【昭和の今日は何があった日?】8月3日──トラと基板とひまわりと。少年に届かなかった三つのニュース

三つ並んで、三つとも空白だった 8月3日という日付を調べていて、少し困ったことになりました。 昭和の出来事が、きれいに三つ出てきたのです。昭和51年のTK-80発売、昭和54年の神野寺トラ脱走事件、昭和59年のひまわり3号打ち上げ。しかも自分の年齢を当てはめてみると、順に小学1年生、小学4年生、中学3年生。少年時代がちょうど三段に切り取られている。 これはいい記事が書けそうだ、と思いました。 思ったのですが、正直に申し上げます。私は、この三つをどれ一つとして覚えていません。 「あの夏か」という手応えが、まったく立ち上がってこない。三つ並んで、三つとも空白でした。 ただ、書きながら気づいたことがあります。同じ「覚えていない」でも、覚えていない理由がそれぞれ違うのです。早すぎて届かなかったもの。近いのに届かなかったもの。近すぎて、届いていることにさえ気づかなかったもの。 その三つの距離の話を、今日は書いてみます。 昭和54年、隣の県でトラが逃げた まずは真ん中の、いちばん派手な話から。 昭和54年8月2日の夜、千葉県君津市の鹿野山にある神野寺という寺で、飼われていたベンガルトラ3頭が檻から逃げ出しました。関東最古とも伝えられる古刹の境内に、当時は観光用の動物園が併設されていて、十二支にちなんだ動物たちが飼われていたのだそうです。 3頭のうち1頭はすぐに戻ってきましたが、生後1年ほどのオスとメスの2頭が行方不明になりました。体長はおよそ1.5メートル、体重は100キロ前後。まだ子どもとはいえ、山に放たれたトラです。 寺からの通報を受けた千葉県警が現地対策本部を設置したのが、翌3日の未明でした。警察官、消防団、猟友会。総勢およそ500人が山に入り、周辺の住民には外出禁止令が出されます。夏休みの真っ最中で、寺の周辺には観光客や合宿中の学生も滞在していました。近くのマザー牧場で予定されていた野外コンサートも中止になっています。 メスは4日の朝に射殺されました。ここで話が複雑になります。全国から「射殺するな」「かわいそうだ」という抗議が殺到し、寺の住職までが射殺という判断を疑問視する発言をした。これに猟友会が激怒して、捜索は一時中断してしまいます。 残るオスは、そこから山中を逃げ続けました。決着がついたのは28日。近隣の民家の飼い犬がトラに襲われて死んでいるのが見つかり、その日のうちに射殺されて、27日間の騒動はようやく終わりました。 日本中がひと夏、山に潜む1頭のトラを追いかけていたわけです。連日ニュースになったはずですし、テレビの前で息を呑んだ子どもも大勢いたはずです。 なのに、私にはその記憶がない。 なぜだろうと考えて、地図を見て、腑に落ちました。君津は、たしかに隣の県です。距離でいえば東京の西のはずれより近いくらいかもしれません。でも当時のわが家に車はなく、父は休みらしい休みがない人で、家族で泊まりがけの旅行に出た記憶も一度もない。房総というのは、私にとって「行ったことのない土地」でした。 行ったことのない土地は、地図の上でどれだけ近くても、遠いのです。10歳の私にとって、鹿野山は月の裏側と大差なかったのだと思います。 昭和51年、8万8500円の基板 次は、いちばん古い話。 昭和51年8月3日、日本電気――今のNECが、TK-80という製品を発売しました。「Training Kit」の頭文字を取った名前のとおり、これは完成品ではありません。ビニール袋に入った部品と、組み立て説明書と、回路図。買った人が自分でハンダごてを握って、一枚の基板の上に組み上げる。そういう代物でした。 価格は8万8500円。中途半端な数字に見えますが、これには理由があって、当時の企業で係長や課長が自分の判断で決裁できる金額の上限が10万円だったからだ、と伝えられています。技術者が上司に相談せずに買える値段。それが8万8500円でした。 そもそも売る側も、これが売れるとは思っていませんでした。マイクロプロセッサという新しい部品を売り込もうにも、客先を回って説明しても理解してもらえない。ならば技術者に触って覚えてもらおう、という販売促進のための教材だったのです。月に200台も出れば上出来、という見込みでした。 ふたを開けたら、月に2000台売れました。 しかも買ったのは想定していた企業の技術者だけではなく、学生や、経営者や、ただの物好きたちでした。秋葉原のラジオ会館に開設されたサポート窓口には人が集まり、そこからパソコンという文化が立ち上がっていく。日本のマイコンブームは、この一枚の基板から始まったといわれています。 このとき、私は7歳。小学1年生の夏休みです。 覚えていないのは当然だ、と胸を張って言えます。だってこれは、大人ですら誰も知らなかった出来事なのですから。売っている本人たちが月200台と踏んでいたものが、どうして下町の小学1年生に届くでしょうか。 ニュースが子どもに届かなかったのではなく、ニュースそのものがまだ存在していなかった。トラの話とは、まるで種類の違う「遠さ」です。 昭和59年、天気予報の裏側が打ち上がった 三つめ。昭和59年8月3日、種子島宇宙センターからN-IIロケット6号機が飛び立ちました。積んでいたのは静止気象衛星「ひまわり3号」です。 ここで少しおかしな話があります。この打ち上げ、本来の予定より2日遅れました。理由は、台風7号の接近です。 台風を見張るために飛ばす衛星が、台風に足止めされていた。昭和の夏らしいというか、なんとも人間くさい話だと思います。 ひまわり3号は、この年の秋から本格的な運用に入りました。地球の雲の画像を1日に何度も送ってきて、それがそのまま夕方のテレビの天気予報に流れる。私たちが「明日は雨か」と口にするとき、その根拠は宇宙から届いていたわけです。 このとき、私は15歳。中学3年生でした。 そして三つのなかで、この打ち上げを覚えていないことが、いちばん自分でも意外でした。トラや基板と違って、ひまわりの成果は毎日目に入っていたはずだからです。テレビをつければ、白い渦がぐるぐると回っている。あの映像を見ていない日のほうが少なかったでしょう。 ひまわりの初号機が上がったのは昭和52年です。私が小学2年生のときですから、物心ついてからこちら、雲の写真が映る天気予報しか知らずに育ったことになります。3号はその三代目。世代交代が起きていたことにも、当然ながらまるで気づいていませんでした。 つまり私は、恩恵だけを受け取って、その出どころに一度も関心を向けなかったということになります。近すぎて、意識の対象にすらならなかった。空気を覚えていないのと同じことです。 遠すぎて届かないものと、近すぎて見えないもの。人間が取りこぼすものには、どうやら両側があるらしいと、この歳になって思います。 同じ日付、同じ会社 ここまで書いてきて、ひとつ気づいたことがあります。 TK-80をつくったのは日本電気です。そしてひまわり3号を開発・製造したのも、日本電気でした。 8年の隔たりを挟んで、同じ8月3日に、同じ会社が、一方では8万8500円の裸の基板を、一方では宇宙に浮かべる気象衛星を世に出している。片方は日本のパソコン文化の出発点になり、片方は毎日の天気予報を支えた。 昭和という時代の底力みたいなものが、この符合には少しだけ透けて見える気がします。 そして今、私はその基板の子孫にあたる機械でこの文章を書き、朝はその衛星の子孫が撮った雲を見て一日の見通しを立てている。覚えていなかった二つの出来事が、いつのまにか私の生活そのものになっていた。 ...

August 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月1日──「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ

夏休みのど真ん中に、ひとりのスターが生まれた 8月1日。子どものころ、この日は「夏休みがまだたっぷり残っている」という、いちばん贅沢な時期でした。カレンダーの残りが分厚くて、8月31日という言葉がまだ他人事だったころです。 その8月1日に、16歳の少年がレコード店の棚に並びました。1972年(昭和47年)、郷ひろみさんが「男の子女の子」でデビューします。 このとき、私は3歳です。当然ながら、この日のことは何ひとつ覚えていません。ただ、この日から始まったものが、そのあと十数年にわたって、私の家の夜の「音」をつくり続けることになります。 「フォーリーブスの弟」から始まった デビュー曲のキャッチフレーズは「フォーリーブスの弟」。4人組の先輩より多く伸びるようにと、4より大きい5(ゴー)から「郷」の字が当てられました。芸名の由来からして、いま聞くとずいぶん大らかな、昭和らしい話です。 郷さんはこの年の1月2日にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優デビューしており、歌手はその後でした。9月25日にはデビュー曲がオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、11月には第14回日本レコード大賞の新人賞を受賞します。 三人が揃った 「新御三家」。郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の三人です。 いちばん早かったのは野口五郎さんでした。1971年5月1日に「博多みれん」でデビュー。これが演歌調で、2作目の「青いリンゴ」でポップス路線に転じて成功します。次が西城秀樹さんで、1972年3月25日の「恋する季節」。そして同じ年の8月1日に郷ひろみさん。 三人のなかでデビューはいちばん遅かったのに、オリコンのベストテン入りは郷さんが最初でした。野口さんの「オレンジの雨」、西城さんの「情熱の嵐」がベストテンに入るのは翌1973年になってから。そしてその1973年、郷さんはブロマイドの年間売上で1位となり、三人は「新御三家」と呼ばれるようになります。 こうして1年3か月ほどの間に三人が出そろい、ここから昭和50年代いっぱい、茶の間のテレビは、この三人抜きには回らなくなります。 相撲から歌番組へ ——我が家の、いつもの夜 当時は本当に毎日のように、どこかの局で歌番組が放送されていた印象があります。今のように音楽を好きなときに聴ける時代ではなかったので、新しい曲や人気歌手を見ることができる歌番組は、家族みんなの楽しみでした。 我が家でも夕食時になると自然とテレビがつき、ニュースや野球中継がない日は歌番組が流れていました。とくに1978年に始まった『ザ・ベストテン』は家族みんなが楽しみにしていた番組で、「今日は誰が1位かな」「あの歌手は何位まで上がるかな」と順位を見ながら話をするのも毎週の楽しみでした。ベストテン入りした曲は学校でも話題になり、翌日には友達同士で口ずさんでいた記憶があります。 チャンネル権というものは、我が家には特にありませんでした。父が家にいる時間帯は父の希望が優先でしたが、歌番組は家族全員で楽しめる内容だったため、大きくチャンネル争いになることはあまりなかったのです。相撲中継の時期には夕方5時の門限に間に合うように帰宅し、そのまま相撲を見て、夕食後はその流れで歌番組を見る。相撲から歌番組へと続くこの流れが、我が家のいつもの夜の過ごし方でした。 テレビは一家に一台という家庭もまだ珍しくなく、家族が同じ番組を一緒に見るのが当たり前の時代です。だからこそ流行歌は家族全員が自然と覚えてしまい、歌手の名前や新曲が共通の話題になっていました。今振り返ると、家族みんなで同じ音楽を楽しんだ、とても温かい時間だったと思います。 男の子だって、夢中でした ここで、はっきり書いておきたいことがあります。男子から見た新御三家は、決して「女の子だけのアイドル」ではありませんでした。私自身、かなり夢中になって見ていました。歌番組が始まると自然とテレビの前に座り、誰が出るのか楽しみにしていたものです。 郷ひろみさんといえば、「お嫁サンバ」はもちろん、「哀愁のカサブランカ」、そして樹木希林さんとのデュエット曲「林檎殺人事件」。あの曲は『ザ・ベストテン』で4週連続の1位になりました。ほかにも「よろしく哀愁」「ハリウッド・スキャンダル」と、挙げ始めたらきりがありません。テレビに郷さんが登場すると、華やかな衣装とキレのあるダンス、そして抜群のスター性に、子どもながら「やっぱりスターは違うな」と感じていました。 西城秀樹さんは、やはり何といっても「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。1979年のこの曲はオリコンで5週連続1位、80.8万枚を売り上げ、『ザ・ベストテン』では番組初の満点9999点を記録しました。あの曲が流れ始めると、日本中が熱狂していたと言っても大げさではないと思います。サビになると、みんなが自然と腕で「Y」「M」「C」「A」の文字を作りながら歌っていました。学校でも友達同士でまねをしたり、運動会やレクリエーションで振り付けを踊ったりして、「YMCA」のポーズを知らない子はいないくらいの大ブーム。今でもイントロを聴くだけで、当時の熱気がよみがえってきます。 野口五郎さんも歌唱力が抜群で、「私鉄沿線」や「甘い生活」など、しっとりとした名曲を数多く歌っていました。郷さんや西城さんとはまた違う魅力があり、新御三家はそれぞれ個性がはっきりしていて、そこが歌番組を見る楽しみの一つでもありました。 数字にも占有ぶりが出ています。1970年代後半から1980年代前半にかけて、三人のうち誰か1人が毎週『夜のヒットスタジオ』に出演していました。出演回数は西城さん188回、郷さん175回、野口さん123回です。 新曲は歌番組で初めて耳にし、翌日には学校で「あの歌よかったね」「昨日見た?」という会話が自然に始まる。男子も女子も関係なく新御三家の曲を口ずさんでいましたし、誰が好きかを話題にすることも珍しくありませんでした。彼らはまさに、時代を象徴するスターだったと思います。 「上の世代の大スター」になっていく 中学、高校へと進むにつれて、子どものころのように毎週欠かさず歌番組を見ることは少なくなっていきました。部活動や受験勉強で忙しくなり、テレビそのものを見る時間が減っていったこともあります。私自身が夢中になったのはプロレスと野球で、アイドルといえば松田聖子ではなく河合奈保子、そして中森明菜でした。 それでも、新曲が出れば気になりますし、新御三家の存在が自分の中から消えることはありませんでした。子どものころに夢中になって見ていたスターですから、歌番組で見かければ自然と足を止めてしまう、そんな存在だったように思います。 高校生になるころには、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんは、もはや「憧れのお兄さん」というよりも、日本を代表する大スターという印象でした。自分たちよりずっと上の世代のスターという感覚になっていましたが、それでも新曲や活躍はしっかりチェックしていました。 二十数年後、体育館のステージに そして、その思いが何十年か後に、思いがけない形でよみがえる出来事がありました。 以前、中森明菜さんについて書いた記事で、社会人になって勤務していた会社の全国大会で、突然、体育館のステージに明菜さんが現れた感動を書きました。実はその前年の全国大会にも、私は野球で出場していたのです。そして、その年のシークレットゲストこそが、郷ひろみさんでした。 大会二日目の夜、会場となった体育館には大勢の社員が集まり、「今年は誰が来るんだろう」と期待に胸を膨らませていました。そして照明が落ち、ステージに現れたのが郷ひろみさん。あの瞬間の歓声は、今でも忘れることができません。 披露してくれたのは、当時大ヒットしていた「GOLDFINGER ‘99」。イントロが流れた瞬間、会場のボルテージは一気に最高潮に達しました。体育館中の誰もがリズムに乗り、手拍子をしながらサビを大合唱。「ア・チ・チ・ア・チ!」というフレーズは、会場全体が一つになって響き渡り、まるで本物のコンサート会場にいるような熱気でした。 子どものころ、茶の間のテレビ越しに「お嫁サンバ」や「林檎殺人事件」を夢中で見ていたあの郷ひろみさんが、いまは目の前のステージで歌っている——その不思議な感覚は、言葉では表せません。テレビの向こう側の遠いスターだった人と、同じ空間で歌い、同じ時間を共有している。その事実だけで胸がいっぱいになりました。 翌年には、中森明菜さんが同じ体育館のステージに立ちました。子どものころに歌番組で憧れていたスターたちと、大人になって同じ空間を共有できたあの二年間は、私にとって忘れることのできない特別な思い出です。少年時代にブラウン管の向こうで輝いていたスターたちが、時を経て目の前で歌ってくれた。昭和という時代を生きた私だからこそ味わえた、何ものにも代えがたい幸せな時間だったように思います。 令和のいま 2018年5月、西城秀樹さんが亡くなりました。63歳でした。三人揃って毎週テレビに映っていたころを知っている身には、いまだにうまく飲み込めない出来事です。 一方で郷ひろみさんは、70歳になったいまも現役です。1972年8月1日に棚に並んだ16歳が、54年間ずっと第一線にいる。ちょっと考えられないことです。 そして「YOUNG MAN」は、いまも運動会や応援席で鳴っています。歌った人が誰かを知らない子どもたちが、あの「Y・M・C・A」のポーズをとっている。それを見るたびに、あの人たちが作ったものは、名前が消えてもまだ残っているんだな、と思います。 みなさんは、新御三家のうち誰派でしたか。あるいは、ご家庭の茶の間ではどの歌番組が流れていましたか。よかったら教えてください。 あの夜9時、家族みんなでテレビの前に集まった『ザ・ベストテン』。その舞台裏を、番組を作った総合演出者みずからが書いた一冊です。ランキングはどう決まっていたのか、あの中継はどうやって実現したのか——歌手を追いかけて全国を飛び回ったスタッフたちの奮闘が、昭和の歌謡曲の熱気とともによみがえります。あの頃テレビの前にいた方には、たまらない読み物です。 ザ・ベストテン(新潮文庫)山田修爾。番組の総合演出者が明かす『ザ・ベストテン』の舞台裏。ランキングの仕組みから中継の裏側まで、昭和歌謡が最も輝いた時代の記録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月31日】欠けていく太陽と、黒い下敷き | 次の記事:【8月2日】道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場 ▶ ...

August 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月31日──欠けていく太陽と、黒い下敷き

今日は7月31日。7月の最終日です。 夏休みが始まって十日ほど。宿題帳の白いページと、朝顔の観察日記と、朝から降りそそぐ蝉の声。八月の本番はまだこれからで、子どもにとっては一年でいちばん長くて濃い季節の、入り口のあたりでしょうか。 そんな夏の一日ですが、昭和56年(1981年)の7月31日、日本の空ではちょっと不思議なことが起きていました。 お昼どき、太陽が欠けたのです。 昭和56年、夏の真昼に太陽が欠けた 昭和56年7月31日、日本各地で部分日食が観測されました。 日食というのは、太陽と地球のあいだに月が割り込んで、太陽を隠してしまう現象です。月が太陽をすっぽり覆えば皆既日食、真ん中だけを隠してリングのように見えれば金環日食、そして一部分だけをかじり取るように隠すのが部分日食です。 この日、月の影が地球にいちばん濃く落ちた場所——つまり皆既日食が見られたのは、当時のソ連の南部でした。黒海のあたりからシベリアへと、影の帯が大陸を横切っていったのです。日本はその帯からは外れていましたが、太陽の一部が欠ける部分日食のほうは、昼前から午後にかけての空で、しっかりと見ることができました。 では、どのくらい欠けたのか。記録によれば、名古屋で食分がおよそ0.55。食分というのは太陽の直径がどれだけ隠されたかを表す数字で、0.55なら太陽の半分以上が月に隠されたことになります。関東でもだいたい半分前後、そして北へ行くほど深く欠けました。北日本では、月が太陽をもっとぐいと食べ込んでいったのです。 太陽の半分が消える。しかも夏休みの真っ昼間に。これは子どもにとって、ちょっとした事件だったはずです。 半分も欠けると、あたりの様子も少しだけ変わります。真っ暗になるわけではありませんが、真昼の光がなんとなく薄くなり、影の輪郭がいつもより硬くなる。じりじりと照りつけていた日差しが、ほんの少しだけやわらぐ。空を見上げなくても、「あれ、なんだか変だぞ」と肌で感じる——そういう不思議な明るさになるのです。 太陽が欠けるという出来事を、昔の人はとても恐れていました。平安時代の975年、京の都で皆既日食が起きたときには、太陽が墨のように光を失い、鳥が飛び乱れ、昼なのに空に星が見えたと記録されています。人々は不吉なことの前触れだとおびえ、朝廷は「大赦」——罪人を赦す特別なはからい——まで出したほどでした。 それが、昭和の子どもにとっては、恐怖でもなんでもありませんでした。ただただ「面白いもの」だったのです。学校の理科で、なぜ日食が起きるのかを習っている。だから怖くない。怖くないから、思いきりわくわくできる。太陽と月と地球の位置関係が、自分の頭の真上で実演されている——それは、教科書が本物になる瞬間でした。 ちなみに昭和56年という年は、赤城乳業の「ガリガリ君」や、ロッテの「雪見だいふく」が世に出た年でもありました。黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』が大ブームになったのもこの年です。冷凍庫の中身も、テレビの中も、少しずつ新しくなっていく——そんな時代の夏でした。 下敷きと、煤ガラスと さて、昭和の子どもは、この欠けた太陽を、いったいどうやって見ていたのでしょう。 太陽をそのまま肉眼で見てはいけない。それは今も昔も同じです。でも、昭和の観察方法はなかなか大胆でした。 いちばん多かったのは、黒い下敷きです。筆箱の横にいつも差してある、あの黒いプラスチックの下敷き。あれを目に当てて、みんなで空を見上げたものです。ほかにも、ロウソクの炎でガラス板を炙って煤をつけた「煤ガラス」、真っ黒なサングラス、使い終わって真っ黒に感光したフィルム。とにかく「黒くて、向こうが透けて見えにくいもの」を、片っ端から太陽にかざしていました。 ただ、ここは正直に書いておかなければなりません。これらの方法は、今では「やってはいけない」とされています。黒い下敷きや煤ガラスは、目に見える光は減らしてくれても、目に見えない赤外線や紫外線までは防げません。気づかないうちに目の奥、網膜を傷めてしまう危険があるのです。当時はそこまで知られていませんでした。「みんながやっていたから」で済んでいた時代でした。 そんな中に、道具がいらなくて、しかも安全な方法もひとつありました。木漏れ日です。木の葉と葉のあいだの小さな隙間が、ちょうどピンホールカメラのように働いて、地面に映る木漏れ日のひとつひとつが、欠けた太陽と同じ三日月の形になる。空を見上げなくても、足元に日食が映っていたのです。あれに気づいた子は、ちょっと得意げだったものです。 夏休みという時期も、日食にはうってつけでした。学校は休みでも、こういう日は「自由研究にちょうどいい」と、太陽の欠け具合を時間ごとにスケッチした子もいたはずです。何時何分にどれだけ欠けて、いつ元に戻ったか。画用紙に並んだいくつもの丸い太陽は、それだけで立派な夏の研究になりました。宿題に追われる夏に、空のほうから宿題の題材が降ってきたようなものです。 私の記憶 昭和56年の夏、私は小学6年生、12歳でした。 正直に言うと、太陽が欠けたことそのものは、はっきりとは覚えていません。ただ、7月31日という日づけには、日食とはまったく別の、とても濃い記憶が残っています。 夏休みの朝といえば、まずラジオ体操でした。首から下げた出席カードに、毎朝ひとつずつ判子を押してもらう。そして、その最終日がちょうど7月31日だったのです。最終日には、ためた判子のカードと引き換えに、花火やお菓子、ノートといった景品と交換してもらえました。ひと夏かけて集めた判子が、最後にごほうびに変わる日。子どもにとっては、これがちょっとした晴れ舞台でした。 ラジオ体操が終わると、午前中は学校のプールです。ふた学年ごとに分かれて泳ぎに行く日があって、それがない日には、自転車で5分ほどの区民プールへ友達数人と繰り出して、2時間くらいずっと泳いでいました。プールがなければ虫取り。とにかく、朝から日が暮れるまで、外にいた夏でした。 そう考えると、あの日——太陽が昼前から午後にかけて半分近くも欠けていったころ、私はたぶん、もらったばかりの景品を握りしめていたか、区民プールの水の中で友達とふざけ合っていたかの、どちらかだったのだと思います。頭の真上の空で月が太陽を食べていることよりも、手にした花火のほうが、そのときの私にとっては、よほどの大事件だったのでしょう。 当時はインターネットもスマートフォンもありません。珍しい自然現象があっても、情報源はテレビと新聞、そして近所の口コミくらいでした。だからこそ、ひとつの出来事を、家族や友達と同じ時間に分け合うことに、特別な意味がありました。日食そのものを覚えていない私でも、「太陽を直接見ちゃだめだよ」と大人に言われたような——そんな声の記憶だけは、どこか夏の底に沈んでいる気がします。 そしてうれしいことに、あのラジオ体操は今も同じように続いていて、今度は私の子どもが、あの出席カードに判子を押してもらっています(笑)。 じつは、これは今朝の風景です。夏祭りの提灯がまだ揺れている朝の広場に、子どもたちが集まってくる。そして最終日の今日は、あの頃とまったく同じように、景品の引き換えがありました。 私の子どもがもらってきたのは、手持ち花火のセットと、のり塩のポテトチップスでした。 ——45年前に私がもらった、花火と、お菓子。並べてみれば、ほとんど同じです。カードと景品と、夏の朝のあの眠たさだけは、何ひとつ変わっていません。太陽が半分も欠けたあの夏から45年が過ぎても、子どもの夏の入り口は、ちゃんと同じ場所にありました。 令和の空を見上げる 時代は流れて、令和になりました。 平成に入ってからも、日本では大きな日食が何度かありました。平成21年(2009年)7月22日には、鹿児島のトカラ列島で皆既日食が見られ、日本中が朝から空を見上げました。平成24年(2012年)5月21日には、東京でも金環日食が見られました。朝の通勤・通学の時間帯、駅のホームでも、歩道でも、多くの人が立ち止まって同じ空を見ていた——あの朝を覚えている方も多いでしょう。 このときの主役は、もう黒い下敷きではありませんでした。「日食グラス」です。専用の遮光板が入った観察メガネが、コンビニでも本屋でも売られ、直前には売り切れが続出しました。そしてもうひとつ、昭和にはなかったもの——スマートフォン。欠けていく太陽を写真に撮って、その場でSNSに上げる。日本中が同じ瞬間に、同じ空を、画面越しにも分かち合ったのです。 道具は下敷きから日食グラスへ。ひとりで見上げた空から、みんなで見上げる空へ。ずいぶん変わりました。でも、太陽がだんだん欠けていくのを見上げるときの、あの「うわぁ」という声にならない気持ちだけは、昭和の子どもも令和の子どもも、たぶん同じなのだと思います。 おわりに 次に東京のすぐ近くで大きな日食が起きるのは、そう遠い先ではありません。2035年9月2日、北陸から北関東にかけて、皆既日食の帯が通る予定です。東京でも、太陽がほとんど欠ける大きな部分日食になります。そのとき私は66歳。孫がいれば、一緒に空を見上げているかもしれません。もちろん今度は、ちゃんとした日食グラスで。 昭和56年の、あの夏の真昼。太陽が欠けていったあの日を、あなたは覚えていますか。 そして、何で空を見上げましたか。黒い下敷きでしたか、それとも——。 昭和の子どもは黒い下敷きで見上げましたが、今はもう、それをやってはいけません。太陽観察には、専用の遮光板を使ってください。これは日本製の「たいようめがね」。JIS規格の遮光板で、日食はもちろん、太陽黒点の観察にも使えます。夏休みの自由研究にもぴったりですし、何より安全です。2035年の皆既日食まで、大切に取っておくのもいいかもしれません。 太陽観察の必需品 たいようめがね(遮光板)日食・太陽観察用の遮光板。黒い下敷きや煤ガラスと違い、赤外線・紫外線もしっかりカットして目を守る。自由研究にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 31, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月30日──沖縄の車が右から左へ、一夜で入れ替わった日

今日は7月30日。夏の日差しが、いよいよ本気になってくる頃です。 正直に告白します。私はこの日にあった出来事を、まったく覚えていません。 1978年(昭和53年)のこの日、私は小学3年生。9歳です。9歳といえば、記憶にしっかり残っていておかしくない年齢です。運動会のこと、夏休みのこと、あの頃見ていたテレビ番組のことなら、いくらでも思い出せます。それなのに、この日のことだけは、頭の中が真っ白なのです。 でもそれは、私が忘れっぽいからではなかったのかもしれません。調べていくうちに、そう思うようになりました。この日、東京から遠く離れた沖縄で、世界にも例のない大事業が行われていたのです。 覚えていない、という不思議 1978年7月30日、午前6時。沖縄県じゅうの車が、一夜にして右側通行から左側通行へと切り替わりました。 実施された日付にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれるこの出来事は、いま振り返れば、日本の交通史に残る大事件です。それなのに、当時9歳だった私の記憶には、かけらも残っていません。 なぜだろう、と考えてみました。 私が育ったのは、東京・葛飾の高砂。京成高砂駅のすぐそばの、下町でした。我が家に車はありませんでした。父は週に6日働いていて、家族で遠くへ出かけることもほとんどない暮らしです。「車が右から左になる」というニュースは、車を運転しない子どもにとって、あまりにも遠い世界の話だったのだと思います。 そもそも「沖縄」という場所自体が、当時の私にはずいぶん遠かった。飛行機に乗ったこともなければ、家族旅行の記憶もない少年にとって、沖縄は地図の上の、南のほうにある名前でしかありませんでした。 実際、この記事を書くにあたって記憶をたどってみても、「沖縄」にまつわる思い出は、私の中から何ひとつ出てきませんでした。よほど縁がなかったのでしょう。あの夏、私は確かにどこかで9歳の毎日を過ごしていたはずなのに、沖縄で起きていた歴史的な一夜とは、まるで別の世界に生きていたようです。 だから、この記事は少し特別です。いつもは自分の記憶をたどって書いていますが、今日は違います。私自身が、この出来事を今あらためて知りながら、みなさんと一緒に驚いていく——そんな記事になります。 一夜で、島がひっくり返った そもそも、なぜ沖縄だけが右側通行だったのでしょうか。 沖縄は戦後の27年近く、アメリカの統治下にありました。車はアメリカと同じ右側通行。日本に復帰したのは1972年(昭和47年)5月15日ですが、そのあとも右側通行は続きました。一つの国では通行方法を一つに統一する——そう定めた国際条約があるにもかかわらず、道路も、標識も、人々の運転の習慣も、一気にひっくり返すことなど簡単にはできません。結局、日本に戻ってからも約6年間、沖縄は「日本なのに車は右」という状態が続いたのです。 その積年の宿題を、たった一晩で片づけたのが「730」でした。 7月29日の午後10時。緊急車両をのぞくすべての車の通行が禁止され、県内一斉にサイレンが鳴り響きました。それを合図に、変更作業が始まります。翌30日の午前6時まで、わずか8時間の勝負でした。 動員された作業員は約800人、車両は約300台。かかった費用は約19億円。標識を付け替え、信号を切り替え、道路に描かれた白線を引き直し、ガードレールの向きまで直していく。気の遠くなるような作業を、真夜中の8時間に詰め込んだのです。 この短時間を可能にしたのが、世界で初めて採用された「カバーアンドテープ方式」でした。あらかじめ左側通行用の標識や信号を設置しておき、それをカバーで覆って隠しておく。当日はそのカバーを外すだけ。道路の白線も、左側通行用のものを先に描いてから黒いテープで覆っておき、当日バーナーでテープを焼き剥がす。考案した久高弘さんの名を取って「久高方式」とも呼ばれています。 さらにこの数日前には台風8号が沖縄に接近していて、信号機や大型標識のカバーが先に吹き飛ばされてしまうという一幕もありました。まさに、天気とも時間とも戦った一夜だったのです。 もっとも、夜が明けてからが本当の勝負でした。長年しみついた右側通行の癖は、ある朝を境にそう簡単には抜けません。切り替え直後は各地で接触事故が相次ぎ、那覇などの市街地では、しばらく交通マヒが続いたといいます。頭ではわかっていても、体が覚えているものはすぐには変えられない。島じゅうの人が、その戸惑いを一緒にくぐり抜けたのです。 沖縄の言葉で、アメリカ統治の時代を「アメリカ世(ゆー)」、日本復帰後を「大和世(やまとゆー)」と言うそうです。「730」は、目に見える形での復帰の総仕上げでした。人々にとっては、単なる交通ルールの変更ではなかったのです。 そのとき、バスはどうなったのか ここからが、私がいちばん驚いた話です。 車が右側通行から左側通行に変わると、いちばん困るのは、実はバスなのです。 考えてみてください。右側通行の国のバスは、乗り降りするドアが車体の右側についています。運転席は左。ところが左側通行になると、お客さんは道路の左側の歩道から乗り降りするので、ドアは左になければいけない。運転席も右に移さなければならない。つまり、それまで走っていたバスは、一台残らず使えなくなってしまうのです。 当時、沖縄島にあった左ハンドル・右ドアのバスは、およそ1,200台。「729車(ナナニイキュウしゃ)」と呼ばれるこれらの車両を、たった一晩で右ハンドル・左ドアに置き換えなければなりませんでした。 全部を改造している時間はありません。そこで、右ハンドルの新車を900台あまり一気に投入し、さらに160台あまりを改造して間に合わせました。このとき導入されたバスを、いまでも「730車(ナナサンマルしゃ)」と呼びます。あまりに大量だったので、メーカーも各社で分担が決められました。琉球バスは日産ディーゼルと日野、那覇交通はいすゞ、東陽バスは日野、沖縄バスは三菱ふそう、というように。 作業当日の段取りも、聞けば聞くほど鮮やかです。 新しい730車は、事前に旧米軍基地の跡地に集結させておく。7月29日、それまでのバス(729車)が最後の運行を終えると同時に、運賃箱や両替用の小銭を抜き取って、そのまま基地跡地に格納。入れ替わりに、パトカーの先導で730車が各営業所へと回送されていきます。車庫では、路線別・ダイヤ別にバスがきれいに並べられ、両替金が積み込まれていく——。 一晩のあいだに、島じゅうのバスが、そっくり別の車両に入れ替わったのです。 私は今、路線バスの運転士として毎日ハンドルを握っています。だから、この話は他人事とは思えません。 バスというのは、一台走らせるだけでも、始業点検をして、運賃箱を確認し、忘れ物がないかを見て、ダイヤどおりに出庫させるまでに、たくさんの人の手がかかっています。営業所では何十台ものバスが、それぞれ決められた順番で動いています。 それなのに、沖縄では、そのすべてを一晩で入れ替えたというのです。車両だけではありません。運賃箱も、小銭も、行先表示も、担当する路線も、翌朝には何事もなかったかのように走り始めなければならない。現場を知る者としては、「本当にそんなことができたのか」と思ってしまうほどの大仕事です。 もし自分がその現場にいたら、一睡もできなかったでしょう。どこか一つでも段取りを間違えれば、翌朝の路線はたちまち混乱してしまいます。それをほとんど混乱なくやり遂げた先人たちの準備力とチームワークには、ただ驚くばかりです。私にとって730は、交通ルールが変わった日というだけではなく、日本のバス業界が成し遂げた、まさに奇跡の一夜だったのだと感じています。 令和に残った、二台のバス あれから、47年が経ちました。 大量に投入された730車も、時とともに古くなり、新しいバスに置き換えられて、一台また一台と姿を消していきました。そして今、当時の姿のまま沖縄に残っている730バスは、沖縄バスと東陽バスが持つ、たった2台だけになりました。記念すべき日には、この2台が右側通行時代を再現して走ることもあるそうです。 私たちが当たり前だと思っている「車は左」という光景。それは、日本のどこでも最初から当たり前だったわけではありませんでした。少なくとも沖縄では、47年前のあの一夜に、800人の手と19億円と、900台を超える新しいバスによって、人の手で作られたものだったのです。 私が毎日握っているハンドル。何百回と曲がってきた左側の車線。乗り降りするお客さんが、当たり前のように左のドアから乗ってくること。そのすべてが、誰かの膨大な準備と苦労の上に成り立っている。そう思うと、いつもの見慣れた景色が、少し違って見えてきます。 おわりに 7月30日。私にとっては、記憶が真っ白な一日でした。 でも、覚えていないということは、知らなくていいということではありませんでした。9歳の私には遠すぎた沖縄の一夜を、50年近く経って、バスのハンドルを握る立場になってから、ようやく知ることができた。そう思うと、この「記憶にない一日」も、私にとって意味のある一日になった気がします。 みなさんは、「730」を覚えていますか。沖縄で暮らしていた方なら、あの日の混乱や興奮を、はっきりと覚えているかもしれません。私のように本土にいた方は、そもそもニュースになっていたかどうかも、記憶にないのではないでしょうか。同じ夏の同じ一日でも、立っている場所によって、こんなにも見え方が違う。それもまた、昭和という時代の面白さなのだと思います。 730を成し遂げた沖縄のバスは、今も個性豊かに島を走っています。現存する730車をはじめ、路線バスで巡る沖縄の魅力を一冊にまとめたガイドブックがこちら。バス好きにはもちろん、「レンタカー以外の沖縄旅」を考えている方にもおすすめです。いつか私も、あの2台の730車に会いに行きたいと思っています。 沖縄の路線バス おでかけガイドブック[第4版]室井昌也・谷田貝哲。路線バスで巡る沖縄の観光ガイド決定版。バス会社各社の紹介から名所へのアクセスまで、バス旅の魅力が詰まった一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月16日──私が生まれた年、人類は月へ向かった

昭和44年7月16日。世界初の有人月宇宙船「アポロ11号」が、アメリカ・フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられました。 昭和44年生まれの私にとって、これは「同い年」の出来事です。とはいえ、当時の私は生後3ヶ月半。首がようやく据わったかどうかという赤ん坊ですから、当然ながら記憶にございません。 それどころか、白状してしまうと、私はアポロについて詳しく知らないまま50年以上を生きてきました。「アームストロング船長が月に降りた」「人類にとっては偉大な飛躍である、という名言」。知っているのは、せいぜいその程度。物心ついたときには月面着陸はすでに「歴史」であり、教科書の中の出来事だったのです。 今回、この記事を書くにあたって初めてアポロ11号のことを腰を据えて調べました。すると、これが面白い。知らなかったことだらけでした。今日は、55歳を過ぎてようやく「月への旅」を追体験した男の話に、しばしお付き合いください。 昭和44年7月16日、夜10時32分 まず驚いたのは、打ち上げの正確な時刻です。現地フロリダでは7月16日の午前9時32分。日本時間に直すと、同じ7月16日の夜10時32分でした。 つまり、日本では多くの家庭がテレビの前でこの瞬間を見ていたのです。NHKは夜9時45分から75分間の報道特別番組「アポロ11号発射」を放送し、視聴率は43.8%を記録したといいます。夜10時半に、国民の4割以上がロケットの発射を見守っていた。今では考えられない光景です。 発射場の周辺には推定100万人もの見物客が詰めかけ、打ち上げの様子は世界33ヶ国にテレビ中継されました。全長110メートルを超える巨大なサターンVロケットが、3人の宇宙飛行士――アームストロング船長、オルドリン、コリンズ――を乗せて、轟音とともに空へ昇っていく。 その夜、東京の下町・葛飾の片隅では、生後3ヶ月の私が寝ていたはずです。当時、我が家にテレビがあったかどうかは、今となっては確かめようがありません。ただ、ひとつだけ、はっきり覚えていることがあります。 3歳くらいになって、いろいろなことが分かるようになった頃、父が私に何度もこう言ったのです。 「アポロ11号は人を乗せて月に着陸したんだぞ。すごいよな」 一度や二度ではありません。何度も、です。幼い私の記憶に刻み込まれるほど繰り返したということは、父にとってそれだけ強烈な出来事だったのでしょう。あの夜、あるいはあの昼、父もどこかでテレビの前に立っていたのかもしれません。 8年がかりの「月への競争」だった 調べてみて次に驚いたのは、アポロ11号が決して「順風満帆の一発成功」ではなかったということです。 始まりは昭和36年(1961年)。ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行を成功させ、宇宙開発競争でアメリカは完全に後れを取っていました。そこでケネディ大統領が打ち出したのが「1960年代が終わるまでに、人間を月に着陸させ、安全に地球へ帰還させる」という国家目標です。 しかし道のりは平坦ではありませんでした。昭和42年(1967年)にはアポロ1号が訓練中の火災事故で炎上し、3人の宇宙飛行士が亡くなっています。計画は一時中断。それでも8号で月の周回飛行を、10号で月面1万5000メートルまで接近する「予行演習」を積み重ね、ようやく11号で本番を迎えたのです。 ケネディ大統領の公約から8年。大統領自身はその実現を見ることなく世を去っていました。期限とされた「60年代」の残りは、あと半年もありません。まさに滑り込みの挑戦だったわけです。 日本中が見た「小さな一歩」 打ち上げから約4日後の7月21日(日本時間)、月着陸船「イーグル」が月の「静かの海」に着陸します。早朝5時18分のことでした。 そしてお昼前の11時56分、アームストロング船長が月面に第一歩を踏み下ろします。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」――あの名言が生まれた瞬間です。 日本では平日月曜日の昼前。それなのに、NHKの中継の視聴率は68%に達したといいます。その日のうちに何らかの形で映像を見た人は、実に91%。学校でも職場でも、テレビのある場所に人が集まり、38万キロ彼方から届く白黒の映像に見入っていたのでしょう。 面白いのは、この年、日本の家電メーカーが「月面着陸をカラーで観よう」というキャッチコピーでカラーテレビを売り込んでいたことです。昭和44年のカラーテレビ生産台数は約483万台と、わずか4年前の48倍に跳ね上がりました。ところが肝心の月面からの映像は、機材の重量制限のため白黒だった。なんとも皮肉な話ですが、アポロが日本の茶の間のカラー化を後押ししたのは間違いなさそうです。 3人目の男と、持ち帰られた月 もうひとつ、調べていて心に残ったことがあります。月に降り立ったのは2人ですが、アポロ11号の乗組員は3人だったということです。 アームストロングとオルドリンが月面を歩いている間、司令船操縦士のマイケル・コリンズは、たったひとりで月の周回軌道を飛び続けていました。月の裏側に回れば、地球との交信も途絶えます。人類の歓喜の輪から38万キロ離れた場所で、静かに仲間の帰りを待つ。子供の頃に「月に降りた人」の名前だけを覚えていた私は、この3人目の男の存在をほとんど意識したことがありませんでした。野球で言えば、派手なホームランの裏で黙々と走者を進めるバントのような仕事です。歳を重ねた今だからこそ、この人に一番心を惹かれるのかもしれません。 2人は月面に約21時間半滞在し、およそ21キロの「月の石」を採取しました。3人を乗せた司令船は7月25日(日本時間)、太平洋に無事着水。ケネディの公約――月に人間を着陸させ、安全に地球へ帰還させる――は、ここで完全に達成されたのです。 そして持ち帰られた月の石は、翌昭和45年の大阪万博でも大きな話題になります。アメリカ館に展示された「月の石」(こちらは続くアポロ12号が持ち帰ったものだそうです)を一目見ようと、連日長蛇の列ができたという話は、私も後年何度も耳にしました。当時1歳の私はもちろん万博には行っていませんが、日本中が月に熱狂した時代の余韻は、その後の子供時代のそこかしこに残っていたように思います。 思えば、子供時代の私にとって「月」は、今よりずっと不思議で、特別な存在でした。 夜になると必ず空に現れる、大きくて明るいもの。手を伸ばしても絶対に届かない、遠い世界。「月にはうさぎがいて、おもちをついている」と本気で信じていました。その一方で、ウルトラマンや仮面ライダー、宇宙戦艦ヤマトの影響から、「宇宙人がいる場所」「秘密基地がある場所」というイメージも重なっていました。満月はとてもきれいだけれど、夜遅くにひとりで見上げると少し怖い。「月の裏側には何かいるかもしれない」と想像したこともあります。 きれいで、不思議で、少し怖くて、でもずっと見ていたくなる特別なもの。そんな月に、本当に人が行ったのだと後にテレビや本で知ったときの驚きは、父のあの言葉と地続きだったのだと、今にして思います。 「同い年」として思うこと 先日の記事で、週刊少年チャンピオンが私と同じ昭和44年生まれだと書きました。創刊は7月15日。そしてその翌日の7月16日に、アポロ11号は月へ飛び立っています。私が生まれた年の7月は、少年漫画誌が産声を上げ、人類が月を目指した、そんな夏だったのです。 自分が赤ん坊だった頃の世界を、50年以上経ってから調べてみる。これはなかなか不思議な体験でした。両親がまだ30代だった頃の日本で、人々は夜10時半にテレビの前に集まり、ロケットの発射に固唾を呑んでいた。その熱気を、私は知りません。知らないけれど、その時代の空気の中で育てられたのだと思うと、アポロ11号が少しだけ「自分ごと」に感じられてくるのです。 最後に、余談をひとつ。地元・葛飾の北沼公園には、「月面歩行にチャレンジ!!」という掲示とともに「ムーンウォーカー」という遊具があります。バネの調節によって月面の6分の1の重力を疑似体験できるという、NASAの宇宙飛行士の月面歩行訓練機をもとに子供用に設計されたものだそうです。 アポロが月へ飛び立ってから半世紀以上。下町の公園では、今も子供たちが「月面」を歩いています。 夜、ふと月を見上げます。あそこに人類が立ったのは、私が生まれた年のことでした。 みなさんは、アポロ11号の記憶がありますか? リアルタイムで中継をご覧になった方も、私と同じように「歴史」として知った方も、よろしければ思い出をお聞かせください。 私がこの記事で追体験した「月への旅」を、絵と言葉でまるごと味わえるのがこの一冊です。打ち上げの轟音から、月面の静けさ、そして帰還まで。大人が読んでも胸が熱くなり、お孫さんに読み聞かせるにもちょうどいい。あの夏、人類が本当に月へ行ったのだと、あらためて教えてくれます。 月へ アポロ11号のはるかなる旅ブライアン・フロッカ作/日暮雅通訳(偕成社)。打ち上げから帰還までを、迫力の絵と詩のような文で描く絵本。世代を超えて読める一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた | 次の記事:【7月17日】江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」 ▶

July 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月15日──ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた

7月15日は、不思議な日です。 昭和の少年文化を代表する「二つの王様」が、14年の歳月を隔てて、同じこの日に生まれているのです。 ひとつは昭和58年(1983年)7月15日に任天堂が発売した家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ。いわゆるファミコンです。もうひとつは昭和44年(1969年)7月15日に創刊された、秋田書店の「少年チャンピオン」。 そして告白しますと、昭和44年生まれの私は、この二つに対してずいぶん対照的な付き合い方をしていました。ファミコンは、買わなかった。チャンピオンは、毎週読んでいた。 今日はその話をさせてください。 任天堂ファミリーコンピュータ(HVC-001)。昭和58年7月15日発売、14,800円。(Photo: Rama / CC BY-SA 2.0 FR) 昭和58年7月15日、14,800円の革命 昭和58年7月15日、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。価格は14,800円。当時のゲーム機としては驚くほど戦略的な価格設定で、これが後に「テレビゲームといえばファミコン」という時代を作り上げていくことになります。 面白いのは、実は同じ日にセガ・エンタープライゼスもゲーム機「SG-1000」と、ベーシックを搭載したパソコン「SC-3000」を発売していたことです。つまり昭和58年7月15日は、日本の家庭用ゲーム機戦争の火蓋が切られた日でもあったわけです。 同じ昭和58年7月15日に発売された、セガのSG-1000。家庭用ゲーム機戦争は、この日いっせいに始まった。(Photo: Evan-Amos / Public domain) ただし、当時この日を「歴史的な日」だと認識していた人は、ほとんどいなかったはずです。発売当初のファミコンは、あくまで数あるゲーム機のひとつでした。それが決定的な存在になるのは、昭和60年の「スーパーマリオブラザーズ」、そして昭和61年の「ドラゴンクエスト」という怪物ソフトの登場を待ってからのことです。 あの日が「あの日」になるまでには、少し時間が必要だったのです。 買わなかった少年の言い分 昭和58年7月、私は中学2年生でした。14歳。世間的に見れば、ファミコン第一世代のど真ん中です。 でも私は、ファミコンを買いませんでした。それどころか、ファミコンというものが発売されたということすら、気にしていませんでした。 当時の私の興味は、やはり野球だったのです。「何が欲しいか?」と問われれば、真っ先に思い浮かぶのはグローブとか、カッコいいジャージでした。放課後の時間は、画面の中のボールではなく、本物のボールのためにありました。日が暮れるまでグラウンドにいて、家に帰れば飯を食って寝るだけ。テレビの前に座ってコントローラーを握る時間は、私の生活のどこにもなかったのです。 だから、日本中の少年たちの歴史を変えたと言われるあの日も、私にとってはただの夏の一日でした。翌日に迫った練習のことだけを考えて眠った、中学2年の7月15日。歴史というのは、案外そういうふうに通り過ぎていくものなのかもしれません。 一年半遅れの衝撃 そんな私がファミコンの存在に初めて気付いたのは、発売から一年半あまりも経ってからのことでした。 中学3年生。最後の夏の大会が終わり、高校受験の合格発表も済み、中学校生活も残りひと月足らずとなったころです。野球部の友達ではなく、クラスメイトの家に遊びに行ったときに、私は「ファミコン」というものの存在を初めて知り、目にして、手に取りました。 その時の衝撃は、すごかったですね。 小学生の頃にゲームセンターでプレーしていたようなクオリティーのゲームが、家庭用のテレビで出来ちゃうわけですからね。あの日やらせてもらったのは、たしかマッピーとロードランナーだったと思います。 ちなみに、私が初めてファミコンに触れたこの時点では、まだ「スーパーマリオブラザーズ」すら世に出ていません。あれだけの衝撃を受けたのに、実はあの熱狂の序章にしか立ち会っていなかったわけです。 まぁ、それでも欲しくはならずじまいでした。 受験も終わり、時間ならいくらでもあったはずの時期です。それでも「買いたい」とはならなかったのですから、我ながら筋金入りの野球少年だったのだと思います。その後も、友達の家に行ったときにやらせてもらう程度の付き合いのまま、私のファミコン歴は終わりました。 何しろ私には、生まれた時からの相棒とも言うべき、もうひとつの「7月15日生まれ」がいたのですから。 私と同い年の雑誌 さて、もうひとつの7月15日です。 昭和44年(1969年)7月15日、秋田書店が「少年チャンピオン」を創刊しました。創刊号の表紙を飾ったのは、キックボクサーの沢村忠。真空飛び膝蹴りで一世を風靡した、あの「キックの鬼」です。漫画雑誌の創刊号の顔がキックボクサーだったというあたりに、昭和44年という時代の空気を感じます。創刊当初は隔週刊で、翌昭和45年6月から週刊化されて「週刊少年チャンピオン」となります。 昭和44年生まれ。つまりこの雑誌、私と同い年なのです。 私がこの世に生まれて3ヶ月ほど経った頃、書店の棚に創刊号が並んだことになります。もちろん当時の私は知る由もありませんが、同じ年に生まれた雑誌と少年が、やがて毎週顔を合わせる仲になるのですから、縁というのは面白いものです。 チャンピオンの快進撃は、昭和47年に始まります。この年、水島新司先生の『ドカベン』の連載が始まり、翌昭和48年には手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』がスタート。昭和50年代に入ると『がきデカ』『マカロニほうれん荘』『750ライダー』などが誌面に並び、昭和52年1月には週刊誌として史上初の発行部数200万部を突破。一時は絶対王者だった少年ジャンプを抜いて、少年誌の頂点に立ったこともあるのです。ちなみに『ブラック・ジャック』は、当時スランプにあったと言われる手塚治虫先生を復活させた作品としても知られています。私と同い年の雑誌が、あの漫画の神様を救っていたのだと思うと、なんだか誇らしい気持ちになります。 ドカベンと野球少年 私にとってのチャンピオンは、何をおいても『ドカベン』でした。 『ドカベン』がありましたから、必ず読んでいました。『ブラック・ジャック』も『750ライダー』も読みました。そして大人になってからは『グラップラー刃牙』シリーズを読んでいました。気がつけば、同い年のこの雑誌とは、少年時代から大人になるまで、ずいぶん長い付き合いになっていたわけです。 『ドカベン』の思い出は、と問われても、正直困ってしまいます。私にとっては、その存在すべてが「野球の参考書」だったからです。ですから、すみずみまで記憶しています。 その『ドカベン』の本誌連載は昭和56年にいったん完結しますが、昭和58年——奇しくもファミコン発売と同じ年——から、続編『大甲子園』が始まります。水島新司先生の野球漫画作品の主人公たちが大集合した、あの『大甲子園』です。当然、見逃すわけがありません。 『大甲子園』の連載期間は、私が白球を追いかけた中学2年から高校3年までと、ぴったり重なっている 連載は昭和58年から昭和62年まで。私が甲子園を目指して白球を追いかけていた、まさに中学2年から高校3年までの日々と、ぴったり重なっているのです。同世代の少年たちがファミコンに熱中していたあの数年間、私は毎週、明訓高校の戦いを追いかけていました。 最後はどうなるんだろうとか、明訓は負けてしまうのかとか、ワクワクとちょっぴりの心配とで、複雑な気持ちになりましたね。なんせ、それぞれの漫画では応援していた主人公たちとの対戦なんですからね。 二つの7月15日のあいだで こうして振り返ってみると、昭和58年7月15日という日は、私にとって象徴的な分かれ道だったのかもしれません。 同世代の少年たちの多くは、あの日に生まれたファミコンに夢中になっていきました。私はといえば、14年前の同じ日に生まれた雑誌のほうと付き合い続けた。画面の中で野球をするより、紙の上の山田太郎に胸を熱くして、そして本物のグラウンドで白球を追いかけるほうを選んだのです。 どちらが正しいという話ではありません。ファミコンに熱中した友人たちの目の輝きも、よく覚えています。ただ、あの頃の私には、ゲーム機に払う14,800円より大切なものが、すでに手の中にあったということなのだと思います。 週刊誌一冊と、使い込んだグローブ。中学2年の私の宝物は、それで十分でした。 そして、ひとつ付け加えておきたいことがあります。私の長男も次男も、『ドカベン』と『大甲子園』が愛読書となっていました。私と同じ年に生まれたあの雑誌が生んだ物語は、時代を超えて、息子たちの本棚にもちゃんと居場所を作っていたのです。父から子へ。これもまた、7月15日が私にくれた縁のひとつなのだと思います。 あなたは、ファミコン派でしたか? それとも……。あの夏、あなたの手の中にあったものを、よかったら聞かせてください。 『ドカベン』も『大甲子園』も、今は新品でそろえやすい形で残っています。山田太郎との出会い直しには文庫版の第1巻を。明訓の最後の夏をもう一度見届けたい方には『大甲子園』を。私と同い年のあの雑誌が生んだ物語は、令和の本棚でもちゃんと生きています。 ドカベン (1)(秋田文庫)水島新司/秋田書店。すべてはここから始まる、柔道編の山田太郎。私にとっては丸ごと野球の参考書だった一作 Amazonで見る › 大甲子園 (1)(少年チャンピオン・コミックス)水島新司/秋田書店。明訓・山田太郎と水島野球漫画のオールスターが激突。中2から高3の私が毎週追いかけた物語 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月8日──たばこの箱に、小さな一文が生まれた日

今日は7月8日。梅雨明けを待つ、じっとりと重い空気の季節です。 昭和の家には、たいてい煙が満ちていました。ちゃぶ台の上には灰皿があって、朝から晩まで、白い煙がゆらゆらと立ちのぼっている。テレビの画面も、蛍光灯の傘も、いつのまにかうっすらと黄ばんでいる。あれが、当たり前の風景でした。 そして、その煙を切らさないために走るのは、たいてい子どもの役目でした。小銭を握りしめて、近所のたばこ屋まで。「〇〇をひとつ」——そう言えば、子どもにでも売ってくれた時代です。 昭和47年(1972年)の7月8日、その手の中のたばこの箱に、ある小さな一文が初めて刷り込まれました。 「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」 今では考えられないほど控えめな、たった一行。けれど、これが日本のたばこに“警告”が載った、いちばん最初の言葉だったのです。 箱の側面の、たった一行 私たちの世代にとって、たばこの箱の側面に注意書きがあるのは、生まれたときからの当たり前でした。けれど、その一行にも、ちゃんと「始まり」があります。 1972年(昭和47年)より前、日本で売られていたたばこには、健康に関する注意文も警告も、いっさい書かれていませんでした。箱には、ただ商品の顔があるだけ。吸うことに国が注意をうながす、という発想そのものが、まだ世の中になかったのです。 その流れを最初につくったのはアメリカでした。そして日本でも、昭和47年の夏、ついにたばこの箱に文字が載ることになります。記録によれば、まず京都・名古屋・大津の三つの街で、「健康のため吸いすぎに注意しましょう」と側面に印刷したたばこの販売が始まり、その年の8月下旬から、全国へと広がっていったといいます。7月8日は、その最初の一歩がしるされた日、というわけです。 面白いのは、我が家の定番だったあの安いたばこも、ちょうどこの昭和47年の夏に、箱へ健康表示が刷られるようになった、という点です。つまり、私が物心つく前から握らされていたあの一行は、じつはこの頃に生まれたばかりの、まだ新しい言葉だったのです。 ちなみにこの文言は、その後ずっと同じだったわけではありません。1972年から1989年まで、つまり昭和のあいだはずっと「健康のため吸いすぎに注意しましょう」。平成に入った1990年からは「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」と、少し踏み込んだ言い方に変わりました。そして2005年からは、箱の大きな面をつかって、具体的な病気の名前まで書かれるようになります。あの控えめな一行は、時代とともに、どんどん強い言葉になっていったのです。 正直に言えば、私自身はこの「始まり」をまったく覚えていません。昭和47年7月といえば、私はまだ三歳。箱の文字を読むどころではありませんでした。今回この日について調べていて、はじめて「そうだったのか」と知ったくらいです。 私が本当に覚えているのは、その一行そのものではなく——その一行が刷られた箱を握って走った、お使いの記憶のほうなのです。 70円玉を握って 我が家は、両親そろって喫煙者でした。 父も母も、当たり前のようにたばこを吸っていて、家の中はいつも煙の匂い。今にして思えば、子どももその煙を一緒に吸って育ったわけですが、当時はそんなことを気にする人など、まわりに誰もいませんでした。 だから、たばこのお使いは、私の仕事でした。 小銭を渡されて、近所のたばこ屋まで走る。買ってくるのは、決まってエコーという銘柄でした。オレンジ色に茶色のストライプが入った、あの細長い箱です。値段はたしか、70円ほど。当時のたばこの中でも、いちばん安い部類のものでした。 そのたばこ屋さんは、高砂駅の北口を出て、すぐ目の前にありました。たばこを対面で売る小さな窓口には、いつもおばちゃんかおじちゃんのどちらかが座っていて、「エコー、〇個ください」と声をかけると、茶色の紙袋にたばこを入れて渡してくれます。 そして、そのたびに、小さな箱に入ったミカン味の、丸い球のガムを——たしか四粒だったと思います——毎回くれるのです。じつを言うと私、そのガムが目当てで、喜んでお使いに行っていたようなものでした。 そのたばこ屋さんは、驚くことに、今も同じ場所にちゃんとあります。 エコーというたばこは、1968年(昭和43年)に売り出された、フィルター付きでは日本でいちばん安いたばこでした。税金の区分でいう「旧三級品」というやつで、とにかく安い。だから、我が家のようなごく普通の家では、重宝されていたのだと思います。のちに俳優の松田優作さんが好んで吸っていたことでも知られる銘柄ですが、子どもの私にとっては、ただ「いつもの、うちのたばこ」でした。 なぜ我が家がエコーだったのか。父がよく、「エコーはフィルターがついている中で一番安いんだ」と言っていたのを覚えています。父も母も、そろってエコー。銘柄で迷うことなど一度もなく、私が買いに行くのは、いつも決まってあのオレンジ色の箱でした。 現金のお駄賃をもらった記憶はありません。私にとっての“ごほうび”は、あくまであのたばこ屋さんがくれるガムだけ。それでも、あの頃の私には、それで十分すぎるくらいだったのです。 校庭に、たばこの煙 たばこの煙は、家の中だけのものではありませんでした。 中学、高校と野球を続けた私にとって、たばこの匂いは、グラウンドの記憶とも結びついています。当時の野球部の監督は、校庭で、平気でたばこを吸いながら指導していました。ノックの合間に一服、選手を集めて話しながら一服。今の学校では、まず考えられない光景でしょう。 そして、その監督に「たばこを買ってこい」と使いに出されるのも、また部員の役目でした。 野球部の顧問というのは、どこの学校でも、たいていはおっかない先生と相場が決まっていました。うちの監督も、その例にもれず。今の感覚でいえば、生徒にたばこを買いに行かせるなんて大問題でしょうが、あの頃は、先生も生徒も、誰ひとり何とも思っていませんでした。 それどころか、私たち部員にとって、たばこのお使いは、ちょっとした“役得”だったのです。だって、その間だけは、あのきつい練習から堂々と抜けられる。買いに行かされる仲間を横目に、「いいなぁ〜」と、うらやましく思ったものでした。 ですから、たまに自分が頼まれたときには——これは内緒の話ですが——できるだけゆっくり、ゆっくりと、道草を食いながら帰ったものです。 考えてみれば、昭和という時代は、たばこの煙にとても寛容でした。電車の中でも、駅のホームでも、職場でも、学校の職員室でも、煙は当たり前に漂っていた。子どもがたばこを買いに行き、大人が子どもの前でふかす。その全部が、なんの疑問もない日常だったのです。 煙の中で育った、私たち これだけ濃い煙の中で育ったのに、ひとつ、不思議なことがあります。 私も、ひとつ下の妹も、大人になってから、たばこを一度も吸いませんでした。 といっても、そこに深い理由があったわけではありません。親の吸う煙が、内心いやだった——そういうことでもないのです。ただ、吸うタイミングというものがなかった。そして、吸いたいと思うこともなかった。ほんとうに、それだけのことでした。 あんなに毎日たばこを買いに走らされて、家じゅうが煙だらけで、それでも自分では吸わなかった。人が何かを選ぶ、選ばないというのは、案外、そのくらい他愛のないものなのかもしれません。 いま、たばこの箱を見ると、その変わりように驚きます。箱の半分近くを、黒々とした警告の文字が占めている。あの「健康のため吸いすぎに注意しましょう」という、どこか遠慮がちだった一行の“子孫”が、半世紀をかけて、あそこまで強い言葉になった。時代は、確かに変わったのだと感じます。 おわりに 昭和47年7月8日、たばこの箱に、初めて小さな一文が刷られました。 「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」。 その一行が生まれた頃、私はまだ三歳で、そんなことは何も知らないまま、やがてその箱を握りしめて、近所のたばこ屋まで走ることになります。手の中には70円玉。買ってくるのは、オレンジ色のエコーひとつ。家に帰れば、また煙の匂いの中へ戻っていく。 あの煙も、あのお使いも、校庭でたばこをふかしていた監督の姿も、今ではすっかり遠い風景になりました。それでも、たばこの箱の側面をふと見て、あの小さな一行に目がとまると、湿った夏の日の、たばこ屋までの道のりが、すっと目の前によみがえってくるのです。 みなさんは、家族のたばこのお使いに走った記憶はありますか。どんな銘柄を、いくらで買っていたか、覚えているでしょうか。 家じゅうの煙、駄菓子屋のガム、たばこ屋のおばちゃん——。あの頃の「当たり前」は、いまや一枚の写真の中にしか残っていません。昭和の衣・食・住の何気ない風景を、たっぷりの写真で振り返る一冊。ページをめくるたびに、あなたの「お使いの道」も、きっとよみがえってきます。 懐かしくて素敵! 心惹かれる昭和の暮らし(TJMOOK)宝島社。昭和の衣・食・住の“当たり前”を、写真とともに味わう一冊 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 8, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月3日──元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏

オロナミンCの日、その語呂合わせ 7月3日は「オロナミンCの日」なのだそうです。「オロナ(7)ミ(3)ンC」という、なんとも昭和らしい語呂合わせから、製造元の大塚製薬株式会社が制定した記念日とのこと。累計販売本数が300億本を突破したことを記念して定められたと聞けば、あの独特な甘さと炭酸の刺激が、いかに多くの日本人の記憶に染みついているかがわかります。 私が子供の頃には、すでに「あって当たり前」の飲み物でした。しかし調べてみると、オロナミンCの誕生は1965年(昭和40年)2月。私が生まれる4年前のことです。ちょうど高度経済成長のまっただ中、東京オリンピックの興奮も冷めやらぬ頃に、大正製薬の「リポビタンD」に対抗する形で世に送り出された商品だったそうです。 首都高速道路や東海道新幹線が開通し、日本中が「もっと速く、もっと元気に」と前のめりになっていた時代。そんな空気の中で「元気ハツラツ」を掲げる栄養ドリンクが生まれたのは、ある意味で必然だったのかもしれません。私が物心つく頃には、そうした高度成長の熱気はすでに一段落していましたが、オロナミンCという商品だけは、変わらぬ姿で駄菓子屋の片隅に鎮座していました。 「オロナ」+「ミンC」、名前の由来 オロナミンCという名前、実は大塚製薬の看板商品だった皮膚薬「オロナイン軟膏」の「オロナ」と、「ビタミンC」の「ミンC」を組み合わせたものだと知って、思わず膝を打ちました。子供の頃はそんなことを考えたこともなく、ただ「元気の出る飲み物」として棚に並んでいたわけですが、企業としては薬品のブランド力をうまく橋渡ししていたのですね。 発売当初、炭酸を含んでいることを理由に医薬品としては認められなかったそうです。当時の感覚では少々残念な判断にも思えますが、これが結果的に薬局以外の場所――駄菓子屋や商店、自動販売機――でも自由に売られる清涼飲料水としての普及を後押ししたというのですから、世の中は分からないものです。ライバルであった大正製薬の「リポビタンD」が医薬品として薬局を中心に売られていたのとは対照的に、オロナミンCは子供の生活圏である駄菓子屋にまで入り込んでくることができた。この違いが、私たち昭和の子供世代の記憶に、オロナミンCがより身近な存在として刻まれた理由のひとつかもしれません。 大村崑さんと、ホーロー看板の記憶 オロナミンCといえば、まず思い浮かぶのが大村崑さんの顔です。「うれしいとねぇ、めがねが落ちるんですよ!」という白黒テレビCMから始まり、やがて「元気ハツラツ!」の掛け声とともに、昭和40年代の茶の間にすっかり定着していきました。大村さんは発売当初からおよそ10年もの間CMに出演し続け、1970年の大阪万博の際には、気球に乗って「オロナミンCを飲んで万国博へ行こう!」と呼びかけるCMまで作られたというから驚きです。それだけ長く同じ顔が茶の間に映り続けたということは、それだけ多くの子供たちの記憶に、あの笑顔が刻み込まれたということでもあるのでしょう。 そういえば、家族それぞれが自分好みにオロナミンCをアレンジして飲む、という趣向のCMもあったように記憶しています。ミルクを入れて「オロナミンセーキ」にしたり、大人はウイスキーやジンを垂らしたり。中には、ほぐした卵黄を溶き入れて飲むという飲み方まであったような気がします。私自身は試したことがないのですが、本当だとしたら、今の感覚ではちょっと驚きの組み合わせです。当時の栄養ドリンクには、こうして「混ぜて自分流にする」という遊び心の文化があったのかもしれません。 そして忘れてはならないのが、街角のあちこちに掲げられていたホーロー看板です。大村崑さんの笑顔と一緒に、当時大塚製薬がスポンサーだった『黄金バット』『巨人の星』『天才バカボン』、あるいは『アタックNo.1』といった人気番組のキャラクターが隅に描かれた看板が、全国津々浦々の商店の壁に貼られていたそうです。 私の記憶でも、看板は本当にあちこちにありました。駄菓子屋やたばこ屋の軒先はもちろん、当時はまだ木製の電柱もあちこちに残っていて、そこにも貼られていたのを覚えています。学校への行き帰り、あるいは近所を自転車で走り回っているときに、ふと視界の端に大村崑さんの笑顔が飛び込んでくる。特に意識して見ていたわけではないのに、気がつけばあの独特な看板のデザインは、しっかりと記憶に焼き付いていました。 看板の中には『巨人の星』の星飛雄馬が隅に描かれたバージョンもあったそうで、後から知って「あの頃見ていたのは、もしかしたらそれだったのかもしれない」と、記憶を重ね合わせています。ただ、小学校低学年の頃はテレビCMや看板で目にするばかりで、実際に飲むことはありませんでした。オロナミンCはどこか「大人の飲み物」のような感じがしましたし、瓶もコーラよりひと回り小さかったので、駄菓子屋で選ぶ時にはつい大きいほうのコーラに手が伸びてしまう。子供心にも、量で選んでいたのかもしれません。今思えば、あの小さな瓶には大人の世界への憧れのようなものが詰まっていたのかもしれませんが、当時の私にはただ「ちょっと背伸びした飲み物」に見えていただけでした。 「小さな巨人」と、我が家の応援歌 私にとって特に感慨深いのは、1976年(昭和51年)からおよそ四半世紀にわたって、オロナミンCが読売ジャイアンツとタイアップしていたという事実です。CMの最後には「オロナミンCは小さな巨人です!」というフレーズが使われ、昭和58年頃までは大村崑さんが、それ以降は中畑清選手をはじめとする巨人軍の選手たちがこの台詞を口にしていたといいます。「Cパワーが、Gパワーになる」というキャッチコピーも使われていたそうで、ビタミンCの力が読売ジャイアンツ(G)の力になる、というダジャレのような発想も、なんとも昭和らしい大らかさを感じます。 私が物心つく頃には、すでにジャイアンツファンとしてラジオにかじりついていた身です(先日この欄でも書きましたが、夜のナイター中継を追いかける少年でした)。テレビでもラジオでも、巨人戦の合間に流れてくるオロナミンCのCMは、応援と一体になった風景の一部でした。看板やCMで繰り返し目にしていたあの飲み物が、まさか自分にとって「特別な一本」になるとは、当時は思ってもみませんでした。 小学5年生の夏、初めての一本 初めてオロナミンCを飲んだのは、小学5年生の夏休みのことでした。パートに出ていた母が、職場で6本入りパックをいただいてきたのです。長らく看板とCMの中だけの存在だったオロナミンCが、ついに我が家の食卓に並んだ瞬間、何とも言えぬ喜びがこみ上げてきました。それまで幾度となく看板やテレビの向こうに見ていた、あの小さな瓶が、今まさに自分の手の中にある――そう思うと、栓を抜く前から胸が高鳴っていたのを覚えています。「これがジャイアンツの選手たちが飲んでたやつかー」――そう思いながら王冠の栓を抜いて口に運んだ、あの瞬間は今でも鮮明に覚えています。 味は想像していたよりもずっと不思議なものでした。すっぱくて、シュワシュワしていて、どこか薬っぽい感じもする。そして何より驚いたのは、飲んだ後のオシッコが真っ黄色になっていたことです(笑)。ビタミンB2の色だと知ったのはずっと後のことで、当時は「これはとんでもない飲み物なんだ」と、変な意味で衝撃を受けたのを覚えています。 後になって知ったのですが、これは私だけの体験ではなく、当時オロナミンCやリポビタンDといったビタミン飲料を飲んだ子供たちの多くが同じように驚いていたのだそうです。今なら「ああ、ビタミンB2ね」と笑って済ませられますが、あの頃は誰も教えてくれない、ちょっとした発見でした。テレビの向こうの大村崑さんも巨人軍の選手たちも、まさか子供たちがこんなところで盛り上がっているとは思ってもいなかったでしょう。 今も変わらぬ「元気ハツラツ」 あれから半世紀近くが経ち、オロナミンCは今も店頭に並び続けています。CMキャラクターは時代とともに移り変わり、令和の今では仮面ライダーとタイアップするなど、姿を変えながらも生き続けている。あの木製の電柱も、駄菓子屋の軒先も、今の街並みからはほとんど姿を消してしまいましたが、瓶のデザインや「元気ハツラツ」という言葉だけは、驚くほど当時のまま残っています。 私も令和の今、たまにオロナミンCを手に取ることがありますが、そのたびに、あの小学5年生の夏休みの記憶がよみがえってきます。母が職場からもらってきた6本入りパック、初めて栓を抜いた時の高鳴り、そして誰にも教わらなかった「発見」の驚き。変わらないのは、あの甘酸っぱい味と炭酸の刺激、そして子供の頃の胸の高鳴りなのかもしれません。 皆さんは、オロナミンCにまつわる思い出はありますか。あの看板を、あのCMを、あの味を、今も覚えていらっしゃいますか。 暑さが本番を迎えるこの季節。あの「元気ハツラツ」を、久しぶりに一本いかがでしょう。半世紀変わらないあの味は、飲んだ瞬間、あなたを子どもの頃のあの夏へ連れ戻してくれるはずです。箱で冷やしておけば、夏バテ気味の毎日の、ささやかな相棒になります。 大塚製薬 オロナミンC ドリンク 120ml×50本1965年から変わらない「元気ハツラツ」。冷蔵庫にストックしておきたい、夏の定番の一本 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月2日】手作りの翼が、琵琶湖に落ちていった夏 | 次の記事:【7月4日】テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送 ▶

July 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月30日──布団の中の、小さな実況中継

今日は6月30日。一年のちょうど真ん中、折り返しの日です。梅雨の重たい雲の下、それでも夏がもうそこまで来ているのを、肌のどこかで感じはじめる頃です。 この日は「トランジスタの日」でもあります。1948年(昭和23年)6月30日、アメリカのベル研究所で、三人の物理学者が生み出した小さな小さな部品が、はじめて世の中に公開されました。トランジスタです。 理科の授業に出てきそうな、なんだか難しい話に聞こえるかもしれません。けれども、この豆粒のような部品こそが、やがて昭和の子どもの手のひらに、ひとつの宝物を届けてくれることになります。トランジスタラジオです。 トランジスタという、小さな魔法 トランジスタが発明されるまで、ラジオの心臓部には「真空管」という、ガラスでできた電球のような部品が使われていました。だからラジオは大きくて、重くて、電源を入れてもすぐには鳴らず、温まるのをしばらく待たなければなりませんでした。茶の間にどっしりと置かれ、家族みんなで囲むもの。ラジオは「家具」だったのです。 ところがトランジスタは、爪の先ほどの大きさで、電気も食わず、衝撃にも強い。この小さな部品が真空管に取って代わったとき、ラジオは劇的に小さくなりました。 世界で最初のトランジスタラジオは、1954年にアメリカのリージェンシー社が発売しました。世界初の栄冠こそ譲りましたが、その翌年、日本でも快挙が起こります。1955年(昭和30年)、東京通信工業——のちのソニーが、「SONY」の名を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を世に送り出したのです。 当時の東京通信工業は、社員数が三百人にも満たない、まだ無名の小さな会社でした。井深大(いぶか・まさる)と盛田昭夫(もりた・あきお)という二人の創業者が、「自分たちの手でトランジスタを作り、それでラジオをこしらえる」という、無謀とも言われた目標に、まさに社運を賭けて挑んだのです。トランジスタでラジオを作るなど不可能だ——そんな声を一つひとつはねのけ、彼らは小さな箱の中に、新しい時代を詰め込みました。 さらに1957年(昭和32年)、ソニーは当時世界最小の「TR-63」を完成させます。「ポケッタブルラジオ」というキャッチコピーで売り出されたこの一台は、サラリーマンの月給ほどもする高級品でしたが、アメリカで飛ぶように売れ、「SONY」の名を世界中に知らしめました。やがてこの会社が、ウォークマンを生み、世界を代表する電機メーカーへと駆け上がっていくのですが、その出発点に、手のひらにのる一台のラジオがあったというのは、なんだか胸が熱くなる話ではありませんか。 このとき、ラジオの意味そのものが変わりました。家族でひとつを囲む「家具」から、一人ひとりが、聴きたいときに、聴きたい場所で耳を傾ける「自分だけの道具」へ。「トランジスタグラマー」なんて流行語まで生まれたほど、トランジスタは時代の合言葉になっていきました。 私が生まれる二十年以上も前の話です。けれども、この小さな魔法が、のちに私の少年時代の夜を、こっそりと彩ってくれることになるのです。 布団の中の、小さな実況中継 トランジスタラジオと聞いて、私の胸に最初に浮かんでくるのは、やっぱり野球のことです。 私の手にトランジスタラジオがやってきたのは、小学校三年生、九歳の誕生日プレゼントとしてでした。昭和53年(1978年)のことです。子どもの頃から無類の巨人ファンだった私にとって、これほどうれしい贈り物はありませんでした。 というのも、当時のテレビのナイター中継は、試合の終盤になると放送時間が来て、ぷつりと終わってしまうことがしょっちゅうあったのです。いちばんいいところで、画面がほかの番組に変わってしまう。あの悔しさといったらありませんでした。そんなとき、毎回活躍してくれたのが、誕生日にもらったこの小さなラジオでした。 布団に入って、そっとラジオのスイッチを入れる。イヤホンを耳に押し込む。テレビとちがって、映像はありません。それでも、ラジオから聞こえてくるアナウンサーの実況だけで、私の頭の中には、その試合の光景がはっきりと、まるで映像のように映し出されていたのです。打球の伸びも、走者の足も、ぜんぶ見えている気がしました。 その証拠に、と言ってはなんですが、いまでも私は当時の巨人の打順をそらで言えます。1番センター柴田、2番サード高田、3番レフト張本、4番ファースト王、5番セカンドのシピン、6番ライト淡口、7番ショート河埜、8番キャッチャー吉田、9番ピッチャー堀内……(笑)。ほら、こうしてすらすら出てくる。布団の中で毎晩のように聞いていた名前は、半世紀近くたった今も、しっかりと私の体に染みついているのです。 そうしてラジオで知った試合の続きは、翌朝の学校での、またとない自慢の種でもありました。「ゆうべの試合、王さん打ったぞ」「堀内、最後まで投げきった」。テレビの中継が終わったあとの展開を知っているのは、布団の中でこっそりラジオを握りしめていた者だけ。教室でそれを得意げに話すのは、子どもなりの、ちょっとした誇りだったのです。あの頃の巨人は、私たち少年にとって、まぎれもないヒーローでした。 「聴く」から「する」へ そんなふうに、布団の中でラジオの野球にのめり込んでいた少年も、中学、高校と進むうちに、ラジオを手にする時間は少しずつ減っていきました。 理由は、いたって単純です。野球部の活動に、すっかり夢中になっていたからです。 考えてみれば、これはちょっと面白い変化でした。小学生の私は、ラジオの実況を聴きながら、見えないグラウンドを頭の中に思い描く「聴く側」の子どもでした。それが気づけば、自分自身がそのグラウンドに立ち、白球を追いかける「する側」になっていたのです。耳をすませて憧れていた世界に、いつのまにか、自分の足で踏み込んでいた。 イヤホンから流れてくる誰かの実況ではなく、自分のスパイクが土を蹴る音、バットが芯でボールをとらえる音。私にとっての夏の音は、そうやって少しずつ、入れ替わっていったのでした。 茅の輪をくぐって、もう半分 さて、6月30日に話を戻しましょう。 この日は、昔から各地の神社で「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」が行われる日でもあります。一年の前半でたまった穢れを祓い落とし、残り半年を無事に過ごせるよう願う、古くからの神事です。神社によっては、茅(ちがや)で編んだ大きな輪が境内に設えられ、人々はそれをくぐって身を清めます。「茅の輪くぐり」です。 正直に告白すると、子どもの頃の私は、こんな神事があることなど、まるで知りませんでした。6月30日が一年の折り返しだということも、半年の穢れを祓う日だということも、すっかり大人になってから知ったことばかりです。 当時の私にとっての6月30日は、ただただ「夏休みが、もうすぐそこまで来ている日」。それ以上でも、それ以下でもありませんでした。一学期の終わりが近づくこの時期の、あのそわそわとした高揚感だけは、今でもはっきりと思い出せます。 それでも、こうして大人になって暦を眺めてみると、6月30日というのは不思議な日だと思います。一年のちょうど真ん中。半分が終わって、半分が残っている。あの頃の私の心は、茅の輪のことなど露知らず、もうすっかり、ラジオから聞こえてくる夏の音のほうへ飛んでいっていたのでしょう。 おわりに あの「ポケッタブルラジオ」から数えて七十年近く。今、私たちは一人一台、手のひらにのる小さな箱を持ち歩いています。スマートフォンです。あれもまた、トランジスタという小さな部品の、はるか遠い子孫なのだと思うと、少し不思議な気持ちになります。 今では、どんな球場の試合も、手のひらの画面で映像つきで観られるようになりました。便利になったものです。けれども、あのモノラルのスピーカーから流れる実況に耳をすませ、見えないグラウンドを頭の中で必死に描いていた、あの時間。映像がないからこそ、想像することそのものが、楽しみの大きな一部だったように思うのです。アナウンサーの声色ひとつで、ホームランの大きさも、内野ゴロの惜しさも、ぜんぶ自分の頭の中でふくらませていた。あれはあれで、ぜいたくな野球の楽しみ方でした。 バスのハンドルを握る今も、私の運転席にはいつも何かの音が流れています。形は変わっても、声と一緒に時間を過ごすという習慣だけは、あの布団の中の夜から、ずっと変わっていないのかもしれません。 一年の折り返しの日。あなたにとって、あの小さなラジオから流れていたのは、どんな音でしたか。 あの頃の「手のひらの相棒」は、令和のいまも姿を変えて生き続けています。なかでも、手回しとソーラーで充電でき、いざというときスマホの充電もできる防災ラジオは、ひとつ備えておくと心強いものです。枕元のナイター中継に、そして梅雨明けから本番を迎える台風・地震への備えに。 ソニー 防災ラジオ ICF-B99(FM/AM/ワイドFM・手回し充電・ソーラー充電・スマホ充電対応)手回しと太陽光で充電でき、スマホ給電・LEDライトも。枕元にも、防災の備えにも一台 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月29日】生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって | 次の記事:【7月1日】変わり続けた箱と、変わらない一本 ▶ ...

June 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月29日──生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって

私が生まれる、三年前の水曜日 今日は六月二十九日。振り返ってみると、この日は私にとって少し不思議な意味を持つ日でした。というのも、1966年(昭和41年)の今日、ビートルズが初めて日本の地を踏んだ日だからです。 正直に申し上げます。私はこの出来事を、自分の記憶として語ることができません。私が生まれたのは1969年の四月。ビートルズ来日は、それより三年近くも前のできごとです。つまり、その朝、日本中が沸き返っていたとき、私はまだこの世にいませんでした。 ですから今日は、いつもとは少し趣向を変えてみようと思います。「子どもの頃の記憶」ではなく、「この記事を書きながら、私自身がビートルズという存在を一から知っていく」という形で進めてみたいのです。そしてその先で、私が子ども時代に夢中になった歌い手たちと、この四人組とが、どこかでつながっているのではないか──そんな予感を、確かめてみたいと思います。 あの五日間に、日本で起きたこと 調べはじめて、まず驚いたのは、その騒ぎの途方もない大きさでした。 ドイツでの公演を終えたビートルズを乗せた飛行機が、台風の影響で予定より遅れて羽田空港に降り立ったのは、1966年6月29日の午前三時三十九分。深夜にもかかわらず、四人は日本航空のハッピをはおってタラップを降りたといいます。その日の午後には、宿泊先の東京ヒルトンホテルで記者会見。そして6月30日から7月2日までの三日間、日本武道館で計五回、一回あたり十一曲・約三十五分のコンサートが開かれ、のべ五万人を動員しました。 あとで知って意外だったのは、この1966年が、ビートルズ自身にとっても大きな曲がり角の年だったということです。彼らはこの来日の直前に名盤『リボルバー』を録り終えており、しかもこの世界ツアーが、結果的に彼らの最後のツアーになりました。観客の悲鳴で自分たちの演奏も聞こえない巡業に疲れ、「アイドル」から「アーティスト」へと脱皮していく、ちょうどその境目だったのです。日本でも分刻みのスケジュールに縛られ、日中はホテルに缶詰めだったといいます。武道館で歌われたのは、「イエスタデイ」「ペイパーバック・ライター」「デイ・トリッパー」といった曲々。その曲名を並べて眺めているだけで、あの夜の熱気が少しだけ立ちのぼってくる気がします。 ただ、すんなり実現したわけではなかったようです。武道館はもともと武道のための「神聖な殿堂」とされ、「そんな場所で不良の音楽をやらせるとは何事か」という右翼団体の反対や、「観に行ってはならない」と通達を出した学校まであったといいます。三日間のコンサートには、機動隊員を含めのべ五千五百人もの警官が配されたそうです。今の私たちの感覚では、ちょっと想像がつきません。 そしてもう一つ、私の胸に残ったのが、テレビのことでした。7月1日昼の公演を日本テレビが録画し、その日の夜に放送したところ、視聴率はなんと56.5パーセント。これは特別番組として、今なお破られていない歴代最高記録だといいます。さらに調べると、私が小学生だった1978年にも、この武道館公演はテレビで特別に再放送されていました。つまり私の子ども時代には、ビートルズはもう「歴史」であり「伝説」だったのです。 武道館という、「最初の扉」 ここで「武道館」という名前が出てきて、私は思わずハッとしました。 実はつい三日前、私はこの連載で、1976年の猪木とアリの一戦を取り上げたばかりでした。あの異種格闘技戦の舞台もまた、日本武道館だったのです。 つまり武道館は、ビートルズがロックの「聖地」に変え、その十年後には格闘技の「聖地」にもなった場所でした。後の時代に数えきれないミュージシャンが「いつかはあのステージに」と夢見る、あの大きな箱の、いちばん最初の扉を開けたのが、この四人だった──そう知ると、三日前に書いた猪木の汗と、今日のビートルズの歓声とが、同じ床の上でつながっているような気がしてきます。 そもそも武道館は、1964年の東京オリンピックの柔道会場として建てられた、当時はまだ真新しい建物でした。武道のために生まれたその場所が、わずか二年後に世界一のロックバンドを迎え入れ、やがて音楽の殿堂へと姿を変えていく。一つの建物がたどる運命というのも、ずいぶん数奇なものだなと思います。 おもしろいことに、肝心のコンサートそのものは、必ずしも絶賛ばかりではなかったようです。当時のビートルズはツアー暮らしに疲れ切っていた頃で、十一曲の歌い回しは散漫で、肩透かしを食らった熱心なファンも少なくなかった、という記録が残っています。完璧ではなかったのに、伝説になった。これもまた、猪木とアリのあの一戦とそっくりだなと、私は少しおかしくなりました。 あの客席に、若き日の“ジュリー”がいた さて、ここからが、私が本当に知りたかったことです。 ビートルズの来日は、日本の若者たちに途方もない衝撃を与えました。髪を伸ばし、仲間と楽器を持ち寄ってバンドを組む若者が次々に現れ、やがて「グループ・サウンズ(GS)」という空前のブームが、日本中を覆っていきます。長髪に、おそろいの衣装。今の私たちが思い浮かべる「昭和のバンド像」の原型は、この頃にできあがったのですね。 そのGSの頂点に立ったのが、ザ・タイガースでした。ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともに「GS御三家」と呼ばれ、人気を競い合い、テレビにも映画にも引っ張りだこになります。そして、そのザ・タイガースのボーカルこそ、のちに私が子どもの頃にテレビで見ていた沢田研二さん──ジュリーだったのです。 調べていて、思わず声が出たのはここでした。1966年のビートルズ武道館公演の客席に、まだデビュー前の沢田さんがいた、というのです。前身バンドのファンから「絶対に観た方がいい」とチケットを渡されて足を運び、そして彼は、こう漏らしたと伝えられています。「こんなものにはなれないと思った」と。 私がブラウン管の中の堂々たる「スター」として眺めていたジュリーが、その出発点では、生身のビートルズを見上げて打ちのめされていた。私が生まれる前の武道館の客席と、私の子ども時代のお茶の間とが、一本の線でつながった瞬間でした。 「騒がしいバンド」から、「路地裏の少年」へ そしてもう一人、どうしても確かめたい人がいました。桑田佳祐さんです。 少し前にこの連載で、私はサザンオールスターズのことを書きました。1978年、「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」で初めて彼らを見たとき、私は「何だ、この騒がしいバンドは!?」と面食らった──そんな思い出です。 その桑田さんが、筋金入りのビートルズ好きだということを、私は今回あらためて知りました。ご本人が「外国の文化にもろに影響を受けている」と語りつつ、「日本語の“ワビ”“サビ”の感覚を出していきたい」とも言う。憧れと、そこから日本語の歌へと向き直っていく姿勢。サザンのあの不思議な日本語の響きの奥には、確かにビートルズがいたのです。しかも桑田さんは2015年の武道館公演で、「武道館は、私が小五のとき、ビートルズが来日してライブをやった場所です」と語り、敬意を込めてビートルズの「HELP!」を歌い上げたといいます。私が生まれる前に来た四人を、桑田さんは十歳の少年として見上げていたのですね。 そして──ここからが、私自身のいちばん個人的な話になります。 数えきれない歌い手の中で、私が心の底から惚れ込んだのは、浜田省吾さんでした。出会いは、大学に入って間もない頃です。知り合ったばかりの友達の車に乗せてもらったとき、カーステレオから流れてきた一曲に、私は思わず「なんだこれ、めちゃくちゃいい!!」と身を乗り出していました。「これ、誰?」と尋ねて教えてもらったその曲は──たしか「路地裏の少年」だったと思います(笑)。浜田さんの、ソロデビュー曲でした。 あとになって、この出会い方そのものに、私はちょっと震えました。というのも、浜田さんもまた、少年の頃に友人の部屋でラジオから流れてきたビートルズに「一瞬で恋に落ちた」人だったからです。スピーカーから不意に飛び込んできた音に、頭を殴られたように夢中になる──その同じ瞬間を、私は二十年近くもあとに、友達の車の助手席で味わっていたわけです。「なんだこれ!?」という、あの胸の高鳴り。ジュリーから、桑田さんを経て、それは確かに私のところまで受け継がれていたのかもしれません。 その浜田さんもまた、武道館を「聖なる場所」と呼びます。理由を問われて、「心に残っている武道館のイメージは、ビートルズの初来日。1966年、俺は中学二年生で、十四歳だった」と語っているのです。そして彼がいちばん好きなアルバムに挙げるのは、よりによって、あの四人が来日直前に録り終えたばかりの『Revolver』だといいます。 結局のところ、私はビートルズをリアルタイムでは知りません。けれど今日、書きながら、はっきりと気づきました。私はずっと、彼らの“こだま”を聴いて育っていたのだと。テレビの中のジュリーを通して、子どもの私を驚かせたサザンを通して、そして何より、大人になった私が自分で見つけて惚れ込んだ浜田省吾さんを通して。生まれる前に鳴ったはずのあの音は、長い回り道をしながら、確かに私のところまで届いていたのです。 みなさんにとって、「自分が生まれる前のはずなのに、なぜか懐かしい曲」はありますか。 私がこの記事で何度も書いた、あの武道館の五回のステージ。その三十日と七月一日の演奏は、実は録音が残り、いまも『ライブ・アット・ブドウカン 1966』として聴くことができます。悲鳴に半ばかき消されながら、それでも確かに鳴っていた“最初の音”。記事を読んで「あの夜の音を、実際に聴いてみたい」と思った方に。 ライブ・アット・ブドウカン 1966(ザ・ビートルズ)1966年6月30日・7月1日、まさにこの記事の武道館公演を収めた実況録音盤 Amazonで見る › 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(1965〜1989年)のできごとを、当時子どもだった私の目線で振り返る連載です。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月28日】世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった | 次の記事:【6月30日】布団の中の、小さな実況中継 ▶

June 29, 2026