9月22日 ── 「なぜだ!」と叫んだ大人と、何も知らなかった野球少年|昭和の今日は何があった日?
9月22日という日付を調べていて、少し不思議な気持ちになった。 昭和57年のこの日と、昭和60年のこの日。3年をはさんだ二つの9月22日に、大人の世界ではそれぞれ大きな出来事が起きている。ひとつは東京・日本橋のデパートの会議室で、もうひとつはニューヨークのホテルで。 昭和57年の私は中学1年生、昭和60年の私は高校1年生。どちらの秋も、頭の中は野球のことだけだった。 今回は、その二つの9月22日の話を書いてみたい。 昭和57年9月22日、日本橋の会議室で 昭和57年(1982年)9月22日、東京・日本橋の三越本店で、定例の取締役会が開かれた。 議題がひととおり終わり、最後の「その他」に入ったところで、社長の腹心として知られていた専務が立ち上がり、社長の解任を提案した。社長以外の取締役が次々と起立し、16対0で可決。10年にわたって三越を率いてきた岡田茂社長は、その場で代表権を失った。 岡田社長は「流通界の革命児」と呼ばれる一方、社内では異論を許さない独裁的な経営で「岡田天皇」とまで呼ばれていた人である。この年の夏には、日本橋本店で開いた「古代ペルシア秘宝展」の展示品の多くが偽物だったことが新聞で報じられ、さらに親しい女性の会社への不当な利益供与も問題になっていた。老舗デパートの名門ぶりとは裏腹に、内側はかなり揺れていたのである。 解任を告げられたとき、岡田社長が口にしたとされるのが「なぜだ!」のひと言だった。この言葉はテレビや新聞で繰り返し取り上げられ、その年の流行語になった。岡田氏はその翌月、特別背任の容疑で逮捕された。その後、裁判で実刑判決を受け、上告して争っている最中の平成7年に80歳で亡くなっている。「革命児」と呼ばれた経営者の、あまりに苦い幕切れだった。 昭和57年の9月といえば、私は中学に入学して半年。伝統的に強い野球部で、毎日きつい練習に明け暮れていた頃である。 では、中学1年生の私はこの騒ぎをどう見ていたのか。 正直に書くと、まったく覚えていない。 流行語さえ、届いていなかった 大人の世界の事件というのは、子どもにとってはたいてい中身がよく分からない。取締役会とは何か、代表権とは何か、特別背任とは何か。中学1年生がそれを理解していたとは思えない。 それでも「なぜだ!」という言葉くらいは、子どもの耳にも入りやすかったはずである。短くて、感情がむき出しで、どんな場面にも使える。昭和の流行語には、大人の事件が言葉ひとつに縮んで子どもの世界に流れ込んでくるものが多かった。 ところが私の記憶には、その言葉すら残っていない。テレビのニュースで見た覚えも、教室や部室で誰かが真似していた覚えもない。世間で流行語になるほどの騒ぎでも、野球漬けの中学1年生のところまでは届かなかったらしい。 もうひとつ理由があるとすれば、三越というデパートそのものに、私はほとんど馴染みがなかった。 葛飾で育った私にとって、デパートといえば上野の松坂屋だった。屋上には遊園地があり、食堂があった。その光景は今でも覚えている。上野は、国立博物館にも何度も連れて行ってもらった町で、子どもの私が知っている「都会」はだいたいそのあたりまでだった。 日本橋の三越は、同じデパートでも、私の暮らしの外側にあったのだと思う。だからその社長が解任されようが「なぜだ!」と言おうが、自分とつながる話として受け取る手がかりがなかったのだろう。 三越も松坂屋も、江戸時代の呉服屋から始まっています。屋上に遊園地があった頃から、いまの苦しい時代まで。デパートという商売の四百年を一冊でたどれる新書です。 百貨店・デパート興亡史(イースト新書)梅咲恵司/イースト・プレス。三越、伊勢丹、高島屋、松坂屋、大丸、西武……日本の百貨店がどう栄え、どう揺らいできたかをたどる。星4.1(31件) Amazonで見る › 昭和60年9月22日、ニューヨークのホテルで それから3年後の昭和60年(1985年)9月22日。今度の舞台は、ニューヨークのプラザホテルである。 この日、日本・アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツの5か国の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まり、行き過ぎたドル高を是正するために協調して為替市場に介入することで合意した。会議が開かれたホテルの名前をとって「プラザ合意」と呼ばれている。日本からは、のちに首相となる竹下登大蔵大臣が出席していた。 会議そのものは20分ほどで終わる形式的なものだったというが、その効き目はすさまじかった。1ドル235円前後だった為替相場は、合意の翌日までに約20円も円高に動き、1年後には150円台で取引されるようになった。昭和62年の暮れには、1ドル120円台にまで達している。わずか2年ほどで、ドルの値打ちがほぼ半分になった計算である。 円高は、輸出で稼いできた日本の製造業を苦しめた。一方で、輸入品が安くなり、海外旅行ブームが起きた。そして円高不況を心配した日本銀行が低金利を続けたことで、お金が土地や株に流れ込み、やがてバブル景気へとつながっていく。昭和の終わりから平成のはじめにかけての、あの浮かれた時代の出発点のひとつが、この9月22日だったと言われている。 昭和60年の9月、私は高校1年生だった。 このニュースも、私はまったく憶えていない。たぶん関心もなかったし、仮に聞いていたとしても理解はできなかっただろう。ドルだの為替だのという言葉は、耳に入ったとしても、そのまま通り抜けていったのだと思う。 当時の私にとって、関心ごとは野球だけだった。 8年後、信用金庫で 高校1年生の私が何も知らないうちに始まった円高とバブルは、その後、思いがけない形で私の人生にも届いてきた。 私が大学を卒業して信用金庫に入ったのは、平成5年(1993年)のこと。プラザ合意からちょうど8年後である。そのころにはバブルはすでにはじけ、世の中の金融機関は膨らんだ土地や株の後始末に追われていた。 もっとも、入って間もない私にとって、バブル崩壊後の空気はこれといって印象に残っていない。入社当時は、何も分からずに働いていた。ここでもまた、大きな時代のうねりは、私の頭の上を通り過ぎていったことになる。 それでも、信用金庫で過ごした7年間は、その後の生活に相当役に立っている。金利、簿記、借入、預金。窓口と帳簿の中で身につけた知識と経験は、いま自分が行っている「投資」へとつながっていった。お金の話に尻込みすることなく、積極的に取り組める基礎になったのは、間違いなくあの7年間である。 ニューヨークのホテルで20分ほどで決まったことは、16歳の私には何ひとつ届かなかった。24歳の私にも、その余波ははっきりとは見えていなかった。けれど、その余波の中で働いた日々が、何十年もたった今の私を支えている。時代というのは、見えないところで、ちゃんと人の人生に流れ込んでくるものらしい。 プラザ合意による円高と、その後の低金利。そこから土地と株の狂乱までを、経済記者として四十年見続けた人が書いた一冊です。高校1年生の私が素通りした出来事の、その先で何が起きていたのかが分かります。 バブル―日本迷走の原点―(新潮文庫)永野健二/新潮社。プラザ合意から金融自由化、地価と株価の狂乱、そして崩壊まで。日本経済新聞の記者として現場を見続けた著者によるノンフィクション。星4.2(398件) Amazonで見る › おわりに 昭和57年の三越事件、そして昭和60年のプラザ合意。 ...