今日は11月4日です。

昭和55年(1980年)のこの日、火曜日。巨人の王貞治さんが、現役引退を発表しました。22年間で868本のホームランを打った人が、バットを置くと決めた日です。

私は11歳、小学5年生でした。

8月30日の記事にも書いたとおり、王さんの引退に、私は「まだ早い!もっと見ていたい」と思いました。ところが、その知らせをどこで聞いたのかは覚えていません。夕方のニュースだったのか、翌朝の新聞だったのか、教室で誰かが話していたのか。今回いくら思い出そうとしても、その日のことは何も出てきませんでした。

ちょうどその1年前、昭和54年の11月4日は「江夏の21球」の日でもあります。7月17日の記事では、教室のテレビで見たはずのあの場面が、実は記憶違いだったと書きました。一方の11月4日は記憶違いで、もう一方の11月4日は記憶そのものがない。この日付は、どうも私の記憶と相性がよくないようです。


30本打って、やめた人

昭和55年の王さんの成績は、打率.236、30本塁打、84打点でした。打率は、規定打席に届いた選手の中でいちばん低い数字です。それまで18年続けて選ばれてきたベストナインからも、この年ついに名前が消えました。

それでも、ホームランは30本打っています。一本足打法を始めた昭和37年から数えて、19年連続の30本。これはいまも日本記録です。ふつうの打者なら、胸を張っていい成績です。

30本目が出たのは10月12日の日曜日、後楽園球場のヤクルト戦でした。このとき王さんは、来年も40本を目指すと話しています。けれど結果的に、これが公式戦で打った最後のホームランになりました。

後楽園球場(中央右の球場)と後楽園競輪場(左上の楕円)。昭和59年撮影。王さんの最後の30号も、引退セレモニーも、この球場でした。(Photo: 国土地理院, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons)

ところが王さんは、2024年になってNHKのインタビューで意外なことを明かしています。実はこの年の9月中旬には、もう引退を決めていたというのです。30号を打って「来年も」と語っていたとき、王さんの心はすでに決まっていたことになります。


引退会見のはずだった部屋

シーズン最後の試合は10月20日の月曜日でした。そして翌21日、巨人は長嶋茂雄監督の辞任と、藤田元司新監督の就任を発表します。

これも2024年のインタビューでわかったことですが、長嶋さんが辞任会見を開いた会場は、もともと王さんの引退会見のために押さえてあった場所だったそうです。

長嶋茂雄さん(左)と、背番号1の王貞治さん(右)。昭和38年ごろ。(『青春ホームラン王 実録小説王貞治』1963年より/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

そうなれば、王さんがすぐに引退を口にできるはずがありません。翌22日、王さんは記者に、来季も現役でやりたい気持ちは十分にあると話しています。そこから2週間、王さんの去就は宙に浮いたままになりました。

そして11月4日。王さんは現役引退と、藤田新監督のもとで助監督に就くことを発表します。引退の理由を聞かれて、こう答えました。

「王貞治としてのバッティングができなくなった」

王さんはのちに、引退を決めた瞬間のことも語っています。この年の後楽園での中日戦で、先発の戸田善紀投手の球がものすごく速く見えた。前の自分なら打てたはずの球が打てない。それで、自分ももう終わりかと思ったのだそうです。

11歳の私は、こうした大人の事情を何ひとつ知りませんでした。長嶋監督の辞任も、そこから引退発表までの2週間のことも覚えていません。「王さんも辞めるかもしれない」という空気を感じていた記憶もありません。子どもにとってのプロ野球は、秋になればいったん終わり、春になればまた始まるものでした。その間に何が決まっていくのかなど、考えたこともなかったのだと思います。

王さんの昭和55年、秋。引退を決めてから、バットを置くまで。

もうひとつ、今回調べて初めて知った話があります。公式戦の最中、試合中のベンチでルービックキューブを回す王さんの姿を、複数の記者が見ていたというのです。それを見た記者のひとりは、王さんの中で何かが燃え尽きたのだと感じたといいます。

ルービックキューブが日本で発売されたのは、この年の7月でした。7月25日の記事に書いたとおり、あの夏の私は、まだあの立方体を持っていませんでした。11歳の私がまだ手にしていなかったものを、40歳の世界の王はベンチで回していたことになります。


最後の一本は、熊本で

引退を発表したあとも、王さんはまだ何度か打席に立っています。

4日後の11月8日、ナゴヤ球場で行われたセ・リーグの東西対抗戦では、ホームランを含む4安打でMVPに選ばれました。こんなに打てるのに、と思ったファンは多かったはずです。

そして11月16日、熊本の藤崎台球場で行われた阪神とのオープン戦。最後の打席で、王さんはライトスタンドへホームランを打ちます。三塁を回ったところで阪神の選手たちがベンチから飛び出してきて、王さんは一人ひとりと握手をしてからホームを踏んだそうです。相手チームが総出で見送った、最後のホームランでした。

熊本の藤崎台県営野球場(平成18年撮影)。昭和55年11月16日、王さんはここで現役最後のホームランを打った。(Photo: 西合志, Copyrighted free use, via Wikimedia Commons)

11月23日、後楽園球場のファン感謝デーで引退セレモニーが行われました。あいさつを終えた王さんは、自分で左打席にバットを置き、一塁ベースにはファーストミットを置きに行きました。

このやり方は、山口百恵さんにならったものだといわれています。その年の10月5日、百恵さんは日本武道館の最後のコンサートで、ステージにマイクを置いて去っていました。昭和55年の秋は、日本中が「置いて去る」後ろ姿を二度見た秋だったのです。

私は、百恵さんの引退も、王さんの引退セレモニーも、テレビで見た記憶があります。引退を発表した日のことは何ひとつ覚えていないのに、道具を置いて去っていく姿のほうは、ちゃんと残っている。11歳の記憶というのは、そういうふうにできているのかもしれません。


王さんが手本にしたといわれる、あの「マイクを置いて去る」場面が収められています。昭和55年10月5日、日本武道館のさよならコンサートを全曲収録した映像です。

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同じ日に、もうひとつの別れ

ここからは、私も今回調べるまで知らなかった話です。

王さんが引退を発表した昭和55年11月4日、アニメの演出家・長浜忠夫さんが、劇症肝炎のため48歳で亡くなりました。日本とフランスが共同で作るアニメの制作中のことでした。

長浜さんは、テレビアニメ『巨人の星』の構成や演出を手がけた人です。昭和43年から46年まで放送されたこのアニメには、王さんや長嶋さんたち、本物の巨人の選手が実名で登場しています。星飛雄馬のチームメイトとして描かれた王さんの姿を、テレビの画面に送り出していたのが長浜さんでした。

本放送が始まったとき、私はまだ生まれていません。たぶん再放送で見ていたのだと思います。大リーグボール養成ギプスを付けたふりをして、まねをした覚えがあります。

長浜さんはその後、『ど根性ガエル』の演出を手がけ、昭和51年からは『コン・バトラーV』『ボルテスV』『闘将ダイモス』と、ロボットアニメを続けて世に出します。これらはいま「長浜ロマンロボ」と呼ばれています。

『コン・バトラーV』は、小学校に上がった年に始まった番組で、私も見ていました。超合金のおもちゃもありましたが、高価だったので、おねだりはしていなかったと思います。9月6日の記事に書いたジャンボマシンダーと同じです。

もちろん、長浜監督の名前は知りませんでした。世界の王がバットを置いた日に、アニメの中で王さんを走らせていた人が、ひっそりといなくなっていた。そのことを知ったのは、46年もたった今回が初めてです。


大リーグボール養成ギプスのまねをした、あの物語の原作です。第1巻から、星一徹と飛雄馬の猛特訓が始まります。

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プロだから、やめる

いま読み返してみると、王さんの引退の言葉は、11歳のときとはまったく違って聞こえます。

王さんは、打てなくなったからやめたのではありませんでした。30本はまだ打てた。ただ、それは王貞治の打ち方ではなかった。まわりがまだ十分だと言っても、自分の物差しでは足りない。だからやめる。そういう引き際でした。

上野公園にある王貞治さんの手形(平成19年撮影)。868本のホームランを打った手です。(Photo: Ryoya Fuju, パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

「潔し」という生き方が、当時は「美しい生き方」と考えられていたのでしょうかね。現代ならば、本人に「続けたい」という意思があり、球団と話がまとまれば、現役続行でしょうね。ファンも間違いなく、さらなるホームラン記録の更新を期待したでしょうから。

私と野球とは、プロではなくアマチュアだったからこそ、57歳になった現在もプレーを楽しむことができているのかもしれません。自分の好きなだけ続けられますからね。

そう考えると、路線バスの運転士は「プロ」です。好きで続けたいから、というだけで続けられるものではありません。王さんのように、できたはずのことができなくなったならば、ハンドルを離す決断をしなければなりません。「大切な人命」を預かっているのですから。

そういう意味では、子どもの頃にはわからなかったことが、いまなら共感できる部分として感じられます。昭和55年の秋に「まだ早い」と思った11歳の私に、いまの私はそう答えるのだと思います。

あなたには、「まだ早い」と思った引退はありますか。そしていま振り返って、その引き際をどう感じますか。野球選手でも、歌手でも、身近な誰かでも構いません。よかったら教えてください。


【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。

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