昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日

6月2日。梅雨入りを前にした空は、晴れたり曇ったりと、どっちつかずの顔をしている。蒸し暑い昼のあと、夜になって雲が切れると、まだ低いところに月が出ていたりする。今日は、その月の話から始めたい。 私が生まれる三年前、月にそっと降りた機械があった 正直に書くと、私はこの日付をつい最近まで知らなかった。 私にとって「人類と月」といえば、まずアポロ11号だ。ニール・アームストロングが月面に足跡を残し、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と語った、あの夏。昭和44年(1969年)の7月のことだ。 ところが、その昭和44年というのは、私が生まれた年でもある。私が生まれたのは4月だから、人類が初めて月に立ったとき、私はまだ生まれて三か月ほどの赤ん坊だった。当然、何ひとつ覚えていない。母に抱かれて、月のことなどつゆ知らず、すやすや眠っていたのだろう。 つまり、私の世代にとって月とは、物心ついたときには「もう人間が行ったことのある場所」だった。教科書にもテレビにも、月は当たり前のように「行ける星」として出てきた。月へ行くというのが、どれほど途方もない挑戦だったのか、私たちはほとんど実感しないまま大きくなった。 そんな私たちの「当たり前」を、こっそり用意してくれていたのが、今日6月2日の出来事だ。 昭和41年(1966年)6月2日。アメリカの無人月探査機「サーベイヤー1号」が、月面にそっと軟着陸した。アメリカにとって、初めての月軟着陸だった。 それまでの探査機は、月にぶつかる寸前まで写真を撮りながら、最後は文字どおり月面に激突して終わっていた。「届く」ことと「降りる」ことは、まったく別の難しさだったのだ。空気のない月では、パラシュートは使えない。だから逆噴射のロケットだけを頼りに、落ちていく速度を、ぎりぎりまで自力で殺さなければならない。 サーベイヤー1号は、それをやってのけた。エンジンを噴かしてゆっくりと速度を落とし、四本の脚で、静かに月面に立った。そして、何ごともなかったかのように、1万枚を超える月面の写真を地球に送り続けた。砂利のような地面。小さなクレーター。地球からは決して見えなかった、足もとの月の素顔。 月面に静かに立つサーベイヤー1号。NASAの月周回探査機「ルナー・リコネサンス・オービター」が撮影。昭和41年6月2日、この機械が月に降りたことで、アポロへの道が開かれた。(Photo: NASA / パブリックドメイン) これは、来たるべきアポロ計画──人間を月に着陸させる計画──のための、いわば下見であり、リハーサルだった。人を乗せて降ろす前に、まず機械だけで「本当にちゃんと降りられるのか」「月の地面はやわらかすぎて沈んでしまわないか」を確かめておく。その地味で慎重な一歩が、今日という日だったわけだ。 派手なアポロ11号の陰に隠れて、私はこの「先に降りた機械」のことをずっと知らずにいた。けれど、考えてみればこのサーベイヤーがいなければ、私が赤ん坊だったあの夏の偉業もなかった。私たちの「月は行ける場所」という当たり前は、この日、誰にも気づかれないくらい静かに始まっていたのだ。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 私が宇宙を意識するようになったきっかけは、はっきりしている。父だ。 物心ついてから何度も、父は私にこう言った。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 何度も、何度も聞いた。テレビで月が映るたび、夜空に月が出ているのを見つけるたび、父はまるで自分のことのように、誇らしげにそう言うのだった。その「すごいよなぁ」には、嘘やお世辞のない、心からの感嘆がこもっていた。 子どもだった私は、父がそこまで言うのだから、よほどすごいことなのだろう、と素直に思った。今思えば、父は私が生まれたまさにその年に人類が月へ行くのを、大人として、リアルタイムで目撃した世代なのだ。あの興奮を、息子にも分けてやりたかったのだろう。父にとって月は「行ける場所」になったばかりの、まだ熱を持った夢だったのだ。 そうして父から受け取った「宇宙ってすごい」という気持ちは、私の中でどんどん育っていった。 スペースシャトルが、筆箱の上を飛んでいた 小学生になると、私たちの宇宙の主役は、アポロからスペースシャトルへと変わっていた。 ロケットは打ち上げると使い捨て。それが当たり前だった時代に、スペースシャトルは「翼を持ち、宇宙から滑空して帰ってきて、また飛ぶ」という、まるでSFそのものの乗り物だった。打ち上げのときはロケットなのに、帰りは飛行機のように滑走路に降りてくる。あの白い機体が大気圏に突入してくる映像を、私は固唾をのんで見ていた。 そして気がつけば、スペースシャトルは、私たちの身のまわりのありとあらゆる文房具の上を飛んでいた。筆箱にスペースシャトル。下敷きにスペースシャトル。ノートの表紙にも、消しゴムのケースにも、スペースシャトル。あの精悍な白い翼が、青い地球を背景にプリントされていた。 スペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げ(1983年4月)。あの白い翼と噴煙が、昭和の子どもたちの筆箱や下敷きの上を飛んでいた。(Photo: U.S. Department of Defense / パブリックドメイン) もちろん、テレビの中の宇宙も負けてはいなかった。「宇宙戦艦ヤマト」で地球を救うために十四万八千光年の旅に出て、「銀河鉄道999」で汽車に乗って星々を渡り、「キャプテンハーロック」の黒い髑髏の旗に胸を熱くした。私はもう、すっかり夢中だった。 夜、近所の空き地から見上げる月は、ただの白い丸ではなかった。「あそこに人が行ったんだ」「あそこに、足跡があるんだ」と思いながら見上げる月だった。父の「すごいよなぁ」と、筆箱のスペースシャトルと、テレビのヤマトとが、すべて一本につながって、私の頭の上の夜空に広がっていた。 そして令和、宇宙はとうとう「商売」になった 時は流れて、令和8年(2026年)。 宇宙の主役は、いまやイーロン・マスク氏が率いる民間企業「スペースX(SpaceX)」だ。国家がしのぎを削っていた宇宙開発を、一企業が引っ張る時代が来た。これだけでも、昭和の子どもだった私には、十分に未来の話である。 マスク氏が掲げる究極の目標は途方もない。「人類を多惑星種族にする」──つまり、地球に大災害が起きても人類が絶滅しないように、火星に自立した都市を作る、という構想だ。百人以上を一度に運べる超大型宇宙船「スターシップ」を完成させ、やがて数十万人から百万人規模の火星都市を目指す。 野球にたとえるなら、こうなるだろうか。使い捨てないロケット「ファルコン9」は地区大会の優勝。衛星網「スターリンク」で甲子園出場決定。火星に着陸できたら、いよいよ全国制覇。そして火星に都市を建設するというのは──プロリーグをまるごと一つ新設するようなものだ。それくらい、一段ごとの難しさが桁違いなのである。 すべては、あの慎重な一歩の延長線上に こんな時代が来るなんて、昭和の子どもだった私には、想像もつかなかった。 筆箱の上を飛んでいたスペースシャトルが、まさか民間企業のロケットに主役を譲る時代が来るとは。ヤマトやハーロックが旅した宇宙の、その手前の火星に、人が町を作ろうとしているとは。 けれど、忘れてはいけない。それもこれも、すべては今日6月2日の、あの「サーベイヤー1号 月面軟着陸」からの、まっすぐな延長線上にあるのだ。 逆噴射でそろりそろりと速度を落とし、四本の脚で静かに月へ降りた、あの小さな機械。誰にも気づかれないほど慎重だったあの一歩がなければ、アポロの足跡も、父の「すごいよなぁ」も、私の筆箱のスペースシャトルも、そしてマスク氏の火星都市の夢も、何ひとつ始まらなかった。 夢というのは、いきなり大きく見えるものではない。たいていは、誰かがそっと脚を伸ばした、地味で慎重な一歩から始まっている。六十年かけて、その一歩は火星にまで届こうとしている。 今夜、もし雲が切れて月が見えたら、ぜひ一度、見上げてみてほしい。あの白い丸の上には、六十年前の小さな機械が、今もまだ静かに立っている。父が「すごいよなぁ」と言った、あの月だ。 あなたの宇宙への入り口は、いったい誰の、どんな一言でしたか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代 | 次の記事:「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日) ▶

June 1, 2026

昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代

六月になりました。 カレンダーをめくると、一日はちょうど衣替え。学校に通っていたころは、この日を境に冬服が夏服に変わって、教室の景色がいっせいに明るくなったのを覚えています。詰襟の窮屈さから解放されて、白い半袖シャツの軽さが妙に誇らしかった。台所の冷蔵庫に冷えた麦茶が常備されはじめるのも、だいたいこのころでした。 そんな夏のはじまりの六月一日。昭和の時代、この日にはいろいろなことがありました。たとえば昭和六十一年(一九八六年)の六月一日には、上野動物園で日本初の人工授精による赤ちゃんパンダ「トントン」が誕生しています。 でも、私にとっての「上野のパンダ」と言えば、やっぱりこの二頭なのです。 ランランと、カンカン。 今日はこの話を、少し長めに、のんびりと書かせてください。 父の肩車の上で 昭和四十八年(一九七三年)のことだったと思います。私はまだ保育園に通う幼い子どもでした。その日は遠足で、両親も一緒に上野動物園へ行きました。 お目当ては、もちろんパンダです。 昭和四十七年(一九七二年)、日中国交正常化の記念として中国からやってきたランランとカンカン。白と黒の、丸っこくて、笹を抱えてもそもそ食べるあの不思議な生きものを一目見ようと、日本中が熱に浮かされていました。その熱が、私たち親子を上野へと連れて行ったわけです。 ジャイアントパンダ。白と黒の丸い体で笹を食べる姿が、日本中を夢中にさせた。(Photo: J. Patrick Fischer / CC BY-SA 3.0) ところが――です。 正直に告白しますと、私はあの日、ランランとカンカンを本当に見られたのかどうか、思い出せないのです。 覚えているのは、別のことばかり。パンダのいる建物の前には、気が遠くなるような大行列ができていました。長い長い時間を並んで、ようやく中へ入れたこと。そして父が私を肩車してくれたこと。あの高い視界の感触は、今でもはっきりと残っています。 でも、肩車の上から、私はちゃんとパンダを見たのでしょうか。それとも、人垣の向こうの黒い点のような何かを、パンダだと思い込んだだけだったのでしょうか。記憶の肝心なところが、すっぽりと抜け落ちているのです。 そのかわりに鮮明に残っているのは、人、人、人で溢れかえっていた園内の光景。そして、園内放送でやたらと流れていた「迷子のお知らせ」のアナウンスです。 「○○色のズボンに、○○の絵のシャツを着た、○歳くらいの男の子を保護しています……」 あの放送ばかりが、なぜか耳に焼きついている。肝心のパンダではなく、迷子の放送。我ながら「そこっ?」とツッコミたくなりますが、子どもの記憶というのは、案外そういうものなのかもしれません。大人が「これを覚えておきなさい」と思うところより、ぜんぜん別の隅っこを、勝手に大事にしまい込んでしまう。 それでもいいのです。父の肩の温かさと、迷子の放送と、果てしない行列。それが私にとっての「ランランとカンカンに会いに行った日」の、まぎれもない全部なのですから。 V3とタロウの、輝かしい年 ちなみに、その昭和四十八年という年。私にとっては、パンダ以外でも特別に光り輝いている一年でした。 なぜなら、テレビの中のヒーローがいちばん格好よかった時代だからです。 仮面ライダーは、V3。(昭和四十八年二月〜昭和四十九年二月) そしてウルトラマンは、タロウ。(昭和四十八年四月〜昭和四十九年四月) この二人が同じ時期に画面の中で戦っていたのですから、当時の男の子にとって、これ以上の幸福があったでしょうか。風見志郎が変身する三段変身に胸を躍らせ、ウルトラの父と母の息子であるタロウの登場に、ウルトラ兄弟の世界がどこまでも広がっていくのを感じていました。 保育園からの帰り道、私はきっとV3かタロウになりきって、見えない怪人や怪獣と戦っていたはずです。そして週末になれば、上野のパンダのように、テレビの前にもまた「人、人、人」――いや、こちらは家族みんなが集まって、かじりつくようにして見ていたのでした。 パンダもV3もタロウも、ぜんぶ同じ年の出来事。そう並べてみると、昭和四十八年というのは、私の幼い心がいちばん豊かに満たされていた年だったのだなと、しみじみ思います。 そして、令和八年の六月 さて、ここからは少し、今の話をしなければなりません。 令和八年(二〇二六年)の六月一日、現在。日本国内に、ジャイアントパンダは一頭もいません。 これを書いていて、自分でも信じられないような気持ちになります。 まず、令和七年(二〇二五年)の六月。和歌山のアドベンチャーワールドにいた四頭――良浜(らうひん)、結浜(ゆいひん)、彩浜(さいひん)、楓浜(ふうひん)――が、中国へ返還されました。涙ながらに見送ったファンの姿が、ニュースで大きく取り上げられていたのを覚えている方も多いでしょう。 そして、日本に残ったのは、東京・上野動物園の双子、「シャオシャオ」と「レイレイ」だけ。この二頭も、令和八年の一月下旬、ついに中国へと返還されました。 これをもって、日本国内のパンダの飼育頭数は、ゼロ。 昭和四十七年にランランとカンカンがやってきてから、五十四年。半世紀以上にわたって途切れることなく続いてきた「日本の動物園でパンダに会える時代」が、今、いったん幕を閉じたのです。 笹をもそもそと食べるパンダ。この姿を日本の動物園で見られる日が、また来ることを願っている。(Photo: Manyman / CC BY-SA 3.0) いなくなって、はじめてわかること 「上野にパンダがいない。」 この一文を、昭和の子どもだった私が読んだら、いったいどんな顔をするでしょう。たぶん、まったく信じないと思います。上野の動物園にパンダがいないなんて、空に太陽がないと言われるくらい、ありえないことに感じられたはずですから。 あの日、果てしない行列に並び、父に肩車をしてもらってまで会いに行った白黒の生きもの。見られたのかどうかも怪しい、けれども確かにそこに「いた」はずのランランとカンカン。その末裔とも言える時代の流れが、半世紀の時を経て、ひとつの区切りを迎えた。 考えてみれば、私が肩車の上で見たかもしれない(見られなかったかもしれない)あの光景は、「日本にパンダがいる時代」の、ほんとうに初期の一場面だったわけです。そしてその時代の終わりを、私は今、こうして大人になって見届けている。 なんだか、不思議な巡り合わせです。 時代は変わります。当たり前にそこにあったものが、ある日ふっと姿を消す。パンダだけの話ではありません。近所の駄菓子屋も、屋上の遊園地も、いつの間にか消えていきました。そして私たちは、なくなってからようやく、「ああ、あれは特別なものだったんだな」と気づくのです。 でも――きっと、また会える日が来ると、私は思っています。 いつかまた、上野の動物園に黒と白のあの姿が戻ってきて、孫の手を引いたおじいさんやおばあさんが、長い行列に並ぶ日が来る。そのとき子どもたちは、肩車の上から、ちゃんとパンダを見られるでしょうか。それとも、私のように迷子の放送ばかり覚えて帰るのでしょうか。 どちらでもいい。その記憶は、きっと一生ものになるのですから。 みなさんにとっての「上野のパンダ」は、どの子でしょうか。ランランとカンカンでしょうか。トントンや、シャンシャンでしょうか。よろしければ、あなたのパンダの思い出も、聞かせてください。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 ▶ ...

May 31, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気

5月31日「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 昭和64年(1989年)の5月31日、世界保健機関(WHO)が「世界禁煙デー」を制定した。 この日付を調べていて、私はふと手が止まった。昭和64年——それは昭和という時代が幕を下ろした年だ。元号としての昭和は1月7日で終わっているけれど、暦の上では5月31日もまだ「昭和64年」と呼べる。煙にまみれた昭和という時代の、いちばん最後の年の5月の終わりに、世界が「もう、煙のない時代へ行こう」と号令をかけた。そう思うと、なんだか出来すぎた偶然のように感じられて、しばらく考え込んでしまった。 私は昭和44年生まれで、子ども時代をすっぽり昭和の中で過ごした世代だ。そして改めて思うのは、あの頃の空気には、文字どおりたばこの煙が溶け込んでいた、ということなのだ。 家じゅうが、煙でできていた 我が家は、父も母も、二人そろって喫煙者だった。 今になって思い返すと、私はずいぶんと濃い煙の中で育ったものだなと、つい苦笑いしてしまう。茶の間にも灰皿があり、台所にも灰皿があり、家のあちこちで細い煙が立ちのぼっていた。両親がそれぞれ火をつければ、狭い家の中は、ちょっとした煙幕のようになる。今なら「子どもがいる部屋でそんなに……」と眉をひそめられるところだろうが、あの頃はそれが我が家の、ごく普通の風景だった。 そして子どもの私は、それを「煙い」とすら思っていなかった。世の中のすべてがそういう匂いだったから、煙を煙と感じる感覚そのものが、まだ育っていなかったのだ。たばこの匂いは、私にとっては父の匂いであり、母の匂いであり、つまりは「家の匂い」だった。 「echo」を買いに走った夕暮れ そんな家で育ったから、たばこのお使いには、たびたび行かされた。 我が家の銘柄は「echo(エコー)」だった。子ども心にも、たぶん安いやつなんだろうな、と何となく察していた。たしか一箱70円くらいだったと記憶している。親から小銭を握らされて、近所のたばこ屋まで「エコー一つ」と買いに走る。あの頃は年齢確認なんて言葉もなかったから、子どもがたばこを買うのに、誰も何も言わなかった。 たばこ屋というのは、どこも判で押したように同じ店構えをしていた。ガラスのショーケースの中に、色とりどりの箱が定規で測ったように整然と並んでいる。これは専売制のもとで陳列の仕方が細かく決められていたからで、だから日本中のたばこ屋が、似たような顔をしていた。背伸びをして小銭を差し出し、慣れた手つきで箱を渡してもらう、あの短いやりとり。それも昭和の子どもの、ありふれた日課のひとつだった。 昭和を代表する国産たばこ銘柄。左からわかば・しんせい・エコー・ゴールデンバット。どれも庶民に親しまれた安価な銘柄だ。(Photo: Haha169 / CC BY-SA 3.0) そして、お使いを頼んできたのは親だけではない。 中学に上がると、今度は部活の顧問の先生に、たびたびたばこを頼まれるようになった。先生の銘柄は「Peace(ピース)」。練習の合間に「おい、ピース買ってきてくれ」と小遣いを渡され、走って買いに行く。今ならまず間違いなく問題になる話だが、当時はそれが当たり前だった。 そもそも、その先生は野球部の指導をしながら、校庭で平然と一服していたのだ。ノックバットを片手に、口の端にたばこをくわえて、「もっと声出せ!」と檄を飛ばす。煙をくゆらせながらグラウンドに立つ先生の姿に、誰一人として違和感を覚えなかった。思い返すと笑ってしまうけれど、あれもまた、まぎれもない昭和の風景だった。 「ピース」のパッケージ。戦後すぐから続く高級銘柄で、贈り物にも使われた。野球部の顧問が「ピース買ってきてくれ」と言っていたあの箱だ。(Photo: Alf van Beem / CC0 パブリックドメイン) 鼻が覚えている、外の世界の煙 家の外に一歩出ても、世界はやっぱり煙かった。 駅のホームには大きな丸い灰皿が点々と置かれ、白い煙がいくつも立ちのぼっていた。けれど煙かったのはホームだけではない。電車の中でも、バスの車内でも、人々は当たり前のようにたばこを吸っていた。走る車内に煙がたなびき、座席の肘掛けには小さな灰皿がついている。 極めつけは、病院の待合室だ。体の具合が悪くて来ているはずの場所で、患者さんがゆったりとたばこをふかしている。診察を待ちながら、煙の中で順番を待つ。今思えば何とも倒錯した光景だが、当時はそれを誰もおかしいと言わなかった。それくらい、たばこは生活のすみずみにまで、空気のように溶け込んでいたのである。 長い電車やバスの旅から帰って服を脱ぐと、生地に独特の匂いが染みついていた。今思えばそれはまぎれもなく受動喫煙だったのだけれど、あの頃の子どもは「これが電車の匂い」くらいにしか思っていなかった。 ちなみに当時のたばこの値段はこうだった。 時代 一箱の価格(目安) 代表銘柄 昭和40年代 約60〜70円 エコー・わかば・ゴールデンバット 昭和50年代 約120円前後 しんせい・ハイライト 昭和60年代 200円台 マイルドセブン・セブンスター 今の感覚からすると気が遠くなるほど安かった。 「けむりが苦手です」という小さな声 そんな煙だらけの世の中に、少しずつ別の声が混じりはじめたのも昭和のことだった。 昭和51年(1976年)、新幹線「こだま」のたった一両に、こっそり禁煙車が設けられた。十六両編成のうち、わずか一両。けれどこれが子ども連れの旅行者や女性客に思いのほか喜ばれて、「もっと増やしてほしい」という署名運動にまで広がっていった。 昭和53年(1978年)には「嫌煙権」という、当時としては耳新しい言葉が登場する。「たばこのけむりが苦手です」——そう書かれたバッジを胸につける人が現れた。たばこをやめてくれと迫るのではなく、ただ、きれいな空気を吸わせてほしい、という静かな願いだった。 たった一両の禁煙車と、胸の小さなバッジ。そんなささやかなものから始まった変化が、長い時間をかけて世の中の空気そのものを入れ替えていった。その流れの行き着いた先のひとつが、昭和の最後の年の5月31日、あの「世界禁煙デー」だったのだと思う。 煙の向こうにあったもの 今の子どもたちは、路上でたばこを吸う大人を見ることのほうが珍しくなった。駅のホームから、あの銀色の大きな灰皿はすっかり姿を消した。電車の中はもちろん、病院の待合室でたばこを吸う人など、もうどこにもいない。野球の指導中に校庭で一服する先生など、今では考えられないだろう。 変わってよかったと、心から思う。健康のためにも、子どもたちのためにも。 それでも、と思う。鼻の奥に残るあの煙の匂いは、私にとっては、父と母の匂いそのものだ。二人がそれぞれ火をつけて、狭い茶の間に煙が満ちていく——あの頃はそれが、ごく当たり前の家族の風景だった。「エコー一つ」と握らされた小銭の感触も、「ピース買ってきてくれ」と笑っていた先生の声も、今でもふっと胸の奥でよみがえる。煙そのものを懐かしむわけではないけれど、その煙の向こうにあった昭和という時代は、たしかに、私の子ども時代そのものだった。 ひとつだけ、自分でも不思議に思うことがある。あれだけ濃い煙の中で育ったというのに、私も妹も、大人になってからついにたばこを吸うことはなかった。理由はよくわからない。たばこ屋まで走った日々が、あんなにも当たり前だったのに。あるいは、当たり前すぎたからこそ、自分で火をつけてみようとは思わなかったのかもしれない。煙の中で育った子どもが、煙を選ばなかった——それもまた、昭和から平成へと移りゆく、時代の変わり目に立っていたということなのだろうか。 あなたの家では、たばこはどんな存在だったでしょうか。誰かのお使いで、たばこ屋まで走った夕暮れを、覚えていますか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月30日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代 ▶ ...

May 30, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月28日~

5月28日、昭和に刻まれた三つの記憶 5月も終わりに近づいた28日。この日付には、昭和という時代の厚みを感じさせる出来事がいくつも重なっている。 縄文の巨人、山の奥で目を覚ます――昭和41年(1966年) まず昭和41年のこの日から始めたい。 屋久島の標高1,300メートル、高塚山の南斜面で、一人の役場職員が巨木に辿り着いた。旧上屋久町の観光課に勤める岩川貞次さん、42歳。古老から「山の奥に化け物みたいな杉がある」と聞かされ、その伝承を確かめるために深い森をかき分けてきたのだった。 そこに立っていたのは、胸の高さで周囲16メートルを超える、人類の記憶をはるかに遡るような杉の木だった。岩川さんはその姿に圧倒され、自分の名前「岩」の字を取って「大岩杉」と名付けた。 後に「縄文杉」と呼ばれるようになるこの木の推定樹齢は、7,200年とも2,170年とも言われる。どちらにせよ、弥生時代どころか縄文の昔から、その島で風雨をやり過ごしてきたことになる。 屋久島の縄文杉。胸高周囲16.4メートル、推定樹齢2000〜7200年。昭和41年5月28日に現代人が初めて「発見」した。(Photo: Chris 73 / CC BY-SA 3.0) 私が生まれたのは昭和40年代。縄文杉が「発見」されたのはその直前だった。発見後しばらくは世間にもほとんど知られることなく、登山ブームで一般に広まるのはずっと先のことだ。私が子どもだった頃、縄文杉という言葉を耳にした記憶はほとんどない。だが今思えば、私が公園で草野球をしたり、近所の駄菓子屋でアイスを買ったりしていたあの頃も、屋久島の奥深くでは縄文杉がただ静かにそこに立っていたのだ。 人間の営みとはまったく別の時間軸で生きている木がある。そう知るだけで、昭和という時代も、自分の子どもの頃も、ずいぶんと小さく、そしてかけがえのないものに見えてくる。 ヘルメットが宙を舞った日――昭和55年(1980年)5月28日 昭和55年のこの日、川崎球場は異様な熱気に包まれていた。 ロッテ・オリオンズの張本勲が、プロ野球史上初となる通算3000本安打の大台に、あと2本まで迫っていたのだ。 この年、張本は40歳。かつて首位打者を7度も獲得した「安打製造機」も、いまや選手生活の最終盤にいた。巨人を離れ、ロッテに移籍したのはただ一つの目的のため――3000本安打を達成すること。 阪急ブレーブス戦の第1打席で1本を積み重ね2998本。第2、第3打席は凡退。迎えた6回裏、第4打席。マウンドには、速球で名を馳せた山口高志が立っていた。張本はマウンドを見つめながら読んでいた。「記録がかかった場面で、山口もかわすピッチングはしないだろう。初球は甘く来る」。 初球だった。真ん中高めへの速球。張本のバットがうなりを上げた。打った瞬間に分かる、文句なしの当たりだった。打球はライトスタンドの照明塔を直撃して大きく弾んだ。3000本安打、それもホームランでの達成だった。 張本はヘルメットを力いっぱい宙に投げ上げ、自身も飛び上がった。ベンチが総出で駆け寄り、花火が15発打ち上げられ、黄金のくす玉が割れた。スタンドからは色とりどりのテープが舞い降りた。 そしてスタンドには、故郷・広島から母が来ていた。野球には詳しくない母だったが、3000本まで残り10本となったとき、白い丸を10個書いて1本ずつ塗りつぶしていたという。試合後、張本は母の手を取り、グラウンドへ連れ出した。 川崎球場のライトスタンド(1989年撮影)。昭和55年5月28日、この球場で張本勲が3000本安打をホームランで達成した。(Photo: Yasuoyamada / CC BY-SA 3.0) 私はあのとき小学5年生。野球が好きで、公園でよく素振りをしていた。王貞治の一本足打法を真似ることもあったが、巨人時代の張本勲の打撃フォームもよく真似ていた。あの独特の構え、広角に弾き返すしなやかなスイング。子どもが公園でコピーしたくなる、そういう「形」を持っている打者だった。 だから張本がロッテに移籍したと聞いたとき、正直「なぜ?」という気持ちがあった。巨人のユニフォームが似合いすぎていたからだ。移籍の理由が3000本安打への執念だったと知ったのは、もう少し後のことだ。そして迎えたこの5月28日、40歳の張本が現役でスタンドにホームランを叩き込んだ。いま思えば、40歳でプロの球場に立ち続けていること自体が、すでに常人の域を超えた話だった。 3085本という通算安打数は、いまも日本プロ野球の最多記録として破られていない。 教授とボウイとたけしが同じ画面にいた――昭和58年(1983年)5月28日 昭和58年、同じ5月28日に、まったく別の衝撃が日本の映画館を揺るがしていた。 大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の公開初日だった。 出演者の顔ぶれを見ると、当時の中学・高校生たちがどれほど興奮したか想像できる。デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし。世界的ロックスター、YMOの「教授」、漫才の天才。三人とも役者が本業ではない。 私は昭和58年に14歳、中学2年生だった。YMOの音楽はラジオから流れてきていたし、ビートたけしは「THE MANZAI」や「オレたちひょうきん族」で笑いの頂点にいた時期だ。「その二人が、デヴィッド・ボウイと同じ戦争映画に出る」という情報が流れた時の、あの不思議な感覚は今も覚えている。 舞台は第二次世界大戦中のジャワ島、日本軍の捕虜収容所。坂本龍一が日本軍将校ヨノイ大尉を演じ、ボウイが捕虜の英国将校セリアズを演じた。ビートたけしは、独特の存在感で下士官ハラを演じた。 坂本龍一が手がけた映画音楽は、映像と同時代の語り草となった。「Merry Christmas Mr. Lawrence」のあのメロディは、映画を観ていない人の耳にも届いた。 坂本龍一。『戦場のメリークリスマス』で俳優・作曲家として世界に名を刻み、2023年に71歳で逝去した。(Photo: Ryota Nakanishi / CC BY-SA 3.0) 大島渚監督はかつてこう言った。「ボウイやタケシやサカモトが私を選んでくれたおかげで完成した。そのことは日本のみならず世界の驚異だった」と。 5月28日という日付に、あの映画の初日が重なっていたとは、長い間知らなかった。昭和58年の私はまだ、そこまで映画情報を丁寧に追いかけていなかった。だが今こうして振り返ると、あの夏の前、初夏の空気の中であの映画が産声を上げたことが、妙に腑に落ちる気がする。 昭和の5月28日、三つの層 縄文杉の発見、張本の3000本安打、戦場のメリークリスマスの公開。 一つは人間の時間を超えた木の話。一つは人間が血と汗で刻んだ数字の話。もう一つは、時代のアイコンたちが一つのスクリーンに集った話。 昭和という時代は、こんなふうに何層にも重なっている。あなたの5月28日の記憶には、どんなものがありますか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった | 次の記事:5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄 ▶

May 27, 2026

昭和の今日は何があった日? ―5月26日―

5月26日 ― 高速の夢と、海辺の悲劇 昭和の5月26日という日付には、まるで表と裏のように、ふたつのまったく違う出来事が刻まれている。 ひとつは、日本中が前向きな興奮に沸いた日。もうひとつは、晴れた海辺で突然に悲劇が訪れた日。どちらも昭和という時代の、正直な顔だと思う。 「東名」が全部つながった ― 昭和44年5月26日 1969年(昭和44年)のこの日、東名高速道路が全線開通した。 東京インターチェンジから愛知県の小牧インターチェンジまで、約346キロ。それまで国道1号線を使えば東京から名古屋まで9時間半かかっていたのが、一気に5時間を切るようになったという。足柄サービスエリアで記念式典が行われ、建設を支えた外国人技術顧問たちも出席して全線を走り抜けたと記録されている。 私が生まれたのは、この年の4月だ。つまり東名が全線つながったのは、私の誕生からわずか1ヶ月後のことになる。生まれた直後の日本で、こんな一大事が起きていたとは、調べてみるまで知らなかった。 もちろん、生後1ヶ月の私にその意味がわかるはずもない。 そして正直に言えば、「東名高速でドライブ」というのは、私の子ども時代には縁遠い話だった。父の休みといえば、まとまって休めるのは正月の1日と2日だけ。あとは週に一度、平日に休みがあるだけだった。家族がそろう日曜日に父がいる、ということ自体がなかった。だから家族みんなで出かけるという機会は、ほとんどなかった。自家用車を持てるほどの余裕もまだなかった。 宿泊旅行など、したことがなかった。 でもそれは、私の家だけの話ではなかったと思う。周りの友達の家も、似たようなものだった。父が必死で働いてくれているのは、子どもながらにわかっていた。だから「どうして旅行に行かないの」とか「なんで車がないの」なんて、口に出したことは一度もない。それは「高嶺の花」であって、羨むものでもなかった。そういう時代だった。 東名高速道路・厚木インターチェンジ付近。背景に大山を望む。昭和44年のこの日、この道がつながった。(Photo: Σ64 / CC BY-SA 3.0) ただ、テレビのニュースに映る東名高速の映像は、なんとなく覚えている。ずらりと並ぶクルマ、広いサービスエリア、富士山を背景にした高速の風景。画面の向こうの話ではあったけれど、「いつかはああなりたい」という気持ちを、国民みんなが抱いていたのかもしれない。豊かになっていくことへの期待と意欲を、あの時代のテレビはうまく掻き立てていたように思う。 昨年の夏、大阪まで それから半世紀以上が経った。 昨年の夏、私は子どもたちを車に乗せて、3泊4日の大阪旅行に出かけた。自宅近くの首都高の入口から乗って、一度も高速を降りることなく大阪まで着いてしまった。一昨年の夏は5泊6日で福井まで行ったが、やはりすべて高速道路でつながっていた。 ハンドルを握りながら、何度か不思議な気持ちになった。 これだけの距離を、これだけ快適につないだ道を、誰かが作ったのだ。山を削り、川に橋をかけ、トンネルを掘り、何年もかけて。あの昭和44年の式典に出席した技術者たちが、その最初の大仕事をやり遂げた。そう思うと、先人たちの仕事への畏怖と感謝が、運転しながら自然と湧いてきた。 そしてもうひとつ、胸の奥にあたたかいものが来た。 私が子ども時代にできなかった「家族旅行」を、今、自分の子どもたちとしている。それは私だけが特別になったわけではない。あの時代から少しずつ、多くの家族が同じことをできるようになった。問題がないわけではないけれど、それでも私たちは「豊かになっている」と実感できる。その豊かさは、必死で産み育ててくれた父と母の上に積み重なっているものだ、と思ったら、感謝の気持ちが溢れてきた。 そしてふと思った。数十年後、私の子どもたちはどんな時代に、どんなことを思い返すのだろう。その想像が、なんだかとても楽しかった。 遠足の海辺で ― 昭和58年5月26日 ところでこの5月26日には、もうひとつ忘れてはならない出来事がある。 1983年(昭和58年)の午前11時59分。秋田県の沖合を震源とするマグニチュード7.7の大地震が起きた。「日本海中部地震」だ。 揺れ自体は震度5。しかし地震の数分後、日本海沿岸に最大6メートルを超える津波が押し寄せた。死者104人のうち、100人が津波で命を落とした。 その中に、遠足中の小学生たちがいた。 秋田県の合川南小学校の4年生と5年生が、2台のバスで男鹿半島の加茂青砂海岸を訪れていた。バスの中で揺れが収まるのを待ったあと、海岸に降りてお弁当を広げようとした瞬間、津波がきた。13人の子どもたちが波にのまれた。 昭和58年、私は14歳だった。同じ5月の晴れた日、遠足でお弁当を広げようとしていた子どもたち。その光景を想像するだけで、言葉が出ない。 1983年(昭和58年)5月26日・日本海中部地震の震度分布図。津波で104人が犠牲になった。(出典:気象庁 / CC BY 4.0) 日本海側では津波の経験が少なく、地震のあとに海へ近づいてはいけないという意識が広まっていなかった。それが被害を大きくした。この地震を機に、日本では津波防災教育が大きく変わっていった。 それでも、2011年の東日本大震災では、日本海中部地震とは比較にならないほどの津波が三陸沿岸を飲み込み、二万人近い命が失われた。教訓を積み重ねてきたはずの私たちが、また大自然の前に立ち尽くした。 人間の生み出す力は偉大だと思う。東名高速道路のように、山を削り、川に橋をかけ、何年もかけて道をつなぐ。そういう力を、私たちは確かに持っている。しかし大自然の前では、その力が幾度となく無力になる瞬間がある。絶望を知り、それでも立ち上がり、また前へ進む。日本という国は、そうやってここまで来た。 これからも、きっとそうやって進んでいくのだと思う。 同じ日付に、ふたつの昭和 高速道路の開通に沸いた昭和44年と、遠足の子どもたちが津波に飲み込まれた昭和58年。 同じ5月26日に、まるで違う昭和がある。前に進む喜びと、自然の前での人間の無力さ。どちらも昭和という時代が正直に刻んだ記録だ。 あなたにとって、昭和の5月はどんな思い出が残っているだろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった ▶

May 25, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 5月24日

黒澤明、世界を黙らせた日の翌朝 昭和55年(1980年)5月24日の朝刊を、私は覚えていない。 当時の私はまだ小学校に上がったばかりで、新聞を読む習慣などなかったし、カンヌという南フランスの街の名前も知らなかった。でも大人たちは知っていた。おそらくテレビのニュースでも伝えられていた。黒澤明監督の映画『影武者』が、カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールを受賞した、という知らせを。 前日の5月23日(日本時間)、フランスで開かれた第33回カンヌ国際映画祭の授賞式で、『影武者』がグランプリに輝いた。日本映画がこの賞をとったのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督『地獄門』以来、実に26年ぶりのことだった。 この映画には、公開前から話題が絶えなかった。 武田信玄の影武者として生きる小泥棒の物語を、黒澤はおよそ23億円という当時の日本映画では破格の製作費をかけて作り上げた。しかもその資金集めに協力したのが、ほかならぬハリウッドの二大巨匠、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスだった。あの「ゴッドファーザー」のコッポラと、「スター・ウォーズ」のルーカスが、それぞれ外国版プロデューサーとして名を連ね、世界配給のために動いた。 子どもの私が「スター・ウォーズ」の名前を聞いて目を輝かせていた頃、そのルーカスが、海の向こうで黒澤明のために奔走していたわけだ。あとになってその事実を知ったとき、なにか不思議な縁のようなものを感じた。黒澤の「隠し砦の三悪人」が、ルーカスの「スター・ウォーズ」に影響を与えていたとも言われているから、返礼のようなものだったのかもしれない。 主演の仲代達矢が二役を演じ、山崎努、萩原健一、根津甚八といった芸達者が揃う。北海道から姫路城、熊本城へとロケ地を縦断し、富士山麓には巨大な武田屋形のオープンセットまで建てられた。その配給収入は27億円を超え、その年の邦画のトップに輝いた。 カンヌ映画祭の赤いカーペット。昭和55年5月23日、ここで『影武者』がパルム・ドールを受賞した。(Photo: Rita Molnár / CC BY-SA 3.0) パルム・ドールの報が届いた翌朝の5月24日、大人たちの間でこの映画の話が弾んでいたことは想像に難くない。職場でも、居酒屋でも、「黒澤はやっぱりすごい」「コッポラやルーカスも認めたんだから」という声が聞こえてきただろう。 私はそのとき何をしていたのだろうか。たぶん、ホームランバーを舐めながら公園で遊んでいたか、友達の家でゲームに興じていたか。世界が黒澤明に喝采を送っていたその5月の昼下がりに、昭和の子どもたちはいつも通りの日常を生きていた。 赤線が消えていく、その少し前の話 ずっと以前のこと、昭和31年(1956年)5月24日に、ひとつの法律が公布された。 売春防止法、という。 売春を助長する行為を処罰し、その防止を図ることを目的としたこの法律は、翌昭和32年4月に施行され、罰則の完全施行は昭和33年4月とされた。そして昭和33年に、「赤線」と呼ばれた地域が廃止されていった。 「赤線」とは何か。それは地図に赤い線で囲われた、公娼制度のもとで黙認されていた地区のことだ。戦後の混乱期に各地で形成されたそうした場所は、昭和20年代から30年代にかけて、街の地理の一部として存在していた。 私が育った葛飾でも、立石という町にその痕跡が残っていた。 京成立石駅の北口あたり、商店街の喧騒からほんの少し路地に入ったところに、子どもの目にも「ここはなんか違う」と感じさせる一角があった。建物の造り、看板の雰囲気、ひっそりとした佇まい。大人が子どもに説明するような場所ではなかったから、私はただ漠然と「近づいてはいけない」という空気だけを感じていた。昭和の時分、立石には旧赤線の名残りを留めた一角や特殊浴場と呼ばれる施設が残っており、それは人々の日常のすぐそばに、当然のように溶け込んでいた。 今になって調べてみると、戦後の東京には赤線と呼ばれる地域が十数か所も存在していたという。立石もそのひとつだった。「東京中が赤線だった」と当時の新聞記者が嘆いたという記録すら残っている。昭和33年の赤線廃止以降も、そうした場所の「残り香」は街のあちこちにしみついていて、私が小学生だった昭和50年代にも、その気配はまだ消えてはいなかった。 葛飾区立石の航空写真(2006年撮影)。昭和の面影を残す路地が、今も密集している。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報」CC BY 4.0 売春防止法の公布から、私が生まれるまでに10年以上ある。だから「赤線」そのものを見た記憶はない。しかし、その名残のような場所が日常のすぐ隣に当たり前に存在していたあの頃と、今の時代とでは、街の風景も、人々の感覚も、まるで別の世界のように変わってしまった。 法律ひとつで街の風景が変わる。昭和という時代は、そういう変化が幾重にも積み重なってできた時代だったのだと、今になって思う。 5月24日という日は、大人の世界では二つの大きな出来事に挟まれた日だ。世界に誇る映画監督の受賞という晴れやかな知らせと、街の闇を法律で塗り替えようとした戦後の苦しみと。 どちらも昭和という同じ時代の、同じ5月24日に刻まれている。 あなたは、この日の昭和をどう覚えていますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 ▶

May 23, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月23日~

五月の風が少し強くなる頃、世界のどこかで、昭和の日本を揺さぶるニュースが届くことがある。 この日付には、四年という時間を隔てて、まったく別の舞台で生まれたふたつの「快挙」が眠っている。どちらも、当時の新聞のスポーツ欄や社会面を飾り、茶の間の話題をさらった出来事だ。 世界のクロサワ、カンヌで勝つ——昭和55年(1980年)5月23日 フランスのカンヌから、日本中が沸くようなニュースが飛び込んできた。 黒澤明監督の映画「影武者」が、第33回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞したのだ。日本映画がカンヌの頂点に立つのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督「地獄門」以来、実に26年ぶりの快挙だった。 「影武者」は、戦国武将・武田信玄の影武者に仕立てられた小泥棒の物語だ。信玄の死後、その秘密を守るために「信玄」を演じ続けることを強いられた男が、やがて武田家の滅亡とともに無名のまま消えていく。主演は仲代達矢さん。もともと主演に決まっていた勝新太郎さんが撮影途中で降板するという大騒動もあり、公開前から世間の注目を集めていた。 私は当時小学生で、「カンヌ映画祭」が何なのかわかるはずもなかった。ただ「日本の映画がフランスで一番になった」というニュースが夕方のテレビで繰り返し流れ、父か母が「えらいことになったな」とつぶやいていた記憶だけがある。 それが何の意味を持つのか、大人になってから少しずつわかってきた。 当時の黒澤明は、日本の映画会社から資金を出してもらえない状況が続いていた。そこに手を差し伸べたのが、「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラと「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスだった。世界の頂点にいたハリウッドの鬼才ふたりは、「マスター・クロサワが資金難で映画を撮れないなどあってはならない」と20世紀FOXへの出資交渉に動いた。黒澤が描いた数百枚にも及ぶ絵コンテを目にした彼らは、驚愕して言葉を失ったという。 私たちが公園で野球をしたり、駄菓子屋でアイスを舐めていたあの頃、世界はそれほどの目で、日本の一人の老監督を見つめていた。 上野公園に残る黒澤明の手形。世界が認めた「マスター・クロサワ」の足跡。(Photo: Daderot / CC0) 後年「影武者」を改めて観たとき、私はその映像美に言葉を失った。信玄の影武者として「本物」になろうと足掻きながら、最後まで「偽者」のままで死んでいく男の孤独。土煙の戦場に身一つで踏み込み、矢に射られて倒れていくラストシーン。あれだけの絵を、あの時代に一人の人間がつくり上げたという事実に、今も静かに圧倒される。 三兄弟、同時に関取へ——昭和59年(1984年)5月23日 舞台はがらりと変わって、大相撲の世界へ。 この日、一つの番付発表が相撲ファンを沸かせた。井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決まり、すでに関取だった長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾と合わせて、史上初の三兄弟同時関取が実現したのだ。 「井筒三兄弟」——。父は、「もろ差しの名人」と呼ばれた元関脇・鶴ヶ嶺昭男。自らが師匠を務める井筒部屋に、三人の息子を全員入門させた。長男・鶴嶺山、次男・逆鉾、そして末っ子の寺尾。鹿児島の血を引く父子四人が、同じ土俵で汗を流していた。 私がちょうど千代の富士の昇進を追いかけながら相撲中継に熱中していた頃の話だ。千代の富士が横綱へと駆け上がっていったあの時代、テレビには引き締まった筋肉の「ウルフ」と並んで、細身の体で激しい突っ張りを繰り出す寺尾の姿があった。あの甘いマスクと、信じられないほど速い突っ張りのコントラストが妙に記憶に残っている。 三兄弟の母・節子さんは、当時「蔵前小町」と呼ばれるほどの美人だったという。三兄弟から深く慕われていた節子さんが亡くなったとき、すでに力士だった長男と次男に、父・鶴ヶ嶺はこう言ったそうだ。「おまえらお客さんいるんだから帰れ」と。そうして三男・寺尾の四股名は、亡き母の旧姓から一字をとって付けられた。 相撲の家族とは、こういうものなのだ、と思った。土俵の上の激しさとは裏腹に、その根っこに流れているものは、ひどく人間的なあたたかさだ。 寺尾こと現・錣山親方。細身の体から繰り出す突っ張りで長く土俵を沸かせた。(Photo: FourTildes / CC BY-SA 3.0) 昭和59年のあの番付発表の日、父親の鶴ヶ嶺はどんな顔をしていたのだろう。三人の息子が同時に「関取」として土俵に立つ——親として、師匠として、どんな言葉もきっとうまく出てこなかったのではないか、と想像する。 二つの「父と子」の話として 並べてみると、昭和55年と59年のこの日の出来事には、どこか共鳴するものがある。 カンヌでパルム・ドールを受けた黒澤明も、自分の映画を撮るために敬愛する弟子たちの力を借りた。三兄弟も、父親が切り拓いた土俵の上を、それぞれの足で歩いた。受け継ぐもの、超えようとするもの、守り続けるもの。「影武者」の問いかけと、三人の力士の姿が、同じ五月二十三日という日付の中でひそかに重なって見える。 そしてこの話を書きながら、ふと自分のことを思った。 私には妻との間に4男1女、5人の子どもがいる。歳の差はあるが、みな丈夫で元気に育ってくれた。そして5人全員が、小学生時代に同じ学童野球チームに所属した(末っ子は現在も所属中だ)。そのチームは、今から45、6年前——私自身が小学生だった頃に所属していたチームでもある。 同じグラウンド、同じユニフォーム、世代をまたいで続く縁というものが、確かにある。 いつの日か、私も含めた6人全員で同じグラウンドに立って、野球の試合をしたい。それが今の私の、ひそかな楽しみであり目標だ。そのためにも毎日のランニングと懸垂を続けている。笑われるかもしれないが、本気でそう思っている。 鶴ヶ嶺親方が三人の息子と同じ土俵に立った気持ちが、少しだけわかる気がする。 あなたには、子どもや孫と「同じ場所に立つ」夢があるだろうか? 【昭和55年(1980年)5月23日】第33回カンヌ国際映画祭にて、黒澤明監督「影武者」がパルム・ドール受賞。日本映画26年ぶりの栄冠。 【昭和59年(1984年)5月23日】大相撲・井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決定。長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾とともに史上初の三兄弟同時関取が実現。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月24日 ▶

May 22, 2026

昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝

昭和53年(1978年)の5月、私は小学5年生だった。 その日のテレビには、見たことのない風景が広がっていた。巨大な旅客機が滑走路に降りてくる映像。空港の制服を着た人たちが忙しそうに動き回っている映像。「新東京国際空港、初便到着」とアナウンサーが興奮を抑えながら伝えていた。 しかし正直なところ、成田空港の開港というニュースは、10歳の私にはまだ遠い存在だった。千葉の成田というのは、なんとなく「遠くの場所」で、自分の日常と結びつくような感覚がまるでなかった。 ところが同じ5月21日に、もうひとつの出来事があった。こちらは、私の目の前で起きていたことだった。 踏切の向こうに現れたもの 私は葛飾区に住んでいる。最寄り駅は京成高砂駅だ。 昭和53年5月21日、京成電鉄の空港線が開業し、京成上野駅から成田空港駅(現・東成田駅)まで、特急「スカイライナー」の運行が始まった。 マルーンとクリームの2色塗り。この塗装で昭和53年から走り始めた。 その日、父と一緒に高砂駅の近くの踏切へ見に行った記憶が、今も残っている。あの踏切は「開かずの踏切」と呼ばれるほど電車の通りが多い場所だ。遮断機が下りたまま、なかなか上がらない。その踏切の向こうを、スカイライナーが通り過ぎていった。 マルーンとクリームに塗り分けられた車体。すっと伸びた流線型のボディ。普通の京成電車とは明らかに違う、特別な風格があった。 子どもながらに、「かっこいい」と思った。そして、誇らしかった。 私にとっての「新幹線」 東海道新幹線が開通したのは昭和39年(1964年)のことで、私が生まれる前の話だ。だから「新幹線の開通」という興奮を、私はリアルタイムでは体験していない。 スカイライナーの開通は、私にとってそれに近い感覚だったと思う。 自分の暮らす町の、見慣れた踏切を、特別な列車が通り過ぎていく。それが今日から毎日走るようになった。その事実が、子ども心にずっしりと響いた。遠くの出来事だった「成田空港の開港」とは違って、スカイライナーは目の前にいた。 「スカイライナー」という名前も好きだった。あとで知ったことだが、この名前は日本全国の小学生からの公募で決まったという。子どもたちが名付け親というわけで、余計に親しみを感じた。 騒ぎの中でようやく開いた扉 とはいえ、当時の私には成田空港の開港をめぐる複雑な事情など、何も見えていなかった。 成田空港は本来、昭和48年(1973年)3月に開港する予定だったが、大幅に遅れた。農地を守ろうとする地元農民の反対運動に新左翼の活動家が加わり、機動隊との激しい衝突が続いた。開港直前の昭和53年3月には、反対派が管制塔に突入して機器を破壊し、開港がさらに2か月延期されるという事態まで起きた。 機動隊が重装備で警戒する中での開港式典。出席者はわずか56名だったという。 5月21日、開港後の初便である日本航空のロサンゼルス発の貨物機が到着第1便として着陸し、正午過ぎに旅客機初便のフランクフルト発の日本航空機も続いた。同じ日にスカイライナーも走り始めた。 その日のニュース映像の裏に、そんな長い長い歴史があったとは、踏切の前で目を輝かせていた10歳の私には知る由もなかった。 今も変わらない光景 2010年登場。在来線最速の時速160kmで走り、日暮里―成田空港間を最速36分で結ぶ。 現在、スカイライナーはボディカラーを濃い青と白に変え、シャープな車体でさらに速く成田空港と都心を結んでいる。 高砂駅の近くで、スカイライナーを親子で見に来ている光景を目にすることがある。子どもが目を輝かせ、親が「あれがスカイライナーだよ」と教えている。 そのたびに、あの日の父と私のことを思い出す。 遮断機が下りて、しばらく待って、轟音とともに通り過ぎていったあの列車。成田空港はまだ遠い存在だったけれど、スカイライナーだけは、確かに私の目の前で走っていた。 それが昭和53年5月21日のことだった。 昭和40〜64年の「今日」を、子どもだったあの頃の目線で振り返るシリーズです。あなたにも、昭和の5月21日にまつわる記憶がありますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 | 次の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 ▶

May 20, 2026

5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた

昭和27年(1952年)の5月19日、東京・後楽園球場に4万人の人間が詰めかけた。 野球の試合ではない。ボクシングだ。しかも特設リングをグラウンドの真ん中に組んで戦うというのだから、どれほど異様な熱気だったかが想像できる。 その夜から74年。5月19日は「ボクシングの日」として今も残っている。 そして私は今、この日付を眺めながら思う。日本人はずっと、ボクシングの世界チャンピオンに熱狂してきたのだ、と。時代ごとに「チャンピオン」は変わり、「熱狂の道具」も変わった。でも熱狂そのものは、変わらなかった。 昭和27年 ラジオの前に家族が集まった夜 白井義男という名前を、今の若い人はほとんど知らないだろう。でも昭和の大人たちに聞けば、きっと目が変わる。 彼は昭和27年5月19日、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノ(アメリカ)に15回判定勝ちし、日本人として初めてプロボクシングの世界王者となった。 当時の世界ボクシングにはフライ級からヘビー級まで8つの階級しかなかった。世界チャンピオンは地球上に8人しかいない、ということだ。その「世界の8分の1」に、敗戦からまだ7年しか経っていない日本人がなってしまった。 白井の戦い方は独特だった。「打たれたら打ち返す」が当時の日本ボクシングの常識だったのに対し、彼は「打たせないで打つ」スタイルを貫いた。それを仕込んだのは、GHQの職員として来日していたアルビン・カーン博士というアメリカ人。ボクシングの経験はほとんどないのに、スポーツ生理学の知識を武器に白井を育て上げた。このちょっと不思議なコンビが、日本に初めての世界チャンピオンをもたらした。 その夜、4万人が詰めかけた後楽園球場に来られなかった人々はどうしていたか。 テレビはまだほとんどの家庭にない時代だ(NHKのテレビ放送が始まるのは翌昭和28年)。だから人々はラジオに耳をかっていた。この試合のラジオ聴取率は83%を記録したという。日本中の家が、ラジオの前で固まっていたのだ。 83%という数字の凄まじさを想像してみてほしい。日本中の家がほぼ全部で、同じ音声を聴いている。家族全員が息を殺して、アナウンサーの声に耳を澄ませている。15ラウンドを戦い抜いて判定が告げられた瞬間、ラジオの前でも飛び上がった家族がいたに違いない。 白井が勝ったことは、単純な「スポーツで勝った」ではなかったと思う。あの戦争から立ち直れるんだ、という証明だった。敗戦後の日本人が、自分自身を取り戻す一つの節目。後楽園球場の4万人の歓声は、そういう重さを持っていた。 昭和50年代 テレビの前にかじりついた夜 それから四半世紀が過ぎ、日本は高度経済成長を経て、テレビが一家に一台の時代になっていた。 「私にとってのボクシング世界チャンピオンは具志堅用高だ」と言える世代は、おそらく昭和40年代生まれ前後だろう。その感覚、私にはよくわかる。 具志堅用高は昭和51年(1976年)10月10日にWBA世界ライトフライ級王座を獲得し、そこから昭和56年(1981年)3月8日まで、約4年5か月にわたってチャンピオンに君臨し続けた。13回連続防衛。これは長い間、日本記録だった。 小学生の間ずっと「世界チャンピオンが具志堅用高」という状況だったのだから、それはもう「当たり前の風景」のように感じていたはずだ。 試合の夜は特別だった。 ふだんはボクシングにそれほど興味がなくても、具志堅用高の世界タイトルマッチとなれば話は別だった。テレビの前にかじりついて応援した。家族みんなで。それが当時の日本の、ゴールデンタイムの風景だった。 具志堅の魅力は、強さだけではなかった。独特のアフロヘアと、沖縄訛りの底抜けに明るいキャラクター。「ちばりよー!」という言葉が全国に広まり、沖縄出身の若者が日本中のヒーローになった。那覇の小さな少年がここまで来たんだという物語が、日本人の感情を揺さぶった。 白井義男の時代に「83%のラジオ」があったとすれば、具志堅用高の時代には「茶の間のテレビ」があった。ゴールデンタイムに全国生中継。チャンネルを変えるという選択肢がない時代、日本中が同じ画面を見ていた。 令和の今 スマホの画面に映る「モンスター」 そして今、令和の日本に「モンスター」がいる。 井上尚弥だ。 神奈川県座間市出身、1993年生まれ。ライトフライ級から始まり、スーパーバンタム級まで世界4階級を制覇した。愛称は「モンスター」。 何がそこまで凄いのか。 軽量級というのは、一般に「判定が多い」と言われる。体重が軽い分、一発でKOするほどのパワーを出しにくいからだ。ところが井上尚弥は、世界王者クラスの相手でも試合を終わらせてしまう。ボディブロー、左フック、カウンター、連打——どれもが凶器になる。特にボディ打ちは「内臓をえぐる」とまで表現されるほどだ。 しかも、スピード・テクニック・パワーのどれか一つが突出しているのではなく、全部がトップ水準にある。ボクシング関係者から「欠点が少なすぎる」と言われるゆえんだ。 忘れられない試合がある。2019年のノニト・ドネア戦。井上選手は眼窩底骨折を負いながら激闘を制し、強さだけでなく精神力と修正能力を世界に示した。2023年のスティーブン・フルトン戦では階級を上げて挑み、内容で圧倒してTKO勝利。「井上尚弥は本物中の本物」という評価が決定的になった試合だった。 海外でも評価は高い。パウンド・フォー・パウンド(階級の差を取り払った最強ランキング)で常に上位に名前があり、アメリカやイギリスでもスター選手扱いだ。「日本ボクシング史上最高のボクサー」と評価する声は、国内にとどまらない。 ところで、どこで見るのか問題 ただし、である。 井上尚弥の試合を見たいと思ったとき、かつてのような「テレビをつければゴールデンタイムにやっている」という状況ではなくなっている。 主な視聴方法は今やこうなっている。 まずAmazon Prime Video。近年の日本開催ビッグマッチはAmazonが独占することが多く、プライム会員なら追加料金なしで生配信を観られる。次にLemino(NTTドコモ系の配信サービス)。ボクシング関連コンテンツを多く扱っており、無料部分もある。それからWOWOW。海外開催の試合やビッグマッチで今も放送される。以前より頻度は減ったが、ボクシング中継の伝統は残っている。 地上波テレビはどうなったかというと、具志堅用高の時代、辰吉丈一郎の時代、亀田興毅の時代のような「ゴールデンタイム全国生中継」はかなり減った。放映権料の高騰、配信サービスの普及、若年層のテレビ離れ、配信会社による独占契約——理由はいくつか重なっている。 昭和世代からすれば「寂しい」と感じる変化かもしれない。茶の間のテレビで家族みんなが見ていたあの感覚は、もう戻らない。 でも、実は今のほうが「見やすい」面もある。 かつては深夜開始の試合もあった。録画に失敗することもあった。延長で別の番組がズレることもあった。今はスマホでも観られるし、Amazon Prime Videoなら高画質・見逃し配信・一時停止が当たり前だ。テレビに接続すれば大画面でも楽しめる。「意外と便利」と感じている昭和・平成世代も多いはずだ。 ラジオ、テレビ、スマホ。道具は変わっても 昭和27年、日本中がラジオの前で固まって白井義男を応援した。 昭和50年代、日本中が茶の間のテレビで具志堅用高にかじりついた。 令和の今、日本中がスマホやタブレットの画面で井上尚弥を追いかけている。 道具は変わった。でも熱狂は変わっていない。 白井義男が戦後の日本人に「俺たちも世界一になれる」という夢を見せたように、具志堅用高が沖縄の少年を「日本中のヒーロー」にしたように、井上尚弥は今まさに「日本人が世界の頂点に立てる」ことを体で証明し続けている。 5月19日、ボクシングの日。 後楽園球場に4万人が詰めかけたあの夜から、時代は変わった。でも変わらないものが、ちゃんとある。 昭和50年代当時、具志堅用高の試合は何度ゴールデンタイムで中継されたことか。ボクシングにさほど興味のない私でさえテレビの前にかじりついていたのだから、それがどれほど特別な時間だったかがわかる。そういう「日常の中の非日常」が、もう少しテレビにあってもいいのになあと、たまに思う。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 | 次の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 ▶

May 18, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日

今日は5月18日。 昭和45年(1970年)のこの日、ひとつの法律が静かに公布された。 全国新幹線鉄道整備法。 長い名前だが、内容はシンプルだ。「新幹線を、日本中に走らせよう」という国の約束だ。 この法律のことを調べていたら、自分の記憶がどんどんよみがえってきた。新幹線にまつわる記憶。テレビ越しに見ていた「あの乗り物」への憧れ。そして中学3年の春、東京駅のホームで初めて0系の鼻先を目の前にしたときの、あの感覚。 今日はその話を書いてみたい。 新幹線は、テレビの中にいた 私が育ったのは東京23区の東のはずれだ。下町の気配が残る、庶民的な町だった。 子どもの頃、新幹線はいつも「テレビの中」にあった。 ゴールデンウィーク前になると、ニュースが決まってこの映像を流した。東海道新幹線の車内。通路まであふれかえる乗客。車窓の外を流れる富士山。アナウンサーが「今年のUターンラッシュは——」と話す。 画面を見ながら、子どもの私はぼんやりと思っていた。 あれに乗っている人たちは、どこへ行くんだろう。 京都か。大阪か。あるいはもっと遠い、知らない場所か。 でも、それは完全に「他人事」だった。我が家とは無関係な世界の映像として、ただ眺めていた。 理由は単純で、我が家には旅行の習慣がなかったからだ。 父は、連休が年に一度だけだった 父の仕事は週に1回、平日に休みがあった。日曜日は働いていた。 ゴールデンウィークも、お盆も、関係なかった。世の中がいくら盛り上がっていても、父は仕事に出かけた。まとまった連休といえば、1年にたった一度、お正月の1日と2日——その2日間だけだった。 今の感覚で言えば「それは大変だったね」となるかもしれない。でも当時、私のまわりではそれはめずらしいことではなかった。近所の友達の父親も、似たようなものだった。昭和40年代、50年代の「お父さん」はそういうものだった。家族よりも仕事を優先するのが当たり前で、誰もそれを疑わなかった。 だから、家族でお泊まり旅行に出かけた記憶が、私にはない。 修学旅行や林間学校はあった。でも「家族みんなで旅行」という体験は、子ども時代についぞなかった。 今の常識からすると「えっ、そうなの?」と驚かれるかもしれない。でも私のまわりでは、それはごくふつうのことだった。それくらい、昭和40年代・50年代・60年代のお父さんたちは、よく働いていたのだ。 だから新幹線の映像をテレビで見ながら「来年の夏、乗れるかな」などとは考えなかった。そんな発想自体が、最初からなかった。 昭和45年5月18日、「約束」が生まれた 少し話を遡る。 昭和39年(1964年)、東海道新幹線が開業した。東京オリンピックの9日前のことだ。東京と新大阪を、それまでの特急列車なら6時間以上かかっていたところを、「ひかり」は3時間10分で結んだ。 当初は「あんな高いものを作っても赤字になるだけだ」という声もあった。ところが蓋を開けると、新幹線は大人気だった。通勤でも出張でも観光でも、人々は喜んで乗った。「夢の超特急」と呼ばれた0系の白い車体は、あっという間に時代のシンボルになった。 その成功を見て、政治家や官僚は考えた。「これを全国に広げれば、日本中が豊かになる」と。 そして昭和45年5月18日、全国新幹線鉄道整備法が公布された。 内容はこうだ。時速200キロメートル以上で走れる幹線鉄道を「新幹線」と定義し、全国的な鉄道網として整備していく——という法律だ。要するに「東京と大阪だけじゃなく、日本中に新幹線を走らせる計画を国が主導する」という宣言だった。 この日から3年後の昭和48年、東北新幹線や北陸新幹線などの整備計画が決定される。そしてさらに時間をかけて、新幹線は少しずつ北へ、西へと延びていった。 とはいえ、昭和45年に法律ができたからといって、すぐに全国を新幹線が走り回るわけではない。東北新幹線が東京まで延びてくるのは、昭和60年(1985年)のことだ。 私が子どもだった昭和40年代、50年代——仙台や盛岡に新幹線で行けるようになる未来は、まだ「夢の話」だった。 中学3年、修学旅行の朝 昭和57年(1982年)の春のことだ。 中学3年生の修学旅行。行き先は京都・奈良。 その朝、私はいつもより早起きして、母に用意してもらった弁当を持って中学校へ向かった。校庭に集合して、先生から注意事項を聞いて、クラスごとに並んで出発した。電車を乗り継いで東京駅へ。先生に引率されてホームへ向かった。 そして——目の前に、0系があった。 あの丸っこい白い鼻先。白とブルーの塗り分け。ずらりと並んだ窓。テレビの中でしか見たことがなかったものが、手を伸ばせば届きそうな距離に、本物として存在していた。 正直に言うと、少し呆然とした。 「あ、本当にあるんだ」と思った。変な感想だが、そういう気持ちだった。ずっとテレビ越しに見ていたものが、突然、目の前の現実になった感覚。 車内に乗り込んで、席に着いた。 隣に座った友達と、顔を見合わせた。 お互いにニヤニヤしていた。声に出さなくても、わかった。「こいつも、初めてなんだな」と。 うちだけじゃなかった。同じ町の同じ中学に通っている友達も、同じように「初めて」だったのだ。それが少し、嬉しかった。 動き出したときの、あの感覚 列車が動き出した。 最初はゆっくりだった。東京駅のホームが、少しずつ後ろに流れていく。窓の外の景色が、じわじわと速くなっていく。 そしてある瞬間から、流れる景色が全然違うものになった。 ビルが、電線が、人が、全部流れていって何がなんだかわからなくなる。ただ白と緑のぼんやりした帯になって、後ろへ後ろへ飛んでいく。 スピードというものをあれほど体で感じたのは、後にも先にもあの瞬間だけだと思う。「速い」という言葉が意味を失って、ただ体ごと時間が圧縮されていくような、変な感覚だった。 富士山が見えた。 「富士山だ」と誰かが言い、みんなが窓に顔を寄せた。日本一高い山が、ただただそこにあった。東京から生まれて初めて離れた中学生にとって、富士山の存在感は圧倒的だった。 新幹線は「高嶺の花」だった 修学旅行から帰って、しばらくは新幹線の話ばかりしていた気がする。 でも、それで終わりだった。 その後、自分の意思で新幹線に乗る機会は、なかなかやってこなかった。就職して、出張で乗るようになるまで、新幹線は「特別なとき」だけの乗り物だった。 新幹線は「高嶺の花」だった。 手が届かないわけじゃない。でも、気軽に乗るものじゃない。ゴールデンウィークにテレビで見ていた満員の映像は、「あそこに乗っている人たちとは、自分は違う世界にいる」という感覚と一緒にあった。 今になって思えば、それは思い込みだったかもしれない。でも当時の感覚は確かにそうだった。 「夢の超特急」という言葉は、言い得て妙だと思う。夢——すなわち、「いつかは」という距離感。私にとって長い間、新幹線はそういう存在だった。 長男に乗せてやりたかった 大人になって、子どもが生まれた。 長男が5歳のとき、仕事の関係で九州へ行く用事ができた。会社は往復の飛行機チケットを用意してくれた。でも私は、帰りのチケットをキャンセルした。 博多から東京まで、新幹線で帰ることにしたのだ。 妻と長男を連れて、博多駅のホームに立った。 長男は生まれて初めて新幹線を目の前にして、目を丸くしていた。 「乗るの?これに乗るの?」と聞いた。 「乗る」と答えた。 席に着いて、列車が動き出した瞬間、長男は窓に顔をくっつけて景色を見ていた。その横顔を見ながら、私は何も言わなかった。ただ、昭和57年の春に感じたあの感覚が、じわっと戻ってきた気がした。 ...

May 17, 2026