9月5日 ── 土曜の夕方は嬉しくて、日曜の夜は憂鬱だった|昭和の今日は何があった日?

新聞が届いて、まずテレビ欄 昭和52年(1977年)9月5日は、月曜日でした。 私は8歳。小学2年生です。夏休みが終わって、二学期が始まったばかり。 当時、新聞は毎朝当たり前のように届いていました。今はもう取っていませんが、あの頃、朝刊が来て私が必ずチェックしていたのが、テレビ欄です。一面でも社会面でもなく、いちばん後ろのページ。 考えてみれば、あれは子どもにとっての一日の予定表でした。今日の夜は何があるのか。それを確かめてから、学校に行く。 その9月5日の月曜、テレビ欄には何が並んでいたのか。当時の番組編成をたどってみると、なかなかすごいことになっていました。 昭和52年9月5日・月曜のテレビ欄 夜七時台を並べると、こうなります。 19:00 日本テレビ『元祖天才バカボン』 19:00 フジテレビ『あしたへアタック!』(最終回) 19:30 テレビ朝日『一休さん』 三十分の中に、バカボンのパパと、女子バレー部と、とんち小僧が同時に存在していた。今のテレビ欄では絶対に見られない光景です。 そしてこの日、フジテレビの『あしたへアタック!』は、最終回でした。 記憶にない半年間 正直に書きます。私は『あしたへアタック!』を、まったく憶えていません。 『あしたへアタック!』は、昭和52年4月4日から9月5日まで、フジテレビ系列で毎週月曜19時から放送されていたアニメです。全23話。制作は日本アニメーション。 企画のきっかけは、フジテレビが独占放送していたバレーボールワールドカップが、この年に日本で初めて開催されることでした。原案は『サインはV』の原作者・神保史郎。『アタックNo.1』の演出や脚本を手がけた人たちも参加しています。オープニングを歌っていたのは、アニメソングの女王・堀江美都子さんです。 内容は「全日本の選手として世界に挑む」という話ではなく、高校バレーを舞台にした青春もの。しかも出だしがなかなか重い。橘高校の女子バレー部は、過酷なしごきで部員が亡くなる事故を起こし、事実上の廃部状態になっている。3年生の聖美々が、そこから部を立て直そうと奔走する——という始まり方です。 これだけの布陣で作られた半年間が、私の中には一秒も残っていない。 一方で、同じ月曜の夜に放送されていた『一休さん』は、リアルタイムで観ていた記憶がはっきりあります。『アタックNo.1』は再放送で観ました。『サインはV』は名前だけ知っている。そして昭和54年に始まった『燃えろアタック』——荒木由美子さん主演の、金曜7時半のあれ——は、毎週しっかり観ていました。 バレーものが嫌いだったわけではないのです。ただ、月曜の夜七時、私はおそらく日本テレビにチャンネルを合わせていた。 バカボンから、一休さんへ 『元祖天才バカボン』は、昭和50年10月6日から昭和52年9月26日まで、毎週月曜19時。全103回、204話。赤塚不二夫さんの『天才バカボン』の二度目のアニメ化で、「元祖」と名乗ったのは、一作目が原作から離れすぎたという反省があったからだそうです。ウナギイヌが初めて登場したのも、このシリーズでした。 そして19時30分からは、テレビ朝日の『一休さん』。 こちらは昭和50年10月に始まって、昭和57年6月まで続いた長寿番組です。当初は水曜でしたが、昭和51年4月から月曜19時30分に移ってきました。初期は日本船舶振興会の一社提供で、あの「火の用心のうた」のCMが間に流れていた。作曲は山本直純さんです。 おそらく私は、七時に日本テレビでバカボンを観て、七時半にテレビ朝日へチャンネルを回して一休さんを観ていた。そういう月曜の夜だったはずです。 つまり、私が『あしたへアタック!』を憶えていないのは、遠い番組だったからではありません。同じ時間に、別のものを選んでいたからです。テレビ欄というのは、番組表であると同時に、選ばなかったもののリストでもあったのだと、今になって気がつきました。 その二度目のアニメ化のもとになった原作は、いまも文庫で手に入ります。ウナギイヌもレレレのおじさんも、もとはこの中にいました。 天才バカボン 1(竹書房文庫)赤塚不二夫/竹書房。日本ギャグマンガ界不滅の金字塔。実験期のハチャメチャさもそのまま。星4.1(21件) Amazonで見る › 曜日を、番組で覚えていた 9月5日は月曜でしたから、あの有名どころは別の曜日に並んでいます。当時のテレビ欄を一週間ぶん広げると、こうなります。 水曜19:00 フジテレビ『ドカベン』 土曜18:30 フジテレビ『ヤッターマン』 日曜19:30 フジテレビ『あらいぐまラスカル』 この三本は、全部欠かさず観ていました。 『ドカベン』は当然です。野球少年でしたから。ただ、なかなか場面が進んでいかないことにイライラしていた記憶があります。一球投げるのに何分かかるんだ、と。原作の連載に追いつかないよう引き延ばしていたのでしょうが、子どもにそんな事情はわかりません。 そして今でもはっきり憶えているのは、番組そのものより、番組と結びついた気持ちのほうです。 『ヤッターマン』は土曜の夕方六時半。観ながら「まだ明日は休みだー」と思っていました。 『あらいぐまラスカル』は日曜の七時半。観ながら「明日は学校だー」という気持ちになっていました(笑)。 同じフジテレビの、同じような時間の、同じアニメなのに、片方は嬉しくて、片方は憂鬱だった。曜日を覚えるより先に、番組で曜日を覚えていたのだと思います。 日曜の夜の、あの気持ちのほうです。いま観たら、たぶん憂鬱ではなくなっているはずですが。 世界名作劇場・完結版 あらいぐまラスカル [DVD]バンダイビジュアル。全52話を1枚にまとめた完結版。日曜7時半のあの主題歌から。星4.1(30件) Amazonで見る › 同じ日、大人の世界では ところで、この9月5日は、大人のニュースのほうでも大きな日でした。 ...

September 5, 2026

9月4日 ── ランランが死んだ日、いつでも見られると思っていた|昭和の今日は何があった日?

午前1時24分 昭和54年(1979年)9月4日の未明、上野動物園のパンダ舎で、ランランが息を引き取りました。午前1時24分のことでした。 前の日の夕刊は、こう伝えています。「こん睡状態続くランラン いちるの望み託して 一時は注射に反応」。日本中が、まだ望みを捨てていませんでした。 ランランは、日本で最初のジャイアントパンダでした。昭和47年(1972年)に中国からやってきて、7年足らず。推定10歳でした。 行列2キロ、観覧時間30秒 パンダが日本に来たのは、昭和47年9月の日中国交正常化を記念してのことでした。北京動物園で飼われていた個体のなかから、容姿も性格も最も優れた2頭が選ばれたといいます。中国名はシンシンとアルシン。来日にあたって、カンカンとランランと名づけ直されました。 2頭が上野動物園に到着したのは、同年10月28日。当時の内閣官房長官・二階堂進が、わざわざ羽田空港まで専用機を出迎えに行ったというのですから、国を挙げての一大事だったことがわかります。 一般公開は11月5日。この日から、日本中が文字どおり熱に浮かされました。公開初日の見物客は約6万人。最盛期には毎日平均1万5千人が訪れ、行列は長さ2キロメートル、待ち時間は2時間。それでいて、実際にパンダを見られる時間はわずか30秒だったといいます。 2時間並んで、30秒。 私はこのとき3歳ですから、この熱狂そのものの記憶はありません。物心ついたときには、パンダはもう「上野にいて当たり前の動物」でした。 京成線で一本、上野動物園 私にとって、上野動物園はかなり身近な場所でした。 京成高砂から京成上野まで、京成線で一本。乗り換えなしで着いてしまう。家族でも行きましたし、保育園の遠足でも行きました。行こうと思えば行ける場所に、それはありました。 だからでしょうか。パンダに対しては、グッズを持つほどの興味はありませんでした。ぬいぐるみも、文房具も、私の身のまわりにはなかったと思います。「見ようと思えばいつでも見られる」という思いが、どこかにあったのかもしれません。 「パンダを見に行った」という友だちの話は、もちろん聞きました。でも、そこで胸が騒ぐということもなかった。当時の私の興味は、もっぱらウルトラマンや仮面ライダーのほうに向いていましたから。 日本中が2時間並んでいたものを、私は電車で一本のところに置いたまま、特に見に行こうともしなかった。今思うと、ぜいたくな話です。 お腹のなかに、いた ランランが倒れたのは、昭和54年8月のことでした。自然妊娠のあとに妊娠中毒症や尿毒症などの合併症を起こし、腎不全に陥ったのです。腹膜透析まで行う懸命な看護が続けられましたが、9月4日、力尽きました。 そして、亡くなったランランのお腹のなかには、10センチほどに育った胎児がいました。 カンカンとランランの間に赤ちゃんが生まれることは、当時の日本人にとって長年の悲願でした。その年の5月には3年連続の交尾成功が報じられ、期待は最高潮に達していたのです。あと少しでした。 翌年の昭和55年6月30日には、残されたカンカンも心不全で亡くなりました。日本の「最初のパンダ」の時代は、こうして2年足らずのうちに終わりました。 憶えていない、ということ さて、ここで正直に書いておかなければなりません。 昭和54年9月4日、私は小学4年生でした。10歳です。ニュースを見た記憶があってもおかしくない年齢ですが、憶えていないのです。 テレビで見たのか、新聞で読んだのか、朝の食卓で親が話していたのか。学校で話題になったのか、先生が何か言ったのか。悲しかったのか、「ふーん」で終わったのか。お腹に赤ちゃんがいたことを当時知っていたのかどうかも。 ひとつも憶えていません。 これを書きながら思うのは、遠かったから憶えていないのではない、ということです。むしろ逆かもしれません。上野は電車で一本で、パンダはいつでもそこにいて、いつでも見られるはずのものでした。あまりに日常の風景の一部になっていたものが欠けたとき、10歳の私はその欠けたことに気づかなかった。 いつでも見られると思っていたものが、その日、見られなくなっていた。そのことに気づかないまま、私は次の日も学校へ行ったのだと思います。 「さよならランラン」というレコード ランランの死から1か月後の昭和54年10月5日、日本クラウンから1枚のシングルレコードが発売されました。タイトルは「さよならランラン」。 収録されていたのは、歌ではありません。A面が「さよならランラン(元気なときのランランの声)」、B面が「がんばってカンカン(かなしいカンカンの声)」。ふたつとも、パンダの鳴き声そのものでした。 追悼盤としてパンダの鳴き声のレコードが売り出され、それが商品として成立してしまう。昭和という時代の熱量を、これほどよく表しているものもない気がします。今なら、まず企画会議を通らないでしょう。 けれども、笑ってしまうと同時に、少しわかる気もするのです。日本中が、あの2頭を本気で自分たちの家族のように思っていた。だから声が聴きたかった。それだけの話なのだと思います。 五人の子の父親になって ランランのことを、こうして今になってあらためて知ると、不思議な気持ちになります。 昭和54年の9月4日、ランランが亡くなったとき、私はまだ10歳でした。この出来事そのものは、ほとんど記憶に残っていません。 でも、いま五人の子どもの父親になった自分が、ランランの最期についての記事を読むと、当時とはまったく違うところに目が行きます。 ランランのお腹の中には、10センチほどの胎児がいた。 この事実です。 当時の私は、そんなことを知ったとしても、たぶん「パンダの赤ちゃんがいたんだ」くらいにしか思わなかったでしょう。でも今は、子どもを五人育ててきたからこそ、その10センチの命を想像してしまいます。 まだ生まれてもいない、小さな命。母親のお腹の中で育っていて、これから生まれてくるはずだった命。ランラン自身も、もう少しで母親になれたのかもしれません。 そう考えると、「ランランが死んでしまった」というニュースだけではなく、そのお腹の中にいた小さな命まで一緒に失われたのだと思えてきます。 子どもを持つ前だったら、ここまで感じなかったでしょうね。自分が親になって、子どもの成長を一人ひとり見てきたからこそ、命というものの重さが少しずつ分かってきたのだと思います。 動物園という場所が、いま何をしているのかを知る本があります。生まれてから死ぬまで、一頭の動物の一生をどう支えるか。あの日のランランに、いまの動物園なら何ができたのだろうかと、つい考えてしまいました。 いのちをつなぐ動物園 生まれてから死ぬまで、動物の暮らしをサポートする京都市動物園 生き物・学び・研究センター編。動物福祉、環境エンリッチメント、繁殖と研究。飼育下で一生を過ごす動物の幸せをどう考えるかを、スタッフ自身が書いた一冊。星4.3 Amazonで見る › 動物園という場所 パンダという存在についても、今は少し違った見方をします。 ...

September 4, 2026

8月31日 ── 「や・さ・い」の日に、夏休みは終わった|昭和の今日は何があった日?

今日は8月31日。8月の最終日です。 そして昭和の子どもにとっては、一年でいちばん落ち着かない一日でした。 いまは夏休みの終わりが8月の下旬だったり、地域によってはもっと早かったりしますが、私が子どものころ、東京の公立小中学校の夏休みは8月31日までと決まっていました。つまり今日という日は、四十日ほど続いた自由の、最後の一日だったわけです。 朝から気持ちが妙にざわつく。遊びに行っても、どこか身が入らない。夕方になると、その落ち着かなさがはっきりした形をとってやってくる。 ——宿題である。 正直に告白しますと、小学生時代の私は、最終日まで宿題をたっぷりと残しちゃっているタイプでした。しかも困ったことに、途中から開き直る。「やーらない」。追い込みすらしないのですから、手のつけようがありません。 当然その後、新学期が始まると肩身の狭い思いをすることになります。提出できない。先生に呼ばれる。まわりはちゃんと出している。あの居心地の悪さは、いまでもうっすら覚えています。 そして翌年の8月31日、私はまた同じことをやっているのです。毎年その繰り返しでした。 「や・さ・い」の日が生まれた日 さて、この8月31日という日付には、昭和の終盤にひとつの記念日が誕生しています。 1983年(昭和58年)、「野菜の日」が制定されました。「や(8)さ(3)い(1)」の語呂合わせです。制定したのは全国青果物商業協同組合連合会をはじめとする、野菜にかかわる9団体。もっと野菜のことを知ってほしい、もっと野菜を食べてほしい——そういう願いが込められた記念日でした。 1983年8月31日は水曜日。私は14歳、中学2年生でした。 正直に申し上げて、当時の私がこの記念日の誕生を知っていたとは思えません。中学2年の男子が「今日から野菜の日だってさ」と話題にする姿は、どう想像しても浮かんできません。 ただ、この記念日が昭和58年に生まれたという事実そのものが、時代を映していると思うのです。 わざわざ「野菜を食べよう」と旗を立てなければならなくなった。裏を返せば、そう言わなければならないほど、日本人の食卓が変わりつつあった、ということでしょう。 カゴとざるの、八百屋さん 昭和58年がどんな年だったか、少し並べてみます。 4月に東京ディズニーランドが開園しました。同じ4月、NHKの朝の連続テレビ小説『おしん』が始まっています。そして7月には、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。 外食産業が広がり、家庭にビデオデッキが入りはじめ、子どもの遊びが屋外から屋内へ移りはじめた時代です。「野菜の日」は、ちょうどそんな時代の入り口で生まれました。 そして、八百屋さんという商売が、まだ街の主役だった最後のころでもあります。 当時は駅前に限らず、商店街が街のあちこちに点在していました。もちろん私も、母に頼まれて近所の八百屋へ買い物に行きました。 いま思い出しても笑ってしまうのが、あの会計です。店の天井から、カゴだったか、ざるだったか、とにかくそういうものが吊り下げられていて、お店の人はそこにお金を入れ、お釣りもそこから出す。実にざっくりしたものでした。 レジ? ないない(笑)。 野菜が、値札とバーコードではなく、店の人の手と声で売られていた時代です。「今日はこれが安いよ」と言われれば、母の頼んだものと違っていても買って帰ることがありました。あれもまた、野菜との付き合い方のひとつだったのだと思います。 給食と、母の躾 野菜と昭和の子ども、といえば、やはり給食の話になります。 昭和の給食には、いまでは考えられない光景がありました。食べ終わるまで席を立たせてもらえない。掃除の時間になっても、ひとりぽつんと食器を前にしている子がいる。そして残されるものは、たいてい野菜でした。 ただ、私自身にはその記憶があまりありません。苦手な野菜が、特になかったのです。 理由ははっきりしています。母から、食べ物の好き嫌いについては結構厳しく躾けられていました。出されたものは食べる。それだけのことですが、家でそう育てられていれば、学校の給食でつまずくこともありません。 昭和13年に新潟で生まれた母にとって、食べ物を残すという発想そのものがなかったのだろうと思います。 そして時代のほうも、少しずつ変わっていきました。「食べ終わるまで残される」という指導は、私が小学生でいるあいだに、だんだんなくなっていったように記憶しています。 強引に食べさせる時代が終わっていく。その少し先に、「野菜の日」のような記念日が生まれる。無理やり食べさせるのではなく、知ってもらって、食べたいと思ってもらう。そういう時代の変わり目が、この記念日の背景にはあったのかもしれません。 あの「食べ終わるまで席を立てない」時間が何だったのかを、正面から書いた本があります。楽しかった人にも、苦痛だった人にも、それぞれの給食があったのだと分かります。 給食の歴史(岩波新書)藤原辰史/岩波書店。子どもの味覚への権力行使という側面と、命をつなぎ新しい教育を模索する側面。貧困・災害・運動・教育・世界の五つの視角から給食をたどった一冊。星4.3(115件) Amazonで見る › 中学2年の、静かな8月31日 ところで、中学2年の私の8月31日は、小学生のころとはまるで違っていたはずです。 中学生になると、高校進学のことを真剣に考えるようになりました。それで、学習への取り組み姿勢がすっかり変わったのです。普段から予習と復習をし、宿題も余裕を持って終わらせている。 あの「やーらない」と開き直っていた小学生が、です。変わればかわるものです。 ですから昭和58年8月31日の私は、たぶん、宿題に追われていません。夏休み最終日を、静かな気持ちで迎えていたはずです。四十日の自由が終わることへの寂しさはあっても、机の上に未提出の山があるという、あの胃の重さはない。 そして翌9月1日は木曜日。始業式です。 もちろん、夏休みが終わってしまう寂しさはありました。けれど、クラスの友達と会えるワクワク感もありましたから、どっちと問われれば「楽しみ」のほうが勝っていた。日焼けした顔で校門をくぐって、真っ黒になった友達と久しぶりに顔を合わせる。あの朝は、そんなに悪いものではなかったのです。 8月31日が、見守る日になった 社会人になると、8月31日はただの日付になります——と、書きかけて、やめました。そんなことはなかったからです。 子どもたちが小さいころ、8月31日になると、宿題の追い込みをしている姿がありました。「もっと早くやっておけばいいのに」と思いながら見ていましたが、考えてみれば自分も子どものころは似たようなものだったのです。というより、追い込みすらしていなかったのですから、私のほうがよほど質が悪い(笑)。 親になってから、8月31日が「宿題をやる日」から「子どもを見守る日」に変わった。これは、ちょっと面白いところだと思います。 いまは路線バスの運転士をしていますので、仕事をしていても、この日には独特の季節感があります。夏休みのあいだは、お子さんの姿や家族連れのお客様が増えて、「夏休みだな」と感じることがある。それが9月に入ると、学校へ向かう子どもたちが一気に増えて、街の空気がガラッと変わります。バスを運転していると、そういう季節の変化をかなり身近に感じます。 自分は8月31日を卒業したのに、8月31日はずっと、誰かの上に降り続けている。 57歳の「野菜の日」 そして自分自身のことです。 57歳になったいま、8月31日だから何か特別なことをするというより、「これからも元気に動ける身体を維持したい」ということを強く意識するようになりました。 野菜も、若いころは「食べたほうがいいんだろうな」くらいの感覚でしたが、いまはかなり意識して食べています。筋トレやランニングも続けていますし、これから先も仕事をしながら、野球を楽しんだり、子どもたちと一緒に動いたりしたい。そのためにも、食事は単なる楽しみだけではなく、身体を維持するための大事なものだと思うようになりました。 母に叱られて食べていた野菜を、いまは自分の意志で選んで食べている。昭和58年に「野菜の日」を作った人たちが願ったのは、たぶんこういうことだったのでしょう。四十三年かかって、私はようやくその願いに追いついたことになります。 とはいえ、毎日きっちり350グラムは、正直しんどい。足りない分をどう埋めるかという話で、うちの冷蔵庫にはこれが常備してあります。砂糖も食塩も入っていない、野菜100パーセントのやつです。 ...

August 31, 2026

8月26日 ── 一回きりで終わるはずだった、あの土曜日の夜8時|昭和の今日は何があった日?

夏休みが、あと五日。 1978年、昭和53年8月26日は土曜日でした。私は9歳、小学3年生。宿題がどうなっていたかは、あえて思い出さないことにします。 その日の夜8時、日本テレビが妙な番組を始めました。翌日の夜8時まで、丸一日、生放送を続けるというのです。 『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の、第1回でした。 土曜の夜8時は、空いていなかった いま思えば、日本テレビはとんでもない時間に旗を立てました。 1978年の土曜の夜8時といえば、TBSで『8時だョ!全員集合』が生放送されている時間です。1969年10月に始まり、1985年9月まで16年間、毎週土曜の20時から20時54分まで、日本中の茶の間を占領し続けた番組でした。 子供にとって、土曜の夜8時は交渉の余地のない時間帯です。翌日は日曜で、学校がない。その一週間分の解放感の入口に、ドリフが立っていました。 そこへ日本テレビが、丸一日の生放送をぶつけてきた。しかも中身は福祉と募金です。 深夜番組から生まれた企画 この番組の出発点は、意外なところにありました。当時、日本テレビが放送していた深夜番組『11PM』の、世界の福祉を扱った特集です。テレビというメディアで何ができるのか。そこから、開局25年の記念事業のひとつとして企画が立ち上がりました。 ところが、社内の反応は冷たいものでした。 当時の民放は、ひとつの番組をひとつのスポンサーが提供する「一社提供」が主流です。複数のスポンサーが並ぶこの仕組みに、スポンサー側が難色を示しました。さらに、週末のゴールデンタイムは編成が固まっている時間帯です。そこを丸ごと差し出すことに、局内からも反対の声が多く上がりました。 結果、この番組は「一回きり」の約束で放送されることになります。 テーマも掲げられました。「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」──今の目で見ると、驚くほど具体的です。地球を救うという壮大な副題の下に、お風呂と、車椅子と、リフト付きバスが並んでいる。集めたお金を何に使うかが、最初から名指しされていました。 この具体性は、そのまま当時の福祉の水準を映しています。寝たきりの高齢者が風呂に入れない。車椅子が足りない。車椅子のまま乗れるバスが、そもそも存在しない。それらはずっとそこにあって、テレビが取り上げてこなかっただけでした。 「愛は地球を救う」という副題は、いま聞くと少し照れくさい響きがあります。けれども、あの時代にゴールデンタイムで福祉を24時間喋り続けるには、それくらい大げさな旗を立てないと成立しなかったのだろうとも思います。 総合司会は萩本欽一と大竹しのぶ。パーソナリティーには大橋巨泉と竹下景子。そして番組のシンボルとして、ピンク・レディーが立っています。 前の日の記事で、私は昭和51年8月25日のピンク・レディーのデビューについて書きました。あの二人が、その二年後の8月26日、今度は違う立場でテレビの真ん中にいる。日付というのは、たまにこういう並び方をします。 会場を転々とした24時間 第1回には、後の「武道館」がありませんでした。 オープニングは芝公園の郵便貯金ホール。途中のコーナーは麹町の日本テレビのスタジオ。エンディングは代々木公園。場所を転々としながらの24時間でした。日本武道館がメイン会場に定着するのは、第3回、昭和55年からです。 代々木公園のフィナーレには人が殺到し、押し寄せた観客に子供や体の不自由な人が押されそうになり、迷子も出たと記録されています。段取りが完成していない、初回だけの混乱です。 そして、募金です。 日本テレビ麹町本社に設けられた受付電話には、189万本の電話がかかりました。そのうち実際につながったのは、3.7パーセントにも満たない7万本程度だったといいます。100本かけて、つながるのは4本足らず。それでも人は、かけ続けました。 29局の累計募金額は、11億9,011万8,399円。 この金額は、その後33年間、破られませんでした。更新されたのは2011年──東日本大震災の年です。 「俺、絶対に起きて全部観る」 当然、私は起きていませんでした。 ただ、この番組が子供の間で話題になっていたことは覚えています。学校で、「俺、絶対に起きて全部観る」なんて言っていた奴がいました。丸一日テレビが続くというだけで、9歳にとっては十分に事件だったのです。誰かが最後まで到達できるのかどうか、それ自体が競技のように受け止められていました。 ちなみに私も、チャレンジしてみようとチャンネルを合わせています。 そして、すぐに断念しました。 番組の中身が、さすがに小学3年生の観続けられるものではなかったからです。寝たきりの高齢者の暮らし、車椅子の話、途上国の福祉。どれも大切な内容だと今なら分かりますが、当時の私には、笑いも歌もないまま画面が延々と進んでいくようにしか見えなかったのだと思います。 考えてみれば、それは番組の側から見れば成功のしるしでもありました。子供が飽きるくらい真面目に作られていた、ということですから。 「絶対に全部観る」と言った奴が、翌週の学校でどう報告したのか。そこは、どうしても思い出せません。 羽根と、「億」という単位 募金そのものは、学校で経験していました。赤い羽根や緑の羽根の募金です。教室で袋を配られ、家から小銭を持ってきて、胸に羽根をつけて帰る。あれが、私にとっての「募金」の入口でした。 ただ、家からテレビに電話をかけた記憶はありません。あの夜、日本テレビに189万本かかったという電話の中に、高砂の我が家からの一本はなかったということです。 画面で読み上げられる金額についても、正直なところ実感はありませんでした。「億」という単位に対して私が受け取っていたのは、ただ「凄くたくさん」という感じだけです。 11億9,011万8,399円。 いま並べてみると、末尾まで一円単位で記録されているところに、この番組の性格が出ている気がします。凄くたくさん、ではなく、一円ずつの積み上げとして数えられている。9歳の私には、そこまで読めませんでした。 裏でドリフをやっていた、その『8時だョ!全員集合』のほうも、いまは映像で残っています。歌のゲストの顔ぶれを眺めているだけで、あの時代の土曜の夜がそのまま出てきます。 8時だョ!全員集合 ゴールデン・コレクション 通常版 [DVD]ザ・ドリフターズ。沢田研二、郷ひろみ、キャンディーズ、桜田淳子ほか歌のゲストも収録。星4.6(254件) Amazonで見る › 続けてしまった、一言 番組が終わろうとしていた代々木公園で、日本テレビの徳光和夫アナウンサーが、会場にいた一人の高校生にマイクを向けました。 その高校生は、こんな意味のことを言ったと伝えられています。欽ちゃん、あの聖火みたいに今日一日で消さないでずっと続けてほしい、消えてしまったらつまらないじゃないか、と。 ...

August 26, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月19日──20番乗り場と、祭壇のサインボール

書くかどうか、少し迷った日 このシリーズは、駄菓子やテレビ番組や野球の話が多い。子どもの目線でながめた昭和を、なるべく軽やかに書きたいと思ってやってきました。 でも8月19日を調べていて、どうしても素通りできない出来事に行き当たりました。しかもそれは、いまの私の仕事そのものに関わる出来事で、そして、私が四十六年ものあいだ忘れられずにいた出来事でもありました。 1980年(昭和55年)8月19日、火曜日。夜9時過ぎの、新宿駅西口バスターミナル。 20番乗り場 その日、京王帝都電鉄(現在の京王電鉄。バス事業はのちに分社化されました)が運行する中野車庫行きの路線バスが、20番乗り場で発車を待っていました。車内には30人ほどのお客さんが乗っていたといいます。 そこに、一人の男が後部ドアからガソリンの入ったバケツと火のついた新聞紙を投げ入れました。 火は一瞬で燃え広がり、6人が亡くなり、14人が重軽傷を負いました。 犯人は当時38歳。駅前の階段で酒を飲んでいたところを誰かに注意され、腹を立てて犯行に及んだと供述しています。それだけです。乗っていた人たちは、誰一人その男と関わりがなかった。ただ、家に帰るためにバスに乗っていただけでした。 私は事件の詳しい様子をここに書きません。調べているあいだ、何度も画面を閉じました。ただ一つだけ、どうしても書いておきたいことがあります。 亡くなった方の中に、後楽園球場で行われた巨人対ヤクルト戦を観戦した帰りの父子がいました。お父さんは40歳、息子さんは8歳でした。 祭壇に置かれたサインボール 私は、この事件を覚えています。 ナイター観戦帰りの父子が巻き込まれたというニュース報道は、11歳の私にとっても衝撃的でした。そして、その少年は大の巨人ファンで、とりわけ王貞治選手が好きだったと報じられていました。 事件を聞いた後楽園スタヂアムと巨人軍は、父子の告別式に花を贈りました。そして王貞治さんが、球団関係者を通じて祭壇にサインボールを届けたことが報道されました。 はっきり覚えているのは、たぶんそのせいです。野球のニュースと事件のニュースが、あの夏、一本につながってしまった。 書きながら気づいたことがあります。1980年は、王貞治の現役最後の年でした。その年の11月、王さんは868号を残してユニフォームを脱いでいます。あの少年が最後に球場で見たのは、引退を目前にした王貞治だったということになります。 8歳の帰り道 一昨日、私はこのシリーズで「プロ野球ナイター記念日」の記事を書きました。布団の中でトランジスタラジオに耳を当てて巨人戦を聴いていた、小学生の私の話です。後楽園のナイターは、当時の私にとって手の届かない場所でした。行きたくてたまらなかった。 その記事を書いた二日後に、この事件に行き当たったわけです。 1980年の夏、私は11歳、小学5年生。あの少年は8歳、小学3年生でした。三つしか違わない。 お父さんに連れられて後楽園に行けたあの子は、私からすればうらやましくてたまらない子どもだったはずです。ナイターの帰り道、まだ興奮が残る頭で、眠い目をこすりながらバスに揺られていた。それは私が心の底から欲しかった時間そのものでした。 その帰り道が、途中で断ち切られた。 法律に「バス」は書かれていなかった この事件では、思わぬところで法律の穴が見つかりました。 刑法108条には、人がいる建造物や汽車、電車、船に火をつけた場合の重い罪が定められています。ところが、その条文に「バス」という言葉はなかった。バスは電車に準ずるものとして108条を適用すべきだという意見も出ましたが、判例がなく学説も分かれていたため、結局は110条の建造物等以外放火罪で起訴されることになりました。 もう一つ。亡くなった方の中に、勤め先からの帰りに子どもの運動靴を買うため、たまたま新宿に立ち寄った母子家庭のお母さんがいました。通常の帰宅経路から外れた場所での被害は労災と認められないのが当時の通例でしたが、この件では当時の労働大臣の発言もあって労災が認定されています。 そして京王帝都電鉄は、自社に落ち度のある事件ではなかったにもかかわらず、全社員に献血を呼びかけ、被害者の医療費を一時立て替えるなどの対応を全社を挙げて行いました。 一つの事件が、法律の言葉づかいと、働く人の補償と、事業者の姿勢を、いっぺんに問い直させたわけです。 8月19日は「バイクの日」でもある 少し空気を変えます。 8月19日は「バ(8)イ(1)ク(9)」の語呂合わせで「バイクの日」でもあります。制定は1989年、昭和64年=平成元年の夏でした。厳密には昭和の出来事ではありませんが、その背景にあったのは、まぎれもなく昭和の空気です。 私が中学生・高校生だったころ、夜になると爆音を鳴らして集団で走る「暴走族」がまだ存在していました。中学の先生は、生徒がそういうものに興味を示さないようにと、日ごろから「バイクにはさわるな!」と叫んでいました。触るな、です。乗るな、ですらない。 そして1982年(昭和57年)、全国高等学校PTA連合会が仙台大会で「三ない運動」を決議します。「免許を取らせない」「乗せない」「買わせない」。地域によっては「車に乗せてもらわない」を足した「四ない運動」、さらに「親は子どもの要求に負けない」まで加わったところもありました。 私が高校生だったのは1985年から1987年。まさに三ない運動の真っただ中で、私の高校の校則にもそれに近い内容が入っていました。ただ、都立高校だったこともあってか、そこまで厳格に守らせるわけではなく、登下校にバイクを使うこと以外にはかなり寛容だったのです。 ノーヘルで走っていた一年 正直に書きます。私は高校入学後まもなく原付免許を取り、原付バイクを買って、学校関係以外では乗り回していました。 当時はまだ、原付にヘルメット着用の義務がありませんでした。原付を含むすべてのバイク・すべての道路でヘルメット着用が義務化されたのは1986年(昭和61年)7月です。私が高校に入ったのが1985年の春ですから、ちょうど一年ちょっとのあいだ、私は法律上ノーヘルで走れたことになります。 いま思えば、ぞっとします。あのころの自分の頭は、風を切って気持ちよかった、としか記憶していません。 そして同時に思うのは、禁止することと教えることは別だ、ということです。危ないから遠ざける。触るな、と叫ぶ。それは大人にとっていちばん楽な方法でした。実際、私のように隠れて乗る高校生はいなくならなかったわけです。 三ない運動は2010年代に全国的な運動としては役目を終え、いまは「乗せて教える」方向へ舵を切った自治体もあります。半世紀近くかかりましたが、そちらのほうが筋が通っている気がします。 いまは自転車も、ヘルメットが努力義務になりました。あのころノーヘルで走っていた人間が言うのもなんですが、頭は一つしかありません。自転車用なら、帽子に近い形で違和感の少ないものも出ています。 OGK KABUTO 自転車ヘルメット キャンバスアーバン(M/L 57-59cm・JCF推奨)オージーケーカブト。自転車ヘルメットの定番メーカーで、見た目はキャップに近いアーバンタイプ。レビュー2,300件超・星4.3 Amazonで見る › 20番乗り場は、いまもある 事件の現場となった新宿駅西口バスターミナルの20番乗り場は、いまも中野方面へ向かうバスが使っています。 ...

August 19, 2026

昭和58年8月13日──銀行が閉まった土曜日と、「半ドン」という言葉|昭和の今日は何があった日?(8月13日)

昭和58年8月13日。この日は土曜日でした。そしてこの日から、毎月第2土曜日は銀行や証券会社の窓口が閉まることになりました。東京証券取引所の株取引も休みです。日本の金融機関が「土曜日に休む」ということを、初めてやった日でした。 当時、私は中学2年生。14歳の夏です。 銀行が閉まった、最初の土曜日 いまの感覚だと、何が事件なのかわかりにくいと思います。銀行は土日休みで当たり前ではないか、と。 でも昭和58年までは違いました。銀行は土曜日も開いていました。月曜から金曜まではフルに働き、土曜日は午前中だけ営業して閉める。それが普通でした。だから第2土曜日だけでも終日休みにするというのは、当時としては相当に大きな決断だったのです。 いまなら、窓口が閉まっていてもATMがあり、振込も入出金もスマートフォンで済みます。しかし当時は、お金にまつわることの多くが「窓口へ行って人と話す」ことで動いていました。窓口が閉まるというのは、そのままお金が動かせなくなるということです。第2土曜日だけとはいえ、その日に用のあった人は前日までに済ませておかなければならない。休みが増えるというのは、当時それなりに面倒を伴う変化でもあったのだと思います。 しかもこの昭和58年8月13日は、月遅れのお盆の入りでもありました。迎え火をたいて先祖の霊を迎える日です。世の中がいちばん「休みらしい空気」になる日に、銀行のシャッターが初めて土曜日に下りた。並べてみると、偶然にしてはよくできているような気がします。 「半ドン」という言葉 土曜日の午前中だけ働くことを、当時は「半ドン」と呼びました。 この「ドン」は、休日を意味する「どんたく」が縮まったものだそうです。そしてその「どんたく」は、オランダ語で日曜日を意味する「ゾンターク」が江戸時代に日本語のなかへ取り込まれたもの、とされています。博多どんたくの「どんたく」も同じ語源だといいます。江戸時代のオランダ語が、昭和の勤め人と中学生の口から毎週出ていたわけです。言葉というのは、ずいぶん遠くから旅をしてくるものです。 中学2年の、土曜日の午後 学校も半ドンでした。土曜日は午前で授業が終わり、給食もなく、昼前に帰る。 ただし私の場合、それで一日が終わるわけではありませんでした。中学の野球部にいましたから、土曜日は一度家に帰って昼食をとり、それからまた学校へ出直して練習、という流れです。 いま思うと、この「一度帰る」というひと手間が、土曜日という日をよけいに特別なものにしていた気がします。平日ならそのまま部活に入る。日曜なら朝から丸ごと練習の日になる。土曜日だけが、家の食卓を一回はさむのです。昼にいったん家の匂いのする時間があって、そこからまた着替えて出ていく。あの往復が、土曜日の記憶にはくっついています。 世の中では、この年から銀行が第2土曜日に閉まりはじめていました。もちろん14歳の私が、そんなことを気にしていたはずはありません。 なぜ土曜日が休みになったのか きっかけは、外からの声でした。 高度成長を続けた日本に対し、欧米から「日本人は働き過ぎだ」「労働者をあれだけ働かせるのは不公正だ」という批判が強まっていました。国内からも、もっと生活にゆとりを、という声が出はじめます。そこで官公庁が主導する形で土曜日の休日化が動き出し、金融機関などの民間もそれに追随した。その第一歩が、昭和58年8月13日の第2土曜日休業でした。 つまりこの日の休みは、「働く人が勝ち取った休み」というより、「外から言われて日本が重い腰を上げた休み」だったわけです。そのあたりが、いかにも昭和という感じもします。 制度の側もあとから追いついてきます。昭和22年に制定された労働基準法は、1日8時間・1週48時間という体制を40年続けてきました。それが改められ、1週40時間労働が規定されたのは昭和63年4月施行の改正労働基準法から。ただしこれも段階的な移行と猶予期間つきでした。土曜日というのは、法律を一本変えれば消えるようなものではなく、20年近くかけてじりじりと後退していったわけです。 休みが金曜日だった父 うちの父は、飲食店に勤めていました。 飲食店ですから、土曜も日曜も、世の中が休む日ほど忙しい。父の休みは毎週金曜日でした。そして世間が半ドンから週休二日へと移っていくあいだも、父の「毎週金曜日休み」は最後まで変わりませんでした。 だからわが家の食卓に、「週休二日」という言葉が出てきた記憶がありません。土曜日が半日になろうが休みになろうが、うちの父には関係のない話だったのです。家族そろって連続して休めるのは正月の1日と2日だけ。車もなく、子どものころに泊まりの家族旅行をした覚えもありません。 世の中が休み方を変えていくニュースというのは、たいてい「勤め人の休み方」の話です。その外側に、休みが動かない仕事の人たちがずっといた。父はその一人でした。 土曜日は、少しずつ消えていった 第2土曜日から始まった土曜休業は、そこから段階を追って広がっていきます。 昭和61年8月9日、第3土曜日も休業日に加わり、いわゆる「4週6休」になりました。そして平成元年2月4日以降、金融機関はすべての土曜日が休みになります。官公庁の土曜閉庁が始まったのは平成元年1月14日で、こちらもまず第2・第4土曜日から。国家公務員の完全週休二日制は、平成4年5月1日からでした。 学校はもっと後です。全国の国公立の学校で毎月第2土曜日が休業日になったのは平成4年9月から。平成7年4月に月2回、完全な学校週5日制になったのは平成14年4月のことでした。 ここで自分の年表と重ねてみて、あらためて気づいたことがあります。 私は昭和51年4月に小学校へ入り、昭和63年3月に高校を卒業しました。その12年間、土曜日はずっと学校がありました。一度も「土曜が休みの学校生活」を経験していません。土曜休みの学校というものを、私はまったく知らない世代なのです。 平成5年、私は信用金庫に入った そして話には続きがあります。 一年の浪人を経て平成元年に大学へ入り、平成5年に卒業した私が新卒で就職した先は、信用金庫でした。金融機関です。昭和58年8月13日に、日本で最初に土曜日を休みにした業界です。 入ってみれば、土曜日は当然のように休みでした。私が中学2年で野球の練習に出直していたころに始まった第2土曜日の休業は、10年かけて全部の土曜日に広がり、私が社会に出たときにはもう「そういうものだ」という顔をしていたわけです。 ただ、職場の先輩方は違いました。ときどき「半ドン」という言葉を使いながら、昔の土曜日の話をしてくれるのです。午前中だけ窓口を開けて、昼で締めて、そのあとどうしていたか。その口ぶりには、面倒だったという顔と、少し懐かしがる顔が両方ありました。 私はその話を、休みが当たり前になった側の人間として聞いていました。変わり目を挟んで、同じ職場に両方の世代がいたということです。いま振り返ると、あれはなかなか贅沢な昔話を聞かせてもらっていたのだと思います。 曜日のない仕事につくということ いま私は路線バスの運転士をしています。 この仕事に、土日休みという概念はありません。むしろ土曜日は、平日とは別のダイヤで走る日です。平日ダイヤ、土曜ダイヤ、休日ダイヤ。バスの世界では曜日は「休むための区分」ではなく、「走り方を変えるための区分」なのです。 そして実際に走っていると、いまの土曜日の車内は、日曜や祝日とほとんど変わりません。平日とは明らかに別物です。通勤通学の流れがなく、乗ってくる人も、時間帯も、車内の空気も違う。昭和58年に第2土曜日から始まったあの動きは、40年かけて、バスの車内の景色まで完全に作り替えてしまったのだと思います。 半ドンだったころの土曜日の車内は、きっと平日寄りだったはずです。私はその土曜日を運転士としては知りません。中学生として、昼前の道を家に向かって歩いていただけです。 半ドンを知っている、最後のあたり 「半ドン」は、いまではほぼ死語です。 言葉が消えたのは、その言葉が指していたものが消えたからです。土曜日の午前中だけ働くという習慣がなくなれば、それを呼ぶ言葉もいらなくなる。昭和58年8月13日の第2土曜日休業は、その長い消滅の始まりの一日でした。 あの日から40年以上たって、土曜日は完全に休みの日になりました。それは間違いなく良いことだと思います。金曜日にしか休めなかった父の世代を思えば、なおさらです。 ただ、昼前に授業が終わって、一度家に帰って昼飯を食い、また学校へ出直していったあの土曜日を覚えている人間は、だんだん少なくなっていきます。信用金庫の先輩たちが私に「半ドン」の話をしてくれたように、こうして書き残しておくのも役目なのだろうと思っています。 「なぜ日本の会社はこうなっているのか」を、雇用・教育・福祉の歴史からたどった一冊があります。土曜日が20年かけてしか消えなかった理由も、この本を読むと腑に落ちます。新書ですが読みごたえは相当なものです。 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学(講談社現代新書)小熊英二/講談社。日本型雇用はいつ、なぜできたのか。年功序列も新卒一括採用も長時間労働も、歴史をたどると理由がある。レビュー447件・星4.3の定番書 Amazonで見る › 半ドンの土曜日そのものを写した本はなかなかありませんが、あの頃の家と道具を写真で残した図鑑ならあります。ページをめくっていると、土曜の昼に帰った家の台所が出てきます。 ...

August 13, 2026

8月11日は「きのこの山の日」──昭和50年、里山の名前を持つお菓子が生まれた日|昭和の今日は何があった日?

8月11日は「きのこの山の日」だそうです。 株式会社明治が制定した記念日で、由来がなかなか凝っています。チョコレートの部分を縦に2つ並べると「8」に見える。クラッカーの部分を横に2つ並べると「11」に見える。そこに国民の祝日「山の日」が重なる。だから8月11日、というわけです。 ただし正直に申し上げておくと、この記念日が登録されたのは2016年です。昭和の8月11日にきのこの山をめぐる出来事が何かあったわけではありません。明治自身、山の日の制定に「真っ向から便乗しました」という趣旨のことを言っていたと伝わっています。潔いというか、なんというか。 それでも私がこの日を選んだのは、記念日ではなく主役のほうに用があったからです。 きのこの山が世に出たのは1975年、昭和50年。私が6歳の年です。小学校に上がる前の年に、あのお菓子は生まれていました。そしてその後の十数年で、山ができ、里ができ、そして村がひとつ、地図から消えていきます。 アポロが売れなかったから、きのこが生まれた きのこの山の始まりは、実はまったく別のお菓子の失敗でした。 1969年、明治の大阪工場でアポロの生産が始まります。あの円錐形の、上がピンクで下が茶色の小粒チョコです。ところが当初は売れ行きが振るわなかった。そこで大阪工場の担当者が考えたのが、「この円錐形の生産ラインを、何か別のものに使えないか」ということでした。思いついたのが、円錐のアポロを傘に見立てて、その底面にクッキーの軸を挿す。つまり、きのこの形にしてしまうというアイデアです。 1970年、この試作品が明治の研究所に持ち込まれます。当時のチョコレートといえば板チョコかチョコバーが当たり前で、ポッキーがようやく出始めたという時代です。そこにきのこの形をしたチョコが現れた。反応は賛否両論だったといいます。無理もない話です。 そこから5年かかりました。軸を食べやすくするためにクッキーからクラッカーに変える。焼き方を工夫する。形にかわいらしさを足す。チョコに軸を挿す工程そのものを何度も試す。何百という試作を重ねて、ようやく形になったそうです。 売れ残った生産ラインが動き始めたのは、奇しくも私が生まれた年でした。それが私の6歳の年に、あのお菓子を送り出したことになります。 「きのこの山」という、時代に逆らった名前 商品が固まった後、明治はもうひとつ大きな決断をしています。名前とパッケージです。 当時は暮らしの欧米化が進んでいて、お菓子の世界でもスタイリッシュな欧米風のネーミングとデザインが流行っていました。カタカナで、横文字で、都会的で。そのほうが売れると誰もが思っていた時代です。 ところが明治は逆に振りました。高度経済成長が一段落して安定成長に入ったこの時期、消費者はむしろ自然ののどかさを求めているのではないか、と読んだのです。そこで「郷愁や自然、人間のやさしさといったイメージを表現する親しみやすいネーミング」として選ばれたのが、「きのこの山」でした。パッケージも、当時は菓子に向かないとされていた緑をあえて基調にして、のどかな里山を描いています。 そして1975年、発売。結果は爆発的な大ヒットでした。新発売の菓子の販売記録を塗り替え、大阪工場はラインを増やしてフル稼働させても生産が追いつかない。営業からは納品を催促する電話が鳴りやまなかったそうです。 さて、ここで白状しておかなければなりません。 私が初めてきのこの山を食べたときの記憶が、まったくないのです。 発売の年に6歳ですから、最初の一箱はおそらく小学校に入ってからでしょう。しかし、それがどういう経緯で私の手元に届いたのかが、どうしても思い出せない。誰かにもらったのか、自分でねだったのか、気づいたら家にあったのか。何も出てこないのです。 大ヒット商品というのは、こういうものなのかもしれません。あまりにも当たり前にそこにあったから、「初めて」という区切りが残らない。出会った瞬間がないまま、いつのまにか私の世界の一部になっていた。 覚えているのは、その後のことです。母と買い物に行ったとき、スーパーマーケットの棚の前でおねだりして買ってもらう。あの緑の箱は、私にとってはっきりと特別なお菓子でした。日常的にいつでも食べられるものではなく、買ってもらえた日はうれしい、そういう位置づけのお菓子です。 食べ方も昔から変わっていません。一個をまるごと口に放り込んで、チョコとクラッカーを一緒に噛む。傘だけ先に舐めるとか、軸を残すとか、そういう分解をした覚えがない。あれは一緒に食べてこそのお菓子だと、体が最初から知っていた気がします。 そして今も、私はきのこの山が大好きです。 昭和54年、里ができた。でも「戦争」はまだなかった きのこの山の発売から4年後の1979年、昭和54年。姉妹品の「たけのこの里」が登場します。 きのこの山が軸にクラッカーを使っているのに対して、たけのこの里はクッキー生地。型を整えながら焼く「型焼」という手法で、あの三角の形を作っています。同じ兄弟のようでいて、食感の設計思想がまるで違うわけです。 1979年、私は10歳。小学4年生です。 私は昔からきのこ派でした。理由ははっきりしていて、食感です。たけのこの里のあの「モサッ」とした感じよりも、きのこの山の「カリッ」としたクラッカーのほうが好きだった。それだけです。そしてこの好みは、今に至るまで一度も変わっていません。 ただ、ひとつ正直に書いておきたいことがあります。 私の家では、きのこかたけのこかで兄妹が言い合いになったことは、一度もありませんでした。 今でこそ「きのこたけのこ戦争」などと呼ばれて、令和になってもネットで定期的に燃え上がっていますが、昭和のわが家にそんな戦線はありませんでした。私はきのこが好き、それだけの話です。相手を論破する必要も、陣営に属する必要もなかった。 考えてみれば、あの2つがライバルとして大々的に売り出されたのは平成に入ってからのことです。明治が「きのこ・たけのこ総選挙」で両者の対立をアピールしたのは2001年。売上が落ち込んでいたブランドを立て直すための一手でした。それが当たって、今の「戦争」につながっていきます。 つまり、私たち昭和の子どもは戦争をしていたわけではなかった。ただ好きなほうを食べていただけです。あとから戦争の名前がついた、というのが正確なところなのだろうと思います。 いまは1つの袋に両方入ったものまで売られています。争わせておいて、最後は仲良く箱に詰める。商売というのは、たいしたものです。 明治 きのこの山・たけのこの里 ビッグシェアパック 36袋(各18袋)食べきりサイズの小袋で、きのこ18・たけのこ18の同数アソート。家族で「どっち派か」を決着させるにはちょうどいい構成です Amazonで見る › そして、私が知らないうちに消えた村がある ここからが、今日いちばん書きたかった話です。 きのこの山があり、たけのこの里がある。それなら次は何か。明治が出した答えが、1987年、昭和62年に発売された「すぎのこ村」でした。 細長いビスケットに、クラッシュアーモンドを混ぜたミルクチョコレートをまとわせて、杉の木に見立てたお菓子です。パッケージにはやはりのどかな村の風景が描かれ、背景の山には小さな杉がびっしり生えている。当時の商品紹介では「きのこの山」「たけのこの里」に続くチョコスナックの傑作誕生、とまで言われていたそうです。価格は150円。CMにも、きのこ・たけのこと一緒に登場しました。 発売当初はヒットしました。しかし、その後は出荷が伸びず、1988年、昭和63年に販売終了。実質わずか1年ほどの命でした。明治の担当者は後年、終売の理由をこう説明しています。一時はヒットしたが、きのこ・たけのこに比べて出荷が減少したため、と。 山は残り、里は残り、村だけが消えた。 ──と、まるで見てきたように書いていますが、これも白状しなければなりません。 私は、すぎのこ村というお菓子を知りませんでした。 今回この記事を書くために調べていて、初めてその存在を知ったのです。1987年に発売され、1988年に消えた。この2年間、私は何をしていたか。1987年は高校3年生で、7月23日に神宮第二球場で高校野球が終わり、そこから先の進路も決めきれずにぼんやりしていた年です。翌1988年は浪人していました。大学に入ったのは、そのさらに翌年になります。 18歳と19歳。チョコスナックの新商品を追いかける年齢ではなくなっていた、ということなのでしょう。子どもの頃はあれほど棚の前で立ち止まっていたのに、いつのまにか、お菓子の棚は私の視界から外れていた。 お菓子は、消えるときに何のお別れもしてくれません。閉店の貼り紙も出なければ、最終日の行列もない。それどころか私の場合は、生まれたことにすら気づいていなかった。誕生も終売も、まるごと視界の外で起こっていたわけです。 ちなみにすぎのこ村はその後、1992年から「ラッキーミニアーモンド」と名前を変えて2008年まで売られ、2005年には一度だけ復刻もされています。名を変えて20年近く。それを生き延びたと呼ぶのか、消えたと呼ぶのかは、なんとも言えないところです。 後づけの記念日が、いちばん大事なものを指していた 最初に書いた通り、きのこの山の日は2016年にできた後づけの記念日です。それでも、結果的にいちばん大事なところを指していると思うのです。 昭和50年に明治が賭けたのは、味でも技術でもなく、「山」と「里」という言葉が持つ懐かしさでした。欧米風の名前が売れると誰もが思っていた時代に、あえて日本の里山を選んだ。そして半世紀後、その商品は国民の祝日「山の日」に便乗できるほどの存在になっていた。便乗できるということは、その名前が定着しているということです。緑の箱を選んだ判断が、50年かけて祝日と握手したわけです。 私は今、路線バスの運転士をしています。毎日同じ道を走っていると、沿線の店が変わっていくのがよく分かります。開いた店、閉じた店。気づいたら別の看板になっている場所。すぎのこ村の話を読んでいて、そういう景色のことを思い出しました。 残るものと、消えるもの。そして、消えたことにすら気づかれないもの。その差は、案外紙一重なのかもしれません。 みなさんは、きのこ派でしたか。たけのこ派でしたか。そして、すぎのこ村のことをご存じでしたか。私は今回、まったく知りませんでした。もし覚えていらっしゃる方がいたら、それはかなり貴重な記憶だと思います。 ...

August 11, 2026

道の日──ブロックの破片で書いたホームベースと、いま毎日走っている道のこと|昭和の今日は何があった日?(8月10日)

八月の道は、いちばん道らしい 八月の道は、暑い。 当たり前のことを書いてどうするのかと自分でも思うのですが、この季節の道には、ほかの月にはない存在感があります。アスファルトから立ちのぼる熱、遠くの景色がわずかに揺れて見えるあの現象、白い横断歩道が目に痛いほど光る昼下がり。冬の道は静かに横たわっているだけですが、八月の道はこちらに向かって何かを主張してきます。 そして8月10日は「道の日」です。 私はこの記念日を、大人になってから、それも仕事に就いてから知りました。子どもの頃の私にとって、道はあまりに当たり前で、記念日をつけるようなものだとは思ってもみませんでした。 昭和61年、道に「日」ができた 「道の日」を制定したのは、建設省——現在の国土交通省——の道路局です。制定は1986年、昭和61年でした。 なぜ8月10日なのか。さかのぼると大正時代に行き着きます。1920年(大正9年)のこの日、日本で最初の近代的な道路整備計画である「第一次道路改良計画」が決定したのです。前年に旧道路法が制定され、明治期の道路路線をいったん廃止して国道を定め直した。その受け皿として、本格的な整備計画が動き出したのがこの日でした。今に続く日本の道づくりのスタート地点、と説明されることがあります。 制定の趣旨には、こんな言い方が使われています。道路は国民生活に欠くことのできない基本的な社会資本なのに、あまりに身近な存在であるために、その重要性が見過ごされがちである——だから改めて関心を持ってほしい、と。 見過ごされがちである。 この一文が、私にはやけに刺さります。子どもの頃の私は、まさに道を完全に見過ごしていました。見過ごしていたどころではありません。そこを自分の縄張りだと思って、毎日転がり回っていたのです。 ちなみに8月は、まるまる一か月が「道路ふれあい月間」でもあります。もとは7月10日から8月9日までの期間だったものが、昭和44年——私が生まれた年です——に、夏休みの啓発活動をやりやすくするという理由で8月1日から31日に変更されました。 制定と同じ年には「日本の道100選」の選定も始まっています。各都道府県が推薦した道路の中から、1986年度に53本、翌1987年に51本、合わせて104本。さらに昭和63年には、制定時に作られたハンミョウのキャンペーンキャラクターに「こっちだヨウ平」という愛称がつきました。ハンミョウは人の前を飛んで先を案内するように見えるので「道教え」とも呼ばれる虫だそうで、なるほど道案内役にはうってつけです。 昭和61年、私は高校2年生でした。「道の日」ができたというニュースの記憶は、まったくありません。あの夏の私が向き合っていたのは道路行政ではなく、野球部の練習だったはずです。 私の最初の運動場は、幅四メートルの道だった 私にとって最初の「道」は、家の前の路地でした。 幅は四メートルほど。車が一台通れば人はよけなければならない、あの寸法です。そこが私たちの野球場でした。いわゆる路地野球です。 ホームベースはいつも決まっていた場所に、ブロックの破片で道路に直接書いていました。それが薄くなるたびに、何度も何度もブロックの破片をガリガリと道路にこすりつけて書き直す。今考えると、道路に落書きをしていたわけですが、当時はそれが球場整備でした。 ほかの各ベースについても、「4メートル路地球場」のいつもの位置が決まっていました。「1塁は玄関の前のこの位置ね」「今日の2塁はこれね」と言い合って、ベースに見立てたちょうどいい大きさの、捨ててあったガラクタを拾ってきて置く。誰かが図面を引いたわけでもないのに、球場の設計は毎回きっちり再現されるのです。 バットはいわゆる「プラバット」、ボールは「カラーボール」でした。 ルールは、その道の形に合わせて育ちました。道の両サイドに建つ家の壁に当たって跳ね返ってきたボールを、地面につく前にキャッチしたらアウト。屋根の上に上がったボールも、地面に落ちる前にキャッチすればアウト。——プロ野球の中継を見ながら育った子どもたちが、自分たちの球場の壁と屋根を、そのままルールブックに書き足していったわけです。 そして、試合はしょっちゅう中断しました。気が付いた人が「車!」「自転車!」と叫ぶ。そこで全員が止まって、道の端に寄る。通り過ぎたら、また何ごともなかったように再開する。 いま思えば、あれは当たり前の話です。あそこは球場ではなく、道路だったのですから。 叱られた記憶も、いろいろあります。家の敷地内に打ち込んでしまったボールを、無断で入り込んで取りに行き、その家の人に見つかって叱られたことは何度もありました。打ったボールでガラスを割ってしまったときは母親に叱られましたし、車にボールを当てて叱られたこともあります。 つまり私は、道を借りて遊んでいたのに、その自覚がまるでなかったのです。舗装のわずかな傾き、マンホールの位置、どの家の塀が跳ね返りやすいか——そういうことは自分の家の間取り以上に正確に把握していたのに、その道が誰かのつくったものだという発想だけが、すっぽり抜け落ちていました。 いまの子どもは路地で野球をしません。それでも、公園や河川敷でプラバットを振る楽しさは変わりません。孫と外に出るときに一組あると、あの頃と同じ音がします。 KAISER キッズ ベースボールセット KW-543(バット・グローブ・ボール)対象6歳以上。カラーバットと8インチグローブ、やわらかいPUボールの3点セット。公園や河川敷で、孫と一組。当たっても痛くないので気兼ねなく振れます Amazonで見る › 同じ道を、いまも歩いている 私はいまも、子どもの頃に育った町で暮らしています。だから当時通っていた道を、今も普通に使っています。 これが、ときどき妙なことを起こします。 何気なく、道路の脇に立っている木を見て、「この木に子どもの頃上ったな」と思う。当時から変わっていないものを見た瞬間に、五十数年前の記憶に一瞬で飛ぶことがあるのです。 不思議なもので、思い出そうとして思い出すのではありません。歩いていて、目に入って、勝手に飛ぶ。道そのものは舗装も直され、建物も変わっているのに、たまたま残っていた一本の木が、当時の高さの感覚まで連れて戻ってくる。 道というのは、記憶の保管場所でもあるのだと思います。日記も写真も残していないのに、あの路地の傾きは体が覚えている。それは私が偉いのではなくて、道が変わらずにそこにあってくれたからです。 いま、私は道で働いている それから五十年近くたって、私は路線バスの運転士をしています。 つまり、道が職場になりました。 仕事で毎日、決まった道を走っています。すると、「道」がいたるところで思いのほか傷んでいることに気が付きます。同じ場所を毎日通るからこそ、少しずつの変化が見える。ここの継ぎ目が広がってきたな、あの白線が薄くなってきたな、と。 そして、誰かがそれを見つけては補修をしてくれていることも知ります。ある日通ったら、傷んでいた場所がきれいになっている。誰がいつ直したのか、私は知りません。それでも、確実に誰かが見つけて、直してくれている。 普通に生活している中では、あまり気にしていなかったことでした。子どもの頃の私にいたっては、路地の舗装をやり直す工事があっても「うるさいな」くらいにしか思っていなかったはずです。 現在の私は、道を使わせていただいて仕事をさせていただいています。だから、道を守ってくださっている方々に、感謝の気持ちがわいてきます。 「道の日」の制定趣旨にあった、あまりに身近な存在であるために重要性が見過ごされがちであるという言葉に戻ります。あれは、たぶん整備する側から見た実感なのでしょう。直しても、誰も気づかない。気づかれないことが、いちばんうまくいっている状態でもある。 でも、毎日同じ道を走る仕事に就いて、私はようやく気づく側にまわりました。四十年遅れの、ずいぶん時間のかかった理解です。 ブロックの破片で書いたホームベースの上を 昭和61年8月10日に「道の日」ができたとき、17歳の私はそんな記念日の存在すら知りませんでした。あの頃の私にとって道とは、走るもの、渡るもの、そしてかつてプラバットを振った場所でした。 いまの私にとって道とは、お客さまを乗せて進む場所です。同じものを見ているはずなのに、意味がすっかり入れ替わってしまいました。 それでも、住宅街の狭い区間でハンドルを切っているとき、幅四メートルの感覚が体の奥から出てくることがあります。この幅は、私がいちばんよく知っている幅です。ブロックの破片でホームベースを書き直していた子どもの勘が、まだどこかに残っているような気がするのです。 あのホームベースは、とっくに消えています。舗装も何度か直されたでしょう。それでも、あの位置は今でも指させます。 みなさんにとって、子どもの頃の「道」はどんな場所でしたか。路地でしょうか、田んぼのあいだの農道でしょうか、それとも団地のあいだの通路でしょうか。よかったら教えてください。 路地野球のほかにも、メンコ、ベーゴマ、ゴム跳び、缶けり。あの頃、道と空き地でやっていたことを一冊にまとめた本があります。ページをめくっていると、名前を忘れていた遊びのほうから戻ってきます。 ヤマケイ文庫 こども遊び大全遠藤ケイ/山と溪谷社。メンコ、ベーゴマ、馬乗り、ちゃんばらごっこ、ゴム跳び……町内の路地や裏の空き地で繰り広げられた遊びを、道具の作り方まで含めて記録した一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ...

August 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月6日──8時15分のテレビと、記憶違いの『はだしのゲン』

夏休みの朝、テレビをつけると広島が映っていた 夏休みは、朝が遅い。 学校がないぶん、起きる時間もだらしなくなります。それでも8月6日だけは、なぜか少し早く目が覚めていたような気がします。 居間に降りて、なんとなくテレビをつける。すると画面には、広島が映っていました。 ニュースのなかで流れる、平和記念式典の様子です。式典を最初からじっくり見ていた、というわけではありません。ニュース番組を通して、平和記念公園に集まった人々の姿や、黙とうする様子を見ていた——そういう記憶です。 夏休みのテレビの朝は、基本的に明るいものでした。アニメの再放送があり、夏の高校野球の予告があり、水着の映像があり。そのなかで8月6日の朝だけは、画面の色がすっと沈む。 午前8時15分。広島ではサイレンが鳴り、街全体が黙とうに入ります。 けれど、東京の下町にサイレンは鳴りません。窓の外では蝉が鳴き、京成線が普段どおりに走っていく。テレビの画面の中だけが静まりかえっていて、こちら側は何も変わらない。あの温度差を、子どもながらに妙だと感じていた気がします。 子どもだった私は、それをうまく言葉にできませんでした。ただ「今日はそういう日なんだ」と思って、黙って見ていた。それだけです。 葛飾の小学校には、夏休み中の登校日がありました。平和についての話も、たぶんあったのだと思います。ただ、正直に言うと覚えていません。8月6日という日は、私にとって「学校で教わったこと」よりも先に、「朝のテレビで見たもの」だったのです。 昭和46年8月6日──現職の総理大臣が、はじめて広島に立った その広島の式典に、日本の現職の総理大臣がはじめて出席したのは、1971年(昭和46年)8月6日のことでした。佐藤栄作首相です。 原爆が投下されたのが1945年(昭和20年)。つまり26年間、その席に総理大臣は座っていなかったことになります。 このとき私は2歳4か月。当然、記憶はありません。ただ、あとから考えると不思議な話です。あれほど大きな出来事の式典に、四半世紀のあいだ現職の総理が足を運んでいなかった。昭和40年代の後半になって、ようやく「国として、あの日の前に立つ」という形が整いはじめたということでもあります。 佐藤栄作という人は、1967年(昭和42年)に「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を国会で表明した総理でもあります。そして1971年6月には沖縄返還協定に調印し、翌年の本土復帰へと進んでいく。その夏に、はじめて広島の慰霊碑の前に立った。3年後の1974年には、ノーベル平和賞を受けています。 その評価をここで論じるつもりはありません。ただ、私がテレビで見ていたあの朝の風景は、そう古くから続いていたものではなかった。昭和46年からあとの、まだ新しい風景だったのです。 私が生まれてから、ようやく整った形。それを私は、当たり前の夏の景色として見ていました。 「24時間テレビで観た」という、私の記憶 さて、ここからが本題です。 8月6日といえば、私にはもうひとつ、はっきりした記憶があります。 アニメ映画の『はだしのゲン』を、テレビで観たという記憶です。 細かな場面までははっきり思い出せないのですが、画面に映し出される出来事があまりにも重く、子ども心に「怖い」と感じたことは強く残っています。見ているのがつらくなり、思わず画面から目を背けてしまった場面もありました。 それでも、途中でテレビを消すことはできず、結局は最後まで観ました。怖いからこそ、この先に何が起こるのかを確かめなければならないような気持ちがあったのかもしれません。観終わったあとも、すぐに普段の夏休みの気分へ戻ることはできず、しばらく重たい感覚が残っていたように思います。 これだけのものが体に残っているのに、肝心の「いつ、どこで」だけが、あやふやなのです。 そして、その記憶にはご丁寧に注釈までついていました。「たしか、夏の恒例の『24時間テレビ』のなかで放送されていたはずだ」と。長時間のチャリティー番組の、どこかの時間帯。あの独特の、少し疲れたような夏の空気のなかで、私はゲンを観た。そう思い込んでいたのです。 調べてみたら、あの枠は手塚治虫の指定席だった 念のため、調べてみました。そうしたら、話が合わなくなったのです。 『24時間テレビ「愛は地球を救う」』が始まったのは1978年(昭和53年)。日本テレビの開局25周年記念でした。私が小学3年生の夏です。 この番組には、名物のアニメスペシャル枠がありました。第1弾が『100万年地球の旅 バンダーブック』。1978年8月27日の午前、国産初の「テレビ2時間アニメ」として放送されました。以降もほぼ毎年、この枠にはアニメが並びました。 問題は、その中身です。この枠は、ほとんど手塚治虫作品の指定席でした。例外は、竹宮惠子さん原作の『アンドロメダ・ストーリーズ』(1982年)と、最後の年になった1990年の『それいけ!アンパンマン』くらい。 つまり、『はだしのゲン』は一度も流れていないのです。 私の記憶は、成り立ちませんでした。 では、私はどこであれを観たのか アニメ映画『はだしのゲン』が公開されたのは、1983年(昭和58年)7月。私が中学2年の夏です。 制作はマッドハウス、監督は真崎守さん、音楽は羽田健太郎さん、ナレーションは『ジェットストリーム』でおなじみの城達也さん。主人公ゲンの声は、オーディションで選ばれた広島市出身の小学生でした。原作者の中沢啓治さんが、漫画では描ききれないものを映像にしたいと、私財まで投じてつくった作品です。 そしてこの映画には、大きな特徴がありました。公開にあたって、全国の市民団体や自治体、学校が協力する「1000か所 草の根上映運動」が展開されたのです。映画館ではなく、公民館や学校の体育館。そういう場所で観た人が、たいへん多い作品でした。 地方局が夏に放送した記録も残っています。たとえば富山テレビは、1985年8月6日の夕方4時から、この作品を放送しています。 ついでに言えば、原作の漫画も変わった道を歩いた作品です。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まったあと、市民団体の雑誌、政党の理論誌、日教組の機関誌へと掲載の場を転々としています。それでいて、私たちの世代にとって『はだしのゲン』は、学校の図書室に必ず置いてある本でした。誰が買ったわけでもないのに、気がつけばそこにある。 そう考えると、私が観たのは、学校か地域の上映会だったのかもしれません。あるいは、どこかの局の夏の特別枠だったのかもしれません。 正直に書きます。もう、わかりません。 なぜ記憶は、ふたつを結びつけたのか ただ、なぜ記憶が「24時間テレビ」と結びついたのかは、なんとなく想像がつきます。 当時の子どもにとって、「夏に、テレビの前で真面目な気持ちにさせられる時間」という引き出しは、そう多くなかった。8月6日の朝のニュース。終戦記念日の特集。そして、24時間テレビ。だいたいこの三つくらいです。 同じ引き出しに入っていたものが、40年以上のあいだに、勝手にひとつに溶け合ってしまったのでしょう。あの映像の重さと、夏の長時間番組のあの空気が、記憶のなかでくっついた。「夏」「テレビ」「まじめな気持ち」という三つのタグが一致してしまえば、あとは記憶のほうが勝手に配線をつなぎます。 しかも24時間テレビのアニメ枠は、当時の子どもにとって、きわめて印象の強い時間帯でした。そこへ「夏に観た、重たいアニメ」という記憶を放り込めば、収まりのいい棚はひとつしかありません。 けれど、それだけではない気もしています。 実を言えば、私のなかでこのふたつは、もともと地続きでした。8月6日の朝にテレビニュースで広島の式典を見た記憶と、『はだしのゲン』を観たときの怖さは、自分の中でどこか結びついています。当時は戦争や原爆について十分に理解できていたわけではありません。それでも、これは昔の遠い出来事として簡単に片づけてはいけないものなのだという感覚だけは、子どもなりに受け取っていたのだと思います。 だとすれば、記憶が番組名を取り違えたことは、たいした失敗ではないのかもしれません。事実関係の配線は、たしかに間違えた。けれど、結びつけるべきものは、ちゃんと結びついていた。 そして8月6日は、「記憶を残すこと」そのものが問われる日でもあります。当事者の記憶が薄れていくなかで、私のような下町の子どもにも届くように、どうやって残すのか。 そのために作られたのが、あのアニメでした。だから中沢啓治さんは、映画館の上映だけでは足りないと考えて、体育館でも公民館でもいいから観てくれと、全国に映写機を送り出したのです。 私が「どこで観たか」を忘れてしまったことは、ある意味で、その運動が成功した証でもあるのかもしれません。場所を忘れるほど当たり前に、あの映像は子どもたちのところへ届いていた。 令和の8月6日に いまの私の家には、地上波のテレビがありません。大きなモニターで、動画や配信を観るだけです。 だから8月6日の朝、なんとなくテレビをつけたら広島が映っていた——ということは、もう起こりません。観ようと思って、自分で選ばないかぎり、あの日の映像は目の前に現れないのです。 昭和の子どもだった私は、選んでいませんでした。ただテレビをつけたら、そこに広島があった。黙とうがあった。逃げ場がなかったとも言えるし、だからこそ体に残ったとも言えます。 もう一度、あのアニメを観てみようかと思っています。今度は、いつどこで観たかを、ちゃんと覚えていられるように。 みなさんは、8月6日の朝をどんなふうに過ごしていましたか。そして『はだしのゲン』を、どこで、いくつのときに観ましたか。 あの夏に読んだ、あるいは観たきりになっている方へ。中沢啓治さんの原作漫画は、いまも文庫版で全巻そろいます。私たちの世代にとっては学校の図書室にあった本ですが、大人になってから読み返すと、子どものときには受け取れていなかったものが、いくつも見えてきます。お子さんやお孫さんの本棚に置いておく一組としても。 はだしのゲン(全7巻セット)中公文庫コミック版中沢啓治。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載開始。作者自身の被爆体験をもとに描かれ、世代を超えて読み継がれてきた全7巻。文庫版でそろえやすい Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

August 6, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月5日──「はんぶんこ」は、しなかった。パピコが生まれた昭和49年と、溶ける前に飲み干した夏

8月5日は「パピコの日」 8月5日と書いて、「パピ(8)コ(5)」と読む。 グリコが定めた「パピコの日」です。語呂合わせだけではありません。パピコ1本の形が数字の「8」に似ていること、2本をパキッと分けたときの姿が漢数字の「八」に見えること。そして何より、2本1組のパピコを二人で「はんぶんこ(5)」してほしい——という願いが、この日付には込められています。 大切な人と分け合う日。 そういう趣旨だそうです。とても良い記念日だと思います。思うのですが、私はこの記念日の趣旨を、子どもの頃に一度も実践したことがありません。 一度もです。それどころか、実践する気すらなかった。今日はその話を書きます。 「2本で1つ」は、分け合うために生まれた パピコが世に出たのは、1974年(昭和49年)のことでした。私は5歳。まだ小学校にも上がっていません。 当時発売されたのは「パピコ<乳酸ミルク>」。いまの<ホワイトサワー>の原型にあたる白いアイスです。子どもが好きな乳酸飲料を氷菓にできないか、という発想から生まれたもので、パッケージは縦型。水玉模様と女の子の絵が描かれた、いかにも昭和らしい爽やかな意匠でした。 面白いのは、あの「2本で1つ」という形が、最初から狙って作られたわけではなかったということです。 グリコには当時、「グリコWソーダアイス」という2つに分けられるバーアイスがありました。仲の良い友達同士で分け合う、いわばコミュニケーションの道具として買われることを想定した商品です。パピコも企画当初は1本で検討していたそうですが、どうにも「らしさ」が出ない。そこでWソーダにならって2本1組にしてみたところ、急に楽しさが加わり、支持を得て発売にこぎつけた——そういう経緯だったといいます。 つまりパピコのあの形は、はじめから「誰かと分け合うこと」を前提に設計されているのです。50年以上たった今も、その形はほとんど変わっていません。 幼児向けのはずが、買っていたのは中学生だった 片手で持って、手軽に吸える。その形状から、パピコは当初、幼児向けの商品として売り出されました。 ところが蓋を開けてみると、意外にも中学生がたくさん買っていることが分かった。そこでグリコは1977年(昭和52年)、姉妹品として<チョココーヒー>を発売します。コーヒーにチョコレートを加えた、当時ほかにない味。これが大ヒットしました。 1977年、私は小学2年生です。 そして「中学生がやたらとパピコを買っている」と言われていた時期に中学生になったのが、まさに私の世代でした。企業が想定した客層と、実際に手を伸ばした子どもたちが、少しずれていた。そのズレがあったからこそチョココーヒーが生まれたわけで、なんだか他人事とは思えない話です。 私が食べていたのも、コーヒー系でした。 商店の冷凍ケースと、家の冷凍庫 私にとって、パピコは「商店の冷凍ケースで買うもの」でした。 家に買い置きがあったことはありません。うちの冷凍庫に常備されていたのは、自宅で凍らせる、俗に言うチュウチュウアイスのほうです。安い。とにかく安い。夏のあいだ、母はあれをまとめて買ってきては凍らせていました。 だから我が家では、アイスに二種類ありました。 いつでも冷凍庫にある、ケ(日常)のアイス。そして商店まで出かけていって、冷凍ケースの重い蓋を開けて選ぶ、ハレのアイス。パピコは、間違いなく後者です。同じ「氷菓」であっても、家の冷凍庫から取り出すものと、お金を出して買うものとでは、口に入れたときの意味がまるで違いました。 家のアイスは、いつでもある。だから、ありがたくない。買ったアイスは、そこにしかない。だから急いで食べる。 いま考えると、あの二種類の使い分けは、そのまま昭和の家計の話でもあったのだと思います。たくさん買って安く凍らせておくものと、たまに一つだけ買うもの。子どもだった私はそんなことを考えもせず、ただ「今日はいいほうが食べられる」と喜んでいただけでしたが。 パッケージが横を向いた年 パピコの歴史をたどっていて、ひとつ手が止まった年があります。 1987年(昭和62年)。この年、パピコのパッケージは縦型から横型に変わりました。1970年代から80年代にかけてコンビニが急成長し、コンビニの店頭に並ぶことを想定した変更だったといいます。同時に、発売以来ずっと描かれていた女の子の絵柄がなくなり、「papico」のロゴが大きく表示されるようになりました。 1987年。私は高校3年生です。 つまり私が最後の夏の大会に向けてグラウンドにいたころ、パピコは商店の冷凍ケースから、コンビニの棚のほうを向きはじめていた。あの女の子の絵は、私が高校を出るのとほとんど同じころに、静かに消えていたことになります。 もちろん当時の私は、そんなことにはまるで気づいていません。気づくはずもない。子どもの世界が終わっていくのと歩調を合わせるように、駄菓子屋や商店の冷凍ケースを前提にしていた商品が、次の時代の売り場に合わせて姿を変えていた——それを知ったのは、57歳になった今日でした。 「はんぶんこ」は、しなかった さて、記念日の趣旨に戻ります。 私はパピコを、誰かとはんぶんこした記憶がありません。妹とも、友達とも。買ったら2本とも自分のものでした。 そうなると、あの形は「楽しさ」ではなく「試練」に変わります。 2本あるということは、1本目を吸っているあいだ、2本目はずっと手の中で温まり続けているということです。溶けてしまう前に食べきらなければならない。だからパピコを食べるときは、スピードが大切でした。 とくに問題になるのが、2本目の吸い口です。溶けてやわらかくなってしまうと、これが実に切り取りづらい。しっかり凍っているうちならスパッといくものが、ぐにゃりとして言うことを聞かなくなる。分け合う相手がいれば、2本は同時に開封されて、それぞれの手の中で最短時間のうちに消えていったはずです。一人で持ってしまうと、2本目は必ず「待たされる」。 分け合うために生まれた形が、分け合わない子どもの手の中では、制限時間つきの競技になっていたわけです。 噛みちぎり派 もうひとつ、告白しておくことがあります。 私は「噛みちぎり派」でした。 いまのパピコには、先端に引っ張るためのリングがついています。「リング式イージーオープン」という正式名称まであるそうですが、あれが登場したのは2004年のこと。発売当初のパピコに、リングはありませんでした。 つまり昭和のパピコは、自力で開けるしかなかったのです。手でちぎるか、噛みちぎるか。私は迷わず後者でした。歯で先端をくわえて、ぐいっとやる。行儀が良いとは言えませんが、あれが一番速い。溶ける前に食べきらなければならない子どもにとって、開封は一秒でも短いほうが良かったのです。 ついでに言えば、当時のパピコは今よりずっと硬いものでした。パピコが「なめらか食感」になったのは1998年(平成10年)のリニューアルからで、それ以前は押し出すのにも力が要りました。噛みちぎった先から、硬い氷の塊をぐいぐい押し上げる。あの手ごたえこそが、私の記憶にあるパピコです。 いまのパピコを食べると、正直なところ「やわらかいな」と思います。おいしいのです。おいしいのですが、あの、下から親指で押し上げてもなかなか出てこない、じれったいような硬さが、どこにも残っていない。 硬かったから急いだのか、急いでいたから硬く感じたのか。いまとなっては、もう確かめようがありません。 令和の8月5日に 「パピコの日」が正式に制定されたのは、2019年のことでした。昭和どころか、平成もほとんど終わったころの話です。 パピコの累計販売個数は、40億個を超えているといいます。ただしこの集計は1982年からのものだそうです。1982年——私が中学に上がった年です。 ということは、私が小学生のころに商店の冷凍ケースの前でかがみ込み、噛みちぎって飲み干したパピコは、あの40億個には入っていないことになります。数えられていない。誰の記録にも残っていない。 けれど、私は覚えています。統計に入っていないアイスの味を、50年近くたっても覚えている。記念日というのは、たぶんそういうもののためにあるのだと思います。 そして今日という日は、「大切な人と分け合う日」ということになっている。 半世紀近く遅れて、私はようやくこの記念日の趣旨を実践できる立場にいます。今日あたり2本買ってきて、1本を誰かに渡してみるのも悪くありません。もっとも、渡した瞬間に「そっちのほうが多い」と言われる可能性は、大いにあるのですが。 みなさんは、パピコを「はんぶんこ」する側でしたか。それとも、私と同じく2本とも自分で抱え込む側でしたか。 記念日なので、久しぶりに買ってきました。私にとってのパピコは、やはり<チョココーヒー>です。昭和52年に「中学生がよく買っている」という発見から生まれた味が、半世紀近くたった今も定番として棚に並んでいる——それだけで、なんだか嬉しくなります。冷凍庫に何本かストックしておけば、この夏はいつでも「はんぶんこ」ができます。 江崎グリコ パピコ チョココーヒー 160ml×6袋1977年(昭和52年)発売のロングセラー。コーヒーにチョコを合わせた、あの味。2本1組だから、誰かと分け合うのも、ひとりで2本抱えるのも自由です Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

August 5, 2026