会場を少し上流へと移し、名前も「隅田川花火大会」と改めました。桜橋から言問橋のあいだ(第一会場)と、駒形橋から厩橋のあいだ(第二会場)、二つの会場で花火を競い合う——今に続くあの形が、このとき生まれたのです。 昭和53年7月29日。17年ぶりに、隅田川の夜空に光の花が咲いたのです。 実に250年近い歴史を持つ夏の風物詩が、長い空白を経て帰ってきた。その復活は新聞やテレビでも大きく取り上げられ、東京の下町に暮らす人々にとっては、待ちに待った知らせだったにちがいありません。 正直に言えば、私の「花火」は、隅田川ではない ここまで書いておいて、正直に打ち明けます。 「花火」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、じつは、あの華やかな隅田川花火大会ではありません。 もちろん、小学3、4年生の頃だったでしょうか、母と妹と私の3人で浅草へ出かけた記憶はあります。でも残っているのは、夜空いっぱいに咲く大輪の花ではなく、押し寄せる人の波に揉まれながら、ただひたすら歩き続けたという記憶です(笑)。どこかに腰を下ろして、ゆっくり花火を見上げたという思い出ではないのが、少しだけ残念でもあります。 今にして思えば、あの日の人混みこそが、復活してまもない隅田川花火大会そのものだったのかもしれません。何十万もの人が、同じ夜空を目指して押し寄せる。その大きな渦のなかに、幼い私も、母と妹とともに確かにいたのです。花火の記憶はほとんど残っていないのに、あの熱気とざわめきだけは、今も体のどこかが覚えています。 私にとって本当の「花火大会」は、高砂の隣町・柴又で毎年開かれていた、江戸川の花火大会でした。物心ついた頃から、家族や近所の人たちと河川敷の土手まで歩いて向かうのが、夏の恒例行事だったのです。 間近で打ち上がる花火は、それまで見たことのないほど大きく、お腹の底まで響く轟音に、子どもの私は少し怖さを感じていました。それでも、夜空いっぱいに広がる光の美しさに見とれ、「夏が来た」という実感を味わっていたように思います。 あの頃は、今よりもずっとあちこちで盆踊りが開かれていました。母はにぎやかな場所が大好きな人で、夏になると毎晩のように近所の盆踊りへ出かけていました。私もその後をついて歩き、太鼓の音や提灯の灯り、屋台の賑わいに胸を躍らせたことを覚えています。あの夏の空気は、今でも忘れられません。 「花火大会をやってくる!」 そして小学生になると、夏の楽しみがもう一つ増えました。 昼間、近所の友達と駄菓子屋へ行き、バラ売りの花火を一人300円分くらい買うのです。ロケット花火やねずみ花火ではなく、手持ち花火や線香花火を思い思いに選び、夜になると「花火大会をやってくる!」と言って家を出る。子どもだけの、ささやかな夜遊びでした。 今思えば、本当にささやかな冒険です。でも、少しだけ悪いことをしているような気分が、その時間を何倍も特別なものにしてくれました。友達と囲んだ線香花火の、ぽとりと落ちる火の玉。その一瞬の明るさと、すぐに訪れる暗闇。あれもまた、まぎれもない私の「花火大会」でした。 どの夏にも、父はいなかった こうして思い返してみると、どの夏の思い出にも、父の姿がありません。 父はいつも仕事で忙しく、家族で出かけることはほとんどありませんでした。でもそれは、決して我が家だけのことではなく、近所にも同じような家庭がたくさんありました。父親たちは、みんな懸命に働いていたのです。 その代わり、私たちは地域の大人たちに見守られながら育ちました。子どもたちだけで夜道を歩き、花火をしていても、近所のおじさんやおばさんが、自然と目を配ってくれていた。そんな時代だったのです。 子どもの頃には気づきませんでしたが、大人になった今、あの温かな見守りが、どれほどありがたいものだったのかを実感します。そして今度は、自分が地域の子どもたちを見守る側の世代になったのだ、ということにも気づかされます。 夏の花火は、美しかった夜空だけではなく、人と人とのつながりまで思い出させてくれる。私にとって、そういう特別な風景なのです。 おわりに 昭和53年7月29日、隅田川に17年ぶりの花火が咲きました。街じゅうの人が、その復活を心待ちにしていたといいます。 いま、隅田川花火大会は毎年当たり前のように開かれ、両岸には100万人近い人が押し寄せます。誰もがスマートフォンを夜空にかざし、光の花を写真におさめる。いっぽうで、私の夏を彩ってくれた近所の盆踊りは、櫓を見かけることさえ少なくなりました。子どもだけで夜道を歩き、線香花火に火をつけるようなことも、今では難しい時代です。 それでも——江戸の川開きも、大きな隅田川の花火も、柴又の小さな花火も、根っこにあるものは同じなのだと思います。人が集まり、同じ夜空を見上げ、「夏が来た」と感じ合う。300年ちかく前の江戸っ子が「たまや〜」と声を張り上げた気持ちと、土手で花火に見とれていた子どもの私の気持ちは、案外、地続きなのかもしれません。花火とは、光そのものよりも、その下に集う人と人とのつながりを照らすものなのでしょう。 17年ぶりの復活を待ちわびた大人たちの気持ちが、今なら少しだけ分かる気がします。当たり前に思える夏の風物詩も、途切れてみて初めて、どれほど大切だったかに気づく。だからこそ、毎年ちゃんと花火が上がるということは、それだけで、ありがたいことなのでしょう。 あなたにとって、いちばん心に残っている夏の花火は、どんな花火でしょうか。夜空いっぱいの大輪でしょうか。それとも、誰かと囲んだ、線香花火の小さな火でしょうか。 大きな花火大会に出かけるのもいいけれど、庭先や玄関先で、孫と一緒に線香花火をぽとりと落とす——そんな夏も、また格別です。これは、職人が一本ずつ手で作る純国産の線香花火。パチパチと火花を散らし、最後にほろりと玉が落ちるまで、驚くほど長く、美しく燃えます。中国産の安価なものとは、火のもちも風情もまるで別物。あの頃の夏を、今度は見守る側として、子や孫と分かち合ってみませんか。 純国産線香花火 巧(たくみ)国内の職人が手作業で仕上げる本物の線香花火。パチパチと繊細な火花が長く続き、最後に火の玉がほろりと落ちる風情は国産ならでは。桐箱風の化粧箱入りで贈り物にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月27日──毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた

夏の朝、ニュースはいつも同じ事件を伝えていた 1976年、昭和51年の夏。私は7歳、小学1年生になったばかりでした。 我が家の朝は、いつも決まった風景でした。母は台所で朝食の支度をしていて、父と私と妹の三人は、正座の姿勢で箸を動かす。そのかたわらで、テレビはNHKのニュースを流している——それが、あの頃の我が家の朝でした。 正座した子どもの耳に、大人の世界の言葉が、意味もわからないまま流れ込んできます。「為替相場は、1ドル297円」。「丸紅ルートが……」。父も母も、それらについて何か話すわけではありません。ニュースはただ、朝の食卓の空気の一部として、そこに流れているだけでした。 そんな数々の言葉のなかで、なぜか私の耳に、くっきりと残ったものがあります。「ロッキード事件」。カタカナのその名前を、当時の私は、毎朝のように聞いていました。アナウンサーが繰り返し、繰り返し、その言葉を口にしていたのです。 7歳の子どもに、事件の中身などわかるはずもありません。それでも、ひとつだけ、はっきりとわかっていたことがあります。これは、政治家がお金をもらって悪いことをした事件なのだ、ということです。 「政治家が、お金で」——それだけはわかった 不思議なもので、あの言葉の“中身”を、私はその後もずっと、ちゃんとは知らないまま大人になりました。 ロッキードとは何なのか。誰が、誰から、いくらもらったのか。なぜあれほど大きな騒ぎになったのか。断片的な言葉——「田中角栄」「5億円」「記憶にございません」——は覚えているのに、それらがどうつながるのかは、ぼんやりしたままだったのです。 だから今日は、あの夏の朝に毎日聞いていた言葉の中身を、大人になった自分の目で、ひとつずつ確かめてみようと思います。 事件の正体は、一機の旅客機だった ロッキード事件とは、アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、自社の飛行機を各国に売り込むため、政財界の要人に賄賂をばらまいた、国際的な汚職事件です。日本にわたった工作資金は、総額30億円を超えたといわれます。 そもそもロッキード社は、戦闘機など軍用機を得意とするメーカーでした。ところが旅客機の分野では、ボーイングなどの強豪に押されて苦戦を強いられていた。なんとしても自社機を売りたい——その焦りが、世界各国での大がかりな贈賄工作につながっていったのです。賄賂を受け取ったとされる要人の名は、オランダやイタリアなど、日本以外の国々でも取り沙汰されました。まさに世界を揺るがすスキャンダルであり、日本はその最大の“市場”のひとつだったのです。 事の発端は、日本ではなくアメリカでした。1976年2月、アメリカ議会の委員会が開いた公聴会で、ロッキード社の副会長が「日本の政界に金を渡した」と証言したのです。海の向こうでのたった一言が、やがて日本列島を揺るがすことになりました。 当時の首相・三木武夫は、この疑惑の徹底究明を国民に約束します。東京地検特捜部は、警視庁や国税庁とも手を組んだ異例の合同捜査に乗り出しました。同じ自民党の、しかも最大の実力者であるはずの田中角栄に、身内の政権の側から捜査のメスが入っていく——そんな張り詰めた空気のなかで、事件は動いていったのです。 日本での舞台になったのは、全日空——ANAの旅客機選びでした。当時、全日空は新しい大型旅客機の選定を進めており、最終的にロッキード社製の「トライスター」の導入を決めます。この機種選びこそが、のちに“便宜”として問題視されることになりました。その選定の裏で、ロッキード社は商社の丸紅を窓口に、さらに「政商」と呼ばれた小佐野賢治や、右翼の大物・児玉誉士夫といった人物を通じて、日本の中枢へと金を流していきました。その金の流れの先に名前が挙がったのが——時の前首相、田中角栄だったのです。 ここで問われたのが、「受託収賄」という罪でした。政治家がその立場を使って特定の企業に有利なように取り計らい、その見返りに金を受け取る——それがこの罪の中身です。全日空が、どの会社の旅客機を選ぶのか。ただそれだけのことに、これほどの金額と、これほどの権力が動いていた。子どもだった私が「政治家がお金で悪いことをした」と受け取っていたのは、つきつめれば、こういうことだったのです。 「今太閤」の逮捕 田中角栄という政治家を、少し紹介しておきます。 新潟の農村に生まれ、学歴は高等小学校まで。それでも一代でのし上がり、54歳の若さで総理大臣にのぼりつめた人物です。「日本列島改造論」を掲げて全国に道路や鉄道を通し、庶民の出であることから「今太閤」と呼ばれました。まさに立志伝中の宰相です。1972年に首相となって日中国交正常化を成し遂げますが、金脈問題への批判を受け、1974年に退陣していました。 その田中が、ロッキード社から丸紅を通じて5億円を受け取り、全日空にトライスター導入の便宜を図った——という容疑で、1976年7月27日、東京地検特捜部に逮捕されます。罪状は受託収賄と、外国為替管理法違反。総理大臣を務めた大物政治家が、しかも現職の国会議員のまま逮捕される。それは日本じゅうを震え上がらせる、衝撃的なできごとでした。東京・目白の田中邸の前にはカメラマンが群がり、その様子はテレビで生中継されました。逮捕を受けて田中は自民党を離党しますが、それでも日本じゅうが、連日この事件にくぎづけになりました。私が毎朝聞いていた「ロッキード事件」とは、まさにこの一連の騒動のことだったのです。 「記憶にございません」と「ピーナッツ」 この事件は、いくつもの流行語を残しました。 ひとつは「記憶にございません」。逮捕に先立つ2月の証人喚問で、事件の鍵を握るとされた小佐野賢治が、質問のたびにこの言葉を繰り返したのです。嘘をつけば偽証罪に問われる。かといって本当のことは言いたくない。その狭間で編み出された絶妙な逃げ口上は、たちまちその年の流行語になりました。そして半世紀近くたった今も、追い詰められた政治家が国会でしばしば口にする——おなじみの言葉として、生き続けています。 もっとも、事件のいちばんの核心にいたとされた児玉誉士夫は、証人喚問が決まったとたんに「病気」を理由に、公の場に姿を見せませんでした。テレビ中継された喚問の場を国民が固唾をのんで見守るなか、肝心の口ほど、重く閉ざされていたのです。 もうひとつは「ピーナッツ」。賄賂の領収書に、金額を隠すための隠語として書かれていた言葉で、「1ピーナッツ」が100万円を意味しました。抗議のデモ隊が、関係者の事務所にピーナッツの粒を投げつけた、という逸話まで残っています。 裁判は、答えの出ないまま終わった 驚くべきことに、田中角栄は逮捕されても失脚しませんでした。その年の12月の総選挙では、地元・新潟でトップ当選を果たします。逮捕されたばかりの政治家に、有権者が誰よりも多くの票を入れたのです。雪深い新潟の人々にとって、田中は、自分たちの郷里に道路や鉄道を引いてくれた恩人でした。中央の政界で何を言われようと、暮らしをよくしてくれた「おらが先生」を、地元は見捨てなかったのです。田中はその後も「闇将軍」と呼ばれ、政界に絶大な影響力を持ち続けました。 裁判は、長い長い年月に及びました。その途中の1981年には、田中の秘書だった榎本敏夫の元妻が、法廷で検察側の証人に立ち、5億円の授受を裏づける証言を行っています。身内からの決定的なひと言に世間はどよめき、彼女が会見で口にした「ハチの一刺し」という言葉もまた、この事件が生んだ流行語のひとつになりました。そして1983年、一審の東京地裁は、田中に懲役4年・追徴金5億円の有罪判決を言い渡します。しかし田中はただちに控訴。争いが最高裁まで続くなか、1993年、田中は判決の確定を見ないまま、75歳でこの世を去りました。「総理大臣の犯罪」は、はっきりと白黒がつくことのないまま、歴史の中に沈んでいったのです。 半世紀後、あの言葉はまだ国会にある こうして事件の全体像を追いかけてみて、私は少し不思議な気持ちになりました。 あの夏の朝、7歳の私がテレビの前で聞いていた言葉。その中身は、これほどまでに込み入っていて、これほどまでに大きなものだったのか、と。そして、子どもの私が「政治家がお金で悪いことをした」と受け取っていたことは、乱暴なようでいて、案外、事件の芯を突いていたのかもしれません。 そういえば、あの食卓で耳にしていた「丸紅ルート」も、「為替」も——実はこの事件のまん中にあった言葉でした。丸紅は、5億円を田中のもとへ運んだ商社の名前。そして「外国為替管理法違反」は、田中にかけられた罪状そのものです。事件の核心にある言葉を、7歳の私は、意味も知らないまま毎朝口にできるほど聞いていたことになります。正座して箸を動かしていたあの食卓は、思っていたよりずっと、時代のまん中につながっていたのでした。 令和の今も、政治とお金をめぐるニュースは、形を変えて流れ続けています。政治資金や裏金をめぐる問題が報じられ、「記憶にございません」という言葉が国会で聞こえてくるたび、私はあの夏の朝を思い出すのです。半世紀たっても、人は同じ言葉で、同じように逃げる。あのカタカナの事件名を、幼い私が意味もわからず覚えてしまったのは、それが来る日も来る日も、朝のニュースを埋め尽くしていたからでした。そして今も、テレビは少しだけ姿を変えて、同じような事件を伝え続けているのかもしれません。 みなさんにとって「ロッキード」という言葉は、どんな記憶と結びついているでしょうか。リアルタイムで固唾をのんで見守った方も、私のように言葉の響きだけを覚えている方も、よかったらその頃のことを聞かせてください。 「政治家がお金で」という子どもの直感の、その先にある本当の複雑さ。ロッキード事件を一冊で骨太に味わうなら、経済小説の名手・真山仁が事件の深層に迫ったこの一作がおすすめです。田中角栄はなぜ裁かれ、なぜ今なお語られるのか。あの朝のニュースの“中身”が、大人の読み物として立ち上がってきます。 ロッキード(文春文庫)真山仁。『ハゲタカ』の著者が、半世紀の時を経てロッキード事件の深層に挑んだ渾身のノンフィクション Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月26日】僕はいつも別の場所にいた | 次の記事:【7月28日】ロサンゼルスの朝、空を人が飛んだ ▶ ...

July 27, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月24日──注意報の放送を、私たちは聞き流していた

今日は7月24日。夏休みが始まって、まだ数日というところです。 令和の夏、子どもたちが「今日は外に出るのをやめなさい」と言われる理由は、たいてい熱中症警戒アラートです。 けれど私たちが子どもだった頃、夏の外遊びを止めた言葉は、まったく別のものでした。 「光化学スモッグ注意報が発令されました」 あの、少しだけ事務的な声。同じ世代の方なら、きっと頭より先に体が覚えているはずです。 そして1972年(昭和47年)の今日、7月24日。その「汚れた空」をめぐる、戦後日本に残る判決が、三重県の小さな法廷で言い渡されました。 校内放送は流れた。けれど、私たちは止まらなかった 私が小学校に上がったのは1976年(昭和51年)の4月です。葛飾区の高砂で育った私にとって、夏とは朝から日が暮れるまで外にいるものでした。空き地で野球、自転車で川べりを走り回る。その日課を止めにくるのが、あの放送でした。 注意報を知るのは、主に校内放送です。教室のスピーカーから声が流れてくると、中休みと昼休みの外遊びが禁止になる。放課後についても、外で遊ぶのは控えるようにと言われました。 ところが、です。 私は「目がチカチカする」「のどが痛い」という症状を、自覚した経験が一度もありません。だからなのか——注意報が出ても、私も、周りの友達も、平気で外遊びをしていました。 放送は流れる。先生は控えろと言う。でも、体はなんともない。ならば行くに決まっている。あの頃の子どもの理屈は、それだけで十分でした。 今にして思えば、ずいぶん危なっかしいことをしていたのかもしれません。同じ空の下で、実際に苦しい思いをした子どもも全国にはたくさんいたはずです。ただ、当時の私の中では、「注意報」という言葉と「自分の体」が、どうしても結びつかなかったのです。 1970年7月18日、東京の空で起きたこと 光化学スモッグという言葉が日本中に広まるきっかけは、私がまだ1歳の頃の出来事でした。 1970年(昭和45年)7月18日、東京都杉並区。環七通りのすぐそばにある東京立正中学校・高等学校で、グラウンドで体育の授業を受けていた生徒43人が、目の痛みやのどの痛みを訴えて次々に倒れました。 原因はすぐには分かりませんでした。のちの東京都の調査で、自動車などから出た窒素酸化物が強い紫外線を浴びて化学反応を起こし、光化学オキシダントという別の物質に変わっていたことが判明します。日本で初めて確認された光化学スモッグの被害でした。 この日、体の異常を訴えた人は都内だけで5200人。隣の埼玉県でも407人にのぼりました。 以後、注意報は夏の風物詩のようになっていきます。全国の発表延べ日数は1973年(昭和48年)に328日でピークを迎え、1975年までの3年間は毎年250日を超えました。夏のあいだ、日本のどこかでほぼ毎日、誰かが「外に出るな」と言われていた計算になります。 1972年7月24日、津地方裁判所四日市支部 そしてその2年後の今日、7月24日。三重県四日市市。津地方裁判所四日市支部の法廷で、日本の空気の歴史を変える判決が言い渡されました。四日市公害裁判です。 四日市市の海沿いに、磯津という地区があります。1960年代、目の前の埋立地に巨大な石油コンビナートが次々と建ちました。煙突から出る煙には、硫黄酸化物——いわゆる亜硫酸ガスが大量に含まれています。1964年の磯津地区の二酸化硫黄の年平均濃度は0.075ppm。今の環境基準のおよそ4倍近い数字でした。住民は激しい咳と呼吸困難に苦しみます。これが四日市ぜんそくです。 1967年(昭和42年)9月1日、公害病と認定された患者と遺族あわせて12人が、コンビナートの6社を相手取って裁判を起こしました。 法廷で、企業側はこう主張します。 「どの煙突から出た煙が、誰のぜんそくを引き起こしたのか。それを立証できないのなら、我々に責任を問うことはできない」 煙は混ざり合い、風に流され、そこに境目などありません。たしかに手強い主張でした。 しかし判決は、これを退けます。 裁判所は、コンビナート各社の行為を共同不法行為と認定します。個々の煙突を特定できなくても、一体となって汚染を生んだ以上、責任は共同で負う。因果関係の立証も、疫学調査の結果で足りるとしました。 さらに判決は、企業に対してこう述べています。人の生命や身体に危険が及ぶと知り得る汚染物質を排出する以上、企業は経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員して防止措置を講ずるべきである。それを怠れば、過失は免れない——。 賠償額は8800万円あまり。被告6社は控訴を断念し、判決はそのまま確定しました。 イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市、熊本水俣病。四大公害裁判の三番目にあたるこの判決は、四つのなかで唯一、大気汚染を正面から裁いたものでした。 このとき私は3歳3か月。もちろん、何ひとつ知りません。 なぜ私は、「チカチカ」を知らずに済んだのか 判決の影響は、思いのほか早く現れます。 企業は総額1000億円ともいわれる費用をかけて排煙脱硫装置を整備し、三重県は全国で初めて硫黄酸化物の総量規制に踏み切りました。1973年(昭和48年)10月には公害健康被害補償法が成立します。 ここで正直に補足しておきます。四日市の煙突から出ていた硫黄酸化物と、東京の空をかすませた光化学スモッグは、じつは原因物質が違います。後者の主犯は自動車などから出る窒素酸化物でした。 けれど、四日市の判決が動かしたのは、一つの煙突ではありませんでした。「経済性を度外視してでも」と裁判所が迫ったあの論理は、そのまま自動車にも向かっていきます。1978年(昭和53年)4月、日本は当時世界一厳しいといわれた自動車排出ガス規制を実施します。いわゆる日本版マスキー法です。 このとき私は、小学3年生です。 つまり私の小学生時代の6年間は、ちょうど「日本の空が、ゆっくりきれいになっていく途中」でした。注意報はまだ夏の日常でしたが、いちばんひどい時期はすでに過ぎ、全国の発表日数は1980年代に入ると100日前後まで減っていきます。 私が「チカチカ」を知らずに済んだのは、私が丈夫だったからではないのでしょう。私が校内放送を聞き流して校庭に飛び出す何年も前に、四日市の患者さんたちが5年近くかけて裁判を戦い、その判決を受けた大人たちが、空を洗い始めていたからです。 もっとも、当時の私がそんなことを知るはずもありません。「公害」という言葉を知ったのは、学校の社会科の授業でした。教科書の中の、遠い場所で起きた出来事として。それが自分の外遊びの日数と地続きだなどとは、思いもしませんでした。 そして、7月24日生まれのカナリー・ガール 少し重たい話が続いたので、ここで一息つかせてください。 7月24日は、河合奈保子さんの誕生日でもあります。1963年(昭和38年)、大阪市生まれ。 1980年(昭和55年)、「第1回 ヒデキの弟・妹コンテスト」でグランプリを受賞し、同年6月1日に「大きな森の小さなお家」でデビュー。キャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」。同期は4月デビューの松田聖子さん、同じ6月の柏原よしえさん、岩崎良美さん。のちに「1980年組」と呼ばれる、アイドル黄金期の幕開けを飾った顔ぶれです。 そして私は、その中の奈保子さん一択でした。 まわりは圧倒的に松田聖子ファンが多かったので、その反発心から河合奈保子ファンになったのかな? 自分でもよくわかりませんが、一番の「推し」でした。 当時、アイドルグッズを売る店がありました。プロマイドも何枚も買いましたし、生写真も買いました。今の言葉でいうなら、なかなかのガチ勢です。 曲でいえば、「スマイル・フォー・ミー」ですね。 1981年(昭和56年)6月1日発売の5枚目のシングル。作詞・竜真知子、作曲・馬飼野康二、編曲・大村雅朗。オリコン最高4位、26万枚。奈保子さんにとって初のトップ10入りで、この曲で年末の第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしました。ハート形のスマイルマークが付いた、あの特注のスタンドマイクを覚えている方も多いはずです。 この曲には、こんな逸話があります。もともとコンサートでだけ披露していた曲を、ファンの熱い要望に応えてレコード化したのだそうです。つまりあの曲は、客席にいた私たちのような子どもが、レコードにさせたことになります。 発売は1981年6月1日。私は小学6年生でした。 つまり、校内放送を聞き流して校庭へ飛び出していたあの夏と、まったく同じ夏の話なのです。 おわりに 今年の夏も、熱中症警戒アラートが何度も出ています。子どもたちは、あの頃の私たちとまったく同じように「今日は外に出るのはやめておきなさい」と言われている。 止められる理由だけが、入れ替わりました。昭和の子どもは「空気が汚いから」。令和の子どもは「暑すぎるから」。 けれど、決定的に違うことが一つあります。 私たちは、放送を聞き流して外へ飛び出すことができました。今の子どもたちには、それができません。アラートを無視して炎天下に出れば、本当に倒れてしまうからです。 そして私たちが平気でいられたのは、顔も名前も知らない誰かが、その何年も前に代わりに戦ってくれていたからでした。 1972年7月24日の判決文にあった、あの一節を思い出します。経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員せよ——。半世紀以上前の裁判所が企業に突きつけたその言葉は、この暑すぎる夏空の下で読み返すと、まだ終わっていない宿題のように響いてきます。 ...

July 24, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月8日──たばこの箱に、小さな一文が生まれた日

今日は7月8日。梅雨明けを待つ、じっとりと重い空気の季節です。 昭和の家には、たいてい煙が満ちていました。ちゃぶ台の上には灰皿があって、朝から晩まで、白い煙がゆらゆらと立ちのぼっている。テレビの画面も、蛍光灯の傘も、いつのまにかうっすらと黄ばんでいる。あれが、当たり前の風景でした。 そして、その煙を切らさないために走るのは、たいてい子どもの役目でした。小銭を握りしめて、近所のたばこ屋まで。「〇〇をひとつ」——そう言えば、子どもにでも売ってくれた時代です。 昭和47年(1972年)の7月8日、その手の中のたばこの箱に、ある小さな一文が初めて刷り込まれました。 「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」 今では考えられないほど控えめな、たった一行。けれど、これが日本のたばこに“警告”が載った、いちばん最初の言葉だったのです。 箱の側面の、たった一行 私たちの世代にとって、たばこの箱の側面に注意書きがあるのは、生まれたときからの当たり前でした。けれど、その一行にも、ちゃんと「始まり」があります。 1972年(昭和47年)より前、日本で売られていたたばこには、健康に関する注意文も警告も、いっさい書かれていませんでした。箱には、ただ商品の顔があるだけ。吸うことに国が注意をうながす、という発想そのものが、まだ世の中になかったのです。 その流れを最初につくったのはアメリカでした。そして日本でも、昭和47年の夏、ついにたばこの箱に文字が載ることになります。記録によれば、まず京都・名古屋・大津の三つの街で、「健康のため吸いすぎに注意しましょう」と側面に印刷したたばこの販売が始まり、その年の8月下旬から、全国へと広がっていったといいます。7月8日は、その最初の一歩がしるされた日、というわけです。 面白いのは、我が家の定番だったあの安いたばこも、ちょうどこの昭和47年の夏に、箱へ健康表示が刷られるようになった、という点です。つまり、私が物心つく前から握らされていたあの一行は、じつはこの頃に生まれたばかりの、まだ新しい言葉だったのです。 ちなみにこの文言は、その後ずっと同じだったわけではありません。1972年から1989年まで、つまり昭和のあいだはずっと「健康のため吸いすぎに注意しましょう」。平成に入った1990年からは「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」と、少し踏み込んだ言い方に変わりました。そして2005年からは、箱の大きな面をつかって、具体的な病気の名前まで書かれるようになります。あの控えめな一行は、時代とともに、どんどん強い言葉になっていったのです。 正直に言えば、私自身はこの「始まり」をまったく覚えていません。昭和47年7月といえば、私はまだ三歳。箱の文字を読むどころではありませんでした。今回この日について調べていて、はじめて「そうだったのか」と知ったくらいです。 私が本当に覚えているのは、その一行そのものではなく——その一行が刷られた箱を握って走った、お使いの記憶のほうなのです。 70円玉を握って 我が家は、両親そろって喫煙者でした。 父も母も、当たり前のようにたばこを吸っていて、家の中はいつも煙の匂い。今にして思えば、子どももその煙を一緒に吸って育ったわけですが、当時はそんなことを気にする人など、まわりに誰もいませんでした。 だから、たばこのお使いは、私の仕事でした。 小銭を渡されて、近所のたばこ屋まで走る。買ってくるのは、決まってエコーという銘柄でした。オレンジ色に茶色のストライプが入った、あの細長い箱です。値段はたしか、70円ほど。当時のたばこの中でも、いちばん安い部類のものでした。 そのたばこ屋さんは、高砂駅の北口を出て、すぐ目の前にありました。たばこを対面で売る小さな窓口には、いつもおばちゃんかおじちゃんのどちらかが座っていて、「エコー、〇個ください」と声をかけると、茶色の紙袋にたばこを入れて渡してくれます。 そして、そのたびに、小さな箱に入ったミカン味の、丸い球のガムを——たしか四粒だったと思います——毎回くれるのです。じつを言うと私、そのガムが目当てで、喜んでお使いに行っていたようなものでした。 そのたばこ屋さんは、驚くことに、今も同じ場所にちゃんとあります。 エコーというたばこは、1968年(昭和43年)に売り出された、フィルター付きでは日本でいちばん安いたばこでした。税金の区分でいう「旧三級品」というやつで、とにかく安い。だから、我が家のようなごく普通の家では、重宝されていたのだと思います。のちに俳優の松田優作さんが好んで吸っていたことでも知られる銘柄ですが、子どもの私にとっては、ただ「いつもの、うちのたばこ」でした。 なぜ我が家がエコーだったのか。父がよく、「エコーはフィルターがついている中で一番安いんだ」と言っていたのを覚えています。父も母も、そろってエコー。銘柄で迷うことなど一度もなく、私が買いに行くのは、いつも決まってあのオレンジ色の箱でした。 現金のお駄賃をもらった記憶はありません。私にとっての“ごほうび”は、あくまであのたばこ屋さんがくれるガムだけ。それでも、あの頃の私には、それで十分すぎるくらいだったのです。 校庭に、たばこの煙 たばこの煙は、家の中だけのものではありませんでした。 中学、高校と野球を続けた私にとって、たばこの匂いは、グラウンドの記憶とも結びついています。当時の野球部の監督は、校庭で、平気でたばこを吸いながら指導していました。ノックの合間に一服、選手を集めて話しながら一服。今の学校では、まず考えられない光景でしょう。 そして、その監督に「たばこを買ってこい」と使いに出されるのも、また部員の役目でした。 野球部の顧問というのは、どこの学校でも、たいていはおっかない先生と相場が決まっていました。うちの監督も、その例にもれず。今の感覚でいえば、生徒にたばこを買いに行かせるなんて大問題でしょうが、あの頃は、先生も生徒も、誰ひとり何とも思っていませんでした。 それどころか、私たち部員にとって、たばこのお使いは、ちょっとした“役得”だったのです。だって、その間だけは、あのきつい練習から堂々と抜けられる。買いに行かされる仲間を横目に、「いいなぁ〜」と、うらやましく思ったものでした。 ですから、たまに自分が頼まれたときには——これは内緒の話ですが——できるだけゆっくり、ゆっくりと、道草を食いながら帰ったものです。 考えてみれば、昭和という時代は、たばこの煙にとても寛容でした。電車の中でも、駅のホームでも、職場でも、学校の職員室でも、煙は当たり前に漂っていた。子どもがたばこを買いに行き、大人が子どもの前でふかす。その全部が、なんの疑問もない日常だったのです。 煙の中で育った、私たち これだけ濃い煙の中で育ったのに、ひとつ、不思議なことがあります。 私も、ひとつ下の妹も、大人になってから、たばこを一度も吸いませんでした。 といっても、そこに深い理由があったわけではありません。親の吸う煙が、内心いやだった——そういうことでもないのです。ただ、吸うタイミングというものがなかった。そして、吸いたいと思うこともなかった。ほんとうに、それだけのことでした。 あんなに毎日たばこを買いに走らされて、家じゅうが煙だらけで、それでも自分では吸わなかった。人が何かを選ぶ、選ばないというのは、案外、そのくらい他愛のないものなのかもしれません。 いま、たばこの箱を見ると、その変わりように驚きます。箱の半分近くを、黒々とした警告の文字が占めている。あの「健康のため吸いすぎに注意しましょう」という、どこか遠慮がちだった一行の“子孫”が、半世紀をかけて、あそこまで強い言葉になった。時代は、確かに変わったのだと感じます。 おわりに 昭和47年7月8日、たばこの箱に、初めて小さな一文が刷られました。 「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」。 その一行が生まれた頃、私はまだ三歳で、そんなことは何も知らないまま、やがてその箱を握りしめて、近所のたばこ屋まで走ることになります。手の中には70円玉。買ってくるのは、オレンジ色のエコーひとつ。家に帰れば、また煙の匂いの中へ戻っていく。 あの煙も、あのお使いも、校庭でたばこをふかしていた監督の姿も、今ではすっかり遠い風景になりました。それでも、たばこの箱の側面をふと見て、あの小さな一行に目がとまると、湿った夏の日の、たばこ屋までの道のりが、すっと目の前によみがえってくるのです。 みなさんは、家族のたばこのお使いに走った記憶はありますか。どんな銘柄を、いくらで買っていたか、覚えているでしょうか。 家じゅうの煙、駄菓子屋のガム、たばこ屋のおばちゃん——。あの頃の「当たり前」は、いまや一枚の写真の中にしか残っていません。昭和の衣・食・住の何気ない風景を、たっぷりの写真で振り返る一冊。ページをめくるたびに、あなたの「お使いの道」も、きっとよみがえってきます。 懐かしくて素敵! 心惹かれる昭和の暮らし(TJMOOK)宝島社。昭和の衣・食・住の“当たり前”を、写真とともに味わう一冊 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 8, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月30日──布団の中の、小さな実況中継

今日は6月30日。一年のちょうど真ん中、折り返しの日です。梅雨の重たい雲の下、それでも夏がもうそこまで来ているのを、肌のどこかで感じはじめる頃です。 この日は「トランジスタの日」でもあります。1948年(昭和23年)6月30日、アメリカのベル研究所で、三人の物理学者が生み出した小さな小さな部品が、はじめて世の中に公開されました。トランジスタです。 理科の授業に出てきそうな、なんだか難しい話に聞こえるかもしれません。けれども、この豆粒のような部品こそが、やがて昭和の子どもの手のひらに、ひとつの宝物を届けてくれることになります。トランジスタラジオです。 トランジスタという、小さな魔法 トランジスタが発明されるまで、ラジオの心臓部には「真空管」という、ガラスでできた電球のような部品が使われていました。だからラジオは大きくて、重くて、電源を入れてもすぐには鳴らず、温まるのをしばらく待たなければなりませんでした。茶の間にどっしりと置かれ、家族みんなで囲むもの。ラジオは「家具」だったのです。 ところがトランジスタは、爪の先ほどの大きさで、電気も食わず、衝撃にも強い。この小さな部品が真空管に取って代わったとき、ラジオは劇的に小さくなりました。 世界で最初のトランジスタラジオは、1954年にアメリカのリージェンシー社が発売しました。世界初の栄冠こそ譲りましたが、その翌年、日本でも快挙が起こります。1955年(昭和30年)、東京通信工業——のちのソニーが、「SONY」の名を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を世に送り出したのです。 当時の東京通信工業は、社員数が三百人にも満たない、まだ無名の小さな会社でした。井深大(いぶか・まさる)と盛田昭夫(もりた・あきお)という二人の創業者が、「自分たちの手でトランジスタを作り、それでラジオをこしらえる」という、無謀とも言われた目標に、まさに社運を賭けて挑んだのです。トランジスタでラジオを作るなど不可能だ——そんな声を一つひとつはねのけ、彼らは小さな箱の中に、新しい時代を詰め込みました。 さらに1957年(昭和32年)、ソニーは当時世界最小の「TR-63」を完成させます。「ポケッタブルラジオ」というキャッチコピーで売り出されたこの一台は、サラリーマンの月給ほどもする高級品でしたが、アメリカで飛ぶように売れ、「SONY」の名を世界中に知らしめました。やがてこの会社が、ウォークマンを生み、世界を代表する電機メーカーへと駆け上がっていくのですが、その出発点に、手のひらにのる一台のラジオがあったというのは、なんだか胸が熱くなる話ではありませんか。 このとき、ラジオの意味そのものが変わりました。家族でひとつを囲む「家具」から、一人ひとりが、聴きたいときに、聴きたい場所で耳を傾ける「自分だけの道具」へ。「トランジスタグラマー」なんて流行語まで生まれたほど、トランジスタは時代の合言葉になっていきました。 私が生まれる二十年以上も前の話です。けれども、この小さな魔法が、のちに私の少年時代の夜を、こっそりと彩ってくれることになるのです。 布団の中の、小さな実況中継 トランジスタラジオと聞いて、私の胸に最初に浮かんでくるのは、やっぱり野球のことです。 私の手にトランジスタラジオがやってきたのは、小学校三年生、九歳の誕生日プレゼントとしてでした。昭和53年(1978年)のことです。子どもの頃から無類の巨人ファンだった私にとって、これほどうれしい贈り物はありませんでした。 というのも、当時のテレビのナイター中継は、試合の終盤になると放送時間が来て、ぷつりと終わってしまうことがしょっちゅうあったのです。いちばんいいところで、画面がほかの番組に変わってしまう。あの悔しさといったらありませんでした。そんなとき、毎回活躍してくれたのが、誕生日にもらったこの小さなラジオでした。 布団に入って、そっとラジオのスイッチを入れる。イヤホンを耳に押し込む。テレビとちがって、映像はありません。それでも、ラジオから聞こえてくるアナウンサーの実況だけで、私の頭の中には、その試合の光景がはっきりと、まるで映像のように映し出されていたのです。打球の伸びも、走者の足も、ぜんぶ見えている気がしました。 その証拠に、と言ってはなんですが、いまでも私は当時の巨人の打順をそらで言えます。1番センター柴田、2番サード高田、3番レフト張本、4番ファースト王、5番セカンドのシピン、6番ライト淡口、7番ショート河埜、8番キャッチャー吉田、9番ピッチャー堀内……(笑)。ほら、こうしてすらすら出てくる。布団の中で毎晩のように聞いていた名前は、半世紀近くたった今も、しっかりと私の体に染みついているのです。 そうしてラジオで知った試合の続きは、翌朝の学校での、またとない自慢の種でもありました。「ゆうべの試合、王さん打ったぞ」「堀内、最後まで投げきった」。テレビの中継が終わったあとの展開を知っているのは、布団の中でこっそりラジオを握りしめていた者だけ。教室でそれを得意げに話すのは、子どもなりの、ちょっとした誇りだったのです。あの頃の巨人は、私たち少年にとって、まぎれもないヒーローでした。 「聴く」から「する」へ そんなふうに、布団の中でラジオの野球にのめり込んでいた少年も、中学、高校と進むうちに、ラジオを手にする時間は少しずつ減っていきました。 理由は、いたって単純です。野球部の活動に、すっかり夢中になっていたからです。 考えてみれば、これはちょっと面白い変化でした。小学生の私は、ラジオの実況を聴きながら、見えないグラウンドを頭の中に思い描く「聴く側」の子どもでした。それが気づけば、自分自身がそのグラウンドに立ち、白球を追いかける「する側」になっていたのです。耳をすませて憧れていた世界に、いつのまにか、自分の足で踏み込んでいた。 イヤホンから流れてくる誰かの実況ではなく、自分のスパイクが土を蹴る音、バットが芯でボールをとらえる音。私にとっての夏の音は、そうやって少しずつ、入れ替わっていったのでした。 茅の輪をくぐって、もう半分 さて、6月30日に話を戻しましょう。 この日は、昔から各地の神社で「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」が行われる日でもあります。一年の前半でたまった穢れを祓い落とし、残り半年を無事に過ごせるよう願う、古くからの神事です。神社によっては、茅(ちがや)で編んだ大きな輪が境内に設えられ、人々はそれをくぐって身を清めます。「茅の輪くぐり」です。 正直に告白すると、子どもの頃の私は、こんな神事があることなど、まるで知りませんでした。6月30日が一年の折り返しだということも、半年の穢れを祓う日だということも、すっかり大人になってから知ったことばかりです。 当時の私にとっての6月30日は、ただただ「夏休みが、もうすぐそこまで来ている日」。それ以上でも、それ以下でもありませんでした。一学期の終わりが近づくこの時期の、あのそわそわとした高揚感だけは、今でもはっきりと思い出せます。 それでも、こうして大人になって暦を眺めてみると、6月30日というのは不思議な日だと思います。一年のちょうど真ん中。半分が終わって、半分が残っている。あの頃の私の心は、茅の輪のことなど露知らず、もうすっかり、ラジオから聞こえてくる夏の音のほうへ飛んでいっていたのでしょう。 おわりに あの「ポケッタブルラジオ」から数えて七十年近く。今、私たちは一人一台、手のひらにのる小さな箱を持ち歩いています。スマートフォンです。あれもまた、トランジスタという小さな部品の、はるか遠い子孫なのだと思うと、少し不思議な気持ちになります。 今では、どんな球場の試合も、手のひらの画面で映像つきで観られるようになりました。便利になったものです。けれども、あのモノラルのスピーカーから流れる実況に耳をすませ、見えないグラウンドを頭の中で必死に描いていた、あの時間。映像がないからこそ、想像することそのものが、楽しみの大きな一部だったように思うのです。アナウンサーの声色ひとつで、ホームランの大きさも、内野ゴロの惜しさも、ぜんぶ自分の頭の中でふくらませていた。あれはあれで、ぜいたくな野球の楽しみ方でした。 バスのハンドルを握る今も、私の運転席にはいつも何かの音が流れています。形は変わっても、声と一緒に時間を過ごすという習慣だけは、あの布団の中の夜から、ずっと変わっていないのかもしれません。 一年の折り返しの日。あなたにとって、あの小さなラジオから流れていたのは、どんな音でしたか。 あの頃の「手のひらの相棒」は、令和のいまも姿を変えて生き続けています。なかでも、手回しとソーラーで充電でき、いざというときスマホの充電もできる防災ラジオは、ひとつ備えておくと心強いものです。枕元のナイター中継に、そして梅雨明けから本番を迎える台風・地震への備えに。 ソニー 防災ラジオ ICF-B99(FM/AM/ワイドFM・手回し充電・ソーラー充電・スマホ充電対応)手回しと太陽光で充電でき、スマホ給電・LEDライトも。枕元にも、防災の備えにも一台 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月29日】生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって | 次の記事:【7月1日】変わり続けた箱と、変わらない一本 ▶ ...

June 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月27日──「○○さんちの工事、止まったんだってよ」──昭和の町と「日照権」

今日は6月27日。梅雨の晴れ間に、久しぶりのお日さまが差すと、なんだかほっとする季節です。 「日当たりのいい家」「南向きの部屋」。私たちは、あたりまえのようにそう口にします。ところが、その「日当たり」が、法律で守られるべき大切なものなのだと裁判所がはじめてはっきり認めたのは、じつは、それほど昔のことではありません。 昭和47年(1972年)6月27日。最高裁判所が、「日照(にっしょう)」と「通風(つうふう)」は法律で守られるに値する生活の利益だ、という判断をくだしました。これが、6月27日が「日照権の日」と呼ばれるようになったきっかけです。 法律の話、と聞くと身がまえてしまいますが、その底にあるのは、子どもの頃に空き地で遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、ごく素朴な気持ちでした。きょうは、その「陽だまり」をめぐる昭和の話を、私の育った町の風景とともに、少し書いてみたいと思います。 「日なた」が、裁判になった ことのおこりは、東京・世田谷の、ある住宅街でした。 南隣の家が、二階部分を増築しました。ところが、その増築のせいで、北側にあったお宅には、日中の陽がほとんど差さなくなってしまったのです。風の通りも悪くなりました。しかも、その増築は建築基準法に違反したもので、東京都知事から「工事をやめなさい」「違反した部分を取りこわしなさい」という命令まで出ていたのに、それを無視して建ててしまったものでした。 陽の当たらなくなった家の人は、とうとう引っ越しを余儀なくされます。そうして、争いは裁判になりました。 最高裁判所は、こう述べました。日照や通風は、快適で健康な生活に欠かせない「生活上の利益」である、と。お日さまの光や、家を抜けていく風は、ただの気分の問題ではなく、人が健やかに暮らすために守られるべきものなのだ、とはっきり言いきったのです。 もちろん、「少しでも陰ったら、すぐにいけない」という話ではありません。世の中、おたがいさまで、ある程度は我慢しあって暮らしている。けれど、その「我慢の限度」を超えてしまったときには、相手に責任を問える――。そういう考え方が、このときに定まりました。 判決がくだったのは、昭和47年。私はまだ三歳で、もちろん、この裁判のことなど知るよしもありません。 それにしても、と思うのです。お日さまが当たるかどうかなど、それまでは、わざわざ裁判で争うようなことではなかったはずです。陽は、空から、ただで、みんなに降りそそぐもの。誰のものでもないからこそ、誰のものでもあった。その当たり前が、当たり前でいられなくなってきた。だからこそ、こんな裁判が必要になったのでしょう。なぜこの時代に、こんな争いがわざわざ起きたのか。それを考えると、あの頃の町の景色が、すうっとよみがえってくるのです。 空き地が、どんどん消えていった 私が生まれ育ったのは、葛飾区の高砂です。京成電車の線路際で、来る日も来る日も電車を眺めて育ちました。 昭和40年代から50年代にかけての日本は、とにかく「建てる」時代でした。高度経済成長のまっただなか。人が都市にどっと集まり、住む家が足りず、土地が足りず、建物は空に向かってぐんぐん伸びていきます。木造の平屋がならんでいた町に、鉄筋の団地やマンションが、にょきにょきと姿をあらわしていきました。 子どもにとって、それは「権利」だの「法律」だのという、難しい話ではありませんでした。もっと単純で、もっと切実な変化でした。 きのうまで草野球をしていた空き地に、ある日、ぐるりと囲いができる。気がつけば基礎が打たれ、足場が組まれ、シートがかけられ、見上げるほどの建物が建っていく。遊び場がひとつ、またひとつと消えていく。そして、当たり前のように広がっていた空が、少しずつ、少しずつ狭くなっていく――。 昭和50年代、私が小学生だった頃は、近所にもまだ、空き地が点々と残っていました。なかには、硬いボールを使って野球ができるほど広い場所も、何ヶ所かはあったのです。私たちにとっては、またとないグラウンドでした。 それが、一つ、また一つと消えていきました。ある場所は建売住宅に、ある場所はマンションに。気がつけば、きのうまでボールを追いかけていたその土地に、知らない誰かの新しい暮らしが建っている。そんなふうにして、私たちの野球場は、静かに数を減らしていったのです。 そして、そんな時代でしたから、大人たちの会話のなかにも、ときどき、こんな話がまじるようになりました。 「○○さんのところ、二階の増築工事が止まっちゃったんだってよ」 「なんか、誰かにさされたみたいだよ」 「○○さんの建て替え、ストップさせられたらしい」 子どもだった私には、その意味の半分もわかっていませんでした。けれど、いまになって思うのです。これはまさに、あの世田谷の裁判で争われたのと、そっくり同じ出来事だったのだ、と。二階の増築。工事の差し止め。判決の舞台になったのと同じことが、私のすぐ近所でも、現実に起きていたのです。 当時の町の工務店だって、「日照権」のことも、守らなければいけない決まりも、本当はちゃんとわかっていたはずです。それでも、お客さんからの頼みだし、これくらいならバレやしないだろう――。そんな空気も、どこかにあったのかもしれません(笑)。 ただ、それを頭から責める気には、なれないのです。あの判決をきっかけに、ようやく法律の整備が進みはじめた、ちょうどその過渡期。新しいルールが、まだ世の中のすみずみまでは行きわたっていなかった。あの時代だからこそ生まれた、すきま風のようなトラブルだったのだろうと思います。 そういえば、ああいう「工事が止まった」「さされた」という話、いまではめっきり、耳にしなくなりました。 みんなの夢は、「土地付きの一戸建て」だった 正直に言うと、子どもだった私には、団地やマンションへの特別なあこがれは、ありませんでした。 むしろ、あの頃の大人たちが胸に抱いていた夢は、もっとはっきりとした、別のかたちをしていたように思います。自分の土地を持ち、そこに一戸建ての我が家を構える――いわゆる「マイホーム」です。私の親も、まさにそうでした。家を「持つ」というのは、土地ごと自分のものにすることであり、それが一国一城のあるじになる、ということだったのです。分譲マンションを買う、という選択肢は、まだあまり一般的ではありませんでした。 そう考えると、少しだけ、切ない気持ちにもなります。私が硬球を追いかけていた、あの空き地に建っていった建売住宅は、見方を変えれば、どこかの家族の「マイホームの夢」が、ひとつかなった姿でもあったのですから。私の遊び場が消えていくことと、よその誰かの夢がかなうことは、じつは同じひとつのできごとの、表と裏だったのです。 そうやって、限られた土地に、それぞれの「我が家」が、肩を寄せ合うようにして建っていきました。みんなが自分の城を求めれば、当然、隣の家との間で「日当たり」はぶつかります。日照権をめぐる争いというのは、思えば、誰もがマイホームを夢見た、その熱気の裏側で生まれてきたものだったのかもしれません。 「お日さま」を分けあう、ものさし 世田谷の判決のあと、日本のあちこちで、同じような「日照権」をめぐる争いが起きるようになりました。あとから建った高い建物のせいで、もとからあった家に陽が差さなくなる。そういうトラブルが、都市のいたるところで噴き出していたのです。 そこで、国も動きます。昭和51年(1976年)には建築基準法が改正され、「日影規制(にちえいきせい)」というものが設けられました。建物が、周りの家にどれだけの時間、影を落としてよいか。それを地域ごとに線引きする決まりです。いわば、限りあるお日さまを、ご近所みんなで分けあうための「ものさし」でした。 思えば、「日照権」という言葉が新聞やテレビをにぎわせたあの頃は、ひたすら前へ前へと進んできた日本が、ふと立ち止まって「このままでいいんだろうか」と考えはじめた時代でもありました。工場の煙、川の汚れ――「公害」という言葉が世の中に広まったのも、ちょうど同じ頃のことです。豊かになるのは、うれしい。背の高いビルも、新しい団地も、まぶしい。けれど、その豊かさが、誰かの陽だまりや、子どもの遊び場や、きれいな空気を、知らないうちに奪ってはいないか。そんな問い直しが、日本のあちこちで芽を出しはじめていた時代だったのだと思います。 いまの住宅街を歩いてみると、家と家のあいだに、それなりの空が残されています。冬の昼間でも、路地のどこかには、ちゃんと陽だまりができている。それは、あの時代に「陽の当たる暮らし」を守ろうとした人たちの、争いと、工夫と、知恵の積み重ねの上にあるのだ――。そう思うと、足もとに落ちている何でもない日なたが、少しだけ、ありがたく見えてくるのです。 令和の空を見上げて 時は流れ、令和になりました。 街を見渡せば、昭和の頃には考えられなかったような高さの、タワーマンションが立ちならんでいます。日照をめぐる話は、いまも消えてはいません。新しいビルが一棟建つたびに、その足もとの町では、同じような相談やもめごとが、いまも静かに続いているようです。 私はいま、路線バスの運転席から、毎日この町の空を眺めています。長年、同じ道を走っていても、年々、沿道のビルの背が高くなり、フロントガラスの先に見える空が、また少し狭くなったな、と感じることがあります。 それでも、信号待ちでふと窓の外に目をやると、住宅街の小さな庭先で、洗濯物が陽を浴びてゆれている。その何気ない光景を見るたびに、ああ、この陽だまりは、ちゃんと守られてきたものなんだな、と思うのです。 昭和47年6月27日。あの日、最高裁が「お日さまの光は、守るに値する」と認めたこと。難しい法律の判決に見えて、その底にあったのは、空き地で日が暮れるまで遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、あの感覚――「陽の当たる場所は、気持ちがいい」という、ただそれだけの、あたりまえの願いだったのかもしれません。 あなたの育った町にも、いつのまにか消えてしまった空き地や、知らないうちに狭くなっていった空は、ありませんでしたか。 同じ場所に立って、昭和の町と令和の町を重ねてみる――そんな一冊があります。写真家・善本喜一郎さんが、1984年に撮ったまさにその場所に、何十年もたって同じアングルで立ち、いまの東京を撮り直した写真集です。消えた空き地、高くなったビル、狭くなった空。ページをめくるたびに、この記事に書いたような「町の移り変わり」が、目の前にくっきりと立ちあらわれます。 東京タイムスリップ1984⇔2021善本喜一郎/河出書房新社。同じ場所・同じアングルで撮り比べた、昭和と令和の東京。シリーズ累計のヒット作 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ...

June 27, 2026

6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった

六月十九日。梅雨の重たい雲を見上げるたび、私はこの日のニュースを思い出します。昭和六十一年(一九八六年)のこの日、ベトナムから運ばれてきた二人の幼い兄弟が、東京の病院で手術を受けました。ベトちゃんと、ドクちゃん。下半身がつながったまま生まれた、結合双生児の兄弟です。 そのとき私は十七歳、高校二年生でした。ちょうど高校野球の東東京大会を目前にひかえ、グラウンドと教室を行き来する毎日のなかにいました。ベトちゃん・ドクちゃんのニュースは、テレビで何度も目にしていました。くわしいことは、正直よく分かりませんでした。それでも、ただ「がんばれ」と願っていた——そんな自分を、いまでもはっきりと憶えています。 白状すれば、当時の私にとって、ベトナムはそれほど馴染みのある国ではありませんでした。ただ、物心ついたころから、ベトナム戦争のニュース報道を、何度も何度もテレビで見て育ってきた。だから「ベトナム」という言葉に触れると、私のなかでは決まって「戦争」という言葉が結びつきました。詳しいことは分からないのに、心がふっと「不安」になる。ベトナムとは、当時の私にとって、そういう遠い国だったのです。 いま思うと、不思議なものです。来たる大会のことで頭がいっぱいだったはずの十七歳の私が、それでもテレビの前で足を止め、遠い国の二人の子どもに、手を合わせるように「がんばれ」とつぶやいていた。あの六月の感覚は、四十年がたったいまも、胸のどこかに残っています。 一つの体に、二つの命 ベトちゃんとドクちゃんは、昭和五十六年(一九八一年)二月二十五日、ベトナム中部高原のコントゥム省で生まれました。上半身が二つ、下半身が一つ。Y字のかたちにつながった、「一胴二体」と呼ばれる結合双生児でした。 二人がこうして生まれた背景には、ベトナム戦争があると報じられました。米軍が大量に散布した枯葉剤——その影響ではないか、と。枯葉剤は、一九六一年からのおよそ十年間で、ベトナムの森や畑に七千万リットル以上もまかれたといわれます。その多くに、人体に有害なダイオキシンが含まれていました。直接浴びた人や、その土地の水や作物を口にした人、生まれてくる子どもにまで影響が及んだとされ、二人の母親も、枯葉剤のまかれた地域の井戸水を飲んでいたと伝えられました。はっきりとした因果は、いまも科学的に証明されたわけではありません。けれど、戦争が終わってなお、人の体に爪痕を残しているのかもしれない。そのことは、当時の日本に重く響きました。私の胸の奥にあった「ベトナム=戦争=不安」という結びつきも、たぶんこのあたりから来ていたのだと思います。 兄はベト、弟はドク。越南(ベトナム)の「越」、東ドイツの「徳」。治療を受けたハノイの病院で、そう名づけられたといいます。下半身のつながった幼い兄弟の写真は日本中に紹介され、ベトナム戦争の傷あととして受け止められ、各地で支援の輪が広がっていきました。昭和六十年(一九八五年)には福井県敦賀市で「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が結成され、募金で車椅子が贈られています。ちょうど私が高校一年生のころのことです。戦争を知らない世代だった私の頭にさえ、二人の名前と、あのつながった小さな体の写真は、いつのまにか焼きついていました。 東京へ運ばれてきた六月 昭和六十一年六月十一日。兄のベトちゃんが、急性脳症を発症しました。けいれんの発作を繰り返し、やがて意識を失っていきます。けれど、体のつながった弟のドクちゃんの意識は、はっきりしたままでした。一つの体の上で、二つの命がまったく違う時間を生きている。その事実の重さは、ニュースを見ていた多くの人の胸に、言葉にならないまま残ったはずです。 日本赤十字社の支援で、二人は特別機で日本へ緊急搬送されます。海を越えて運ばれてくる小さな二人の容態を、日本中が固唾をのんで見守りました。そして六月十九日、東京の病院で手術が行われました。一命はとりとめたものの、ベトちゃんには重い後遺症が残りました。治療のなかで大脳が傷つき、外の世界を感じる力の多くを失ってしまったのです。二人はその後、ベトナムへ帰っていきました。 そして二年後の昭和六十三年(一九八八年)十月四日。ホーチミン市のツーズー病院で、ついに二人を分ける手術が行われます。前例のない手術を前に、医療チームは何度も議論を重ね、マネキン人形を使って手順をたしかめたといいます。七十人を超える医療スタッフ、日本赤十字社の医師の立ち会い。慎重に慎重を期した大手術は、成功しました。一つだった体が、二つになった。二人はそれぞれの人生を、別々の足で歩きはじめたのです。 フジとサクラ、という名前 それから、長い歳月が流れました。 兄のベトちゃんは、分離手術のあとも体調がすぐれず、平成十九年(二〇〇七年)、二十六歳でこの世を去りました。 一方、弟のドクちゃんは生き抜きました。義足で歩く訓練を重ね、コンピュータを学び、やがてツーズー病院の職員として働くようになります。自分がかつて分けられた、あの病院で——です。結婚し、双子の子どもにも恵まれました。その二人の名前が、フジと、サクラ。富士山と、桜。自分を助けてくれた日本への感謝を、わが子の名前に込めたのだといいます。 新型コロナが日本を襲ったとき、ドクさんは日本へマスクを贈りました。かつて助けられた側が、こんどは助ける側にまわっていた。令和になったいまも、ドクさんは枯葉剤被害に苦しむ人たちを支える活動を続けています。二〇二四年には、ドクさんと家族の日々を追ったドキュメンタリー映画『ドクちゃん フジとサクラにつなぐ愛』が、日本各地で公開されました。ベトナム戦争が終わって、五十年あまり。あの夏、テレビのこちら側で「がんばれ」と願っていた十七歳の私が見ていたものは、まだ終わってなどいなかったのだと、いまになって思います。 帝国劇場で観た「ミス・サイゴン」 ここで、個人的な記憶をもう一つ、書かせてください。 あのニュースから数年がたった平成四年(一九九二年)、私は東京・日比谷の帝国劇場へ、一本のミュージカルを観に行きました。『ミス・サイゴン』です。ベトナム戦争末期のサイゴンを舞台に、ベトナム人の少女キムと、アメリカ兵クリスの、引き裂かれていく恋を描いた物語。その背景にあるのは、まさに、あの戦争でした。 東宝が制作した日本初演で、ヒロインのキム役を演じていたのが、本田美奈子さんでした。アイドルとして親しんできた彼女が舞台の上で歌い上げる代表曲「命をあげよう」は、一年半におよぶロングランの語り草となりました。本田さんは、のちに白血病で世を去ります。まだ三十八歳の若さでした。 舞台を観て、私はこれが単なる恋愛や戦争の物語ではないと感じました。当時のベトナムの社会のありさまや、人々の暮らしまでもが、ひしひしと伝わってくる。戦争によって日常も将来も大きく変えられてしまうなかで、登場人物たちは家族を、愛を、大切な人を守るために、必死に生きている。その姿が、強く印象に残りました。とりわけ主人公たちの選択を通して、平和な環境は決して当たり前のものではないこと、そして生まれた国や時代によって人生が大きく左右されてしまう現実を、考えさせられたのです。本田美奈子さんの力強くも繊細な歌声が、その感情や葛藤を、いっそう深く届けてくれました。二十代前半だった私にとって、自分の将来や生き方を改めて見つめ直す、きっかけになった作品でした。 ニュースのなかで「不安」だったベトナムが、このときは、舞台の物語として、音楽とともに胸に流れ込んできた。いま思えばあの夜は、私とベトナムの距離が、ほんの少し縮まった夜だったのかもしれません。 ミス・サイゴン 日本公演ハイライト盤本田美奈子ほか/日本初演キャスト。あの「命をあげよう」を収録 Amazonで見る › お向かいさんは、ベトナムの家族 いま、日本にはたくさんのベトナムの人が暮らすようになりました。ベトナム料理のお店も、あちこちで見かけます。そして——我が家のお向かいには、ベトナム人のご家族が住んでいます。 子ども同士が本当に仲良しで、いまは一緒に学童野球のチームに入って、同じユニフォームで白球を追いかけています。パパとママからは、ベトナムのことをいろいろ教えてもらいました。おかげで私にとってベトナムは、すっかり身近な存在になったのです。国が違っても関係なく、あっという間に仲良くなってしまう子どもたちを見ていると、なんだか「ほっこり」と、いい気分になります。 思えば、昭和六十一年のあの六月、東東京大会を前にした高校二年の私は、テレビの向こうのベトナムに、ただ「がんばれ」と願うことしかできませんでした。「ベトナム」と聞けば「戦争」が浮かび、胸が「不安」になった、あの遠い国。それが四十年の時を経て、いまは目の前で、子どもたちが同じグラウンドで野球を楽しむ国になっている。ドクさんがわが子に富士と桜の名を授けたように、国境というものは、もう子どもたちのあいだには無いのかもしれません。同じ「ベトナム」という言葉が、私のなかで「不安」から「ほっこり」へと、長い時間をかけて、ゆっくりと姿を変えていったのです。 昭和の終わりに、テレビの向こうにあった「不安」が、令和のいま、すぐお向かいの「ほっこり」になっている。その長い距離を縮めたのは、二人を救おうとした人たちの手であり、そして何より、過去にとらわれることなく、あっさりと手をつないでしまう子どもたちの力なのだと思います。 六月十九日。あなたは、ベトちゃんとドクちゃんのニュースを覚えているでしょうか。あのとき、テレビのこちら側で、何を思っていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う | 次の記事:6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日 ▶

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