今日は11月5日です。
昭和41年(1966年)のこの日、トヨタのカローラが発売されました。今日でちょうど60年。人間でいえば還暦です。

カローラは、日本でいちばん売れた車です。昭和44年から平成13年まで、33年続けて国内の販売台数1位を守りました。その33年が始まった昭和44年は、私が生まれた年でもあります。
ところが、子どもの頃のわが家には、カローラどころか車そのものがありませんでした。そして57歳になったいまも、わが家にマイカーはありません。
今日は、「みんなの車」と呼ばれたカローラの話と、車をめぐる私の57年の話を並べて書いてみます。
「プラス100ccの余裕」
カローラが発表されたのは、昭和41年10月20日でした。11月5日に売り出されたのは2ドアのセダンです。東京での値段は、いちばん安いスタンダードで43万2千円、デラックスで49万5千円でした。
この年の4月には、日産からサニーが出ていました。1000ccのエンジンで、標準グレードは41万円。カローラはそこへ、半年遅れで乗り込んでいきます。エンジンはサニーより100cc大きい1100cc。キャッチコピーは「プラス100ccの余裕」でした。

後から出て、ほんの少しだけ上を行く。これが当たって、初代どうしの対決は、販売台数でカローラが勝ちます。
サニーとカローラが相次いで登場した昭和41年は、のちに「マイカー元年」と呼ばれるようになりました。それまで乗用車を買うのは、お金持ちか、タクシー会社のような法人がほとんどでした。それが、ふつうの勤め人の家でも手の届くものになり始めた年です。
車が増えれば、道は混みます。カローラが出た翌年の昭和42年から、東京では都電の廃止が急速に進み、昭和47年には、いまの荒川線にあたる区間を除いて姿を消しました。9月30日の記事に書いたトロリーバスも、渋滞に押されるように昭和43年に廃止されています。東京の道は、増えていく車のための場所になっていきました。
私が生まれた年、カローラは1位になった
数字で見ると、その変わりようがよくわかります。
内閣府の統計では、100世帯あたりの乗用車の台数は、カローラが出た昭和41年度末で9.8台でした。私が生まれた昭和44年度末には22.6台。私が10歳になった昭和54年度末には64.1台まで増えています。私が小学校に通っていたあいだに、日本の道には車がどんどん増えていったことになります。

カローラが初めて国内販売の1位になったのも、私が生まれた昭和44年でした。
けれど、わが家には車がありませんでした。
5月26日の記事にも書きましたが、父の連休は、正月の1日と2日の年に一度だけでした。家族で泊まりがけの旅行に出かけたこともありません。車は、わが家にとってまだ「高嶺の花」でした。
近所を見わたせば、車のある家はありました。カローラ、コロナ、サニー、ブルーバード、スカイライン。いま並べてみると、昭和を代表する車がひととおりそろっています。
それでも、「うちにも車があったらいいな」と思ったことは、一度もありませんでした。父が私たちのために必死で働いているのを、子どもながらにわかっていたからかもしれません。
子どもの頃に乗った車で覚えているのは、新潟へ行くときに乗せてもらった叔父の車です。緑色の、いすゞのクーペでした。10月2日の記事に書いたとおり、たぶん三国峠のくねくね道で、ひどく車酔いしました。
カウンタックの運転席
車のない家の子が、車に興味がなかったわけではありません。
9月21日の記事に書いたとおり、子どもの頃の私が『週刊少年ジャンプ』でまっ先に読んでいたのは、『サーキットの狼』でした。この漫画をきっかけに、日本中の男の子のあいだでスーパーカーのブームが起きます。
スーパーカー消しゴムもカードも、校門前の駄菓子屋でよく買いました。好きだったのは、ランボルギーニ・カウンタックLP500と、フェラーリ512BBです。
昭和52年(1977年)、東京の晴海で開かれたスーパーカーショーには、4日間で約46万人が詰めかけたといいます。
私も、晴海埠頭で開かれていたスーパーカーの展示会に、父に連れて行ってもらいました。父の仕事が休みの金曜日でした。列に並んで、憧れのカウンタックのシートに座らせてもらったことは、いまもはっきり覚えています。上に跳ね上がるガルウィングのドアが、とにかくかっこよかった。

わが家に車は一台もなかったけれど、私はカウンタックの運転席に座ったことがある。いま思えば、なかなか贅沢な話です。
その一方で、カローラのような「ふつうの車」には、正直なところ興味がありませんでした。国産車で気になっていたのは、フェアレディZくらいです。近所の家の前に毎日とまっていたカローラは、子どもの目にはほとんど入っていなかったのだと思います。
あの頃、駄菓子屋で買っていたスーパーカー消しゴムは、いま、雑誌『男の隠れ家』の三栄から、ランボルギーニの公式ライセンスを受けた復刻版が出ています。こちらは5台セットで、カウンタックLP400Sや、ミウラ、イオタが入っています。台座とライセンスカード付きで、机に飾っておけるようになっています。
65万円の、中古のファミリア
100世帯あたりの乗用車の台数が、初めて100台を超えたのは昭和63年度末でした。私が浪人して、セブン-イレブンの夜勤をしながら受験勉強をしていた年です。数字の上では、日本の家にはもう、平均して1台以上の車がある時代になっていました。
平成元年(1989年)の春、私は大学に入りました。9月9日の記事にも書いたように、運転免許を取り、ローンを組んで車を買ったのはこの頃です。当時は、車がなければ彼女もできない、そんな空気があった気がします。
買ったのは、中古のマツダ・ファミリアでした。1600ccのDOHCターボで、マニュアル車。車両価格は65万円です。初代カローラが43万2千円で売り出されてから、23年ほどのちの買い物でした。カローラは候補にも入っていませんでした。決め手は、なんとなくの直感です。

ローンは、浪人時代から続けていたセブン-イレブンの夜勤のアルバイトで返していきました。自分の車を持てたときはうれしくて、ただ運転しているだけで喜びがこみ上げてきました。
親がどう思っていたのかは、わかりません。ただ、車のなかった家で、息子が自分で車を買ってきたのです。どこかで「誇らしい」という思いはあったのではないかと思います。
ちょうどその頃、カローラは国内でいちばん売れた時期を迎えていました。平成2年(1990年)に売れた台数は30万8台。平成に入ってからのカローラで、もっとも多い数字です。世の中でいちばん売れていた車には目もくれず、私は65万円のファミリアで走り回っていたわけです。
マイカーはないが、車はある
その後、私は信用金庫に7年勤め、佐川急便に移りました。ドライバーになったのを機に、マイカーは手放しました。それから約25年、わが家にマイカーはありません。
車が必要なときは、そのとき必要な車種を借りてきました。5月26日の記事に書いた大阪や福井への家族旅行も、そうして借りた車で出かけたものです。いまはカーシェアのサービスも充実してきたので、不便に感じることはありません。
子どもたちも、「うちにはマイカーはないけれど、車はある」と思っているようです。
子どもの頃は、家に車がなかった。若い頃は、自分の車を持った。そしていまは、マイカーを持たずに、毎日バスのハンドルを握っている。車との付き合い方は、ずいぶん変わってきました。
ただ、「車のない家」で育ったことが、いまの仕事や暮らしに影響しているかというと、特にそうは思いません。日本中どこへ行っても、使える車はありますからね。
路線バスの運転席から見ると、最近のカローラはずいぶんかっこいい、スタイリッシュな車になりました。いまは12代目です。世界の150以上の国と地域で売られ、累計の販売台数は5700万台を超えました(2026年3月時点)。今年の5月には、60周年を記念した特別仕様車も出ています。

60年の歩みを一冊にまとめたムックも、ちょうど出たところです。巻頭は初代カローラの解説と、初代サニーとの比較。初代から12代目までの全世代のアルバムに、初代のカタログの復刻まで付いています。「プラス100ccの余裕」の時代を、写真でたどることができます。
一緒に時代を生きてきた
カローラと同じ昭和41年には、明星の即席ラーメン「チャルメラ」も発売されています。こちらも今年の9月に、発売60周年を迎えました。
カローラ60年、チャルメラ60年。ほかにも、昭和40年代に生まれて、いまも続いているものがたくさんあります。そういうものに出会うと、「一緒に時代を生きてきたのだなあ」と、しみじみ思う瞬間があります。
カローラが走り出して2年半ほどのちに私は生まれ、カローラが1位を守り続けた33年のあいだに、子どもから大人になりました。わが家にカローラが来たことは、一度もありません。それでも、同じ時代を並んで走ってきた仲間のような気がしています。
あなたの家に初めてやってきた車は、何でしたか。それとも、わが家のように「マイカーはないが車はある」でしょうか。よかったら教えてください。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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